進歩しない人は、自分に嘘をついている人が多い。
第一原因にあげてもいいくらいで、他人の視線を感じて、ちょっといまの自分は恥ずかしいかな、とおもえば、現実よりも、少しアップグレードされた自分をつくりあげる。
現代日本には、良い所や面白い所がたくさんあるのは、日本の人の、強すぎるので世界に知れ渡ったプライドを宥めるためでなくて、現実で、よく話題にのぼったせいで、いまはついに日本を訪問したことがない人間にも旧知になった「タクシーの客席のドアが自動で開く」ちゅうような細部に始まって、もしかしたら、これは自分の存在をかき消すための、火遁土遁の術に似た、「空気遁の術」なのだろうか、とおもうくらい見事に気配を消す挙措の巧さに至るまで、日本はユニークに日本として世界に存在して、
変哲もない、どこにでもあるショッピングモールの一隅に気高くおわします虎屋の大暖簾というか、そこだけ異なっていて、しかも場違いではない、事実だが、むかしからこうだったのかなあ、と残念におもう、お下品なところもあって、なにしろ背伸びして自分をおおきく見せようとする人が、たいへんな数で存在する。
いちど、初対面の、見かけたことがあるだけの、軽井沢の隣のおばちゃんに、どっかで怪しいガイジンの噂を聞きつけたのか、どうなのか、家の近くの森で、
「あなた、どこの大学を出てらっしゃるの?
ケンブリッジ?オックスフォード?
まあロンドン大学って、ことはないわね。
タイプじゃないもの」とまくし立てられて、タジタジとなったことがあった。
タジタジ、面白い日本語表現ですね。
ウキウキ、タジタジ。
タジマハールは、早く見に行かないと、壁が大気汚染で崩れかけているらしい。
母国では絶対に起こりえない、とても日本ぽい出来事して記憶されていて、いまでも、よく思い返す。
前にも書いたが、ネットの世界には、ビジネスマン、投資家、大学教員、医学研究者、
「嘘にはならない」、でもあんまりほんとうでもない肩書の人がたくさんいます。
客員教授や非常勤講師というのは、仕事の地味な性質上、実直篤実な人がおおいが、「大学教員」かどうかというと、うーん、な職階で、
社会の通念に沿えば、バイト講師になってしまうので、普通は大学教員と自称するのにはためらいがあるとおもうが、日本語世界では、それどころではなくて、なんだか、なあんとなく「教授みたいなもんです」というような顔をして蔓延っている。
言葉で、はっきりと言わずに、「なあんとなく」匂わせて、無辜にしてかつ無知な人を騙すのが「技」で、それでご飯を食べている。
カッコイイとおもうからなのか「哲学者」が多いように見える。
ま、人間なら誰でも哲学者だと述べる人もいて、嘘にはならないからいいよね。
アイビイリーグで研究者生活をしていたはずなのに、ただの留学で、
第一在米だったのは昔の話で、とっくに日本に帰っていて、これも
「嘘にはならない」ので日本に住んでいることは黙っていて、
なあんとなく、まだアメリカにいるような雰囲気を漂わせている。
子供のときから、思い詰めて、成りたかった自分に届かなかった気持を思えば、嗤うのは気の毒であるようです。
なんだか楽屋裏の事情が判ってくると、あのひともこのひとも、といいたくなるくらい、背伸びして、爪先立ちの自画像を他人に印象させるべく不断の努力を払っている人が多いので、最近では、この背伸びおっちゃんたちは、まとめて「シークレットブーツ族」と呼ぶ事にしています。
非難しようとおもって書いているのかというと、そんなことはない。
最後まで読めば、あきらかかも知れません。
現実のシークレットブーツなら、「わあ、高い高い」で、抱き上げられた赤ちゃんのように、あるいは金正日のように、他を睥睨して喜んでいればいいが、これが実像に対する自己の虚像となると、観察していると、都合が悪いことに、
他人の視線のなかにだけ存在する、いわば虚飾の自分だけが年々成長していくので、現実の自分は成長しなくなる、という重大な弊害があるようです。
自分で「あれもやった。これもやった。」と述べているうちに、言葉のなかだけで自分が成長してachievementが積み重なって、達成されてしまうので、現実に努力するなんてことはめんどくさくなるのでしょう、言葉のハリボテ自分だけが育っていって、自分は、オズの魔法使いよろしく、取り残されてしまう。
で、ね。
いまの日本社会は、社会として、こういう「口先人間の悲劇」を生きているように見えることがあるんです。
もう、日本の人が怒り狂う顔が見えるようで、そこのきみ、怒っちゃいやん、とおもうが、最近、この傾向が常軌を逸してきているので、どうも日本語で書いてみないと、心のなかが、むにゃあ、として落ち着かない。
背伸びは、社会のあちこちで起こっている。
いづも級、だっけ?
あんな空母のおもちゃみたいなものつくっちゃダメですよ。
誰も表立っては言ってくれないが、いったいどういう防衛思想なんだ、と大笑いされて、ああいう考えなら、国民が「戦争するくらいなら、敵が侵攻してきたら、すぐに手を挙げて降参するのが人道というものさ」という高邁な意見を持っていることもあって、ウクライナよりも日本のほうがいいじゃん、といったんは結論が出たというくらいで、日本の安全保障には、冗談染みているが、重大な脅威になってしまっている。
ヘリコプターや地上火器の配備数や弾薬なんかの補給の不備とあわせて、
コストが高い割に実質が伴わない、お飾りの「背伸び軍隊」だと見抜かれてしまっている。
日本の側から他国へ、いろいろに事由をこさえて、侵略する心配だけをしていればよかった時代は、とうに終わって、ベトナムへの懲罰侵攻のような「中華理屈」による少数の例外を除いては歴史的には攻撃的な姿勢を持たないと信じられてきた中国が、そっちの方向に新しくなってどうするんですか、参ったな、これまでの革命防衛主体の戦備思想をかなぐり捨てて、最終的には日本という「太平洋の壁」を粉砕して太平洋を支配するしか中国が生きる道はないと決意したいまの時代には、見栄を張っている余裕はなくて、実質的軍事防衛力を持たねばならなくなっているのに、どうするんだろう、と同盟諸国に思われている。
日本は、このままでは拙いかな?と言われると、いや、アメリカもたいへんだそうですよ、あ、このあいだニュージーランドで議事堂の前の芝生が暴徒で焼け野原になっている写真をみましたよ、気の毒に、あんなになってしまったらたいへんだと同情しました。
財政危機?
ああ、国債は外国投資家に頼る他国と違って、ほとんど日本人が買っているから、いくら発行しても大丈夫なんですよ。
破綻なんてありえないんです。
知りませんでしたか?
マイペンライマイペンライ。
なんにも起きませんよ。
なぜかって?
だって、いままでも、ダイジョブだったもの。
もう「実像を見ない」ことが社会習慣化して、挙げ句は、言語用法として習慣化して定着してしまったので、そもそも改革しようとする人にとっては、取り付く島がない。
ひどいことを言いますねえ、と言われるかも知れないが、実感として、
日本語だけで、ものを正視して考え続けることは不可能になっていて、
ときどき英語なら英語に戻らないと、おおげさにいえば、正気が保たれない言語になってしまっている。
そんなに他言語の世界だけ健全なわけないじゃないですか、という声が聞こえてきそうだが、現在の英語は、普段パブでビールをちびちびやりながら話しているときの英語を除けば、第二言語としての英語で、ややこしいが、英語が母語の人間であっても、例えばインドの人や北欧の人とやりとりするときには第二言語、外国語としての英語で話している。
この第二言語としての英語は、多様性の言語で、英語人に対する最も有効な批判も、この言語で考えられて、この言語でぶつけられたものです。
ロシアや中国が良い例で、ロシア的思考や中華的な思考は、英語世界を
「帝国主義的な思想」として排することで成り立っていて、その結果、現実から乖離した巨大なヘリクツと化して、深刻な語彙を使えば、一個の狂気に国家ごとが捉えられている。
人間が生き延びて行く道は、ただひとつで、衆知の結集にしかない。
ところが単一の母語で形成される「衆知」はモノトーンの狭い思想の増幅にになりやすくて、時には、特に「敵」を意識した場合には、狂気が輻輳されて、一個の人格は、まるで一個の音叉のようになって、言語社会全体が共鳴箱に変わってゆく。
日本語は、ほら、例えば感情表現において、極めて優れた言語で、フランス語と並んで、「世界の美しい言語ベスト5」のようなリストの常連でもあるが、欠点は、社会全体が巨大な感情の動物になって、暴れだす傾向があることだと歴史から見てとれます。
そういう時期の特徴としては、主観と現実の区別がつかなくなる。
平たくいえば「みんながそういうから事実だ」が当然のこととして受け取られることになる。
現実の検証を交互に行う代わりに、攻撃する側が一方的に相手に自己検証を要求して、現実と仮定したときに起きる矛盾を述べるかわりに、相手の人格を足下から掘り崩すことが「反論」と錯覚されるようになる。
ここに至ると、議論とは名ばかりで、誰も相手を黙らせる工夫をするようになって、たとえ日本語の内部にいる場合でも、観察者がしっかりした頭をもっていれば、論者たちが、訴訟に訴えるなり、なんらかの強制力を相手にちらつかせることで黙らせようとしだすので、それと気がつけるでしょう。
そのときは、もう逃げ出すしかない社会になっているのです。
プーケにいる友だちに訊いてみると、以前からフランス人やロシア人が多い島だが、ロシア人だらけ、と言いたくなるくらいロシアから来ている人が増えて、ロシア語をだいぶんおぼえちゃったよ、と笑っているが、
徴兵の問題ももちろんあるが、ロシアの人からすれば、プーチンの世界観から脱出できなくなった社会に対する恐怖心も強くて、それが動機になっている人も多いようでした。
ぼくは現代の日本と日本社会を信じている。
これ、そこのきみ、笑うでない。
日本に、ゴマをすって(←なんという卓抜な表現)もいいことはなにもない、一円の収入にもならない人間が述べているのだから、たまには自分たちの社会を信頼する言葉を信じみてもいいのではなかろーか。
なぜか?
簡単ですよ。
日本語という言語を信じているからです。
戦前の日本語は、広く知られているように、社会を考察する言葉を持たなかった。
主に、自国の歴史を考察する自由を持たなかったことに起因して、戦前の日本社会は、自分自身の姿を観察する方法を持ちませんでした。
戦後、まず初めに社会を考察する言葉を持ち始めたのは左翼で、当然のことに、左翼思想と左翼的世界観に基づいた言葉で、それはそれで、公平に言って、日本の人の社会観は、おおきく現実から乖離するものになっていった。
70年代くらいを境に、それに対するおおきな反発が起きて、今度は、例えば親米的な点において、おおきく伝統右翼とは異なる、右翼とも呼び得ない、いわば「反進歩主義」「反左翼」が特に社会の下層を中心に広がってきて、いまに至っているように見えます。
決定的に欠けていて、日本が現代民主制国家として成熟することを阻んでいるのは「個人」の欠落で、全体から個人に向かう視点のみがあって、個人が全体を自分の都合で観察する言語を、日本の人は持っていない。
個人の欠落は、当たり前だが個人主義の不在になって、個人主義が縮退して、萎縮した結果は、人間性の欠落という結果になって社会の病になっている。
近代国家の成立をめざしたときに倫理を不要なものとして語彙すらつくらなかったことを以前に記事に書いたとおもうが、それと相俟って、日本は、ほとんど「窮地」と呼んでよいようなコーナーに追い込まれているかも知れません。
では、どうするか。
そんな迂遠な、と、きみは言うだろうけど、日本語を立て直すか、英語社会に改築するか、ふたつにひとつしか道はなさそうです。
急かすのは、万事、嫌いだけれども、今回ばかりは、急ぐ。
いますぐ、始めなければ、どうにかしなければ、日本は他国との戦争によらずに「自滅」した歴史に稀な社会として名前を残すことになってしまうでしょう。
まず日本語の美しさを理解することから始めれば、「美しい国」なんて
「美しいわたし」みたいなバカなことを言う人も少なくなるにではなかろーか。
外廊下、と書かないくらい、このごろ、傍観者なりに焦燥しているのよ。
もう社会の話はこのくらいにして、次からは、「B足らん」の話でもしたいとおもっているけれど。
考えてみて、余計な口出しは慎むべきでも、これだけは言っておかないと、後で後悔するだろう、と考えました。
日本が、日本に立ち返る日が来ることを祈っています
Categories: 記事
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