もうひとりの友だち

 

ガメ、知らない人についていってはダメだぞ、とモニさんに、よく言われた。

ニューヨークで、一緒に住んではいなくて、モニさんはパークアヴェニューの、自分の家のなかに吹き抜けのあるエントランスホールがある、壮麗で、チョーかっこいいアパートに住んでいて、わしはチェルシーとヴィレッジの境界線上みたいなところにある、オンボロアパートに住んでいたころのことです。

ガメは、惚れっぽいから、危なくて仕方がない、という。

ワインを飲ませて、ちょっと口説くと、すっかりその気になって、ほいほいと同じベッドに行ってしまうというではないか。

誰から、聞いたの?

そんなことは、どうでもいい、と、モニさんは、なんだか怒ったような顔をしています。

毎日、楽しいときを過ごして、別れ際になると、

「知らない人についてっちゃダメよ?判ってる?」と、冗談で、

あるいは眼がぜんぜん真剣で笑ってない顔で、言われていた。

心配そうです。

モニさんは、やさしいし、チョー優れた人だけど、あんまり信用してくれてないみたいで、つらい、と友だちに述べると、

ガメは、実績があるからなあ、とニヤニヤしています。

そんな人間じゃありませんよ、と抗議すると、

ガメは、ちょっと誘ったら、わたしとも寝たじゃない。

そんなひと、信用できるわけないとおもわないの?

え、わしが、きみと?

そんなバカな

ええええー! 憶えてないのか? この尻軽男!

と罵られて、シャンパンをぶっかけられそうになったこともある。

アパートに戻ってから、そんなこと、あったっけ?

と思い出してみると、なるほど、いちど、友だちのアパートに出かけたら、

いつものワインではなくて、妙に強いコクテルばかり飲まされて、最後は超高級グラッパで、正体不明になったことがあって、あのときか、と思い当たる。

ニューヨークは大きな町だが、それぞれが属しているコミュニティは、意外なくらい小さいので、ヒソヒソ話は共有されて、男の肉体が欲しい週末は、誰それが便利だ、ということになっていたようです。

「ほれっぽい」という点については自覚があります。

われながら、自分よりも優秀だと感じる女の人にあうと、

なんだかポオーっとなってしまって、

相手の言葉が媚薬のようで、

なんでもしてあげたくなる。

わっしの身体でいいなら、いくらでも使ってください、まで、

かなり一直線でなくもない。

ワンナイトスタンドの、ひと晩どころか、数時間しか「ポオー」が続かないこともあるが、

ポオさんになっているあいだは、なにしろ世界が眼中から消滅していて、

全身全霊が相手に集中してしまっている。

それでだね。

自分より優れた女の人、遙かに高い知性を持った女の人というのは、

この世界には、うじゃうじゃいるので、旅順口を閉塞させようとしたらロシア側の機雷原に突っ込んでしまった大日本帝国連合艦隊というか、

将校がテキトーに描いた地図を頼りに砂漠を渡ろうとしたら、6マイルの縦深がある地雷原のまんなかに入りこんでしまったハイランダー連隊というか、特にニューヨーク、パリ、ロンドンのような町は、ガメ理性がふっとんでしまうには最適の土地で、タシカニカニタシで

もちろんパートナーや妻や夫が、他人と関係を持っても、返って刺激になっていいやのひとたちも現代ではたくさん存在して、

現に去年も、どうやらオープンマリッジを信奉して実践していたらしい、

レミュエラの富裕な夫婦の奥さんのほうが、相手がオープンマリッジは、単にお近づきになる手段だったとかどうとかで、痴情のもつれで、ドライブウェイで刺殺されてしまった。

モニさんは、性に対する考えが、ごくごく保守的な人で、生涯ひとりのひととしか結ばれたくない、と述べて、ぎょっとさせられたことがあります。

ほれっぽい夫と、貞淑な妻では、諸災厄の根源なのではなかろーか。

外廊下。

男と女の身体の違いに気が付いたときのことは、もうおぼえていないが、かーちゃんやとーちゃんに代わってチビわしと妹を面倒みてくれていた人によれば、妹に自分がついているものがついていないのを目撃して、

があああーん、なんで、わしのほうにだけへんなものがついてるの?

でっぱりができる病気なんじゃないの?

と激しく動揺したそうで、妹のほうも、似たようなものが隠れて下向きに付いているから安心しなさい、といくら言って聴かせても、下を向いて、いまにも死にそうな顔をしていたので心配した、と述べていた。

男と女の違いについて、だいたいふたつに大別できて、

体つきは男だけど女のひとな同級生や、その逆や、男同士で恋に落ちるひとや、女同士で熱狂的な恋に走る人がいることは、学校でも先生に教わったが、周りを見ていればわかることで、それでも知識は明瞭ではなくて、なんだかぼんやり判っているうちに、十代の疾風怒濤の時期に入っていきます。

振り返ってみると、自分が育った社会では、男と女はふたつの異なる文化と意識されていて、こういうことはお国柄や社会の性質よりも、単純に自分が直截見聞できるくらいの範囲によるのかも知れないが、あんまり性別や権利について考えることがないオメデタイ生活だったようにおもいます。

考えて見ると、友だちには、男用の公衆トイレに爆弾くらいは投げ込みそうなひとがたくさんいて、実行しないのは、単に壁の一枚向こうは女のひとたち用のトイレがあるから、という戦士Xena型のひとびとで、

お互いに歳をとって、有名な人になった人もいて、

テレビの討論番組で、相手をやりこめたりしているが、

冗談ではあるにしても、酔っ払うと、

「ガメは、いいケツしてるな。イッパツ、やらせない?」とか言い出すので、

知らない人ではないが、なんだか危なそうなので、せっかく知性が高くて話が楽しいひとなのに、会うのがためらわれる人も、たくさんいる。

日本で、いちばん嫌だったのは、ごく自然に女のひとたちは人間でないことになっていて、女のひとたちが男のひとたちの嗜好にあわせて媚びたり、我慢したりしないと、社会生活が送れない場合もあったり、

日本語は、せっかくの折紙つきの美しい言語であるのに、女のひとの言葉に社会が影響して、干渉して、やわらかさを奪ってしまったりする。

アメリカ式は、日本の文明で育ったひとには、あわないのではないかとおもうが、ニュージーランド式くらいで、女のひとと男のひとが対等もなにも、到頭最近では性別を意識しないですむ社会になって、

男や女であることに関係なく、ただ、ありのままのふたりの人間として、魂が呼び合って、邂逅して、ふたりで力をあわせて世界の荒波を乗り切っていくのでなければ、だいいち、生きていくことが楽しいはずがない。

男と女の組み合わせに限らず、女と女でも、男と男でも、どちらかがエラソーだったり、威張りくさっているようなカップルでは、見ているほうが、うんざりで、

そういうカップルは、どうしたって、COVIDが終わってもパーティに呼びにくくなっていくのでもあります。

人間がただ人間でいて、皮膚の色や、言語や、性別によらず、他人も自分とおなじ人間であると認識できることは、現代を生きていく人間が、この世界を心から楽しむための第一歩で、現代人に必要な、最も根底的な素養でしょう。

書籍版の「ガメ·オベールの日本語練習帳」に

BK

A girl can do anything

「性」をいれてもらったのは、

LGBTQ+が対等もなにも、みんながおなじ人間で、人間同士でやってはいけないことは、自分が男で相手が女でも、やっていいわけはなくて、

そうしなければ生活が楽しくなっていかない、と日本語のひとたちに判って欲しかった気持があったからでした。

楽しいよ

一緒にいる人が「奥さん」や「旦那さん」、夫や妻でさえなくて、

ひとりの自分とおなじ人間で、仲間で、ちからをあわせて困難に打ち克つたびにハイファイブで手のひらを叩き合う暮らし。

夜になって、あんないけないことや、こんなひとにいえないことをするときでも、「ここは、どう?」「そんなんじゃ、感じないでしょう。もっと、ゆっくり」「こういうふうにすればいいの?」と忌憚なく談合できるのでなければ、感じられるはずのものも感じられない。

伝統や文化というのは、怖いもので、潜在意識の深いところに潜りこんで、自分でも意識されない嫉妬や憎悪になって、心に巣くってしまう。

まずは自分で、自分の心を覗き込んで、ピンセットで嫉妬をつまみだして、脇に捨てて、そんな作業は、割と簡単に終わるもので、終わってしまえば、

自分よりすぐれた人が女だろうが男だろうが、どうでもよくなるのだから、作業が終わるまでは、せめて口をつぐんでいればいいだけです。

そのときまでは、例えば、女のひとの側も、男性用トイレに爆弾を投げ込まないで、待っていてくれるのではないかしら。

あれで、案外、人間の気持ちには、やさしいところがあるからね。

闘争には向いてない。

のんびり、幸せに暮らすことに向いているの。

では、

またね。



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1 reply

  1. 良いお話しありがとうございます!
    こうありたいな。

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