国、国家

長年なぞだった「豚ロース」の正体を一念発起してインターネットで調べてみたら、考えてみると有って当たり前だが、ちゃんと部位を書いたサイトのページがあって、ポークショルダーだった。

なんだ、そうなのか、と肉屋さんに電話して、というかテキストメッセージを送って、ポークショルダーのブロックを配達してもらったら、

なるほど、角度を変えたりして、いろいろに眺めると、日本で見慣れた「豚ロース」の形が見えてきます。

ふふふ。木のなかに仁王の腕を見てとって、切り出した運慶みたい、とおもいながら、とんかつと「ポークソテー」用に「豚ロース」を切り出す、わし。

こういうときに至福を感じることを「幸福の才能」というのね。

なんちて。

ひとによって好みがいろいろあるのは当然だが、ニュージーランドのポークは、この20年で、おおきく味が変わった。

わしガキのころは、主にベーコン用に飼育されたグラスフェッドの豚で、

とんかつにでもしようものなら、たいへんな臭さで、食べられなかったでしょう。

中国系移民が、どどどどどっと入ってきて、ポークは中国風の味になった。

そうこうしているうちに、中国系スーパー、なかでもタイピン(太平)のチェーンが拡張されて、ヘタをすると、伝統的なNZ式のスーパーよりもおおきな店舗が、オークランドのあちこちに出来はじめた。

店内には、壁に沿って、定番の、豚肉コーナーがおおきな精肉店が入っていて、鮮魚店があって、中国式BBQの店があって、各社とりどりの麵と豆腐が並んでいて、わし家から近いスーパーのひとつには出来たての豆腐を売っている店もある。

フロアには中国本土のものを中心に、韓国や日本、マレーシアやインドネシアの食材が、どおおおんと並んでいて、もちろん、青梗菜に空心菜、ライチーにドラゴンフルーツ、野菜や果物もドバッと、てんこ盛りに置かれている。

おなじようにインド食材のスーパーのチェーンもあって、食いしん坊のわしは、「なんて、いい世の中だろう」とおもっている。

多文化は、もちろん人種や食べ物に限ったことではなくて、ゲイの人、ジェンダーを変えた人、ドラグクイーン、さまざまな人が、おおっぴらに、渾然と暮らしていて、それが当たり前になると、特に話題にもならなくなって、例えば中東からの新しい移民の人は、どういう文化や宗教的な理由によるのか、ゲイのカップルにクルマから揶揄の言葉を投げつけたりするが、そういう人間のほうが、奇異に映って、ごく保守的なおっちゃんが、パブでビールを飲みながら友だちと話し込んでいた顔をあげて、「なんだ、あれは?」と訝っていたりする。

日本の人は、アメリカ人にちょっと似たところがあって、なんでも原理原則、議論と言論で話を決めたがるが、UKNZ式は、やや異なっていて、トランスジェンダーのひとたちのプールでの更衣室の扱いはどうするのか、公衆トイレはどうするのか、なあんとなく、その場その場のケースの積み重ねで決まって、落ち着くところに落ち着いていきます。

Be kind.

というアーダーン首相が繰り返し演説で述べた言葉は、トランプの娘が、自分で考えた言葉のように、そっくり借用して、失笑を買ったりしていたが、国民ひとりひとりの心によく浸透して、そうか、ニュージーランドって、こういう国になっていくんだ、と、国民意識の芽生えにすらなっていった。

わしガキの頃は、歴史について話していると、遡るにつれて、だんだんイギリスの話になっていって、口にだして指摘するのは、悪い気がして、気が引けるので、ただ心のなかで「それ、わしの国の歴史やん」とおもったりして、可笑しかったが、だいたいエリザベス女王に謁見マナーを十分に知った上で、あえてパンタロンで宮殿にでかけて、リズばーちゃんを激怒させたりしていたヘレン·クラーク首相くらいから始まって、特にジャシンダ・アーダーン首相が登場してからは、はっきりと、「自分たちは『ニュージーランド人』なのだ」と意識しはじめたようでした。

新しい国の良さは、なによらず「自分たちが、いま、力をあわせて作っている国なのだ」という強い意識が常にあるところで、おなじ政府への批判でも、日本などで見ていると、「なにもそんなに感情こめて憎まなくても」と、どうしても考えてしまう。

ニュージーランドなどは、与党とも野党とも、話をする機会がいくらでもあって、なにしろスーパーのレジで、ふと振り返ると首相が支払いの列に並んでいたり、ボートの出航準備で、ディンギイがでかすぎてヘルムの上に上げるのに難儀していると、フィンガーから「おい、手伝おうか?」という声がかかって、おお、ありがたや、と声のほうを見ると、首相のだんちゃんがニコニコして立っている国で、ちょっと、ここはこうしたほうがいいのではないか、ということを、直截政府に伝える場は、いくらでもあります。

古い国で育った人間としては、楽しくて、新鮮で、いくら実家から、やいのやいの、いったいなに考えてるんだ、と言われても、戻りたくないなあ、とおもう。

悪いほうは、冨の蓄積がないので、美術館や博物館は貧弱なんてものではなくて、もしかして、実家のほうが展示できるものが多いのではないか、と、よくおもう。

まして、モニの実家に、おいておや。

コロナ禍になって、パンデミックを押して欧州に行くのが困難になってくると、び、美術が切れた、び、び、美をくれえ、と禁断症状が出る、というのは誇張だけど、それなりに、チョー寂しいおもいをした。

むかし会ったシリコンバレーの会社のプログラマグループのリーダーはPhDをもつアメリカ人だったが、ニュージーランドが、「ジーランド」のせいだったのでしょう、オランダの隣にあるとおもいこんでいて、会話がずいぶん楽しかったが、ほんとにオランダの隣にあれば、どんなにかいいことだろう、と夢想したりした。

いまはプーチンみたいな昭和おやじがいて、ちょっと後戻りしているが、

そんなに遠くない未来には、国権国家は単なる歴史上の存在になって、例えていえばグーグルと中国が対等な「パワーグループ」のバランスで出来た世界になってゆくでしょう。

そうして、その世界は、いまの国家間とは異なるやりかたで、多分いまよりも遙かに動的なパワーのバランスをつくって「常に動的であることに依存した安定」を見いだしていくに違いない。

ガメは楽天家だなあ、と、よく笑われるが、

そお。

わしは楽観的な人間なんです。

日本語では、よく引用するように

「悲観とはただの習慣だ」

という岩田宏の詩句を信奉している。

もう少し詳しく言えば

「悲観とはただのナマケモノの習慣だ」と言い直してもいいかも知れません。

日本も、21世紀の国家である以上、おおきく「国家」の性格を変えていくほかはない。

さて、どんな国家になっていくか、いまから楽しみにしています。



Categories: 記事

1 reply

  1. 「悲観とはただのナマケモノの習慣だ」と言い直してもいいかも知れません。

    これ肝に銘じて生きていきます。
    自分が思う以上に自分の人生に消極的だったみたい。

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