(この記事は2010年10月に「ガメ・オベール日本語練習帳 ver.5」に掲載した記事の再掲載です)
シンガポールに行った。
一週間だけです。
行きの飛行機のなかで考えてみると、もう二年もシンガポールに行ってなかったのでちょっとびっくりしました。
シンガポールには何回行った事があるか判らない。
どう考えても20回は最低行ったことがあるはずだが、40回を越えているかもしれません。
子供の時は欧州とニュージーランドを往復するのにストップオーバーでシンガポールによく4,5日泊まった。
長じてはニュージーランドやオーストラリアではオタクなものを買いようがないのでシンガポールによく買い物に出かけた。
よく考えてみれば、シンガポールから丁度東京とメルボルンが等距離なので、ニュージーランドから日本までは11時間、シンガポールは10時間半であって秋葉原に行くのもシンガポール版秋葉原のシムリムセンターに行くのもたいした距離の違いはないのだけれど、心理的距離として圧倒的にシンガポールのほうが近かったので子供の時でもシンガポールにばかり出かけていたのでした。
他の街には一度でかければ短くても1ヶ月はいるのにシンガポールだけは一週間くらいしかいたことがないのは、途方もなく暑すぎる天気と、そうやって「週末に都会を楽しみに行くところ」だったからという理由でしょう。
シンガポールの人間で溢れかえるような活気とハイテクが充満した街はクライストチャーチの、のおおおおんびりした、スペースが広大な街では正反対で、ニュージーランドののんびりに飽きてくるとたまにシンガポールへ出かけて「おお、すげー」をするのが楽しかった。
だから昔からシンガポールは好きな国なんです。
いつもの事だが2年も行かないとシンガポールはまるで違う国です。
オーチャードロードには見知らぬモールがいくつも出来ている。
みっつ並んだ高層ビルの3つのクソ頭に着陸したような形で巨大で平べったい客船のようなものがのっかったビル群が建っていて、「ありゃなんだ?」とシンガポール人友達に訊くとラスベガスのサンズがぶち建てたカシノ&ホテルだと言う。
そーゆー物理的な変化だけではなくて、このあいだ来たときには街角に立っているとやたら中国語が聞こえて、しかも金にならない事になると突然やる気をなくして投げやりになる上に、それをとがめると平然とウソをついて逃れようとする中国式サービスが増えて、中華化が進んだのお、と思っていたのが、今回はまた英語が聞こえる割合が増大して人々はまた少しマジメな方へ逆戻りした。
シンガポールのおかしなところは、こうした変化が(訊いてみると)実際に政府の号令によって決まるところで、中国色廃止はこの2年間の政府の努力の賜物なのだそーでした。
一方では音に聞こえるマクスウエルセンターのハイナンチキンライスの値段は3ドル(190円)で変わらない。わしが憶え間違っていなければ、この「店番号10番」の「天天海南鶏飯」はわしがチビガキンチョの20年近く前から3ドルで、なんでそんな不思議な事が可能かというと、これも政府が指導して、その上補助金を出しているからです。
ツイッタでもゆったが、将来指導層になる事が期待されるガキどもの通う保育園の月謝は25万円でも、生産性の低いゆわば小消費者として以外は社会の側から見て何の役にも立たない「国民」は、うまいものを安い値段で食べさせて100平方メートルちょっとの快適な住居を格安で提供できないと不満が鬱積してメンドクサイので生活にどうしても必要な衣食住は徹底的に安くするように政府が価格を操縦している。
年収が2億円を越える、世界一給料が高い首相の手腕のなかでも、これは大事な事のよーであった。
シンガポールは成功した一党独裁国家と見ることも出来るが、国家の形をとった企業なのだ、と考えたほうがうまく考えられるかもしれません。
会社のなかの無駄飯食いと化していて口を開けば「言論の自由が欲しい」だの「われわれにも表現の自由を寄越せ」だのとのたまってろくすぽ生産性を持たず、いざ言論の自由を与えてみれば「いまこそ中国民族の偉大さにめざめて『大中国』の旗のもとに結集せよ」と一面見出しに書いてしまうバカ記者や表現の自由だとゆって日本のアニメから借りてきたデカ目の幼児がメイドの格好で短いスカートから下着をのぞかせている、世にも弛緩して水洗トイレに流してしまったほうが良さそうな「ゲージツ」を「表現」してしまう、くだらないので「国民」とかはときどき頭をなでて安上がりな生活をさせておけば良い、ということにした。
そうしないと「シンガポール」という金融・観光を中心としたベンチャー企業がこの競争が激化した世界で生きてゆけないからです。
金がなくなれば年金もクソもないのは当たり前なので、とにかく稼がなきゃ国ごとつぶれる、そしたら基本的人権もなにもあるもんか、というのがシンガポール人の考え方であるよーだ。
株主にあたるのがグータラ従業員たる国民だというのは仕事もせんくせに口だけはいっちょまえと相場は決まっている従業員が自らの儚い矜持を保つ為の幻想で、国家にとっては株主は自国の国債を買ってくれる他国の政府であり、金融システムを通じて大量の金を委せてくれる他国の富裕層です。
むかしは従業員が株主だったので民主主義をやってゆく事に合理性があったが、いまは「余計者」が自分の益のためにくだらねーことを抜かして、芸能人やスポーツ人出身のポピュリストに信任して国をダメにする、というのでシンガポールは民主主義になんてハナから興味がないよーだ。
株主たる他国民や他国の企業が役員すなわち指導層を選べないのならいっそ大旦那に委せたほうがよかんべ、という知恵であるようだ。
どうしても西洋人並に自由に愛着をもつ西洋かぶれはオーストラリアやニュージーランドに移動する。
ま、アジア人のきみがどのくらい西洋人の嫌味な民主主義でやれるかわからんが、しっかりやってくれたまえ、バイバイ、というシステムになっている。
しかし頭の悪い従業員のほうにも、どうやらいまどきの世の中は国がもうからんと社会保障もなんもないよーだ、と周りを見渡して判ったので自由よりもカネ、という事になった。
「なにいいいいぃいー? 自由がないいいいいー? それで国と言えるか、ばかもん!」という人も当然たくさんいなければならないが、日本が愚民に自由を与えるのと引き換えに失ったものをじっくり研究して出来たというシンガポールの「独裁制」は、そう思ってみれば、なかなか健康ですっきりしたものに見えなくもない。
義理叔父が「80年代の日本みたいだ」とゆっていた長い長いながあああああーいタクシー待ちの人間の行列や、モールの、盛大に買い物袋をぶら下げてニコニコしながら歩いている若いカップルやチビガキ連れの家族の文字通りの「洪水」を見ていると、「やっぱりカネがなくちゃ」というシンガポール人のつぶやきにも真がないとはゆえんだろう、と思う。
シンガポール人が口を揃えて「目下のシンガポールの最大の問題」という中国の浸透は、わしの観察では意外な事で抑えられている。
わしが会った人でも「本当にあのアパートが25億円で買えるのか?安過ぎて信じられない。何か罠があるのでないか?」と真顔で訊いていてシンガポール人のリーさんやリャオさんを苦笑させている中国本土人のおっちゃんがいたが、現代中国人は「英語を喋る人間」に対してほぼ自動的な敬意を抱くようだ。
毎年毎年ひどくなる傾向として、ちょうどむかしの科挙のように「英語」で人間の「品」、あるいは民族の「品(しな)」を定めているようなところがあります。
本土中国人と話していると、この頃は「日本人の頭の悪さは、十年も英語を勉強しても挨拶も出来ない英語をみればわかる」という人が増えた。
そーなんですか?
と訊くと、ごく嬉しそうに中国人は十年勉強すれば、あんた達とふつーに話が出来るが、あいつらはバカだから。努力家ではあるのは認めるけどね、なんちたりしてます。
韓国人も、中国人に倣って、子供を3歳でニュージーランドに留学させる親が続出してニュージーランドではそれが社会問題化したりしている。
あれほど他のアジア人に対してエラソーな中国人たちがインド人たちに対してだけはえらく謙虚なのも、「英語」が背景としてありそーだ。
わしのシンガポール人の友達は親が中国から移住してきたひとでも家庭内では英語なので、訊いてみると「3歳から英語を必死で勉強する。それが上に行けるかどうかの初めの選別だからね」という。韓国と同じ。
で、その社会ごと英語化するのが中華系社会であるシンガポールが中国に同化されないで発展する唯一の道だ、という点でも社会的な合意を見ている。
去年だったか今年だったかにひとりあたりの年収平均で日本を越えて、最近四半期はGDP成長率32.4%、それも他国を慮って少ないほうに成長率の統計を誤魔化したらしいと噂されているシンガポールは豊かさにおいて日本をブーストをかけて引き離しつつある。
些細な事の傍証を挙げると儲かっている社会には、どこからともなく嗅ぎつけてぞろぞろと集まってくるアングロサクソン人が最近のシンガポールにはやたら増えておる(^^)
漢字では「珍寳」(註)という日本語読みをすると危険でなくもない元英軍駐屯地の海鮮料理屋で、食べ方の煩雑さにうんざりしてすっかり食べるのを諦めたまるのままの蟹を前の皿にほうっぽらかしてテーブルの周りに並んだシンガポール人たちの顔を眺めていると、自信と活気に溢れていて、当分、日本よりはこちらが東アジアのハブとしては発展しそうです。
シンガポールが徹底的に国権というものを否定した将来に進む場合、これが独裁国家だというような事を越えて、新しい、スポーツカーのような、ベンチャー国家のようなものが出来てしまえば、国家にとって19世紀の市民社会が築き上げた「自由・平等」というような概念が陳腐化してしまう可能性がある。
しかし、もちろん、流線型のカッチョイイ経済を目くらましに、カマゾッツ化、CD値が極端に低い独裁国家でもありうるわけで、どちらにしろ、この国がいまのところは成功している「実験」には西洋の国家がいちども踏み出した事がない豪胆なところがあると思います。
どうなるか、眺めていると、ちょっとわくわくしますのい。
画像は Deepavaliの前の晩、モニとふたりで遊びに行ったリトルインディア。
訊いてみると殆どバングラデシュやインドから出稼ぎに来たひとたちであった。
「今夜は、ただの飯も出るんだぞ」とゆってはしゃいでました。
たのしそーだ。
註:「 珍寳」は中国語読みではジャンボ(jumbo)なので中華圏ではよくある店の名前なんだす
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