1 高速道路
一日400キロ、というような移動距離になると、高速道路が大嫌いなわしでも高速を使います。田舎道は景色はいいが危ないからな、景色がいいと前をあんまり見ないモニが運転しているときはもっと危ない。
うっかり、あっ、牛さんだ、とかゆってしまうと、モニは前を見るのをきっぱりやめて、「ガメ、どこに牛がいるの?あっ、ほんとうだ、かわいい」とジッと見ている。
とっても、怖いです。
だって、クルマ、狭い対向車線の道を100キロとかで走ってるんだからな。
そこへいくと高速道路は安全である。
大陸欧州人は、方向指示器なんてめんどくさいものは使いません。
無論法律では車線を変更するときにはインディケーターを点滅させることになっているが、誰も使わん。
方向指示器を使うのは、自分が移動したい先に相手がいる場合、「どいてどいてどいて」という意味で使う。
イタリアからスペインまで似たようなものだが、微妙に違うところもある。
フランス人は歴史を通じて凝りすぎて破滅する、というオモロイ特徴をもった民族だが、高速道路でも凝っていて交通量が多い区間になると下り坂の制限時速が90キロで上りの制限時速が100キロ、というようなところがたくさんある。
上り坂のはじまりで渋滞が始まることが多いからです。
芸が細かい。
それがイタリアにはいると、トンネルの入り口も登坂のはじまりもおかまいなしに110キロ、とかであって、イタリアだのおー、と感心する。
むかしは大陸の高速道路をクルマで移動するたびに、車線をまたいだまま、ずううううっと走っておるやつや、車線と車線のあいだを、ゆーらゆら、ゆらゆーら、渡り歩きながら運転しているやつがいるのはなんでだ、と思っていたが、モニさんが運転する順番のときに、追い抜きざまにどういうひとが運転しているのか観察することにしたことがあった。
フィアットのちっこいのが、3車線のあいだを右から左、左から右に、大胆にふらふらしながら走行している。左から右に移動しだしたタイミングをみはからって、モニさんが、ぶおおおおおーんと加速して、びゅんと追い抜きます。
追い抜きざま、わしはこのフィアットを運転している若いねーちんが、何をしているのか見てしまった。
何をしていたか、というとだね、聞いて驚いてはいかむ。
スパゲッティ食べてんだよ。
時速130キロでクルマを運転しながら、スパゲッティ。
わしは、スパゲッティを食べながらクルマを運転するひと、というのを初めて見ました。
それですっかりオモロクなってしまって、次から次に「ふらふら運転」をしているひとを観察してみると、携帯でテキスティングをしているひとが最も多い。
次は携帯で話しているひと。
なんか食べてる人、というのもその次くらい。
要するに大陸欧州人たちは高速が退屈なので、いろんなことをやりながら高速道路を運転する。
だから、ふらふらしておるやつが多いのだ、というフィールドリサーチどした。
フランスはやたらカネを取りたがるが、スペインはただの高速道路が多い、とか他にもいろいろ違いはあるが、最も異なるのは運転者気質で、印象としては、
イタリア人:スピード狂
フランス人:運転が悪辣
スペイン人:なんも考えてない
ついでにコモ湖のような一定の観光地域に行くと、いっぱいうろうろしているアメリカ人観光客についても述べておくと
アメリカ人:運転がドヘタ
というところであろーか。
アメリカ人はすれちがうのがやっとの道でセンターラインからはみだしたまま、へーきで走ってくるような、
免許、もってるのか、ボケ、と思う人が多かった。
多分、マニュアル車の運転に慣れていないからではなかろーか。
モニとわしのクルマはフランスナンバーなので、スペインの高速道路では、なああーんとなく恐れて側に寄ってこない。
町の悪党って、こんな感じかしら、と思ったりして、ちょっとしたやくざ気分を味わうのであります。
2 ハウス・ワイン
日本にいるときに、料理屋でもっとも嫌であったのは、「ハウスワインが不味くて飲めない」ことでした。
ハウスワイン、というのは、その国の文化の性格がよく出るよーだ。
ニュージーランドや合衆国も、日本と同じ、ハウスワインが不味い料理屋が多い。
しかし、ニュージーランドなどは麗々しく名前を並べているワインが、そんなに高くないので、いちいちワインリストを広げて検討しなければいけないのが、そんなことをする気分ではないときにはメンドクサイが、並んでいるワインはお馴染みのメンツばかりである、という事情も手伝って、まあいいか、ということになっている。
でもやっぱりハウスワイン、おいしいの置けよな、とよく考えます。
店の主人に言うこともある。
イタリア・スペイン・フランスという3国はハウスワインが安くておいしい、という点でダントツである。
イタリアは「素性がよいヴィンヤードの若いワイン」というのが基本であるよーだ。
スペインやフランスも似たようなもんじゃん、ときみは言うだろうが、イタリアとやや異なるのは、自分の知り合いのヴィンヤード、あるいはスペインでは素人のひとびとが自分の庭でつくったワイン、あるいは主人が絶対に自信をもって薦めるワイン、ちゅうようなのがくっついてくるところが違う。
スペインでは一杯1€、とかで、ものすげーうまいワインをテイスティンググラスになみなみと注いでくれます。
そういうコパではなくてヴァソ、すなわちコップにいれて出してくれるようなところでは何杯か飲んでも1€、ちゅうところもある。
注文するとウエイターがセラーに取りに行って恭しくもってきてくれるワインももちろんおいしい。
ちょうど日本酒の「地酒」の旨いのと「樽菊正宗」の違いを思い起こせばよいが、両方「うま」くても、その「うまさ」の性質が違うのね。
わしは人間が安上がりに出来ておるので日本酒も一杯300円の「立山」(富山の地酒です)や「寒竹」(長野の佐久という町の「日本でいちばん小さな造り酒屋がつくっている酒である)で大満悦であったが、スペインやイタリアでも、ハウスワインばっかし。
ヴィノ・ティント・デラカサで始まる楽しい夕方なのです。
イタリアやスペインで、見ていていいなあ、と思うのは、女のひとが年齢や身分や職業によらず、ひとりでバールに立ち寄って、たとえば新聞を読みながらワインやビールを飲んで夕方のいっときを楽しんでいる。あるいは主婦のおばちゃんが、バールのカウンタでリキュールを飲んで、店の主人と話をしてゆく。
「女がひとりで酒を飲む」というのが風景の一部であることで、英語圏とはかなり異なる。
もちろん英語圏においても女がひとりで酒を飲んでいても、「女だてらに」ちゅうような、グヘヘおっちゃんやキーキーババアが好む語彙で考えられはしないが、でもちょっと背筋を伸ばしてかからなければならないようなところがあるのです。
イタリアやスペインは、それがねーんだよ。
文明が負けておるではないか。
こんなに差がついていていーのか、と英語人であるわしは、思わず考えてしまう。
うらやましい、と思う。
一杯のハウスワインがのっかっているテーブルを眺めながら、その底なしにうまい一杯が120円ほどしかしないことや、そのグラスワインをちびちびやっている40歳くらいの女のひとが、煙草を吸いながら、のんびり新聞のページを読むともなしにめくっている、自然な姿勢を見ていると、英語圏社会のど退屈さが思い出されて、どう言えばよいか、あーあ、と思います。
3 ガキども
たとえば、サンチアゴの裏路地の、爆裂においしい魚を出す料理屋の、舗道に出したテーブルでワインを飲んでいると、ベビーカーを押しながら若夫婦が、「ウナ・メサ・パラ・ドス」とゆいながらはいってくる。
ガキがいるからドスじゃねーじゃん、と理屈をこねてはいけません。
じゃ、ウインドウズなのか、というようなおやじギャグも禁止する。
肝腎な点は、そうゆってみんなが酔っ払って完全に出来上がっている料理屋に若夫婦がはいってくる時間が往々にして、夜の11時を遙かに過ぎていることであって、むかしのわしは、この大陸欧州の風習を見て、どっひゃああー、と思ったものであった。
夏の、夜の12時をすぎた大通りの、両側にいっぱい貼り出した料理屋のテーブルのまんなかを、チビガキがきゃあきゃあゆいながら疾走してゆく、というような景色はスペインでは、ふつー、です。
これらチビガキが絶叫して走り回るのを見て眉をひそめたりするのは、だいたいアメリカ人かイギリス人のオタンコナスに限られる。
で、ね。
何が言いたいのかというと、アメリカのように、ちゃんとうまく作れなかった社会というのは、ガキが目障りになるように町なり社会なりが出来てしまっている。
ダメな社会ほど、ガキがレストランで、突出してうるさく見えるように出来ているよーだ。
考えてみるとチェンマイでも、夜中の店を子供がうろうろしておったが、別に風景に溶け込んでおった。
もっとも義理叔父のかーちゃん、鎌倉ばーちゃんに訊いてみると、むかしむかしの東京の下町もそうだったと思うけど、という。
個人と個人のあいだにちべたい距離が出来て、共同体がもはや幻になってしまった社会ではガキが3Dで飛び出してうるさく見えるのではないだろうか。
連合王国は、ガキの躾が他国人が見るとぶっとぶくらい厳しい国だが、当然のことながら温和で成熟したオトナに成長したわしを例外として、躾の結果はろくでもないガキがクソ男やクソ女に育つだけで、あんまり意味がなかったのではないか、と観察者をしておもわせる。
わしがワインを飲んでモニと話しているそばで、もじもじしていて、ガキが見たこともない美人であるモニににっこり微笑みかけてもらって悶絶している男ガキ(約3歳)や、石畳の道で、けっつまづいて頭からこけて、頭をおおげさに抑えながら号泣しているバカガキ、というものがスペインの巨大な文化にやさしくくるまれていて、誰にも嫌な思いをさせないでガキがガキガキしていられる文明的実力にわしは感嘆してしまう。
スペインガキもイタリアガキも、どいつもこいつも天使のように可愛いのが多いが、
ガキの頃から社会にとって異物扱いされなければ、ガキというものは本来あのくらい可愛いのだ、ということをスペインにいると、しみじみと考えます。
どーも、ガキは、英語圏よりも、こういうところで育ったほうがいいかもしれない。
4 そして、オカネ
そうやって、相変わらず文明上の実力をみせつけまくっている大陸3国だが、経済は、もうあかんだろう、とわしは考える。
ギリシャなんちゅう国は、デフォルトがデフォルト、というか、そういう国なので、それでもリーマン・ショックよりは大変だろうが、もういいや、デフォルトでいいや、と皆が内心おもっておる。
ところがイタリアがベルススコーニの無能の魔力で、おっさんが自分の懐しか考えないのをよいことに、ここにきて盛大にやばくなってきてしまった。
そんなことの詳細をここに書いてもしょーがないが、来年の春まで持ったら奇跡なんちゃう?というのが、わしが欧州をうろうろしてもったカンソーです。
フランスも見た目よりは相当に傾いていて、シークレットブーツをはいて、ごまかしているだけである。
スペインは見た目どおり、というか、ご覧のとおり、というか、期待通りというべきか、ポルトガルと手に手をたずさえて「わたしたち、だいじょうぶ」という曲を熱唱しているが、その経済政策を見ると、ほぼロープをするのを忘れたままバンジージャンプをしようとしているに等しい。
わしが、欧州をうろうろして、ひとびとと話した結果えた感触は「もう、ダメじゃん」ということであった。
しかし、しかし。
たとえばスペインではマドリッドとバルセロナばかりが好調で、他はもう全然ダメである。
いまの経済の不調は、IT革命(ほんまに何回つかってもダサイ言葉だのお)という激しい跳躍的なパラダイムシフトの後に歪んだ構造が原因している。
たとえば前に書いたようにトウモロコシに着目して農業を調べてゆくと、なぜ食料が足りないのに食料の絶対価格が安すぎるところにとどまっているか、というようなことも含めて、いまの経済構造自体に無理がありすぎて、傾いだ建築は基礎の構造はそのままにしておくとしても抜本的にまっすぐに直さないと、どうにもならない、と判るが、いまはたくさんの分野で同じような「そのまま構造を放置しておいてはうまくゆくわけがない」事象が手つかずのまま進行している。
だから金融危機の影響がうんたらかんちゃらでクレジットクランチの後始末がほんだらかんたらではないのです。
問題はもっと大きいようだ。
しかし、しかし、しかし。
欧州ではうまいワインが120円で、これだけおいしければ銀座なら1500円、マジでとるな、と思わせる石窯・薪焼きのパンが100円である。
文明や社会が崩壊の危機に際して踏みとどまる力、というものは、要するに、「その社会に住んでいる個人がいかに幸福であるか」ということそのものなので、欧州人が歴史を通じて築き上げてきた
「個人個人が幸福を最大限まで追究できる」ライフスタイルなり社会なりというものは、もう一回経済危機で破滅したくらいでは、到底なくならない。
現代人は、20世紀が終わる頃までは年がら年中、市場が暴落したり、ときどき戦争を起こしたりしなければ続いていかれない言わば原始的な自由主義経済を乱暴に運転してきたが、21世紀にはいって、やっと高度情報社会をつくることによって、同じ「自由主義」と名がついていても、20世紀の荒っぽい経済とはまったく異なる経済市場をつくってきた。
それがやっと達成されそうな段階になって、もう一回歪みを大幅になおさなければならなくなったのが、いまの欧州の経済危機だと思います。
嵐はおおきそうだが、ちゃんと去ってゆく嵐である。
心構えをして、準備をして、恐れないでやってゆけば、大多数の人間にとっては、耐えてゆける規模と性質のものだと考えました。
ダイジョーブだよ、きっと。
(この記事は2011年7月22日に「ガメ・オベール日本語練習帳ver5」に掲載された記事の再掲載です)
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