オール・アローン

 

まるで年をとって、身体が弱ってきた人のように、日本は世界についていけなくなっている。

希望に満ちた未来なのか、破滅か、どちらの方角か判らないが、世界は段々歩調を速めていて、もっかは古色蒼然とした20世紀型の国権国家思想に凝り固まったプーチンが、自由主義を伝染病のように恐れて、ウクライナに侵攻してやりたい放題やっていて、これもまた20世紀型の強権国家を目指す習近平が、台湾に武力侵攻したものかどうか、調略では、もう併合できなさそうなので、自分の政治歴に輝かしい金字塔を建てるためには、どうすればよいか、考えあぐねているが、両方とも、行く末は全面核戦争で地球をまるごと死の星にしてしまうのでなければ、やがては思想の古さが災いして、過去のものになっていきそうで、そういう予測がなぜ立つのかといえば、世界中が次第に情報を共有して、お互いがなにをやっていて、なにを考えているのか、嘘をついているのか、真実を述べているのか、判ってしまうようになってきたからです。

著者名どころか、英語だったかフランス語だったかも、もう忘れてしまったが、子供のころ、魔女裁判がなくなったのは近代市民小説が広がったからだ、と書いてある本を読んだことがある。

小説以前は、近所の人間でさえ、彼女や彼がなにをしているのか、どんなことをやっているのか、判らなかったので、いわば基本的な情報の不足から、妄想が起こって、あの家の娘は、夜毎、冷たいペニスをもった悪魔と同衾しているのではないか、と疑いだす。

夜更けに窓に明かりが映っているのは、悪魔を呼び出す儀式を行っているのに違いない、と、確信する。

近代小説が広く読まれだすと、他のひとびとの暮らしぶりや、内心が、詳細に描かれていて、近所の娘が夜毎に会っているのは異形の悪魔ではなくて隣村の若者で、夜更けに燈が灯っている部屋では、その家の妻が、熱心に刺繍をしているだけなのだと判ってくる。

いま世界で起きていることは、やや似ていて、他国や他文化で起きていることがインターネットを媒介にして、大量に情報や知識が流れて、プーチンのウクライナ侵略が良い例だが、いくら20世紀型のプロパガンダで、嘘の情報を伝えようとしても、世界中の人間が検証して、あっというまに真実がばれてしまう。

ロシア政府の主張を信じるのは、20世紀型の国家観を持ち、古い枠組みで世界を観ることから離れられない人間だけで、その自分の姿さえ、情報が共有されていくなかで、曝かれて、明るみに出た世界の複雑さを理解できなくなれば、複雑さに苛立つ人間の常として、もっと簡単に世界を説明してくれる陰謀論に傾いてゆく。

日本は、全体として、世界的な現実認識の共有の外にあります。

日本語のコミュニティのなかで、しかも外を向かず、同心円の中心に向かって立って、お互いの顔色をうかがいながら、20世紀型どころか19世紀型といいたくなる翻訳文化を通して受容した、日本語の形に歪んだ世界についての認識を共有しようとしている。

もともと日本語は言うまでもなく翻訳文化で、翻訳の過程で造語することによって、古代から近世にかけては中国の、近代以降は主に西欧の思考を取り入れ、感情を理解しようとしてきました。

公平に言って、読んで見ると、最近まで、日本の翻訳者は優秀で、遙かな隔たりがあるふたつの言語を、大股開きで、工夫に工夫を重ねて、なにしろ背景、というよりも、地面をなす生活そのものが感覚されていないので、どこかしら絵空事風であっても、なんとかパラレルワールドを提示することに成功してきた。

段々に観ていくと、文学を例にとれば、だいたい村上春樹の世代くらいまでは、文体や語彙選択の好き嫌いは別にして、翻訳文化として成り立っているようです。

ところがインターネットが普及しだして、ネット上の情報の質があがりだすと、もういけなくて、それまででも限られていた世界との考え方や視点の共有が、出来なくなってくる。

そのうえに日本語は、漢文の読み下し文を持ち出すまでもなく、元来、他言語を摂取するための注釈語なので、独自の思考を生みだす部分よりも、思考そのものが古くなっていくほうへ進んできてしまった。

そのときどきのトピックを取り上げて、例をあげれば、トリクルダウンだとか、ジェンダー間の平等であるとか、流通量が伴わない通貨量の拡大のようなものに至るまで、懸命にやっているにも関わらず、どことなく教条じみて、言葉が現実から乖離したものになってしまっているのは、ちょうど権威主義的な老人が若者の考えを鼻で嗤うだけで、理解できないのと、とてもよく似ている。

その結果は、とうの昔に内燃機関からEVに変わっていきつつある世界で、いまだに二頭立てだった馬車が追いつけないからといって、四頭にし、八頭にして、なんとかEVの加速に追いつこうとしている社会になってしまっている。

原理が異なる、という、もっとも根本的なことに気が付かないのです。

世界の進歩の速度が、どんどんペースを早めて、いまはパンデミックで足踏み状態だが、労働日は週4日になり、賃金は、例えばオーストラリアとニュージーランドで言えば、この30年で3倍以上になる、という変化が起こっている世界のなかで、取り残されて、文字通り馬車馬のように働いても、30年、賃金があがらないという、ものすごいことになっている。

さすがに、十数年前に日本語を始めたときのように、これでいいんだ、日本には日本のやりかたがあるんです、という人は観なくなったが、やっていること自体は変わらなくて、賃金ひとつとっても、ようやっと「賃金をあげないと経済はよくならないんじゃない?」と思い当たって、どう政策すればいいか政府中枢に集結した秀才たちが知恵をしぼって考えに考えた挙げ句、政府が「賃金をあげよう」と号令をかければ、賃金が3倍になって、メデタシメデタシの、それこそ20世紀的な国家社会主義経済風の夢を視ている。

このブログを10年くらい遡ると、盛んに、これからやろうとしているこれはダメ、あれもダメ、こうしたほうがいい、こっちへ行かないとうまくいかない、と、まあ、我ながら、うるせえことだが、最近は、あんまり言わなくなったのは、もう、そういう施策を施しても遅いからです。

このままでは日本は貧乏国家になる、と述べている人がたくさんいるが、国家という前世紀的枠組みはビンボでなくても、散々、冨を吸い上げられてきた個々の国民のほうは、とっくのむかしにビンボで、しかもオカネが有り余っていたときに、どこの国でもオカネが入れば真っ先に行う、インフラのアップグレードにオカネを使わなかったので、あれだけの大繁栄のあとならば、そうなっているはずの教育は無償になっていなくて、「家庭の事情で」大学進学を諦める若い人が珍しくなくなって、高速道路は相も変わらず有料で、ステルス化してあるので安泰であるとはいえ、現実は世界有数の税率で、しかも税金を使って行われるはずの行政サービスや補助は、全部「自己責任」で、おまえのカネはおれのもの、おれのカネはおれのもの、を地でいっている、珍奇な政府の下で喘いでいる。

ここで目を近づけて見ると、例えば消費税の話題になると、

「高い? あんた世界を知らないから高いとおもうかも知れないが、ニュージーランドは15%ですぜ。もうちょっと勉強しなさい」

と述べて、教育費が高い、と言うと

「アメリカは、もっとずっと高いでしょう?奨学金だってあるんだから、がんばんなさい」

言われているほうは、そうか、そんなものか、じゃあ、やっぱり日本人に生まれてよかったのね、恵まれたほうなんだな、ニッポンばんじゃい、と思いながら、家計は現実なので逆らえない、夕飯を抜いて、草のように痩せ細った身体を万年床の蒲団のあいだに滑り込ませる。

世界から遮断されたまま、おまえは幸福なんだ幸福なんだ幸福なんだ幸福なんだと耳元で繰り返されて、自分が日本に生まれて幸福だと感じることが、消費税とおなじ義務になっている。

消費税を上げるっていうけど、ぼくの幸福、いまだって10%もないんだけど、とSNSで呟こうものなら、自分が無能なんだからガタガタいうな、という「ぼくが政府」な、気分だけ強者な人が、わらわらと湧いてきます。

技術的なことを述べると、西欧語間の自動翻訳は、長足の進歩で、AIテクノロジーの発達もあって、最近はニュアンスの点でも向上している。

もしかすると、自動翻訳でお互いの言うことを理解しているうちに、逆に、自動翻訳のちからで融合した新しい欧州語が生まれてくるかもしれない、という期待ですら、現実のものになっている。

ところが、もともとグジャグジャ語で、これがいったい言語と呼びうるものなのか、とフランス人たちを訝らせた英語と、遠大な距離がある日本語とのあいだの自動翻訳は、技術では解決できない、膠着語の優柔不断な構造以上に、文明の本質的な相違からくる壁があって、未来永劫、「だいたい、こういう意味」から構造的に抜け出せない。

そのうえ、人間の手になる翻訳も、逐語訳か、さもなければテキトー意訳で、翻訳の質そのものが低下していて、翻案文学で近代日本語をつくってみせた明治の二葉亭四迷や、「ナジャ」を日本語に置き換えるという離れ業を成功させてみせた、ここは文意上、「先生」をつけるわけにはいかないが、やってきたことを考えると付けたくなる、翻訳文化の掉尾を飾った巖谷國士のような日本語そのものにインパクトを与えうる翻訳の時代は終わって、外国人が見ても、なんだかヘロヘロな粗筋書きみたいな日本語文体で、しかも単純な誤訳までいくつもある、凋落ぶりだが、

だいいち世界と思考を共有するために必要な(広い意味での)情報量は、翻訳なんかで追いつく量ではなくなっていて、そう言っては悪いが、またまた文学を例にすると、フランス語圏内の文学研究のレベルには及ぶべくもない日本語ベースの仏文科では、どうにもならなくて、いまの時代に有効な仏文はフランス語ですべてが行われないと無意味であるように思えます。

まして英語においておや。

日本の人にとっては、世界周知の苦手なので、いつも言いにくいが、いろいろに考えても、やはり英語でものを考えて認識する能力をすべての日本語人が身に付けていくしか、日本の窮状を救い出す方法をおもいつかない。

マンガを生みだし、アニメの名作を送り出して、テキストでも「コンビニ人間」のような言語を越えた普遍性の高い作品が書かれている。

ところが日本語の注釈語の出自が災いするのか、サブカルチャーとして英語を中心とした世界に「他と異なるもの」な意味合いで珍重されるだけで、

生みだしている側の日本語は、どんどん衰弱してゆくだけで、いまはもう、瀕死と呼んでいい状態にあるように見えます。

このままいくと日本語文明は、世界のなかで、「消費」されて、食べつくされて終わってしまうのではないかと、観ていて、余計なお節介もいいところだが、考えることがある。

社会として英語が身につかない場合、どういう方法が他にあるのか、ぼくには判りません。

いくら考えても、なにか方法がありそうだとおもって、うんうん唸って考えても、やっぱりダメで、一方では、英語を社会として準母語化することくらい、ベンガル語人やヒンドゥー語人、タミル語人に出来たことが日本語人に出来ないわけはないとおもうが、あんまり火急の問題だと感じてもいなさそうな日本語のひとたちを観ていると、まあ、別にいいよね、英語はいいから、もっとおもしろいものをたくさんつくってください、と言いたくなってくる。

つまり、もう頑張らないで、マイナー世界で、のんびりやればいいじゃんね、とおもう、ということです。

タイランドの社会は、そのなかでタイ人として生まれつくと、塗炭の苦しみの連続だ、と述べた人がいたが、世界からみれば、文化が豊かで、穏やかな国で、タイの人と話してみると、「もう諦めているから」と笑っていて、

貧しい国は貧しいなりに、辛いことが多い国は辛いことが多いなりに、人生をやりすごすコツを身に付けていけるもののようです。

日本も、そろそろ、爪先立ちをやめて、肩のちからを抜いて、西洋なんてどうでもいいやで、地べたに腰をおろして、のんびり夕陽を眺める時刻にさしかかっているのかも知れません。

日本語という美しい言語だけは、意志をもって、なんとか、守っていって欲しいとおもうのだけれど。



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2 replies

  1. 方言が復活してもっと見直さればいいのにと思います。中央政府の権限を弱めて地方分権化し、行政、教育、経済政策、法務も地方政府に任せるようにすれば、昔の方言が復活して、その方言同士の会話が困難になって、やがて英語が共通語化するということにならないかなと、妄想してます。

    もっとも地方分権は大前研一氏が90年代から提唱してましたが、進展するどころかますます中央政府の権限が強化されていき、おっしゃるように国全体として硬直化して世界から置いてきぼりになってしまいました。

    • 薩摩弁や山形弁みたいな感じだと、現実味がありますね   >方言同士の会話が困難になって、やがて英語が共通語化するということにならないか

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