Je tombe amoureux

 

(この記事は2018年4月29日に「ガメ・オベール日本語練習帳 ver5」に載せた記事の再録です)

冬の冷たい雨のなかを歩いている。
ゴドレーヘッドって言うんだよ。
田舎道の脇にモリスを駐めて、ぼくは歩いていったんだ。
髪をびっしょり濡らして目に入ってくる雨が、口実ででもあるように、ぼくは泣きだして、涙がとまらなくて、岬の突端につづく、細い、まがりくねった径が、もう見えなくなっていた。

すれ違った若い女の人が、なにか言いかけてぼくの顔を見たが、おもいとどまったように、やめて、黙って歩み去っていった。
きっと、とても、やさしい人だったのだろう。
あるいは、人間には、若い時には、まわりが素知らぬ顔でほっておくべき愚かさがあるという厳粛な事実を、よく知っていたのかもしれないね。

人間の最も強烈で崇高な感情が性欲に起点をもつのは、なんという皮肉だろう。
ぼくは、あの人のことが頭から消し去れなくなって、とても苦しいおもいをすることになった。

忘れなければならなかった。
だって、なにも出来ないんだよ。
朝から起きると、もうあの人のことを考えている。
ほかのことが、なにも手につかない。
紅茶を淹れるために電源をいれたジャグが沸騰して、もうサーモスタットが利いて切れているのに、そのままにして、キッチンの窓から外を見ている。

町を歩いていて、ほっそりした、背が高い金髪の女の人がとおると、1万キロも離れた町に来ているのだから、そんなはずはないのに、あの人に違いないという気がして、後をつけている。

テラスに腰掛けて、コプト風のドレスを着た天使の絵を描いている。
妹に冷やかされるのが嫌だから、つとめて、異なった顔つきにしようとしているのに、どうしても、あの人の顔になってしまう。

One-night standで、歓楽から歓楽へ、知らない女のひとたちのベッドから知らない女の人のベッドへ渡り歩いていた自分は、なんてバカだったんだろう、とおもう。
神に恕しを乞うて、次の瞬間には、自分のやってことの大時代な滑稽さに、笑いだしてしまう。

ひどい、たちが悪い病気にかかったようなものだった。
カウチに倒れ込んで、頭を抱えて、うなっている。
妹が、やってきて、「おい、アニキ、しっかりしろよ。それとも、わたしがアニキも人間だったことを祝ってあげようか」と言うのは、励ましているつもりなのね。

論文も授業もおっぽりだして、ぼくは空港に向かったんだよ。
ほかに、自分を救う方法がおもいつかなかったからね。
一生を堅実にすごすための手続きは、もうとっくの昔にどうでもよくなっていた。

いつもなら二三日を過ごす乗り継ぎのシンガポールも、ただ空港の椅子に腰掛けてすごして、一睡もしないままクライストチャーチの空港に着いた。
ぼくはいまよりももっと若かったときには、とても感情がおおきくて、巨大な感情に圧倒されると、いつも、このゴッドレーヘッドをめざしたものだった。

なんの変哲もない、岬の突端の丘なんだけれど、クライストチャーチ人は、例えば大事な人を失った悲しみに打ちひしがれると、見渡す限り、どこまでもつづく冷たい海が見えるこの丘に来て、大声で泣くんだよ。
「身も世もない」って言うでしょう?
あれは、いまでは陳腐な表現だけど、きっと、初めは、そのとおり、文字の通りの感情だったに違いない。

人間は、ときに、身体のなかにある宇宙を全部しぼりだしてしまうような声で泣くことがある。

人間の知性などタカが知れている。
人類のご自慢の知性は、多分、せいぜい三十キロ四方の大地と空が生活圏であったころに成立した言語でできていて、そんなに遠くまで行けないんだよ。
人間は遠くへ行くために、あるいは確かな普遍性を獲得するために数式という言語を発明したが、人間の貧弱な知性では、そのくらいが限界だった。

自然言語に至っては嗤うべき機能の貧しさで、相対(あいたい)して、向き合ってしまうと、もう伝達すらできない。
人間は不思議な生き物で、あるいは情けない生き物で、伝達をしたいとおもえば、椅子をならべて、サイドバイサイドに座って、おなじ方角を見つめて、つぶやきあって、お互いの言語の草原にある対照を照応しなければならない。
あなたが述べていることは、わたしの辞書に書き込まれているこれのことだろうか、とたしかめあいながらでなければ、あますところなく伝達することすらできない。

冷たい肌と冷たい肌をあわせて、やがて吐息が荒くなって、肌そのものが灼けつくように熱くなって、熔鉱炉のふたつの金属が熔けあってアマルガムをなす、あの興奮のなかで、すべてのことは、一瞬に伝わってしまう。

それに較べれば、人間の言語の伝達能力は、なんと惨めなくらい低いのだろう。

人間は愚かさのちからがなければ、どうやっても真実にたどりつけない。
人間がすがっていけるものは、自分の跳躍的で不合理な愚かさだけであって、そのほかのものは、通俗な、くだらないガラクタにしかすぎない。
学校なんて、あちこちの時代の、雑多な知性から採集してきた、貝殻でつくったブローチほどの価値もない知識と思考の様式の品評会以上のものではない。

あんなものを知性と呼ばなければならなくなったら、邪宗の神様さえ赤面してしまうだろう。

ゴッドレーヘッドで、やっと少し落ち着いた気持になって、アートセンターに行った。
アートセンターは、むかしのカンタベリーの大学キャンパスで、ライムストーンの建物で、そのなかの、ぼくが好きだったカフェで、両手でパンプキンスープを抱えて、窓にうつる、自分で見てすら笑ってしまうほど若い顔を眺めていた。

目の下に隈をつくって、青ざめた白い頬で、鼻の頭が少し赤くなっていて、これでは「わたしは恋に狂っている男です」という、でっかいサインを掲げて歩いているようなものだよね、と自分でもおもう。

それから五日間、どうやって過ごしたのかおぼえていない。
何を食べたのかもおぼえていない。
もしかしたら、なにも食べなかったのかもしれない。

ぼくはバラバラになって、床に散らばった自分の魂を拾いあつめて、自分が住む大学町へ帰っていった。

打ちのめされた気持で、大雨のなかで、下水口に捨てられた仔犬のような気持で、ぼくは現実へ帰っていった。

こんなことは、きみにもぼくにも、誰にでもある経験で、「女にもてる男になるには」というような考えを、きみやぼくが、頭から軽蔑する、あの苦々しい気持の起源になっている。

「女にもてる」なんて考えは、あるいは考えの角度は、恋をして、自分の人生がなくなりかけた経験をもたない、計算高くて、周到で、鈍感なせいで、生きていくことだけは巧みな人間が考えることではないだろうか?

こんな言い方をすると大笑いをする人間がたくさんいるに決まっているが、きみやぼくにとっては女の人に恋をすることは、いつも、自分の存在を危うくすることだった。

誰かを好きになるたびに、きみやぼくは死んで、運がよければ、生き返った。
でも生き返ったときは、もうまるで別の人間で、二度ともとの自分にはもどれなかった。

自分が、こうやって生きていることが不思議なことがあるんだよ。
どうして、感情の嵐のなかで死なないですんだのだろう。

ぼくは、やがて、あのときに、まるで自分で自分の動脈をかききる人のようにあきらめた人と再会して、結婚するだろう。

いまでも、でも、あのゴドレーヘッドに行った午後のことを話したことはない。
なんだか話してはいけないことで、口にすると、いま現実だとおもっていることが、ガラスが砕け散るように目のまえで砕けて、なくなってしまうような気がするのだとおもいます。

乾杯。
せめても、きみとぼくとの、ささやかでも価値がありそうな、愚かさを慈しんで。



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