鎌倉の休日

子供のころ、遊びに行きたい、と述べると、鎌倉ばーちゃんは、なんだか枕詞か時候の挨拶ででもあるように

「週末は人で混み合うから、平日に、おいでなさい」と必ず付けくわえたものだった。

二十数年前で、そうなのだから、最近、鎌倉時代を舞台にしたNHKの大河ドラマが流行っているらしいいまは、さぞかし、人でごった返していそうです。

後年、いちど、日曜日に、友だちが住んでいた瑞泉寺から護良親王の墓を通って、鎌倉宮の脇を抜けて、駅まで歩いていったことがあったが、あんなものは初めて見たが、人間が大渋滞を起こしていて、身動きが出来なくて、しかも、片方の観光バスは慣れない運転手だったのでしょう、定期運行のバスと、車道で睨み合いを初めて、人間渋滞で身動きできないまま、頭を雲の上に出し、白髪頭や禿げ頭を見渡した向こうを眺めていると、到頭バスの運転手が降りていって、運転手同士、怒鳴りあいの喧嘩を始めるありさまだった。

だから「鎌倉の休日」と言っても、鎌倉にいたのは、たいてい平日です。

それでも、けっこう人は多かったけどね。

地元のひとびとによれば、人が多いといっても、真実は半数近い人は、白昼もおかまいなく出現する幽霊だそうなので、死人(しびと)も町の賑わい、死せる魂も、鎌倉市の繁栄に寄与しているのかもしれません。

子供わしが鎌倉に行って、なにをしていたかというと、海遊びと山歩きです。

マルボロ·サウンドのQueen Charlotte Track縮小版みたいなもので、天園や祇園山、鎌倉には山歩きの小径が、たくさんある。

町をぐるりと取り巻く低い丘の頂から頂へ、尾根から尾根へ、全部ぐるりと繫がっていて、そうそう軟弱とばかりは言えなくて、特に長い天園のハイキングコースなどは、うんこらしょと、攀じ登らなければあがれないおおきな岩が積み重なったところもあれば、左に折れれば、地元人に「京都から来た新しい嫁さんがいかん」と大層評判が悪かった北鎌倉の明月院、右はたしか横浜の戸塚まで歩いて出られたはずで、距離も十分にあった。

朝夷奈の切り通しを初め、切り通しのある旧道も、大好きな場所で、鎌倉七口、というが、自分では、朝夷奈と化粧坂が好きだった。

最後に鎌倉に行ったときは「東京からのグリーン料金が100円安くなる」と、北条の陰謀を述べる人のように、さも重大な秘密を打ち明ける顔で地元の人が教えてくれる、「通(つう)の鎌倉」で、50km区間の切れ目のぎりぎりの手前の北鎌倉駅で降りて、浄智寺の墓地を通りぬけてしまえば、もう、こっちのもので、なにがこっちのものなのか、さっぱり判らないが、ともかく、空気が森閑として、化粧坂の段々につづら折りの切り通しを抜けて、夕暮れになれば亡霊が現れる、源氏山の日野俊基の墓に出る。

そういう言い方をすれば、鎌倉は丘の上にだけ残っている。

地図を見ても、グーグルアースでも、いくら見つめても判りはしないが、

足を運べば、一瞬でわかる、空気が現代のものでなくなって、鎌倉が寂れに寂れた江戸時代のものなのか、室町時代かは判らないが、

登山帽にヴェストの、「観光制服」を着た日本の人のグループに出会わなければ、木の根が突き出して、崩れやすい足下に気を付けながら歩いていると、そっと、鎌倉時代の霊たちが、寄り添って、手をとって歩いているような気持になります。

町は終電が終わった夜更けが素晴らしい。

おとなになってから、鎌倉を訪問すると、縁側と板硝子の引き戸につられて購入した、あんまり使わなかった家に泊まって、出かけて、いまは自殺して世界におさらばしてしまった絵の蒐集家の友だちと、喧嘩蕎麦屋か魚佐次か、どちらかで午ご飯を一緒に食べて、友だちの家の押し入れから、ちょっとここではあんまり書かないほうがよさそうな、この人の専門分野の絵を引っ張り出して、ああでもない、こうでもない、ガメちゃんね、この絵は、ほんとうはこうなんだよ、と、いつ会っても時間を忘れる楽しさで、終電が近いころになると、駅前に出て、朝まで開いているバーで話の続きに没頭していた。

ケイトという愉快な名前の毛糸屋さんと小町園が並んだ前の道を、ふたりで酔っ払って通って、昼間は、おいしい、あっとうまに売り切れるおにぎりを売っている米屋の角を折れて、妙法寺の墓をめざす。

いま考えてみると、れっきとした不審者だが、異形なので、幽霊だとおもって恐れたのでもあるのか、いちども文句を言われたり通報されたりしたことは、ありませんでした。

鎌倉は幽霊の町だというが、実際に目撃者続出のポイントは限られていて、

腹切りやぐら、まんだら堂、下馬から海に少しおりた、いまでもあるのかな?、消防署があるところで、特にこの消防署のまわりは、むかしは松林があって、「この松林が、やばいんだよ」と地元の人が、嬉々として解説してくれるところで、

「なにがすごかったかって、行けば、必ず出たところがすごい」

という。

お話を聴いていると、だいたい60年代頃の見当であるようなのに、リアカーでなくて大八車だというから、びっくりしてしまったが、大八車を引いて、お使いに行くと、わああああ、という合戦の声がする。

思わず識らず鎧武者の姿が見えてしまうこともあったそうです。

最近、なくなったと聞いているが、この松林があった場所にはマクドナルドがあって、ここでパートのアルバイトをしていた若い女の人は、ある日、ロッカーを開けて制服に着替えていたら、ロッカーのドアの裏についている、例の小さな鏡のなかを、甲冑を着た武士が、すうううっと通って、

「それで、わたし、一日でバイトやめたんだもん」と述べていた。

埋葬された骨を、ろくすっぽ移さないまま、墓地の上に、どおおんとマンションを建ててしまったせいで、亡霊とハウスシェアリングすることになったという噂の山崎の丘や、鎌倉は語源が「屍倉」だというくらいで、死や亡霊と切っても切れない縁がある町だが、それが魅力のひとつでもあるようでした。

義理叔父は、鎌倉の実家にもどると、ときどき幽霊を見ていたようで、

シンゴジラにも出てくる、いわし料理屋を出て、友だちふたりと材木座に向かって歩いていたら、さっき渡ったはずの江ノ電の踏切が、また眼の前にある。

いくら酔っていると言っても、海岸通りの一本道で、いくらなんでもヘンな話だとおもいながら、それでも酔っ払いの暢気で、そのまま歩いていくと、

また江ノ電の踏切があって、あまりのことに、酔いが醒めて、ふと、線路の鎌倉側を見たら、見えるはずのない和田塚の駅が見えて、その向こうの踏切を小柄な馬に乗った武者の行列が横切っていくのが、はっきり見えた、と言います。

なにしろ腹切りやぐらなどは、北条高時以下、何百人という北条一族が、ことごとく切腹して、流れ出した大量の血で、滑川が半日赤く染まったというくらい、血みどろの町で、そのうえ、中世の人にとっても、理不尽な死は理不尽なのに決まっていて、歴史を眺めていると、そりゃ化けて出たくなるよね、とおもう。

カヤックで遊んでばかりいたころは、夏の葉山の明るい海が好きで、空はどこまでもどこまでも青くて、積雲が野性の群れのように、その青空を横切って、もう何度も聞かされて読む方も困るだろうが、鐙摺山の後ろには、雄大な積乱雲が立ち上って、パドルの手を休めて、空を見上げて、バランスを失って、ひっくり返ったりしていた。

陸にあがれば切り通しは、まだまだ中世の欠片で、茂みに覆われて暗い歩いていけば、崖のうえに、潜んでいる甲冑武者たちの姿が現れそうな気がする。

鎌倉市自体は、鎌倉で生まれた人達にとっては、どうやら不満の多い町で、いつか市名を隠してニューズになっていた掲示板で生活保護窓口を隠していた市役所は、鎌倉ばーちゃんのお伴で、いちど一緒に行ったことがあるだけの、ぼくでもひと目で判る鎌倉市役所です。

そのうえ、もともとキャパシティが小さいところに、数度のブームで退職したサラリーマンのひとびとが、そのたびに、どどっと押しかけて住みついたせいで、インフラが間に合っていなくて、まさか名前は書けないが、入ると誰も出てこない、という噂の大病院などは有名で、倒れて、救急車が駆けつけてきて、

隊員が「どこか、お知り合いの病院はありますか?」と訊いたら、

「頼むからXX病院にだけは連れていかないでくれ。まだ死にたくない」と、かすれゆく意識のなかで述べたとか述べなかったとか、だいたい鎌倉で生まれて育った人は、藤沢か金沢文庫に引っ越してしまうもののようでした。

鎌倉と葉山は、子供のときの日本滞在で味わった、圧倒的な幸福感の一翼で、青山や原宿と並んで、自分の頭のなかの輝かしい「日本」の大半を占めている。

いまでもケンタッキーフライドチキンの焼きおにぎりや、小町の、なんだかカリフォルニアの本家に較べて、妙においしいエルポヨロコ、珊瑚礁の唐揚げカレーに、義理叔父がよく、お弁当を買ってきてくれた「裏小町」と呼んでいた、とんかつ小町の支店、そしてそして、このブログにはしつこく何度も出てくるスエヒロのすき焼き食べ放題!

いかに口いやしい子供だったか判ってしまうが、そのころから、楽しい食べ物屋さんが、たくさんあったのはたしかで、あんなに楽しい遊び場はなかった。

春の夜更け、終電が出た後で、段葛の満開の桜の下を歩いていて、なにも理由もきっかけもないのに、ふいに子供のときの幸福感が、まざまざと思い出されて、甦って、あほらしいことに、涙があふれてきたことがあった。

足下の、砂に混じってキラキラと輝く石英の粉のように見える破片が、鶴岡八幡宮に向かって右側に広がっていた、実質的な官衙、有力な御家人の要塞をかねた屋敷から打って出た鎌倉武士たちの骨であることを初めに教えてくれた人や、和賀江島に連れて行ってくれて、むかしむかしは、案外なくらい、良いお小遣い稼ぎになったという、宋銭や青磁器の欠片の見つけかたを教えてくれた人も、当時の鎌倉の人達が、どうやって団結して開発業者や、鎌倉市、政府とまで渡り合って八幡宮の裏手の森を乱開発から守ったか誇らしげに教えてくれた人も、外国人嫌いだったのか、大きな聞こえよがしの声で、白人の無作法について述べだしたおっちゃんを、

「あんた、帰ってくれ。二度と来るな」と追いだして、

無言でチャーシューが妙に多いラーメンをつくって出してくれて、

しばらくのあいだ無言で、むっつりしていて、店を出る間際になって

「日本を嫌いにならないでね」と、なんだか照れた少年のように述べたおっちゃん、もう、みんな亡くなってしまったが、

鎌倉はいつまでも鎌倉で、たった三日だったか、ストップオーバーで京都と東京という、忙しい再訪で、日本に立ち寄ったときも、どうしても鎌倉に行かないではいられなかった。

つげ義春の「ねじ式」みたいに家並のあいだから突然現れる江ノ電や、

日暮れ時、何百という数で集まって、階段に座って

「おい、人間、おまえたちの時間は、今日はおしまいだよ」と述べている猫さんたちの江ノ島、山之内から梶原に抜ける山道の傍らの、小さな小さな水田、思い出がいっぱい詰まっている。

西洋式に述べてしまえば、暴力の都で、血塗られた権力闘争の町、ということになってしまうが、日本語では、そうはならず、刀剣のように研ぎ澄まされた暴力と死は、美と儚さでありうることを体現している。

「鎌倉」は、一生のなかで、おおきなおおきな部分を占めていることを思います。

もう、訪ねてはいかないだろうけど。



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2 replies

  1. 懐かしかった文、良かったありがとう〜ほんま鎌倉ね。中学の時に遠足で、裏にある峰の円海山とかいう山からスタコラ歩いて、長いハイキング・コース「日本海に出ちゃうんじゃね〜か?」とか生徒は悲鳴あげてたが〜そのうちポッと林が割れて海が見え鎌倉に着いた〜ってんで皆で大喜びした思い出。

    • 天園の横浜側の入り口、円海山って言うんだ。
      知らなかった。

      横浜から来ると、暫くはいいけど、鎌倉に入ると、けっこう、アップダウンすごいよね。

      ぼくは、よく歩いて、逆向きに鎌倉から洋光台のほうへ歩いたよ。

      ほんで中華街のバーで酒飲んでた

      楽しい思い出

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