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  • 2011年3月11日

      タイムズ・スクエアに立って、ぼんやり、リコーのシリンダー型ビルのLEDスクリーンを観ていた。 がんばれ、日本 と書いてあります。 日本語だったか、英語だったか、あるいは日本語と英語が交互に映されていたのか、もう遠い昔のことなのでおぼえていない。 おぼえているのは、オークランドを発つ直前に見た、非現実的な感じがする、まるで地上の町と津波の映像とふたつの異なるレイヤーを重ねたような、いわば不自然な巨大津波の映像と、マンハッタンに着いて、たしか14th StのLa Nacionalで一緒に夕食を食べた原子力工学に詳しい友達が、青ざめた顔で、「ガメ、これはたいへんなことになった。ほんとに日本人たちだけで、どうにかなるだろうか」と述べていた、そのときの友人の顔の深刻さや、あるいは、通りすがりの日本料理店で、手書きの紙がドアに張り出されていて、福島の方言らしい日本語で「日本、がんばってくれ!」と祈りのように書いてあったことくらいだろうか。 マンハッタンは、街をあげて、まるごと日本と福島へ声援を送る、とでもいう様子で、広場という広場では義援金が募られて、夜になれば、街のあちこちのコーナーでろうそくを灯して祈りを捧げるひとたちの姿があった。 ネットで知り合ったロサンゼルスに住んでいる大学講師の人が、「マンハッタンで寄附金を募る輩なんてのは、だいたい詐欺に決まっているからオカネを渡してはいけない」と、わざわざ言いに来てくれたが、モニとわしは、目に入る限りの募金箱に、委細構わず、全部、あまりおおくもない寄付をねじ込み続けていた。 いま見ると、そのころにも何度も書いているが、最も不思議なのは、日本の人が誰も逃げださないことで、いまおもいだしてみると、危機にさらされているのに逃げない日本の人びとに対して苛立ちというよりは、純粋な不思議さ、 いったいどうしたら、個人として、「逃げない」という判断ができるのだろう? と、訝しくてたまらなかったもののようでした。   一方で、非日本語人は、逃げに逃げた。 仙台に住んでいたオーストラリアのシドニー人の若い男の人は、津波の第一報を聞いた、その瞬間に手近にあった自転車に乗って、というのは平時の言葉で平たくいえば自転車泥棒を働いたのだとおもわれるが、ひたすら南を目指して、途中、郡山でくたびれはてたので、なぜか鍵がかかっていなかった美術館に潜り込んで、一泊して、翌朝、また自転車をこぎつづけて、成田に至ると、そのまま飛行機でシドニーまで一気に逃げ去って、政府だったか新聞だったかに、その見事な逃げっぷりを称賛されていた。 日本の人たちは逃げなかった。 インターネットで情報を集めるのが得意な人ほど、福島で、仙台で、東京で、じっと家のなかに籠もっていて、そのうちにマンハッタンにいるモニとわしのところにも「正しく怖がる」という不思議な言葉が聞こえてくるようになっていった。 友達たちが「日本の人に役にたつ情報があったら伝えてやってくれ」と述べて転送してくる膨大な量の各国大使館からのemailの情報を、初めのうちこそネットに流していたが、そのうちに誰も反応しないのを見て、真に焦眉の問題についての情報だけを出すように変えていったが、読んでいるほうは、あんまり興味がなかったようで拍子抜けでした。   外国政府は比較的敏捷に動いて、例えば英国大使館はバスを現地で調達して盛岡だったか、から出発して、石巻で、仙台で、相馬で、というように土地土地で連合王国人を拾い上げて、むろん、申し出があれば、アメリカ人でも、ニュージーランド人でも、カナダ人でも、無差別にピックアップして成田に届けているもののようでした。 英語人たちは、日本人が見るからに平静な外面を装って、普段と変わらない生活を始めている町の様子には眼もくれずに、日本語がわかる人間も、日本のニュースが述べる事態の解説や行動のリコメンデーションには目もくれずに、「お尻に火がついたように」、ただもう、ひたすら逃げて、政府も航空機をチャーターして無料で自国の国民を祖国に運ぶ国が多かった。 ニュージーランドも例外ではなくて、Air New Zealandが常より多い便数で飛んで恐怖で真っ青なキィウィたちを9000km離れた母国へ運んだが、そのときにニュージーランド市民のボーイフレンドやガールフレンドで、ビザもなにもないのだけれど、とにかく離れたくない一心で、乗り込んで、そのままニュージーランドに居着いてしまった人もいたようでした(^^) 日本では福島第一発電所の事故が「ほんとうに危険なのかどうか」という激しい議論が始まっていて、「科学をきちんと勉強してから怖がれ」という一派が勝ちをしめて、ちいさな子供をもった母親たちは、自分の科学への無知を呪いながら、必死に放射能汚染が小さそうな食材を調べては子供たちに与えようとして、それをまた、「正しく怖がれ」の知的エリートたちに、「そんなに過敏になって選ばれたら産業が衰退するではないか」と叱責されていた。 「第一、おまえたちは、危ない危ないというが、それが風評被害を起こして、福島の農家の人達が困窮することをなんともおもわないのか。 それでは犯罪行為ではないか。 もし本当に放射能が危ないというのなら、危険を証明してから言え」と言う。 専門家たちが正しいのか、素人衆が正しいのか、人為災害の歴史は、こういう場合には、まず100%、専門家の側が間違っていると教えているが、放射能の健康への害などは、多く、遺伝子レベルのもので、被害が明らかになるまでに人間の感覚を超えた時間がかかるうえに、放射能で、ぎっしり握りしめられたおにぎりをテレビカメラの前で、安全を示すためにパクついていた芸能人が急病で死亡しても、その死因となる病気を、医師が「放射能のせいですね」と断定することは、まずありえない。 酷い言い方をすると、観察者にとっては専門家と素人のどちらが正しいのでも構わないが、最も興味を惹いたのは日本語世界では、個人の側が「万一のときにダメージを受けるのは、わたしなのだから、もしほんとうに危なくないと言い張るならば、その確たる証拠を見せてくれ。それを証明すべきなのは、きみたちのほうではないか」と述べるのではなくて、あべこべに「危なくないんだから怖がるな」と超テキトーな論拠で言い張るのが政府や専門家の側であった点で、これには、心からぶっくらこいてしまった。 見ていた範囲で、なかでも際立って積極的に「正しく怖がれ」「自分の無知で風評被害を起こすな」 「〇〇は物理屋だから、ああいうことをいうが、医学屋のXXは、そんなことはないと言っている」と、言葉使いのうえで「化学屋」「物理屋」、△△「屋」という言い方が目立つ人がいて、日本の某大学のなかでは、そういう言い方を好む人がいたのをおぼえていたので、その大学の人だろうかと、そのひとの経歴をのぞいてみると「工業高校卒」と悪びれもせず書いてあって、正直であるのはいいことだが、なにがなし、暗然とした気持ちになったりしたことをおぼえている。 そのうちに、6月になると、モニとわしのニューヨークで片付けなければならなかった要件は、ほぼ終わって、欧州へ移動することになったが、そのころには、あれほど「フクシマ支援」一色だったマンハッタンでも、もうほとんどフクシマが話題になることはなくなって、日本人は、あのものすごい大事故をもうたいして気に留めていないのだ、という不思議なニュースや、返って、外国の人間が騒ぎすぎるのは日本に対する風評被害が立つといって日本人は迷惑がっている、という声が届くにいたって、関心はどんどん薄れていった。 そのあとでも「環境問題に敏感なひとたち」を中心に福島事故処理はどうなったか、というニュースが時折流れてはいたが、翌年だったか、ずっとあとになって、「海外からの義援金が実は捕鯨事業の補填に使われていた」というニュースが駆けめぐると、それまで熱心に支援していた人達も、いっぺんに熱が冷めたようでした。 コモ湖のトレメッツオに買った、モニとわしの別荘の、すぐ近くに滅法おいしいピザ屋があったことをなんどもブログに書いたが、その先の坂道をのぼっていくと、山の上においしい朝食をだす小さなホテルがあって、その小さなホテルのおおきなテラスから眺めるコモ湖の眺望があまりに素晴らしいので、近所の別荘族に、朝食のカフェとして人気があって、そのうちには、なんども顔をあわせるうちに、馴染みになって、テーブルを共にして朝食を摂ったりしていた。 そういう「近所のなかよし」のなかにドイツ人とドイツ語圏スイス人の夫婦がいて、モニとわしが日本にいたことがあるのを知ると、ごく当然のようにフクシマ事故の話題になっていった。 日本でも知っている人が多いとおもうが、ドキュメンタリがいくつもつくられたせいでもあるのか、ドイツ人にはフクシマ事故に強い関心をもっている人が多い。   ドイツの人というのは親切が度が過ぎて、簡単にいえばお節介焼きで、しかもズケズケとものを言う人が多いのが国民性として知られている。… Read More ›

  • モニと一緒にいるということ

    ラミュエラの坂をのぼりながら、モニのことを考えました。 そんなに深刻なことを考えたのではない。 モニは、どーして、あんなにかっちょいいのだろう、とか、モニはふたりだけでいるときに笑うと五歳くらいの子供みたいだのい、とか、そーゆー他愛のないことです。 なんという美しいひとだろう。   わしは、結婚するまで、ずうっと長いあいだ、どれほど自分がモニを愛しているか知らなかった。 ひとりでいることを偏愛しすぎたわしは、自分のソウルメイトがこの世の中にいるだろう、という予想をすらもてなかった。 まして、それが自分と違う言語を母国語とするひとであるはずはなかった。 いま考えてみると、ただひとりで考えている人間がもつ思考の、なんという軽薄さでしょう。   人間の一生は怖い。 やりなおせない、からです。 いや、わしの社会では社会的な意味ではいくらでもやりなおすことは出来る。 でも、人間の意識をつくっている時間というものは不可逆的なものであって、一方向にしか流れない。 起きたことはすべて死ぬときまで自分で抱えてゆくしかない。 人間の一生はそう云う始原的な残酷さに満ちている。   こーゆーことを他人にいうのは適当ではないのかもしれないが、わしはモニと会えてよかった。 わしはモニの良い匂いがするベッドで背中の後ろから巻き付くモニの腕のなかで眠る。 起きると、モニの朝にはいつも暖かい身体が隣で行儀良く横になっています。 わしはつけっぱなしだった冷房を止めて、コーヒーをつくりに起き上がるであろう。 ソーセージをゆでたりベーコンを焼いたり、ポーチドエッグをつくったりして、モニと一緒にテラスで食べる。 モニとわしは、ありとあらゆることについて話すであろう。 モニの母国語で、あるいはわしの母国語で、エマ・トンプソンのドレスの話から土星の誰も知らなかった新しい環、R・ドーキンスの新しい本。 わしの投資の決断の仕方は性急すぎるのではないか。 あのLというひとは信用が出来ない。 あんなひととガメがふつーに仕事の話をするのは感心しない。 ガメの人生のゴールはなんであるか。 どうすれば、もっと幸せになると思っているのか。   タカプナの遠くにたおやかな稜線の島が見える、どこまでもまっすぐな砂浜を散歩しながら、ラミュエラの木陰の多い道を歩きながら、パーネルの坂道を歩きながら、モニとわしは、話し続ける。 カフェで、レストランで、誰もいない海の見える丘の上の公園のベンチにふたりで並んで座って、話し続けるでしょう。   はた迷惑なことに、急に立ち止まってキスをすることもあります。 モニの輝く柔らかい唇は完全にわしのものである。 道行く男どもが、ただでさえ巨大な「うらやましい」を3乗にしてくやしそうに歩いておる。 (ぬはは)   結婚という旧弊な社会制度がこれほど人間を幸福しうるものだとは考えたことがなかったので驚きました。 この制度は魂を私有しあうことを公に宣言している点ですぐれて反社会的で同時に私的である。… Read More ›

  • 彗星_ある艦爆パイロットの戦い

    (これは2009年6月10日に書かれた記事の再掲載です) カシノのブラックジャックテーブルというのは不思議な社交場であって、身も知らない人間同士が一致して、たとえば17からもう一枚ひきたい誘惑やディーラーの絵札に対してエースをスプリットしないまま勝負する誘惑にひとりひとりが耐えて「テーブルをつくる」作業をとおして一種の「友情」を形成してゆきます。 シドニーの平場のテーブルなどは世界でもいちばん滅茶苦茶なテーブルであって、絵札をスプリットしちゃうひともいれば、18からひくひともいて、論外だが少なくともクラブのブラックジャックテーブルにはまだブラックジャックというものの複雑さや良さが残っている。 そういう場ではマフィアの親分と市長が肩を並べて真剣な顔で考え込んでいたりします。 ある晩、冬のロンドンの裏通りに唐突に有る感じのカシノのクラブでエイトデックのシューとシューとのあいだに、わっしは隣りに座った合衆国人のへろい杖付きのじーちゃんと話しておった。 わっしが東京にいっていたのだと知ると、じーちゃんは、ちょっとなつかしそうな顔をして、自分もちょっとだけいたことがあるんだよ、と言う。 話は戦争のことになって、 「沖縄はこわかったなあ」と言います。 いやね、被害なんかはほとんどないんだよ。 カミカゼの奴が、殺されても殺されても襲ってくるんだ。 誰がどう見たっておれたちの乗っていた空母にまで届きっこないのに、見たこともないオンボロ飛行機でよたよたよたよた突っ込んでくる。 あんな高度から爆弾もって体当たりしてきても、たとえ当たったって被害なんか知れたもんさ。 徹甲弾ってものは弾丸でも爆弾でもある程度の加速度の加勢で被害を与えるようになっているわけだからね。 そのくらいのこと、彼らだってわかっているはずなのに、それでも突っ込んでくる。 殺されても殺されてもムダ死にしにくるなんて、あいつらヘンだったよ。 なんだか人間でないものと戦争をさせられている感じがしてやりきれなかった。 そのうちに根性なしの対空機銃手のやつがひとり頭がいかれちまってさ、取り押さえるのに往生した。 「たいへんでしたね」 わっしは頭の中でちょうどその頃たくさん読んでいた日本側の特攻隊員の本に書いてあったことを思い浮かべてじーちゃんの話に照合したりしていたが、当然のことながら、そーゆー活字で仕入れた虚しい知識を口に出して言ってみるわけにはいかなかった。 そう言えば、おもしろいことがあったよ。 じーちゃんは、相変わらず遠くを眺める眼をしながら沖縄戦の記憶をたどっています。 ひとしきり特攻機がやってきて攻撃をした後にね、おれが空を眺めていると、高いところに天井をつくっていた雲のなかからポツンと黒点が現れてね。 それがみるみるうちに大きくなったかと思ったら、日本の水冷エンジンの急降下爆撃機なのさ。 「Judy っすね」と、言ってしまってから、「しまった」と思っているわっしのほうを 「おっ、知っているじゃないか」という顔で見やってニヤっと笑ってから、 そう、たった一機だけのね、と言う。 ところが、こいつがうまいパイロットでね。 びっくりするような急角度で突っ込んできたと思ったら船団の大型油槽艦の甲板のど真ん中に500キロ爆弾をたたきつけていったよ。 一瞬で、大爆発して、そうだなあ、2千メートルくらいはある火柱をふきあげて沈んじまった。 あんまり見事な間(ま)とタイミングなので、周りの船も対空砲火すらろくすぽ撃てない始末でね。 すぅーと、なんとなく戦場の「幕間」みたいなところにやってきて、狙い違わずぶつけていきやがった。 名人だったぜ、あれは。 それから、じーちゃんはしばらく黙ったな。 少し濁った青い眼が、湿っぽくなったようでした。 そのJudyが、そのあとやったことをおれは忘れられんのだ、と言う。 「?」 急降下から猛烈なプラスGの引き上げをやって急降下爆撃の見本をみせてくれたんだけどね、引き上げが終わってから、また反転して、なんとこれみよがしに海に突っ込んで自爆しやがった。 あの頃は、という頃になるとじーちゃんは声が出しにくそうである。ちょっと涙をぬぐったりしてます。 あの頃は….おれなんかは、いまでもそう思っているがね….おれたちはみんな「良いジャップは死んだジャップだけだ」と思っていた。… Read More ›

  • 88mm_flakとドイツ中世物語の終わり

        88mm_flakは連合王国人やニュージーランド人にとっては恐怖大魔王とあんまり変わらない存在であったのは日本のひともよく知っているはずである。 ロシア人たちにとっては丁度対戦初期のドイツ人にとってのKV1と同じような存在であったと思う。 ろくでもない兵器しか持たなかったロンメルのアフリカ軍団のなかにあって水平射撃が出来るように改造された88mm_flakは、ほとんどロンメルによってコントロールされた落雷のような効果をもっておった。 連合王国人はみなロンメルが文字通り支配した砂漠の戦場で「うにゃー、あんたは雷神か」とさぞかし愚痴ったことでしょう。 背が高いという地上兵器としては致命的な欠点があったが、ロンメルは歩兵指揮官時代からカムフラージュの天才であったので、この扱いにくい兵器をうまく秘匿した。 88mmによるアンブッシュに遭遇する、ということは連合軍の戦車兵にとって、そのまままっすぐ死を意味したのです。 地雷原のあいだに開いた細い戦車路をすすんでゆくと、ぜーんぜん見えない遙か彼方から高速の徹甲弾が飛んできて砲塔は吹っ飛ばすわ、車体は跡形もなくなるわで、連合軍のほうはなんだか人力を越えた神話的な懲罰に遭っているようだ、とその頃の記録には書いてあります。 敵にはなかなか当たらないで味方の歩兵に対して百発百中なので有名だった榴弾をえっこらせと後ろからぶっぱなすか、地上砲火による死亡率が高いので航空兵が死ぬほど嫌がったカーチスP40やハリケーンによる地上攻撃によって破壊するくらいしか方法がなかった。ひどい例になると一台の88mm_flakに40台余の戦車が瞬く間に破壊されて、ロンメルに日記で「いったいなんだってイギリス人たちはわざわざ一台ずつ壊されにやってくるのか、さっぱりわからん」とか書かれておる(^^;) まっ、わっしはドイツ人だったロンメルと違って理由を知っておるがな。 えっ?理由? そんなことはわかりきっておる。イギリス人とニュージーランド人だもの。 「マジメだから」です。   88mm_flakは兵器としてみると、ドイツ兵器のよいところがいっぱい詰まっておる。 まず第一に使用された弾頭が優秀である。 当時のドイツは冶金の研究や材料工学では世界一であった。 当のドイツ軍歩兵から「あれが戦車なら、うちのかーちゃんは重戦車だぜ」と悪口を言われた見るからに可愛いドイツのII号戦車の20mm機関砲でも日本軍の九七式中戦車「チハ」の57mm戦車砲よりも装甲貫通力が高かったのは、ドイツ人の「世界一の合金技術でつくった砲弾を高初速で打ち出して敵の装甲に叩きつける」という技術方針が有効であったせいです。日本はおろか合衆国ですらなかなか現実にはできなかったこの技術思想をクルップは1928年という段階で実用兵器化してしまいます。 無論、第二次世界大戦を通じてT34やチャーチルやM4シャーマンの砲塔をふっとばし続けた。 部品点数も意外なくらい少ないな。 多分、開発後、減らし続けてきたのでしょう。 扱いやすさと信頼性、という点でもドイツの火砲らしい。 ちょっと重すぎて戦場に放棄されることが多かったが、これはこのクラスの防御砲の宿命である。   ドイツ人たちが最も記憶に残しているのは多分ベルリン陥落のときの英雄的な戦いにおける88mmの活躍でしょう。 もうどんな狂信者にもドイツ帝国の崩壊が確実になった戦闘で、押し寄せるT34に対してドイツ人たちは街の角角に砲座を築いてすえた88mm_flakを最後の盾にしてロシア軍と対峙します。 どんなにヒトラーの帝国を憎むひとでも、このベルリンの戦いの最後を涙なしで読むのは難しい。 たとえばベルリンの中心街区におかれた88mm_flakは信じがたいような正確さと発射速度でT34の戦車群を何度も後退させますが、弾薬がつきて、やがて沈黙します。 ロシア歩兵たちが戦車のあいだから駆け抜けて殺到してみると、そこにはお互いの頭を拳銃で撃ち抜いた14歳くらいのふたりのお下げ髪の少女とやはり同年代のふたりの少年が倒れていたそうである。 この有名な挿話にもちゃんといつものごとくしたり顔の評者がいて、あるアメリカ人は、「14歳くらいの子供に88mm弾の装填もふくめて、そんな射撃が出来たわけはない」とゆっていますが、こーゆー人間は「人間の必死さ」というものをまったく理解できないヤナ野郎だというほか何も言っていないのだということを自分でわからないもののようである。   近代戦史上、もっとも強かったのはドイツ軍兵士だろう、とわっしは思っています。 ドイツ軍兵の強さは有名な歩兵の攻勢戦と並んで敗退するときの後退戦で最も顕著である。 潰走したはずであるのに、ほんの数キロ先ではもう再結集して何事もなかったかのように防衛陣を布いててぐすねひいて待っておる。 支援装甲部隊も機関銃以上の武器ももたない歩兵部隊が、ロシアの戦車群に遭遇するとたいして悲壮な気分にもおちいらずに地雷を改造した爆弾を抱いて匍匐して戦車の腹にもぐりこみ黙々と戦車を破壊してはまた匍匐して自軍に戻ってゆく。 ドイツ人の「負けているときの強さ」というのは戦史に未曾有のものである、と考えます。 多分それはドイツの職人文化をつくったのと同じ根っこの、ドイツ人たちの頑固さと部族文化的な「仲間意識」から来ている。 一方でドイツ人を見ていて、このひとたちって、ほんまにこれが好きやな、と思うのは 中世騎士物語的な悲劇の感情であって、どうもドイツのひとは、これに酔いだすととまらない。ヒットラーみたいにケーハクなポピュリストにころっと歴史的な規模でだまされちゃったのは、明らかにこの嗜癖によってます。… Read More ›

  • 日本語で本を出して考えたこと

      最も意外だったのは、日本から遙々送られてきて、もっかはchaoticなNZの国際貨物センターを通りぬけて、シーク教徒の、かっこいいオレンジ色のターバンを巻いた、やたら知的なおっちゃんが運転するDHLで本が着いてみると、表紙の紙をすりすりしたりして、案外嬉しかったことで、ほんとうは日本語で本を出してもピンと来ないだけなのではないかとおもっていたのに、へえ、案外、楽しい気持ちになるんだ、と自分を観察しました。 なにしろ態度の悪い著者で、そこですぐにページを広げて、おおお、こんなふうになるのか、と喜びで顔を輝かすかとおもいきや、やりかけていたCompany of HeroesのMODにもどって、機関銃座を工兵に焼かれちゃったよおおー、なんだよ、工兵がそんなに強くていいのかよ、と夢中になって作戦しているうちに、くたびれて寝てしまった。 本を開けて、読んでみようとおもったのは到着後3日くらいで、カウチに寝転がって、読んで、読み通して、「おお、なんという素晴らしい日本語だろう」と感動してしまった。 天才なのではないか? どりゃどりゃとアマゾンを見ると、売り上げランキングの上位ベストセラーで、おおおお、すげーと考えた。 しかし、まあ、なんとなく他人事で、外国語だからかなあ、とおもったり、そっちのほうで悩んだが、編集友が、やりとりしていると、いつも物足りなさそうで、「もっと自分の日本語に情熱と自信を持たんかい!」と苛立っている様子であるのをおもいだして、ははあ、これか、たしかに編集者として困るよね、と考えた。   しかし考えてみると、むかし、英語の本を出したときもおなじで、なんだか感情に部分的崩落があるのかも知れません。 横書きよりも縦書きのほうが、ずっと読みやすくて、頭に入りやすいので、その程度が事前の想像よりもおおきかったので、ちょっと驚いた。 日本語って、縦書き語なんだなあ、と改めて認識した。 編集友とわしのコンセプトは、なにしろ編集友は、なぜか、わし日本語に絶大の自信を抱いているので、何冊も出版されるということを疑っていなくて、ただ内容があまりに多岐にわたっているので、わかりにくいだろうから、横断的に概観できる目録をつくろう、ということだった。 じゃ、「88mm flakとドイツ中世の終わり」 をいれよう!と勇んで提案したら、返事が返ってこないシカトで、そのまま却下になったが。 ほとんどの記事は、なにを書いたか、ちゃんとおぼえていなくて、 おめでたくも、おおおー、すごい卓見とおもったり、それは違うんじゃないかなあ、と考えたり、あんた、自分が書いた本を読んでなにやってるんですか、な状態だったが、食べ物でも後味がよいということがあるが、後味がよくて、良い本であるし、こういう考え方をする人は好きだな、と作者に好感をもった。 本の内容自体ではなくて、出版にまつわる事で驚いたのは、言葉が悪いが、「ファン」の数のおおさで、twitterのDMはいつも励ましや「大ファンなんです」のメッセージで埋まっていて、どこかで見た名前だなあ、とおもって検索してみると、大スターであったり、著名な研究者であったり、有名大学の教授や准教授であったり、なんだか名前だけ並べると、まるで才能がある有名な作家が何故か初出版するような趣で、ぶっくらこいてしまった。 人間などは単純なので、ユーメイな人にべたぼめされると、なんとなく才能が伸長したような気がする。 それにもまして。 最も嬉しかったのは、初めて言葉をかけてくれる人の数の多さで、ブログをずっと読んでいて閉鎖になったので落胆していたんです。たった40本だけど、記事がまた読めるようになって、表現できないほど嬉しい、というようなメッセージが山ほど来て、ぐわああああ、とおもったことには、 あなたのブログがなければ、わたしは生きていなかった、や、わたしの娘は、あなたのブログで救われたんです、わたしも、あなたの記事を娘に聞いて読んで、すっかりファンになりました、と書いてある。 いったい、どういうことなのだろう? もしかして、わしって、ほんとに才能があるんちゃう? と、ちらとおもうが、褒めてもらったときには、ただ気持ちよくなっていればよいので、理由を詮索することはなくて、いまでも毎日とどくメッセージを読んで、ひとりでキャッキャッと喜んでいる。 そういうわけで、味をしめて、2冊目をだすことにした。 もともと、ブログを続けてきた「しめ」のラーメンで、500部くらい自費出版で出せばいいよね、と考えていて、2冊目なんて出るわけねえだろう、と述べていたが、浮かれて気が変わって、他の本を書く人からみたら、たいしたことはないのだろうが、本人から見れば「引く手あまた」に見えるお誘いを並べて、銀座のバーの雇われママみたいというか、これもいいなあ、あれもいいなあ、と、ためつすがめつ、玩賞している。 チョーのんびり人間なので、日本が梅雨になるころに決めて、夏が終わる頃に出るのではあるまいか。 それまでは、このブログを再開して、「著者がツイートさえしなければ良い本なんだけど」と言われながら、われながら名作ツイートである   「チン〇コ潜水艦」シリーズのようなツイートが出来るようにツイートも続けていきたいとおもっている。 闇夜にボオっと光る蛍光塗料いりコンドームをライトセーバーに準えたツイートも芸術的で好評だった。   精進します。 なんちて。 わし年長日本友が「ガメの本は、やっぱ売れないなあ。せっかくtwitterやっていても3万人も、おまけにインフルエンサーを狙い撃ちするようにブロックしてちゃ、無理だよな。そのうえ『はてな』はコミュニティ全体まるごとが敵だし、どうしようもないやつ」と笑っていたが、 うるさいな。 わたしは、わたしがやりたいようにしかやれないんです。… Read More ›

  • 日本人と民主主義 その7

        シンガポールを見ていて、いつも思うのは、と言っても考えてみると日本とおなじことで、もう十年くらいも訪問していないので、いつも思ったのは、と書くべきだろうが、新鮮な驚きというか、人間は別に自由社会でなくても幸福でありうるのだ、という事実です。 こっちはまるで行ったことがないので、皆目わからないが、上海で教師をしていた友人に訊いても、全体主義中国も事情はおなじであるらしい。 自分では自由社会でないと生きられないのはあきらかで、簡単にいえば、猛烈にわがままであるからで、不貞腐れて吸いさしの煙草を指でピンと弾くと、おまわりさんがぶっとんでくるような社会では到底生きられない。 煙草、喫わないんだけどね。 ものの譬えです。 なんの譬えかというとシンガポール政府が最も嫌いなタイプの市民を視覚化しようと考えた。 あんまり、いいおもいつきじゃないか。 女らしくしなさい、や、女のくせに、のような表現がある社会では、一応、いまあらためてみてもチ◎チン(←二重丸であることに注意)がついていて、もうひとつの、ややややこしい見た目のほうの性器はついていないので、男と女に分類すれば、男だが、それでも無茶苦茶腹がたつので、そういうときに猛然と、指をたてて、舌をだして怒れない社会も、自分には向いていない。 そそっかしいひとのために述べると、別にシンガポールで「女のくせに、とか言うなよ。張り倒すぞ、このガキ」と述べても、おまわりさんがぶっとんでくるわけではありません。 ぜんぜん、ダイジョブ。 余計なことをいうとシンガポールは、日本などよりは遙かに女のひとたちの権利が強い国で、その権利の強さは、経済力に裏打ちされている。 もっと余計なことを言いつらねると、シンガポールは女の人が仕事に集中しやすい国でもあって、わし知人の女のひとは、インド系のひと、中国系のひと、マレー系のひと、どのひとも、結婚したあとでも家事をいっさいしません。 若い時は日本語では共働きという共倒れみたいな言葉があるが、ダブルインカムで、朝は夫婦そろって階下のホーカーズで食べる。 ラクサ、ミーゴレン、トーストと目玉焼きもあれば、もちろん、カレー粉をかければシンガポール、シンガポール・ビーフンもあります。 いま見ると、むかしよりだいぶん価格があがっているが、住宅地のホーカーズで300円〜400円であるらしい。 首尾良く夫婦で成功すると、今度は、たいていインドネシア人かマレーシア人のお手伝いさんを雇って、本人たちもトイレとシャワーが独立についている「お手伝いさん部屋」があるアパートに越す。 閑話休題(それは、ともかく) ところが、首相に向かって「女のくせに、とか言うなよ。張り倒すぞ、この豚野郎」とかいうと、ちゃんとおまわりさんがぶっとんで来るはずです。 あるいは、よおし、今日は天気がいいから、いっぱつ世界をおどかしちゃるぞ、と考えて、永久革命論を書いて、こんなクソ政府なんてBBQにしてくれるわ、てめえら銀行の地下金庫に閉じ込めて蒸し焼きにしてやるからそう思え、と書いてサイトにアップロードすると、おまわりさんがビッグバンドでやってくるとおもわれる。 うるせえな。 おれの勝手だぜ、というわけにはいかないのですね、これが。 かつて、バルセロナには、ランブラのいちばん人混みが激しい往来で、裸で、でっかいチンチ〇をデロンと出して佇んでいるおっちゃんがいた。 あのひとも、シンガポールなら豚箱行きだが、バルセロナでは観光資源化して、名物じーちゃんになっていた。 子供が寄っていって、おっちゃん、ちょっとさわってもいいですか? つんつん。 おお、でっけえ、とか述べていたりしたもののようである。 あと、ほら、タイムズスクエアで、デロンはないが、アンダーパンツとブーツにカウボーイハットでギターを抱えて歌っている人がいたでしょう? あれでも逮捕される。 しかし、永久革命を唱えたり、チンチンをでろんと出して交叉点に立ったり、裸でギターを弾いたりしてみたくない場合は、シンガポールは快適な国です。 前にもなんどか述べたように、なにしろ、「見せかけは民主社会だが、ほんとは一党独裁全体主義」の国を作るにあたって、お手本にしたのが日本なので、本質的に日本と似た社会だが、ひとつだけ、日本社会がトヨタクラウンみたいな国であるとすると、シンガポールは、どう見てもベントレーのスポーツカーを目指していて、わしが何度も訪問していたころでも、年々、社会から「ダサさ」が消滅していた。 「絆」とか「美しい国」とか、国語がんばろうな、だっさい言葉で国民をだましちゃろう、という底の浅いマーケティングは消えて、 Crazy Rich Asiansを見れば判る、繁栄と成功で、自由のような西洋イデオロギーを圧倒してしまった。 日本は、たいへん不運な生い立ちの国で、戦争に負けて、国民が求めてもいない、どころか、どんなものかよく知らない「自由」をアメリカが押しつけていった、という歴史を持っている。 戦後すぐは、あわてて「自由って、なんだ?」という議論が沸き起こったが、空転する、とっかかりがない議論を繰り返して、そのまま、みんなめんどくさくなって忘れてしまった。 アメリカは、と書いたが、日本の戦後のグランドデザインをつくったのは、アメリカ政府ですらなくて、精確に言えばアメリカ軍、です。 「天皇なんて、ぶっ殺しちまおうぜ」といきりたつニュージーランドやオーストラリアを、まあまあ、と抑えて、天皇を中心とした「国体」がある全体主義の枠組みをそのまま残しながら、「封建主義」や「軍国主義」を弾圧して、「自由を受け入れなければ刑務所にぶちこむぞ、こら」という不思議なことをやった。… Read More ›

  • サバイバル講座1

    個人が世界と折り合いをつける、というのは意外と難しい作業で、それが出来てしまうと、一生の問題はあらかた片付いてしまうのだ、と言えないこともない。 漠然としすぎているかい? 例えば医学部を出たが、どうも自分は医者には向いていないのではないか。 医学部に入った初めの年に新入生のためにホスピス訪問があって、そのとき、もう死ぬのだと判っているひとたちが、みな、曇りのない笑顔で暮らしているのを見てしまったんです。 わたしには、どうしても、その笑顔の意味が判らなかった。 医学を勉強しながら、患者さんたちの笑顔をときどき思い出していたのだけど、 あるとき、糸が切れたように、ああ、自分には医者は無理だな、と考えました。 絵描きになりたいのだけど、絵で食べていく、なんていうことが可能だろうか? 「ライ麦畑でつかまえて」の主人公は、お兄さんがハリウッドの原作者として仕事をすることを裏切りだと感じて怒るでしょう? でも「バナナフィッシュに最適の日」で、そのお兄さんは銃で自殺してしまう。 商業主義、がおおげさならば、オカネを稼いでいくことと、芸術的な高みを追究していくことは両立できるんですか? ぼくは、オカネを貯めて出かけたマンハッタンのMoMAで、Damien Hirstの例のサメを見たとき、吐き気をこらえるのがたいへんだった。 でも貧乏なまま絵を描いていくことには、なんだか貧しい画家同士のコミューンの狭い部屋で生活していって摩耗していってしまうような、不思議な怖さがあると思うんです。 そういうとき、きみなら、どうするだろう? ちょっと、ここで足踏みしよう、というのは良い考えであるとおもう。 足踏みして、自分の小さな小さな部屋で、寝転がって本を読んで、どうしてもお腹がすいてきたら近所のコンビニで肉まんを買って、その同じコンビニで最低生活を支えるバイトをして、….でもいいが、足踏みをしているくらいなら、ワーキングホリデービザをとって、オーストラリアのコンビニで、あるいは日本人相手のスーパーマーケットや日本料理屋で最低生活を支えるバイトをしながら、寝転がって本を読む、というほうが気が利いているかもしれない。 むかし、いろいろなひとの貧乏生活の話を読んでいて、結果として貧乏な足踏みが自分と世界の折り合いをつけるためのドアになったひとには共通点があることに気が付いた。 奇妙な、と述べてもよい共通点で、「本を買うオカネは惜しまないことに決めていた」ということです。 食事を抜いても、読みたい本を買った。 ぼくなんかは図書館でいいんじゃないの?と思うんだけど、買わないと本を読む気にならないんです、という人の気持ちも判らなくはない。 あるいは世界は一冊の本である、と述べたひとがいて、そういうことを言いそうな、もう死んだ面々の顔を思い浮かべてみると、多分、ルネ・デカルトではないかと思うが、そうだとすると、困ったことにこれから言おうとしている意味と異なった意味で言ったことになってしまうが、都合がいい解釈で強引に使ってしまうと、自分の知らない世界…この場合は外国…を一冊の本とみなして、ざっとでもいいから、読んでみる、という考えもある。 この頃は日本の人でも、なぜかだいたい20代の女の人が多いように見えるが、一年間有効の世界一周チケットを買って、成田からシドニー、シドニーからオークランド、オークランドからサンフランシスコ、ニューヨーク、ロンドン、というように一年まるまるかけて世界を読んでいく人がいる。 東京で広告代理店に勤めていたわけですけど、と、なんだかサバサバした、というような表情で話している。 日本では、ああいう世界って意外と軍隊ぽいんですよね。 英語国でも、割とマッチョな業界だけど。 ああ、そうなんですか? 要領だけのビジネスでは男の人のほうがケーハクだから、うまく行きやすいんですかね? と述べて、舌をだして笑っている。 わたしは日本人なので、やっぱり英語がいちばん大変でした。 日本人にとっては英語はたいへんなんですよー。 受験英語って、一生懸命にやると、どんどん英語が出来なくなっていくんです。 おおげさな言葉でいうと分析って、言語の習得にいちばん向いてない態度だと思いませんか? 日本ではね、構文解析なんて本を高校生が勉強してしまうんです。 文節と文節のかかりかたを図にしたりして、そりゃ、やってるほうだって古文書の解読かよ!と思いますが、みんながそうやって勉強してしまうので、逃れられない。 わたしなんか、それで、英文学ですから! もう最悪で。 ほら、ガメさん、N大の英文科の先生を一週間にいっかい教えてらしたことがあるでしょう? 教えていたのでなはなくて、質問に答えに行っていただけね。 旦那さんが生物学の先生で、義理叔父の大学の同級生なのね。… Read More ›

  • 「日本のいちばん長い日」を観た

        もう誰だか忘れてしまったが終戦からしばらくした日の夜更けに偶然お堀端で米内光政にでくわした人が書いた文章を読んだことがある。 この聴き取りにくいほど東北訛りのつよい、最初から最後までアメリカとイギリスを敵にする戦争をやって勝てるわけがないと主張して、開戦の前も終戦のときも、内閣に席をしめていた海軍大将は、かすりで、暗闇のなかで、たったひとり、お堀端の草地に吹上御所のほうを向いて正座して、号泣していたのだそうでした。 あまりの異様な光景に米内光政を見知っていたこのひとが声をかけられないでいると、そのうちに、元海軍大将は、「陛下、申し訳ありませんでした、陛下、米内をおゆるし下さい」と言いながら、その場でくずれおちるように地に伏してしまった。 このブログ記事でずっと見てきたとおり、戦後の日本マスメディアの太平洋戦争観は美化されすぎていて、とてもではないが、まともに相手に出来るものではない。 ツイッタでも「特攻などは、ただの犬死にで、そこには美しさなどかけらもない」と書くと、長くフランスに住んでいる日本人の女のひとが「国を思って身を捧げた特攻隊員の気持ちを『ただの犬死に』だなんて許せない」と言ってくる。 だが当時の「特攻隊員」が戦後になって残した証言は、たくさん残っていて、名のあるひとならば城山三郎のような作家から西村晃のような俳優がいる。 あるいは、なぜか同じ人であるのに日本のマスメディアのインタビューに対しているときよりは遙かに率直明瞭に証言を述べているBBCやPBSに出てくる無数の元「戦士」たちは、異口同音に、「志願制」のからくり、特攻強制のために故郷に残された家族を人質にとってしまう日本社会の残酷さ、ある場合には、このひとは本人が中国戦線以来の歴戦のパイロットで、軍隊のなかで一目も二目もおかれる立場で、上官といえども、星の数よりメンコの数、無暗に居丈高になれる相手ではなかったからだろうが、日本社会の文化慣習からおおきく外れた行動をとったひともいて、 「自分は通常の急降下爆撃のほうがおおきな戦果をあげる自信がある。 出撃して艦船を沈められなかったら、そのときは殺してくれ」と上官に直訴しても退けられ、ではせめて敵がみつからなかったら帰投することを認めてくれ、と述べると、 それも許されない、死ぬ事が最も肝要なので、そうまで言うなら爆弾はボルト止めすることにする、と告げられた飛行隊長もいた。 爆弾をボルト止めする、というのは着陸しようとすれば爆弾が爆発して間違いなく死ぬということを意味しています。 むかし、ロンドンのカシノで会ったアメリカじーちゃんに、じーちゃんが目撃した彗星艦爆パイロットの話 http://gamayauber1001.wordpress.com/2009/06/10/彗星_ある艦爆パイロットの戦い/ を聞いたときには、いまひとつピンと来なかった自爆の理由が、いくつかのドキュメンタリを観て判った。 たとえ生還しても銃殺かボルト止めした爆弾を抱えた再度の特攻出撃命令が待っているだけで、それほどの屈辱的な死を選ぶより、自分が戦場として数年間を戦った海で死んだほうがよい、と考えたのでしょう。 「帰ってくるな」と言われた屈辱を、あの人は思いきり海に自分の生命を叩きつけることで表現したのであるに違いない。 ありとあらゆる人間性の弱点に不思議に通じていたナチはヨーロッパでは擡頭期から、ここという内政・外交の切所にさしかかると「美しい女を抱かせる」のを常套手段としたが、日本の、しかも一般世界から隔離されて生活してきた日本の軍人武官のようなナイーブさではひとたまりもなくて、当初はドイツをバカにしきっていた海軍軍人たちも、「親独派」に変わっていった。 イギリスには、ドイツにおけるのと同じもてなしを期待した日本の軍人が、「わたしのご婦人のほうはどなたに世話していただけるのでしょうか?」と訊いて、にべもなく、世話をする担当将校に 「われわれの国では、ご婦人と同衾するためには、その前に『恋愛』が必要なので、ご面倒でも、そこから始めていただかなければなりません」と言われたという話が残っている。 日本側には、これと同じ話が親日本的なドイツ人と較べてイギリス人の度しがたい人種差別の証拠として伝わっていたそうです。 最も決定的だったのは、最大の陸軍国、軍事的巨人とみなされていたフランスが、あっけなくドイツの機甲師団群に敗北して、インドシナが空白になったことで、当時の標語でいえば「バスに乗り遅れるな」、ドイツがアメリカやイギリスの主力をひきつけているこの隙に、軍事的な空白化している太平洋の西洋植民地をみな機敏に盗み取ってしまおう、という火事場泥棒の焦慮に駆られて、日本は太平洋戦争に突入してゆく。 なにしろオランダ人やフランス人が太平洋に放り出していったものを他人にとられないうちに掠め取りた一心だったので、うまいこと掠めたあとには、これといってやることも思いつかずに、オーストラリアを占領すればどうか、いや、いまこそ北のロシアを攻め取ればどうか、と述べているうちに、まだ工業余力が発生するまえの弱体なアメリカ合衆国の、劣勢な太平洋艦隊にミッドウエイで大敗北を喫するという失態を演じて、茫然自失のまま、アメリカが自分達の戦時工業生産の伸長にかかる時間を計算した結果しかけたガタルカナルという罠に見事にひっかかって、まるでアメリカの本格的な軍事生産を待って足踏みするかのような無意味な消耗戦に巻き込まれてゆく。 ロシアとの二正面から次第にナチを圧倒しはじめた連合軍は、1944年になると強大な正面の敵を打ち負かす見込みがついて、ようやく余力を太平洋にまわせるようになって、インド・マレーでも、それまで戦っていたひと時代前の装備の植民地軍から正規軍を相手にすることになった日本軍はひとたまりもなく本土へ向かって押し返されてゆく。 日本ではいまだに太平洋戦争は軍部や戦争を遂行した軍閥の観点から眺められていて、「白人の人種差別に対するアジア人のための戦いだった」 「白人の反アジア人連合に追い詰められた結果の自衛戦争だった」 ということになっているようだが、前者については、ぼくは面白い経験をしていて、学生たちの討論会で、「日本の戦争は白人からのアジア人解放という面があったと思う」と述べた日本からの(なかなか勇気がある)留学生に、歩み寄って、おもいきり平手打ちをくらわせた中国人女子学生のことをおぼえている。 ぼく自身は、どうとも思っていなくて、むかしのことでもあって、 日本のひとはドイツ人と違って考え方を変えていないのだな、と思うだけで、 平手打ちをしようと思うような強い関心がないようです。 「日本のいちばん長い日」という映画を昨日はじめて観たが、自分の頭のなかに入っている「日本終戦の日」の知識と同じで齟齬がないのは、実は、その知識そのものが、この映画のもとになったノンフィクションが暴いた事実に基づいているからに過ぎないからでしょう。 阿南惟幾が切腹自殺を遂げるところで、あれ?ここで阿南陸相は「米内を切れ!」と言ったはずだがなあーと思ったり、あ、近衛連隊が御文庫を襲撃したときにあの鎧戸を閉めたのは入江相政だったのか、とびっくりしたり、その程度の細部に異同があるだけで、なんだかずっと前にいちど観たことがあるような気がする映画だった。 そういうことがあるからか、映画で印象に残ったのは、まったくくだらないことで、 登場する人物たちが、やたら絶叫し、「声を励まし」、すごみ、慟哭し、感情を叩きつけて、まるで感情に酩酊した人のように振る舞うことだった。 映画の演出としてそうなっているのかと考えて、ぶらぶらとライブリに歩いて行って、戦争期のことについて誌した本を読んでみると、どうやら現実に当時の日本人は大声をだして叫び、怒鳴ることが多かったようで、へえ、と考えた。 英語人のなかではアメリカ人とオーストラリア人は「怒鳴る」人が多いので有名であると思う。 アメリカの人もオーストラリアの人も、喧嘩になると、大声をあげてわめきたてる人が多いのは、たとえば深夜に場末のバーに行くと、実証的に目撃できます。 ウエールズ人には「大声をあげる」という悪評がついてまわっていると思うが、それでも全体としては連合王国人は大声をあげるということを忌む。 たとえばイングランド人とニュージーランド人には観察していると喧嘩に面白い特徴があって、罵りあいをするまえに、まず先に手が出てなぐる。… Read More ›

  • To my young Japanese friends whom I haven’t met yet,

      I’m just going to dive right in here.   As we have seen, the word ‘integrity’ is not in the Japanese language. Integrity. Wait. What? Really. Let that sink in. The absence of the word integrity is a monumental… Read More ›

  • 日本語の本を出すということ

      むかしは、そんな理由じゃない!とむきになって否定していたが、最近は、考えてみて、やっぱり子供のときに日本に住んだということがおおきいのかも知れない、とおもう。   日本を離れて、すぐに忘れてしまったが、子供のときはたしかに日本語が話せたので、いま仮に録音があれば、案外カタコトに近いのかもしれないが、当時は、かーちゃんが出かけるところには、どこにでもくっついていって、店員さんなら店員さんの日本語を通訳するのが誇らしくもあり、嬉しくもあった。 読んだり書いたりするのは、ぜんぜんダメで、いまでも日本語を勉強しようとしたらしいノートが残っているが、ひらがなの「ね」が、全部裏返しになっている。 英語社会にもどってみると、日本にいたことは、まるで夢のなかの出来事のようで、そのうえ1990年代初頭の英語社会などは、日本語文明に限らず、他文明になど、まったく興味をもっていなくて、友だちと話していて、「そういえば、日本では、こうなんだよ」と述べても、「へえ」というおざなりの、気のない反応が返ってきて、次の瞬間、ホールデンの新しいユートが、いかにクールか、という話になっていった。   日曜日の朝には「セーラームーン」が放映されていて、それはそれで人気があったが、そこから日本文化に興味をもつ、というようなことは、あったとしても稀で、いま振り返って考えても、アニメとしてのおもしろさと、それが日本のアニメであることが結びついていなくて、鮨のような食べ物は強く「日本のもの」であることが意識されていたのと、好対照をなしていて、文明というものの面白さを暗示している。 義理叔父という存在が、自分の日本語にとってはおおきかった、ということはブログにも何度も書いている。 叔母が結婚した相手で、日本の人です。 当時から通常の日本の人と較べようもなくて、飛びきり英語能力があったが、それでも、ときどき、なにを言っているのか、まったく理解できないことを口走るので、気の毒に、遠慮などというものには縁がない、連合王国人やニュージーランド人に、よく揶揄われていた。 平気を装っているが、内心は深く傷付いているのは、叔母やぼくには感得されていて、なぜか英語の問題がいっさいなくて、時に、相手が、ふと会話を止めて「おまえの英語は、すごいな。きみ、ほんとうに日本人なのかい?信じられない」と、あながちお世辞でもなく述べてくれる人が、たくさんいた、カリフォルニアに越したいと口走ることがあった。 こちらが段々成長してくると、従兄弟と遊ぶために出かけると、よく顔をあわせる、この奇妙なおっちゃんと、自分には、あろうことか、いくつか共通点があることがわかってきた。 ・本をたくさん読む ・数学が考え方のバックボーンになっている ・コンピュータを中心としたハイテクノロジーに強く惹かれている オランウータンが木から落っこちてボーゼンとしているような、輪郭も表情もぼんやりした顔からは到底想像がつかないほど高い知能をもっていて、世界から表層を剥ぎ取って深層を見つめる能力を有している。 だいたい十三歳くらいになるころには、年齢がおおきく離れているにも関わらず「だいなかよしの友だち」と意識されるようになっていて、物理的におなじ国に居合わせれば、一緒に「つるんで」あちこちに遊びにいくことが多くなっていった。 この人が日本語の先生です。 いま考えてみると随分ヘンテコリンな選択だが、クリスマスのプレゼントに英語版の平家物語をもらったのから始まって、ラフカディオ・ハーン、最も決定的だったのは、「東京物語」を初めとする小津ムービーで、日本中探し回って、やっと手に入れたVHSの小津映画を一緒に観ていると、叔母も従兄弟も、わし両親も、みんながそわそわしだして、用事をおもいだしたり、眠りこけてしまうなかで、義理の甥っこだけが、目を爛々と輝かせて、コーフンさえ見せて手に汗を握って、淡々と語られていく映画を観ている。 やがて、ふたり映画クラブのようになって、「ゴジラ」や「ゴジラ対モスラ」を観くるって、感想を語り合うようになっていく。 英語字幕を借りなくても日本語がわかるくらいまで日本語能力が恢復すると、すっかり日本語そのものもおもしろくなって、義理叔父の書斎にあった筑摩書房の近代文学全集を片端から読んで、読み終えてしまうと、「美しい星」に出会った新潮文庫の三島由紀夫全集を読んで、とバリバリと日本語の本を読んで、若い人間というものは恐ろしいもので、到頭、岩波の古典文学大系まで全巻読んでしまった。 初めはご多分に洩れず思潮社の現代詩文庫だったが、岩田宏の詩集を手にして、なるほど、日本語とはこういう言語だったのか!と考えて、手に入る限りの詩は、「夜半へ」や「ショパン」の長詩を含めて、全部、暗誦できるようになったのは、この頃でした。 同じ頃、英語世界では、ポール・マルドゥーンのようなアイルランドの詩人たちが好きだったが、一方ではディラン・トマス、T.S. Eliot、W.H.オーデンの「昔の詩人」も大好きで、「荒地」という同人名に誘われて読み始めた、田村隆一や三好豊一郎、北村太郎に続いて、いま考えて、北村透谷や岩田宏と並んで日本語世界との最も決定的な邂逅になった鮎川信夫にめぐりあうことになる。 このあとのことは、ブログ記事になんども出てくる通り、日本語の読み書きができるようになると、他人に見せてみたくなるのが人情で、義理叔父が遊び半分に考えたゲームサイトの販促に始めた会社の人や義理叔父自身が書いていたブログを、ごく初期の途中から引き継いで、ver.1に中る、「ガメ・オベールの日本語練習帳」と称するようになったのが、そもそもの初めでした。 そこからは、十年を越えて、いままで、一緒に歩いてきてくれた人も、たくさんいる。 自分では、どんなものを書いているのか、よく判っていないところがあって、言われても、いまでもピンとこないが、「どうか掲載しないでください」という断りと一緒にくるコメントや、email、最近ではtwitterのダイレクトメールの形で、おおげさでなく膨大な数の 「あなたのブログのお陰で死なないですみました」 「ブログを繰り返し読んで、かろうじて生きている。日本の社会は、苛酷で生きづらくて、もし、あなたのブログがなければ、わたしは、とっくの昔に死んでいます」という、どれもたいへんな長文の、わしのブログなどより、ずっとすぐれた日本語で書かれた手紙が舞い込むようになっていった。 十年、日本語を続けてきた、というのは、そもそも40分以上おなじことをやれないので友人たちには、遍く知られていて、学生よりも若いのに母校の講師に抜擢されても、あっというまに辞めてしまうし、ガールフレンドに唐突に「飽きてしまった」と述べて平手打ちをくらったりしていて、とんでもない飽きっぽさが第一の人間としての特性である自分としては破格のことです。 多分、理由は、過去へ向かって読み返していくと、書くにつれてだんだん日本語が上手になってくるのが自分でも感じられていたからで、2015年くらいになると、自分では、機嫌がいいときなどには、「もしかして日本人よりも日本語、巧いんちゃう?」と自惚れられるくらいになっている。 そうは言っても、2018年くらいになると、流石にほんとうに飽きてきて、この間に起きた色々ないやがらせとはあんまり関係なく、自費出版でいくつかの記事を紙にしておいて、日本語全体から足を洗うべ、という気持になっていった。 500部、という数でいいのではないか、と考えて、なにしろ本人がIlluminated books、あの金箔と絵とカリグラフとゴージャスな色彩に満ちた、精巧な本の大ファンで、まさか蒐集はしないが、レプリカのコレクションまでもっているくらい「ものとしての本」が好きなので、いくらでもオカネをかけて、中身のテキストがボロいのはやむをえないとして、本としての体裁だけは美術品と呼びたくなるようなものをつくろうと考えた。 考えているうちに、線描画を書くのが好きなので、与謝野晶子の「みだれ髪」の初版に倣って、手描きの表紙がよいのではないかと考えはじめて、500もドローイングを描くのはたいへんなので、50部もつくればいいか、と計画を変更した。 自分では外国に住んでいることでもあり、どうにもならないので、能楽師で、学芸家でもある年長の友人に采配をお願いして、快諾をもらうところまですすんでいました。 めんどくさいので、口にだして、誰をどういう友だちだとおもっていて、どのくらい信じている、というような「私家版友情ミシュラン」みたいなことはしないが、このひとはすごいな、このひとは真の友人である、と考えていた人に失望するという「事件」が起きた。 敬意がおおきかったり、強い友情を感じていたり、信頼が深かったりする相手に落胆したときほど、怒りというものは強く、爆発的になる。 日本の人は「礼儀正しく怒らないとダメだ」「怒るよりも先に、なぜ話しあおうとしないのか」というが、はっきり言ってしまえば、そんなのは日本の人のチョー特殊な意見で、それが常識になっている日本語社会が、どれほど病んでいるか、という証左にしかすぎない。… Read More ›