美神とノラ猫

マンハッタンの一流店に行くと、ランチタイムでもドアのところに立っていても誰も給仕しようとしないかも知れない風貌のカップルです。

ビンボで、風采があがらない、つまりは拝金主義の都会でしかないニューヨークで、

街の底辺を這うようにして歩いている夫婦。

ところが、店の奥の上席から、声があがって、身なりのよい、背の高い、美しい50代くらいの女の人が手を振っている。

スッと立ち上がって、まっすぐに歩いていって、肩を両手で抱きしめ、抱擁して、

こんな店で会うなんて、なんて意外なんでしょう、

あなたたちも、ついに俗物になったのね、と危ない冗談を述べて店員に、

このひとたちに見限られないように丁寧に応対しないと、来年は店はないわよ、と笑って述べている。

Herbert Vogelはハーレム地区の貧しいユダヤ系移民の息子で、高校を最後まで終えることは家の経済が許さなかった。

第二次世界大戦に若い兵士として参加して、退職するまで、ずっと郵便局の仕分け作業員として働きました。

「人生でいちばん良かったこと」は、どうしても行ってみたかった美術コースの市民講座で、信じられないほど知的で、やさしい人柄の、library scienceの修士号を持つDorothyと出会ったことで、ダメでもいい、やらなければきっと後悔する、と、ある日、プロポーズしてみると、

なんということか、Dorothyの答えは「イエス」だった。

結婚しても、ふたりは貧しかったが、ワンベッドルームの賃貸アパートメントに住んで、つつましく、労りあって暮らしていきます。

ひとつだけ、ほんの少し、他のひとたちと異なることがあって、物価がバカ高いニューヨークで、生活を切り詰めてつくったオカネを、万が一の時に備えた預金にまわさずに、自分たちにも手が出る、若い作家、その代わり、世間には認められていないが、自分たちの目には素晴らしい才能を持っているように見えた作家たちの作品を、ひとつ、またひとつと買っていった。

そのなかには、まだまったく無名のころの、Roy Lichtensteinを含む、ポスト・ミニマリストやコンセプチュアル・アートの、いまではビッグネームになったアーティストたちの作品が含まれていた。

ニューヨークという街は、「一旗あげたい」イナカモンたちが集まって、自分たちが考えた、思い思いの「都会人」を演じて、ただもうワアアアーとした騒然とした街に見えるが、

実際には、無数のコミュニティで出来ている町で、コミュニティと言っても、例えば中国人たちやウクライナ人たちのように、物理的に街の一角を占めて集住している場合もあるが、

多くは、ホームパーティや、世にも悪魔的な、というのは、おいしそうな、という意味だけど、でっかいサンデーがあるSerendipity3のような店に一緒に出かける週末で形成される、どのコミュニティに属しているかで、その人がどんな人か、即座に判定される街です。

「人は来て、人は去る、だよ、ガメ」

と、あれで中々差別意識が強いニューヨーカーたちは涼しい顔で述べるが、

オカネをつくって「成功」しに来たイナカモンたちは、そのうちに、アップステートか、メインか、お決まりの「撤退地区」に去って行くのに、彼らが、病のように、マンハッタンに住み続けるのは、このコミュニティのせいでしょう。

考えてみると、ヘンテコリンな子供だが、Dorothy and Herbert Vogelは、子供のときのぼくのヒーローで、理想のカップルだった。

いまでも、まったく巧く説明できないが、彼らの豪勢なビンボ暮らしこそが、自分の夢だった。

クレジットクランチの年だったから、2008年だと思うが、佐々木芽生さんという日本の女の人がつくったドキュメンタリで、少なくとも英語世界ではたいへんに有名になってしまったが、それまでは(冗談として言っているが)マルセル・デュシャンの「泉」以来の長い伝統を持つマンハッタンのコンセプチュアルアート・コミュニティに出入する人くらいしか知らなかった名前で、そういうときの常で、なんとなく惜しいことになったような気がしたが、

それはそれで、ドロシーさんやハーバートさんのような人たちには、マンハッタンで顔が知られる「名声」も楽しいことのほうが多かったはずで、よかったとおもってます。

絵を好きになる、というのは面白い行為?で、洲之内徹などは、自分が経営していた画廊には自分が最も気に入った絵は出さずに、友だちの女の人から「もらった」別荘の万年床に寝そべって、気が向くと、ちょうど頭の上のところにある押し入れの襖を開けて、額装もない、大気に入りに気に入った絵を、目の前の、間近で、矯めつ眇めつ眺めていた。

亡くなってから手間も入れないのでオンボロになった別荘を片付けに来た人が、押し入れの下段に、何千万円、というような価値がある絵がいくつも無造作に突っ込んであったので、びっくりしたそうです。

美しいものが好きだ、というのは、本質的に差別主義でしょう。

エラソーに、世界にいくつかあって、オークランドにも、ちゃんと存在するぼくの資産管理会社(←わはは。書いていても、脇の下をコチョコチョされているような気がする)の事務所は、

近所のオフィスの人たちは、長いあいだファッションモデル斡旋の事務所だと思っていたそうで、

働いている人が全員女の人なのは能力と社会からの評価の点で、必然性を持つが、言われて見れば、たしかに容貌秀麗風姿優婉な人が多いので、最近は自分で契約するわけではないが、面接して採用するわし仲間が、忖度して、あるいは破滅させようとして、

能力容貌ともにすぐれた人を雇っていると疑えば疑えないことも、なくはない。

悪い冗談は、やめて、日本に目を移すと、

日本は近代超克論の昔から、あるいはもっと以前の言語のセンスを頭から欠いていた坪内逍遙たちの昔から、言葉文学には、特に散文で書かれているが西洋世界なら詩とみなせるようなものに、ぶっくらこいてしまうような優れたもの(例:北村透谷「漫罵」)があって、戦後も鮎川信夫や田村隆一など、すごい日本語が並んでいるが、批評軸たる批評家のほうは、ほぼデッタラメで、

W.H.AUDENのように文学から背が伸びて文明批評に達するような人はいなかった。

言葉で書かれたものの良し悪しがわからない悪い癖がある文明で、

それが、いまの日本文明の、目も当てられない凋落につながっている。

僅かにアニメとマンガが(正当にも)高く評価されているが、マンガは開いた2ページの構成によって生まれる力がおおきな芸術領域で、それと細部とで、

最近は日本ではテレビも映画も原作がマンガのものが、とても多いが、

マンガの画面構成を壊して、というのは則ち世界をいったん破壊して、吹き出しのなかの科白を頼りに実写に移し替えて、俳優さんたちに演じてもらうと、やはり突拍子もないというか、

現実味を欠くというか、俳優さんたちが演技すればするほど大根役者に見える気の毒さで、

あんまりうまくいっていないかもしれません。

ところが、これが美術評論になると、パッとおもいつくだけでも、瀧口修造がいて、岡田隆彦がいて、巖谷國士がいて、英語や欧州語の美術批評の世界が、ほんの鄙びた田舎の集まりに見えるほど質が高い観察が並んでいる。

「人文系」と日本語でくくられる学問の領域は、日本の人たちが自嘲するほど冴えないが、

美術の分野では、金沢百枝のような、欧州人でも到底およびそうもない観点とセンスで

中世美術を楽しむ感覚が、学問の中庭で育っている。

平たくいえば、日本語のほうが例えば英語世界よりも遙かに程度が高い、のは両方の言語に通じていれば明らかです。

岡倉天心ばかりが、えらく「ユニークで素晴らしい」ということになってしまったが、

本人も判っていたでしょう、ほんとうは、もうちょっとunderstatementであるべきだったので、

いま上に挙げた4人は、広い意味での教養がない人が読むと、さらっとなにごとか目立たないことが書いてあるとしかおもわなくて、その点でも、美について述べるときの道理に適っている。

前に、日本文明に倫理が欠落していることや、その語彙さえ存在しないことを何度か説明したが、では日本の社会が、たとえばお下品を極めて、吐き気を催すような人間の下位の欲望むきだしを礼賛した昭和の時代に、そういう言い方を嫌がらないですると、超一流の文化を昭和への反発から反昭和人たちがつくりえたのは、「ただ美意識によった」と言ってもいいのではないかとおもっています。

日本は、いわば「美意識によって自分を支えてきた国」で、倫理を美で代替する、稀有な、というよりは、ゆいいつの文明を育んできた。

それがここに来て、ガラガラと崩れだしたのは、自分たちを準西洋人だと見なしているのに、蓋を開けてみると、あれだけは西洋人は愚かだとバカにしてきた倫理意識と「神」という名の、人間のすべての語彙の向こうにあるものを結束点とした「絶対」こそが西洋の本質だったからで、

最近は、日本の人も、明示的に、あるいは漠然と気が付いて、呆然としているように見える。

ことの性質上、恒常的に、そういう移ろいやすい社会の能力に依存するわけにはいかないけれども、倫理が確立されるまでの当座ならば、

日本の人持ち前の「美意識」に社会を、もういちどシャキッとさせる仕付け糸として「美」が使えるのではないかしら、と、このごろ、よく考えます。

いまは冷笑にまみれて、「ちゃん文化語」で汚染されて、手の施しようもなくダメな言語になったように見える日本語を、ちゃんと話す習慣をひとりひとりが身に付ける、あるいは、

日本語として低劣なものは、一見の内容の当否に関わらず、耳を貸さないことにする、

まず日本語を洗濯して、よく洗って、understatementの清水を満たした盥で、休ませてあげるのがよいかもしれません。

「美しさ」が日本の文明を破滅から救うなんて夢物語にしかおもえないが、

それでも日本の人には、どこかしら、「もしかしたら」と思わせるところがある。

前にも書いたが、バルセロナの、世界中から美的な価値が高い文房具店に行くと、

広い店内が、日本の文房具で埋めつくされている。

しかも職人の伝統からか、その「美」は高い倫理意識に真っ直ぐにつながる体のものでした。

少なくとも、日本の人には、いまSNSに溢れているような、攻撃的なだけで、相手の感情を傷つける以外には何の取り柄もない表現は、似合わないよ。

あんな自傷行為みたいな言葉の応酬を、いますぐにやれるのだから、一刻も早くやめて、

本来の、美しい言語としての日本語に帰ってほしいと、心から希っています。



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