日本語の肖像

15年前、日本の行く末が見えるまで付き合おうと漠然と思って始めたことが、そろそろ当初の目的がはたされようとしている。

直接の実感はシンツイッタから来ていて、例えば、お下品絵という言葉に反応して、「下品とはなにごとか、日本の文化はわれわれが描く絵で保っているのだ」という人たちがやってきて、悪いが、笑ってしまっていた。

そのとおりだよね、とおもったからです。

日本のいま、は、彼らの描く、判で捺したようなデカ目デカ胸ミニスカがすべてを表現している。

この十年、日本は、どんどん日本化していった。

加速がついていた。

インターネットが輸入されて、手に入って、「世界に発信」したりしているうちに、世界のほうで、あんまり相手にしてくれないので、飽きてしまったのでしょう、

日本語や、日本語で考えた内容を英語に翻訳して「発信」しても、反応がないので、

もうめんどくさいから世界には日本しかないことにした。

日本語の感受性のなかでは、面白い事に、日本の内部にアメリカがあり、中国があり、欧州が存在して、現実の海の向こうのアメリカは、似てはいるが、別個の社会として、存在している。

日本語で応対しているアメリカは、あくまで日本語の内部で飼い慣らした日本語化されたアメリカのほうです。

そうやって現実を上手に自分たちの言語から切り離していって、

日本の人は、いわば世界の王になった。

その過程で「日本すごい」の賛美歌が、あちこちで歌われたのは、まだ記憶に新しいのではないかとおもいます。

本来、メインストリームの感性になりえないものを、中心に据えた結果は、どうなったかというと、長かった「舶来礼賛」は止んで、日本語の言語社会全体がサブカル化してしまった。

日本というサブカルチャー世界が、日本以外の世界の宝物として誕生した。

例えば英語世界では自分たちの社会に適応できない高校生は、セーラームーンに始まって、無限に続く日本のサブカルマンガのなかに没入すれば息が出来ることを発見した。

ちゃんと理由があって、日本のマンガは、例えば高橋留美子や、あるいはどらえもんでさえ、その世界で、別の人生を生きられるように出来ている。

最終話が来ないことを願いながら、緑色に染めた髪の毛を後ろで束ねて、40冊というような数の本のなかで埋没している感覚は、一度やったら、やめられないのかも知れません。

フクシマ事故は、「絶対に起きてはいけない事故」だった。

原発は、もともと「事故ゼロ」という人間性というものを考えれば、土台無理な前提の思想に基づいてつくられた技術で、二重三重に安全対策を施されているから大丈夫だ、ということになっていたが、やはり無理で、事故が起きてしまった。

ソビエトロシアのように国家財政が破綻する規模で事故対策をやっても、コンクリートで固めて、引き延ばしをするくらいが関の山だったのに、日本の場合、財政に影響を与えないで、言わば小手先で対策しなければならなかったので、デカ目デカ胸ミニスカが日本が誇る文化である、というのと、同じ見地に従うことにした。

現実から乖離した言葉で安全を宣言すれば安全だということにしてしまった。

風評被害、という言葉を発明して、福島のひとたちに申し訳ないとおもわないのか、と、情に訴えることにした。

言葉も情も、いくら使ってもタダなので、重宝だからでしょう。

最近、ずっと蒐集している表現のなかで、これは面白いな、とおもったのは

「スピード感をもって問題を解決します」

という言い方で、これは元々の言い方は

「スピードを以て問題を解決します」だが、

スピード感が出れば、スピードが出るのとおなじ、という最近の日本語の現実よりも主観という傾向をよく反映している。

一般に現実から乖離して、現実とは別のところで「現実感」をつくる言語に日本語は変化していて、世界と向きあわないために延々と、その作業を続けてきた結果、言語にとってのリアリティの軸のようなものが、ひん曲がってしまって、「おれが言ったことが現実」になっている。

ネット上で、「女の人が悪いことをするわけがないでしょう」と言われて、びっくりしたことがある。

一応、悪人は性別に関係なく存在して、性別に関係なく悪人として糾弾される社会に育ったほうは、なぜ人間性の善い・悪いと性別が関連付けされた同じ平面で判断されるのか判らなくて面食らったが、

この人は、男が女を悪人だと判断することは性差別だと述べて譲らず、

どうも自分の理屈の旗色が悪いようだと気が付くと、

じゃあ、あなたは日本人を悪人扱いする人種差別主義者なのだと驚くべきことを述べて立ち去っていった。

そうこうしているうちに、案の定というか、日本語はどんどん糸を離れた凧というか、無軌道野放図なことになっていって、

肉体に性別などない、という定義と現実がごっちゃになった珍説を、どうやら英語の誤読をもとに力強く述べてみせる大学教員や、だいいち政府にしてからが、日本は戦後空前の経済繁栄にある、と述べる首相をリーダーとして戴くことになった。

一日8時間週5日働いて、不十分なので有名な生活保護費を下回るような収入しか得られない大学卒の国民がいくらでもいる社会に向かって、「戦後空前の経済繁栄」と言ってみせるのだから、「言ったもの勝ち」の社会も、ここまで来ると、現実感などは、欠片もない。

そうやって現実から乖離した言語が、社会のあちこちで空転している事態が何年も続いて、ついに、徒党を組んでおおきい声でお題目を唱えたほうが真実とみなされる、というすごいことになってしまった。

最近は、ツイッタでフォロワー数が多い人を標的に選んで、その人がいかに「嘘松」であるかを立証するのが流行っているそうで、言われて、例を見に行ったが、「現実とはおもえない」ことと「現実でない」ことが混同されているのが普通で、例えば、ある人が2年前の自宅での夕食の写真を2年後にも転用していると、その嘘を指摘して、それによって、そのひとの生活と存在すべてが嘘であることの証拠にしてしまう。

印象操作というが、現実の根拠もなにもなしに、2chやはてなのなかで大騒ぎに騒いで、嘘つきだということにしてしまえば、そんなことまで事情が判る人のほうが風変わりなので、名前を聞いた時に、

「ああ、なんとなく嘘をつくひとだったな」と避ける気持ちを起こさせる。

こういう工夫が、ネット社会だけの事情だと考えるのは、あまりにナイーブで、もちろん現実社会でも絶え間なく、至るところで行われているのでしょう。

ネット上の仮想コミュニティであるか、会社の給湯室であるかだけの違いでしかないと考えるほうが人間性への理解というものに適っている。

日本語は元来論理的な言語だが、一方で、集団共有されやすい感情語彙を豊富に、というよりも過剰に含む言語でもある。

現代の日本語は、この過剰な感情言語が論理言語を駆逐して破壊してしまった良い例であるようにおもえます。

集団が正しいとおもったことが事実や真理でなかったことの反省の上に言語の真実性は成り立っている。

地球が平らな板状のものだと疑わなかった時代に、実際に球体なのではないかと述べて大笑いされたり、

太陽が地球の周りを回っているのではなく地球のほうが太陽のまわりをまわっているのだとアイデアを提示して、では、チコブラーへの精密な観測の結果をどう説明するのだと迫られて反論できなかったりしてきた経験が、人間に「真実と見えるもの」がいかに頼りない認識に過ぎないかを教えてきた。

通常の言語世界が、なにごとか述べられたことに対して、余程の必要、どうしてもはっきりさせないとならない必要が起こらないかぎり、ほんとうとも嘘とも判定しないまま保留にする習慣をもっているのは、

真実と認定するための人間の知力の頼りなさを熟知しているからです。

日本語が、大多数の人間が向かう感情のベクトルを、あっさり正しいベクトルと認定して、後付けで理屈を付けて、まあ、こんなもんでいいや、で集団で言い立てるのは、言いにくいが、多分、日本語世界では「真実は教室で習うもの」だったからではないだろうか、とおもうことがある。

なにごとによらず手際よく輸入して道具にするのが上手な社会で、

最近では「自由」も輸入して、自由社会を標榜しているくらいで、

自分で痛い思いをしたり、間違えたり、悪戦苦闘したりして手にしたものではないので、認識の「確からしさ」を固めていくプロセスが理解できないもののようでした。

日本の人が、どんどん感情の動物のようになっていくのを見ているのは忍びないが、考えてみると、それは歴史的な必然で、かつては日本語成立の歴史に潜んだ危険を常に戒める賢者が存在したが、いまはいなくなってしまった、言葉を変えれば批評精神が流行らなくなって、日本という文明を批評する軸が外れてしまったことが原因なのでしょう。

大岡昇平や鮎川信夫というような人たちが書いた文明批評を読むと、ちょうどW.H.Audenたちが英語において果たした役割を日本語のなかで果たしていて、戦後の日本語が、しばらくのあいだ健康を保って居られた理由が判るような気がします。

前半に述べたように、ただ、日本語世界が感情で駆動するエセ真実を信奉する世界になっても、日本語文明そのものが世界のなかではサブカルチャー化しているので、たいした危機にはならないことは容易に想像がつく。

ディズニーランドではディズニーが作った明るい狂気が支配していても、門の外の世界は一向に不自由しないのとおなじことで、日本は現実から言語を乖離させる過程で、当然、世界からも自分を隔離してしまっているので、再び過剰な軍備に走って他国に侵略する迷惑をかけないかぎり、あるいは福島事故の汚染水を一層盛大に垂れ流しにして、海洋の巨大な稀釈力に挑戦するようなことをしない限り、他国民にとっては、日本は「なんだか面白い国」で、日本も世界もハッピーで共存していけそうです。

日本語のなかにいる人にとっては、楽しい仲間社会の一員であるか、集団いじめの対象になるかなので、後者の場合は、隠れて生きるか、日本語世界の外にでて、多分、物理的にも他国へ移住したほうがいい状態になるでしょうが、それはそれで「日本語社会と自分があわなかった」ということで、どんな社会に生まれても起きうることだとも言えるでしょう。

日本が世界から敬意をもたれる国であったり、憧れの目で見られたりする国でなければならない理由はなくて、国なんて、要するに、そこで生活している人が楽しく暮らせればいいだけのことなので、他国と較べたり、他国からどう見えるかを気にするほうが病気なので、そんなことを考える必要は、もちろん、まったくない。

他国の人間からみれば、ヘンテコリンだけど、他の世界とはまるで異なった、おもしろい仲間でいてくれたほうが、ありがたいようにもおもえる。

ただ、むかしからの日本語ファンとして述べれば、日本の文明が持つ、特殊で決定的な、ある「寂しさ」を失ってほしくないとおもう。

夏から秋へ、涼しくなったころの夕暮れの鈴虫の声や、

夕陽を背景に川堤を歩いていく人、

畦道を行く、小さな背中の後ろ姿、

日本は寂しさの文明で

孤独から出て孤独へ帰っていくことを当然のように、みなが知っているところがある。

その寂寥に魅かれて、15年も歩いてきてしまったので、

最後の最後まで、その後ろ姿を見ていたい気はしています。

言語学習者のただのわがままだろう、といわれれば、そのとおりなのだけど。



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