3x20≠20x3

 

20円のリンゴが3個ある。

3個のリンゴが一個20円であるとして、合計でいくら払えばいいですか。

20円のリンゴを3個買うとして、いくら払えばいいでしょうか。

3×2020×3では異なる。

国語では、異なります。

ところが、算数の問題として、異なる、と320≠203と述べて「バツ」にしてある答案がtwitterに載っていて、ひどく面白がったことがある。

あるいは、やや性質が違う例を述べると、物理学教授のくせに、そんなこともわからないのか、という調子だったとおもうが、オダキン先生が、

半径17の円の面積を円周率を3.14として、17173.14=907.46は間違っているのだ、と述べたら、いつものこと、

「おれだって、勉強してるんだぜい、きみい」のトーシロ人があらわれて、正しいじゃないか、そんなことも判らないのか、このボケ、ちゅうような調子で叱責されていて、こちらは、知っている人でもあり、苦り切った顔が目の前に浮かぶようで、悪いが、大笑いしてしまった。

有効数字というようなこと以前で、物理だけでなく、当然、数学でも間違っているので、なにかをゼロで割る計算とやや似てなくもない、というか、

意味の無い数式は、科学の世界では、遍く「間違い」です·

いったい、こういう奇天烈な「間違いだぜ」議論は、どこから来るかというと、観察したところ、日本では、理系文系と、人類がいままで身に付けた知識体系を、なんらかのテキトー都合で二分してしまったところにありそうです。

320203くらいなら、「国語と算数の区別がつかないやつ」と低く呟いて立ち去ればよいが、これが公衆を巻き込んだ議論となると、おおげさでなくて国運に関わるので、少し立ち止まって検討する余地がある。

日本語では最近完成した流行のスタイルがあって、

例えば、何年も前にいちど彼/彼女が「今夜の夕食」としてインスタグラムに掲載した写真を、数年を経て、またまた「今夜の夕食」と説明をつけて出したのが、運の尽き、

「こいつは信用できないやつだ」ということになって、

「彼/彼女は信用できない人間だから言っていることも全部ウソだ」と述べる。

これを踏み台の「公理」として、次次に、こいつが父親だというのはウソだ。

妻がいるのもウソだ。

ほんとうはプー太郎だ、と推測で「証明」していく。

たいていの場合、人格の全否定につながるようです。

これは、最も恐れられた時代の「週刊新潮」のやりかたなのだ、と述べている人がいたが、蒐集した新潮のバックナンバーは実家に送ってしまって手元にはないが、案外、そうなのかも知れません。

この手法を多用していたのは、日本語世界では圧倒的に自称なのか自他共に認めるのか知らないが左翼/リベラルのひとたちで、ウルフパックというか、

車掛かりの陣というか、お互いに内緒で連絡をとりあいながら、前から面を打ち込み、後ろから足を払って、とにかく相手が精根尽き果ててボロボロになるまで攻撃する。

一方的に、使っているあいだは、よかった(よくもないか)が、最近はネトウヨというかネオネトウヨなのか、あるいはネオ右翼か、こちらの側が

左翼の「手口」をおぼえて、自家薬籠中のものとして、一層洗練された「証明法」に変えて、と、いま書いていたら「証明砲」と誤変換されて、いっそ、そのままにしておきたかったが、それはともかく、自分たちが、にっくき「相手」をつぶす手法として開発してきたやりかたを、そっくりそのまま自分たちに向けられて、マンガみたい、と言ってはいけません、深刻なんです、なんだか「議論」というようなものは日本語には、もともと存在しなかったのだ、ということが誰の目にも明らかになってしまった。

320は国語の世界でも203と等しいのね。

交換法則は文系理系を超えて成り立たなくては、文系と理系の、別々のふたつの宇宙が出来てしまう。

戦前の日本に顕著な客観性の喪失、圧倒的な多数の国民が正しいと言っているから、これが真実なのだ、という現実から、どんどん乖離して、原爆を落とされてやっと正気に返った、誰よりも日本の人自身にとっての悪夢だった歴史は、要するに、320≠203でありうる認識方法にあるようです。

そうして、世界中の日本ファンにとって残念で心配なことには、日本は現実の観察として、戦前に戻ってしまっている。

一触即発、というが、中国政府が尖閣諸島を顕在的に占拠するなり、ロシア政府が北方領土を顕示的に自国領として宣言するなり、ちょっとした引き金がひかれれば、またまた日本は、自分たちの「真理」に搭乗して、攻撃性拡大の道を疾走しだすに違いない。

ナイーブなところも相変わらずで、ほら、縮尺3分の1の、人が乗り組んでコントロールする模型みたいな、不思議な小空母を作っちゃったでしょう?

あれはですね。

他国、特にアジア諸国の目には、日本がいよいよ攻撃的な軍事国家に舞い戻ろうと決心したサインにしか見えないんです。

どんなふうに言い繕っても、空母は、機甲部隊以上に攻撃的な兵器の最たるもので、自衛隊という看板を日本国防軍と上書きして塗りかえたに等しい。

中国系友が、「日本人って、このごろ、やる気まんまんじゃん」と笑っていたが、つまり、「ほんとに自衛のための軍隊なのかな?」と疑問視されていたくらいの場所から、そういう目で見られるところまで来てしまった。

もうひとつ。

日本の安全保障については話を複雑にしている要素がひとつあります。

中国は、むかしから専守防衛国家で、例えばいまの政府が台湾と尖閣諸島に、傍目からは異様なくらい拘るのは、このふたつが、中国の人にとっては当たり前のこととして「もとから中国の領土だから」です。

台湾という外交問題など存在しない、国内問題だ、と言われると、随分傲岸だなあ、という気がするが、あれは政府に限らず、ごく一般の中国の人にとっても

「そんなん、当たり前じゃん」な常識を述べているだけのことです。

ところが、ところーが

習近平という人は、中国史上、稀というか、太平洋制覇を狙っているんですね。

他国からみれば、ぶっくらこくくらい攻撃的な中国が忽然とあらわれてしまった。

モンゴル帝国じゃあるまいし、日本から見ても、まったく様変わりした中国で、そのせいで、日本の自国の国防/軍備についての認識は混乱している。

近代を通じて、ちゅうか、豊臣秀吉のころでも、日本は終始一貫して侵略する側だったので、軍備を増強しなければ、というのは、「危ない人」が述べる意見にしかすぎなかった。

軍備を、なんのために増強するんですか?

また朝鮮半島で戦争するの?

またまた満洲を侵略するんですか?

東洋鬼、甦る。

一方で、アメリカとの同盟があるから軍隊なんかいらないでしょ、という戦後の伝統になっている意見があります。

アメリカは、なにかがあれば、きっと守ってくれますから。

冗談じゃない。

アメリカが守るのは「日本にある自国の基地」で、日本じゃありませんよ。

いやいやいや、日本は巨大基地のなかでも特異な存在で、いざとなれば、たいていの軍需品は基地自身が生産できる。

なんなら、兵員ですら、現地調達できる、戦時必要品自給能力を持つ全体として、ひとつの基地なんです。

だから、工業地帯も守らなければ。

侃侃諤諤

ほら。

ヘンでしょう?

中国は出てはこない、という前提と、侵攻してくる、という議論が混在している。

現実は、習近平は、出来うるならば日本という「太平洋の壁」を粉砕することを未来の目標として目指している、と信じる理由があります。

だから、中国がいままでのように(彼らの意味での)専守防衛に徹すると仮定して軍備を整えることには、たいへんなリスクが伴う。

遠く隔った問題であるようでいて、320≠203と国防議論の混乱は、実はおなじ問題なのだと気が付いた人が多いと思います。

日本語は十分に論理的な言語だと、もうなんども書いた。

耳にタコができた、という人もいそうです。

でも、いまの日本語社会は論理的とは到底呼び得ない状態で、主に何者かへの悪意と攻撃意志に基づいて、自らの言語の論理性を破壊してしまっている。

日本人ほどの知的国民が、これほど愚かな状態に陥ってしまった理由は、理系と文系に、あんまり考えもなしに二分してしまった、そもそもの迂闊に、病の真相が象徴されていそうです。

当たり前のことを言うなよ、と言われそうだけど、

日本の社会は、まず、正しい言語の運用をお温習いしなければならない。

その「正しい運用」は「理系」の法則にも適っていなければならない。

もっと簡単にいえば人文系がダメで、どうのこうの、と述べているうちは、まだまだ、日本語社会は、底なしの奈落に向けて、感情の灼熱が噴き上げてくるトンネルを堕ちていかねばならないでしょう。

あの、だっさい命題、

日本人とはなにか、

日本語はどうあるべきか、

という問題を、70年代のフランス人のようにでもいいから、みんなで、国民をあげて、話し合わないと、どうにも身動きが出来ないところに来ているのだとおもいます。



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