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  • ふたつの宇宙を見つめるひとたちとしての日本人について

    同じだけど違うものについて話そうとおもう。 (ヒソヒソヒソ) やっぱり頭が本格的におかしくなってきたのではないか。 前から日本語が古式でおかしいとおもっていたが、ほんとうはジジイで、いよいよボケてきたんじゃないの? 到頭…. 落ち着き給え。 他人の不幸は、きみが期待しているほどには起こらないのよ。 期待しているきみのほうが、人相が悪くなって、ガールフレンドに逃げられるくらいがおちです。 十何年か前から、このブログを書き出して以来、ずっと書いていることがいくつかあって、言葉を変えてみたり、言い方を変えたり、あるいは観点を変えたりして、判ってもらえて欣喜雀躍に至ったこともあるが、一方には、ずっと誰にも判ってもらえないままのことがあって、そのひとつに 「同じものが違うものであることがありうるのだ」という厳然たる事実があります。 Spoonとスプーンは違うものです。 Knifeとナイフは異なる。 Forkとフォークは、同じものだけど、やっぱり異なっている。 食卓に並ぶもののなかでは、ナイフがいちばん判りやすいかな? 包丁をKnifeと言われて嫌な顔をする人がいる。 日本語ではナイフは、ブスッといくやつだからでしょう。 さまなければフォークとナイフのナイフ。 包丁をナイフと言われたんじゃあ、あたしゃ、収まりがつきやせんぜ、旦那。 それはね、西洋人の無神経って、ものでわ。 ええ、でも、有次のあれも、公式には「knife」なんですね。 非情なことだが。 無粋ですね、ブスィッといくだけに。 わたしは、いまはマジメに話しているんです。 これが食べ物の名前になると、もっとひどくて、 マグロをtunaという、 マグロの赤身が、メニューにtunaのred meatだと書いてあると、一挙に食べたくなくなります。 そういうことから派生して、 ずっとむかし「すべての翻訳は誤訳なのだ」と書いたら、おまえは日本の翻訳家の実力をなめてるのか、という作家の人がやってきて、偉い剣幕なのでビビりました。 どうしても一回言ってみたいので、言うと、ビビリバビデブー。 判らない人はサラガドゥーラメチカブーラなのだと言われている。 言語を翻訳するということは、ひとつの認識を異なる認識に移植する作業なのは、言うまでもない。 不可能作業です。 その不可能作業に挑戦しつづける死屍累々…じゃ、ないや、連綿たる翻訳家のひとびとの努力の上に立って日本は成り立っている。 考えて見れば判るが、違うものを同じと看做すことは、近代では、かなり一般的な思考で、例えば3個のリンゴと2本のバナナは、あわせて「5」であるとみなせる。 ところが一方では同じものを違うものと見なすことも同時に行われていて、身近な例では、ほら、洋食ではライスが、定食屋では「ご飯」でしょう? 炊飯器から取り出すときは同じ炊いた米の飯だが、洋食屋で平皿で供されるライスと、定食屋の丼で大盛で出される「めし」を同じものだと感じている人はいないでしょう。 ところが、最近では、日本語人は「ご飯」も「ライス」も同じに決まっているじゃないか、と考える人が増えているような気がする。 実体がおなじなのだから、同じで当たり前じゃないですか、という人がいそうな気がするが、 それは、実際のところ、日本文化の破壊なんですね。… Read More ›

  • Hurdy Gurdy Man

    (この記事は2010年11月20日にver.5に掲載された記事の再録です) 人形町に行った。 わしの趣味であるよりはモニの趣味です。 むかしの江戸風な趣が残る裏路地や店構えが好きなよーだ。 脇路地にはいりこんでは写真を撮っておる。 モニが忙しく写真を撮っているあいだ、わしは、ぼけえええーとしてコーヒーを飲みながら立っておる。 子供の時に、ここにもかーちゃんと一緒に寄ったよなああー、とか、あの「雲井」という店で生まれて初めて「どら焼き」を食べたら不味かった、とか、いつもと同じ、そーゆーくだらないことを考えながら待っている。 「ガメ、終わったぞ」という声がすると、次の路地に移動します。 日本語を勉強するひとたちのなかには、ずいぶん日本に惚れ込んで日本狂いみたいになるひともいるが、わしは、そーゆータイプではないよーだ。 醤油が好きになれない、とか、ラーメンてどこがおいしーいんじゃ、とかそーゆーこともあるが、アニメもマンガもほんとうには好きになれないで終わってしまった。 アニメはジブリが好きであって、「となりのトトロ」や何回調べても日本語の題名が頭にはいらない「Spirited Away」を何回も観た。 「火垂るの墓」の冒頭のナレーションを映画の歴史に残る素晴らしい独白と感じます。 マンガでは、なんとゆっても岡崎京子が偉大であると思いました。 カウチでごろごろして、Tim Tam  http://en.wikipedia.org/wiki/Tim_Tam   を食べながら、「パタリロ」や「伊賀の影丸」を読むのは楽しかった。 でも、そーゆーことも、要するに「よそごと」であって、なんとなくほんとうに身に付いたものにならない。 たとえば、Keshaが「Where’s my coat?」「Where?」と酔っ払ってつぶやくと、その馴染み深い可笑しさのほうにすぐ引き寄せられてしまう。その瞬間、(うまくゆえないが)するっと、自分が生まれて育った世界にもどってしまいます。 夢からさめたひとのように、と言えばいいだろうか。 「ガメちゃん、畳の部屋に住まないとダメだよ」とゆわれながら、一歩ドアを開けて入れば、友達に、「いまどき西洋国でも靴くらいぬぐやん、ひでーな」とゆわれる、まったく自分の国と変わらないアパートに住んで、スペイン式のコーヒーテーブルや、世界でいちばん座り心地の良い連合王国製のカウチ、モニの国の台所用品、日本のかけらもない生活であった。 わしは「頑張る」「無理をする」というようなことが、なによりも嫌いなので、特に日本に馴染もうとおもったこともなかった。 一応、日本遠征でやろうと思ったことをやりながら、まったく自分の国と同じやりかたで暮らしてきたのでした。 (ははは。ゆってしまった) 嫌なこともあった。 なにより嫌だったのは「立ち小便」で、ゴルフクラブを脇に立てかけて軽井沢の小径で用を足すひと、高速道路の脇にクルマを駐めて(!)、コンクリートにおしっこをひっかけて満足げなひと、秋葉原の駅の真ん前で舗道の灌木に向かってやっているひともいた。 犬さんよりもひどい。 わしは、これが日本にいていちばん嫌なことだった。 あとは、食べ物を食べるときにひとびとが発する異様な音であって、くちゃくちゃ、というか、べちゃべちゃ、というか、あの凄まじくも嘔吐感満点の音のせいで。モニとわしは外食をする場所がクラブ他、少数の場所に限られてしまった。 舌鼓、に至っては、嫌がらせのダメ押しでやってんのか、こら、と立ち上がって怒りたくなるほど気味が悪かった。 そーゆーことに較べると、(あたりまえだが)、立派な高速道路の制限時速が60キロであったり、やたら「見えない税金」がいろいろなものにかかっていたり、若いひとたちの給料がびっくりするほど安くて40代以上にばかり手厚い給料の体系や、議論もくそもない粗雑な頭の「言論人」も、ほんとうは、「腹がたつ」というようなことはなかった。 なんだか、気の毒な感じがしただけである。 考えてみると、かーちゃんシスターがギリオージ  http://bit.ly/di17TZ   と結婚しなければ、わしと日本のあいだにここまでの縁は出来なかった。 かーちゃんシスターとギリオージのあいだに出来たガキは、わしのマブダチであって、ふたりガキは、あるいはニュージーランドの野原を意味も無く走り回り、トンブリッジウエルの細い径を「月おやじ」の視線の追究を避けて潜行し、ロンドンのクソ公園を肩を並べて馬に乗ったものであった。… Read More ›

  • 日本について

      (この記事は2017年1月16日にver5に掲載された記事の再録です) なぜ、あなたがそこに立っているのだろう、とおもうことがある。 人間が出会うことほど不思議なことはなくて、あなたと会って、結婚という社会制度に名を借りて、ふたりだけで暮らそうと決めたことの不思議をどんなふうに説明すればいいのか判らない。 いい考えだとおもう、という、あなたの答えを信じたふりをしたが、ほんとうはあなたが別段日本に限らず、アジア全体に(偏見というのではなくて)まったく興味を持っていないのを知っていた。 わがままなぼくは、信じたふりをして、まだもうちょっと付き合ってみたいと思っていた日本語が成り立たせる社会を、あなたと一緒に訪問したのでした。 東京も鎌倉も気に入らなかったけれど、あなたは軽井沢は気に入ったようだった。 「長野県の人は冗談が判らなくて、真に受けて、ニュージーランドの人たちみたいだ」と述べたら、あなたは、なんだかムキになって、軽井沢の人は善い人ばかりではないか、と怒っていたが、ほんとうは、それを聞いて、とても安堵していた。 自分の都合で、あなたの一生のうちの何分の一かを浪費したくはなかったから。 1回目の滞在の終わりだったか、あのミキモト真珠店の、白髪の老店員が、あなたが身に付けていたネックレスを指して「お嬢さんのような立派な家のかたにお売りできるような真珠を、お恥ずかしいことですが、もう私どもは持っていないのです。 海水の温度があがって、いまの真珠は、あなたがたのようなひとびとが身に付ける真珠に較べれば、二流以下のものしかないのですよ。 どうか、お嬢さんがお持ちの真珠を大切になさってください」と述べて、びっくりして、あなたは日本文化を少しずつ好きになっていった。 一瞥するだけで、社会でも個人でも、すっと本質を見抜いてしまうあなたは日本の社会が天然全体主義とでも呼ぶべきもので、そのせいで個人は深く深く病んでいて、個人から全体を見ずに全体から個人を見る、奇妙な視点を持っていることに辟易して、まったく興味をもたなくて、日本の社会で暮らしているはずなのに、すべて欧州かアメリカに住んでいるかのようにふるまって、友達も皆欧州人で、もちろん日本の人と接触すれば、途方もなく親切だったけれども、社会は嫌いで、それなのに日本という不思議な(日本の人が聞けば地団駄を踏んで怒るだろうが)途方もなく遅れた社会に興味を持つようになっていった。 軽井沢の家が、森の奥にある趣であるのも良かった。 あなたは、都会っ子で、フランス系のアメリカ人として、あのマンハッタンの、なんだかバカバカしいほどおおきなアパートメントで過ごしてきて、実家は、あの通りの日本語で言えば荘園だが、田舎で過ごしたことはなくて、そのせいで、軽井沢の家がとても気に入ったようでした。 オカネをかけて念入りに舗装された県道?の脇にクルマを駐めて、ガメ、ここでピクニックにしよう、景色が素敵、と言い出したときには、ぶっくらこいてしまった。 あなたは舗装道のまんなかに敷物を敷いて、のんびり、ランチボクスを拡げて、コーヒーを飲み出して、恬淡としている。 「クルマが来たら、どうするの?」と聞くと、 ガメは、観察力がないなあ、この道路に最後にクルマが通ったのは、さあ、一年以上前だと思う、と述べて、澄ましている。 ずっと後になって、道路が続いていく先の、何のために架けたのかよくは判らない橋が閉鎖になっていて、クルマが来る心配をしなくてもいいのが納得されたけど、 そのときは、大胆さで、モニだなあ、とマヌケな感想を持っただけだった。 きみは笑うだろうけど、ぼくは、自分がきみだったらなあ、とよく思うんだよ。 こういう感情も嫉妬と呼んでもいいかも知れません。 いつか夜のミッションベイに行ったら、バーでふたりでワインを1本飲み終わったところで、ガメ、波打ち際に行こうぜ、と述べて、途中で靴を脱ぎすてて、波打ち際に素足をひたして立った。 聴こえる? といって、微笑う。 ほら、音楽みたいでしょう? ニュージーランドのハウラキガルフは、潜ってみると、70年代の日本漁船の乱獲に怒ったマオリ人たちが日本漁船に立ち入らせないようにしてから、帆立貝たちにとっては天国で、カーペットのように帆立貝が生息していて、死ぬと、 亡骸の貝殻は割れて、波に運ばれて、浜辺に運ばれてくる。 その小さな小さな帆立貝の破片が、波でお互いにぶつかりあって、 なんだか超自然的な旋律を奏でる。 そのことを、なぜか、先験的と言いたくなるようなやりかたで知っていて、 現実にはどんなチューンなのかを知りたくてやってみたのだと、後で、きみはこともなげに言うのだけど。 その精細な目で、興味を持ち始めた日本を見て、カメラを持って、日本を撮りはじめた。 その最後の日を書いたブログを、いまでも懐かしく読む。 Hurdy Gurdy man きみやぼくにとって、日本て、いったい何だったんだろう。 西洋の「日本」は明らかに基礎を小泉八雲に拠っていて、人柄もよくて、親切で、日本に対して巨大な理解をもった、この弱視のアイルランド人に出会ったことは、日本の人にとっては、文字通り世界史的にラッキーなことだった。… Read More ›

  • 箱根の雪

    雪が降った日に、ふと思いついて、箱根に行った。 いちど鎌倉から箱根に海沿いにドライブして行ったら楽しいだろう、と考えて、 馬入橋という変わった名前の橋を越えて、いつか書いた、尊敬する作家、北村透谷 https://james1983.com/2021/07/28/tookoku/ の誕生の地であることを記した石碑がある町を通って、箱根湯本に続く道を行こうと思ったら、大渋滞で、 半日経ってもつかなくて、途中で諦めて引き返したことがあったが、東京からならば、渋滞もなくて、あっというまに着いてしまう。 浅薄な日本趣味と笑われそうだが、蕎麦屋で、雪を見ながら熱くしてもらった日本酒を飲んで、すっかり満足してしまった。 箱根が好きで、軽井沢に別荘を買ったときも、最後まで箱根にするか、どっちにしようか悩んだ。 結局、十数年前の当時でも、日本はすでに熱帯のように暑くて、山荘を借りて、冷房なしで過ごすと、到底寝苦しくて、いられたものではなかったので、諦めて、泣く泣く軽井沢に家を買うしかなかった。 軽井沢も、雪は降る。 ほんとうは氷の町で、道東と気候は同じだとかで、ひたすら寒い割には雪は降らなかったそうだが、長野オリンピックでトンネルが出来たら、突然、大雪が降るようになったそうで、 塩沢湖の氷が薄くなって、ジープで渡れなくなったかわりに、雪が降って、シャーベットになって、クルマが横滑りして坂があがれなくなったわよ、と笑っていた。 なにしろ十二月も、たいていは初旬の、軽井沢の電飾のお祭りが終わると、いったん東京から別荘へやってきて、軽井沢でも大事な年中行事である水止めをしてからニュージーランドへ発つ習慣だったので、そう度々は雪が降るときに居合わせることはなかったが、いちど、今日は東京に戻るという朝になって、森が、銀色に凍っていたことがある。 真っ白に凍った森に、雪が「しんしんと」という、あの素晴らしい日本語表現がぴったりの様子で降って、まるで軽井沢が、お別れに、お化粧をした、あでやかな姿で挨拶してくれているようだ、と、モニとふたりで感傷的になったりした。 そうやって、軽井沢は軽井沢で、雪景色が美しい町だったが、なんだかわがままなことを言うと、軽井沢の長野の雪と箱根の雪は、おなじ気象だが異なるもので、 蕎麦屋でお酒を飲むためには、どうしても箱根でなければダメだと考えていた。 まことに軽薄な若者というしかないが、そのころは、箱根で、降り積もる雪を眺めて、熱燗で、 素の盛り蕎麦を二三枚も食べれば、それで良かった。 もう大満足で、堂々たる法規違反の酒気帯び運転で、当時はおお気に入りに気に入っていた、箱根富士屋ホテルで、洋式のバスタブで天然の温泉に浸かる贅沢で、翌朝は、レイトチェックアウトで、のんびり起きて、レストランで、カツカレーを食べて、よくあんな凍った急坂で死ななかったと、いま考えておもう、カーブだらけの道を、エンジンブレーキがろくすぽ利かないオートマ車で降りて、箱根湯本で、日本に来て味をしめた、「まるう」の蒲鉾を買って東京へ帰った。 若いときに、自分にとっては外国の、見知らぬ町に住んでみるのは、いまふり返っても良い考えだったとおもう。 東京とバルセロナとニューヨーク。 このみっつの都会が好きで好きで、手放しで好きで、隙さえあれば、ここで2ヶ月、あそこで3ヶ月と過ごして、あまつさえ、家まで買ってしまったが、どうなのだろう、いまの頭で考えると、 東京がいちばん好きな町だったのかも知れない。 街を挙げて、まるで人生の教師のような存在だったバルセロナを別格として、 むかしはマンハッタンの、喧騒どころではない、騒音ボックスのような街が好きだったが、 ひどい言い方をすれば、交尾期というか、盛りがついた猫が、次から次に相手を変えて、自分の生涯の伴侶を、無意識に探して彷徨していたようなもので、みっともなくて、思い出すと、 あああっ!と声が出るというか、若いということは、自分では判っていない他人への残酷さも含めて、どうしようもないものだという気がする。 そのころは、カリフォルニアが、よく考えてみれば、北のサンフランシスコも南のオレンジカウンティも、行けばいつも楽しい思いをしているのに、なんとなく気に入らなくて、アメリカといえばシカゴとニューヨークだったが、シカゴはいまでも最愛の街のひとつだが、ニューヨークは後半は、というのはモニと結婚してからは、あの街特有の欧州コンプレックスが鼻について、だんだんアミューズメントパークにいるような気持ちがしてきて、街とこちらに気持ちの「ずれ」が生じていった。 まあ、いまでも好きですけどね。 このブログ記事中にたびたび「オンボロ」として出てくるアパートの場所がよくて、 ちょうどチェルシーとヴィレッジの境目あたりで、いま考えても、ダンテの有名な The Gates of Hellの Per me si va ne… Read More ›

  • 耳袋より

      「フジサワさん」、というひとなのである。 「フジサワさん」は定年退職して悠々自適、である。 賢い息子に恵まれて、息子の嫁も貞淑な良妻である。 春の日、縁側に腰掛けて「フジサワさん」 は思うのだ。自分の人生はまことに満足のゆくものであった。 そんなに瞠目すべきものではなかったにしろ、まずまず他人よりも出世栄達に恵まれた。そのうえ、ひとがやるほどのことはみなやった楽しい人生であった。 そのとき「ほんとうにそうか?」という悪魔の声がしたのすな。 ほんとうに、やり残したことはないか。 ある。 男色というものを経験したことがないのは残念である。 大きな声では言えないが女色なら人後に落ちるものでない。 妻女に打ち明けたことがないだけであって、謹厳な外見からは考えられぬほど様々な経験を積んだのだ。 しかし、男衆を相手にしたことだけはない。 うららかな春の日、「フジサワさん」は考えれば考えるほど、それが残念である。 ああいったものは、どんな気持がするものであろう。   ここから先がわっしがこの「フジサワ老人」を好きになった由縁であって、この老人は物好きにも、というか実証主義者ぶりを発揮して、というべきか、下町に出かけて、なんと男根の張り型を買ってくるのです。 もちろんわざわざ顔の知られていない遠い下町まで足を伸ばしたのだ。   隠居椅子のある縁側にもどって「フジサワさん」は、息子の嫁や妻がいないことを呼ばわって確認します。 そして、おもむろに張り型をとりだす。 縁側の床に立てて、下着を脱ぐとソロソロと腰を張り型に向かって下ろしてゆきます。   ところが、好事魔多し、なにしろ年をとって足腰がやや弱っているので、いきなり、どすんと尻餅をついてしまう。張り型はブワっとざっくりいきなり根元まで入り込んで(下品でごめん)、その痛いこと、表現のしようもなし、「ぎゃああああああ」とあまりの苦痛に絶叫します。 いないと思った息子の嫁も妻も息子もあまつさえ姪御どもまでがわらわらと集まって、駆け寄ってくる。「おじいさま、だいじょうぶですか」「父上、どうなされました」 一瞬の後、なにが起こったか悟ったひとびとに「フジサワさん」は大笑いされたそうです。 死んだ後まで語り継がれたそうであって、その証拠に、この藤沢某という旗本の話は「耳袋」という江戸時代の聞き書き集に載っておる。   東京は今日はまるで初夏のような一日です。モニとわっしはアパートのテラスで昨日銀座で買ってきたCava(東京にも、ちゃんとあるのだ)を飲みながらくつろいでおった。モニが日本の文化のセージュクドについて質問するので、わっしはいろいろな例をあげて説明します。眼を近づけると、結構おもろい。たとえば、といって「駿台雑話」と「耳袋」のなかから記憶に残っている話をします。で、ここまで話したら、モニ がビョーキのひとのように笑い出して、止まらなくなってしまった。 いくら説明しても、わっしがデッチアゲタはなしだと思っているようだが、ディテールは、なにしろ何年も前に読んだ本なので変わってしまっているかも知れないが、ほんとうに江戸時代に書かれた「耳袋」という本に載っている話である。   前にも、同じようなことを話したことがあるのをおぼえていますが、わっしは、ですね。 こーゆー話をもっていることこそ、日本のひとは自慢すべきであると思う。 なぜ、この話が外国語に翻訳されないか。 わっしは不思議に思います。 翻訳されれば、「日本」という国の評判は20ポイントくらいアップすると思うが。 わっしは、今日は結局どこにも出かけなかった。 知り合いの自転車屋さんに電話して、モニのぶんのブロンプトンを取ってもらった。… Read More ›

  • 日本語の死

    (この記事は2020年6月20日に「ガメ・オベールの日本語練習帳 ver.5 」に掲載された記事の再掲載です) さようなら、というのは、「そうでございますれば」という意味だろうか。 お名残惜しゅうございますが、わたくしはここで失礼いたします。 と述べて、横浜で、鎌倉まで行く友人達に別れのあいさつを述べる老女は、日本語が本来、長くて、省略を許さない言語表現をもっていたことをおもいださせる。 せっかちな日本語を指して、まるで車夫のような喋り方をする、と述べている人の言葉を読んだことがあったが、他のたいていの言語とおなじで、日本語もまた、そういうことに興味があれば、かつて階級社会であった日本の、労働者階級の言語に集約されてきた、ということなのでしょう。 ロンドンにいて最も楽しいのは、例えば骨董時計店に勤める友人をたずねて、よもやま話をするときの英語の美しさで、ひとつひとつのシラブルが精確に、正しく発音され、機知が織り込まれ、音楽のように発声される英語は、心地よい、という言葉は、こういうことのためにあるのだ、という気分にさせられます。 美しい英語は、階級制度が廃止されて75年が経ついまの日本の人にとっては、幸福なことに、正しく理解できない語彙になって、階層も階級も一緒くたになってしまうらしい階級という、人間が人間を不幸にするために拵えた化け物のような制度と同様に、恐龍で、すでに亡びつつあるのは、東山千栄子や久我美子たちの日本語が、いまの日本の人には話すことはおろか、聴いてもわからないものになっているのと、案外、軌を一にしているのかもしれません。 Decline and Fallという愉快な小説を書いたイーヴリン・ウォーがウィンストン・チャーチルに「きみが書く英語はどんどん古くなるね」と言われて、相好を崩して、終生、自分の小説に対する最大の褒め言葉として、好んで他人に語ったのは、言語というものの、そういう、のっぴきならない事情を反映している。 言語は、通常、普段に使い慣れている人間が印象しているよりも、ずっと恐ろしいもので、コミュニケーションや思考の道具として使っているつもりで、実際には、使っている人間の手をむんずとつかんで、予期しない方向へ連れていってしまう。 異なる角度からいえば、アンドレ・ブルトンたちが実験してみせた自動筆記は、普段は隠匿されている言語の知力を含む心理を支配する力をunleashしてみせた試みで、現実には、自分が主体となって考えているつもりでも、言語が物理装置としての大脳を間借りして、自律的に思考をすすめて、脳のほうは、体面上、まるで自分が言語を支配しているかのように意識に対して装っている、ということでしょう。 こんなことをいうとブルトンたちが腐りそうだが、ほら、「こっくりさん」というのがあるでしょう? あれは実は参加者の自律言語を呼び出しているわけで、その結果が恐ろしいことになりやすいのは、自律言語のちからを完全に解き放って、制御できないものにすると、どういうことになるか、ということを暗示している。 古代の人間は、そうした機微をよく知っていて、言語を必要以上に簡略にすることを許さず、考えるためには、性急に考えたり、まして結論をだすことを許さず、ゆったりして、動かしがたい時間を言語に与えることによって自律言語が暴走することを防いでいた。 例えば翻訳でもかまわないので、カエサルの「ガリア戦記」やプルタークの対比列伝を読めば、そうした言語特有の事情は、一も二もなくわかります。 何度も書いたように、日本語にとっての生命力が湧出する泉は翻訳で、世界中の普遍言語のなかでただひとつ、世界への注釈語として生命をたもってきた。 本来、日本語に移植できない思考と言語表現を、大笑いに陥りそうなタイトロープを伝って、原義の深刻な表現をなんとか伝える不可能作業の過程で生まれた表現や、ある場合には造語が、日本語という言語をここまで生きた言語として生きながらえさせて来たのだとおもっています。 言語として、注釈語という不思議な渡世を可能にしてきたのは、もともとの出自が漢文の読み下し文という外国語の注釈そのものであったことの結果でしょう。 幸運なことに注釈語としての本流に、無意識の反発を感じた日本人が反作用として行ったことは日記と手紙と詩によって、「注釈されない自己」を表現することだった。 まるで鏡のない部屋で永遠に独語するひとのように孤独な心象を綴ってきた。 和泉式部日記や、和歌によって、日本人は精神の、ひいては文明としての、平衡をたもった。 いまを生きている日本の人も、文字通り昼食代ていどの価格を支払えば、文庫本という形で、その事実を実際に視認できます。 俳句という注釈語による詩の試みが芭蕉によって大成したのも、もちろん、この注釈語と「注釈されない自己」の統合があって、初めて可能なことだった。 そうして、和歌であるよりも俳句の成功の歴史的な時間の流れのなかで、西洋語の翻訳という例の言語生命の泉のなかから戦後現代詩が生まれて、日本語の生命を支えていく。 日本語は表層で起きたことだけを述べれば、テレビと商業コピーによって破壊されました。 最近は、このブログを書き始めたころには「なにを言ってるんだ、このひとは?」であったことが、だんだん社会のなかで常識になって、糸井重里、というような名前が(サラリーマン言葉でいえば)「戦犯」のようにして語られるようになったが、糸井重里というひとにおかしなところがあるとすれば、自分がコピーライターであることを否定しはじめて、吉本隆明だのなんだのと言いだしたことのほうで、コピーライターはなにしろ言語という、もともと自分の生命力をもったものをマーケティングの道具に使うという商売なので、そんな職業の人に節操がないというようなお説教じみた非難をしても、単に褒め言葉にすぎない。 問題は文学の役割をテレビと商業コピーに求めてしまった受け手のほうで、マーケティングの言葉を真実の言葉に置き換えてしまうことによって、日本の社会は思考能力そのものを失っていきます。 その政治世界における表現が、外から見れば軽薄としか言いようがない麻生政権であり安倍政権で、野田政権なのであるとおもう。 そういう日本の頽廃の仕組みは、たとえば百田尚樹のような小説家としては箸にも棒にもかからない低劣粗雑な三流作家が国営放送NHKの報道全体におおきな影響をもってしまうような現象によく顕れている。 新しい語彙の寿命が極端に短くなって、次々に死語になって、 一方では、映画を「鑑賞する」と言わざるをえないような、すでに現実を表現するちからを失った表現が、淘汰もされずに残っている。 言えないことがたくさん出来てしまって、しかも敬語の崩壊によって、いったいなにをいいたいのかさっぱりわからない、ぐずぐずして用をなさない表現がレストランのような場所でも繰り返されている。 日本語はすでに死語の体系になっているとみなすことが出来て、ちょうど糖尿病患者の足指が炭化して壊死するように、言語体系の隅っこのほうから言語全体の死語化がすすんでいる。 日本語の二倍くらいの言語規模で、普遍度がおなじくらいだとおもわれるベンガル語に較べても、いまの日本語の零落は急で、そろそろ意識的に再生させなければ、いずれは公用語として英語にとってかわられるか、言語というものの性質上、国民全体として痴愚化するか、どちらかになるしかない。 ひとりの日本ファンとして、それではならじ、と思っています。 「蟷螂の斧」だけどね

  • あいさつ

    あと半年もしないうちに自分が40歳になるというのが、どうにも信じられない。 別に40歳になりたくない、というわけではないが、「現実感がない」というかなんというか。 もともと日本語を始めたときには40歳になったら止めようと決めていた。 なにしろ飽きっぽい性格なので、それまでにはどうせ飽きているだろうから、という気持ちで、 「40歳」は、無限遠点のようなものだった。 それが、あと半年に迫っている。 不思議な心持ちがする。 長いあいだ日本語を続けていると、予期しなかったこともある。 これは日本語に限らないが、段々、自分の生活について書けなくなってくることが、そのひとつ。 モニとわしの目が届かないところにいることがあるようになってから、小さい人たちについて書くのは、一切やめた。 日本に住んでいる人はピンとは来ないかも知れないが、危ないからです。 現代世界では子供は麻薬と並ぶ地下経済の大スターで、特に白人の子供は高く売れる。 シャブ中の人々の憧れの的、垂涎の日本製覚醒剤と同じようなものと言えば言えるのか。 あと、こちらは明瞭に意識して自己規制しているわけではないが、オカネについても、そもそも自分でたいした興味があるわけではなし、書くのは避けることにした。 それが単に子供のときから見知った方法だというだけで、オールドマネーの世界で育ったので、かーちゃんととーちゃんが家業として継いでいる不動産と、所有不動産の開発みたいなことには馴染みがあって、そのうち、子供として見ていても忙しそうな商業不動産は、時間を食われそうで嫌なので住居不動産に絞ることにした。 ブログを読んでいる人は気が付いたとおもうが、いま住んでいるニュージーランドには、そんなにたくさんはなくて、初めからロンドン、ニューヨーク、バルセロナが多かった。 オーストラリアではメルボルンで、東京は特殊な市場におもえて手を出さなかったが、 残りは、これは予想外と言ったほうがいい不動産バブルに巻き込まれて、巻き込まれて、では折角の神様の善意に悪いか、乗っかって、自分で書いていて、考えて、恥ずかしくないの?というくらい「資産」が増えてしまった。 住居不動産は時間を生みだしてくれるという点で良くて、個人の大家さんは、維持やテナント探しで大変なはずだが、管理会社をつくってちゃんと動くようにしておけば、後は、やる気になればほぼ自動運転でいけます。 オカネをつくる才能は、たいしてあるとは思えないが いま考えて見ると、浮沈が最も少ない投資でもあって、もちろんバブルは崩壊するもので、 借金がある投資家は拳銃をこめかみに宛てたり、自分のビルの屋上から飛び降りたりするだろうが、借金を最後にしたのは妹からハンバーガーを買うカネを借りて、踏み倒したのが最期で、それ以来、貸したことはあるが、借りたことはない。 何度か書いたが、オカネをまず人生を開始するにあたって作ってしまおうと考えたのは、 「時間」を作りたかったからです。 もうひとつは、オカネのことを考えるのが、めんどくさいから嫌だった。 気に入ったジーンズがあるとするでしょう? そのときに値段をチラ見して買うのは嫌だった。 マイケル・ジャクソンだったか、クルマとチョコレートの価格の桁が異なるのを知らなかったというが、それはそれで楽しかったはずで、「オカネが意識に存在しない世界」「時間が掛け流し温泉であふれてくる世界」は、人間の生活を楽にしてくれるものの双璧です。 それだけのことで、十億円稼いだから百億、百億円は達成したから一千億、という人とは異なって、どちらかといえば、今年は、もうオカネのことなんかどうでもいいや、と決めて、一年くらい行方不明になるほうが自分の好尚にかなっている。 ガメ、どこに行ったか、知ってる? 知らない。 まだ社長やってんだっけ。 うん。社長は社長だけど、噂じゃネルソンの北西にあるジャングルの岬で見つけたジャイアントモアに踏み殺されて死んだって言うわよ。 くらいのほうが、良いに決まっている。 困ったことに、むかしから、自分では止められない「表現欲」があった。 なにか目で見たり、聴いたり、考えたりしたことを、言葉にして、それがピタッと表現されて「決まる」と、おもわずニンマリしてしまう、あれです。 言葉や表現には、ぼんやりしていると見えにくい定型があって、ちょうど彫刻の部分、例えば腕が樹に埋もれて彫り出されるのを待っているのに似ている。 言語の形を、そっくり取りだしてくる発掘は、母語でも外国語でも、あんまり変わらないので、 いろいろな言語に手を出すことになる。 だんだんやっているうちに判ってきて、例えば燦めいている陽光ひとつをとっても、 それを見た人の頭のなかに想起される言語によって、異なる情景を生みだしている。… Read More ›

  • 若い友達への手紙4

      (この記事は2017年2月5日に「ガメ・オベール日本語練習帳 ver 5」に掲載されたものの再掲載です) 金曜日なので田舎へ遊びに行こう、と誘うと、 ガメのくるまは床の穴から道路が見えていて怖いから嫌だ、とわがままなことを言う。 いや、あのクルマはギアチェンジシフトのスティックがすっぽ抜ける癖がついて危なくなったので、新しいクルマに変えたから大丈夫、と言いかけて、今度のクルマは助手席側のドアが取れてなくなっていて、色違いではあるが新品同様のドアが手に入るのは来週で、いまはまだ「透明ドア」のままなことを思い出して、口をつぐみます。 ぼくは20歳だった。 ダッシュボードがあるだけ美品であるとおもうが、その女の人はオカネモチの娘なので、中古車のsubtleな美が理解できるともおもえない。 親にねだれば、いくらでもオカネを振り込んでくれて、明日からでもひとりで高級アパートに住めるのでは、ビンボもいんちきであると言わねばならないが、たとえば上に書いた元わしガールフレンドは黒の、ちょーカッコイイ、ベントレーのヴィンテージスポーツカーに乗っていたが、日本円で計算しなおせば一億円を軽く超えるああいうクルマに乗って、いいとしこいてもいないのに、夜毎、赤いカーペットとシャンデリアのある高い天井の下を歩いて過ごすような生活は正しくないように感じられていた。 「正しくない」はヘンだし、言葉としてカッコワルイが、その頃の自分の感情を表現するのには、いちばんしっくりくるような気がする。 ロンドンにいればイーストエンドの、隣のテーブルで中東人たちがファラージュやトランプが聞きつけたら大喜びしそうな談合にふけっているレバニーズカフェで、ファラフェルを食べていたり、マンハッタンならば、いまはもう閉まってしまった、ビレッジの英語なんか金輪際通じないラティノ人たちの定食屋に入り浸っていたりした。 きみは「定食屋に『入り浸る』って表現としておかしくない?」というかもしれないが、あの店にはバー、日本語でいうカウンターがあって、そこで赤豆がいいか黒豆がいいか悩んでいると、隣に腰掛けたおばちゃんが、「あんた絶対赤豆よ。黒豆なんて、ろくな人間の食べ物じゃないわよ」と話しかけてきて、それを聞きつけたおっちゃんが「なんちゅうことを言うんだ、ばーさん。ここの黒豆スープは世界一だぞ。」と述べにきて、「ばーさんて、なによ、この洟垂れ小僧」と言い返して、言葉だけ聞いているとすごいが、みなニコニコしていて、カウンターの向こうでは店主のおっちゃんがニヤニヤしながら見ている。 客は昼ご飯に来ているというのは口実で、話しかけやすそうな人間を見つけては、ダベって、午後のひとときを過ごしにくる。 ドレスダウン、という。 スピードダウンとは異なって、ちゃんとした、というか、ちゃんとした、は変か、普通に使う英語です。 冬空の下でも、Tシャツにジーンズで、お尻のポケットにはぐっちゃぐちゃなベーオウルフのペーパーバック版が突っ込まれていて、スケボーを抱えて雑踏のなかを歩いていた、20歳で、途方もなくバカタレな自分のことを思い出す。 なつかしい、という見苦しい要素が混入してきたのは、それだけ歳をとってきた、ということでしょう。 冬の低い空が好きで、鈍色の空の下で、通りを歩きながら、金融バブルでにぎわう街の、角角におかれた不幸の暗示であるかのような、ホームレスの人々や、よく見ると何日も着古した服の、顔まで少しよごれたティーンエイジャーの女の子たちをスポットして、「あそこに社会の実相へのドアが開いている」と若い人間らしい考えをもったりしていた。 その頃はまだ、日本語が子供のとき日本にいた頃の言語能力の続きみたいで、ちゃんと判っていなかったから、岩田宏の「神田神保町」を読んでも、意味が判るだけで、岩田宏というひとの、出口という出口を自分の日本的心性に満ちたすぐれた知性で塗り固めてしまったような、やりきれない閉塞と哀しみを理解してはいなかった。 自分のブログ記事を引用するのも変な人だが、めんどうなので(ごみん) 自分で書いた記事の引用を引用する横着をすると、 **************** 「神保町の 交差点の北五百メートル 五十二段の階段を 二十五才の失業者が 思い出の重みにひかれて ゆるゆる降りて行く 風はタバコの火の粉をとばし いちどきにオーバーの襟を焼く 風や恋の思い出に目がくらみ 手をひろげて失業者はつぶやく ここ 九段まで見えるこの石段で 魔法を待ちわび 魔法はこわれた あのひとはこなごなにころげおち 街いっぱいに散らばったかけらを調べに おれは降りて行く」 という出だしで「神田神保町」は始まるが、自分で記録したとおり、そのとおりの姿勢で 岩田宏は 「街いっぱいに散らばったかけらを調べに」… Read More ›

  • 希望

    たまには、思い切り悪い運命について考えてみるのはどうか。 ほら、おとなの、特に日本語の人には中庸の分別というものがあるでしょう。 あんまり極端にいかない。 そこまで酷くなるわけないじゃないですか。 だいじょうぶですよ。 理性が大事。 おちつけもちつけ。 正しく、怖がれ。 理性的で、大層すばらしいんだけどね。 ぼくはですね。 我が身に起こる最悪の事態を考えて、ゾクゾクするのが好きなんです。 あれが落ちて、これがへばって、 そうするとこうなって、 そこでまたこれがああなると、 おお!我が身は破滅では!! と空想するのが、好きで、上手でもある。 我にインターネットと15分を与えよ、さすれば、あっというまに末期癌だと証明してみせようぞ。 子供のときからの得意だと言ってもよい。 今日は、野放図に日本語人が、これから直面する暗黒の未来について述べるのはどうか。 あ。 怖がらなくていいですよ。 だって現実の予想じゃないんだもん。 遊び遊び。 コックリさん、コックリさん、 このなかでいちばん不幸な一生を送るのは、だあれ? 日本にいて、最も悲惨な現実に巻き込まれそうな未来というと、 やっぱり地震でしょう。 ドドドドドドと揺れて、グラグラするもなにも、いっぺんに家がぺしゃって下敷きになる。 梁の下でジタバタともがいているところに火が伸びてきて、自分の足が焼け焦げる臭いをかぎながら絶命する。 打てば響く、目から鼻に抜けるようなテキトーAIのbardさんに、日本がこれから40年のあいだに破滅的な地震に遭う確率を訊いてみると、 The probability of Japan having a fatal earthquake in the… Read More ›

  • 日本人への手紙2-背負わされた十字架

    日本は、もともと経済音痴の国です。 え?経済が得意の国じゃないの?と思う人がいそうだが、 それは国として大好きだった戦争を禁じられてしまった戦後のことで、 日本の近代の歴史を見ると、お米で年貢を納めさせていた松方正義以前の税制から始まって、まるで博奕場に向かうオカネをつくるのに、一切合切、家のものを根こそぎ質に入れる体たらくで、例えば、日本が国運を賭けた、 「他国を侵略して、経営して、その国から収益を日本に移動させる」という国策にしても、見ていて、まあまあ上手く行ったのは砂糖の台湾くらいで、 残りは、もうデッタラメというかなんというか、植民地経営の悪いお手本で、実際、日本の韓国支配は、フランスのハイチ支配、ベルギーのコンゴ支配と、日本の人の「やり過ぎ」を嫌う文化が反映して、残酷の徹底が及ばないだけで、立派に世界における「三大残酷支配」に入れたいくらいです。 イギリス人は、澄ました顔で他人の財産を収奪する国民性で、綿職人の腕を切り落とすくらいで、あとは、わざわざ上流階級人たちを送り込んで、 自分たちでは、ひとりよがりの、インド=イギリス文明のつもりの、 インド人がどんなに憧れても寄りつけない華やかな文化を展示することによってインドを支配した。 ガンジーなども、初めはイギリス人たちの文明につらなろうという気持ちがあったのが、まったく仲間扱いされない嫌な経験を積み重ねて、イギリスは憧れる対象などではなくて、自分たちのインド人の敵なのだと目覚めてゆく。 他方では、赤勝て白勝ての、おまえだって悪いことをやっているではないか、おれのことが言えるか、の幼稚なやり取りを50代、60代の人がオオマジメに繰り返すのが日本語社会の特徴のひとつだが、そういうテキトー議論をやめて、落ち着いて目を近づけると、世界で初めてサンスクリット文学を欧州語に翻訳して、サンスクリット、ギリシャ語、ラテン語が共通の母語から派生したことを証明して、ベンガル·アジア協会を、アメリカ建国の父のひとりアレクサンダー·ハミルトンの従兄弟たちと設立して、それまでインドの人たちを未開人と決め付けていた欧州人の蒙を啓いたウイリアム·ジョーンズ卿のような人間が何百人と現れて、インド趣味と呼んでしまっては、やや現実よりも通俗に聞こえる、いまに至るイギリス人のインドからの影響は、ヘンテコリンな例をあげると、インド的装飾に満ちた、ニュージーランド最大の劇場、The Civic Theatreにも強い影響を与えている。 イギリス人は、公平に言って、植民地の経営が巧かった。 各植民地は黒字で、物も運び出されて、盗んで来た、ともいうが、 ロンドンの古い舗装の基礎はいまでもエジプトの石で、 ダンボちゃんの綽名でいじめ抜かれた王の頭に抱かれた王冠に輝いている105.6カラットの巨大なダイアモンドは「そんなにひどい呪いがあるなら、わたしがタダでもらってあげましょう」と述べて、持って来てしまったインドの宝石です。 地球の反対側のニュージーランドからまで産物を持ってこなければならなかったので判るとおり、その世界に張り巡らせた輸送路は長大なもので、 これを襲われるのは、なにしろ自分が元海賊だったので、現実の危険を熟知していて、この輸送路を守るために、強大な海軍をつくった。 日本にもヴィッカース社が金剛級戦艦などをつくって輸出していたりしていたので、日本の人も、多少でも自国の軍事史に興味があれば知っているとおもうが、イギリスの軍艦が「巡航性」を最重要視していて、日本製軍艦の、 浮かぶ要塞さながらの、迎撃覆滅にテーマをもった軍艦と正反対の性格を持つのは、このためです。 イギリスは補給を大事にした、と述べる軍事論者がいるが、言われてイギリス人も悪い気はしないが、実は、当たり前で、もともと植民地との2万キロというような謂わば国家の補給線を守るためにデザインされているので、 航続距離もまったく違えば、使い方も、まったく異なっていて、 世界最強と謳われる割には、戦争のたびに軍艦がドシドシ沈むのは、輸送艦/民間船を守る為に、かなり無理な海戦を挑むことが多かったからでした。 「民間防衛」がイギリス海軍の金科玉条で、なかには無茶苦茶な例もあって、当時、航空戦力でブイブイ言わせていた日本海軍を相手に、護衛機もなしで、 シンガポール防衛のために丸裸で出撃して、結果は自明というか、見事に日本の双発攻撃機に撃沈されたレパルスとプリンス·オブ·ウエールズのような例もある。 閑話休題。 「軍隊を送り込んで相手の国を植民地にしてしまえば儲かる」 という恐るべき単純さ、というか杜撰なおもいつきで、 満洲を生命線と規定した大日本帝国は、大戦力を送り込んで、ヒットラーがロシアに対して見た夢とおなじことを実行しようとします。 自分たちの国を勝手に「生命線」にされてしまった満州人はたまったものではないが、日本の人には、こういうことに対する一種の鈍感さがあって、 例えば21世紀のインターネットで観ていても歴とした大学教員が、 「ベトナムの独立は日本のお陰だからベトナム人は日本人に感謝しいてる」 などと、もとは留学生か政治家の社交辞令をナイーブに真に受けて信じ込んでしまったのでもありそうな、だから田舎の人に社交辞令を述べてはいかんっちゅうのに、と言われそうな意見があるが、 日本がどうやってベトナムを「助けて」いたかというと、 泣き叫ぶ農民たちから、彼らが生きてゆくのに最低限必要だった米を「供出」させて、平たくいえば強奪して、そのまま日本に持っていってしまった。 要するにスターリンがウクライナに対して行った飢餓による虐殺政策Holodomorと結果として変わらないことをやったのが日本の「ベトナム独立援助」政策だった。 他国人に対する想像力を、びっくりするくらい欠いているのが特徴の日本文明には、考えて見ると、植民地経営くらい向いていない政策はないもののようで、例えば初期にはイギリス駐在の経験があり、一般に狭隘な考えしかもてなかった幼年学校組とは異なって、普通中学出身で、他文化への想像力を持つ今村均が軍政官であったときは、オランダ人にも生活の自由を保証して経済の状態も良かったが、「今村は現地人を甘やかしている」で更迭されて、インドネシアもまた他の植民地同様、怠業、罷業、日本支配への抵抗がいちだんと強くなって、おまけに理解を絶してマヌケなことに、日本へインドネシアを占領したそもそもの理由である原油等の工業原料を日本へ運ぶための輸送艦に付ける護衛を出すことに海軍が難色を示したので、終戦まで、ほとんどなんのためにインドネシアを侵略したのか判らないありさまになっていた。 満洲が日本が生き延びる為の生命線、という、経済家の目から見れば根拠がない思いつきは、大日本帝国を死地に追いやります。 石橋湛山のような数少ない「貿易立国」派は、夢想家たちと見なされ、… Read More ›