日本語には文系理系というヘンテコリンな区別がある、と、むかし書いたら、どうして、お前は、そんなことにまでケチをつけるんだ、そんなに嫌いなら日本語を書くな、という人が複数あらわれて、ぶっくらこいたことがあったが、いまは普通に区別がヘンテコリンだとおもう人も増えたようです。
あんまり指摘されないが、文系理系と分けてしまうことの実害は、もうだいぶん前から出ていて、例を挙げると、日本の「経済学者」が「文学部経済科」などと揶揄されるのは、微分方程式すら使いこなせない「経済学者」が多いからで、これは傍でみていても、なんだか心理学者みたいなことを言っていて、無理もない気がする。
実際、日本からやってきた秀才留学生のなかには数学がどうしてもダメで
HBSで落第の憂き目を見る人もいるようです。
一方では、特に統計に強い「理系」の人は、統計知識を悪用して、説得力の代わりにして、経済や、日本の医師って、どうなってるんだ?プライドないの?とおもわせるパンデミックを対象に、当たるも八卦、当たらぬも八卦の占い商売を始める人もいて、世界の「先進国」のなかで、ゆいいつ、ド素人のアドバイスを信じて、家計や自分の生命を賭ける、すごいことになっている。
あれはね。
日本の「理系」の人が品性などは、ぜんぶ人文系の負担ということにして、どっかに置いてきちゃっる人も多いからで、その結果、周囲から受け入れられないのを根にもっちゃったりして、どうも、たいへんなことになっているように見えます。
お温習いをすると、日本語は危機的な状況を通り越して、瓦解が始まっている。
それこそ、「理系」の人には判りやすいが、人間の認識というものは、容易に欺かれるもので、いったん、ひとつの角度から「こう」と見え出すと、もう他の見方が出来なくなる、というのは、長いあいだ盤石だった天動説理論や、あるいは社会ならば、あんな世界中が口あんぐりのデタラメをやっていて、本人たちはオオマジメにアジアの解放のためだと信じて、中国大陸で女のひとたちを追い回して熱心に集団強姦に耽ったり、あるいは巨大な要塞じみた建物を建造して、その真ん中の、外からは絶対に見えない棟で、京都大学医学部や東京大学医学部の「秀才」たちが、生きたまま中国の人を解剖したり、寒空の下で、裸にして、でかい扇風機をまわして、「マイナス2℃でも、二時間冷風にさらしておくと、足指が凍傷で黒くなってもげますね。
いやあ、この学問データはすごい」なんてやっていた。
挙げ句のはては、聖戦だとかで、悲愴な面持ちで、遙々ガダルカナルまで出かけて、15000人だかの若い人が餓死する。
それだけの無茶苦茶をやって、しかも、それでも自分たちは正しかった、と信じたのが、満洲経済の立案者岸信介であり、日本を戦前からの一貫性に引き戻した、孫の安倍晋三でした。
前にも述べたが日本語はtwitter王国です。
たしか1位のアメリカが4900万人で日本の3700万人が2位、ちゅうようなことだったとおもうが、内容を検討すると、アメリカの場合は、使い方がほぼ企業や機関、有名人たちの周知に向かっていて、周りで毎日観察しているマスメディアがニュースになりそうなtweetがあると、わっと飛びつく、という形になっている。
残りは、例えばアフリカンアメリカの文学について紹介しあう、という程度のサイズのコミュティで、これは、ちょっとむかしの「ちゃん文化」の目立たないスレッドと行き方が似ているかもしれません。
日本のtwitterのおおきな特徴は、「議論の場」を目指したことで、ところが、これが惨憺たる状態に陥ってしまっている。
Twitter党派とでも呼ぶべき人間のネットワークを築いて、党勢拡大に邁進して、目障りな他人は誹謗中傷を武器に蹴落としていく。
ネトウヨと呼ばれる人たちや、オタク族の手法だったのが、自称左翼や進歩派にも伝染して、編集者や出版社を巻き込んで、テレビにも進出するのは、もうすぐでしょう。
よく名前を知らなくて困るが、太田ヒカル、やマツコ、みたいな名前の、よくtwitterで「さん」づけで敬意を込めて呼ばれる「御意見番タレント」の前で、したり顔で「現代社会」を解説する、うーんと、日本の人の好みからするとアカデミアを背景にしたtwitter有名人、というような図式が、眼に見えるようです。
一方で、なるほど紙面や報道タイトルを見ると、いま日本でずいぶん話題になっているムーニーズについての言及が不自然に少ない朝日新聞やNHKが、ガンガン口を極めて非難されているが、自分たちがつくっている国の報道機関である以上、実は「朝日新聞」をまるごと非難したり「NHKをつぶせ」と述べたりするのは、自分の腕をへし折り、コンクリートの壁におもいきり頭突きを食らわせているのと変わらない行動で、では、どうすればいいかというと、こういうときこそ日本の人に顕著な思考傾向の「相手の内部事情を考える」習慣を発揮すればいい。
例えば朝日新聞の記事を、パッと見てわかるのは、すぐれた記事にオバカな見出しがついている例がたいへん多いことで、そこから判ることは、現場の記者がジャーナリストたらんとしているのに、それを管理する側に、かなりの問題が発生している。
NHKでいえば、東スポのほうが信頼性が高そうな報道番組の傍らで、世界的な水準にある、調査を重ねて足で稼いだドキュメンタリ番組がある。
だから、もう少し的を小さくして、自分たちが信頼できるジャーナリズムを育てていかなければダメですね。
もっと具体的にいえば、前にも何度も述べたように、「朝日新聞によれば」ではなくて、「朝日新聞の〇〇記者が書いていた記事では」と、受け手の側がひとりひとりの記者の名前を記憶するように努力することから、おおげさではなくて、民主社会としての日本の歴史は始まるのだとおもってます。
個人の側からすれば、しかし、いまの時点まで来てしまうと、やれることは、そのくらいでしょう。
Twitterでいえば、最近の顕著な傾向は、およそ価値があるような意見や情報はDMに集中している。
友だちでいえば、だんだんメルヘン世界のドアを開けて木洩れ日のなかに彷徨いでる雰囲気になってきた「森の人」巖谷さんや、ほんとうは眼が据わった剣客のような、抜き身の妖刀のようなところがある一色登希彦さんは、公開で意見を述べることを気にも留めていないが、あとは、フォローの関係とは別に、著名な人は特にDMで突然話しかけてくることが珍しくなくなった。
DMを公開してしまう人は、よっぽど倫理が崩壊している人なので、つまり非公開で意見を尋ねられているのでしょう。
数年前まではDMなど、「そういう機能も付いてるんだ」くらいにしか考えていなかったことをおもうと、隔世の感があって、それだけ日本のネット言論がダークサイドに落ちてしまったことを示している。
Twitterの変容で、最も割を食っているのは、「知」を求めてアカウントをつくっている、参加者で、「ちゃん文化」や「はてな文化」に中身が取って代わられた日本語twitterでは、自分たちより一次元上の知に触れることもかなわなくなってしまった。
実際、旧態依然の「ネット論客」以外は、日本語のtwitterもまた、英語に倣って一個の巨大TVコマーシャル装置のようになっていくでしょう。
いま、ようやく「SNSっぽく面白いひとたち」があらわれて、背景になっている「ちゃん文化」から、ぞろぞろとついてきた、上限を数万フォロワーとするアカウントの「ネット有名人」とは別の世界で、あっというまに、十万、二十万というフォロワーを獲得しているが、あれも、比較的短期で色褪せて、
催しやパフォーマンスの周知、講演のお知らせ、出版のお報せ、が並ぶようになっていく。
案外、それがやはりtwitterの本来の姿であり、限界なのかもしれません。
自分の使い方を話さないで観察ばかり述べるのは狡いので、自分では、どうしているかというと、youtubeが主なプラットフォームということになるようです。言語は、なにしろひとりでくっちゃべっていても、根が退屈な人間なので、他の人の登場も必要としていて、そういう事情から英語になってしまう。
その次になると、もう記事を書いたり本の出版とかで、こっちも気安さの関係から英語。
スペイン語でも書くが、いまは英語に興味が回帰してきたので、自分の家に帰るというか、まあ、やっぱり居心地がいちばんいいよね、とリラックスしはじめたところです。
別に、はっきり言ってしまえば、エラソーだが、そういうことでオカネを稼ぐ必要があるわけではないので、なんだかテキトーで、それが返っていいほうに働いているのかもしれません。
いまはtwitterはおろか、ネットの外での友だちになっている日本語人もたくさんいて、例えば、そのなかのひとり、イルリメ、鴨田潤さん、
フルネームで呼ぶと、なんだかヘンですね、
潤さんと「twitterは、こんな使い方も出来るんだぜい」ということになって、
ほんとは潤さんは、早くからtwitterに見切りをつけて、かつてのフォロワーが多かったアカウントは、さっさと閉じてしまっているんだけど、音楽の「さらうんど」のアカウントを使って、室町時代の「連歌」にならって「連詩」を、ふたりでライブで書いて、遊びはじめている。
やってみると、やっぱり「ものをつくる」友だちは、日本語でもいいなあ、というか、潤さんは、音楽CD、詩集、なんでも表現の場に使って表現欲を満たしてしまう人で、そのうえ、すんごくセンスのいい絵まで描く。
承認欲求はゼロに近い、表現欲だけが充満している、日本語では珍しい呼吸するようにクリエイトしつづける人で、英語人のそういう種族とおなじで、
前置きも計画もなくて、さっと起ち上がって「ガメさん、やろう」の人です。
とても気楽で、英語では慣れているはずなのに、そうか日本語でもおなじでいいんだ、と、ものすごくマヌケなことを考える。
やっぱり言語は深いところで影響するようです。
その社会のなかで暮らしている人びとには、また、たいへんなことがあるのだろうけど、こちらから見ていると、日本は案外問題が少ない社会で、踏み込んでみると、いつも述べるように慢性病が限界値に達しているようにも見えるけど、正直に言って、もう「日本社会」の感覚がつかめなくなっているので、十年以上日本語をやって、おおぜい出来た、ぼくなんかより遙かにすぐれた友だちたちと邂逅できたことを喜んで、まあ、なんにも達成できなかったけど、別になんだかの言語をやって、言語別にいちいち達成する必要もないので、このまま、のんびり楽しく行きたい、とおもってます。
この一ヶ月半は特に、実は、海が大時化で、ときどき半日だけ時化がおさまっても、また陸地から遠いほうは嵐に戻るので、エンジンテストでもあるまいし、まさか陸から見えるところを行ったり来たりして、しおしおと帰港するわけにもいかないので、日本語をアップデイトすることにして、おもいっきり日本語に浸かって、あまつさえ、日本語の本まで読んでしまった。
これもなんども繰り返したが、やろうとおもえば、いくらでも美しい表現ができる、日本語は、本来は美しい、質が高い言語で、使っているだけで刺激的で、楽しいが、先週、近所の友だちと話していて、コロナの話題で、つい、「日本では…」と述べかけたら、吹き出されてしまって、この人は、知り合いには珍しく、ぼくが日本語を少しは判る事を知っているので、おい、ジェームズ、なぜそこで日本が出てくるんだ、日本語に浸りすぎたんじゃない?と言われてしまった。
考え方も、そうなると、だいぶん日本語に影響されているはずで、ちょっと、やりすぎたようです。
いくら役柄が上手でも、役になりきって、ドーランを塗ったまま生活するわけにはいかない。
別に、どこにも行かないので、また日本語でも会えるけどね。
また、会おうね。
日本語で
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