新年、おめでとう

旧年の澱を掃き清めてピッカピカの新しい年を迎えるのが、日本の「お正月」であるように見えるが、英語圏の正月は、だらしがなくて、新しい年の初めの週末が終わるまでは旧年中であるような、宿酔みたいな、多分、日本の人が見たらヘンテコリンな気がする正月です。

メリハリ、はっきりさせんかい!

と述べたくなるのではないか。

お説教を垂れる日本のおじさんに怒られながら、うるせー、でかい声だすなー、おれは飲み過ぎで頭が痛いんだあー、とおもっている自分が目に浮かぶようで情けなくなくもない。

ミミ・ヤマザキ @positivenumber1 というアメリカで起業/投資家をやっているひとが、

イーロン・マスクはtwitterを「ちゃん化」しようとしているのではないかと述べていたが、卓見であるとおもう。

もうひとつNeuralinkに膨大な人間の思考データを吹きこむためではないか、とも述べていて、こちらも、なるへそ、と考えたが、まあいいや、

「ちゃん化」「ちゃん文化」化のほうは、少なくとも日本語では、あっというまに進んで、さっきツイッタの主な話題を眺めていたら、

もうとっくに「2ちゃんねる ver.2」の趣をなしている。

念のために前置きしておくと、「良い悪い」ということではなくて、

「ちゃん文化」と英語世界で名付けられて、sabotage(日本英語の怠業でなくて、元の「破壊工作」の意味です)とみなした司法当局が動き出した、ネット上で生まれた「思想」の特徴は、人間の品性の最も低いところを狙って打撃する、徹底的な無責任、悪意を基調として善意の価値を信頼しない、というようなところにあるが、日本ではよく「本音」という、イーロン・マスクという人はno rubbishの人で、なんだか冗談のように有能なビジネスマンとしての立場から、ニュージーランドでは首相からしてマジメに信じている考えで、おおきな声でいうと、ぼくも信じている「週4日制・残業なし」なんて、寝言言ってんじゃねーよ、の人です。

Tweetのセンスもお下品を極めていて、あまりにお下品なので、文化サイトの老舗オープンカルチャーなどはツイートを停止してしまった。

世界は禅だ!

なんちゃっていたJack Dorseyとは、えらい違いで、気取ってんじゃねーよの南アフリカ人が社主になったせいで、twitterは「ちゃん文化」の根城になろうとしている。

英語ではいまのところ目論見はうまく行っていないが、日本語ではすみやかに変化は進行して、SNSの価値観そのものが、なんだか「21世紀の2ch」みたいなものになりつつあるようです。

善意なんてお花畑、integrityは生産性を阻害するだけ、悪意を含めて「本音」がいいのよ、おれに踏みつけられた奴は、弱いてめえが悪いのさ、は急速に世界に広まりつつある風潮で、ニュースサイトやtwitterを覗くたびにえらいことになっちゃったなあ、とおもう。

もっとも本人は、あと1年しないうちに40歳という、おっちゃんなので、

まあ、もう、なんでも、どうでもいいや、と考えてなくもなくて、

自分でも、そういうことではいけないんじゃないの?とおもうが、

つっかかってくるダメな人を見ても腹が立たなくなってしまっている。

庭の排水システムが、多分、すごい量の落ち葉のせいで、ちゃんと動いていなくて、地球温暖化の影響のゲリラ豪雨、大雨が降ると、片隅が、ちょっとした池みたいになるので、フレンチ・ドレインを導入しないとダメそうだとか、

クラシックボートのひとつが窓から水が染み出るようになって、あれではマホガニーを張り替えなくてはいけなくなるとか、果ては、あんまりおおきな声では言えないが、普段は目を通さない、プロパティレポートをパラパラめくって遊んでいて、二年前に塗りかえたアパートブロックの壁に使った塗料の品質が悪くて、黄ばんで、一棟16部屋、まるごと黄疸みたいになっているが、製造者責任は問えない、とか、

近年、世界中の大都市に共通の問題だが、水道水に混ぜるフッ素の量が桁違いに増えたので温水筒に孔が開くのが早くて、もう取っ替えないとならない、

不動産投資などは、世に様々ある投資のなかでは、チョーのんびりな投資だが、それでもいろいろ細々した問題はあって、たいへんだよね、と他人事のように考える。

ナマケモノで、自分ではなにもやらないからだけどね。

すみません。

モニさんは投資の才能に恵まれた人で、株式投資も、うまいもんです。見ていて感心してしまう。

夫(おっと)っと氏は、というのは、つまり自分のことだが、もともと株になんか興味がないが、つられて、というか、お昼にラウンジで話をするときに株式の話題についていけなくて寂しいので、あんまりたいした額ではないが、株もときどき買う。

ヘンテコリンなことには、買いはするけど、売りません。

だって話題についていくためにやってんだからね。なにも現金にする必要はない

ときどき思いつくと、PEから始まって、なんちゃらな数字を見て、

おおお、とおもう企業があると、CEOの経歴やインタビュー記事を読んで、

おもろいやっちゃなあ、とおもえば、買う。

投資、なんちゅうエラソーなものではなくて、ひとつの銘柄で数億円ちゅう程度のミセスワタナベが聞いたら、鼻で嗤って、「かわいい♡」と呟きそうな額です。

あの日本のデイトレーダーの総体を「ミセスワタナベ」と名付けた人は、誰だか知らないが、ネーミングセンスが抜群であるとおもう。

それはともかく。

モニさんと異なって、株は、根っから才能がないようで、以前から、ひとつだけ例を挙げることにしているケチャップのハインツなどは、30ドルを割り込むくらいのときに買って、あれよあれよという間に20ドル近辺まで下がって、なんだかもう、釣り用に小さめの、エンジンがでっかい新しいボートを買おうとおもって、Jeanneauの新しいやつ、結構いいな、とヘラヘラと買いに行こうとおもっても、後ろ髪を引かれる、というのは、本来はそういう意味ではないが、まるでポニーテールにした髪を、株の損失が「ワシッ」とつかんで、引き戻すように、買わせてくれません。

株で損をしておいて、そんな贅沢をしていいとおもっとるのか、と神様が空の、しかもかなり低いところまで降りてきて、怖い顔をして述べている。

閑話休題

若いときには大問題ばかり考えているのに、いいとしこいて、30代も断末魔になってくると、問題がだんだん縮んで、小問題ばかり考えるようになるのは、どういうわけだ、と、前に考えたことがある。

頭が悪いからじゃない?という妹の意見も合理性がなくはないが、それを認めると沽券に関わるので却下する。

現実への認識が生まれる。

生まれる、というより精細になる、と言ったほうがいいかも知れません。

もう少し現実に即していうと、目が開いて、現実が見えるようになってくる。

現実のありのままの姿を見るスキルが生じる。

誰かが、なにごとか抑圧的な体制について反体制的な言辞を述べても、

自動的に「あ、これは無効な議論だな」と判るようになってしまう。

言葉を変えていえば現実主義の人に、いつのまにか、自分が変貌している。

よっぽど偏屈な人でないかぎり、やらないよりはやったほうが良い、というので誰でもやってます、

恒常的に、アフリカで飢えている子供たちに、ちゃんとオカネが届くルートを調べて送金する。

もう着ませんね、とみなした衣類のうち、自分でも愛着があって、捨てられないものを択んでサルベーションアーミーに持っていく。

いまどきの世界なので、最低でも、誰でも、そのくらいはやります。

その上で、日本でもやっている人はいるのではないかとおもうが、英語世界では珍しくなくなって、自分の友だちでも、何人か実行している人がいる

アフリカの孤児の子供を養子にして育てたりする。

ビンボだけどビジネスをやる気があるひとびとのためのマイクロバンキングのビジネスモデルをひねりだして、出資する。

日本語のツイートを見ても、同じ事を考えている人がたくさんいるが、

世界を少しでも住み心地がいい場所にするには自分には何が出来るか、

そもそも自分が生きていることに意味が少しでもあるならば、どんな人生を生きていけばいいのか、ダメ頭なりに、のべつまくなしに考えている。

おとなと子供を分け隔てているのは視界に現実が入っているかどうかでしょう。

英語世界で最も軽蔑される人間は、簡単に言えば「口だけ人間」で、

言うことは立派で、貧しい人たちに冨を分配しなければいけない、ジェンダー差別を許すべきではない、戦争犯罪に対して反省が足りない、

なんだか、お題目を唱えれば自分の責任などは雨散霧消して、自分は正義の味方で、お前より賢いんだから、おれの言うことをよく聞いて、更生するのだぞ、と平然と述べるだけの無神経さを備えたまま30歳を越えると、いつのまにか相手にされなくなります。

彼らがペラペラと「正しいこと」を立て板に水のように述べられるのは、現実を知らず、知ろうとする興味もなく、どこかで習いおぼえた教条だけが彼らの「現実」であるからで、現実に対する感受性を持ち、観察力を持って、

実際に現実と交渉をもって生きている人間であれば、絶対に口にする気になれない、言ってしまえばバカみたいなことを、マジメな顔で、滑稽なことには、たいていは引用付きで、他者を啓蒙にかかる。

で、ね。

日本の出版やネットやマスメディアに溢れているのは、そういう現実から剥がれ落ちた言葉ばかりに見えることがあるんです。

ネトウヨではないが、日本人がそういう人間の集まりだ、と言っているわけではない

ありがたやx2

日本に住んでいたことがあるので、口を開かない日本人は、現実と向きあって、現実とお相撲をとるようにして生きているのを、知っているつもりです。

あんまり浮ついたところがない国民性で、だから、まがりなりにも近代国家をつくるのが早かった。

ネットで出会ったひとであっても、普段は「おおきな問題」についてツイッタやなんかで発言しているが、この同じ人は、大学の教授として、

留学生の面倒をみるという形で、厄介な雑事を引き受けているのを、知り合って、ずっと後で知ることになった。

ちょっと拙いかな、と、この頃考えているのは、

だんだん「口先男」「口先女」の比率がおおきくなって、それを支持して、

「口先支持」を表明する「口先大集団」がネットの力で形成されつつあることで、案の定、言っていることとやっていることが、おおきく乖離していて、「言葉では正義を述べながら見えないところで不正な行動を取る」人間が強い影響力を持ち始めているように見えることで、

見ていて、どうもダメですねえ、と、ぼんやり悪印象を持つ。

日本で社会に対して「提言」する人は「それで社会が変わるのか」という自分への問いかけが欠落しているように見えるからです。

ちょっとヘンなことをいうと、ニュージーランドではトランスジェンダーが議論の対象になることは皆無といっていいくらい、ない。

理由は簡単で、トランスジェンダーとして暮らしているひとびとが、議論の対象にされることを、いまの社会の段階では、嫌っているのが判り切っているからです。

皆無、とは言ったが、例えば、数ヶ月前に、教育カウンセラーが、トランスジェンダーについて、「不自然なのでよいことではない」と生徒達にアドバイスしたことがバレたときには、あたりまえだが、父兄から、猛烈な非難が起きて、この女の人は、カウンセラーを辞職せざるをえなくなった。

バブル景気のせいで、頭がおかしくなってんじゃないの?と、よくNZ人同士で言い合うが、まだまだ健康な社会で、

トランスジェンダーの人と「ただ普通に友だちとして付き合う」ほうが、議論を興すよりも、ニュージーランド人の性分にはあっている。

では地を這うように現状肯定の現実べったりの考えで暮らしているかというと、そんなことはなくて、早い話が、ニュージーランドは、自由世界でも珍しい左翼政権で、左翼のなかでも大きく左よりのジャシンダ・アーダーンが首相を勤めている。

左翼政治症状が出て、ビジネスコミュニティや投資コミュニティには、めっちゃ評判が悪いけどね。

経済政策は支持できないが、もうちょっとのあいだ、人間性を強調する政治理念に付き合おう、という国民の意志の表れでしょう。

もうすぐ国ごとビンボになる予定なので、そしたら、また経済重視のナショナルかどっかに政権を、一期だけでも渡さないと、だちかんわ、というのが一般的な意見ではあるけれども。

余計なお世話なので、あんまり言わないほうがいいが、日本語の人は、

「現実から乖離した言葉には意味が無い」という、むかしは日本人がよく知っていたことを、もういちど思い出したほうが良い。

文学だと「美辞麗句」というでしょう?

社会問題や政治の問題について、相手を小馬鹿にしたような口を利いて、冷笑を浮かべながら、得々と「正しいこと」を述べるのは、本人が気持ちいいのは判るが、矢張り傍目にはバカな上に佞人に見えます。

人間を判断するのに、人間の判定になれてくると、人は、言っていることはほとんど聞いてもいなくて、やっていることだけを見ている。

それは則ち、言うこととやることが、まるで異なる表裏人間が、それだけ世界には満ちている、ということでもあるのでしょう。

以前と異なって、誰もが、日本語社会には、「もう後がない」ことを、認めるようになってきた。

これ以上、後ずさりしたり、堂々巡りをする余裕は、日本社会にはもう残っていないのは、おおげさでなくて日本人のみならず、世界中の人が知っている。

川の向こうは、少し遠いけどね、そんなところに立って、思い詰めた顔をして川岸に立っている人に向かって「跳べ!跳べ!」と囃し立てているだけでなくて、きみ自身も、

勇気をだして、もう跳ばなくてはならないところに追いつめられているのだとおもいます。

もうジャンプの効率的なやりかたを、本を買い漁って、じっくり学習している暇はないのだから。



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