ここ数週間は机の前に座るとLLMで遊んでばかりいた。
しばらく遊んでみて、多分、この技術は、いまがいきなりピークで、あとは頭打ちになるだろう、というのが感想です。
面白さのほうは、どこから来ているか、というと、どちらかといえば素材である自然言語そのものから来ている。
やってみると、いちばん「うわっ、すごい」と思うくらい役に立つのはプログラミングで、
案外、将来LLM(large language model)をふり返る人は、
「あれでプログラミングが、言葉で文章を書くくらい当たり前のことになったんだよなあ」と考えることになるのかも知れません。
詳しいことは、世界中の人が、わっと飛びついて、SNSや記事で、洪水のように報告しているので、日本語でも十分、事情は判るので、そういうものに任せますが、
LLMは、あんまり人間性が必要でない「知的」職業についている人への打撃はおおきくても、人間の生活を変える、ところまではいかないが、AIが将来人間の生活どころか、価値観までおおきく変えることを保障する役割は、すでに果たしつつある、と思ってます。
そういう本質についての観察のようなことをグダグダ述べてみてもいいが、それよりなにより、
使ってみるのが面白い。
プロンプトが自然言語なのが「ミソ」で、自分の頭のなかの思考過程を整理して、分類して、ステップ化する楽しみは、ちょっと数学に似ている。
例えば、誰かの姿を描いてもらおうと思えば、ひとの姿を見るときに自分が何を見ているかを分析的に自分自身に聞いてみて
1 顔
2 髪
3 印象
4 着ているもの
5 アクセサリー
6 佇まい
7 背景
と分けておいて、step by stepで指示を出すのがよいようです。
話しているうちに、あんまり聡明でない社員に指示を出している零細会社の社長のような気分になってくるが、案外、やっていることの本質がおんなじだからかも知れません。
英語でしか使わないので、ワード(単語数)で数えることになるが、
だいたい300語くらいが基準で、これより余りに多くなると、
AIのほうで飽きてしまうのか、かえって、なんだかやる気がない絵が帰って来る。
逆に、20ワード以下であると、TLに出して、みんなで眺めて感想を述べあったが、
瞳がひとつの黒目にふたつあったりして、こっちはこっちで、かなり投げやりになるようでした。
しかし、コツがつかめると、人間の友だちよりは、一生懸命考えてくれて、
マナーもきちんとしているので、ChatGPTのようなテキストベースのAIでも、話していて、楽しくなくはない。
ふり返ると、刺激にもなっていて、もう何年も熱は入らなかった、単に日記代わりの記録としてだけ撮っていた写真に関心がもどって、クッソ高いので有名な年会費を払うだけで、ほとんど開いても見なかったAdobeの製品群が、またデスクトップ上に、開きっぱなしになっている。
写真やビデオを加工したり、編集する楽しみが甦って、AIぽい絵を自然にするコツを見いだしたり、その逆に撮った写真をAIぽくしてみたりして、虚実の境をうろうろして、
遊んでみたりしている。
最大の復活を遂げたのはプログラミングで、pythonとswiftに限られるが、一日に一回はコードを書く習慣が戻って来て、そーか、いつも使ってるMacintoshって、コンピュータだったんだなあーと
ターミナル画面を見つめながら、感動に浸ります。
ああ、そうだ!
外国語が苦手な日本語の人には朗報で、日本語側から、ほぼ必然として、言語の垣根を低くする
LLMベースのAIが直ぐ登場するでしょう。
しなかったら、びっくり、くらいのテキトー予想だけど、
あんまりたいした苦労でないので、やはり、出ないとは考えられない。
いままでの能書きだけの「翻訳ソフト」などとは異なって、マジな翻訳/通訳が出来るようになるはずです。
日本に伝統的な翻訳のような「技」、もともと日本語に存在しない概念を、ときには造語までして「訳」したりはAIには出来ないが、いま流通している「翻訳」の9割は、要らなくなりそうです。
文学は、まだ無理で、特に現代詩は、「あんた、なんにも判ってへんやん」だが、
翻訳として最も広大な領域である芸術に届かない文章は、AIでさっさと読んでしまったほうが楽になるはずで、言い方を変えると「知識人」「知識階級」と呼ばれる人たちほど、急速に職業はなくなっていくと、すでに予測されている。
ガッコの在り方も大学の学部が最も変化を強いられるはずで、リベラルアーツや「教養学部」みたいなものは、いつまで存在していられるか、覚束ない。
これも、日本語教育科なら日本語教育科で、例えば現代日本語で「だいじょうぶです」という言葉が選択されるのは、どういうニュアンスで、その場の状況で変わる意味の揺らぎの、その根っこにあるのは何なのか、というようなことを考えられる教師/研究者だけが生き残っていけるだけで、そして、生き残る人たちの研究内容が深くなってゆくわけで、残りは、ひどい言い方をすると、もとから要らない職業だったということになりそうです。
Netscapeが出来たあとの、ブラウザによるインターネットの普及の過程を思い出せば、こういうことは矢張り似てくるもので、「こんなAIは本物でないから期待しすぎるのは愚かだ」と述べる「専門家」や、逆に神が降臨したかのように感激に身を震わせて飛びついてしまう人や、右顧左眄、to and fro、キャアとダメの両極を行ったり来たりしながら、AIは道をつくってゆくでしょうが、
AI自身が次世代AIを設計するゴールまで、インターネットとおなじに人間の生活に影響を与えながら一途に成長していくに違いない。
個人からすると、自分が持っている時間を配分するという点で、めちゃくちゃ嵌まりやすいゲームのシリーズが出たようなもので、AIの本質や人間との関係のような問題に関わりなく、やってみればわかる、面白いので止めようがない。
人間の生活様式とは、ありがたいもので、それではAIがなによりで、明けても暮れてもAIで、
恋人や奥さんにベッドでも手が伸びないほどAIかというと、これが愛ならダジャレだが、
そんなことはなくて、ドアを開けて、おっ、空気が冷たい、明日くらいは、もう秋か、とおもいながら、ガレージのシャッターを開けて、クルマを選んで、
今日はひとりだからスポーツカーで行くべ、と考えて、ブオンブオンブオオオーンとエンジンを響かせて近所の顰蹙を買う。
このあいだのバナナの葉でくるんだスリランカ定食おいしかったから、またあれにするかなあ、
コリアンフライドチキンも最近食べてないから、いいかも、
ブルーチーズのシリア人たちがやっているチーズバーガーもおいしかったな、と
いつものことで、いやしい目的地が頭のなかで点滅しています。
まっすぐ行けばいいのに、いちど、海辺の道におりる。
ホブソンベイと言って、「千と千尋のなんとか」、なんとかの部分が金輪際おぼえられない
Spirited Awayの水の上を走る列車とそっくりのふたつに水面を分けて走る線路がある、汽水湾をとおって、海辺の道を東に走る。
あ、いけねえ、カモメ避けのワイヤー張りっぱなしだわ、かっこわるい、と気が付いてマリーナに寄って万国旗みたいなヒラヒラしたプラスティックが付いたケーブルを外しに行く。
機嫌がよければ猿(ましら)のごとく、は本人の表現で、下から見上げるモニさんには
「エンパイアステートによじのぼる断末魔のキングコングだな」と言われたことがあったが、ともかくマストをするすると上って、
おお、富士が見えるわい、をすることもあります。
見えないけどね。
一万キロも先ですから。
日本語で書いているんだから、日本の風物もいれないとね。
海辺の町のフィッシュアンドチップ屋の前にクルマを駐めて、
インドの人の経営になってから、この店、おいしくなったなあ、と幸福にひたりながら
昔は機械油で煮たみたいなチップスだったのに
ホキのフィッシュアンドチップスを食べる。
ホキ、知ってますか?
世界のなかでニュージーランドと日本だけ、フィレオフィッシュの魚に使われている深海魚です、と書いてから、ほんまかいな、とおもってインターネット検索したら、日本のフィレオフィッシュは鱈で、出鱈目で、
どこでこの誤った知識が混入したのだろう、と考えていたら、案の定、デブPだった。
どうして、あ奴の知識はことごとく間違っているのか。
子供のときにブルックシールズは実は男だった、とオオマジメに述べるから、信じてしまったではないか。
とんでもない虚構新聞男だが、ホキがおいしいから許すとして、インターネットが普及しても、
AIが生活を水浸しにしても、
自分の生活はコンピュータの前を離れた途端に、ずっとおなじなんだなあ、とあらためて発見する。
海のうえで、そよ風にふかれながら午寝したり、公園の樫の並木が両側から覆い被さってくる道を歩いたり、庭で鶏を追っかけ回したり、ホットタブに入っているところへ遊びに来た猫さんと、今日一日、なにがあったかを報告しあう。
子供のときから、ずっとおんなじようなことばかり毎日やっていて、よく飽きないものだとおもいます。
波乱というものが、まったくない生活(タッチウッド!)で、ブログ記事を読む人は、さぞかし退屈だろうとおもう。
あと、もう少しで、ちゃんとした日本語が書けるようになるから、そしたら、もっと面白い話して遊ぼうね、とおもうが、
あと二三回は自分の生活の平凡な報告になりそうです。
ほんでわ
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