石の街へ帰る

あなたが、いつか通った道が、この深い森のどこかにあるのだろうか。

濁った水の沼の畔に腰をおろして、人工物のように平たい岩の冷たさを感じながら、水筒にいれた赤ワインを飲んでいる。

ガーゴイルたちがいる町から、ガーゴイルのいない町に移って、もう何年になるだろう。

頬杖をついて、夕焼けに染まる町を見つめて、ぼくが生まれた町では、子供ですら、もう何百年も生きている。

奇妙なことをいう、と思いますか?

ただの現実の描写なのだけど。

ガーゴイルたちがいない町では、ぼくは、自分が、どこに立っているのか判らない。

見上げても表情のない窓が並ぶだけの通りでは、どこに向かっているのか見当がつかない。

山の形は変容して、建物は破壊されて、言葉さえ意味がわからない音の羅列に変わってしまっている。

十四歳のときに考えたことは正しかったのではないか。

人間が三十歳を越えて生きることは間違っているのではないか。

その室内に死を迎えたことがない建物を「家」とは呼ばないように、

内なる死を迎えなかった人を「人」と呼ぶ事はできない。

死を迎えるとき、初めて人は人になるのだという考えは正しいのではないか。

死の側に立って人生を見つめる文明といえばマヤと日本の文明だが、生の側から死を見つめる西洋の文明よりも、死がよく見えるところに、マヤ人たちは立っていた。

死ぬ事が最高の栄誉であるのは、もちろん、最高の栄誉を受けたものは死によって栄光を完結しなければならなかった。

首を刎ねる、という暴力的な死も共通している。

遠くから歩いて来て、彼らは死の家を築いた。

遠くからやってきて、彼らは死ぬことを選んだ。

文章を書く人間は、意味を未来に渡そうとして、一生のおおきな部分をgibberingで過ごす。

うまく書ければ、ひとつ、おおきくのびをして、これで自分の名前を未来の人間が憶えていてくれるのではないかとひとりごちる。

本が書店のウインドウに並び、称賛が届き、皆が褒めて、感謝の言葉さえ聞こえてくる。

きみは賢明なので、「これで作品は将来の読者に届きますね」と言われても頷いたりはしないが、あるいは、と期待を膨らませるのを抑えることが出来ない。

J.D.Salingerを幼児性愛犯罪者としてではなく名前をおぼえている人間がいたとして、その人間が作品のひとつを読んでいれば、きみは自分の幸運に感謝すべきだとおもう。

薄汚い、卑劣な欲望を胸の奥に隠し持った中年男。

人間性への敬意を欠片でも持っていれば、吐き気を抑えながら読むのが精一杯で、感動するなんてありえない、過去には売れたことがある作家。

いつか、実生活では頭がおかしいと評判の作家が、短いコラムで、

「だがわたしはわたしの書いた物語が自分の死後も読まれることに賭けている」と述べているのを観て、まじまじと、という表現そのものの見つめ方で、しかも何度も読み返してみたことがある。

編集者の友だちの話では、その人は、過去にたいへんな差別を経験して、そのせいで気がおかしくなったのだ、という説明だった。

だから、あの人になにを言われても相手にしないでください。

これは業界の慣行です。

語彙の選択を間違えただけだが、「業界の慣行」という言い方が可笑しかったので、未だに口調までおぼえている。

この気の毒な魂の持ち主は、自分が感心した文章を読むと、書いた人間は「わたしの文章を剽窃したのだ」と反射的に述べる癖があった。

初めは物議を醸したが、不幸なことに、そのうちに周囲が「慣れて」しまった。

病んでいるのだから、気の毒に、非難してはダメだよ、ということになった。

ところが、きみは、この人の境遇が更に悲惨なものであることを「知って」いて、言語感覚の鈍い文章は、その人が死ねば、同時に作品も忘れ去られて、「一部の熱狂的なファン」が、そういえば若いときは、あの人の作品が好きだった、と思い返すだけで終わることまで熟知している。

小説家には一生に型があって、そのなかでも自分を純粋文学の天才だと自己陶酔のようにして思い込んでいて、現実は固定層の人気がある通俗作家だというのは、ありふれている。

ありふれてはいるが、一生が最も忌まわしく悲惨なものになる点では、このタイプが筆頭であるとおもう。

日本語でも同じ例がありそうな気がする。

文章を書く人間は、意味を未来に渡そうとして、一生のおおきな部分をgibberingで過ごす。

本質は、しかし、人当たりがいい、社交的な作家であってもおなじことで、

彼は岩に文字を刻み込んでいるつもりでいて、その実は、水の上に、黄斑症患者の目に映る世界のように歪んだ像を描いているだけにすぎない。

人間に後世に残る創作をすることは出来ない。

後世に長く、あるいは永遠に残るのは、自然世界に姿をくらましている法則や事実を「発見」した者だけだ。

芸術家ほど、その単純な事実がのみこめない人が多いのは、不思議なような気もすれば、理に適っている気もする。

ぼくは岩から腰をあげて、ガーゴイルたちが待っている町に帰ろうとおもっています。

三十歳をすぎて何年も経ってしまったので、また、自分がどこにいるのか、知らなくてはならなくなってしまった。

知ってから、どうするのか、って?

あなたが最後の日々に通った小径を探すのですよ。

その森のなかに、かき消えるようになくなってゆく道の終わりで、

ぼくは、あなたが見上げた巨大な樹を見上げるに違いない。

もう永遠など有りはしないと判っているのだから。



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1 reply

  1. すごく良い。

    > 後世に長く、あるいは永遠に残るのは、自然世界に姿をくらましている法則や事実を「発見」した者だけだ。

    間抜けな感想だけど、本当にその通りなんだよね。

    僕は、彼らがなぜ向こう側から持って来ることが出来るのかに、すごく興味がある。
    明らかに、向こう側から掬い取って来る、あるいは現実の中に透かし見ている人々。今ここにあって同時に無限に隔った彼方を、こちら側に顕現させることの出来る人々。
    とても不思議に思う。人間は、なんだろうね。

    > 頬杖をついて、夕焼けに染まる町を見つめて、ぼくが生まれた町では、子供ですら、もう何百年も生きている。

    日本でも、かつてそういう時代があったと思うけど、今はもうただの子供しかいない。
    死から見る生の透徹もまた、今はもう痕跡をかすかに遺す程度なのかな。

    ここから始めるのか、と思うと途方もない気がするけれど、これまでが異様に幸運だっただけかもしれない。
    そしてきっと、日本人はやり遂げるでしょう。それが人間だから。

    人間は、なんだろうね。

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