空中ブランコに腰掛けて

奈良が好きだった。

ずっと奈良の町が好きなのだ、と思っていたが、よく考えてみると、頭のなかで「町」と印象されていたのは、実は公園にしか過ぎなくて、泊まる場所が初めて訪問した子供のときから、ずっと奈良ホテルで、いま地図を見ると荒池(これもずっと、いまのいままで猿沢池だと思い込んでいた)を通って、興福寺や東大寺へ行くだけの毎日で、勘違いして、公園を「町」だと考えていたもののようでした。

奈良ホテルは、ちょうどそのころは経営がうまくいっていないころだったのか、ちょっと箱根富士屋ホテルに似ていて、あんまり維持管理が行き届いていないホテルで、レストランの料理も気に入らなくて、いつもに似合わず残して、とーちゃんとかーちゃんに心配されたのをおぼえている。

初めは、わがままを言ってシングルにひとりでいたいと考えて、そうしてもらったが、両親の部屋を訪ねてみると、なんの変哲もない、記憶の印象でいうと「お箪笥部屋」のような小さな部屋にしかすぎないシングルルームとは異なって、遙かに天井が高い、和風の外観の割には西洋風の部屋で、断然ダブル/ツインの部屋のほうが気に入ったので、妹とふたりでシェアすることにして、子供ふたり、なんだか浮き浮きして過ごした。

暖房が、珍しい、スティームパイプで、真冬で、ティンティン、ティンティンと鈴を鳴らすような音を立てて、白い蒸気を立てて、まるで日本のヴィクトリア朝にいるような、不思議な気持ちになるホテルだった。

当時は、なんだか寂れていた、巨大な木造建築のホテルが好きで好きで、

なんどか両親にお願いして連れていってもらった。

SteamVR JAPANというVRソフトウエアがあって、買ってみると、

VR絵画とでもいうような不思議なソフトで、地下鉄の駅や、中庭のある和風建築、居酒屋の赤提灯が下がった路地、えええ、たったこれだけなのか、と正直に言えば、がっかりしたが、がっかりは運慶快慶の金剛力士立像が建つ南大門の階の下に立つまでのことで、意気を呑むような見事さで、

子供のとき、当時は深夜でも入ることが出来た奈良公園に、散歩に出かけて、暗闇のなかで、ふと見上げると、巨大な仁王様で、こちらを見下ろして睨み付けている視線と目があって、妹とふたりで、小さい悲鳴をあげて、

両親に笑われたのを、まざまざとおもいだした。

なるほどVRの未来は、こういう臨場感にあるんだな、と考えたりしたが、それはまたVR/ARの記事として、別に書くのだろうとおもいます。

前にも書いたおぼえがあるが、子供心にも好感をもったのは、国宝であるはずの優美な五重塔に、フェンスも柵もなにもなくて、

深夜だというのに建物のなかにまで入れそうだったことで、

妹が怖がるのでなかには入らなかったが、

縁側のように張りだした回廊に腰掛けて、

月を見上げていると、

あんな光景は、後にも先にも見たことがない、

鹿たちが、

あるものは立って、

あるものは座して、

あるものは、ふり返るようにして、

釣られたように満月を見上げていて、

真っ青な月光を浴びて、

ほんとうに、これが現実だろうか、と考えるくらい美しかった。

いま思い出していても、箱崎の高速道路上、ちょうどターミナルに曲がって降りていくところから眺めた、光の洪水としか言いようがない、光をそのまま宝石にして、誰かがおもいきりひっくり返してみせたような、

見たこともないまばゆさの東京の夜景と、奈良の記憶が

ごく初めの頃に日本の印象になったことが、いまでも持ち続けている日本という国全体への良い印象になっていて、幸運だったとおもう。

その初めての関西への旅行で、当然のように京都にも大阪にも神戸にも行ったが、京都も、子供には判りにくい町だったのか、京都人が怒りそうだが、

なにもおぼえていなくて、強いて言えば、京都タワーが、あまりにヘンテコリンなデザインで、妹とふたりで、いまここには書けないような感想を言い合ったことくらいしかおぼえていないようです。

日本の人にはアジア人としての自覚が足りない、と、最近はアジア諸国の人だけでなく、日本の人自身の口からも、よく聞かれるが、たしかにそうなのだけれども、子供ではあっても、ぼくも、「日本は、なんだかアジアとは異なる国だ」と感じていたような気がする。

香港のほうが、よほど西洋ではないか、と言われそうだが、子供のころに初めて訪問した香港は、ペニンシュラかどこかに泊まったのだとおもうが、

窓から街を眺めていたら、向かいのビルの窓があいて、日本語では確かランニングという不思議な名前ではなかったかしら、袖なしの下着を着たおっちゃんが姿を現して、下半身が見えたはずはないが、記憶のなかでは、なぜか傑作日本語ベストテンに入りそうな「ステテコ」をはいていて、それはともかく、生ゴミのおおきな袋の中身を階下に向かって無造作に捨てている。

えええ?とおもって生ゴミの落下先をみると、そこには一階商店街の張り出し屋根があって、小山のように盛り上がった生ゴミが延々と屋根に沿って続いている。

街の外形は西洋だけど、印象は、異なって、ごく自然に日本のほうが、

自分たちの文明に近いところを歩いているのだと普通に感じていたようでした。

子供の目による観察でも、日本の人には好感を感じることが多かった。

難しいことではなくて、例えば銀座のお鮨屋さんに連れていってもらうと、もちろん、興味津々、カウンターのなかの「職人さん」たちのやっていることを目を輝かせるようにしてジッと見る事になるが、直ぐに気が付いたのは、ほんの少しでもまな板を使うたびに蛇口から水を流して、

さっと洗うことで、

そのころは、まだ、イギリスでもニュージーランドでも、

食器を洗うのは溜まり水を使うことに決まっていて、

日本からホームステイで来た留学生が、流し水で食器を洗うのを見て、

「日本人は水さえ大事にしない」と眉を顰めて、おとなたちがヒソヒソしていた頃です。

ま、たしかに水の無駄遣いではあるが、流水のほうが衛生的な気がして、

両親に献策して、家でも、数回の評議のあと(^^) たまり水を全廃にしてもらったりした。

もちろん、いまでも、溜まり水を使わずに水を、ザアザアと流して皿を洗う人を背中から睨み付けている人はいるわけで、人の考えはいろいろだけど、

それでも見ていると、だんだん、皿洗いは、日本式に流水派がぐっと増えていて、いちいち、なんだかそういうところで、日本の人と「性があった」のだとおもっている。

好意を持ち始めて、あらためて毎日のなかで日本を眺めると、ものがよく見えるようになってきて、当然のように解像度があがってくる。

葉の色が暗い常緑樹の日本の森や、

かつての豪族の屋敷跡なのか、水田に取り囲まれた小高い丘が点在する、

日本の田舎を歩いていると、生まれて育った国では、想像もできなかった美しい風景に遭遇する。

いつかtwitterを眺めていたら、あ、福島だ、とおもうビデオをtweetしている人がいる。

https://twitter.com/Enezator/status/1610000361594540033

ほんとうは福島どころか日本でさえなくて、どこか稲作が盛んな別の国のものなのかも知れないが、頭のなかの、福島で見た光景そのままなので、

なんだか、しばらくボーゼンとして見とれてしまった。

日本は文明だけでなく、自然さえユニークな国で、むかしは、どうしてあんなに美しい自然をオカネみたいなくだらない理由で壊してしまうんだ、と、やきもきして、怒りすら感じたが、過去になるといういことは便利なことで、やきもきするかわりに記憶が勝手に風景を修正して、

空を細分する電線は消え、倒産したパチンコ屋の倒れたまま錆びて朽ち果てた看板や、「ラブホテル」の廃屋は、いつのまにか記憶の風景から撤去されて、美しい村落の風景だけが残っている。

テングサの臭いだそうだが、初めは嫌で仕方がなかった「日本の海の臭い」も、いつか英語版PCゲームを買いにでかけたグアムから戻ってきたら、カヤックにでかけた葉山の海で、「ああ、日本の海の匂い! いいなあ!」と自動的に考えて、自分でもびっくりしたりしていた。

いまはもうコロナpandemicは、どこの国でも無理矢理おわったことになって、また航空便が、ためらいがちな様子で、少しづつだが、復活しはじめている。

最近は、自分の生活上は移動の方法に変化が起きて、ここに書いても仕方がない「手」もあるが、どちらにしろ、

もう日本には行かないのではないか、と漠然と予感する。

2010年に、やってきた日本から11月にシンガポールへ出かけて、いったん日本にもどってきて、ニュージーランドへ帰るのだけど、

そのときに、頭では、また帰ってくるつもりで、それなのに東京の家でも、単にチェックにでかけた鎌倉や軽井沢でも、

もう最後だから、と感覚のほうは囁いていて、訝しかった。

マジメに、ニュージーランドへ戻る飛行機が墜ちるのかしら、と、ちらと考えたりした。

モニさんの強い要求をいれて、ニューヨークでもロンドンでもなく、オークランドに本拠の家を持つことにして、以前の家では子供ができたら手狭だろうということになっておなじオークランドのリミュエラに新しく買った家に戻ってきて、年が明けて、もう数日でニューヨークへ発つという311日に、

東北大震災が起きたのでした。

係累をもたない国で起きた災害であるのに、長く、打ちのめされたような気持ちでいることになった理由は、このブログの当時の記事にも、たくさん書いてあります。

タイムズスクエアのLEDスクリーンを初め

「がんばれ、日本!」

一色に染まったマンハッタンの街を、ほっつき歩きながら、

日本がなくなってしまう

日本がなくなってしまう

と、つきまとう考えが離れなかった。

現実の日本はボディブローは受けたものの、まだちゃんと存在して、

事態は必ず収拾される、と、強気の見解を述べていて、

ピンピンしているのだから、ずいぶん失礼な話だけれども、

日本は終わってしまったのだ、という理不尽な考えが繰り返し頭を過ったのは、ver5の「雨に濡れる権利」を初め、何十個という数の記事に書いてあります。

そしてそこで、日本との関係は終わってしまった。

家も売り払って、嫌になったというわけでもないのに、立ち寄ることも、2014年だったか、ただ一回、数日立ち寄った機会を除いては、ついぞ、しなくなってしまった。

きちんと考えてみたわけではないが、自分が知っている日本と違う国になってしまったように感じていたからでしょう。

あの夏、コモ湖のTremezzoの丘の上にあるレストランの、湖の北半分を見渡せるテラスで、

スイス人の夫婦と、「フクシマ」の話をしていた。

夫はドイツ人、奥さんはチューリッヒの人、ふたりともドイツ語圏の人です。

もう事故から数ヶ月たっていたので、特に熱心に報道したドイツ語圏マスメディアのせいもあって、ふたりとも、よく事故の実態や、経過の実際を知っていた。

多分、曖昧で「韜晦」と呼んだほうが近い報道に終始した、日本の人よりも知っていたでしょう。

そのときに出た話を、ここに書いても仕方がない。

第一、昨今の日本の人の傾向では、書いても、「マクドナルドの女子高生」と同じ類の話だと受け取るだけでしょう。

ほんとうは、それは傲慢にしかすぎないが、外からみれば傲慢な態度でも、内側にいる人たちにとっては、「もう、ああいうやつらの話は聞き飽きた」という気持ちがあるに違いないのです。

食事のあとのリキュールになっても、まだ続いていたフクシマについての話は、それに、日本の人からしたら人種差別だと憤慨するような部分が、特に文明論のようになった後半は続いたので、どちらにしろ、書かないに越したことはない。

ただ「日本人は誤魔化しと解決の区別がつかないのだろうか?」と述べるドイツ人夫に、我も知らず口をついて

「でも爆発した原発に、処理なんてものが、この世界に存在するのでしょうか?」と言ってしまって、しばらく会話が停頓してしまったのをおぼえている。

考えて見ると、あれ以来、日本の人にとっては、世界は「現実を直視すれば破滅するしかない」場所になっている。

嘘をつかなければフクシマ事故は、ほんとには処理できないからです。

世界のほうでも、そういう事情を知っていながら、労りからか、利権の思惑からか、理由は判然としないが、日本の嘘を真に受けるふりをして付き合いを続けている。

しかし、決定的に困ったことがひとつあって、どちらの側も、自分たちが信じているふりをしている「処理」が、ほんとうは虚構だと知っている

ロバート・オッペンハイマーは1945716日、見事に成功したマンハッタン計画の核爆弾の爆発を見て、バカバットギータの一節、

Now I am become death. The destroyer of the worlds」と呟きます。

オッペンハイマーが、そのときなにを見たか、どんな未来を見透したか、

プーチンの狂気が宿った目を通して、もう、きみとぼくは知っている。

日本と日本語は、さまざまなもの、文化と文明、就中、自分が生まれ育った言語とは、まるで異なった思考の方法を与えてくれたとおもっています。

フランス語やスペイン語では、ここまでの衝撃を与えてはくれない。

遙かに遠い、まったく異なった言語の体系だからこそ、でした。

そうして、その「向こう側」と言いたくなるほど遠く隔たった文明の言葉が

核事故によって崩れ去ろうとしている。

意味を失い、現実から乖離して、言葉ごと砂上の楼閣に変わり果てている。

どんなに懸命に訴えても、真実と信じる言葉を叫んでも、

それがただの言葉遊びにしかならない現実が日本語を囲繞している。

近未来に日本語が結んでいる焦点は、現実と結合した言語が生むものだけを言葉と呼ぶ事にすれば、「言葉のない世界」なのでしょう。

ひたすら美しいが、現実の手で触れようとすると、ホログラフのように、突き抜けてしまう。

ここから日本語がどこに行くのか、あるいは、自分がすでに死んでいることに気付いて、崩れ落ちる砂の像のように、突然、風のなかにかき消えてしまうのか、

考えていると、なんだか胸が苦しくなってきて、

あわてて英語の世界である日常に駆け戻りたくなってくる。

どうして、これほどの苦難を言語が引き受けることになったのか。

なぜ、日本語だけが。

そう思わないわけには、いかないのだけど。



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