海は嵐つづきで大時化(しけ)、陸はCOVIDの大逆襲で、毎日死者数が更新されるありさまで、この一月あまりは、MacBookを手に家のなかをうろうろしては、ゴロゴロして、あちこちのSNSに遊びに行ったり、レシピサイトでおもしろいレシピを発見してはキッチンでつくってみたりしていた。
日本語twitterも、最近はアホな人が来なくなって、このあいだは、あれはどうして、あの話題にからむ人は、ああいう程度が悪い人がおおいのか、トランスジェンダー問題専門家3バカトリオみたいな人たちが来て、タイムラインの内外で失笑されていたが、そのくらいのもので、あとはこちらが学ぶ事のほうが多い古い友人が大半になったので、楽しくて、つい、うかうかと、他のことをやっていた手を止めて、四方山話に耽ってしまうが、さすがに飽きてきて、
早く海が数日つづけて静かな週が来ないかなあ、コロナ早くなくなれよな、と願っている。
BAMO、と言う。
Block and move on.
さっさとブロックして先に進む
abbreviationがあるくらいで、英語ではSNSの使い方のひとつになって定着しているが、twitterもむかしとは、ずいぶん様相が変わって、知らない人の意見を聞く、というスタイルは英語ではほぼ消滅してしまっている。
著名な人間が拡声器の代わりにする。
友だち同士が、集まって、ガヤガヤと四方山話をする。
こんなのあったよ、と見つけてきた面白いツイートや動画、画像をRTやQTで見せっこする。
日本語では使われ方が、もっとシリアスで、自民党と統一教会の癒着や、トランスジェンダーsheは男なのか女なのか、ロシアのウクライナ侵攻の現状はどうなのか、なんだか深刻な話が交わされているけれども、これは、多分、
他に真剣に話を出来る場所がないことに起因しているのでしょう。
体制のほうから見れば、なんのことはない、外の通りになんか、ありとあらゆる屁理窟をこねて、出てくるわけがない安全至極な国民のガス抜きの場で、ちゃんと「こちら側」の電通も看守に立ててあるので、政府もハッピー、国民もハッピーで、twitterは大事な統治手段として、ちゃんと機能している。
見ていると、だいたいにおいて、「ちゃん文化」と「はてな文化」が支配していて、発言している人の顔ぶれも、よく見てみると、2chやはてなでおなじみの人々で、折角匿名で、いじめに耽っていたのにばれて、実名で居直って、今度は学究だということにして、「勉強がたりーん」をしている人や、
いろいろ一家言ある大学教師やバイト大学講師がリード役なところが、いかにもアカデミアと聞くと、おもわず柏手を打ってしまう日本語社会らしいが、よく考えてみると、なにしろ世紀をまたいで、おなじことをやっている人達なので、50代も後半のおっちゃんが多かったりして、それが「ちゃん文化」で身に付けた語調で「はい論破www」とかやっているので、
高校生の声音で、「いらっしゃいませー」と妙に胸を強調した制服の人のほうをみると、70代くらいの人で、なにがなし、微妙な気持ちになるときの気分に似ている。
もともとtwitterはソフトウエアデザイン、サーバーシステム、共に不備で、ジャック・ドーシーそのひとにtwitterという名前でわかるとおり、軽いおしゃべりの場としてつくったのに、なんだって、こんなことになったんだ、という戸惑いがあったようだけれども、やっと英語では本来のtwitterの使われ方になったのだとも言えるようです。
英語では、と、書いているが、よく知られていることだとはおもうが、LINEにつぐ4500万人がtwitterを使っている日本語社会は、SNSの世界では、とても変わったマーケットです。
世界で、ということで、上からめぼしいSNSを並べていくと、
Facebook (25億人)
Youtube (20億人)
WhatsApp (15億人)
WeChat (11億6500万人)
Instagram (10億人)
TikTok (8億人)
で、もう、この下はLinkedInになってしまうので、「主要な」という嫌な言葉をかぶせて考えると、だいたいこのくらいがめぼしいSNSということになりそうで、ネットの世界では常識として犯罪的な存在であるFacebookは、
「公の顔」で、いわば家の門柱にかかっている表札なので、使っているといっても、名刺を出版部数に数えているようなもので、例えば、アメリカでは、
Facebookの「パスワード」を教えろと就職面接で要求されることが問題になったりして、簡単にいえば、自分がいかに純良ないい子ちゃん市民であるかのデモンストレーションの場になっているので、他のSNSと並べるのは適切ではないかも知れません。
Lineは、他のSNSと異なって自分で使ったことがないので、なんとも使っている人のイメージが掴みにくいが、印象は「アジアSNS」で、
日本、インドネシア、台湾、タイランドちゅうようなところで使われている印象があります。
上に並べたSNSのなかで、最も重要なものに育っていきそうなのは、Youtubeで、グーグルらしいというか、ビジネスモデルも、システムも、たゆまず改良されていて、いつのまにか自分のまわりを見回してもSNSに興味を持つ人で普遍価値をもつなにごとかを創ろうとする人は、みんなYoutubeをプラットフォームに選ぶようになってきた。
レシピ、どうやって手作りの小屋の梁をあげるか、ボートのエンジンのメンテナンスのやりかた、マウンテンバイクの改造、…のようなhow toは、書籍は大打撃で、少なくとも英語で暮らす人は、Youtubeで、なんでんかんでん教われてしまうのに加えて、短編ドキュメンタリもあれば、チョー有名なJonna Jintonのように質がやたらと高いvlogのプラットフォームとして使っている人もいる
ひところ流行ったバカっぽいyoutuberは、おおむねTikTokに移行しているように見えて、実際、手軽にビデオを公開できるTikTokは、どこの国でも忙しい若い世代に人気があるようです。
ではtwitterは、問題にならないSNSかというと、そうでもなくて、日本語以外では有名企業や機関、著名な人間が、statementを発表するのに使われる。
このtwitterの拡散力の強さは、いつも有名人のtweetに目を光らせているマスメディアと作っている構造のせいもあって、いまでもたいへんなものなのは、Trumpの例でも明らかでしょう。
自分の周りの若い人たちを見ていると、だんだんSNSから離れていく傾向が見てとれる。
一昨日(11/8/2022)だったか、Netflixの人気ドラマシリーズの「Eleven」役で、若い人たちの圧倒的な共感を獲得したMillie Bobby Brownが、インタビューのなかで、事務所がプロモーション用に管理しているアカウントを除いてSNSのアカウントを削除したことを明かして、大ニュースになってネットを駆けめぐっていたが、その理由は、
「まだ成長途上で、vulnerableな自分にとっては、他人の悪意やアドバイスはネガティブな影響が強すぎて自分のためにならない」というものだった。
若い人たちがSNSから次次に離れていく理由が、正に、これで、
「自分の人間形成のうえでマイナスしかない」という判断であるようで、
ときどき、背筋を伸ばして、衿を正す感じで「ガメ、どうおもう?」と聞かれるが、
ぼくは正しいとおもう。自分をビルドアップすることに専念したほうがいいよね。
ほんで、そのためには他人の意見なんて有害なだけでしょう、と答えることにしています。
おもしろいのは、さきほどのMillie Bobby Brownが、そのひとりだが、若い人たちはテキストブログという、最も原初的な表現方法に帰りつつある。
ひとつには、いつか説明したようにDeepfakeが技術的に高く、アクセスが簡便になりすぎて、人間の視覚や聴覚は無批判に受容してしまう世界認識の特性上、信用するのが危険になってきたこと、書く側にも受け取る側にも、訓練と能力の高みが必要ではあっても、テキストは、細大洩らさず、あますところなく自分の考えを伝えられて、AIに欺かれる余地が極端に小さいこと、ちょっと大袈裟にいえば「人間でいるためには言葉に拠るしかない」ことを思い知らされる世の中になっていること、が理由でしょう。
Millie Bobby Brownの選択は自分が個人として主宰しているブログの場だけで、ファンと直截交流する、というものでした。
英語世界でみていると、若い人達については「暇つぶしにネットを見る」という習慣は消滅していて、ほとんどニュースとリファレンス、あとはNetflixのような「番組の放送開始時間を待たなくてもいいテレビコンテンツ」だけに絞られている。
MMOもユーザ数だけでみると事情は異なって見えても、実社会の核をなす若い人にしぼって見ると、急激といっていい衰退ぶりで、理由を尋ねてみると、
「現実の世界とおなじような人間関係がネットでも出来てしまうだけで鬱陶しい」という、これも、判りやすい理由でした。
ネットには、見なくてもよかったものを見せられてしまったり、現実の生活なら、関わりにならなくてすむような失礼な人間に出くわしてしまう、おおきなマイナス面があって、時間と感情のムダなので、自分が他の人に対して発信側として価値を持つまでは、なるべく関わりにならないほうがいい、という合理的判断があるようです。
ネットディバイドが、ネットを使いこなす人対使いこなせない人という意味から、ネットと意志的距離をつくれる人対ネットに溺れる人、という意味に変わってしまったような、面白い展開だが、つまりは、ネットも歴史をつみかさねて、ふつうの生活の風景になった、ということなのかも知れません。
Block and move on.
くだらない人間や発言に付き合っている暇はないのでブロックして、先に進む、というところから、英語社会の現実は、もう少し冷淡になっていて、
例えば、UKやNZでは、ちらと見て、自分に益をもたらさないようなemailにはNOの返信もしないのが通常になってきた。
Twitterのブロックの使い方も、目についたtweetが、あんまり自分が二度と目にしたくないようなものだと、いきなりブロックして、こっちに来ないで、別の道を行ってね、に変わってきたようです。
日本語twitterだとブロックされると感情的になって、しばらく相手を罵りつづける人が多いが、twitterのブロックに、そんな大仰な意味はなくて、
「ここからは別の道を行こうね」程度であることが殆どでしょう。
理解しあえそうな、まだ言葉を交わしたことがない人が、信じられないような数でSNSの海のなかには眠っている一方で、現実の世界でもおなじだが、
なんだか少し齟齬を感じるような、説明しても、うまくは判ってくれない人と、いつまでも言葉を交わしていることには、意味がない。
日本語の人は全く違う意見が多くて、「意見が異なる人ほど、徹底的に話しあって判りあうべきだ」という人がマジョリティなのは知っているが、それは極く限られた人間としか邂逅できなかった時代の理窟で、そんな悠長な夢を見ているあいだに、どんどん通り過ぎていってしまう、「まだ会ったことがない親友」を見失ってしまうことのほうは、では、そういう人は、どうおもっているのか。
堂々巡りをしている暇はない、という「全ての人生には終わりがある」
「今日一日という日は、いちどしかない」ちゅうようなことを、若い人から教わるのでは、アベコベもいいところだが、
叡知は若い人のものでも使え、という。
いや、ほんとは、言わなくて、いまでっちあげただけなんだけどね。
ネットでも現実でも、やっぱり、ダメな人はダメで、
付き合ってもいいことなかったよね、とおもってます。
日本語ツイッタ。
ちょー面白くて、好きだけど。
Categories: 記事
とても素晴らしい記事でした。
ガメさんの記事はそれぞれの国や世界の視点と日本がいかにズレていたり、
ものによってはただただ幼稚ということを痛感させてくれます。
思い違いかもしれませんが、
日本人は本音を言えない生き方を強いられ続けて育ってきた人が大半で、ずっと自己否定を周りからも自分からも、し続けていると思います。
だからこそブロックされると明確に自己否定、あるいは存在すらも否定された気持ちになって、ぎゃあぎゃあと叫んでしまう。
自分のことを「私はそんな人間じゃない」となんとか主張しようと騒ぎ始めるのかな、と。
なんとも寂しいコミュニケーションだなと思います。
私は海外のBAMOも、SNSをやめてリアルなコミュニケーションだけに集中することも、とても良いと思うのです。
でも日本人同士になると、そのどちらもが歪んでしまうことが悲しい。
もし会話するための日本語が、「はい」「いいえ」のYES o NOから始まるものだったとしたら、こんなにも寂しいコミュニケーションにはならなかったのではないか?と、時々想像してしまいます。
この記事を読めてよかったです。
再掲ありがとうございました!