(この記事は2008年5月に「ガメ・オベール日本語練習帳 ver.5」に掲載された記事の再掲載です)
わっしはたいへんに楽天的な人間です。
座右の銘は「どうにかなるべ」である。
それでも、もうすぐ嵐がくることを知ってます。
日本にも他の国にも、均しくやってくる。
丁度九十九里浜や若狭湾の砂浜に立って、気象庁のエライお役人がなんと言っても「嵐がくると空が言うから、来るさ」と呟いて子供を郵便局に走らせて電報を打たせていた明治時代の気象庁に嘱託された引退漁師のようなものです。
わっしは、これが職業だからわかるのだ。
以前のブログにも書きましたが、原油などはどうでも良い。
落ち着いて考えてみれば、原油などは本質的な脅威にはなりえない。
結局は食料と水の不足にすべては収斂されてゆくのだと思います。
わっしの経験からいうと日本のひとは「生産的な議論」ということが 、まったく出来ないように見えます。
自分と意見が違うひとに対していやがらせをするほうに才能が甚だしく偏っている。
ただもう相手を傷つけて黙らせようとする。
その方面の陰湿な才能においては天才であると、わっしはいつも素直に感心させられる。
嫌らしくも陰湿な日本の人の個人攻撃の才能は、人間国宝のようなものに指定して芸術として保存すればどうか。
日本のひとの「自分たち以外のもの」に対する憎悪のものすごさと、そこから派生するゲージツ的な個人攻撃は、人類が記憶するに値するとわっしは考えます。
閑話休題。
その年、(二年前)日本のひとがつんぼ桟敷におかれているのがイヤだったので、わっしは、柄にもなく「捕鯨」という記事を書いたことがあります。
http://moa2008.wordpress.com/1969/12/31/%e6%8d%95%e9%af%a8/
http://moa2008.wordpress.com/2008/06/05/%e6%8d%95%e9%af%a8%ef%bc%92/
http://moa2008.wordpress.com/1969/12/31/%e8%b8%8f%e3%81%bf%e9%af%a8/
わっしの管理が杜撰、というか、自分が書いたものはそれが何語であっても、基本的にどーでもいいじゃん、と思うほうなので、どんどん捨ててしまう(みなさんのコメントのほうは大事にとってあります)ので、他の捕鯨関連記事はどっか行ってしまいましたが、
折角、海洋学の研究者のおっちゃんや主婦のひとや学生のひとや、みなで集まって生産的な議論をしていたところに「2ちゃんねる」から来たひとたちがコメントやメールで「ガイジン死ね」「殺してやる」「人種差別主義者」、あまつさえシャチョーの友達の弁護士のおっちゃんによるとあちこちのバカソーな掲示板やブログにわしのブログのリンクを張りまくっていたそうで、バカが大挙してやってきて 、一瞬で議論は吹き飛んでしまった。
シャチョーの解説によると、日本のひとはバカが満腔の自信と共に現れると、みんなで黙るのだそうです。
「おまえこそ出て行け」と皆でバカを追い出しにかかる西洋の習慣とは丁度反対である。
「バカを相手にしないで議論しましょう。続けたい」という メールもたくさんもらったけれども、わっしはもともと親切心に欠ける性格なので、バカがちょっとでも出てくると、さっさと日本語をぶち捨てて他の国民とのフォーラムに出向いてしまう。
それを反省しているかというと、そーでもない。
人生は短い、のどす。
なにしろ、このあいだ計算してみたら20世紀に入ってからの家系図だけをとっても平均寿命が92歳しかない(^^)家系なのである。
非生産的な集団に付き合うほどわっしの人生は長くない。
日本のひともオモロイが、他の国のひとも十分オモロイのだす。
インドのひとや中国のひとと話してみることもわっしにとっては大事です。だって、
あと、70年弱しかねーじゃん。
わっしの捕鯨についての要旨は、
「捕鯨が好きでも嫌いでも近い将来どこの国でも捕鯨でタンパク質の補給をしなければいけないのは自明である。「調査捕鯨」なんて日本でしか通用しない予算欲しさのマヤカシをやっていると「日本だけが捕鯨に従事できない」という冗談乃至悪夢のようなことすら考えられる」ということです。
これは、いまも変わらん。
わっしが「わっしが日本人なら、こーゆーことを心配すると思う」というようなことを書くと嫌みを書きに来たり、あちこちの掲示板でわしのブログを「反日サイト」と宣伝してあるく(シャチョー談)ひとがいるようですが、わっしという人間は懲りるということがないもののようでした。
(流石に、あまりの嫌がらせのもの凄さに最近は日本のひと相手に議論するのは、もうやめたが)
日本のひとのことを心配すると気が狂ったように「ガイジン死ね」「うるさいだまれ」が始まるので日本のことは日本のひとが心配すればよいが、わっしには世界そのものが壊れかけているように見えることがある。
たとえばHappy Slapping
のようなものは、わっしの想像力の限界を越えた現実である。
アキハバラに現れて手当たり次第にひとを殺しまくったにーちゃんがいたが、
ああいうことは世界中で起きている。
たとえばイナゴは一定以上の密度で個体が発生すると攻撃的になるばかりか姿形まで変わるが、そーゆーことかも知れぬ。
日本にいるとき、ノーテンキな批評家のひとが「これもあれも小泉改革のせいである」と言っているのを読んでのけぞったが、生産性をあげるために貧富の差が広がることはどこの国でも「共産主義」というタガが完全に外れた世界で競争に勝ち残るためにやむを得ずやっているのであって、誰もそれが良いと思っているわけでない、という事情をほんとうにわかっていて言っているのだろうか。
あちこちの国で移民社会をつくろうと努力していることも事情は同じである。
人間というものは保守的なので「移民を受け入れたいか否か」と訊けば十中八九「否」と答えます。じゃ、それなのになんでたとえば豪州などは4人にひとりが中国系、と言われるまでに移民を、しかもいわゆる「伝統的なオーストラリア的な価値観」と先鋭に対立する価値観の持ち主である東アジアの移民を日本のひとなどが想像も付かない数で受け入れている(わっしの日本にいたときの観察では、オーストラリアと同じくらい異質な移民を受け入れたら、「移民をみな追い出せ」という政党が与党になると思います)かというと
、「そうしなければ競争に勝てないから」です。
なんの競争か、と言うと、要するに「将来において国民が食っていける」かどうか、という競争である、としかいいようがない。
荒れ狂う貧乏人が大量発生しても、どうしても国家として生き延びて行かなければならない、という切羽詰まった気持があるのです。
ニュージーランドはカナダ・アルゼンチンと並んで20年後には多分たったみっつしか残らない「食料輸出国」のひとつですが、もういまから「これ以上移民を増やすのは危険である」
「食料輸出対象国を見直すべきである」という議論があります。
まだ限られた数の招かれた客がひそひそやるくらいの段階ですが、厳然として、ある。
また余計なことを言うと、わっしは「捕鯨」のときに日本のひとたちが「ガメちゃんが、そーゆーけど、そんなこと問題にされませんよ。オーストラリアのひとだってわかってるんだから」と言っていたときと同じな感じがしてしまう。
だって、「見直すべき」「食料輸出対象国」って、日本のことです。
どーゆーことかというと日本の輸入食料に対する関税はベラボーに高いので、必然的に実際にニュージーランド側の農場主たちに支払われる代金はベラボーに安いのです。
シャチョーによればたとえばバターの関税は800%である。
じゃ、なんで、いまだにニュージーランドの農家が日本に食料を輸出しているかというと「長い付き合いだから」なんす。
日本で悪く言われることの多いショーシャのひとには意外や優秀なひとが多くて、たとえば日本ではどーゆーアスパラガスが売れやすいか細かく説明して歩く。
ニュージーランド人などは単純なので、その「義理と人情」にうたれていまだに日本に売っておる。
しかし眼をデーリープロダクトに転じると、ニュージーランド人は日本の対応に不満だったのでかなり早くから日本に見切りを付けて欧州に的をしぼっておった。
で、この狙いはおおあたりで単純化して言うと、
欧州狙いの農家はバカ儲けで日本と組んだほうはビンボくじであった。
そーすると、いつか、「やっぱし日本に輸出すんのは、やめるしかねーべ」と言い出すボードの役員がいるのは眼に見えているような気がします。
よく考えてみると、いまの世界で食糧の6割を輸入出来る国、というのはメチャクチャラッキーなのではないでしょうか。
ほんとうに、そんなラッキーな状況がこの後も続くだろうか。
こーゆー記事を書くと、また「ガイジン死ね」「大きなお世話」「日本は鎖国するんです」「日本人の優秀さを知らないのか」というひとがいっぱい来るのが見えているので、もうこのくらいでやめますが、
わっしは日本を発つ何日か前、スーパーの棚を見ながら、この豊富な食料の在庫がいつまでも続くだろうか、と考えました。
どう考えても、いまの日本のやり方は、過去の構図から抜け出られないでいるようにしか見えなかったからです。
日本のひとは、ひょっとすると、世界が激しくしかも切羽詰まった変化を起こしているのを知らないのではないか?
甘い夢の中でうとうとしているのではないか。
まっ、日本のひとのことだから、日本人以外には想像もつかない「秘密の必殺ワザ解決策」を胸に秘めていて、だから食料問題の議論が盛んには行われないのでしょうが。
Categories: 記事