Dairyというのは、名前の通り、乳製品を売っている店のことです。
もともとは住宅街や繁華街を問わず、町のそこここにあって、子供が硬貨を握りしてめてミルクを買いに行く場所だった。
生活スタイルが変わって、一家にクルマが2台ある、最近、土地の価格が暴騰するまではニュージーランドではお決まりのスタイルになると、広い駐車場がある、巨大スーパーマーケットのチェーンがあちこちに展開されて、dairyはどこも大変で、ロットーを売ってみたり、これもオンラインで買えるようになると、ヘアバンドや、ノートブック、日本なら文房具店で売っているようなものを売ってみたり、いろいろ工夫しているが、なんと言っても店の規模が小さくて、仕入れの力が弱いので、苦労している。
それでも習慣は強いもので、ある程度、年齢がいった人たちは、散歩がてら、ぶらぶらとミルクを買いに歩いていく。
30年くらい昔のスコットランドなら、そういうときでも、ネクタイを締めて、ジャケットを着て、鏡に向かって丁寧に髪をなでつけてから出かけるところだが、ニュージーランドなので、
半ズボンにTシャツ、フリップフロップです。
悪天候に魅入られた今年には珍しい好天だったので、ミルクを買いに、ぶらぶらと近所のデイリーまで、歩いていくことにした。
また突然余計なことを書くと、デイリーに触れた日本の人の記事が目にしたみっつともdailyと書いてあって、かわいい、と考えたが、LとRの区別だけに焦点をあてたシリーズ授業を早い段階で学校の授業に取り入れたほうがいいのではないか。
ミルクを買って、インド系人のおっちゃんが、近所の高校生のガキたちが店内で屯して、うるさくてかなわん、と愚痴るのを聴きながら、店を出て、また家に歩いて帰る。
ところが近所の70歳代のおっちゃんが、わし家のドライブウエイを入って行きます。
ありゃ、珍しいこともあるもんだ。
猫さんたちが、なにか猫犯罪を冒したのだろうか、と考えながら、のおんびり誰かが見ている場合に備えて、セキュリティカメラに手を振りながらドライブウエイに曲がる、たわけたわし。
家のドライブウエイは、長いので、当然、おっちゃんの背中が見えると思いきや、姿が見えません。
ありい、どこ行ったかな、おっちゃん、あんたはニンジャか、とおもいながら家に帰ってみると、
誰も訪ねてこなかったぞ、とモニさんが言う。
え、だって、アーロン(←おっちゃんの名前です)が入ってくるのが見えたけど、と不思議がって、その日は終わってしまった。
そーなんですね。
怪談の名手、川奈まり子ファンならば、気が付いたに違いない。
数日後、訊いてみると、アーロンは、亡くなっていたのでした。
それがね。
アーロンがドライブウエイを歩いているのが目撃された日には、まだ生きていて
中央病院のベッドで意識不明の状態だった。
亡くなったのは数日後です。
なにか伝えたいことがあったのだろーか。
前にも書いたが、幽霊は信じないことになっている。
幽霊の実在を認めると、いろいろと、むかし取った杵柄で学んでお餅のように頭のなかでペタペタしている世界観に支障がでるからで、ヘンテコリンなものが目に入っても、えいやっ、と目の迷いじゃ、目医者に行けば治るわ、ということにしています。
なかにはたちが悪いのもいて、軽井沢大橋の近くで、医者友が、深夜、クルマをバックさせていたら、そんな夜中にあんなところでなにをしていたんだ、奥さんは知っているの?という気がするが、「あぶない!」という若い女の人の声がして、あじゃあ、轢いちゃったかな、まさかな、とおもいながらクルマの後ろにまわってみたら、誰もいない。
後輪が崖から半分、はみ出している。
「たち悪くないじゃない」と言うなかれ。
そんなもん、見えるだけでも都合が悪いのに声なんて出されては科学の神様が立場を失ってしまう。
解剖図に「霊的声帯」とか、書き加えるっちゅうの?
第一、脳は、どうするんだ。
それは、まあ、頭がカラッポでも、ペラペラとよく喋る生身の人間はtwitterみたいなものに行けば、いくらでもいるが、それとこれとは、別問題でしょう。
むかしは視力2.0は軽くある、というモンゴル人やブッシュマンなみの視力だったので、
気が落ち着いている午後などには、注意していると、やたら、いろんなものが見えた。
マンハッタンのビレッジを歩いているでしょう?
ふと、通りの向かい側を見ると、お馴染み、ビヨヨヨヨヨンと下にハシゴが延びて着地するように出来ている非常階段の、てっぺんに腰掛けて、下界を見ている人がいる。
ありゃ?
あの2nd 沿いだったかでビルの屋上で片手を空に突き出して、なんだか威張って立っているレーニンの銅像とおなじな、像だろうか、と思って見ていると、フワッと、消えてしまう。
向こうから、なんだか19世紀風の、でも素晴らしい花柄のドレスを着た、目のさめるような美しい女の人が歩いて来て、薔薇色の頬で、映画の撮影中の休憩かなにかかしら、とおもうと、すっと歩道を歩いている人を突き抜けてしまう。
あんまり逐一書くと、ただでさえ、平素から疑われている頭が、疑惑の特集になってしまうが、
もうすぐ40歳なので、居直って、頭がいかれてるのがナンボのもんじゃい、ということにして、書くと、日によって周波数のようなものがあるのか、そのときどきで異なるが、
チューニングがいい日には次から次にヘンなものが見えてしまうことがある。
それでも理性とは天晴れなもので、亡霊の実在などは信じていないが、
悪魔は別で、これは、だって普通にいるんだからね、実在を抵抗なく信じています。
日本語のブログ記事にすら、書いたことがある。
「悪魔の住む町」
https://james1983.com/2021/09/27/demons/
悪魔と神は対立的な存在ではなくて、同じ側にいる。
日本式の神ロジックを採用すると、要するに、悪魔も神なんです。
だから手に負えない。
スペインなどという国は、悪魔が強烈に実在する国で、最近まで民主制のような近代が入りこまなかったからか、物乞いの、いっそ宗教的な哀れさを見れば判るとおり、中世が生き残っているからか、判らないが、よっぽど鈍感な人でも、スペインの、あのてんでんバラバラに異なるどの地方にしろ、しばらくいると、悪魔と判らなくても、なにか凄まじい邪悪な力に隣り合っているのを感じる。
実際、キリスト像やマリア様の祠は、ヨーロッパ中のどこにでもあるが、悪魔の立像が建っているのはスペインだけです。
誰が建てたのか。
人間の姿をしていても、悪魔だと直ぐ判るのは目で、目の奥が、まっすぐに地獄につながっているといいたくなるくらい、底冷えのする悪意の漆黒を感じさせる。
いつかオペラ歌手の人だったか、自分の経験として、ニューヨークのSt. Patrick’s Cathedralの前の交差点で、交通事故が起きて、野次馬のひとりとして、眺めていたら、向かいの男の人が、突然、こちらを見て、ニヤリと笑って、その瞬間、「あっ、悪魔がここにいる」と直観した、と述べていたが、そのままの事実なのでしょう。
たいていの悪魔の遭遇談と通底したところがある。
日本なら「ムー」かなにかになって、ほんとは嘘っぱちなサブカルチャーとして、
オベンキョーに長けた人たちが「バカみてえ」と笑い合いながら、軽蔑半分冗談半分で楽しむ範疇に入ることの、ある部分を、欧州人はオオマジメに信じている。
そういう言い方をすれば、日本は神様の管轄外の土地で、ミカドが安倍首相に代わったりしているだけで現世の上にはなにもなくて、絶対もくそもなくて、くそなんて言葉が悪くて自分でも閉口するが、なにもかもが相対で、正義なんて人それぞれですよ、ここにいる全員が真実だと認定したからこれは真実でしょう? 認めないなんてバカなんじゃないの、
喧嘩両成敗、どっちもどっちだよね、
二次元絵のような場所で、営みが続いているだけなのかも知れなくて、あるいは、その絶対の欠落した、考えて見れば言葉がなにによって真理性を獲得しているかを考えれば、すでに昏迷した社会を近代だと思い込んでいるだけなのかも知れません。
生涯に400を超える悪魔祓いを行ったので有名な、エクソシストの神父おっちゃんの話を聴くと、この世界には、どんな形で「言葉の外側に住む者達」が存在しているか判るような気がします。
あんまり基本的な語彙解説を述べては、読んでいる人がバカにされたような気がするだろうから、気の毒だが、チョー判りやすく書いている、このブログ記事が難解の死闘だと述べる人が時々いるので、書くと、
「言葉の外にある」「語彙が届かないところにある」ということは、つまり、人間の頭では考えることが出来ない、ということです。
だって考えるには言葉で考えるでしょう?
言葉は言葉にembedされている歴史的な、これまでに人間の歴史の長さだけ、生きて、死んでいった人たちの、見たものや、経験したこと、情緒や、知恵が、LLMで見て判るとおり、持ち前のものとしてあるので、人間は「言葉を使って考える」のではなくて、「言葉と脳が協調しながら考える」ほうが実情に近いが、それでも、「語彙の外にある」ものに対しては、
そちらのほうに顔を向けることは出来ても、思考の対象にすることは出来なくて、
いわば語彙の視野の隅っこに、ちらっと映る影でしかない。
あるいは見上げた夜空の輝く星々の向こうの暗闇に拡がる、外宇宙、というよりは宇宙の外側を見つめることしか出来ない。
しかも厄介なことに言語は、この人間が自分の頭では考えられない「絶対」がないと、仕付け糸がない着物のように、バラバラと真理の体をなさなくなる運命にあります。
え?
そんなことありませんよ。
日本語は、神なんて、厨二病からは自由だけど、ちゃんと成り立っている、という人がいそうだが、近代日本語は、神の存在を冷笑しながら、翻訳に不便なので、西洋言語から神を借りて成立したんです。
「西洋人が愚かにも信じているヘンテコリンなもの」を、そこにあると仮定して言語の上位に、それと気が付かずに置いた。
成文化した例えば国家機関デザインのようなものでは、神の代わりに天皇をおいて、「なんちゃって神」といて機能させた。
それがレンタル有効期間が過ぎて、効果を失って、言語全体がガラガラと崩れだしたのが、いまの日本語が亡びた事態の元凶でしょう。
まったく信じていない、従って、まったくまともに思考の対象にしたことがない「絶対」に日本語人は復讐されている。
クルマでテポツランというメキシコの内陸の田舎町に出かけたら、ひとびとが、そろそろ来るころだ、とビールを飲みながら山頂の上に編隊であらわれるUFOを見に、三々五々、毎日のあたりまえの娯楽習慣のように集まってくるのを見て、びっくりしたことが「ガメ・オベールの日本語練習帳 ver5」に出てくる。
あるいはコモ湖を始め、欧州のあちこちには、いまはもう大半観光化しているが、
夕餐の前に悪魔祓いをしないと、テーブルの顔ぶれのなかに、いつのまにか悪魔が忍び込んでいる、と信じるレストランがある。
カタルーニャの田舎で、12世紀から続く、レストランで、兎肉のシチューを頼んだら、
レストランの主人が、面白くもなさそうな口調で、
おいしいでしょう?
これは、うちに時々くる悪魔が好きな料理でね、と述べるので、スペイン語を聞き間違えたかと考えて、相手の顔をまじまじと見てしまったことがある。
あるいは、べた凪に凪いだ、陸影のない大海のまんなかを、悠々と渡る、巨大な、生き物のような、三角波を見たことがある。
そこにあるはずがない島を見たこともあります。
ときどき、近所のおっちゃんの可視化された意識のような儚い姿も、ガーゴイルのような顔をして寺院の階(きざはし)に腰掛けて、頬杖をつきながら下界を見下ろしている悪魔も、
すべてはおなじ、言語の外からやってくる「メッセージ」なのではないかとおもうことがある。
人間の意識は、案外に小さな集合で、その小さな閉じた言語集合の外側には、莫大な世界が拡がっていて、人間の認識などは、つまり人間にとっての「現実」などは、取るに足らないシミュレーションモデルのようなものなのかも知れないとおもうことがある。
ほんとうは、いつかウンブリアの田舎の畦道で見た、路傍の、小さな、でも捧げられた花に埋もれた、マリア様の祠の前で跪いて、一心に祈っていた女の人のように、人間は世界を認識すべきだったのでしょう。
もう、ここから、戻れはしないのだけど。
Categories: 記事
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