スタートライン

日本が、ここまで表面では破綻なくやってこれたのは、緊急に対応しなければならないことに対して何もしなかったからだ、というと、逆説を弄んでいるように聞こえるが、事実で、手術で根治させなければならない病気を対症療法だけで放置していれば、少なくとも暫くのあいだは表面はなにごともなくて、身体にもメスをいれた修羅場の傷は付かず、傷痕も残らない。

例えば真皮癌ならば、痛みさえなくて、普通に暮らして、なんだかニコニコして暮らしているあいだに手遅れになって、皮膚の下で身体中に癌が広がって、あっけなく死んでしまう、ということがありうる。

日本の人は何もしないためなら何でもする、と述べた、あっさりほんとうのことを言うという、とんでもないことをするニュージーランド人だか連合王国人だかがいたが、日本の人たちが何もしないことに固執するのには、改革のために身体を動かして、通りに出るのをめんどくさがる国民的な怠け癖もあるが、例えば政治でいえば、麻生太郎首相のころに、いくらなんでもこれではあんまりだと考えて、乾坤一擲、親代々の自民党への投票をやめて、民主党に票を貢いで、民主党を政権につけてやったところまではよかったが、この民主党が政権担当能力をもたない割に「わたしがいなければ国は亡びる」と言いたげな、自己陶酔にひたいやすい人たちの集まりで、暫くすると、反自民なら正義という自分の幼稚な考えに、おもいきり実生活上で仕返しされることになった。

民主党が政権についたころ、ぼくはちょうど日本で数ヶ月を過ごすことにしていて、夏をすごすことにしていた軽井沢は、なにしろ軽井沢といえば鳩山様で、民主党の基盤だが、政権の終わり頃には、土地の「有力者」のおっちゃんやおばちゃんたちが「もう民主党は、こりごりだ」というほどになって

子供のときに、政治家のおっちゃんが、家のラウンジで、お茶を飲みながら

「役所の改革というのは黙ったままやらないと、うまくいかないんだ」と話しているのが聞こえてきたことがあって、へえ、そういうものか、と子供なりに感心したのをおぼえているが、鳩山由紀夫首相は、「官僚組織を改革する」と正面から高らかに宣言していて、聞いた途端に、ラウンジのカウチで、ショートブレッドをやけにたくさんつまみながら、紅茶を飲んでいた、でっぷりおっちゃんの言葉を思い出していた。

やっぱりダメだったんだよね。

宇宙人、無能の人、と呼ばれて、散々だったが、その評判の半分は、マスメディアのネガティブなイメージ作りと、役人の怠業に近い非協力のせいだったでしょう。

日本では不思議なことに、新聞社を初めとするマスメディアが政府や大企業と仲良しクラブで、社会で優秀と目されて、未来の選良とお墨付きをもらった若者は、マスメディア、政府、アカデミア、大企業のどれかを選ぶことになっていて、例えば、ついこのあいだまでは東京大学の法学部で優秀な成績を収めていれば、朝日新聞に論説委員候補として入社するか、地方有名国立大学教授になるコースで大学院に進むか、あるいはI種公務員試験を受けて上級公務員を目指すことになっていた。

この仲良しクラブに入ることは、重要で、これはこれで、大学よりも中学の名前が重要であったり、軽井沢の別荘がすぐ近所であったり、同じゴルフクラブに入っていたり、中ではまたいろいろな結び付きがあるが、マスメディアが、この「支配層」の一角を占めていることが日本の、いまに至る重篤な慢性病の理由になっている

おおざっぱに述べれば、そういう仕組みで、省庁の局長と論説委員が同じ学校の同窓生であったりもするが、それよりなにより、役所とマスメディアと政治家の利害が共通しているというデタラメさなので、鳩山由紀夫のように、周りがいっさい目に入らず、空気を読む習慣もなく、頭のなかで考えたことが瞬間的に現実の形をなしてしまう、悪くいえば狭い信念の人、思い込みの人は、がっちりと手を組んだマスメディアと役所の抵抗には、なすすべもなかっただろうと、別に、そんなに考えなくても、世のなかの常識として判る。

おおきな失望に叩きのめされて、日本の人は自民党支配に回帰していった。

いっそ、なにもしないほうが、よかったのではないか。

それやこれや

これやそれや

ところが自民党支配に回帰してみると、自民党は、借金ハヨ返せ、と銀行に恫喝されるまでに落ちぶれてビンボだった野党時代が、マネーバッグとして党籍を置いていただけの党員たちを、振り落としていて、

立党50年の綱領に明記されている憲法改正を政治的主張とする、政治理念を一にする、ネオ自民党とでも呼んだほうが良さそうな政党に変質していた。

そのネオ自民党で熱狂的に支持されたのが安倍晋三で、第一次こそ正面から戦前回帰をめざして失敗したが、今度は、多分、ビル·クリントン大統領のやりかたに学んだのでしょう、広告代理店ブレーンをうまく使って、広告手法そのまま、アベノミクスのカタカナ語を打ち出して、一方では官邸に権力を集中させることで、変わらない、変わろうとしない国を変えていった。

国が変わる、というと、あ、いいことだ、と単純に喜んでしまう人が多いが、

あのね、この場合は、実は悪いほうに変わっちゃったんです。

ひとつには、なにしろ現ナマをつかませなけりゃ、誰も動きゃしねーよ、のお国柄なので、動かぬものを動かすために、オリンピックをでっちあげたり、福島第一事故処理を、まるで経験のないゼネコンに、ぶん投げたりして、考えてみると、良い方に変わるはずがなかった。

「理研のワカメちゃん」という、むかしのコマーシャルだそうだが、利権のバカメちゃん、などといって年長友のひとびとは喜んでいたが、笑いごとではなくて、利権利権利権で、例えばマイカードがそうだが、どんなに「なぜ」が判らない面妖な事業でも、利権の行き先、オカネが辿り着く先が判れば、すっきり全体図が見えてしまう。

利権の都合でなにもかもが決まってしまう、遠くからみると、

「マジメにやってんの?」な国が出来てしまった。

その結果が、表面下の慢性病のうち、まず初めに劇症を引き起こして誰の目にも明らかになりそうなのが、財政危機です。

出来の悪い近未来SFみたいだが、「日本円紙幣は来年にも紙屑になる」と述べる投資家は、世界中にゴロゴロしている。

実は真の問題はオカネが実際に紙屑になるかどうかではなくて金融プロたちが、すでに円を危ない通貨として、そういう目で見ていることのほうにあって、その顕れのひとつが、ロシアのウクライナ全面侵攻のときに、「有事の円」のはずが、従前とは逆に下がったことでした。

しかも2022年には、絶対にやれないはずの実質利上げに踏み切ったので、しかも「ここまでしか頑張ってもやれない」という利上げの幅まで見せてしまったので、ずっと昔から、多分2025年と書いてきた大崩壊が、2023/2024年に起こる可能性が高くなってしまっている。

では、どうするか。

ずっと昔、たしか12年前に、ほら、「ラナウェイズ」という記事を書いたでしょう?

https://james1983.com/2021/04/12/runaways/

逃げちゃえ逃げちゃえ、いま、うまくいってるって、騒いでるけど、この先、絶対いいことなんかないから、さっさと日本から家出して、故国を助けたければ、海外で身に付けたものを持って帰って助けたほうがいいよ、といろいろな記事で述べて、具体的な方法や、やりかた、向こうについたら、どう考えればいいか、ということまで、たくさん書いていたころは、ある意味では、気楽なものだった。

まず第一にコロナが世界を変えてしまった。

次にプーチンが世界を壊しにかかっている。

習近平の剥き出しの野望は、アメリカとのデカップリングが象徴するように、ひとつだったサプライチェーンをふたつの敵対的なチェーンに分断しようとしている。

世紀初から、ここまでの世界の繁栄を支えてきた安定が失われたわけで、

そうなると投資家心理として、自分に近いほうにオカネを投資する。

おなじ西洋世界

おなじ英語世界

おなじ国内

自分にとって把握しやすいほうへ資金を移動させるのは当然で、それに伴って経済的なグローバリズムも、また衰えていきます。

困るのは、

おなじ文明

おなじ文化

おなじ言語

が、容易に

おなじ人種

に行き着いてしまうことで、長期的には実際に連合王国にとって良い方針である可能性がなくもないBrexitに反対した人のなかには、Brexitと分かちがたく結び付いたアングロサクソン至上主義を嫌った人が多かったのは、誰でも知っていることだとおもいます。

自分の生活を通して見ても、この人もなのか、と驚くような人まで

「口にはしない人種差別偏見」に蝕まれている。

白人層の「内輪」は、案外、えらいことになっている。

いろいろ考えると、海外移住も、あんまり良い手ではなくなるかもね、と最近は考えることが増えた

移住に限らず、例えば10年という単位では、そうでなければ人類の文明そのものが根本的に行き詰まってしまうので、また元に戻るに決まってるが、2023年から数年は、どうやら自由世界は、狭量で闘争的な場所になっていきそうな気配です。

どうも日本に生まれたアジア人としての個人にとっては選択が少ない難しい世界が目の前には待っているようでなくもないが、では若い日本の人はどうすればよいかというと、太極拳のように構えればいいとおもう、というと、いよいよ怪しいブログだが、まあ、そう言わずに聞いてね聞いてね、

太極拳は、いまでこそ「ラジオ体操第一」のような扱いだが、もともとは立派な拳法です。

大山倍達先生によると、対戦したマーシャルアーツのなかで最強だったのは太極拳だそうでした。

定食屋のマンガで読んだだけだけどね。

攻撃はしない。

護身を極めるだけです。

而(しこう)して、

防御を尽くすのに、静的な構えをつくらない。

常に身体が「気」の流れのように流動して、どんな不測の事態にも対応できるようにする。

截然から執念く「スタティックに構えるな。動的に構えよ」と述べているが、危機の時代に「アナグマだぞ」なんちゃってスタティックな鉄壁の防御を目指すくらい愚かなことはない。

マジノ線を見よ!

ヒットラーのAtlantikwall、大西洋の壁を見よ!

なんちて。

トーダイに行って「大学生が就職を希望する企業ベスト10」に職を得るなんて焼却炉に頭からダイブするようなもんですよ。

もう少し踏み込んで大胆なことを言うと、いよいよ動乱になってきたとおもったら、ほら、よくサバイバルの達人が言うでしょう?

「次のご飯のことだけ考えて、それを食べたら、また生きて次のご飯を食べることだけに全力で集中する」

これは意外なくらい、いろいろな文化背景の人が、いろいろな局面で述べていることで、例えば日本でならインパール作戦で殿を務めるという、とんでもないことになった日本陸軍の戦上手で敵味方の尊敬をうけた中尉が述べている。

ヘンな例で、ごみんだけど。

ヘンついでにいうと、この中尉も、固定した、防衛線を固守しようとはおもわなかった。

優勢な敵が迫ると、潰走にならないうちに、後退する。

後退したところで、要所に火力を配置して、また敵の前進を阻止する。

人間の生活や人生を戦争に例えるのは、カッコワルイが、やはりここでも

逃げるときにさえ落ち着いて自分に向かって襲いかかってくるものの形と力を見定めて、冷静に逃げている。

様子を読んでいると、まるで夕食の仕度をする昭和の専業主婦のように手順が洗練されている。

Twitterでも書いたが、ぼくには日本の人のヘンテコリンな国民性に、いつも期待があって、おもいもかけない形で、奇想天外な手がかりで、蘇生するのではないかと、いつも期待するが、西洋頭と論理で考えて、英語ではdeductionというけどね、論理的必然を考えると、早ければ今年にも、日本には経済において金融において、そしてどうやら、文化においてさえ、壊滅的な崩壊が襲ってくるでしょう。

そのときに、日本の人がよくやるように冷静にパニクってはダメなんです。

逆に、わあああ、たいへんだ、こりゃもう世の中お終いだと言いながら、頭だけ冷却器つきで現実主義をフル回転させるのがいい。

そして、そのときのコツは、むかしなんども述べたように

「試みても無駄な選択肢を捨てていくこと」です。

有望な選択肢を考えるより、ずっと早くて、精確に決断がくだせる。

正月から縁起でもないが、だって、もうこんなところに来ちゃったから、仕方ないんだよ。

無責任な遠くから眺めている観客としては「きっと大丈夫だよ」か「もう絶体絶命だからあきらめなさい」か、どちらかを述べて、穏やかな顔をしていたほうが、きみにとってもぼくにとってもいいんだけど、

人間は、少しでもまともなら、なかなか、そうはできない。

また今年も、ハラハラドキドキしながら、日本の人と一喜一憂して、

「うざいから、向こう行け」と鬱陶しがられても、なかなか離れられないのではないかとおもいます。

日本語では言っても仕方がないので、なるべく言わないようにしているが、英語圏は英語圏の、欧州には欧州の、濃い暗黒が空を覆い始めている。

だから自分たちの心配を、いつもしている。

でもね。

だからといって、遠い海の向こうの、日本語という宝石のような言語で暮らしている友だちから目を背けて知らん顔をするわけにはいかないんです。

なぜ? と訊く人には、もう人間性が、あんまり残っていないんだよ。

ネットでは気の利いた皮肉のつもりで、いつまでも日本の心配しなくていいですよ、という愚かなオコドモさんが常に存在するが、

そんなこと説明することじゃないのね。

セーフティベルトのバックルを締めて、シートを調節して、2023年のスタートラインへ、一緒に出かけよう。

ここを過ぎれば、あとは、いいことしかないのだから。



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