土曜日と日曜日はマーケットに行く。
モニさんは、相変わらず、ゆっくり眠りたいが、早起きしてマーケットに行く楽しみをおぼえて、どおりゃ、天気がいいから、マーケットに出かけるか、とおもいながらキッチンへ歩いて行くと、すっかり仕度をして、待っていることもあります。
むかしは、あんまりマーケットに行こうとしなかったのは、やはり欧州のマーケットに比較してしまうからではないかと推測するが、モニさんは、そういうことは言わない人で、こちらも、わざわざ訊く気もしないので、訊いたりしません。
ヴィクトリアやNSWのマーケットに較べても、オークランドのマーケットは、新しい移民の人たちの出す店が多いのが特徴で、ハンガリーのひとたちの「象の耳」パンや、ウイグルの人たちの羊肉の串焼き、いろいろなものがあって楽しい。
集まる人の数でいえば、こちらは週7日開かれているナイト·マーケットのほうが、ずっと多いが、
偏見で、マーケットの朝のものだという考えが抜けないので、「マーケット」と名が付くのに相応しいのは、やはり朝のほうだと思ってしまっている。
COVIDパンデミックのせいで、家からいちばん近かったパーネルのフレンチ·マーケットは、案外と長かった歴史に終止符を打って、二年前に閉じてしまった。
名前どおりヨーロッパ人たちのストールが賑やかに並んでいたマーケットの代わりに、おなじ場所で新しく開いたマーケットには、インドネシアやマレーシア、タイや日本の人たちがストールを開いているが、店も、集まる人も、まだ少ないようでした。
日本の人は、結局、行きつく所まで行くことに決めてしまったようでした。
言っていることは、他国人にとっては途方もなく判りにくくて、通りにでて自分たちの主張を掲げるのは「過激派のやることだ」という、そこまで言わない人でも、「日本はやはり選挙で自分たちの主張をする国です」と、なにがなし、胸を張って述べている。
ところが、ではどんな選挙をやっているのかと記事を探すと、投票率が50%ないものまであって、中島敦の「名人伝」ではないが、民主制も達人になると、投票に行かなくても選挙になるのかとおもったが、その割には、選ばれた議員達には大層不満なようで、「あれは自分が選んだ人間ではない」という。
なんだか、さっぱり訳がわからない世界で、あとで自分に嫌われると困るので、日本語との関わりとして言わなければいけないことは言ったが、つまりは自己満足で、記事を書いて、本を出して、ブログを書いて、それでなにか変わる見通しがあるかというと、なにも変わらないのでしょう。
SNSも、「汚染水の垂れ流しは、取り返しがつかなくなるから、それだけはやめたほうがよい」と書くと、例の、なんだかよくわからない、凄んでいるつもりなのか、ねっとりした変質者のような口調で、「おまえはバカだから知らないだろうが、あれは飲めるくらい浄化された水で『処理水』といって、放出してもなんの問題の水だから文句を言うな、という。
そんなに綺麗な水ならば海に流す必要はないのではないか、と疑問を述べると、
「塩水だから国内に流したら土地が荒れるだろうが、バカめ」と、ご託宣があります。
一時が万事、いつものことなので、もう驚かなくなってしまったが、例えば政府までも
「これから世界の国々に納得してもらうように『丁寧』に説明していく、という。
どこの国の政府も、国民も、「丁寧に説明するのなら放出する前にやれよ、バアーカ」とおもっているが、国と国のあいだで思ったままの事を言っていては、外交上の礼儀もなにもなくなって、自分が野蛮国になりさがってしまうので、畏まって、「では説明をお待ちしましょう」と待つことになっている。
内心、「なにかあったら、タダじゃおかねーぞ」と思っているのは、これも国と国の関係なので、あたりまえのことです。
正義は相対的なものだ。
立場によって異なるものだ、と日本の人は好んで語る。
Aにとっては正義でもBにとっては不正義でありうる。
だから、ひとつの絶対的な正しさがこの世界に存在しうると考えているあなたは狂信者なのですよ。
ふむふむ。
ところで、では正義が相対的なものだとして、Aの正義とBの正義が尖鋭に対立した場合は、どうなるのか。
そこから話し合うのは「絶対」という軸がない以上、いつまで経っても平行線で、結論は出なくて、そのあいだ絶えず相手の「手が動いている」場合、例えば汚染水を処理水だと主張して放出しつづけている場合、汚染水だと主張している側は、日本がいくら処理水だと主張して「科学的」データだと主張しても、「むかしから嘘ばっかり吐いている、おまえの言うことなんて信じられるかバーカ」と頭から信じない、という態度を取りうる。
南京虐殺はデッチアゲだとか、捕鯨はクジラの繁殖を扶けるためだとか言って、のらりくらり、いまでもなあんにも認めない国の言うことを、なんで今回だけ信じなければならないの。
いまは南太平洋諸国と中国政府、韓国の大衆と、各国のグリーン党だけだが、これがなにかのきっかけで、「やはり日本はおかしいのではないか」と言い出すと、どうなるのか。
日本の得意は数字を並べることです。
残念ながら数字のつくりかたが恣意的にすぎて、もうこのやりかたは、経済でも信用がなくなっていて、物理のような世界ではまだ信用があるが、いまの、日本の人が好きな言い方で言えば
「先進国」で、日本が発表する性犯罪発生率、一般犯罪発生率、経済統計…. 日本の人が「なにより客観的だ」と満腔の自信を持って述べる数字を、マジメに信じている国はないでしょう。
それも、まあ、いいことにする。
でもですね。
一方で、正義は相対的なものだ。正しさは立場によって異なるのだ、と都合良く述べながら、なにごとか対立的なことを主張する、というのは、実は、それ自体、大変に、というよりも、論理的に、危険なことなんです。
簡単です。
むかし外交において、この主張を繰り返した、言葉の上で、一歩も譲らず戦って、どうなったか。
日本はいまでも主張しているとおり「やりかたにおいては誤りがあったが主張の根本においては正しい面もあった」という立場だが、西欧諸国のいうことはおかしい、人種差別だ、自分たちだってやってきたことではないか、反発に反発を重ねて、ついに国際連盟を脱退して、言葉ではどうにもならない、と実は相対主義を信奉する以上、当然の結論にたどりついて、どうなったか。
当たり前といえば当たり前で、暴力と暴力のぶつかりあいになって、戦争が起こり、不意打ちが功を奏している「戦争前段階」、言わば大規模な国家を挙げてのテロの百日はよかったが、戦争の体裁をなしはじめると、国力の差が正直に出て、敗北に敗北を重ねて、最後には血まみれで、タオルを投げ入れてくれる国もなく、ふらつく足でかろうじて立っているところに、原爆というアッパーカットをくらって、前後不覚に陥るところまでいってしまった。
ね?
これが相対主義の政治における根本的な欠陥なんです。絶対が存在しない世界では言葉は凌駕的な力を持ちえず、言葉が力を失えば、暴力の出番になる。
その結果、最も強烈で巨大な暴力が正義になる。
日本は、また、おなじ道を歩いています。
ここに来て、軍備の増強を急いでいるのは、アメリカに言われたせいもあるが、相対主義のいきつくところ「戦争で勝つしかない」ことを思い出したからでしょう。
まだまだ足取りはゆっくりだが、しかし後には戻らないやりかたで、日本は戦争に向かって歩きはじめている。
これも、「絶対」を信じない言語の必然だと言えなくもないが、ここから、ぼんやりしていると、そう感じないだけで、安倍晋三暗殺は言うまでもない、すでに始まっているテロの時代が、次第に次第に加速しながら展がって、その先には、伝統的な形でか、あるいは、いままでにないような洗練された形でか、クーが待っている。
世界中(日本は除いたほうがいいのでしょう)の軍事通が、眉を顰めた防衛庁の防衛省への昇格は、問題にする人すらいなかった。
言葉の魔術を駆使しながら、かつての統合参謀本部は、いまのいま、出来つつあるようです。
自衛隊の幹部たちは、国民の「自衛隊の皆さん、ありがとう」
「災害時の自衛隊のみなさんの献身には、感謝の言葉もありません。自衛隊が最後の頼みです」という国民の頼もしい声を、目を細めて、拍手したい気持ちで聴いている。
(閑話休題)
オークランドのマーケットは、1993年に、この国に芽吹いて、それからおおきく成長して花開いた、多様性の象徴です。
いま考えると、ちょっと信じられないような気がするが、東京でいえば青山にあたるポンソンビーですら、アフリカ人の女の人が歩いていると、通りの両側から、なんとも言えない目つきで、みながジッと見つめていた。
「アジア人のなかではマシなほうだ」という失礼極まる「褒め言葉」で言われることが多かった日本の人でさえ、たとえばファーマシーで並んでいると、自分は飛ばされて、後ろの人が呼ばれる。
地元のハンバーガー屋へ行くと、奥から出て来た主人が、「いらっしゃい」といいかけて、顔を見た途端、踵を返して奥に引っ込んで、そのまま戻ってこない。
連合王国とおなじで、心が狭いというか、どうにもこうにも、「人種差別」という言葉を使うことさえバカバカしい、アジア人はどうしても人間だとおもえない人がたくさんいたころです。
日本の人は、よく誤解しているが、マオリ人は、もちろん彼らを差別する人もいるが、アジア人に較べればずっと「仲間」で、どちらかといえばマオリ人にはアジア人を嫌う人が多くて、ニュージーランド人はアメリカ人やUK人に較べて人種差別が少ないことを大変な誇りしていたが、おとなたちを観察していると、「アジア人は別」なのでした。
そこから始まって、長い長い道のりで、例えば白いキィウィ男とアジアの女の人の国際結婚は、早くからあったが、インド人の高校生と欧州系の高校生が一緒に帰宅する光景は2000年を過ぎてやっと見られるようになった。
いまは、つい先週も、インド人の子供と欧州人の子供がスクーターを蹴って住宅地の道を走ってゆく。
ロンドンで、日本人の子供、というか仲間と、遊んでいたら、もうほんとうは、そのころは「よい学校」とされる学校では、そんなことはなくなっていたはずなのに、小学校の先生に、ごくやさしい笑顔で、「あの子と遊んではいけませんよ。先生がお母様に怒られてしまいます」と言われて、それをかーちゃんに述べたら、珍しく怖い顔になって、
次の週に、その先生が学校を去ったりしていたころが、もう遠いむかしのことのようです。
そして、そういう多様性は、相対的な価値を認めたからではなくて、「善」という絶対の価値を誰もが中心に置くことに同意した事の直接の結果だと感じる。
Be kind.
という言葉は相対世界と絶対世界では、まるで異なる意味を持っている。
アヤムラクサがあって、ハンガリーの「象の耳」があるマーケットの人混みを抜けて歩いていると、言葉にすれば、なんだかクリシェすぎてバカみたいな「相手の立場に立つ」ということが、相対主義を抜け出す最善の道なのだとおもえてきます。
「この人にとって嬉しいことはなんだろう」
「この人は、なにをされるのが嫌なのか」
相手への阿りは、empathyを閉塞させてしまう。
そして行き着く先は、ゴリゴリとぶつかりあう相対主義に他ならない。
歴史上、日本が世界のなかでうまくいったことがないのは、チョー簡単な理由で、
「自分の都合しか考えたことがない」からで、外交すら、自分が我を押し通すための屁理屈でしかなかった。
それは多分日本人に伝統のemapathyが西洋の文脈には乗らないからなのだとおもっています。
西洋という自分でもよく正体が判らない仮面を被っているかぎりは、結局は、いつもおなじ結果なのかもしれません。
今回もまた破滅への道だが、終点を越えれば、また、やりなおすチャンスが来るのでしょう。
あるいは、そのときには、もう世界のどこにも居場所がないのかもしれないけれど
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なんて美しい日本語。ガメさんの中にしか存在しない日本の美、優しさにうたれる。
> これが相対主義の政治における根本的な欠陥なんです。絶対が存在しない世界では言葉は凌駕的な力を持ちえず、言葉が力を失えば、暴力の出番になる。
自分が幼少期から慣れ親しんだ日本の物語や漫画、アニメ等は、桃太郎にしても戦隊ものにしてもガンダムにしても、言葉で問題解決するのではなく、最後は戦って解決するものが多いことにこれを読んでから気付いて、衝撃を受けました。最後に暴力に訴えることが日本人の心の奥底に根付いてしまっているのかもしれません。
永山則夫の母は天井から逆さ吊りにされて折檻されたと、とうちゃん(旦那さん)に似た息子を見るとカーッとなって殴らないでは居られないんだと言ってた。
兄に殴られ自分も弟を殴り、若くして見ず知らずの人を手にかけて、最後は意味もなく権力に生命を奪われた。
人間は1人では生きられないけど、日本は暴力によってしか人と繋がることを許さない牢獄の作りになっている。生まれた瞬間から万人の万人に対する闘争のスタート。あらゆる場で比較して傷つけあって人よりも上に立とうとする。
暴力と数字でしか世界を理解しない人間の群れ。
本当の言葉までも辿り着けないで息が絶える。
人に聴いてもらえた苦しみはもう存在しないのに。