言葉を旅する

もう、あんまり日本語に用事がなくなっているのに、なんとなく離れられないでいる。

理由は、おぼろげながら判っている。

慣れてくると、ちょっと他の言語では不可能な美を表現しうる美しい言語で、前にも述べたような気がするが、例えば花吹雪のように動きも視覚的な美の広がりも同時に含む表現や、木洩れ日のように自然が折々に見せる光の芸術を言語表現としてピンで止めるような、説明されてみれば、なぜ自分の母語には、そういう表現がないのだろう、と不思議におもう表現がある。

感情表現が過剰なほどにあって、英語が十段階くらいだとすると、二十段階や三十段階も感情表現を制御できて、むかしは、よく五段階、八段階と区切られる英語表現に較べて、CVT(無段変速機)みたいだな、と冗談を述べたりしていた。

このあいだ英語の記事で「お隣さんの様子が、ちょっと変だ」とでもいうような調子の、日本の静かな乱調ぶりを述べた文章を読んでいたら、

「ゆとり教育」が、やっぱりダメだったのではないか、という、70年代までの元「受験戦士」たちが聞いたら、欣喜雀躍しそうな内容だったが、こちらは「ゆとり」の内容も知らないので、内容は旧態依然のまま学習時間だけを減らした「改革」が、結局は日本の衰退につながった、という意見が、正しいかどうかは判らない。

もっと言ってしまえば、興味もないので、英語だってフランス語だって、バカはバカで、オタンチンはオタンチンで、箸にも棒にもかからない、自分を賢く見せるだけの虚栄術だけが才能で、中身はからっぽで、知性の代わりに悪意だけが詰まっているような人間は、たくさんいる。

ただ日本語では、他言語社会よりも、数が多いかなあー、というのと、

愚かな人間に自覚がないうえに、教条として、そのときどきで、戦争犯罪だの、ジェンダー問題だのと、述べていれば、まるでチョウチンアンコウの鼻先の光に釣られて、ぞろぞろ「正しいこと」が大好きな愚か者の群が集まって、一大勢力をなして、どんどん日本語の議論を、現実から乖離した、空回りの「理屈合戦」の不毛な海に、レミングのように行進していきそうなところが、異なるといえば異なるのかもしれない。

もう何度も、日本語人の友だちと話して理由は判っていて、まず最も根底にある問題は「時間」という人間が自己をつくるための最大の資源を社会が容赦なく吸い取ることにあって、なにしろ学校のあとに、また塾という学校があったりして、「ひまでひまでたまらない」という人間の生育には必要な絶対条件が奪われてしまっている。

個々の子供から個性の源である余剰な時間を取り上げて、学校でなにをやっているかというと、考えてからものをいいなさい、静かにしなさい、クラスのお友達に恥ずかしいとおもわないのですかで、最近、見事に物語のポイントを外した映画をディズニーがつくって、世界中のMadeleine L’EngleファンをがっかりさせたA Wrinkle in Timeのカマゾッツそのままで、知らず知らずのうちに全体主義的な思考や、振る舞い方を叩き込まれていく。

「ほーら、そんなにおおきな声で泣くと、ここの、おじちゃんたちに怒られるわよ」の悪夢の世界を生き延びて、どんな「個人」の成立が期待できるというのだろう。

個人が成立しなければ生活もなくて、生きている人間といったって、社会が腹話術で話しているようなもので、起きてから寝るまで、理屈をぶつぶつと毎日、頭のなかや友だちや、職場の同僚に述べ立てるのだけが毎日で、

言葉は、きっぱりと現実から乖離していて、そう言っては悪いが、

このあいだ日本式トランスジェンダー議論を読んでいたら、なんだか女のひとたちを相手に自分の理屈のチ〇チンをひねりまわしているような珍風景で、日本語は日本語だなあ、と感心してしまった。

現実は、いつでも二の次です。

前にも述べた、ふたりのすぐれた人の事例を繰り返す。

Twitterをきっかけに知り合ったひとに巖谷國士という人がいて、長い間、日本語の建設に貢献してきたひとだが、このひとの即興の料理を見ていると、無駄のない料理で、流れるようなひとつながりの発想と動きで、伝説の遊撃手Ozzie Smithみたいというか、ひところ日本で流行ったらしい痕跡が古書店の100円コーナーにある、自大で事々しい、「男の料理」みたいな野暮天とは、対極にあります。

個人であるためには、まず生活の名人でなければならないことが、見ていてよく判る人で、実際、日本語ネット世界でも、愚か者には取り合わず、涼しい顔で、自分が好ましいと感じることへの執着を隠さず、若い人が読めば、そうか、日本語社会に生まれたら、こんなふうに生きればいいんだな、という、ひとつの手本を示している。

ふつうなら、日本語世界のような社会では、最も簡単に悪意と無神経によって簡単につぶされるはずの、繊細で、美に感応する高い感覚を持っていて、しかも女の人に生まれついてしまうという、日本社会では最悪の巡り合わせで、それなのに自分の感覚を守って、一流や二流という言葉は、「ほんものとにせもの」なる言葉と同じくらいダサくて、使う人間の言語感覚と頭の悪さを感じさせるが、この場合は他にいいようもないので、一流の美術研究者が歩くtrailを、一歩一歩確実に歩いている金沢百枝さんのような尊敬する以外に反応の持ちようもない人もいて、よく眼を開けてみれば、そうか、日本語人に生まれつけば、こんなふうに暮らしていけばいいのだな、と範例を示してくれているひとたちはいる。

愚かな人間が多数派なのは、人間の社会なので、世界中、どこに行ってもかわるはずはなくて、むかし、古代ギリシャ人たちが夢視た「賢者の国」なんて、あるわけないが、日本語社会では、愚かな人間が、干渉的で、攻撃的で、エラソーを極めていて、

コントロールフリークの愚か者が集団をなして普通に生活をしている人間にいちゃもんをつけて、あまつさえ冷笑までしてみせるのが日本語社会の住みにくい点で、簡単にいえば、江戸時代の農村の在り方から変わっていなくて、社会として、ものすごく遅れてるだけなんじゃないの、と捨て鉢に考えることもあります。

こういう違いは、面白いといえば面白くて、英語twitterであれば、ブロックされると、ありゃ、ブロックされてしまった、で、ついと離れるが、日本語ツイッタでは、ブロックは刃傷沙汰で、ブロックするなんて、失礼だ、ふざけるな、で、大暴れが始まって、殿、殿中でござるぞ、の声にも耳も貸さで、

びっくりするような言葉を使って憎悪をぶつけにくる人が、よくよく言い分を聞いてみると、自分が話したかったのに自分が判らない理由でブロックされたというだけの理由であったりする。

ブロックされた、悔しい、という感情がおおきいところから、もう不思議だが、

そこから憎悪がむくむくと頭をもたげて、あることないこと、口を極めて罵りはじめて、悪鬼のごとしで、見ているほうは、ああ、だからブロックしたんだな、われながら、とひとりごちることになる。

ふとしたときに、一瞬、恐ろしい横顔が見えてたのでしょう。

日本語社会を住みやすくするために、いますぐ、まず出来ることは、

「ほっておく」ことです。

何度も書いたので、またか、とおもうかも知れないが、

相手が嫌いでも、判らなくても、自分と異なってたまらないと感じても、取りあえずは、ほっておくのが文明の第一歩なのは、判りやすいとおもう。

自分で実見した例では「意見が異なる人間を集団中傷で潰すのは大学研究者に課せられた役割で、聖戦だ。すべての大学研究者が私に続くべきだ」と述べている人がいて、日本の大学人の程度の高さをおもわせるが、聞き合わせてみると、案の定、なんちゃって大学研究者だったが、それはそれとして、気に入らない相手でも、ほうっておいて、どうしても嫌なら、友だちに内々で愚痴っていればいいだけのことで、イギリスの社会などは、友だちというのは愚痴を聴かせるためにあるのではないかとおもうくらい、お互いに愚痴ってばかりいる。

あんなにストレスがおおきな社会で、そのうえに冬ともなれば人間が住める天候でもないのにも関わらず、イギリスの自殺率が、きょとんとするほど低いのは、

「内々で愚痴る」という国民的な才能によっているのではないかとマジメに考える。

もっとも、文化は社会の性格を反映しながら他の文明と袂を分かって、異なっていくもので、

例えば言論の問題がすぐに訴訟に結び付いて、弁護士と言論人がサイドバイサイドで、訴えあって、出る所に出て、シロクロはっきりさせようじゃねえかと、腕まくりするのは、だいぶん前から続く、現今のスー・ハッピー日本の知識人の特徴だが、

それはそれで、法律の世界に訴えないと、すっきりしない、という背景だかなんだかがあって、腕のいい弁護士を抱えたほうが言論を制する、「訴訟言論」みたいな、世にもユニークな、面白い文化が出来ていくのかも知れません。

経済は誰にとっても最重要事であるはずで、特に日本の場合は、経済の単調な低下の方向が決定づけられてしまえば、どういう状況を考えても、やはり、昔取った杵柄、戦争に向かう以外、実際、日本という国家が社会を通じて国民を養っていく方法はなさそうです。

ああいえば、こういう。

あの手この手で、軍備を拡大して、例えば特別会計のカーテンの向こうで、予算の中身をすり替えるなりなんなりして、日本政府は戦前から、その手の手品は得意で、巨大な軍事費をつくりあげていくだろうことは、「いつ」という時期の問題は別にして、第三世界入りをしてもヘラヘラしていられる平和な国民性ならともかく、むかしから攻撃性と好戦性で名を轟かせてきた国民なので、落ちぶれるくらいなら強盗になってやるで、むしろ自然のなりゆきと感じられる。

剣呑な「多数」の傍らで、日本のように、しつこく追いすがってまで相手を痛めつけようとする社会で、自分の人生を生きていこうとおもえば、巖谷式や金沢式、ほかにもいろいろあるかも知れなくても、基本は「攻撃的な愚者の集団を無視する」ことが肝要であるようです。

知らん顔をする。向こうは手練れの中傷屋なので、免許皆伝の嫌がらせを次から次に繰り出して、本人の信用がゼロになるまで風評を捏造して、知らん顔をさせまいとするが、

アホなおっちゃんに、も、もしかして、おっちゃんアホなのでわ、とでもほんとうのことを言おうものなら十年はつきまとって荒れ狂うので、幸い、「主語がおおきい」という噴飯物の「なにもしないための新たなアイデア」が流行っているので、もういまさらでもあるし、日本や日本語や日本社会の問題は、全部、「聖戦」のみなさんに任せて、自分が草原に見いだしたひとすじの小径を、見失わないように歩いていくしかなさそうです。

ぼく自身も、なにも日本語と付き合いを、まるきり断ってしまうことはない、という結論で、飽きてしまえば、是非もないが、もっかは、さあ、日本語の原っぱは、どっちにいけばいいんだろう、と見渡して、もっとも良さそうに見える「過去」に向かっているところです。

ツイッタ友のスコットランド人、いまはバンクーバーに住んでいるロウィナたちが興味を持ちだした源氏物語や枕草子は、あれは根底が政治的な理由が横たわっているからでしょう、趣がことなって、あんまり好きにはなれないが、和泉式部日記、紫式部日記、トンボ日記、冗談です、蜻蛉日記や更科日記、現実と仮構した物語のあいだを、往還して、夢かうつつか、

自分が虚構に住んでいるのか現実世界なのか、判然としない文章や、

日本の人なら、誰もが回帰していけるドアの向こうの広々とした草原ででもあるような万葉集から始まる、巨大な詩世界、日本語はびっくりするくらい豊穣で、向こう50年くらいは言語としてダメダメダメ、ダメダメダメと、単調に衰退していくでしょうが、未来においては、また古代から日本語のエネルギーが湧出して、現代日本語へと届くのに違いない、とおもってます。

初めから零細微力で、おまけにのっけから集団で組織的に伝達がブロックされていて、日本語社会に微かでも影響が持てるとおもったことはないが、ひとつの言語を習得した人間の恩返しとして、社会を健康に保って、ひとりひとりの日本語人が、どうするのがいいとおもったかは、自分では、十分、やれるだけのことはやったつもりなので、

この辺で、失礼して、左様で御座れば、で、踵を返して、過去の日本の美に向かって歩いて行こうとおもっています。

第一、好きなんだよね、過去。

日本語に限らず。

北海文明には北海文明の美と特異性があるが、はるか東の果ての日本文明にも、やはり美があるのは、いわずもがな、判っているので、これから訪問して、

過去の美しい日本語表現と、ゆっくりと話しあおうとおもってます。

観阿弥や世阿弥と

古代宮廷の、女の人たちと

木洩れ日が射して、花吹雪が舞う場所で

美しい日本語がある場所で

縦書きの美が佇んでいるところで

楽しみは、つきなさそうにおもえます。



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