日本に移住する

日本に移住したい人、というのは、いつも、一定数存在する。

ええええ~!? そんな人いるわけないじゃない。

作り話なんじゃないの?

と思った、そこのきみ、

あのね、

世の中にはイギリスに移住したいという変人までいるのです。

日本の、夜更けの「おいてけ堀」の暗い水面から突き出した、隙さえあれば生きている人の足首をつかんでひきずりこもうとしている無数の手が、ひらひらと動いている、いじめ社会に飛び込もうという人がいても、驚くにはあたらない。

おもしろいことに、なのか、たいしておもしろいことでないのか知らないが、バブル景気全盛期で、しかも80年代の東京を外国人の目で描いた出来の悪い傑作映画Tokyo Popでドラグクイーンのお姉さんが主人公に述べるように、金髪で目が青かったりすれば、それだけで食べられた、外人ハウスでは寄ると触ると、今日はどういう日本人のワンレンねーちゃん、もとい、日本の若い女のひとびととハメハメな夜を過ごしたか、お下品な話を披露しあって、打ち興じて、しかも、当時は英会話講師が高給のバイトで、時間給が3000円、企業への出張授業だと1万円というような黄金時代には、

日本は「出稼ぎに行く」国であって、移住する国ではなかったようでした。

パチンコが大好きでも、パチンコ屋に住もうとおもう人はいないのと同じなのでしょう。

…、例が悪いか。

ところがセーラームーンが、あちこちの英語国の日曜の朝に再放送されるようになったあたりから、札束で、ビビビとほっぺを張り飛ばして、は念のためにいうと比喩だが、そのあとは比喩でもなんでもなしに乱暴に相手を押し倒して、押さえつけて、スカートをまくりながら、こういう目に遭うような人生を送っていてはいいことはないから考え直しなさいと説教しながら、あんな痛そうなことや、こんなちっとも気持ちよくないことをするしか能がない、日本の人のイメージが変わってきて、トトロや千尋が映画館のスクリーンいっぱいに広がって、「こんな世界があったのか」とおとなたちも子供も、目を丸くして見入る世界に日本マークがついて、出稼ぎよりは、落ち着いた気持ちで「住みたい」と願う人が、だんだんに増えていった。

中国の若い人などは、日本は競争がないからいい、と言う。

中国と異なって、のんびりさせてもらえる。

人間らしく生きていける。

むかし、日本は個人間の競争がおだやかなので、と書いたら、えらい数の、そこはかとなくおっちゃんぽい人が、わらわらと現れて、

おまえ、ふざけたことをぬかすな。

日本が厳しい競争の社会なのを知らないのか。

日本で生き抜くということは、妻への愛も、子供との時間も、すべてを犠牲にして勝ち抜くということなのに、失礼なことを言うな。

と、たくさん反応があって、なるほど主観的には厳しい競争がある社会と認識されているのだな、と学習したが、

客観は現実よりものをいう、という。

言わないけど。

中国の大都市の競争は、すさまじいを通り越していて、睡眠4時間、あとは全部仕事、ガールフレンドとムフフな夜なんてとんでもない、第一、ストレスで、ふにゃふにゃなので、引っ張っても叩いても、どうにもなりまへんがな、の若い男の人はたくさんいる。

日本に来たら、おなじシステムエンジニアでも8時間も睡眠がとれる。

人間的な社会だとおもう。

ビンボだけど、別にいいとおもってる。

オカネがまた欲しくなれば、オーストラリアでもシンガポールでも、また、どこか行きます。

イギリス人を例に出せば、日本の会社から給料をもらって暮らすとか、とにかく日本円を収入ソースにすると、そこで嵌まって、身動きが出来なくなって、故国に家も買えず、どころか、わが友のひとりなどは「日本に5年もいた人間の居場所などないから、帰ってくるな」と兄弟ふたりにはっきり言われたとかで悄気ていて、時機を失して、もう日本人になるしかなくて、居直って、帰化するのだと述べるが、表情をみると、案外、楽しそうで、

もうこうなったら煮干中華ソバ イチカワに耽溺して、シブヤとアキハバラで、徘徊ガイジンになってくれるわ、と嬉々とした表情で絶望している。

この「日本に移住したいひとびと」に共通しているのは、日本の、文化そのものに根ざした全体主義的な傾向に気付いていないか、知っていても、自分は圏外に身を置けるから大丈夫だと考えているか、どちらかで、

日本の良いところだけを見る習慣を身に付けているところでした。

自分では、どう感じていたかというと、ネットでは偏執狂のおっちゃんみたいな、ネチネチ、頼みもせんのに絡みついてくる人間がたくさんいても、

一皮剥げば同じ人ですよ、現実世界では仮面を被っているだけで、という恐ろしい意見もあるが、現実の世界で会う日本社会の日本人は、親切で、気持ちがいい人たちばかりで、父親に頼まれて、あんまりここに書かないほうがいい理由で、お役所や企業のひとびとを会うこともあったが、「お茶、いりますか?コーヒーのほうがいいですか?」と訊ねて、さっと起ち上がるのは、たいてい男の社員で、

女の同僚にもふるまって、7人乗りのバンで移動する機会があったときに、

畳んであったシートを、テキパキと起こして、女の同僚たちを当然のようにフカフカシートに座らせて、自分たちは、ちっこい補助シートに座るのが当たり前であるように振る舞う、その自然な「女の人優先」が、好ましくおもわれたり、役所では、エリート公務員同士、性別を、多分意図して、完全に排除する意志が感じられる会話の言葉遣いで、なんだ、ずいぶん、聴いてる話と違うじゃないか、と考えることが度々だった。

その省では若い時分には二年?にいちど配置が変わるようだったが、退職した50~60代に見える女の人が、原発課に行くと灰皿ぶつけられるんですよ、反対派の人たちに。

上司に「よけるな。額で受けるんだ、あれは。バカ」と言われて、オデコが凸凹になっちゃって、と冗談を言って笑いころげていたりした。

なに書いてたんだっけ?

ああ。

そうそう。

日本は、とても居心地がいい社会で、何年でも、のったりのったりニコニコしていられそうな国だったが、

暫く居ると、ですね、

なんだか落ち着かない気持ちになってくる。

自分が、ここでうっかり習いおぼえた伝統的な差別表現を書く訳にはいかないが、外界から遮断された桟敷におかれているような気がする。

日本で楽しく過ごしている時間が、「ニセモノの時間」のように思われてきて、ここから戻れなくなったら、どうするんだ、という気がしてきたものだった。

あらためて考えてみても、単なるホームシックなのか、それとも、あまりに極端に異なる文化の社会に住んでいると、現実の感覚が歪んでくるのか判らないが、滞在の終盤は、いったい自分はなにをやっているんだ、こんなことをやっていていいものだろうか、という気持ちでいっぱいになっていた。

もっと簡単に考えれば、単にほんとうには日本が向いていなかっただけで、それだけのことなのだろうけど、

2010年に、持っていた家家家を売って、クルマや家電、日本で使っていたものは半分以上を処分してもらって、残りはコンテナで送って、南の最果ての英語社会のオークランドに来てしばらくして、東北大震災と、大震災よりも、日本語社会にとっては、より本質的なダメージであったように見える原発事故が起きたときには、

まるで、自分のいらいらの延長上にある予見された災害が起こったような錯覚が起きたものでした。

もちろん、なんなく日本に定着した外国人たちもいて、友だちを思い浮かべても、フランス人で、すっかり、言わばタタミゼして、日本の人のようになって、

東京に住んで湯河原に別荘を構えて、日本語クラスの同窓生たちと定期的にイタリア料理店で会って、普段もお互いの家を訪問しあっている人、日本で独立して、会社を経営している人、様々で、そういう人は「故国にいるよりよかった」と述べている。

配偶者が日本の人、という例が多いようです。

なかには鏡を覗き込むと、ヘンなガイジンが立っていてぎょっとする、と笑う人もいて、そういう人は、レストランで携帯電話で話している人を無作法と感じて腹を立てたり、重症になってくると、子供が公園で遊ぶ声を「うるさい」と感じる。

バーで外国人たちが声高に話しながらグループで入ってくると、「なんか怖い」とおもう。

写真に撮られるときに無意識に指でピースサインを、(ひどいときには両手で)作ってしまう。

電話で話しながら、おもわず御辞儀をする。

どんどん日本人になって取り止めがなくなるが、いちど日本に馴染むと、もう故国に帰る気がしなくなるもののようでした。

面白い例では、小説家で、「日本の都会の、鉛の臭いがする空気がないと原稿が書けない」と述べる人もちゃんと存在している。

最も最近では、なにしろ外国にいても、おっかない母国なので、口に出してはなかなかほんとうの理由を言わないが、習近平政権になって以来、

かつての都会(例:上海)の自由な空気が、ぶち壊されて、「中国政府の本性」が現れたのに愛想をつかして日本に移住してきた、という人もいます。

かなりの数にのぼっているという。

若くて日本に移ってくれば本国でのエリートコースに戻れる可能性はなくなってしまうが、それでも日本の「明日の仕事を心配しないで、ぐっすり眠れる」生活のほうがいい、という。

なるほど中国も、国として、がむしゃらに働けた時代は終わりなのかもなあ、と見ていて考えます。

日本に移住してフレッシュスタートを切ることが、人生のなかで重要な役割を果たしそうなエスニックグループとしては、「日本に生まれて住んでいる日本人」も、いれたほうがよさそうな気がする。

なんだか、あの傑作B級映画Somewhere in timeのリチャードのようだが、

人間の「気持ちの持ちよう」は偉大なもので、夜、ベッドに入る前に、

「ぼくは日本に移住してきたんだ。移住してきたばかり。まだ、始まったばかりだ」と唱えて信じ込めば、日本で新しくスタートする移住者として暮らせるように思われる。

外からの目、の身に付け方は、いろいろでしょう。

留学や海外生活の経験がある人は、それを手がかりにすればいい。

日本人という集団の内部から、自分を、いったんそっと手で掬って取り出すことによって、対象として眺めることが出来そうです。

すると、ずいぶんヘンテコな国だな、と考えるだろうが、よく見れば、

自分が拙速に同化さえしなければ、ほら、いいところもたくさんあるでしょう?

自然ひとつとっても、あとでくっついた余計な人工物を想像力で取り除けてあげれば、まるでイタリアのように美しい。

人は、相手が弱いとみれば嵩にかかって威張ろう、押さえつけよう、痛めつけようとするように見えるが、あれはね、要するに子供なんですよ。

髪の毛が薄くなって、口臭がしそうな言語を使ってはいるが、

子供がそのままおおきくなっている。

オンボロの中古でいいから、クルマを買って、田舎の、なるべくならガイドブックに載るような名前がついていない場所に出かけるといい。

〇〇の滝、XX森林公園というような名前がついていなくて、地元の人も存在を忘れていそうな土地に行くと、近代が西洋に似せようとしなかった「日本」が現れてきて、よく来たね、のんびりしていってね、と述べて、そよ風や、やさしい湿気で、きみを包んでくれる。

ああ、ぼくは、ここへ来たかったんだ、とおもう日本は、きみが生まれついた日本より、少しだけ濃密で、少しだけ人間的な感じがするはずです。

また、ここで、やり直そう、

と考えているきみを、支えてくれる大地のような、長い歴史を持った文化が、そこにはある。

先住の土着弥生日本人が、なにを考えてたって、どうでもいいじゃない。

きみには移住してきた先としての、新しい日本があるのだから。

いまは乱暴な言葉を話す人に満ちて、荒野に似ていても、そのうえに、輝かしい移住日本人の文化を築くのには、一世代もかからないかも知れないでしょう?



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