自殺と自決

日本語が辿り着いた場所は、悲惨なものだった。

最も傷々しいのは言語自体が現実から剥がれ落ちてしまうようにして、現実感を持たない存在になってしまったことで、ちょうど、おふざけで仲間と青木ヶ原で遭遇した首つり死体を動画配信して大ウケしたyoutuberのローガン・ポールと同じことで、

成田悠輔という日本のテレビでは人気者であるらしい経済学者が

「日本の老人は役に立たないのだから口減らしに集団自決すればどうか」と述べていたりする。

解像度が低い観察と日本語になれているマスメディアは見過ごしてしまったようだが、シュルレアリストの巖谷さんは見落とさなかったようで、彼は集団自殺ではなく、集団自決と言っているのだ、と、指摘していた。

言葉は、それ自体、潜在意識を持っていて、その言語を使って暮らしてきたひとびとの、現実生活での、苦しみや悲しみ、喜びや怒り、様々な感情が語彙には堆積している。

20歳の若者が、世間をわたってきて、悪意や無神経さに弄ばれて、こんな世界に希望があるわけはないと思い詰めて、鴨居から首を吊るときに「自決」とは言わない。

自殺した、と言語は意識しています。

自決は、どんなときに使われてきたかというと、作戦的には効果が薄いことを知りながら、「日本の未来を輝かしいものにするために全ての日本人の若者は死ぬべきだ」と信じて、命令して、レイテ作戦の敷島隊から始まって、沖縄まで、特攻作戦を立案して実行した大西瀧治郎中将は板の間に正座して小刀で切腹したが、当時の文章を見ても、普通に「自決」とあって、自殺と書いてあるものは見た限りではないようです。

戦後では三島由紀夫が私設軍隊の「楯の会」を率いてダヌンツィオの日本版のような「右翼」運動をおこなった挙げ句、市ヶ谷の自衛隊東部方面総監部に突入して、増田兼利総監を拘束、このひとの透らない声で、ほとんど誰にも聞きとれなかった檄を飛ばしたあと、蹶起を促した当のバルコニーを取り巻いた自衛隊員たちの「バアーカ」

「なにやってんだ」「引っ込め」の野次に囲まれながら切腹して、これも「自決」と呼ばれて「自殺」とは記録されていない。

この三島由紀夫の自決について、自分で書いたブログ記事を見ると、どれも「自殺」と書いてあります。

一般に考えられているような社会性を持つクーデターの試みとは考えなかったからで、

ちょっと冷たすぎるようだが「小説を書くことに飽きた小説家の自殺」としかいまでも思っていないので、自決と呼ぶのはケーハクな気がして、語彙を使えなかった。

自決は、つまり社会との関わりにおいて自殺することなので、

老人たちの「自決」を提案するのは、要するに、心理的なアウシュビッツ収容所をつくって、ガスチェンバーに入ってもらうかわりに、もともと殺すためのコストが高すぎるせいでガス室をつくって安上がりに殺してしまうためにガスを使うことにしたのだけれども、そのガス代よりももっと安上がりに、自前のナイフを腹に突き立てて死んでもらえ、ということだったのでしょう。

言語というものは自分で顕示的に意識しているよりも、あまり意識しない語彙の選択によって頭のなかで考えていることを表現してしまうものなので、この経済学者は、おもわず「自決」という語彙を選んで、自分で十分に意識していなかった、アイデアの酷薄性と現実性を意図したよりも余す所なく表現してしまう。

言っているほうも聞いているほうも、明示的に意識しないまま「自決」という言葉を使って、ぼんやりしたまま発せられて、また薄ぼんやりのまま受け取られて、言葉の体系それ自体だけが意味を理解している、という不思議な情景だったが、生きた日本語で意識を形成している日本語人の巖谷國士さんは、見逃さなかったので、こんな言い方ではなんだか失礼だが、見ていて感心してしまった。

自殺も自決も自裁も、いっさい区別がない無頓着で、発語する本人が実際には何を言っているのか「意味」は判っていても実際に語彙が表現しているものを気が付かないまま、受け手も意味だけを受け取って、おこなわれた言葉のやり取りが、ほんとうはどんなものであったか、言ったほうも聞いたほうも気が付いていない、というのは、現代日本語ではありふれた光景で、こういうことはもともと外国語として日本語を見てきたほうは、なにしろ自殺と自決のふたつの単語を、当然ながら両方とも辞書を引いて意味を確認して、用法をいくつかカードに書き込む、という作業を経て理解しているので、直ぐに気が付くが、

母語として日本語を使う日本語人のほうは言語が持っている歴史的な堆積を無視して気が付かないまま、いわば語彙のほうで選ぶようにして、使っている。

なんのことはない、話者は、この場合、言語から見ればただの乗り物で、言語だけが感覚し、言語だけが綿密に思考している。

タミヤの模型は、日本では自動的に「オヤジ趣味」とされて、いちどブログ記事にプラモはタミヤが良いと書いたら、むかしの子供しかつくらないものだというので、いきなり50代のおっちゃんと認定されてびっくりしたが、英語世界では、そもそも子供が買うものではなくて、鉄道模型と似ていると言えばいいのか、子供にとっては高価な憧れだけの趣味です。

日本語では「バリ」という、プラスティックを成型するときの失敗部分がなくて、

しかも部品を組み合わせてみると、ぴったりあう。

子供のころに、連れて行ってもらって、タミヤ本社を見に行ったことがあったが、

そのときに社員のひとたちが親切に説明してくれて、父親は、模型専用の射出成型装置を見て驚愕していたのを憶えている。

「いかに現実に近づけるか」に集約された会社で、おかげで、ときどきモニさんとふたりで「プラモをつくって遊ぼうか」ということになると、持ち出されてくるのは、たいていタミヤ製です。

なれてくると、FujimiAcademyでは矢張りダメなので、パッと見て、例えばUSS Missouri BB-63だと判りはするけれども、意味が同じだというだけで、簡単にいえば艦影が立体化されているというだけのことです。

もの足りない。

円周率は「3」でもいいのだけれど、せめて「3.14」にして気分を出したらどうか、という気になります。

閑話休題

自殺と自決を持ち出すまでもなく、日本語は衰退して、「意味がおなじならおなじ」というところまで落ちぶれているのではないか、と疑うことがある。

おれもわたしもぼくも同じ一人称主語だと看做される日も近いのではないか。

「スター・ウォーズを鑑賞しました」ではスター・ウォーズという映画を観たことにはならないということに気が付かない人が出てくる日が近いのではないか。

女の人は、内心で「おれは」と呟くとき、ほんの少し自分を解放しているが、日本語の秘密は、そういうところにあって、ありとあらゆる表現に日本という独自の文明に、ときに未分化のまま澱にように沈潜してきた感情がつもっていて、しかもその感情には、例えば女のひとたちを人間とは少し異なった、生殖と性を中心においた日本語独特の、存在への社会認識がある。

成田悠輔にとっては老人が邪魔だったが、長いあいだ都知事を勤めた作家、石原慎太郎にとっては生殖機能を持たなくなった女の人たちが邪魔だった。

この石原慎太郎という人はなんども繰り返し、「月経があがったババアは社会にはいらない」という表現で「自説」を述べていて、いきつけの鎌倉の寿司屋でもよく同じことを言っていたそうだが、誰が「いらない」とおもっているかを考えれば、日本語社会では、もともと男だけが人間で、女のひとたちは、人間を成立させている、社会の、人間とは異なる、「女」という名前のなにか人間以外のものと認識されていて、その根本的な認識が言語自体に、建築の基礎として地中深く打ち込まれた杭のように、深く深く埋め込まれている。

最近盛んに論議されている欧州語の男性型、女性型とおなじで、自分が言語を使う限り、必ず意識のなかで偏見が補強される結果になる、厄介なものとして母語が意識に巣くっている。

そこに英語をベースとした近代社会を肯定しようとする力が働いてくると、どうなるか、という事態を、いま、日本語人は眺めているのでしょう。

英語は、いまはEFLで、どんどん改築されているが、もともとはイギリスという北海文明の国の言葉で、ベーオウルフ時代の伝承でも判るとおり、いまのデンマークやノルウェー、アイスランドと一緒に交易圏を形成して、ドビンボ集団として氷と吹雪の世界に生きてきた。

最近の発掘によって考古学上も明らかになってきた北海文明のおおきな特徴は、男と女の社会的な地位どころか役割も、ほぼ区別していなかったことでした。

例えば、ごく最近でもバイキングの伝説的な将軍が実は女の人であったことが埋葬品の調査によって判明している。

男と女を区別する思想は、フランス化したバイキングであるノルマン人が持ち込んだもので、なにしろ男たちを相手に泥まみれになって大剣をぶんまわしている女の人よりも宮廷で雅びに花を手に取っているLadyのほうがカッコイイので、女の人は女であることを強調して扱ったほうが文明的に見えるね、ということになって、悪の道にしばらく染まっていた。

もうひとつ、バイキングがイングランドを制覇した、ちょうどそのころ伝染病のように広まっていったキリスト教も、起源の中近東アジアの社会習慣を反映して、強固な男女差別を伴った宗教で、北海文明の伝統は、言語の奥深くに息を潜めるだけになっていった。

「もしかして女の人も男と全くおなじ人間なんじゃないの?」というのは、だから、ルネサンスではないが、復興思想なんです。

世の中には、女も男とおなじ人間なんじゃないか、と言われて、「もしかしたら、そうかな?」と考える奇矯な人もいて、そういう人から、だんだん、女の人たちに人間として暮らす機会が訪れてみると、ややや、というか、ぶっくらこいたというか、

数学でも音楽でも絵画でも、それまでは女の人に才能なんかあるわけない、

Maria Gaetana Agnesi? ああ、あれは男のモノマネが巧かっただけの人でしょう。

なに、独創的だった?

それじゃ、ほんとうは男だっただけのことだよ、と苦しい言い逃れをしているうちに、なにしろ現実に能力があるものだから、英語世界では、あっというまに女の人たちが社会で重きをおきだして、ニュージーランドなどでは、テレビでジャシンダ・アーダーンのチョーかっこいい演説を聴いて感動した男の子が、

「おかあさん、男でも首相になれるの?」と母親に訊いた、という。

余計なことをいうと、これをフィンランドでの話だと書いている人がいたが、ニュージーランドでの話で、ほんとうはジャシンダ・アーダーンではなくて、ジェニー・シップリー、ヘレン・クラークと女の人の首相が続いたときの、20世紀のニュージーランドでの逸話です。

そういう言い方をすれば、現代は、一地方文明にしか過ぎなかった北海文明が普遍性のある文明として世界に広がる過程にあると言えなくもないが、そこでおおきなトラブルに見舞われているのが日本文明で、そろそろ飽きてきたので、また違うときに書くが、日本文明は、日本語という高度でelaborateな言語で出来ていて、ところが、この言語が人間に上下を付けること、就中、男と女に厳格に分けて、女が男を補助する役割であることを大前提にしているからでした。

例えば日本語を、もともとの世界でも有数の美しい言語の姿で話すには敬語の正確な運用が不可欠で、英語も、もともと敬語が発達した言語だが、身分制に立脚している英語と異なって、性別に立脚した敬語や言い回しは少なくて、その点で性差別が言語の美の本質に根ざしている日本語とは異なっていて、問題の深刻さが異なる。

四角は円くならないというが、日本語と男女平等社会の相性の悪さは、神様がわざと意地悪しているのではないかとおもうほどのもので、言い回しに限らず、

結局は、言語の粗筋化とでもいうのか、日本語から美や繊細をすべて剥ぎ取って、自決も自殺もおなじ言語にして使うくらいしか方法がなかったようです。

日本の人は、余計な「極意」ばかりつくりたがる習性が災いして、言語の習得が俄には信じがたいくらい下手なので、それが幸いして、日本語を廃止して英語に変えてしまうという議論が真剣に論じられたことはない。

志賀直哉が「日本語なんてダメだからフランス語に変えてしまおう」と述べたり、森有礼や山本なんとかいう人が英語に変えようと提案して流行りのネット言葉でいうと「瞬殺」されたくらいの例があるだけです。

ところが長いあいだ日本語を支えてきた翻訳文明が、主に情報量が桁違いに増大して追いつかなくなってしまったからと観察しているが、誰の目にも機能しなくなってくると、必要に駆られて、日本語人も英語を身に付けて、というのは英語で考えるようにならないと、どうにもならなくなってしまった。

その結果、若いひとは、ぼくが住んでいる英語社会で見ていると、他のアジアの人なみに英語を話すようになってきて、見ていると、コーヒー屋で、日本人同士、明らかにそうと気付いているのに、いちいち言語をスイッチするのがめんどくさいからでしょう、英語のまま短い会話を交わして、勘定をすませていた。

英語と日本語のあいだの高い垣根は、こういう場所から壊れていくのだな、とおもって見ていたが、言語としての美を保ったままでは現実の世界を扱えなくなってしまった日本語には、英語に場所を譲らずにとどまる理由がないので、再び大規模な言語の復興運動が起きない限り、このまま亡びていく運命にあるようです。

少なくとも女の人たちにとっては、簡単に言って被差別者として生きていくか、言語を乗り換えるかという選択で、自分なら、言語を変えたほうが楽だわ、と考えるでしょう。

そう考える楽屋裏は、自分でも英語の側から日本語を身に付けようとしてみて、そんなにたいへんでなかった、という発見があります。

日本語は、よく知られている通り、バスク語と並ぶというくらい習得が難しい言語で、それでこの程度ならば、日本の人が、テキトー言語で有名な英語を身に付けるなんて、オチャノコサイサイ、アサマエシマエ、誰でも出来るさ、という気持ちもあれば、

もっかは英語文学の世界は、英語を母語としない作家の作品がブームで、そのうちの大半は、作家自身が英語で書いているという現実もあります。

日本語が亡びることが、日本の人ひとりひとりにとって、いいことか、悪いことかは、ぼくには判りません。

ただ、日本語を磨滅した姿で使っているいまの日本語世界を見ている限りでは、たいして

自分たちの母語に対してappreciationがあるわけでもなさそうで、このまま知的な衰弱を亢進させるよりは、言語を変えて、健康な社会的知性を取り戻したほうがよさそうだとはおもいます。

「集団自決」が高齢者でなくて日本語に起きるなんて、悪い冗談のようだけど



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