ちゃん文化

見ていると、日本の人は「敬意を保って批判する」のが苦手なのだな、と、よく思う。

相手の意見が自分と異なる、いや、それは違う、と感じると、軽蔑の感情や憎しみの感情を、なんとか相手に伝えようとして、職場や家庭、学校、匿名掲示板のコミュニティでシェアされている相手を傷つけるために念入りに工夫された定型表現を、ぶつける。

最近、朝日新聞はオカネを払って講読している。

けちんぼジェイムズとしては、驚くべきことで、感心してしまうが、

もともとは岡田玄というスペイン語に巧みな記者が書く記事の人間味に惹かれたからです。

異動で日本に戻ってしまったのか、素晴らしかった特派員記事を見かけなくなってしまったが、このブログと付き合いが長い人は、みな知っているように、日本のマスメディアの酷さを何年にもわたって批判してきた目から見て、この人はジャーナリスト魂を持っていて、そうか、日本の社会でもマスメディアが機能しはじめたんだな、と思わせるところがあった。

署名記事が増えて、手元には各社の新聞記者の名前と、良かった記事、ダメだった記事のリストがあります。

Appleから「ジャズ」を買って「Excel」に仕立て直したマイクロソフトの人も、よもや、新聞記者のリストに使われるなんて、お釈迦様でも気がつくめえ、予想外で、岡田玄記者と、なんど目撃しても素敵な名前の國枝すみれ記者を足して平均値をだしたりする用途に使う人間がいるなどとは予想しなかったに違いない。

藤原学思記者という人が、「Qを追う」という連載から始まって、2ちゃんねる、4ちゃんねる、「ちゃん文化」と呼ぶのを知らなかったが、西村博之という人が始めた2ちゃんねるを源流とする匿名掲示板が、もたらしてきた弊害が、いまや、英語に伝染して、キャピトルヒルを襲撃する事件を引き起こすまでになっていることを追究している。

日本語人物像の、良い悪いには、あんまり興味がないが、この西村博之という人は、このブログの用語でいう「ゲーマー族」で、世界をゲームと看做して、「勝てばいいのさ」で徹底している人です。

日本の歴史でいえば、日本を、その考えの薄っぺらなケーハクさで戦争に引っ張っていった陸軍省や海軍省の若手課長級に、発言も考え方もそっくりで、このタイプの人は日本では支配的なちからになりやすい。

匿名掲示板文化なんかが、ちからを持つことがあるの?

という気がするが、観察していると、どうやら、面白い原因で、

日本社会は世界のIT化に飛び乗り損ねて、こけてしまったので、

まだ20世紀末のころから、社会を現実に動かしている「ネットが判らない」おっちゃんたちがインターネットに対して、おおきなコンプレックスを持っていた。

わかりやすくいうと「ネットを勉強してます」と述べるタイプの人たちですね。

「社会に乗り遅れてないことを見せる」ことが大事だと考えるタイプのひとたちにとっては「ちゃん文化」の隠語「キボンヌ」「通報しますた」

「www」を共有することが嬉しくて仕方がなかったのでしょう。

居心地もいいし、個々の人間の疎外が、極端に進んだ日本社会にあっては、

人間のぬくもりの暖をとる場所が「ちゃん文化」の炬燵だけだった、という人もいるはずです。

試しに藤原学思記者のツイートをひとつ取りだしてみると、このたったひとつのツイートへのリプライにさえ「ちゃん文化」を支えてきたロジックや修辞、日本語のusageまでが総攬されて、面白いが、うんぬん、デンデンしても仕方がなさそうなので、ここでは意見は述べる気がしない。

https://twitter.com/fujiwara_g1/status/1527879642090196998

ひとつ、これはたいへん面白いと考えたのは

「敬意をもって褒める人」と

「敵意をもって相手よりも高所に立って、見下した態度や軽蔑をもって否定する人」

がいるだけで、議論というものに意味があるものならば、中心的存在であるべき「敬意を保って相手を批判する人」が、殆どいないことです。

相手に敬意をもたないので、怒りも見られない。憎悪があるだけです。

あんまり仔細に見ていないので、「殆どいない」と書いたが、一見は、ゼロ、

皆無であるようにおもわれる。

歴史から学ぶ社会は歴史を繰り返さないが、戦後日本社会は、残念なことに歴史を検討するタイミングが、ちょっと遅かった。

外国語人たちで最近の日本を見ている人は「ああ、あのコースを進み始めたな」と思って見ているでしょう。

日本が破滅的な対米戦争に向かって歩いていくことになったのは、社会自体が「誰もおもっていることを言えない」状況を自分たちの手でつくってしまったからでした。

「そんなことを言ったって、アメリカと開戦したら勝てるわけがないじゃないですか」というひと言が、誰にも、どうしても、言えなかった。

めんどくさいので、いつも日本の「赤勝て白勝て」の癖、と投げやりな表現をしているが、陸軍と海軍で「赤勝て白勝て」フェーズに入ってしまって、

ほんとうのことを、そのままポンと言おうものなら、怒号が飛び、冷笑が満ちて、一瞬で言葉によって処刑される。

陸軍は海軍が「勝てません」と言うのを待って、「海軍がそんなにだらしがなくては、陸軍としても対米戦争に踏み切れない」と述べる機会を待ちかねていて、海軍は陸軍が「自信がない」というのを切望して、結局、誰もが最も望まない対米開戦へ押し流されてゆく。

将軍や提督たちの、このだらしなさが、どこから来たかというと、意志決定上の下剋上が風潮になっていた陸軍省海軍省の課長級がとりまとめた「軍の意志」で、意志とは呼んでいるものの、つまりは感情です。

ここで、たいへんにたいへんに興味深いのは、「ちゃん文化」は、非軍人を「地方人」と呼んだ旧日本帝国軍隊内文化に、そっくりであることです。

どこからどこまでも似ていて、古参兵によるいじめや、コミュニティ内だけで使われる隠語と符丁、集団の最大公約数である意見から外れたことを言うと、袋だたきにされるところ、ウソが公然と通用する風土まで、そっくりそのまま、気味が悪いほど似ている。

旧軍でも、例えばアメリカ軍に較べて、最も異なっていたのは、

「相手に敬意を保って批判する」人がいないことでした。

それがなぜかといえば、まんなかの理屈は端折るが、個人主義が根付かずに、西洋的な「個人」が存在しない社会だったからでしょう。

個人が存在しない社会では、社会の動きはダイナミックだが、いったん誤った方向に向かいだすと、変更が利かない。

誰もが「ほんとうのこと」を知っていても、コミュニティの感情が最も優先されるからです。

小さい声で述べると、日本は、いま「手遅れ」の段階に来ている。

「何もしないためなら何でもする」で、社会がまるごと頑張りとおして、まるで慢性成人病の境界にあったおっちゃんが、糖尿病、高血圧、頻脈、黄斑症、腰痛、尿管結石、腎機能不全、総花式に発病してしまったようなもので、これから手を施すったって、無理ですよ、という状態に立ち至ってしまっているように見えます。

その劇症に陥るとばぐちにあるもののひとつ、経済でいうと、なにかのきっかけ、例えばトヨタがEV転換に失敗する、というようなことが起こると、なだれのように崩壊しだす理屈なのは判りやすいとおもいます。

余計なことをいうと、実際、EVはすでに普及期に入り始めていて、先進ユーザーとは異なって、次に目指す広汎な層は充電時間によって購買するかしないかを決めることが判っている。

ところが急速充電に必要な800V充電をするためには、パーツからなにから抜本的にデザインをやり直さなければならないのに、日本は、主要自動車生産国のうち、ただ一国、手つかずで、トヨタも例外ではなくて、

気の早い投資家は、「ついにトヨタの最後のときが来た」と、いまから述べている。

どんなに走行性能がよくても、EVに乗り換える最大マーケットは、スマホを使った自動支払いならば給油に1分しかかからない現在の簡便さを捨てかねている層で、このガソリン給油の便利さに追いついたEVには販売競争で絶対勝てない、という事実に、不思議なくらい気が付いていないように見えている。

日本の戦後社会において、政治の数多の過ちから日本を救ってきた、経済再生のインフラを、そっくり破壊して、必要な財力も蕩尽してしまったアベノミクスの、国家的サボタージュと呼びたくなる破壊活動のあとで、経済の方向を誤ると、日本経済は、多分、びっくりするような速度で墜落して、日本の人の貧困が隠そうとしても目に見えるようになるでしょう。

その場合、日本社会が向かう方向は、軍事以外に考えられない。

そんなバカな、というでしょうが、実際には、日本が戦争国家に立ち戻るシナリオは、いくつも想定されていて、例えば中国が武力侵攻すれば、日本が台湾に出兵して、事実上支配する体制に持ち込むことが出来る。

日本にとっては台湾の先進技術が労せずして手に入ることを始め、利益はいろいろあります。

このブログをずっと遡って、ロシア人たちやウクライナ人たちの生活の様子を述べた記事には、「ロシア人とウクライナ人は仲が悪くて困る」と自分の会社の事情を冗談半分に述べた部分があるが、日本が韓国と開戦して、

朝鮮半島の二国を併合するシナリオまであります。

かつて最大GDP80%を軍事に注ぎ込んでいた日本社会は、国民文化が、国の搾取に極限まで耐えるように出来ていて、おなじことを、いまの日本がやれば、5年もあれば世界最強の軍事国家が出来そうです。

藤原学思記者のレポートを読みながら、なんてたって日本企業の会社員なんだから、たいへんだろうなあ、とか、なんとか日本のジャーナリズムの芽がつぶされずに育たないものか、と妄想したり、さまざまなことが脳裏で明滅する。

この「ちゃん文化とQ」についての一連の記事などは、「これを英語で書いてくれるといいんだけど」と考えた初めての日本語記事でした。

日本も世界とおなじ方向を向いて、よくなりはじめている。

同時に社会のさまざまな慢性病が発症して、わるくもなりはじめている。

戦前社会の右翼壮士の役割を自称「左」「リベラル」のひとたちが果たしていたりして、毎年毎年、パズルのピースの色だけを変えて、ジグソーの絵柄とメカニズムは、戦前そっくりのものになっている。

「ちゃん文化」への社会の反応と対応が、ひとつの試金石なのかもしれません。



Categories: 記事

1 reply

  1. 何も追加でいえることはないのですが、最近、社会のあちこちでの「高齢化」を感じています。自分の居場所をいろいろ探しているんだけど、先が見えている場所に行くべきではない、とはつくづく思います。

%d bloggers like this: