日本のテレビで放映されたドキュメンタリーを、まとめて見る機会があった。
案に相違して、面白くて、折角ナンバ歩きも、モダンヴァージョンのサムライ言葉もマスター仕掛けていたのに、サムライ技能を放棄して、中断して、
大小のドキュメンタリに魅入ってしまった。
新しいものばかりです。
80年代や90年代のものは、思い入れたっぷりで、感情でびしょびしょで、日本の人は嬉しいのかもしれないが、なれないので、十分間以上、見ているのはむずかしい。
まさか笑ったりする失礼なことはないが、なんだか、くたびれてしまうもののようでした。
2015年くらいから、ぐっと良くなるので、ここ数年のものばかり観ていた。
貧しくなったなあ、と、むかし栄華を誇った友だちの、一時の不運な窮状に同情するような気持があります。
居酒屋のようなところが舞台のドキュメンタリだと、びっくりするほど「ええ。仕事は風俗です」と悪びれずに述べる女の人が、「今年から頑張って、死ぬ気になって仕事をしないとダメなので、この人とは別れることにしました」と述べている。
「この人」と言われた、向かいに座ってる男の人は、寂しそうにビールのジョッキを傾けている。
どういう具合か、そういう人ばかり選んでいるようにも見えないが、女も男も、出てくる人出てくる人、風俗業で、さもなければ派遣で、残りは介護士という印象で、日本には産業がなくなったのか、と錯覚するほどです。
企業城下町で、工場の町のドキュメンタリがあったとおもうと、テーマは工場の閉鎖で、外国や他の町に移れば仕事を続けるチャンスがあると会社から言われた人たちが、同僚同士、寄り集まって、どうしようと話しあって、
やっぱり馴染んだ町は離れられないと結論して、「職探し」という名の無職の状態になってゆく。
「羊のようにおとなしい」と評される、そのどの人もが、思慮深い人の、静かで美しい表情を称えていて、なにごとかを深く期しているのがスクリーンを通して伝わってきて、こちらも、なにげなく観ていたのに、唇が自然と引き締まって、酷ければ歯をくいしばって、なにごとかを必死で耐えなければ、僅か30分の番組を見続けられなくなる。
我慢ができなくなって、涙が溢れ出して来てしまうことになる。
工場の前に街宣車を止めて、「企業の搾取を許すな!労働者の権利を保証せよ!」と、正しい、当然のことを叫んでいる革新政党のひとびとが、ただの薄っぺらい、教条が好きな、暢気な白痴に見えてきます。
新大久保の290円弁当の店の72時間を取材したNHKの番組があって、基本的な語彙を知らずに聞き返したりしているレポーターに嫌気がさして、他のドキュメンタリーに移ろうとしたら、丁度その瞬間に、290円弁当を買いに来ていた人が、「わたしは道路に寝ているんですけどね」と述べるので、手に取ったエア·マウスを止めて、どういう意味だろう?と考える。
「わたしは、ほら、津波で家が流されちゃって、ないんですよ、家が」
だから仮宿泊所が閉じた後は、東京に出て、路上で寝起きしているんですけどね。
教会が週末の慈善活動で、無料で配っている290円弁当を、自前で、もうひとつ買って、このふたつが今日の食事だという。
あるいは、「いまは仕事をちょっと休んでいる建設関係」の人が食堂で、
「復興事業関連の仕事」を、ずっとやってきたが、いざ支払いの段になったら、
「これはボランティア活動だと明記してあったはずだ」と言われて、払ってもらえなくて、それ以来、不信に陥って仕事をしていないのだと述べていた。
なんだか愚かな感想だが、障害のある息子を抱えて夫に早く死なれてしまった人、子供のときに両親に捨てられて、でも親が恋しくて、いまでも会いたいですよ、会えたら、どんなにいいだろう、と淡々と述べている若い人、映像のなかの日本の人達は、ネット上の日本語人たちよりも遙かに陰翳が深くて、なにごとかを懸命に耐えて、前を向いて生きていて、見識をもたず、能力が低いので世界に知られるに至っている日本の顔の「知識人」からは想像も出来ない文明度の高さです。
軍隊では階級があがるほどバカで、下士官が最も賢いと言われて、
経営においても係長までは優秀だが、そのあとは、段々おろかになって、
いちばんバカな人間が社長になる、と冗談に言われる日本企業や、
市井のひとびとは、まともだが、知識人の程度はびっくりするほど低い、と大学でまで教わる日本の、「さかさま社会」を、テレビのドキュメンタリまでが実証している。
なぜ、そうなるのか。
根本の原因の追究をいったんやめて、直截の原因を考えれば、無論、それは他者についての評価が機能していないからです。
社会の批評軸が枉がって、「なにが価値があるか」という判断が出来なくなっている。
おもしろいことに、日本の歴史を遡ってみると、この奇現象はいまに始まったことではなくて、明治の初めから、ずっとおなじであったもののようです。
勝海舟は、将軍からだったか、「アメリカと申す国と我が国との違いはなにか?」とご下問にあって、「アメリカでは賢者が引き立てられ、日本では愚人が引き立てられる」と答えたそうだが、ドキュメンタリでレポーターの質問に応えている市井のひとびと、それも、どちらかといえばビンボで、社会の底辺で喘いでいるひとびとのほうが、人間としての叡知も、矜恃もあるように見受けられて、観ているこちらは一層、日本という国の不可思議に打たれてしまう。
観ていておもったのは日本語社会にはempathyが欠如しているのではないか、という疑いでした。
Empathyは固より、日本語には粗筋じみた意味は訳せても、それがほんとうに意味する「他者を自分のように感じる」本来の意味は、日本語では説明しきれない語彙のひとつです。
英語では、この感情の共有の状態が基本的感情のひとつなのは、北海文明から来ていて、平たくいってしまえば同族の「仲間意識」で、もちろん、人種差別の温床をなす感情でもある。
しかしemapathyが欠落した社会では、他人の痛みに同情するもしないも、感じられないので、倫理的な行動の意味そのものが変わってしまう。
COVIDの前のオークランドの普通の、普段の光景として、下校途中の高校生たちが、余計に買ったハンバーガーとコーヒーを持って、ホームレスのひとたちを両側から身体をすりつけるようにして、談笑して、夕方のひとときを楽しむ姿が、見慣れた風物になっていた。
それは慈善というようなものではなくて、自分がホームレスになったら、道行く高校生たちが、自分を無視するようにして通行していくのは嫌だろな、という単純な気持に起因している。
励ますような言葉は細心の注意で避けながら、ホームレスのおっちゃんを相手に、こんなことが、今日は学校であったよ、いまは、こんな音楽が流行ってるんだよ、ちゅうような話をしたおぼえは、誰にでもあるはずで、ぼくもまた、ホームレスのおっちゃんと、ハムベーコンサンドイッチを食べながら、月を見上げる楽しさを、いまでもおぼえている。
ドキュメンタリを観ていて考えたのは、平たくいえば、
「日本語の社会も、他の社会とおなじで、あんまり変わらないんじゃないの?」ということでした。
日本語人に訊かなければ真相は判らないが、日本でも、また、人は暖かいのではないか。
ネットを彷徨している、才気ばかりが買って、人間味に薄い言論は、
「知的である」ということの意味をはき違えた知識人や、ワナビー知識人の声ばかりがおおきく響く、日本の現実とは別の、いわば「長崎オランダ村」みたいなものではないか。
おもいきって、勇気を出して言うと、十と余年を日本語社会に伴走してきてのいちばんの感想は、例えば本を出版するような日本の「知識人」は、現実の日本語社会から観ると、西欧的な価値観に立とうとして、スープの灰汁のように悪目立ちしているだけなのではないか、とおもうことがある。
インチ尺でcmを測るようなことをして、うまくいくものなのだろうか。
日本は和魂洋才という、とんでもない、まるで無理な思想から始まって、いわば「軍事国家として飛躍するための西洋」を捏造して、戦後になったいまも、その路線を実は踏襲している。
その結果として、子供が途方にくれているような社会で、世界のどんなものよりも大切な息子を育てるために夜毎サラリーマン客のチン〇ンを顎が痛くなるまで舐め尽くす母親たちや、カローシの手前で、まだ、これじゃダメだ、もっと効率的に仕事をする方法があるはずだ、と、ぼんやりした思考しか出来なくなった頭で自分を責めつづける父親たちを、信じられないような数で生みだしてしまった社会がある。
炎帝は、歩みやまず。
日本語の社会では、知識人は現実をもたず、生活人は声をもたない。
この傷ましい国は、現実から剥離した言葉と、声を持たない現実とのふたつの部分で出来ている。
日本語という言語の美しさは、そして、もちろん、現実から剥離した言葉からではなくて、声を持たない現実から来ています。
どんなに痛めつけられても「痛い」のひと言も言えずに、自分が、ここで人間として声をあげたら、幼い息子はどうなるのか、という、夫と別れた母親や、自分がここで弱音を吐いても誰も助けてはくれないのだから、余計なことはいいから、生き延びなければ、とおもいつめる、性風俗業界で生きる糧を稼ぐ少女たちの「固い心」が、日本語の美をつくっている。
言われなかった言葉や、幽かで、聴き取りにくい声を、言語の美神は、ことのほか好むからです。
到頭、こらきれなくなって、母子ふたりきりで、子供がやっと20歳になった人のインタビューを観て、顔を覆って泣いていたら、
モニさんから「日本語番組視聴禁止令」が出てしまった。
日本の社会は、デタラメすぎて、ガメには刺激が強すぎる、という判断なのでしょう。
だから、もう日本語の番組は観ないが、
名前も、なにもない、日本語人への敬意を新たにする一週間でした。
日本語は、なんという言語なのだろう!
Categories: 記事
私がガメさんのブログを読むようになってから数年が経ちますが、ここ数日の記事は、ぞっとするほど鋭くて、日本語人としては、絶望して裸足で逃げ出したくなってしまう。
自分の中にも周りにも、美しい言葉がなくて、何を読んでも誰と会っても、空っぽなんだなと思ってしまう。
そうなんですよ。ほんとに現実がなくて、お題目みたいなものしかないんです。かつてあったとガメさんが言う美しさがかすみのように遠くにぼんやり見えるけれど、じゃあ実際に今日の仕事を進めましょう、誰かと話しましょう、子どもの進路のことを考えましょう、という段になると、そんなものはあっという間に消えてしまいます。私たちはどこまでこんなふうにして進めばいいんでしょうね。手がかりがないのです。
昨日、源氏物語について振り返る機会があったのだけど、あの時代の高貴な人は「声を上げてはいけない(はしたない)」かったので、
助けも呼べなくて、レイブされるがままだったそうだよ。それで
みんな、子供出来ちゃったりして、その秘密を抱えて
生き続けたり、死のうとしたり
するんたよね。
「声を持たない現実」の部分で
源氏物語を思い出してしまいました😥
この記事消さないで欲しいし
日本語の番組もまた 見て欲しい。
ロクでもない番組が殆どだけどね
いい記事です。消すのは実に惜しい。
先日の鎌倉の記事も、すこぶる好かったのに。