これからの5年

日本政府が発行するマイナンバーカードの問題点を台湾のオードリー·タンが指摘している。

情報時代の民主社会の要点は、国から国民の情報が見えず、国民からは国の情報が見えることだが、マイナンバーカードが目指しているのは、これの逆で、民主社会を破壊する。

なんだか頭がはっきりしない人が増えた日本の政府なので、十分に自覚的に行っているのかどうかは判らないが、マイナンバーカードの究極の目的は、要するにそういうことで、アメリカに作らされてしまった民主社会を、意見をまとめたり、宥めたり、脅したりして運営しているのがまどろっこしくなったので、民主機能に止めを刺そう、ということでしょう。

で、日本の人は、自分が持っている自由と権利について、一般に迂闊でのんびりなので、政府の目論見は見事奏功して、あちゃあー、自由、なくなっちたじゃん、になるとおもわれる。

自分の自由が侵害されたり権力に足蹴にされても、にっこり笑って、気の利いた冗談のひとつも言ってみせるのが「日本人の美徳」なので、ここからさき、たいした抵抗もないのではなかろうか。

せいぜい、「わたしは反対だ」と日本語社会のガス抜き装置、twitterの暗い穴に向かって叫ぶくらいのことで、根気よくツイートしていれば、王様の耳はロバの耳、そのうちにtwitterのタイムラインから生えた葦が、「マイナンバーカード、はんたーい」と風に揺れながら叫んでくれるかもしれません。

しかし、それで自由が失われて、国民全員が塗炭の苦しみに陥るかというと、多分、そんなことは起こらなくて、個人情報が、モロバレにバレたなりに、まあ、いいか、になって、一日一日を過ごしていく。

戸籍とおなじことで、家庭内暴力に苦しんで社会のなかを逃げ回るように暮らしている女の人や、日本語しか話せないのにフィリピンに送還される高校生のような立場が弱いひとびとが地獄に突き落とされるくらいで、そのくらいのことは、日本の人は

「見なかった」ことにする天賦の才能があるので、案外と穏やかな日常が続いていく。

外を見渡すと、つい一年前は、あれ、おかしいんじゃない?

習近平は実際に武力侵攻を考えているんじゃないかしら、と誰かがいうと

楽しそうに、けらけらと笑って、

「そんなことあるわけないじゃないですか。怖がりすぎですよ」と述べられていた中国の台湾侵攻が、その「嫌な事は絶対に起こらないからダイジョブ」民族の日本の人でさえ、不安を顔にあらわして、ifではなくwhenと述べはじめている。

この記事を書いている、いまは、2022年10月29日土曜日で、上陸に適した天候を考えると人民解放軍が上陸する最も早いタイミングは、党大会までに習近平が絶対権力を確立できなかった場合にはありえなくはない、2022年10月だったが、蓋を開けてみれば、世界中がびっくりするほどの容赦ない独裁政権で、そうなると、上陸戦力に不安のある中国としては、次の天候機会の、えーと、4月だったかな、でも早くて、もっかは最も可能性が高いのは2024年の10月だということになっている。

もともと人民解放軍が策定した2027年のほうが良さそうなものだが、

プーチンが妄想に駆られるようにしてウクライナに攻め込んだので、

西側諸国が、欧州に気を取られているうちのほうがいい、というメリットがあって、足したり引いたりして、2024年がいいのではないか、ということになっているようです。

ただし習近平が、プーチンの旗色が悪いなんてものではないウクライナ侵略戦争が2024年まで持たない、と判断した場合には無理矢理、前倒しにして、来年、という筋書きになるのでしょう。

プーチンのウクライナ侵攻は、寝耳に水で、ある朝起きてみたらロシア地上軍の侵攻が始まっていた、という、サプライズアタックで、つまりは失敗したブリッツクリークだったが、人民解放軍の台湾侵攻は、現在の中国共産党の盤石の状況では、多分、何ヶ月も前から誰の眼にも歴然とした侵攻準備を前段とするはずです。

だから、党大会以前と異なって、侵攻時期の予想を立てる意味がない。

なんでもかんでも、「これはいずれこうなる」と述べると、明日世界が終わるとでもいうように慌てふためいて、次の日一日なにも起こらないと、

「今日、世界が終わらなかったじゃないか、この嘘つきめが」と荒れ狂う、おもろいひとびとがいるものだが、2024年でも2027年でも、もう準備期間が短すぎて可能性はないに等しいが今年の年内であってさえも、同じ事で、大事なのは、「武力侵攻が、ほぼ避けられなくなった」という事態の方向のほうです。

香港を「もういらない街だ」と述べて踏みつぶして、台湾に武力侵攻することを、ほぼ決めた習近平だが、その次の日本に侵攻するかというと、それは多分やらないでしょう。

中国の人と話すと、「だって台湾て、もともと中国だもん」と、ふつーに考えている。

香港やマカオや尖閣諸島とおなじで「返してもらう土地」であって、係争中の土地、という意識もない。

習近平の強硬な姿勢は、民主社会でないとはいっても、「台湾はもともと中国」とごく自然に考えている国民の気分に支えられているので、それが日本になると、やはり「外国」で、なにもそこまでやらんでも、と考える。

太平洋に出て行くには日本というアメリカの巨大要塞が邪魔なのは確かなので、外交と最悪の最悪の最悪の場合ミサイル攻撃で無力化する方向へ行くとおもわれる。

でも、それはまだ先のことです。

台湾に武力侵攻されても日本は南西諸島を占領されるくらいのことでは、なかろーか、と考えられている。

その次の段階でも沖縄が破壊されるくらいが限度であると見積もられているらしい。

毎度毎度破壊される沖縄の人はたまらないが、そういうときに日本政府が、沖縄人を本気で救うために起ち上がるとは、到底、おもえません。

小国であったり大国であったり、先進国であったり発展途上国であったり衰退途上国であったりするのは、情報社会で、その上、ふらっと、どこにでも行ってしまえる21世紀では、どうでもいいことだが、

日本の近い将来で困るのは、なんでんかんでん個々の国民に背負わせる国づくりを指向していることで、マイナンバーカードに唐突な感じで熱心になっているのは、つまりは、国民にすべての困難を押しつけるための切り札だからです。

国のほうからすると、「だって、そうしないと政府が生きていかれないんだもん」ということでしょう。

日本の政治は「国体」という気分としてだけ存在して実体のない明治の亡霊のような考えに無意識のうちに取り憑かれているのが特徴だが、この「国体」は、もともとは要は「天皇」のことだった。

海ゆかば水漬く屍

山ゆかば草むす屍

大君の辺にこそ死なめ

かへりみはせじ

国が亡びる、と言うときに、その「国」に為政者のイメージとして、ひとりひとりの国民が含まれていないところに日本という国の特徴があります。

年金保険料が良い例の税金と名前がつかない徴収や、小麦粉や、かつてのチーズに典型的な国民が払っていることを意識できない仕組みの「ステルス税」を合算すると、北欧なみに高い(広義の)税金は、さらにあがって五公五民から七公三民くらいまでは、しぼりあげないと、国の経営ができない。

日本は公共事業ひとつとっても、発注者から施行者までのあいだに、紹介する人のポケット、中抜きする人のポケット、下請けに発注する人のポケットと、いくつものポケットがあって、おまけに最近では、他国に

「なんで、そんなシステムなの?」と訝られている派遣の中抜きまであって、なにしろ、なにをするにもオカネが他国の場合の数倍かかるのは、二回目の東京オリンピックや福島第一事故処理を見れば一目瞭然でしょう。

イメージをつかみやすくするために言えば「元電通役員·社員」ちゅうような人たちが、容赦なく、ばんばん国民の税金由来のオカネをポッケにいれて、残り滓で事業が進んでいく。

政府の役割は、オリンピックのようなイベントや、近隣諸国の脅威や、いろいろ理由を考えて、政府の周囲にいる起業やお友達のひとびとに「オカネをぬく」機会を与え続けることが最重要なのは、日本の人以外は、どこの国のひとでも知っている。

で、あとは「日本ほど住みやすい国はない。よかったよかった」と情宣しておけば、ひとのいい日本の人は、ごくニコニコして、喜んで住んでいてくれます。

税金をあげたら、途端にゴソッと1割も他国に移住してしまったニュージーランド人とは、比較にならないのだと言われている。

これはこれで気が向いたら別立てで記事を書こうとおもっていますが、日本は経済の再生が望めなくなった国です。

過去の繁栄レベルでいうと70年代の水準を取り戻すのも、もう無理でしょう。

よその国に移ってしまう、という手は、ずっと前から具体的方法を述べてきたように、当然、悪い考えではないのだけど、COVIDの怪我の功名で、

特に移住を考えなくても、収入ソースを外国通貨で持てば、日本が零落するほど本人はウハウハで暮らせる、ということはありうる。

「他の国もやってるでしょ」と述べながら、他の国とは全く異なるintentionでマイナンバーカードを普及させようとしたり、中抜きを温存するために高税になったりすると、楽しく暮らせないが、つまり、そこさえなんとかして、

個人のまったき自由、とか、別にそこまで欲しいとおもっていませんから、で、幸福に暮らせなくはない。

いま嫌韓で、起きてすぐ天井を見つめて「韓国の野郎、許せねえ」とおもうタイプの人は、中国は、ねちこい外交の国で、日本の人の神経を逆なでしまくるのは判り切っているので、ストレスは増えるが、決定的な戦争ということでいえば、少なくとも地上軍が侵攻してくることはないでしょうから、

ただの市井の人としては「考えたくないから考えない」ですんでしまいそうです。

一方で、日本は文化の国です。

詩人人口が世界一なのは断然日本であるのを知っているでしょう?

俳句や短歌と名付けられた短詩を自分で毎日創作することが普通に行われている。

初め、この事実を聞かされると、日本人以外の人は、そ、そんなバカな、と例外なく呟くが、驚いたか庫之助、ほんとうなんですね、これが。

そのうえに、自分でマンガを描く人が五万と、は誇張表現の筈なのに、実数で5万以上もいて、ああいう絵柄はぼくの趣味ではないが、そんなことはどうでもいいので、時間があれば、ひたすら絵を描いている。

メキシコにも欧州にも質が高い文化が生活のすぐ身近にある社会はいくらでもあるが、日本の人にとって「おいしい水」でありうる文化が満ちている環境は日本にしかなさそうなので、その点で移住第一世代として他国へ渡って「幸福」でいるのは難しいかもしれません。

だから工夫して、強い意志を持って、全体主義でのみつくそうとする日本語社会の傾向に抗って、自分という最良の友だちを幸福にしよう、おれは社会の側からの視線のなかで暮らすなんて、まっぴらご免だ、と自分に言い聞かせながら生きてゆくのがよさそうです。

そういう「幸福な個人がたくさんいる日本」になってゆくには、いままで観察したところでは

「他人のことは放っておく」習慣を身に付けることが、まず、いちばん大事かな?

日本の人は、これが、ほんとうに苦手で、日本人同士、不愉快な生活になってしまっているのは、たいてい、これが理由であることが多いように見えました。

次には「政治や社会よりも自分の生活に親切にして興味を持つ」ことで、

そのためには、自分の生活も持たずに政府がどーの社会がこーのと言いたがる人間を心底軽蔑するド現実主義者集団、英語人の態度から学ぶのもよいかもしれません。

Practicalである、ということが、だって、あらゆることにおいての、そもそもの前提でしょう?

現実から離れた教条などは自分が社会を担う当事者ではない、オコドモさんか、与太者だけが言語化して口にする

と考えるのは、だんだんほんとうに実効性のある言論が必要になってきた切羽詰まってきたいまの社会の特徴で、自分が英語人だからばかりではなさそうです。

そして、当然、いまは世界中の人が意識してつぶやいている

Be kind.

という言葉を心においておかなければ、生きている意味がない。

自分がいまやろうとしている、そのことがkindnessに基づいているかどうか、絶えず意識しなければ、あっというまに非人間的な行動に走ってしまうのが現代という時代の冷酷さであるとおもいます。

日本の再生、なんて、どうでもいいじゃない。

社会の仕組みに翻弄されて、疲れ果てている、自分をまず再生しなければ。

ある朝、眼が覚めて、カーテンを開けて、窓を開いて、深呼吸して、

目の前に広がる世界を心から美しいと感じる、

あの瞬間に帰るために。



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3 replies

  1. とても有難い内容でした。こんなにも日本を気にかけてもらっていることを嬉しく思います。

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