日本人と民主主義 その6 シンガポール

 

(この記事は2020年5月21日に「ガメ・オベール日本語練習帳 ver 5」に載せたものの再録です)

シンガポールが「世界で最もうまくいっている独裁制全体主義国家」であることは、以前にもなんどか書いたことがある。

https://gamayauber1001.wordpress.com/2010/11/09/1512/

ぼくはこの国が昔からたいへん気に入っていて、冗談ではなくて、かつ、きみが信じようが信じまいが、と日本語では付け足したくなるが、いったい何十回行ったかしれない。

マンハッタンや東京、バルセロナのように数ヶ月住んでみる、ということはなかったが、それは単純に暑すぎる気候のせいで、暑いと、日中はプールサイドでゴロンチョになって、シンガプーラで、泳いだりしていて、夜になるとゴソゴソと這い出して町に出る、という単調な暮らしになりやすいので、何十回も訪問したことはあっても、一回の訪問は数日です。

シンガポールは国策でストップオーバーをプロモートしていて、連合王国から、ぶおおおおおおんんと飛んで来て、4泊まで、だったかな?であると、一流ホテルも半額以下で、10代後半から20代前半のビンボ男だったときには便利だったことには、チャンギの空港からダウンタウンまでのバスも無料だった。

むかしは、などといいだすと能楽の翁か、むかしおとこの亡霊のようだが、わしガキの頃などは、シンガポールは正真正銘のパラダイスで、タイ人の友達などは、「ガメ、おまえ、シンガポールみたいにばっかみたいに高いところに行ったらバカだぜ。バンコクに来いよ」などと言っていたが、十分に安くて、おまけに当時は消費税もゼロで、その上、なんと言っても例えば行き先を示す標識や、カーブのスピード制限、あれもこれも連合王国オーストラリアニュージーランドで、デザインがおなじなので、なにがなし、なじみやすいということがあった。

シングリッシュとシンガポール友が自嘲したりする訛りは、いまは普通程度の教育を受けた人はひどくなくて、「いやあ、シンガポールの訛りは、ぼくにはわからなくて」と述べる日本の人は、たいてい自らの英語能力を恥じて相手のせいにして誤魔化しているだけだとおもわれるが、当時は、中国語っぽい破裂音のおおきさで、わかりにくくて、聞き返すと、「え?あ、いや、いいです」と、日本の人とおなじように黙ってしまう人もおおかった。

7歳か8歳、1990年頃のことです。

アジア文化の先生、のような国だった。
本格的なDim sum(飲茶)は、ここでおぼえた。
中国の、おいしい店に行けば、あの天にものぼるような味がするコンジーも、ここで初めて食べた。
海南チキンは、初めは、昔はなんだかチョー薄暗い店内だったマンダリンホテルのチャターボックスだったが、すぐにマクスウェルセンターの天天海南鶏飯で、大嫌いなはずの行列に嬉々として並んだ。

リトルインディアに行く途中、干し肉がぶらさがった屋台が延々と並んでいた、強烈な印象が忘れられない。

インド料理のタリも、ここでおぼえた。

ロンドンにあるのは気取ったインド料理屋ばかりで、コンテンポラリーインディアンが多かったが、シンガポールは異なっていて、
300円からそこらも出せば、プラスチックの皿に盛られたアルゴビにロティが一枚ついてきた。

その一方では、例えばインターコンティネンタルホテルには、ちゃんとハイティがあって、かーちゃんのおともで、くっついていけば、ロンドンとなにも変わらない午後の時間が冷房が利いたロビーのカフェにはあった。

シムリムセンター、Bugis Junction、飽きるということが難しい町で、身体がでっかくなってからも、子供のときとおなじで、 なんだか内心できゃあきゃあ言っているうちに滞在が終わる楽しい町だった。

段々、友達が出来てくる。
初めの友達らしい友達は、同じ大学の、普通の人間なら必死に隠す大学訛り(←イギリスという国には、そういうヘンなものがあるのです)をバリバリに利かせた英語をスーパー完璧なクイーンズイングリッシュを話すインド人の友達で、この人はあとで画廊の経営者になったが、シンガポールに数年住んでいて、よく会っては、パンパシフィックホテルのなかのインド料理屋で遊び呆けた。

話には全体主義国家だと聴くけど、来てみると、みんなのびのび暮らして、なんのことはない自由社会だよね、というと、屈託のない、おおきな笑い声で、はっはっはっと笑って、
相変わらずガメはシアワセなのねえ。

シンガポールには自由なんてありませんよ。
テラスに立ってメガホンで政府の悪口を言ってごらんなさいよ、5分もしないで警察が来て、豚箱行きだわよ、という。

密告社会でもある、という。

いつかタクシーでインドネシアから出稼ぎに来ているのだ、と述べるドライバに、春節なのに、シンガポールの人は、行儀がいいから、決まった場所でしか爆竹ならさないんですね、と言ったら、こちらも、わっはっは、なんて無知な奴だ、という調子で大笑いされて、ダンナ、そんなことしたら、あっというまに、お巡りがぶっとんで来ますよ、まっすぐ豚箱行きだわ、とわし友と同じ事を言う。

シンガポールには、近所の1ブロックに3人はパートタイムのスパイがいるんでさあ。
こいつらはね、密告一件でいくらと決まった報酬をもらえるんですよ、と俄には信じがたいことまで述べている。

あとになって、だんだんわかってくると、国民の政府に対する反感もたいへんなもので、いつか投資友の会社の若い社員たちにレストランを案内してもらってランチを食べた帰り途に、リフトに乗ったら、別の若い人たちがどやどやと乗り込んできて、当然、禁煙のリフトのなかで、「ここのはカメラがないんだぜ」というひとりの声に3人がいっせいに煙草に火をつけたのには、びっくりしてしまった。

あたふたと、ふかして、降りるときに「ざまあ見やがれ」という調子で踏みにじっていく。

シンガポールは、なにしろ煙草の値段が高いので、もったいないこと夥しいが、彼らにしてみれば、鬱憤ばらしで、もしかすると内心では、一種の反政府行動なのでしょう。

そういえば子供のときマウントエリザベスの裏の小路に煙草の吸い殻がいっぱい落ちていて驚いたことがあった、と言うと、「あっ、あそこ煙草を喫っていてもつかまらないんで有名だったんです」という人がいる。

「お巡りが巡回に来ないんですよね」

リー・クアンユーの自伝を読むと、シンガポールが、あらかじめ、「自由社会に見せかけた全体主義国家」としてデザインされたことが、よく判る。

地図を見ると簡単に理解されるが、マレーシア、インドネシアというイスラム国家に囲まれていて、シンガポールはしかも国内にもイスラム系が多いマレー人と中国系人の鋭い対立がある。

いつか、ラッフルズシティで1月1日を過ごして、ホテルのレセプションで「シンガポールは、1年に二回お正月があって、いいね」と述べたら、レセプションの、いつも愛想がいい若い女の人が、
ほんとうに憎しみがこもった声で、「シンガポールの正月は今日だけです。中国人のあいつらが祝っている正月は違法です!許していいことではない!」と形相もものすごく、語気を強めて述べたので、ぶっくらこいてしまったことがあった。

あるいはマレー系のタクシーに乗ってセントーサへ向かっていたら、隣を走っていたクルマが、ふらっと、こっちに寄って、危うくぶつかりそうになると、「中国人!」と舌打ちをする。
「お客さん、知ってますか?中国人ってやつらはバカだから、クルマの運転ひとつまともに出来ないんだ」という。

一事が万事。

リー・クアンユーは、民主主義などでは、根っからの個人主義者の、わがまま自由人である中国系人がまとまるわけはないと考えていた。

だがいっぽうでは、イギリスを初め、自由諸国の援助を必要としていた。
周囲のイスラム諸国は、いまにもシンガポールをたたきつぶしそうなくらい敵意をむきだしにしている。

ほら、ついこのあいだも、若い中国夫婦がインドネシアから出稼ぎに来たお手伝いさんが逃げないように窓がないお手伝い部屋(←シンガポールの高級アパートには、よく、トイレと小さなキッチンがついた「女中部屋」が付いている)に鍵をかけて閉じ込めておいたら、気の毒なお手伝いの若い女の人が熱地獄の部屋で死んでしまって、怒ったインドネシア人が、というかインドネシア政府も率先して怒りだしてしまって、コンクリートの原料になる石灰岩の輸出を止めてしまったことがあったでしょう?

おかげで、シンガポールでは数ヶ月のあいだ建設現場という建設現場は仕事をストップせざるをえなかった。

そこで極めて聡明な革命家だったリー・クアンユーが考え出したのは民主主義社会の服を着た全体主義社会を建設することだった。

ここからは、その建設のために彼がやったことを知っている人も多いと思います。

日本社会を翻訳してコピーした。

日本こそが、彼が目標とした「自由社会を演じる全体主義社会」であることを、この抜群の知能を持った反日活動家は、よく知っていた。

いまでもおぼえている。
いちどだけ子供のときに、おもしろがってガイドさんを雇ってもらって、案内してもらったことがあったが、タイガーバームガーデンの次に連れて行ってくれたところが戦争博物館のような場所で、日本人がいかに残虐な侵略者であったか、それこそターガーバームガーデンの色彩の毒々しさで、マネキンを使って案内していた。

そのときにガイドの女の人が、ふとおもいついたように「この場所は日本から来た観光客にはないことになっている、絶対に見せないことになっているのですよね」と笑っていたのは、多分、そのころは日本からの観光客がまだ多かったからなのでしょう。

最近は、随分変わったが、わしガキの頃は、まだ、ニュージーランドやオーストラリア、連動王国に歩調をあわせるように反日感情が強かった。

まして、リー・クアンユーが建国を開始したころの反日感情の激しさなどは、想像するのは簡単です。

それでも現実主義政治家であるリー・クアンユーは日本の偽造自由社会をまねることをためらわなかった。

そうすることによって、西洋自由社会からも日本からも中華社会からもオカネをひきだすことに成功した。

中国本土の経済市場デザインの根本的な欠陥が、香港とシンガポールをまねた結果、都市ばかりが繁栄して、その繁栄が地方に波及しないことであることは前に述べた。

ところが、そのデザインのおおもとは、実は日本で、日本近代に興隆をみた国家社会主義はシンガポールで「明るい全体主義」に姿を変えて世界で最も繁栄する社会を築いている。

シンガポールの実業家や投資家の友人たちと話していると、「別に自由社会じゃなくてもいいや」という気持が、年々、強く感じられる。

なぜ民主制が必要だろうか?
と、やや遊び半分ながら議論になることもたびたびある。

旧イギリス軍弾薬庫にある、わし贔屓のシーフード・レストランで、民主制と自由社会は西洋人の妄想にしかすぎないのではないか、という議論をしていると、周りの学生たちも加わって、途方もなく楽しい夜になったこともある。

ヒントがある。

シンガポール人の友達に案内されて、人気があるフードトラックの長い行列にならんでいたら、前のほうの学生たちが、いま順番がめぐってきた女の人に「どうして順番が来る前に財布を用意しておかないんだよ!後ろに並んでいる人間が目にはいらないのか!」と罵声を放っている。

ところが、日本でも、まったくおなじ光景を観たことがあるのです。

全体から個人を見るか、個人から全体を見るか、どちらの視点にたって社会を眺めるか、ということに自由社会の成立はかかっている。

民主主義というものが、個人の側から規定した社会の仕組みだ、ということを、次は説明したいとおもっています。



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