真珠湾奇襲という爆発的歓喜について

真珠湾攻撃がいつ行われたか?という話からするのがよさそうです。

1941128日なのは、たいていの日本の人は知っていそうだが、念のために、これがどういう時期なのか、お温習いをしておこう。

日本人が、そこまでの極端に国家主義的で軍事優先の近代を完膚ないまでに破壊されて、いまの戦後民主社会を強制された戦争なので、いまだに日本の人が自分が主役のひとりだったような気持ちでいるのは当たり前のことです。

でも現実はどうだったかというと、うんとよく言って準主役、普通に眺めれば劇全体の筋を読めない素っ頓狂な悪役兼脇役というところでしょう。

怒ってはいけない。

だいいち、怒る理由がない。

食うや食わずで、輸出品といえば絹くらいしかなかったビンボ国が、いまの北朝鮮などは問題にならない、GDPの実に4080%という、そんなに軍備に使って、あとはどうやって暮らすの?の巨大軍隊をもって、

戦争でだけ主役級になるなんて、いまの日本の人なら理解しているはずだが、こんなにみっともない国家はない。

対する世界一の富裕国として羨望を集めていたアメリカの陸軍が、世界20位だったかな?

ポーランドとちょうど同じくらいの軍隊規模だったことを考えても戦争における活躍があったとしても、それを誇りにおもうのが、いかに頓珍漢か、わかってもらえるとおもいます。

しかし、では真珠湾攻撃が第二次世界大戦において、あんまり意味をもたないイベントだったかというと、そんなことはなくて、極めておおきな意味を持っていた。

最大級、といってもいいくらい。

125日。

モスクワの前面50kmにまで迫っていたドイツ軍は、予想もしなかった激しい赤軍の抵抗に遭って、それまでの連戦連勝とは打って変わって、攻勢の停止を余儀なくされます。

128日にはヒットラー自らが総統司令39号を発令して全軍に防御態勢を命じざるをえないところまで追い込まれる。

この時点での攻勢停止は、一般に信じられているようなT-34の登場と、新鋭機甲師団による反撃が功を奏したというよりも、ドイツ軍の貧弱な耐寒装備によって、凍傷を負う兵士が続出し、エンジンは凍り付いて止まり、文字通り冬によって身動きが出来なくなったことのほうにおおきな理由があったようです。

ともかく、欧州人戦史家が、よく軍事史最大の皮肉として取り上げるように、ナチの軍隊の絶対的強さを信じて、当時の、ちょっと信じがたいようなお下品な日本の国家標語、「バスに乗り遅れるな」で、ヒットラーに便乗して、火事場泥棒よろしく、すでにナチの軍門に降っていたフランスやオランダの植民地を「かっぱらう」ことを目的として、慌てて参戦を決めた日本が、乾坤一擲の大博打、真珠湾への奇襲作戦を遂行していたころには、ちょうど、ナチがやがて隠しようもなく決定的になる敗北に向かって追い込まれていくとば口にありました。

もうひとつ忘れないうちに慌ててつけくわえておくと、太平洋戦争は、もちろん、真珠湾奇襲によって始まったわけではありません。

(以下、日本時間)

128日午前一時過ぎ、どういう理由によってか潮位の予測を誤った侂美浩少将率いる5500名の侂美支隊は、コタバルへ向かって、上陸というより漂流しているところを折から警戒していたイギリス軍に発見されてしまいます。

予測、警戒していたとはいえ、戦争の始まりというのは、そういうもので、対するイギリス軍のほうも、散々パニクった挙げ句、やっと数機を飛ばして、足の着かない海上を漂っている日本軍兵士に対して、ほぼ1時間にわたって反復攻撃で機銃掃射を加える。

時系列からいうと、これが太平洋戦争の始まりで、一方、真珠湾への第一次攻撃隊隊長、戦後はアメリカに渡って市民権をとり、牧師としてアメリカで伝道の生活を送った淵田美津男が有名な「ト連送」を機上から打電して空中の全機に「全軍突撃」を命じて日曜日の真珠湾に空中から突撃したのは午前319分のことでした。

えええ?

じゃあ、なんで真珠湾ばかりがクローズアップされるの?というのは当然の疑問だが、突き詰めれば、空から魚雷と爆弾で戦艦を沈めるほうが派手だから、という以外には理由はないんですね、これが。

幕末、戊辰戦争のころに長岡藩には河井継之助という家老がいました。

長岡藩は牧野という代々名君が続いた大名の藩とはいえ、62千石から始まって、江戸時代を通じて加増を繰り返したといっても、戊辰戦争当時で142700石にしか過ぎない小藩です。

司馬遼太郎が小説の主人公として英雄的に描いたこともあって、というよりも、そのせいで、と言ったほうがいいでしょう、日本人でありながら長岡を一個のスイスとして中立国としようとした英雄として描かれることが多い人ですが、どうも実像は、現実から乖離した理屈を頭のなかで組み立てて、それが「カチッ」と音をたてて組み上がると、遮二無二、それを現実にあてはめようとする、簡単にいえば「頭でっかち」の人であったようです。

ただ、思い切ったことをする人で、当時日本には3丁しかなかった元祖機関銃のガトリング銃のうち2丁を保有するほど新奇な技術に興味を持つ人でもあった。

この人が藩主の牧野に述べたことを読むと、なんだかびっくりするくらい山本五十六が近衛文麿首相に述べたことと似ている。

いざとなったら、最後は勝利できないのは判っているが、存分に暴れてみせる、というのです。

言うまでもなく山本五十六は長岡の人で、読んでいると、どうも郷土の先輩としての河井継之助に傾倒していたのではないかとおもわれる節がある。

当時の藩閥の日の名残が射している軍部なので、もちろん、口に出して明瞭には述べていないようですが。

よく知られているように、ハーバード大学に留学していた山本五十六は、アメリカの国力を肌で感じて知っていました。

日本では芸者遊び、アメリカでは賭博に明け暮れる、市井の事情に通じた人で、「アメリカと戦争をするなんて、とんでもない」という見解は、どちらかといえばブルックリンで一緒にポーカーに明け暮れる仲間だった労働者たちとの付き合いから生まれた信念のようでした。

下僚から「アメリカがいくら強いと言ったって勝ち目がないというわけではないでしょう」と言われると、眼を剝いて、おまえな、アメリカで俺がよく出かけたパブでは、ビールを一杯頼めば、店の食べ物は全部タダだったんだぞ、そんな豊かさをお前は想像できるか、と述べて窘めていたそうです。

彼は、アメリカと戦争をすれば、絶対に負ける、とわかっていた。

そこまではいい。

そこからが、よくない。

軍人の異国文化への理解というか、山本五十六は、他の日本人同様、アメリカ人は兵士としては臆病だと誤解していました。

一般に、日本の太平洋戦争ちゅうに犯した錯誤の多くは、第一世界大戦という史上最も悲惨な戦争に、オアソビ程度にしか参加しなかったからだと、よく言われますが、これも、案外、そのひとつの例なのかも知れません。

第一次世界大戦におけるアメリカ兵は、自国の国土でもないのに、当時ですら時代遅れの「義憤」によって、あるいはアメリカ人兵士特有のバーサークによって、ほとんど理解を絶する勇猛を発揮したので有名です。

ドイツ側の記録をみると、古参兵が、アメリカ兵のあまりの勇敢さに

「アメリカ人は頭がおかしいのではないか。なぜ命を大事にしない」と愚痴をこぼしていて微笑させられる。

要するに山本五十六のアメリカ人観察は皮相で軽薄だと言われても仕方がない深さにとどまったものだったが、その認識に基づいて、この有能な軍人は、太平洋の中心基地である「ハワイを叩いて一気に停戦に持ち込む」という構想を持ってしまいます。

日本から長駆ハワイを襲撃する、というのは、軍事常識として「絶対に起きないこと」に属していました。

第一の理由は日本艦隊の航続距離の短さで、兵装過剰、トップヘヴィイで、その代わり巡航距離と性能に劣ることで有名な日本艦隊の進出限界は、寄港地が点在する南方のインドネシアあたりで、波の荒い北太平洋を東進してハワイを空襲するなんてのは、ほぼSF世界のリアリティしか持たない作戦だった。

ルーズベルトは連合艦隊が「行方不明」になっているという報告を受けていたが、じゃあ、多分、マレー半島あたりに向かったんだな、と考えたのは、そういう理由によっています。

念のために述べると人気がある陰謀説として「ルーズベルトは真珠湾奇襲を知っていた」があるが、この説は蒸し返されるたびに完膚ないまでに否定されていて、一冊でも、否定する本を読めば、テキトー陰謀説だということは誰にも理解されるはずです。

ルーズベルトは、日本のマレー侵攻を予測、黙過して、それを欧州における対ナチ参戦の根拠にすることに腐心していた。

よもや日本軍がハワイにやってくるとはおもっていなかった。

真珠湾を奇襲されて、最も喜んだのはウインストン·チャーチルでした。

自伝では、報告を受けて重々しくアメリカの参戦を歓迎する旨を伝えたことになっているが、チャーチルの執事だかの証言によれば、一報を受けて、チャーチルは、踊り出して、床を踏みならして、やった、これで勝てる、神様ありがとう!と述べたそうで、むべなるかな、ヒットラーの考えでは1970年代まで参戦しないとみなされていたアメリカが1941年の終わりに参戦すれば、チャーチルにとっては天使が喇叭を吹きながら急降下爆撃に加わってくれるというか、バトルオブブリテンを戦い抜いた甲斐があった、という感想だったでしょう。

国力が底をついて、日本の人はいまでも「竹槍でB29と戦わせようとした」と愚かな政府を呪うが、イギリスもパイクでタイガー戦車と戦わせようとしていたわけで、貧すれば鈍す、竹槍と大して変わらない武器でのナチとの戦闘が、ここに至って、シーライオン作戦の中止が恒久的になって、攻勢に移れる目途がついたのでした。

少しカメラを引いて、真珠湾作戦を眺めると、その最大のインパクトは、もちろん、それまでモンロー主義的な「他の世界のことなんて知らんわ」だったアメリカ人が熱狂的な態度で参戦する引き金を引いたことで、いまでもアメリカ人はGood Warと呼ぶが、とにかく邪悪なナチと付録の大日本帝国に対して、善なる軍隊として、国民が一丸となって戦って、世界に善の勝利をもたらした、というドイツ人や日本人が聴いたら憤激で気を失いそうなイメージの戦争を戦い抜いて、善玉として戦争の勝利者となった。

もちろん、ドイツ国防軍の将軍たちは、容易に想像がつくように、

「真珠湾を攻撃するくらいなら、なぜシベリアのソ連軍と戦端を開かないのか」と怒りを隠さなかった。

実際に、日本が所謂「北進」論を捨てて南進についたのを見たスターリンは、このあと、安んじてジューコフの最強機甲師団を欧州に割り振る自由を得ることになっていきます。

不思議なのはヒットラーの反応で、一般に信じられているのとは異なって、

この独裁者は日本の真珠湾奇襲成功を高く評価して、直ちにアメリカとの開戦を布告した。

アメリカとの開戦を余儀なくされた、というのは実情にそぐわなくて、当時の状況からいえば、参戦を拒否することは十分に出来たにもかかわらず、躊躇なくアメリカと開戦して、国防軍の将軍たちを唖然とさせた。

バリバリの人種差別主義者で、公然と日本の人たちを「黄色い猿」と呼んでいたヒットラーの、いまに至っても解けない謎のひとつは戦争マシンとしての大日本帝国を、どの将軍たちよりも高く評価していたらしいことで、ミューズ川での進撃停止や対ソ連軍防衛戦の作戦指導のデタラメさと並んで、矢張り、案外と戦争に対する理解が浅かったのかもしれない、とイギリス人戦史家たちにおもわせる一因になっているようです。

真珠湾に偶々空母が在港していなかったことがドラマチックに語られるのがハリウッド映画の常だが、空母が停泊していて全艦沈められても、アメリカの造船能力を考えれば、戦争が1年延びた程度で影響は限定されたでしょう。

もっと言えば、真珠湾作戦は、一種の「不可能作戦」で、成功しても失敗しても、戦争というものが産業力の戦いである以上、結果は遅かれ早かれ、アメリカの勝利で動かぬものであったはずで、戦略的にも山本五十六のプランは軍人というものの限界に縛られた「出口のないプラン」にしか過ぎなかった。

日本国内では、長い重苦しい対中侵略戦争のさなかで、右翼も左翼も、好戦家も厭戦家も、等しく、「やっとまともな戦争が始まった」開放感に酔い痴れました。

それまでの、やりきれない重苦しさから、解放されたと感じなかった日本の人はいなかったでしょう。

あるいは、対米開戦を真珠湾での戦艦撃沈という華やかな戦果で始めることによって、日本の人は、「現実の重苦しさ」から解放されたのかもしれません。

日本の人たちは賢いので、頭のどこかで「アメリカに戦争で勝つなんてありえない」と知っていたように、ぼくはおもっています。

それでも真珠湾奇襲の成功は、日本のひとたちにとっては巨大な、明治以来の日本近代からの解放だった。

ヒロシマとナガサキへの原爆投下、ふたつのフルストップという、恐ろしい結末さえ、ぼんやりと判っていたことに、日本人という民族の不思議があるように考えています。



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