これからの30年 

日本社会には、これから、少なくとも30年は、自分たちがここまで40年にやってきたことの結果と向きあって暮らす、つらい時期が待っている。

「なにもしないためなら、なんでもする」で、頑張り続けた結果で、ありとあらゆる理屈を動員して、自分たちがなぜ、なにも新しいことをやらないほうがいいのか、理屈を述べ続けて、

おかげでロジックまでおかしくなって、最近では、

「おれが考えたことが事実」になって、日本でも多分、中学校か高校くらいの教科書には載っているはずの、「事実」を見極めるための最低限の作業「対照」や、論理的日本語を組み立てるための最小限のロジックである「必要条件」「十分条件」まで、どうでもよくなってしまって、

「みんなが嫌いな奴なら、そいつの言うことは全部ウソ」と述べたほうが、よほど理屈にかなった上等な論理で、なにごとも押し切ってしまう、もともとは論理性の高い言語、というよりも論理性を付与するために折角伝統言語をフランス語なみの人工語として作り直して、おおきな論理言語の側面をもたせたはずの近代日本語を持ちながら、言語の深層から湧きだした感情が決壊して、

一個の巨大な感情言語に退行させてしまった。

それでも、やってこれた。

この40年の日本社会の姿は、ポールポジションから出発して、意気揚々とレースを始めたのに、

まるで海を見ながらのデート・ドライブをしている悠長さで、

「あの日本チームって、これがレースなのを判っているのかな?」と訝られながら、

かつては、ひとりあたりGDPで数えれば、半分、三分の一、五分の一だった国に次次と抜き去られて、いまでは、統計を正直につくれば、30位くらいなのか、25位くらいのところにまだいるのか、いずれにしろ、他国のなかに紛れる後方集団に埋没してしまっている。

あんまり個々の国民の生活には反映されなかっただけど、戦後の急速な経済成長で短期に築いた富はすさまじい限りのもので、いまでこそ蕩尽してしまったのが誰の目にも明らかになったが、

遊んでばかりいるのに豊かに見える、日本の国としての姿は、当時は世界中の憧れだった。

そのころに身についた「日本だけは特別」という意識が、やがて、命取りになってゆくが、

日本の人だけでなく他国も、日本が深刻な、ものの考え方のうえでの慢性病に陥って、社会の深いところで、文化という形で、日本を蝕み始めていたのを気がつかなかった。

どうも、この社会は、ほんとうにどこかがおかしくなってしまっているのではないか?

と初めに気が付きだしたのは、当然といえば当然で、当時は流行の「英会話講師」で日本にやってきて住んだ、「平均的外国人」たちだったでしょう。

均一性が高い、と言われる日本人でも、「平均」なんて乱暴な目にあえば、男も女も、水木しげるが描く「タハッ」のおっちゃんになって、平たいノッペラボーにされてしまいそうなのに、

肌の色も、顔や肉体の造作も、多岐にわたる「在日外国人」を平均してしまうと、どうなるのか判らないが、というのは無論、冗談だが、

後で、後年、Sarah Michelle Gellarを起用して、ものすごい人気のスーパー・シリーズとして世界中の若い衆を夕方のテレビの前に釘付けにしたBuffy the Vampire Slayer の原型である同名の映画をつくって有名になるFran Rubel Kuzuiが、1988年、早逝したCarrie Hamiltonと田所豊(ダイアモンドユカイ)を主役に抜擢してつくったアメリカ国籍の白人女性と日本国籍のアジア人男性のラブ・ストーリーTokyo Popには、1980年代に一攫千金を夢見て、「オカネが溢れている国」、日本へとやってきたアメリカの女の人から見た日本が、巧く描かれている。

「ガイジンハウス」に住んでカラオケバーのホステスを振り出しに、やがてロックバンドとして日本のヒットチャートの1位に登り詰めて人気者になるが、やがて、

「この社会には、リアリティがない」ことに気付いて、いてもたってもいられずに、人気と収入を捨てて、アメリカに帰って、オーディションからやり直す主人公の目を通して描かれた日本は、後年のフランシス・コッポラが「Lost in Translation」で描いた日本に較べて、遙かに、深い観察と洞察に満ちている。

そのあたりの、1980年代末から、「リアリティを欠いた現実」とでも呼びたくなるような奇妙な道を歩き始めた日本は、1990年代になると、オウム真理教のサリン大量殺人事件と、神戸震災くらいを背景にして、社会全体がサブカルチャー化して、「根幹的なこと以外は、なんでも夢中になる」不思議な文化が生まれて、いまに至っている。

もうひとつには、ITを社会として理解できなかった、ということの影響もありそうです。

実家のどこかには、「ABC配列のキーボード」という世にも不思議なキーボードがあるはずで、子供のとき立ち寄った秋葉原で、おもしろがって買った。

QWERTYという、いかにも英語人らしい、背景になんの合理性もない配列のキーボードでは、どこに目当てのアルファベットがあるか判らなくて腹を立てた日本のユーザーたちがメーカーに要望を出して作らせたもので、タイピング教本ソフトウエアが普及して、指先に血が滲む努力で、職場の同僚をうならせるタッチタイピングが出来るようになった人が増えるまでは、

案外、日本だけABC配列になったりして、と言われたものでした。

もともと配列を決定したタイプライタの打鍵が絡むからだとかなんとか、嘘八百を並べて、

なあんとなく「これでいいや」ということになっていた、テキトー配列がコンピューターのキーボードに採用されていった結果、英語世界では、

じーちゃんもばーちゃんもちいさい人も、いきなりコンピュータの目が眩むような便利さに目が眩んで、社名の通りのビジネスマシーンズだったIBM XTはもちろん、あんまりオカネがない家でもコモドール64やアップルIIを買っていったことの背景は、ゲームが目立つラインアップに、しっかりVisiCalcのような表計算ソフトがベストセリング・ソフトウエアとして名前を並べていることでも十分判りそうです。

日本社会にとっての問題は、日本以外の国ではコンピュータが家庭に入り込み、そのコンピュータがオンラインになることによって、やがてやってくるインターネット時代になると、利便やエンターテイメントボックスであることを超えて、生活様式の革命に自然につながっていったことで、IT社会への移行が出来ずに、折角の世界で一二を争うテクノロジーが、個々に切り離された

ワープロやニンテンドー、伝説のゲームコンソール、メガドライブの「スタンドアローンボックス」に堕してしまったことで、実はこれが、今回のLLMAI時代でのおおきなハンディキャップにもなっていきます。

LLMlarge language models)は、いわゆるニューラル・ネットワークの一種で

transformer architectureと呼ばれるものですが、このニューラルネットワークは、むかしから自然言語と相性がいいことが知られています。

ニューロンの多層構造が自然言語と似ているからで、「deep learning」という言葉で判る通り、ニューロンとしての言語にあっても、やはり意味の深層にまで潜っていける。

TranfsormerCNNConvolutional Neural Networks )というような概念も、やがて、一般的なものとして理解されていくでしょうが、そこまでLLMを理解するためには、こんなところで説明を聴いているよりも、youtubeの講座を覗くか、一冊の本を買ったほうが早いでしょう。

(説明するのが、めんどくさくなったんじゃないの、とか言わないよーに)

思考は、言語から逃れられない。

日本語で考えることは、一面、日本語社会の制約を受けることでもあって、

自然言語とおなじことがLLMでも起こります。

いまはdeep learningでの掘り下げが日本語では間に合っていなくて、どうやら英語からの借用を日本語に翻訳して使っている部分がおおきいようですが、

この日本語の膨大な語彙の海における掘り下げが終わるころになると、英語と日本語の言語世界の差が深刻なものとして姿を現すはずです。

まだ赤ちゃんだといっても、いまの段階ですでにAIは、インターネットよりも遙かにおおきく人間世界を変えてしまうことが誰の目にも明らかになっている。

LLMは、日本語でいうと「鍛錬」かな?

トレーニングによって、理屈どおり、どんどん自立的に賢くなってゆくが、

なんだかプロンプトを使って「鍛えて」いると、やっていても薄気味が悪くなってくることがあります。

核分裂テクノロジーが、本来人間には制御できないエネルギーを取りだしてしまったように、人間は自分では制御できかい思考システムを作ってしまったような気がしなくもない。

技術的な勘がいい、イーロン・マスクやウォズニアックたちは、正当にも敏感に反応して

「いますぐ6ヶ月開発を中止するべきだ」と声明を発表したけれども、

パグウォッシュ会議を開いても、なにをやっても、科学者がどんな取り決めを行っても、

人間の手は好奇心の力で動いて、核の研究は止まらなかったように、今回のAIも、「取り決め」なんかで止まるものではないでしょう。

ここまで読んでくれば、ここから「少なくとも」30年、日本語社会が対峙して正面から向きあわざるを得なくなる困難が、どんなものか、判ったとおもいます。

日本語人がやってきたことは言語自体の堕落として言語に刻まれていて、

どこを踏み抜いてもおかしくない腐った床板の上を歩き、いつ倒壊しても不思議ではない、梁も柱もシロアリだらけの建物のなかで苦闘することが、いままで40年やってきたことのconsequenceとして予想されたのは以前からでも、LLMの登場によって、それが激烈な形で顕れるのかも知れません。

ぼく自身、そういう観点から見たことはなかったが、どうやら日本の、この40年の、

「なにもしないためなら、なんでもする」

どんな理屈でも立てる、苛烈な、とヘンテコリンな形容詞をつけたいくらいの無為は、

予想を遙かに超えて深刻な事態を日本語社会にもたらしていくでしょう。

あるいは40年経たないうちに、日本語は機能停止を余儀なくされるかもしれない。

限定されたベクトル上に並べることが可能な「透明性が高い」言語であるプログラミング言語に留まって理解されているうちはいいが、LLMが発達するにつれて、打撃は必然的に、おおきく、本質的なものになっていくでしょう。

「インターネットは英語のものだ」

というより遙かに深刻な意味において、LLMは西洋語のものだからです。

他人事で、ただの日本語ファンにすぎないぼくでも、

「これは困ったな」と、おもう。

チェックメイトなのが判り切っているのに、絶対にキングを生き延びさせなければならないチェスプレーヤーは、こんな気分なのではなかろーか。

くだらない冗談を言っている場合じゃないんだけどね。



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