(この記事は2010年3月30日に「ガメ・オベールの日本語練習帳 ver.5」に掲載された記事の再掲載です)
中国の投資攻勢はすさまじいものになってきた。なかでも「なりふりかまわず」なのが資源の購入です。国籍が中国でない投資家に購入を依頼して法律による制限を逃れる、とかいろいろなことがあるよーだ。食料源についても同じで、ニュージーランドでも5兆円というような単位で農場を買いとる会社の背景が不透明で社会問題になったりしておる。 中国人の生活水準が先進国、たとえば合衆国並みになると地球がもう一個あっても足りなくなる、というのはいまでは世界中の人間が知っているが、わかりきったことならば必ず手を打つのが中国という国の伝統芸で、簡単にやれそうに見えて他の国にはなかなかやれないことでもある。 中国という国は政治のことになると思考のスパンが異常なくらい長いので地球がもう一個いるとゆわれている2050年ー2080年とかは「次のページ」くらいに思っているようです。 これは中国人にとっての命を賭けて守るべき共同体が宗族という血で編まれた時間的な広がりをもった共同体であって西洋に多い空間的な共同体と異なるからでしょう。 中国人にとっての「パブリック」は時間的な拡張のほうが空間的な拡張よりも大きい。 中国の投資のもうひとつの特徴はやりかたが極めて投企的(投機、ではない)であることで、なんちゅうか「Plan B」に価値を認めない。 その手並みが決まったときの見事さは投資を生業とするものならみなが等しく知っているところです。 、中国が先進国になったときに必要だと言われる「もう一個の地球」は遠からず中国政府が買ってしまうでしょう。 元の地球、はじめの、いまわれわれが住んでいる一個のほうは、なんというか資源のほうから見るとただのオーバーヘッド、というものになるわけです。 しかし政治というものが結局は「誰が死ぬか」ということを決めるものであることを思えば、それも仕方がないのかもしれません。
中国人が言うとおり未来の地球においては「誰かが必ず死ななければならない」からです。
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