予想よりも、やや早く、日本語が崩壊してしまったので、なあんとなく、おもしろくない。
自分の趣味のなかでも「日本語」は、われながら、なかなか良い趣味だとおもっていて、ほぼ異様なくらい飽きっぽい性格であるのに、細々と、続いていて、いまやヨット/ボートに次ぐ長きに及んでしまっています。
考えてみると、日本語は、子供のときに住んでいたことがある、ということもなくはないけれども、それよりは、他と異なるものが好きな性格と、日本の人の、あからさまに言ってすまんすまんとおもうが、異常な、突出して悪い国民としての評判が珍しくて、そんなに、ほぼクソッタレぞろいの英語人が口を揃えて悪口を述べる国民性ならば、案外、面白いのでないか、と考えたことが理由になっている。
あわてて、「ぼく、傷付いた。どうしてくれる」のひとびとを宥めるために付け加えると、いまの若い日本の人たちは、評判がいいも悪いも、ただの春馬くんなら春馬くんで、日本人もなにもなくて、個々の人間として見ているだけだが、子供のころ、おとなたちの口端にのぼる「日本人」は、明らかに別の人たちで、評判によれば、尊大で、嘘つきで、ファイブスターホテルの廊下を、大声で話しながらバスローブとスリッパで歩き回るイナカモンで、
しかも「白いねーちゃんと、どこに行けば寝れるか」ばかりガイドの人びとに聞く札束を握りしめた買春集団だった。
実際、十年くらい前までは、冗談みたいだが、冗談ではなくて、クルマに乗ってニュースを聴いていると、「ウエイトレスの胸を鷲摑みにしてポリスに逮捕された」日本人観光客のニュースが一年に一回、年中行事のように流れていたし、かーちゃんは流石に、口に出しては言わなかったが、家の人は、妹に「日本人を信用して親切にしてあげたり、ついていったりしてはダメですよ」と言われたりしていた。
天然自然に大層嫌われていた日本の人が、デコにべっとりついた汚れた日の丸を剥がしてもらえるようになったのは、ごく最近のことです。
いくら「昭和はよかった」「80年代は元気だった」と言われても、
いまの日本人のほうが、ずっといいよね、とヒソヒソするのは、つまりは、そういう歴史的事実によっている。
(閑話休題)
日本語は、元来、極めて美しい言葉で、よく挙げられる例を挙げれば、
「樹洩れ陽」なんて表現は、他の言語では逆立ちしても出来ない。
視覚的な美の描写に揺れ動く太陽の光の「動き」が入っているからで、
日本語には、こういう構成として複合的な自然の美しさを描写する表現がたくさんある。
感情表現が多彩で、ひとを恋する気持ちの表現に至っては、文字通り山ほどある。
当然のように詩が発達して、アクロバティックな表現を追求すると、たいてい詩人は失敗するものだが、西脇順三郎などという人は、
日本語の音と表記を、どんどん磨き上げて
もうレンゲソウも
菜の花もない
また川辺りに来た
遠くにバスが通る
ひとりの男が
猫色の帽子をかぶって
魚を釣っている
それを
見ている男の顔は
スカンポのように
青い
のいばらの
枝の首環の下から
エッケー!
ホ
ー
モ
ー
…..
くらいのことは、造作もなく書いて、
現在と永遠を、こともなげにつなげてしまう
もともと、なんでもやれる言語で、
宇宙よりも、少しおおきな集合を表現しうる、豊穣な言語だった。
中断して、ちょっと余計なことを書いておくと、
レンゲソウと書いてあって、菜の花と書いてあるのだから、
日本語人であれば、山村暮鳥の「なのはな」が当然、脳髄のどこかで呼び起こされているので、「なのはな」ではない「菜の花」として無意識のうちに読まれている。
ここのところは、野茨ではなく「のいばら」と択び、首輪ではなくて首環を選択したのとは、意味が異なります。
なんだか小言ジジみたいだが、最近の日本語は、そういう当然の読解は、いっさいすっ飛ばして、首輪も首環も頸輪も同じで、蓮華草もレンゲソウもおんなじですよ、どころか、菜の花がなのはなと表記された、ふざけていえば栄光の歴史も無視されて、そんならいっそAIで文章を書いたほうがいいんじゃないの?と言いたくなる、「意味がおなじなら、みな同じ」なところまで日本語は退化している。
そこまで行ってしまえば言語というより記号で、絵文字の代わりに文字を使っているようなものだが、疑うと、日本語の衰退は、もうそこまで進んでしまっているのではないか。
(中断おわり)
まず一旦は軍人言葉が破壊して、戦後は、テレビの破壊力なんだか、どうなのか、60年代当時、本人が書いた日本語を読んでも、あんまり感心しない日本語の書き手の、ジャーナリストの大宅壮一という「批評家」のおっちゃんが、テレビの登場によって
「一億総白痴化」が進むだろうと、預言しているが、
当たらずとも遠からずというか、なにしろ言語表現そのものが、語彙の段階から貧しくなって、戦前からの日本語の歴史を見てくると、途中で、「ルビ」という日本語が生き延びていくためには必須におもえる出版と新聞の習慣がなくなったことの影響がおおきかったように見えるが、美しい日本語表現を使う層の特権化が起こって、漢字の読み方が判らないまま、間違ったりすると笑いが起きる、慈悲もない国民性と相俟って、商圏と「しょうえん」と読み、云々を「でんでん」、分水嶺を「ぶんすいりょう」と呼んだりしているうちに、最近になると漢字を印刷した厚紙を持って掲げて国会質問に立って、自分たちの代表である首相に対して、「あなた、これが読めますか?
読めないんじゃありませんか?一国の首相たるものが、こんな簡単な漢字を読めなくて、どうするんですか?」
と正義の人然として迫る体たらくで、
マンガみたいだが、現実の国会討議で、日本のゲスなおっさんたちが大好きな魚拓はないがビデオがあちこちに残っています。
英語では、いまでも、少なくともサロンや大学構内ならば、「きみの英語は、だんだん古くなるね」というのは、褒め言葉です。
Evelyn Waughが文筆家として尊敬するウインストン・チャーチルに、
「きみの英語は古いね」と言われて、相好を崩して喜んだのは、本人が、方々で述べている。
Wazzaaa! とバドワイザーをプリングを引きながら述べ会うのを見るのは楽しそうでも、あたりまえだが、そればかりになると、もちろん言語は亡びる。
日本語は、ところが、そういう、なんだか悪夢のような場所を漂っている。
言うまでもなく、自分が安心して寄りかかっているこの世界は「現実」そのものではなくて、「現実と意識している認識」です。
認識こそが現実の実体で、その証拠に脳の機能が故障すると、現実そのものが故障する。
大乗仏教の唯識論的なことを述べているわけではなくて、ごく単純に人間にとって世界とは認識そのもののことだ、と述べている。
そうして、この認識は言語によって出来ている。
猫や犬が大好きな人は、彼らの怒りや、悲しみ、喜怒哀楽がどんなふうか、よく知っているとおもうが、ちょうど、それを自分の脳内で起きていることと差し引きしてみればいいかもしれません。
差分のおおかたは、どうやら言語で出来ていることが判るでしょう?
しかも脳は、たいへんな詐欺師で、自分がやってもいないことを、やったと主張するのが得意です。
ここではベンジャミン・リベットの実験の解釈もパイパスしてしまおう。
もっと簡単で身近な「口にしなかったことは、ほんとうに考えられていたか」ということを考えるだけで、脳機能と言語が共謀して、毎日働いている詐欺の正体は明らかにできそうです。
「ぼくも、そうおもっていた」は、伝達機能をもった言語で、言葉として発声されていなければ成り立たない主張だということが、自分を省みれば、すぐに得心がいくでしょう。
言われなかったことは、考えられてもいなかった。
行動にうつされなかった「考え」について、人間が歴史を通じて不信を述べてきたことには、正当な理由があって、脳のなかだけで生成された言語は、実は、後付けで、なあんとなく、そうおもっていたというだけにしかすぎない。
行動されなかったことは、考えられてもいなかった。
70年代初頭まで、特に政治や社会活動において、日本語人が言語と行動の問題で悩み抜いていたことには、過去の出版物にはっきりと刻印されています。
「口だけ」とみなされた「知識人」たちを、現実の改革を求める若い日本語人たちが、激しく糾弾している。
いまでも信奉している人が多い吉本隆明なども、そういう「若い世代」の急先鋒でした。
だいたい、そのあたり、年代でいえば1960年代をピークにして、日本語は急速に質的な優位を失って、語彙が縮小したうえに、日本の人の悪い癖で、
あんまり理解を深めないままカタカナ語や粗製翻訳語を文のあちこちに代入して、例えばフェミニズムもレディファーストもchivalryも一緒くたの、珍妙なことになっている。
カタカナでなく、ちゃんと日本語に翻訳してある言葉にしても、極端にいえば「ほんとうはカツ丼を食べたのに、鰻丼だと言い張るなんて歴史修正主義者だ」というようなことを、オオマジメに述べる人がたくさんいる。
だいたい同じ意味だからいいだろう、ということなのでしょうが、
そこまでテキトーに言語を使うようになれば、犬が吠えているのとたいした違いはなくて、いっそ黙っていてくれれば日本の文明は進むのに、と日本語ファンとしては、うらめしくなります。
そうこうしているうちに、平気で嘘をつくようになって、首相からして率先して、しかも世界中の人が注視している舞台で「アンダーコントロール」と述べて両腕を頭の上で振りまわしてタコ踊りをしてしまう。
現実だと思うだに恐ろしいが、現実なんです。
なんだか泣きたくなってしまう。
15年前に盛んに「ひええええ。引き返してくれえ。正気にもどってくれえええ」とお願いし続けてきて、もとより、弱小ブログなんかに人を目覚めさせる力がないのは判り切っているが、やむにやまれず書いてきて、
もうここまで来てしまうと、日本語が衰退から甦ることはないでしょう。
万が一、甦るとすれば、ただひとつ可能性があるのは、
英語が公用語として広く導入された場合で、学校の授業や、企業のミーティング、あるいは町内会のようなレベルまで英語になって、…というと笑い出す人がいるかもしれないが、日本の社会が他国なみに移民を奴隷労働力としてでなく受けいれるようになれば、十分可能性があるはずです….
日本語が極く私的な場でのみ使われる、たとえばインドのベンガルコミュニティのような言語社会になっていけば、日本語は、そこから甦っていけるが、それには、50年や60年はかかりそうで、そんなに先のことは、これからくる若い人が考えたほうが、よい知恵がありそうです。
気が付いている人がたくさんいるのは、ネットを見ているだけで判るが、
日本語の崩壊は加速がついて、え? こんなに速く進むの? とおもうくらい、どんどんダメな言語になって、そもそも表現と語彙が縮小して世界の1割くらいの事象は、そもそも該当する語彙も表現も存在しなくなっている。
前にも例として挙げたおぼえがあるが、
映画のスタトレックを「鑑賞」してしまう以外に、映画を観られない、というようなことも、日本語のあちこちで起きている。
死語が大量に生まれる一方で、現実と整合しなくなった表現が、あちこちで、他に見あたる言葉もないので、旧弊化したまま、やむをえずに使われている。
では、どうするか?
ぼくはね。
考えるの、やめちゃってるんです。
興味がつづくあいだは、日本語を書いて、もうこりゃつまらん、になったら、書こうとおもっても書けないでしょう。
それはそれで仕方がないことなのではないかしら。
ただ、書く気が起きるあいだに、美しい表現に巡り会えればいいなあ、とおもってます。
単純な欲望で、なんの言語でも構やしない。 言語の
「美しい表現」が好きでたまらないんです。
そして日本語の世界にも、未来にはきっと、
世界のどこかからやってきた言語と宝石の類似性を知っている若い人が、日本語を通りかかる時が来ると信じている
ほら、鮎川信夫が述べているでしょう?
「迷うのはやめよう
ぼくが言葉を失えば
誰かがきっとそれを見つける」
その日を信じて。
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