いつか来た道を

お元気そうですね、と、レポーターが声をかけている。

ベンチに腰掛けた老齢の男の人は、さして嫌がりもせずに、カメラのほうを向いて、「ええ、わたしは、健康でいるのが、仕事ですから」と述べている。

「一に健康、二に健康ですよ」

まさか、そんなに健康にばかり気を使って、どうするんですか?

とも訊けないからでしょう。

「仕事、というのは、どういうことですか?」

と、語彙の選び方に、やや、引っかかったのでしょう、たいして気もなさそうに、訊ねてみています。

あるいは、他には話の接ぎ穂がなかったのかも知れません。

訊かれた七十歳代にみえる男性のほうは、女房を15年前になくしましてね、と答えている。

娘は重度の障害を抱えているもので、それまでは女房に負担をかけていたのですが、ひとりでは生きていけない娘のために、今度は、わたしが仕事をやめて、会社の仕事の代わりに、娘の世話をすることになりました。

娘より先には死ねないんです。

だから、健康が、仕事。

語調に冗談のような軽みをつけて、笑っている。

日本という国家は、近代国家としての成立以来、いっそ、気持がいいくらいの無責任で、「ここを我慢すれば、もうすぐ国が儲かって、そしたらお前達も豊かになる」という理屈を立てたりして、よく考えてみれば、賭場に家計の金を持ち出す放蕩亭主の科白そのままだが、国民は鴨居に隠してある自分のへそくりを放蕩夫が手にするために、畳に四つん這いになって背中を貸して、踏み台にまでなってやる健気さで、国家にオカネを渡して、蕩尽に蕩尽を重ねられても、あきらめて、そいぜい新橋の居酒屋で、いまならSNSで、オダを挙げるだけだった。

途中は、いろいろあったんだよね。

いまになってみると、帝政ロシアが朝鮮半島を制圧して、海峡を越えて押し寄せたとはおもわれないが、当時はロシア皇帝の気まぐれで極東に領土拡張のプレッシャーをかけはじめたことで、日本の社会は上を下にの大騒ぎで、

「ロシア討つべし」と東京帝国大学の教授6人と尻馬に乗ったひとりの学習院教授が、日本の人の民族性であると思えなくもない、自分以外の人間は過小評価して、自分の力量を過大評価する思い上がりそのままに、勇ましい主張を述べて、「ほおれみろ、帝大の学者様でも、ロシアを討伐しろと述べているではないか」で、読んでみると、大学講師や教授の肩書きに滅法弱いアカデミアコンプレックスも、現代の日本そのままで、政府は世論の大プレッシャーに苦しんで、伊藤博文などは

「我々は諸先生の卓見ではなく、大砲の数と相談しているのだ」と述べて、苦り切ったという。

ロシアは本来なら攻勢限界を遙かに越えた極東の前線まで、ロシア人らしいと言えばいいのか、シベリア鉄道を単線で延長して、どんどん補給物資を送って、送るのに使った列車は線路の終点で捨てるという驚天動地の補給戦略で、

圧倒的な陸軍力を発揮する。

日本兵が、死屍累々、戦友の屍の背を踏んで突撃すると、当時、日本側では騎兵が一存で配備していただけで、軍の規模では存在を知られてさえいなかった機関銃を、ずらりと並べて、徒歩突撃してくる歩兵を薙ぎ倒すという集団自殺そのままの戦闘を繰り返して、やっとロシア側は決戦に踏み切ることにしたころには、兵員の充足率が目も当てられないほど低い上に、弾薬も底をつきて、観念したところで、ヒットラーが自分の身の上に起こることを死の直前にまで願ったので有名な、七年戦争末期に起こった「フリードリッヒ大王の奇跡」そのままに、ロシアの政情に助けられて、戦争は終結する。

諸外国との不平等条約を改正させて領事裁判権を撤廃するという離れ技を行ってみせた、外交名人の陸奥宗光は、日本外交の最大の敵は日本人という愚民の集団である、と、いまならSNSで盛大に炎上しそうなことを述べて、日本の外交は、日本国民という激しやすくて感情に駆られてばかりいる国民が学ばない限り、よくなるわけはない、と書き残しているが、このときも同じで、

大国に勝ったのに、息子が3人戦死した、おれへの分け前は何処にあるんだ、と日比谷公園を焼き打ちしたりして荒れ狂ったが、結局は、

日本は欧州最強の陸軍国に打ち勝った一等国だ、という、「一等国」の勲章を胸に貼り付けるだけで我慢せざるをえなかった。

この対露戦勝のあとの、狂躁的な、おごりたかぶる日本の、特に当時の知識人予備軍だった帝大学生たちの痴愚まるだしの姿は、夏目漱石の「三四郎」に、上手に描かれています。

ここから日本人は、なにしろ娘を売春婦として売るのが当たり前の地方が続出したり、国としてさえ最大の外貨獲得手段が海外で春を鬻ぐ女のひとたちからの海外送金であったりして、隠しに隠し通した主要産業は売春で、自分たちの現実の生活はビンボで、惨めなものであるのは、判り切っていたので、自分を国家と一体化させて、「日本は一等国だから、おいらも一等人」という、切なくも、摩訶不思議な理屈を当然のこととして意識するようになっていきました。

自分の生活が存在しない場合、教条と属する集団と自分を一体化して、

属している集団が優れているから自分も優れている、というのは、案外、騙されやすくも、判りやすい理屈で、惨めな暮らしから這い出せない日本の人たちは、この「人国一体」の理屈にしがみついていった。

属する集団が、陸軍であったり海軍であったり、共産党であったり、東大であったり、三菱であったりするだけで、いまに至るまで、この集団と自分を一体化して、社会に踏みにじられ搾りつくされた自分のつらい人生のモルヒネにして、痛みをやわらげる心的機制は、日本の人の心性の根底をなしていて、要するに、2022年になっても、まだ行われている「日本エライ」「日本は、それほどダメではない」「世界が日本に憧れている」は、明治以来、国民の生活は一顧だにしないスーパー無責任政府を、なんとか受け入れるために日本人が編み出した自分のつらさを見ないで生き延びてゆくためのサバイバル技術なのでしょう。

英語人は人間性がよろしくないので、なんにでも「大」と付けたがって、大日本帝国は当然として、英帝国にまで、勢いあまって大英帝国で、「大」を付けてしまう日本の人の「グレート」好きのいなかっぺ心性を揶揄って、

戦前の外交の席でまで、天皇を「あなたがたのグレートエンペラー」と呼び、自分たちの帝国を「わたしたちのリトル・エンパイア」と呼んで、失礼にもバカにして、しかも内心、日本人じゃ、この程度のサーカズムも理解できまい、と舌をだしていた。

でも、日本の人のほうには、否が応でも自分たちの「帝国」に大をつけなければならない、切ない理由があった。

国家がすべて、日本社会の繁栄がすべてで、自分の生活は、二の次だったからです。

フランス首相だったエディット・クレソンが「日本人はウサギ小屋じみたアパートに住み、2時間もかけて通勤し、高物価に耐えるアリみたいな生活をしている」と述べたことに対して、国民的な憤激が巻き起こって、到頭、日本政府が抗議する事態になって、いつものこと、最後には「ウサギ小屋はフランス語では小さなアパートに対する普通の呼び名で、日本人を見下した表現ではない。ウサギ小屋は誤訳です」ということになって終熄したが、その反応の何分の一かは、やはり、ほんとうのことを言われてしまったからだったでしょう。

そのころになると、日本の人も、海外旅行での見聞や、海外からのニュースを通じて、なにかがおかしいのではないか、自分たちは人間的と呼べるほどの生活を送っていないのではないか、と疑うようになっていたからです。

いまの日本人ならば、排外主義的発言で大向こう受けしていたクレッソンの国内向けの言葉に踊らされずに、一方で、同じクレッソンによって何度も繰り返された「日本人は規則を守らずに働いている」のほうに注目するかもしれません。

当時の日本人は「規則?、この規則って、どういう意味だろう?」と訝しくおもうよりも、「悪口を言われた」という感情が先に立って、爆発して目が眩んで感情に、どんな感情をぶつければよいか、それもフランス語はうまく話せないので、日本語で日本語人同士のなかでフランスに対する怒りの激情をぶつけあって興奮するという、それこそ日本的な事態になってしまったが、ほんとうは、クレッソンの意図とは関係なく、この「規則」に日本の人が考えてみるべき観点が潜んでいたのでしょう。

いま世界はコロナが社会の意識から遠のくにつれて、経済回復に向かっている。

また繁栄を取り戻す途上にあります。

そこで真っ先にresumeされているのが週四日労働への移行の試みで、試作品というか、まだいろいろやってみないと判らないことがあるが、

この課題の優先度が高いのは、もともと社会が個人のために存在するからです。

「欧米では」というようなことではなくて、社会は、落ち着いて考えれば誰にでもわかるはずだが、個人の幸福と安心のために存在する。

試みに失敗した人間が暫く休養して、また気を取り直してやりなおせるようにするために失業保険があり、例をあげれば家族の介護のために、限られた職業にしかつけずに、そういう職業の地位が不安定なのは当たり前で、挙げ句のはてに職を失って、収入を断たれた人のためには生活保護がある。

最近の欧州は、社会が、ようやく機能できるようになって、仕事を持つ女の人に子供ができると、家事と仕事の両方では負担がおおきすぎるので、週二回、家事を手伝う人が公費で派遣されてきたりします。

もちろん、個人の側に出費は発生しない。

教育費を社会が負担し、並木を整備し、歩道と並行する芝生の手入れをするというようなことまで、受動的な機能から一歩出て、能動的に、個人の生活を豊かにするところまで、やっと辿り着いた。

日本は、最近でこそ、稼ぐほうも怪しくなってしまったが、むかしは、というのは、ぼくが子供のころは、まだ、「稼ぐのは上手だがオカネの使い方が下手な国」という印象でした。

テレビでは日本社会についてのドキュメンタリをよくやっていて、経済が不振を極めていた当時でも、工員の数十倍の収入を手にするのが当たり前だったイギリスの社長たちに較べて三菱グループの社長が、清廉潔白、軽自動車を自分で運転して出勤して、収入も工員の5倍にしかすぎなくて、こら、母国イギリス、あんた、これでいいとおもっとるのか、日本人を見習わんかい、というような番組をやっていた。

ところが一方では、東京に行ってみれば、綾取りのように電線が空を区画していて、ニュージーランドの農場主たちが、北海道の農場視察ツアーに来てみれば、家は暗く小さく、身なりからして乞食のようで、あまりの生活の貧しさに息を呑んだりしていた。

妹とぼくが、農場ツアーに行って、なんだか穢らわしいものを見てしまったひとのように、吐き捨てるように日本の農場主たちの暮らしぶりを述べるおばちゃんに、ニヤニヤしながら、「でも、あれで、そのビンボばーちゃんは、ニュージーランド人の何倍もオカネあるんだとおもうよ」と述べたら、不思議にも、おばちゃんは、「それなら、なお悪い」と、おとなになって、やっと判るようになった感想を述べていた。

長くなってしまったので、もう止めるが、日本を居心地のいい国にしようとおもえば、ものごとを見るときの観点を、社会や国家の立場から観るようなバカなことは止めて、自分の生活の、自分の部屋から観られるようになることから始めるしかない。

「世間の眼」のような呪術は、理性のちからで祓ってしまったほうが、ずっと良いし、「世間をお騒がせして」というような痴愚そのものの「お詫び」は根絶されないと、ひとりひとりの日本の人が幸福になってゆくのは絶望だとおもう。

そこから、個人としての自分の視点から世界を見渡せるようになったとき、初めて、日本という国の徹底的な無責任さ、卑怯さ、臆面もなさが見えてくるのでしょう。

あれほど繁栄したのに、教育が無料にならなかったどころか、電線が空を区画し、高速道路は有料で、年金まで税制の外側で積み立てさせて、最近の例でいえばPCR検査まで有料で行おうとする。

なにもかも、個人の時間まで国家の非常時だからといって供出させておいて、自分たちの無能のせいで、手に入れた国民の資産は、すってんてんになるまで、すってしまって、無駄な出費は全部国債という名の借金で補填して、今度は公定利息が加速度的にあがる「絶対に、そんなことは起こりませんよ」と日銀総裁が嘲笑っていた事態が世界規模で現実になると、「円安は景気のためにいいことだ」と嘯き始める。

誰のための景気なのか、マスメディアの誰も訊いてくれずに、当の「国民」は、病気をしない健康な老後を仮定してさえ覚束ない、生活の不安に怯えている。

あの、ベンチに腰掛けて、仕方なさそうに「健康でいるのが仕事ですから」と微笑っていた男の人は、あなた自身でしょう?

あの男の人は、自分と違う人で、不運だったわけだから、と感じるのは、もうあなた自身が、骨がらみ、国家に絡め取られているからです。

気を取り直して、視点を、社会から自分のもとへ取り返さないと。

何度もいうようだけれど、社会からの視点でばかり世界を観ていると、「自分という最良の友だち」も、ついには愛想をつかして、きみの前には姿をあらわさなくなってしまうかも知れない。

そうなってしまったとき、地平線の向こう側から聞こえてくるのは、軍靴の響きだが、その音は、遠くに、微かに聞こえ出すと、あっというまに、君の家の前へやってきて、佇って、ドアを拳で乱暴に叩きはじめる。

そのメカニズムを、今度、また説明できたらとおもっています。



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4 replies

  1. > 日本を居心地のいい国にしようとおもえば、ものごとを見るときの観点を、社会や国家の立場から観るようなバカなことは止めて、自分の生活の、自分の部屋から観られるようになることから始めるしかない。

    本当に日本人に欠けているのはこれだと思います。自分もその呪縛にかかりかけたけど、大学時代の教授の指導でそこから脱却できました。ちなみに先生は、女の人でした。

  2. 先日遅ればせながら、ガメさん絶賛の韓国映画「A TAXI DRIVER」を観ました。
    胸をかきむしられるような強烈な感覚と、日本では何故これが出来なかった?、という羨望に近い何かとが、胸の内で渦めいて、その日は中々寝付けませんでした。
    INTEGRITYの欠如と、まさにこの記事中の、視点の違いが根底にあるのでしょう。
    いまこの国で、「社会は個人のためにあるんだよ」と言ってその通りだ!と賛同する人より、「個人は社会のためにあるんだよ」と言われて納得してしまう人の方が多い気がします。
    でもきっと明治の頃からずーっと、そうやって来てしまったんでしょう?
    どうやったら、視点を変えられるのか、どうしたらこの絶望から這い出せるのか、わからず悶々としています。ずっと。

  3. PCR検査で実費を取られました。保険内ではないから実費ですって。ニュースじゃコロナ対策の対策費用であるはずの11兆円は行方不明でも誰も捕まってないのに。
    冒頭のひと、どこの世界のニュースでもいそうな年輩の男性ですね。女性も沢山たくさんいます。生活できないような給料やどう見ても過労状態で給料も悪いけど24時間ずっとひとがいないと生きていけないひとたちとどうやって生きていくのか、子供と老いた両親をみて貧乏でどうしようと頭を抱えてるひとなんか本当はたくさんいます。
    辛さの比べ合いっこなんかしたって意味ないんですけど。
    偉いひとびとは感謝しろ感謝しろっていちいち言ってくるのでしません。そんなこといちいち要求されないとできないと思ってるようですし。人間関係もないのにするわけないじゃない。もうとっくに老人ホームなので住むところじゃありません。間違いなくこれからは福祉に頼るような貧乏人を騙してオレオレ詐欺してたほうが儲かります。

  4. 個人の幸せのために社会がある、民主主義の目的であるような気がします。ブログ主さんが言われるように、これこそが自分達の最も不得意なことなのだと思います。今のいままで、そのような社会では無かったし、これからもならないでしょう。まさか自分が、現役世代の真っ只中で、このような絶望感を感じるようになるとは思いもしなかった。

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