生きる

なにしろ、40分以上、なにかに集中する、ということが出来ない。

映画を見始めて一気に最後まで観る人は、えらいなあ、と考える。

映画館に行かないの?という人がいるかも知れないが、映画館でも、日本にはあるのかないのか判らないが、余計にオカネを払って、飲食ができるカウチに座ってみるので、こっそり真ん中は飛ばして、このピザはおいしくないね、とか、もうちょっといいワインおきなよ、とか映画館にとっては余計なお世話なことばかり考えている。

なんでもすぐ飽きるたちなので、日本語などは、続いていて、驚異的です。

仕事をするのは嫌いなので仕事はしないし、眠ってばかりいるかとおもえば、朝まで起きていてPCゲームに打ち込んでいる。

なにもしていないときは、どうしているかというと、運動だけはやたらに好きなので、むかしはセントヘリオスからコマーシャルベイまで、12キロだったかな?の海辺の道を全力疾走したりしていた。

COVIDe-scooterが邪魔っ気でうるさいので自宅のジムを拡張して、新しく買い換えたトレッドミルやなんかを運んで来た人たちが、

「ジムかとおもったら普通の家なんですね」と冗談を述べるくらい充実させて、最近は外にも出ないでドタドタと走りまわったり、ウインウインとペダルを漕いだりしてます。

人間は、いったい、なんのために生まれてくるのか。

自分は、いったい、なにがやりたいのか。

ドタドタとベルトの上で走りながら考える。

子供のときは、ものごとの才能には適正な年齢というものがある、という心理学の本を信じ込んで、じゃあ出だしは数学がいいな、それから世の中で色々な人にあったり、オカネを稼いじゃったりして、また学問をやりたければやればいいか、とおもって、自慢に聞こえると、みっともないから経過の詳細は省くが、子供のときに並べた順番で、人よりもだいぶん早く、ほぼ巧くやりおおせて、恋までして、いまの生活になっている。

遊んでばかりいて、折角ひとより先に進んでいるのだからと大学をおやすみにしてニューヨークにいてみたり、東京にいてみたり、

ニュージーランドの南島の、途方もない田舎で、地面から吹き付ける冷たい雨のなかを歩き回ったり、メキシコの田舎の、バスも一日に一回しか来ない灼熱の道で、ぶっ倒れて死にかけたこともあった。

だんだん判ってきたのは、人間は肉体で世界に直に触れて、感覚して、

おいしいものを食べてうっとりしたり、ワインを飲んで良い気持ちになったり、ドタドタ走る筋肉の躍動を感じたり、舷側から飛び込んだ海の、冷たい、リフレッシングな感覚を楽しんだり、要するに魂が単独ではできないことを経験しに生まれてくるので、本を読んで、だんだんに言語に習熟してくれば、どこかの言葉で本を書いて、

夜更け、森の小径を散歩していて、ふと、神様が立っていたような気がして、コルクの木立の闇を見つめたり、いつまで経っても結論が出ない、答えの無いもの思いにふけったりするのは、きっと魂が肉体なしでいたときのことを思い出しているので、また肉体が亡びて我に返るときのために準備をしているのでしょう。

人間は、いったい、なんのために死んでいくのか。

自分は、いったい、なにをやりたくないのか。

人間の言葉の特徴は、誰にも確実にやってくる死であるのに、死の訪問を想定していないことで、いわば死は将来の盲点のなかに収まっている。

自分の死のイメージは常に漠然としていて、いったい、あたりまえのことだが死の、そのまた先があるのかどうかも判然としない。

つらいから、もう死にたい、と考えても、

そんなバカなと笑い出すひとのほうが多いに決まっているが、死んだあとのほうが、さびしくて、つらくないと、どうして判るのか。

普通に考えれば、死後は感覚がないのだから、眼も見えず、言葉も発せられず、ただなにもない暗闇のなかで、永遠の孤独に閉じ込められて、長い時間を過ごさなければならなくなる。

40分たって、死んでいるのは飽きましたから、また生き返ります、というわけにはいかない。

死んでしまえば、ひとりで、例えば悪人ならば、自分が肉体とともにあった日々に行った愚かなことや、悪意の行動を、繰り返しおもいだして自分を苛むことになる。

それが信じられなくとも、死ぬ瞬間は永遠ほども長くて、よく言う「走馬灯のように自分の一生をおもいだす」というのは単純に科学的に真実である、という新しい論文が去年は話題になっていた。

愛する人にも、もう会えなくなって、ただ閉ざされて、音もない、光もない中有を、はっきりしない意識で、ぼんやりと漂っている。

死後は、きれいさっぱり無で、意識もなにもなくて、消滅するだけならラッキーだが、人間という存在は、そんなに幸運に恵まれていたことがあるだろうか?

ほんとうは、案に相違して、霊的存在なのではないか。

心臓の病気で倒れた人が、夜、眠るときに、明日の朝、生きて起きられるかどうか判らないのは嫌なものだ、と述べていたが、

誰にでもいつかは、ベッドから起きだしてこない、その日が来るのは、その現実のありようの冷酷さにおいて、いっそ非現実的な感じがする。

癌で余命が判る死は、ある意味では幸福な死で、自分がいつ死ぬか前もって判ることは生きているあいだの日々の意味を変えるだろう。

愛するひとびとに別れを告げ、この世界に別れを告げて、生きているあいだに出来ることを計画して、いわば死ぬ準備をする期間がある。

それでも、ついに余命がつきて死ぬときには、中断で、突然の死であると意識されるのかもしれないが。

よく死ぬために生きるのだという人もいるが、哲学に縁のない人間は、そんなことのために生きているわけではない。

死ぬために生きるくらいだったら、不死を信じて裏切られるまで、死などないかのようにふるまって生きるほうが、滑稽でも、やはり人間としては切実である気がする。

死は、、人生のあらゆる段階で、疑問を投げ込んでも、答えてくれずに、すっぽり暗黒に呑み込んでしまう虚無で、そのかわり、疑問を投げ込めば投げ込むほど、生を照らし出して、価値を判らせてはくれる。

一日にやれることは限られていて、優先順位をつけて、頭から数えて、まあ、今日は、このくらいやれればいいか、と考える。

それと、まったくおなじことで、終わりまでできなくてもいいから、大切なことの順番をつけて、せめても、余計なことはやらなくてすむようにする。

若い時はブラウン運動で構わないが、いくつから、というのではなしに、徐々に、弓弦を引き絞るように、自分が持っている時間を引き絞っていく。

誰でも気が付いているように、日本語社会の犯罪性は、個人から限られた時間を毟り取って、ムダなことや余計なことを山ほど押しつける点にある。

ほっといてくれない上に、わざわざ時間を無駄に使うことを強制する。

人間にとって最大のムダは不愉快な思いをさせられて、感情で時間を浪費することだが、日本語には、冷笑や嘲笑、感情を煽る言葉が山ほど存在する。

ネット上で英語から日本語にやってくると、いつも思うのは、他人のやることを放っておくということが、どうしても出来ない言語で、ほんのちょっとでも相手に気に入らないことや、自分と異なるところがあると、なにごとか口に出して言わないではいられないらしくて、そういうくだらない「ちょっかい」を出せば、相手は怒るが、今度はその相手の反応に腹をたてて、感情が感情を伝達するためだけに言葉を選択して、延々と嫌がらせに打ち込みだす幼稚な人間までいる。

放っておけばいいだけのことなのに、なんだか他人に余計な口出しをすることが自分の知性の表現だと誤解していそうな人もいて、しかもそういう人は、たいてい自分が頭がいいと思っているだけのバカなので、

思い込みを現実と勘違いすることも年中で、迷惑なこと、このうえない。

英語人やフランス語人に較べて、日本の人は「少ししか生きられない」、寿命は長くても実質は乏しい、「世間」の手によって、人生の中身がスカスカにされてしまっている、という印象があります。

やりたいことをやらせてもらえない。

それでは生きていることにならない、というチョー簡単なことを社会が理解してくれない。

日本語の「世間」は、どんなに避けようとしても、ありとあらゆる手で、少しでも隙があれば絡みついてくるので、やがてやってくるに決まっている日本語世界全体が他言語世界にマジメに相手にされなくなって、自覚が起きて、言語世界がすっかり改心して居心地にいいまのに変わるまでは、どうせ50年はかかるので、いまは、なにか自分が気に入った言語に引っ越して、日本語とは距離を置いたほうが良さそうです。

ときどき帰ってきて、四方山の話にふけったりするには、とてもいい言語で、感情表現に充ちていることは、良い面を言えば、美しい感情表現が出来ることにもつながっていて、地獄には地獄の美があるというと酷いが、そのただなかで生活するのでなければ、美点がおおい言語だけれども、残念ながら現代日本語は、余計なことしかやらない、飢えて正解を求めて荒野をさすらう餓鬼のような何世代にも積み重なった人たちの手で、ボロボロにされてしまっている。

燃えさかる火のなかで立っていては焼け死ぬだけなので、日本語人に生まれついてしまっても、自分の一生を、まるごとムダな、余計なことの塊として浪費したくなければ、勇気をだして、他の言語に出て行くしかないのではないか。

他の言語に出た、そのとき、初めて、日本語人の眼に、認識の陽光をうけて、波立って、キラキラと繊細な感情が燦めいている美しく、いまでも瑞々しい、日本語の姿が見えてくるのでしょう。

人間は、いったい、なんのために生まれてくるのか。

自分は、いったい、なにがやりたいのか。

欧州語で考えるのと日本語で考えるのでは、まるで質が異なった問いであることにも気づくことになるのだと思っています。

 

 



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4 replies

  1. > ネット上で英語から日本語にやってくると、いつも思うのは、他人のやることを放っておくということが、どうしても出来ない言語で、ほんのちょっとでも相手に気に入らないことや、自分と異なるところがあると、なにごとか口に出して言わないではいられないらしくて、そういうくだらない「ちょっかい」を出せば、相手は怒るが、今度はその相手の反応に腹をたてて、感情が感情を伝達するためだけに言葉を選択して、延々と嫌がらせに打ち込みだす幼稚な人間までいる。

    ネット上では顕著に出てくるんですが、日常生活でもこれをやめられない人がいっぱいいますからね。正直面倒臭い。
    ほっといてくれ、というのが僕の最近の口癖になってますが、社会の中で自分たちのプレゼンスが明らかにダダ下がりしていることから来る危機感が彼らをそのように駆り立てているのではないか、とも最近は感じていますよガメさん。たぶん、つながりがほしいけど、相手のことを考えることができないから、自分のワガママだけ聞いて欲しい、ということでどんどん退かれるんでしょうね。

  2. 「死の訪問を想定してない。死は将来の盲点の中に収まっている」
    これ、私だわ。

    いや、逆に幼い頃から死を意識し過ぎて、考えない様にしてる。
    15分後に死ぬかもしれないと、
    今でも思ってる。

    だから人生計画立てられないの。
    何歳までに何を実現して・・・
    などという生き方を
    して来なかったのよね。

    恋までして、今の生活に辿り着き
    やりたい事もやってるつもりだけど、日本の社会の中で 
    無駄な世間に苛まれてはいる。
    他言語は、オベンキョー程度で
    引っ越すまでの
    勇気と思い切りはない。

    それてわも、自分が何のために
    生まれてきたのか、
    時間の無駄遣いをしながらも
    目を逸らさずに、
    明日死んでしまうかもしれないと日々思いながら
    いつか動かなくなる日まで
    楽しくやっていこうと思ってます

    それまで一緒に遊ぼうね😁

  3. 私はずっと自分を幽霊や目に見えない透明な何かだと信じていて、どうしてこんな重たい肉体を引きずらないといけないんだろうと思っていたのですが、この頃諦めて人間であることを受け入れることにしました。
    まだ慣れないけれど、なんとかやってみます。
    素敵な記事をありがとう、どうか残しておいてほしいです。

  4. 私も引っ越したいです。日本語から解き放たれたときだけ、関係性から離れ、純粋に自分の考えを辿ろうとしていると感じます。

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