礼記

あんまり認めたくはないが、このごろ、やりたかったことを一通りやってしまって、少しく、飽きているのではなかろうか。

まさか「筑駒から東大の文科一類に入って財務省の公務員になります」と述べる小学生のような綿密なスケジュールの計画は立てないが、そのころは、まだ、年齢の相応の心理段階によって、発揮される才能のピークが異なる、とされていたので、取りあえず、詩と数学をやって、その後は、富裕なひとたちではあったが、両親に金銭的に世話になるのは嫌だったので、一生分稼いでしまおうと考えていた。

ビジネスを始めたり、まして勤め人では、そもそもオカネを稼ぐのに年齢が積み重なって行ってしまうので、忙しい生活は向かないことでもあるし、

人が聞いたら吹き出してしまいそうな、まず元手を発明で稼いで、あとは、それを投資でおおきくしようという、なに夢みてるんですか、な「計画」を立てて、ナマケモノの一念は、恐るべし、そのとおり実行して、人が大学を出る年齢には、大学院のコースを終えて、いま考えてみると、そのころ始まっていた英語圏のバブル経済の波に乗っただけだが、本人は、数学上の知識を縦横に駆使して殖産したつもりで、毎年、資産は倍倍になっていって、ただそれを管理するためだけに会社をつくることになった。

会社をつくったといっても、不動産管理会社と会計事務所を自前で設立したようなもので、特に会計は初めは国をまたぐので、著名な会計事務所の世界チェーンに頼んでいたが、あんまりたいしたことも出来ないのに、高額の支払いを要求するので、やむをえなかった。

毎日の生活に飽きるのは、本人がボンクラだからです。

新しいアイデアが湧いてこないから、昨日と今日と、同じ事をする。

先月と今月の区別がつかないくらい類似した生活を繰り返す。

甚だしきに至っては去年と今年と、あんまり変わってないんじゃないの?という暮らしに陥る。

この勢いで、来世もおなじ人生になったらどうするんだ、とおもうと、俄に焦慮を感じてくる。

バカバカしいことに、なにもしなくなると、オカネは、ますます増殖するようになって、なんだか自分たちオカネ同士で愛しあって、勝手に増えて、ときどきワインを飲み過ぎて、オンラインのポートフォリオを覗くと、なんだ去年とあんまり変わらないね、とおもうと、酔って焦点が定かでない目で、よくよく見ると、ゼロがひとつ増えている。

これは性分なので、オカネを使わない人間で、飛行機を買っちゃったもんね、と言っても、友人達のようにパイロット付きの大洋をひとまたぎするジェット機を名目はリースにしろ、パーチェイスにしろ、買ってしまったわけではなくて、実際にも大笑いされてしまったが、小型のセスナ社製のレシプロ単発機を買って、自分で操縦する、というfrugalさで、安物買いの銭失いとは、よく言ったもので、しかしこの小型機では、オーストラリアにすら辿り着かない、と判って、飛行機自体、フライトクラブにリースしてしまっている。

普段の生活も、外にでるときでも、必要がないので、財布も持っていなくて、限度額が16万円ほどのクレジットカードを一枚持っているだけです。

なんで面白くもないオカネの話を長々としているかというと、つまり、オカネが存在しない世界に住んでいるのだ、ということを説明したかったからです。

前にも何度も書いたが、オカネというものは嫌味な性格の代物で、オカネで解決することは、この世界の99%を占める、あんまり重要でない、どうでもいいことばかりで、残りの1%が人生においては、かけがえのない価値を持つであることは誰でも知っている。

ところが、このどうでもいいこと処理係のオカネさんがいなくなると、えらいこっちゃで、なにしろ、どうでもいいことを処理するために、肝腎の1%が視界から去ってしまう。

時間を注ぎ込んで、エネルギーを注ぎ込んで、感情まで消費して、やっと手にしたオカネで、かつかつの生活を送ることになります。

なぜ現代の人間の大半が、懸命に働いて、やっと食べられるラットレースにはまるのかというと、現代の生活が、99%の人間がそうなるようにデザインされているからだ、という仕組みの説明も、前にしたことがある。

もしかしたら、編集の人がえらく感心していたので、書籍のほうの日本語練習帳に入っているかもしれません。

ラッキーで、ラットレースの苦労は経験しないですんだが、それはそれで、オカネが、はっきりいってしまえば有り余る生活にも副作用があって、

なにしろ怠惰になる。

朝から、シャンパンを飲んで、カウチに寝転がって本を読んで、そんなことばかりしていると贅肉が付きそうなので、デブりたくないという、ただそれだけの理由で砂浜を疾走する。

で、後は、「新しい挑戦」をめざして、眦もきりりと、新たな困難に立ち向かうかというと、そんなことは、文法的に謬っていても、全然なくて、

ただデヘデヘと目尻をさげて、これでも人間だろうかとおもうくらい、磁器で出来た芸術品のような、日本では、何語なんですか? ルッキズムで、いけないことになったそうだが、息を呑むように美しい奥さんを眺めている。

日本の神様は厳しいので、「貴様! でれでれしやがって、そこになおれ!」と竹刀でバシバシ叩かれてしまうが、英語の神様は、テキトーで、北米にはピューリタンカルトのおっかない神様もいるが、幸い、こちらはもともと大西洋の反対側で、もともと労働と冨が、きっぱりと分離したデタラメな伝統の社会の出身なので、神様も一緒に朝から酔っ払って、芝生の上で一緒にワルツを踊ってもらえます。

どうするかなあ、とおもう。

親族のいうことに耳を傾けて、欧州に帰る、という選択肢がある。

これは全員が満足する選択肢で、プーチンがやってきたらやってきたで、一家無理心中体質を発揮して核にさえ手を出さなければ、あんまりたいしたことにはなりそうもない。

良い点は、欧州には美と文明が存在して、そういうと、文明は世界中に存在する、欧州だけが文明ではない!と叫ぶ人が登場することになっているが、あのね、日本の人にとっては日本文明があるように欧州人にとっては欧州の文明がある、というだけのことを言っているのです。

生まれついた文明の美点を述べるのは、いくらなんでもカッコワルイので言わないだけで、それでも、たまには自慢しちゃうと、欧州の文明の良さは「繊細なやさしさ」で、英語のアクセントひとつとっても、土地の名前のタイトルが付いた家に生まれて、高校を出て、骨董美術店や、古書店、銀器店やなんかで店員をしている女のひとたちの英語などは、これが本当に不動産屋語とヒソヒソされる言語だろうか、とおもうくらい軽やかで、美しくて、ただ言葉を交わしているだけで、気持が明るくなって、弾んでくる。

あるいは時間外の美術館で、内緒で館員とシャンパンを飲みながら、ひとつひとつ、過去の偉大な手、偉大な魂がつくりあげた作品を見る。

美に囲まれて暮らすという頽廃的な贅沢が出来るのは、ただヨーロッパだけで、ニューヨークでもシカゴでも、こればっかりはパチモンの域を出ません。

悪いところは、文明があるのだから当たり前だが、澱がたまっていて、

例えば、よく観察すれば判るが、あんた革命をやったんじゃなかったの?なフランスでさえ、明らかに自分の階級のほうが上だと判っている場合には、階級が下の人間に話しかけられても、性格がたいへんに良い人であっても、返事もしない人がいる。

それどころか、相手の顔も見ない。

文明が遙か異なる外国人であっても、気が付くことであるらしくて、須賀敦子さんのエッセイには、最も親しいイタリア人の同僚が、見るからにお似合いの若いハンサムちゃんと、いつもじゃれあっているので、冗談に「お似合いだから結婚すればいいじゃないの」と述べたら、相手が思いのほか真剣な顔で

「どうして、わたしが、あの人と! 階級が違う」と言うので、ぶっくらこいてしまうところが出てくる。

ニュージーランドのような若い国は、そういう長い歴史を通じて沈殿した澱がリセットされているので、バブル時代のプリンスホテルの接客マニュアルには、客が国産車で来た場合、運転手付きで来た場合、メルセデスで来た場合と乗り付ける車によって接客マナーの使い分けが書いてあったそうだが、ちょうど、その段階で、相手が偉いんだかどうなんだか判らないので、

乗っているクルマや身に付けている服によって、態度を変えることになっている。

従って、冬でもフリップフロップにショートパンツで、くっそ寒いのに赤いゴジラのTシャツを着てヘラヘラしている人間などは、イヌさんの4段階くらい下のランク付けで、このあいだもひとりでパーネルのピザ屋に行ったら、テーブルが半分も空いているのに、満席ですと言われて断られたが、ひげもじゃで髪の毛が頭の周囲に太陽コロナのように爆発している現況では、やむをえないのだと言われている。

モニさんがいれば、モニさんが大好きなシャネルが、たまたま高級ブランドということになっているからかも知れないが、普通に考えて、圧倒的な気品が理解できない人はいないので、多分、店のほうはお付きの作男だかなんだかと解釈して、冷たい態度をとられないが、それはそれで、

新しい国のルールなので、別に腹は立ちません。

何年も新婚旅行をしていたノーマッド生活は性にあっていたが、今回のように、よおーし、とーちゃんはジャングルジムになるからね、と心に決めて、小さいひとたちが攀じ登るのに任せて、settling down、一箇所に腰を落ち着かせてみると、移動しつづけることによって得られなかったものの大切さも判って、もうあんまり、旅から旅、というわけにはいかない気分になってきます。

そのうえに、年を取ってきただけなんじゃない?という気がするが、

例えば朝食にはフライドエッグとベーコンとハッシュブラウン、日本の基準でいえばサンドイッチブレッドいうことになりそうな厚さの食パンでないと、なあんとなく、落ち着かなくなってきて、たとえばトンカツのようなものは、おやつには食べるが、朝食に続いては夕食、最近ではランチまで、なんだか子供のときに食べたメニューに戻ってしまっている。

寂しい気持になるが、人間の魂は楽をしたがる。

大好きな日本も、だんだん遠ざかって、日が暮れて、自分の家に帰るというか、どんどん退屈な人間になっているのかも知れません。

でもね。

ぼくは、やっぱり日本にいたんです。

乾隆帝の生まれ変わりだと称して、十全外人大庭亀夫と号して、軽井沢の家の裏庭に石碑を建立した、黄金の時代を、忘れるわけはない。

日本のひとたちは、それはそれはヘンテコリンで、やさしい、子供のように純粋なひとたちで、なるほど、もうちょっとおとなになりなさいよ、そんなにガキガキして喚き立てて、どうするの、とおもうこともあったけれども、

あの、どこから来るのか由来が判らない、たおやかで自然なやさしさと、英語人が逆立ちしても及びもつかない育ちのよさ、聡明さは、日本語が判らない外国人には、理解の手がかりもないもので、それを理解できたことは、とてもとても嬉しかった。

だって、そうでしょう?

どんどん、おんなじ顔になってゆく、世界の文明融合の時代に、ひとつだけヘンテコテコリンで、理解を拒絶して、まったく見たこともない文明を紡ぎ出している、旋毛曲がりの、一億人のひとたちの大集団が生きている。

中国人だって西洋とは違うではないですか、ときみは言うかも知れないが、

あれはメジャーな文明で、メジャーなものは、つまらないのよ。

マイナーな文明だから、見たこともない繊細な旋律がつくれるんです。

たとえばタイランドには偉大な文明があるが、あれはね、小さい地域でのメジャー文明というべきもので、日本とは違うんです。

日本は使う言語からして注釈の言語で、漢文を読み下す必要に駆られて成立して、言語自体が批評機能であるような、ユニークな文明をつくりあげた。

日本がいまでも大好きだし、日本に、本人としてはかなり無理をして、十全外人外征碑、五年十一回の大遠征をおこなって良かったと心から思っています。

日本の人が、自分たちの文明に誇りをもって、ユニークさを自覚すれば、こんなにいいことはないんだけど、

そうならなくても、

それはそれで、興福寺の五重塔のてっぺんで、頬杖をついて日本語を眺めているガーゴイルになって、きみがいる世界を眺めているでしょう。

心からの愛を込めて。



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