日本語を再訪する

最近、日本語に近付きすぎではないか、とおもう。

もう十余年やっているので、日本語や日本語社会との距離を詰めすぎると、

自動警報が鳴るようになっていて、ここ数日は赤色灯が点滅しているような気がする。

このあいだも世界の犯罪のインフラストラクチャーが変わって、Dark Webに転換されつつあることを、ひょっとして日本の人は知らないのではないか、とおもう発言が新聞の「識者のコメント」に出ていたので、不安になって、「タマネギの世界」という記事を書いたが、考えてみると、日本の人が世界の変化を知っていても知らなくても、それこそ知ったことではないし、そのために「警告の記事」を書くなんて、余計なお世話以外の何ものでもない。

第一、「世界では常識になっているが日本の人だけが気が付かない〇〇」について書くことくらい、書くほうにとって退屈なことはないので、

自然、日本語も、やる気のない日本語になって、書いて、嫌な気持ちしか残らない。

ちょっと、こういうことは二度とやめよう、と考えたが、書いてしまうと、これを、もの好きな人しか読んでいないブログだといっても、置いて、誰もが帰ってきて読めるようにしておかないと、まるで、判っていて何もしなかったようで、あとで気分が悪いだろう、と考えて、渋々、公開しておくことになる。

そういう話の全体が、いかにも「日本語と付き合っているときの自分」で、日本語は言語として大好きでも、日本語と付き合っているときの自分は鬱陶しいと感じるので、なんとなく、気分が落ち込む。

他の言語に逃げてしまえばいいが、最近、ほいほいといなくなれないのは、

「何かが迫っている」ような気がしているからでしょう。

いままで、どんなことを述べて来たかというと、経済や政治にについては第二次安倍政権が出来たことから、何度も何度も「アベノミクスは見せかけの経済復活をめざす政策で絶対にうまくいかないどころか、いままで日本経済に回復力を与えていた財政基盤を破壊する」

「見返りを求めないで国富をばらまくような外交を続けていれば安全保障を危機に陥れることになる」で、

前者は、狂信的なアベノミクス信奉者の目にも、いかにもダメだったのが判って、後者は、勘がいい人にとっては、遠くの雷鳴のように聞こえ始めている、というところでしょう。

最も危惧というか、真剣に余計なお世話で、どうしても言わずにはおれない焦燥に陥ったのが、日本語の危機で、これは、なにしろ当の、その言語のみを使って思考する人がほとんどなのだから、当たり前だが、誰にも、ほとんど意識されないまま、これをまだメジャー言語に数えていいかどうか、ためらうくらい、局所性の強い、世界のたくさんのことが説明したり描写したり出来ない言語になって、「日本語が亡びるとき」という本があったが、正に、亡びてしまった、というしかない状態になっている。

言語の再建、というようなことは、もう無理で、長く日本語に、

世界の文化·知識の輸入と日本語自体の再生という利益をもたらしてきた、出島の役割を長くはたした翻訳文化を捨てて、英語と日本語の二本立ての国語にしていくしかなくなっていくでしょう。

ベンガル語やヒンドゥー語と英語を家庭内ですら自由に行き来するインドの人達のように、さっさとやってしまえればいいが、仮に出来なかったとすると、「自分でも訳がわからないのに国は低迷する」という事態の深みにはまっていく。

言葉が壊れているということは思考が壊れていることで、認識そのものが、ちょうど黄斑病で歪められた視覚のように歪んでいることになる。

なんだか、ほんとうでない世界が見えてしまう。

せめて、それを補正する程度には英語でものを考えられねばならないが、そうなると、長く続いた翻訳文化が邪魔で、ひどければ眼や耳から入ってくる英語を、いちいち日本語の語彙や構文になおさなければならなくて、

落ち着いて考えればわかるが、それでは英語で考える地点から、逆に、英語に接すれば接するほど遠くに後退してしまうことになる。

むかしは、こちら側にやってくる日本の人達を観ていて、頭がよく、聡明な、学校の成績がよい日本人ほど、いつまでたってもヘンテコリンな英語で

ヘンテコリンな考え方なので、不思議で仕方がなかったが、最近は、その楽屋事情が判っていて、つまりは、言葉にすると冗談じみているが、英語を勉強しすぎたのが理由なんですね、あれ。

普通の人間にとっては、最良の外国語習得法は、「いろいろやってみてるうちに身につく」というだけで、自分でスペイン語を身に付けようとした頃を考えると、たまたまということになるが、まずは歌で、スペイン語の曲が多いフランス人シンガー·ソングライターのArno Eliasや、スペインのMigue Boseを聴いているうちに歌詞を知りたくなって、語彙やフレーズが、ドッと頭に入ってきて、例えば、なんでolividameなの?というふうに語形変化が判らなかったりすると、文法を調べたりして、そういう不定形なスペイン語との接し方で、考えてみると、日本語のときと、そう変わらない。

「やってはいけない」方は、これは、はっきりしていて「和訳するのは極力避ける」で、これさえやらなければ、言語の習得は、案外、簡単です。

友だちを見ていても、言語の習得は「身につく」レベルまで68ヶ月で、日本語のように、飛びきり習得が難しい言語でも、1年内外の時間があれば、なんとかなっているようでした。

それも言語の習得は学問ではないので、闇雲に、遮二無二やって身について、「効率的な方法」は有意なほどには役に立たない。

だいたい自転車に乗ることを習得するくらいのもんだ、くらいの気持でいいのだと思います。

余計なことをいうと、スタートする年齢も、あんまり関係はなくて、「子供のときでないと身につかない」というが、もしかすると子供のときのほうが、やや有利かもしれなくても、ほとんど関係がなくて、おとなになってから始めて不利だという例は、少なくとも自分のまわりで見たことはない。

「脳の構造の違いから来ている」と、わざわざ画像付きで説明している本まで観たことがあるが、内輪では「日本人は模倣には巧みだが創造には向いていない」とオオマジメに説明する人が、いくらもいて、しかも御丁寧に画像付きで、

「器質的に日本人にはモノマネしか出来ない事は、ほら、この通り医科学によっても証明されている」と得々と「実証科学で証明された」論を述べる医者がいたりする社会に住んでいると、おお、なるほど、と言うほかに反応の示しようがない。

もう何度も説明したが英語世界では文豪のひとりに数えられるポーランド語圏ウクライナ出身の作家、ジョゼフ·コンラッドが生まれて初めて英語に接したのは船員時代の20歳すぎのことだったし、早い話が、最近では英語で書いたほうが、より多くの読者を得られると判断して、さっさと英語を習得して、英語でベストセラー作家になる人は、インド·パキスタン·アフリカ諸国には大勢居る。

何度書いても、ポッと頬が赤くなってしまう言葉だがやむを得ず使うと、処女作で、いきなりブッカー賞を取ったケララ人のArundhati Royなどは、日本でも知っている人が、たくさんいるはずです。

もっと余計なことを書くと、いつかtwitterで話していたら、ロンドンで学校生活を送る前はデリーで育った金沢百枝さんは、子供のときはヒンドゥー語を話せたそうで、いまはどうなのかと訊ねると、「もう忘れてしまった」と述べていて、これはぼくの日本語記憶と、ほぼ合致する。

多分、子供のときの言語は、おとなになってからの言語と「別の箱」のようなものに入っている気がします。

おとなになると、くだらない理論が、船底のフジツボのようにこびりついてしまうだけで、あんまり年齢論は、説得力がない。

言語は、なにしろ思考に使い、認識に深く関与するので、道具や乗り物のように扱うわけにはいかない。

「英語は道具だ」という人は、オショーバイやオベンキョーでは、それでいいのだとおもうが、英語は、身につかないで終わってしまった人です。

ちゃんとパーティでも談笑できるし、専門の学問について英語人と議論も出来るが、言語を習得する、最も快感なところは、見事に剥落している。

パロアルトの住人トニどん、Tony Chin @TonyChin は、英語と日本語と中国語のどれが母語で、どれが準母語なのか判らなくなっているが、

3つの人格があるように感じられて、それはそれで楽しい、というようなことを述べていたし、マルタ島生まれで台北に住んでいるイサオさん @IsaoKato も、中国語自我の「おいらの周りで宇宙はまわっているのよ」感がある中国語自我の楽しさについて述べていた。

日本語自体は、近代以降、主に翻訳者たちの努力で、言語としての論理性を確立して、極めて論理的で明晰でありうる言語なのは、哲人どん  哲学者の田村均先生、@chikurin_8thが書いた文章を読めば、簡単に了解できるが、

一方では、たいへんに感情的で、油断すると、好き嫌いや情緒に振りまわされやすい言語であると感じる。

むかしは日本語人格になりきって、楽しんだものだったが、なんだか戻ってこられなくて危ないというか、日本の人になってしまいそうで、怖い思いをしたので、それ以後は気を付けるようになった。

それがまた日本語に急接近してしまったのは、NHKのTVシリーズ「72時間」というドキュメンタリが面白くて、見狂ってしまって、秋田の蕎麦の自動販売機の無人の店で、吹雪のなかで、子供のときに、冬の夜、ひとりでここに来て、熱い蕎麦をすすっていると、なんだか人間の温かさが感じられて、それで来るようになりました、という女の人の言葉を聴いて、おいおい泣いていたりして、そこからいきなり「シェフは名探偵」だの「緊急取調室」だの、トレッドミルの上で、ドスドス走りながら、日本語ばかり見ていて、要するにテレビが面白かったからでした。

最近は、我に返ったので、twitterのタイムラインで、随分、話題になっている「鎌倉殿の13人」も頼朝が死んでから見ていないし、日本語から魂が幽体離脱して、英語とタッチ交代で、鏡をのぞきこんで、「げっ、ガイジンがいる。ヘンなの」とおもうこともなくなった。

日本語を書くにも、また、ちゃんとした距離がもどってきて、書きやすくなりそうです。

最近はまた、日本の人に伝えたい「おおきなお世話」が、たくさんある。

何年も繰り返した「そっちに行くと、こうなる」が残念なことに、すべて現実になってしまったのは、ずっと読んできてくれた人は、みんな目撃して知っていることだとおもいますが、現実は、そこでじっとしていてはくれなくて、次のフェーズへ入っていってしまったように見えます。

ほうっておけばいいんじゃないの?

と自分でも思うが、なんだか、それではいけないんじゃないの、人として、どうなの?という気も残っている。

Integrityとか、言っておきながら、自分は日本語世界に対してだけ適用しないでいいとおもってるのか、という、あの、例の、厄介な「良心の声」も聞こえてくる。

ええい、もう、やれるところまでやるしかないわ!

と捨て鉢なことを考えているのは、もちろん、日本語自分であるに違いありません。

そういう羞恥のある善意が、もともと好きで日本語を身に付けたんだものね。

是非もない。

もう、仕方がないようです。



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2 replies

  1. 「シェフは名探偵」みましたか!
    監督の瀧悠輔さんの近作は、他にもいくつか面白いのがあって、「大豆田とわ子と3人の元夫」は大人気でした。そしてBSだったのであまり話題にならなかったのですが「ナイルパーチの女子会」は最後まで目が離せませんでした。内容も日本でしかあり得ない筋書きでゾっとします。いろいろな意味でオススメです。また日本語に寄り道したくなったら是非。

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