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  • 餃子

      (この記事は2012年に、いまは閉鎖されたガメ・オベールの日本語練習帳 ver. 5に掲載された記事の再掲載です)   中国のひとが普通にレストランで「焼き餃子」を食べるのは最近のことであるらしい。たとえばオークランドで観察していると東北地方系の店は、伝統的な、皮の厚い、水餃子と蒸し餃子が中心で、20個でNZ$10ちゅう感じです。 具は、本来は野菜が中心だそーだが、「それはむかしはビンボだったからだよ」だとかで、キャベツとか、野菜ばっかしの餃子は徐々に、というのは世代が若くなるにつれて、廃れていっていまは、オークランドにはムスリムが多いせいもあって、牛肉やラムの餃子もメニューに並んでいるが豚肉が多い餃子がやはり人気がある。 上海人のにーちゃんに訊くと、「でも豚はさー、殺すときに『血抜き』しないと不味いんだけど、ニュージーランドでは、そういう屠殺の仕方が残酷だから違法だとかで、ダメなんです」という。だから、いまいちである。 ニンニクとかいれてごまかすっきゃない。 薄皮の焼き餃子は最近の中華料理の流行で、家から比較的近い、というか行きやすい 「グランドパークレストラン」ちゅうような店 http://www.grandparkrestaurant.co.nz/ に行くと、飲茶の時間に「4個NZ$5.5」でメニューにあります。 5.5ドルは、380円ちゅうような値段なので、よく考えてみると、ニュージーランドでは無茶苦茶(高額)な値段である。 スタイリッシュな食べ物のよーだ。 新しいメニューの扱いのにおいがする。 どーも伝統的な「餃子」とは別のものであると意識されているよーで、わしが截然から中華料理店の「焼き餃子」は日本から逆輸入されたレシピに違いないと考えるのは、主にそーゆーことによっている。 因みに、「薄皮」と書いたが、グランドパークレストランを例にとると、ふたりいるシェフのどちらが作るかによって、形まで違う(^^;) ひとりは日本の餃子よりも薄い皮をぱりぱりに焼いて、銀座の「天龍」みたいなところよりも十倍おいしい。 もうひとりのシェフは、薄皮シェフと厨房において尖鋭に対立しているもののごとくであって、もっちりとした皮の餃子を少ない油で焼く。 わしは、どっちもうめえだな、と感じるが、日本のひとはなんとゆっても薄皮のパリパリであるのかも知れません。 東北系の店は一般に「餃子20個10ドル」と窓や壁に書いてあって、注文するときにゆでて欲しいか、スープにいれるか、蒸してもらいたいか、あるいは焼いて欲しいか述べることになっているので、「焼き餃子」自体は、そーとーむかしから普及しているものであるよーです。 「日本では、焼き餃子は残り物とかをそうやって食べるのであって、中国には焼き餃子はないと聞いたけど」とゆってみると、あんまし英語がわからないおばちゃんが、首を傾けて、「それはヘンな話だのお」とゆっているので、もしかすると、戦争前とかの「おおむかしの話」が、東北地帯、満州ではなくても、たとえば北西の張家口のようなところでは日本の勢威がおおきかったので、そういう町での記憶がいまに伝えられているのかもしれません。いつだったかコンピュータ会社に出資してくれと言いに来た福建省のおっちゃんとロス・アンジェルスのディムサム屋で話しているとき、北のほうの饅頭ってなんにもいれないものなんでしょう?と聞いたら、「いれたくても、むかしはなかの餡をつくるカネないよ」とゆってニッカリ笑ったりする。 なんだか、そーゆー、いろいろな、あんまり追及して考えないほうがよいような理由があるもののよーでした。 わしが初めて日本以外の町で日本風「焼き餃子」を見たのはシンガポールの台湾料理屋だったが、最近ではマンハッタンでも、あそこにもここにもあって、 むかしチェルシーのわしボロアパートのテーブルの椅子に腰掛けてブログに書いた 「老山東鍋」の1ドルで5つ皿に載ってくる焼き餃子は、わしの好物だった。 http://gamayauber1001.wordpress.com/2008/09/26/太陽が昇るとき%E3%80%80%E3%80%80wish-you-were-here/ http://gamayauber1001.wordpress.com/2008/05/17/食物図鑑%E3%80%80その4%E3%80%80マンハッタン篇/ たいして中華料理が好きでないわしが餃子ばかりはよく食べるが、それは淵源をさかのぼって考えると「ドラゴンボール」の記憶によっているらしい(^^) むかしむかしオークランドのドミニオン通りで、英語が「水」さえ通じないレストランで、 ダンダンミー(担々麺)を頼んで、それだけでは足りるわけはないので、ダンプリンを頼もうと思ったら、これが全然通じない。 困ったなあ、英語わかるひと誰かいないかしら、と見渡しても誰もいないので、わしの後ろに延々と列をなしている中国人たちも、みな、ニコニコしていて、しかし、さっぱりわからねえ、という顔でわしをみつめているだけである。 ドラゴンボールを思い出して、あっ、チャオズ!と思って、「チャオズ、プリーズ」というと、あれこれ推測してもわからないので困じはてていた店の主人の顔が、パッと明るくなって、「チャオズ!チャオズ!」「オー、チャオズ!」という。 後ろの列からも「おお、チャオズ!」という笑い声がしている。 拍手が起きそうな雰囲気であった。 義理叔父は銀座の「天龍」という店が好きだが、わしはMSGで頭痛を起こすので、ダメであった。ほかにも義理叔父には好きな餃子屋がいくつかあって、神保町にお供させられると、ほとんど必ず「スヰートポーヅ」 http://tabelog.com/tokyo/A1310/A131003/13000637/ という店に行く。 行くとふたりでわしは「大皿」義理叔父は「大皿ライス」を食べたものだった。… Read More ›

  • 後ろ姿の日本

    日本の様子どころか、日本の人の考え方や感情の動き方が、どんなふうかの感覚もなくなってしまったので、いよいよ頭のなかの「日本」も乏しくなって、言語としての日本語だけが頼りで、日本語をめぐるシチュエーション全体が不思議なものになっている。 簡単にいえば、以前には「こちらのいうことが判ってもらえなくて、がっかりする」ことが多かったのが、最近では、それに加えて、日本語人が言っていることのほうも判らなくなってきたので、会話が成立しないところに来てしまっている。 困ったなあ、とおもうが、困るだけで、なにか出来るわけでもないので、ほっぽっておくしかないよね、ということになっています。 社会的には女のひとをめぐる考えは、むかしから、理解できないくらい隔絶があった。 伊藤詩織さんの勇気がある行動で世界じゅうに知れ渡った日本の女の人への社会を挙げての絶えざる虐待は、端的に社会事象として顕れているだけで、普段の感覚から、デカ目デカ胸ミニスカ愛好家が雲霞のようにいることから始まって、性的犯罪者に甘い、「あのひとはいいこともやっているから」 「彼は将来がある人間だから」で、神様が雲のうえから見ていたら、椅子からずるっこけて地上に墜ちてきてしまいそうな、すごい理屈が社会の通念になっている。 英語世界も、長い長い男主導の歴史がある社会なので、至る所で「男のほうが偉い」が顔をだすが、それにしても、例えばニュージーランドでふつーの男の人は、日本に移住してくれば、過激なフェミニスト、と看做されることになりそうです。 日本では女の人は、根底的に性的消費物で、かろうじて生殖機能において社会に貢献しているだけで、ときどき研究者としてすぐれていたり、バリバリに仕事ができる「キャリア・ウーマン」であるのは、間違って女に生まれた「例外」なので、なんだかもう別世界で、女の人の地位のランキングが世界で122位だかなんだかだそうだが、別世界のものを同じランキングで並べても仕方がないんじゃないの?というくらい社会として異質である。 アメリカ合衆国などは英語世界では性差別が激しい男社会で有名で、ほかの英語世界からは、あきれられたり、疎まれたりして、女のひとの側だって、黙っていはしないので、論点をはっきりさせて毎日闘っているが、日本の場合は、それともちょっと別で、レディファースト文化とフェミニズムがごっちゃになっていて、「女性を尊重する」と繰り返し述べる人の書いたものを読んでいても、女の人を大事にするのは、いいが、そもそも、その「女の人」自体を自分とまったくおなじ人間だとは看做していないのが言葉の端々から感じられて、読んでいて、げんなりしてくる。 例えばアトランタに行けば、むかしから、女の人は、たいへんに丁寧に対応される。 エレベータに乗るでしょう? ボタンは必ずボクスに同乗の男の人の誰かが階を訊いて押してくれます。 下りるときは、人の壁がさっと空いて、真っ先に降ろしてもらえる。 ドアに近付くと、男の人の誰かが、間髪をいれずに開けて、特に自分でドアに手を触れる必要はない。 自動ドアが普及して、いっそ不便になったといってもいいくらいです。 女の人に失礼なことを言うなんて、とんでもないことで、礼儀をわきまえなければ、レディに失礼なことを言うな、近くの男の人に睨まれて、下手をすると殴られるかもしれない。 しかし、こういう土地柄の町では、当然に、女の人の、男と対等な人間としての地位は、とても低い。 まして男と女は、対等もなにも、まったく同じ人間だと述べると、相手は吹き出すかもしれません。 日本語世界では、どうも、そこのところが、ちゃんと呑み込めていないらしい。 なにからなにまで異なっていて、日本語人で最も友人になるための障壁になっているのは、このぎょっとするような女の人たちへの考え方で、自分の経験でも、温厚で成熟したおとな(そこのきみ、なにを笑っておる)であるわしが日本語で激怒に至るのは、特に、友だちだとおもっていた相手においては、いったい女の人をなんだとおもっているのか、と、やりきれない気持ちにさせられた時で、がっかりさせられて、こんなバカを友だちだとおもっていたのか、と、自分の愚かさにも腹が立ったときに限られるようでした。 別に異なるからいかんいかんと述べているわけではなくて、そもそも日本語に興味を抱いたのは、なにからなにまで世界の他の国と異なっていて、なんでんかんでん正反対と言いたくなるくらい違っていて、それであるのに、ちゃんと普遍性を持つ文明として成り立っていたのがおもしろかったからで、 なぜ「普遍性がある」と初めから確信していたかというと、日本文明の「美」への、いわば審美眼がしっかりしているからでしょう。 ガキわしが、むかし、日本に滞在して息を呑んだのは、判らないなりに能楽であって、竹の林に囲まれた、苔むした石の階段がある寺であって、クルマからおりて、かーちゃんや妹とみあげる小高い丘の鎮守の森であって、 折にふれて呼んでもらった、廻廊に囲まれた中庭のある料亭の佇まいであって、美しく、華やかに、でも、はんなりと着飾った女のひとたちの畳の上に座った姿だった。 そうしたものたちの、いちいち美しい、一幅の、注意深く構成された絵画のような日常が、普遍性となって、言語にも灼き付いている。 小津映画に狂ったりして、後年に、だんだん日本について判ってくると、二層構造のように感じられて、京都の、この世のものとはおもわれない美しい建造物と庭園群が、フランス人向けの有名ガイドブックに「寺と寺のあいだは醜悪な景観が続くので下を向いて歩け」と書かれてしまう、醜い通りで結ばれている。 気高い美と、ドロドロと呼びたくなるような情欲と物欲がむきだしの、蛮性を帯びた下級兵卒の群れであるような醜悪な人間の群れが混在している。 いまでも理由は、ちゃんとは判っていないが、この日本語のブログでも何度か書いたように、部分として気が付いたことは、いくつかある。 日本語社会が西洋的な倫理を持っていないこと。 どうやら、その原因は、効率的に、強い軍隊と、その軍隊を生産面で支える近代風な社会をつくろうと考えて、例えばintegrityのような倫理語彙には「余計なもの」として訳語さえ与えなかったこと。 20代になって、おとなになった自己で実地に日本社会を経験したくなって年に数ヶ月という長さで滞在してみると、いろいろなことを通じて、事情がわかってきて、例えば、食べ物でいえば「ほんもののカルボナーラ」というような言葉に遭遇して、カルボナーラなんて戦後窮乏してタンパク質源が決定的に不足したイタリア人たちの窮状に同情したアメリカ軍が、無料で大量に放出した鶏卵を日常料理として取り込んだローマのレストランがレシピをつくった知恵で、今出来もいいところで、「ほんもの」もなにもないもので、現実にもイタリアをクルマで旅して歩けば、一目瞭然、卵とパンチェッタかなにか、加工肉が載っているのがゆいいつの要件で、呆れるほど異なる様々な「カルボナーラ」があって、変幻自在、融通無碍で、年を追うにつれて、シェフが代わるにつれて、どんどん変化もしていくが、日本では「これがホンモノのカルボナーラです」という。 そういった細部を見ていて気が付くのは、「模倣」というものに、付きものの、有名な欠陥であって、根が大地に付いていないものだがら、固定的で、変化させていけない部分が、社会のあちこちに出来て、その部分から社会の進展の足を引っ張りだして、最近では、到頭、腐臭がする部分さえでてきてしまっている。 もうひとつは、西洋から輸入するときに解釈に失敗した事物が、異様なものに変化した例で、たとえば「全員が納得するまで話しあいを続ける民主主義」なんて、民主主義総本家のフランスや、テキトー民主制のイギリスの人間が聴いたら、ぶっとんでしまうような考えを、いいとしこいたおとながマジメに信じている。 どんな結果になっているかですって? 当たり前の帰結で、なにも決められなくて、なにも変えられなくなっているのに決まってるじゃないですか。 余計なことをいうと、この「全員が納得するまで話しあう」という素っ頓狂な民主社会のアイデアは、多分、近代以前の村の寄り合いや、上は、老中会議のような「合意探し文化」を、そのまま民主社会の議論のやりとりで出来た意志決定のための会議に投影しているので、正体は、もたれあい社会に典型的な全体主義です。 「個人」を殺し、異物を排除し、結束を固めて厄災を乗り切ろうとする。 なかでも戦後にアメリカから運ばれてきた考えから腐りはじめていて、日本の伝統的な体質と齟齬をきたす企業社会のありかたなどは典型で、終身雇用をやめてフリンジベネフィットや名誉の分配で成立していた企業社会に、アメリカ式のコスト主義と競争論理を持ち込んで、安定と安心を求めて、引き換えに全体への献身を惜しまない日本企業文化を見事なくらい破壊してしまった。 破壊してアメリカに成ってしまえればいいが、そこは模倣の悲しさで、 一方では大学を卒業すると志願兵みたいな若いひとびとが一斉就職をして、年をとれば、… Read More ›

  • 航海日誌 1

        ガメ、なんで、こんなところに水が溜まってるんだ?  振り返ると、手にコーヒーカップを持ったパジャマ姿のモニさんが立っている。   周りに陸地も見えない海のまんなかで、浸水が続くボートのラウンジのカーペットは、そこいらじゅう引き剥がされていて、なんだか、普請中の家みたいなありさまです。    船底には、10cmくらいも海水がたまっていて、さっきから、ひげもじゃの人がAliExpressで買った100000ルーメンとかいう、とんでもない明るさの懐中電灯で船首方向の暗がりを照らしている。   ひげもじゃの人、わしのことですけど。     なにによらず新しいものは好きでないので、クルマも、びっかびかの新車も、わし用とモニ用と2台はいつもあるけれども、他のクルマは、どれも、60歳や70歳になんなんとする強者(つわもの)ばかりです。   どう強者なのかというと、助手席とパッセンジャーシートのことを日本語ではいうが、文字通り、同乗する人には「助手」になってもらって、なみなみと水をたたえた薬罐をもって乗ってもらう。   エンジンを冷やすためですね。   ボートもおなじで、美々しい船内でパーティを開く設備がある船やピッカピカのドイツ生まれのハイテク満載のヨットもあるが、本人が途方もなく愛しているのは、これも、60歳や70歳になんなんとする手弱女(たおやめ)で、むかしの船は、例えば、いまならば50フィートくらいまでの船ならファイバーグラスの一体成型で艇体をつくるのが普通だが、むかしボートはカウリやなんかの硬い木で、それこそ何百年という伝統がある木の組み方をしてあったりして、みっちり、水が入らないように艇体をつくってある。   外側は磨き上げたチークで、内部はマホガニーで、….と、木の美しさの世界で、いまできの「豪華クルーザー」なんて、足下にも及びません。     維持費がかかりすぎるので、半ば打ち捨てられていたのもあるが、ともかく古いボートを買ってきて、チークを引き剥がし、船板を取り替えて、どんどん新品同様に変えてゆく。   リストア、というやつね。   なにしろ乗り物は空を飛ぶものから海の上を走るもの、陸を行くもの、みな、これが楽しくて買うのだから、もともとのデザインさえよければ、ボロければボロいほどいいとも言えます。     艇体をファイバーグラスでくるむ。 木材の船体を、そっくりファイバーグラスの繭をつくって包んでさしあげる。   インテリアはマホガニーを活かして、ファブリックはどんどんモダンなデザインに変える。   むかしのボートはラウンジのカウチひとつとってもウルだったりするので、あの手触りが嫌いなわしとしては、コットンや、その他、もっと手触りがやさしい布地に変えてゆく。   そうやって、出来上がったクラシック・ボートは、我ながら「ゴージャス!」という以外は言いようがないもので、優美で、なんだかマリーナのバースに泊まっているのを遠くから見るだけでうっとりしてしまうが、水のうえに浮いていても、クラシックなものはクラシックなので、というか、ボロいので、ときどきトラブルが発生する。   船底の水は、大海原のまんなかで、錨をおろして、床板を引き剥がして、だんだん見てゆくと、どうやらビルジパンプ、排水用のモーターが壊れて、止まったモーターのパイプから、逆に海水が浸入しているようでした。… Read More ›

  • 友だちへの手紙 2

    このごろ、よく、アミどんはどうしているかなあ、と考える。 巖谷さんやなんかからも、「あの人は、どうしているのか?」と聞かれるけど、ぼくもアミどんがどこにいて、なにをしているのか知らないんだから、答えられないよね。 アミどんは、とてもとてもダメな人だった。 ほら、(村上)憲郎さんと進退を相談したとき、憲郎とーちゃんが、 「嵐のときは、身を伏せて、じっと我慢することも大事です」と述べていたでしょう? 自分は、攀じ登った機動隊の装甲車の屋根で石を投げて頑張って、機動隊に投げ返された石の直撃をくらって、遙か眼下の川に落っこちたりしてたくせに、なにを言ってるんだろうね、と、ふたりで大笑いしたけど、現実の知恵というのは、そういうもので、憲郎さんは、「自分は、こう述べなければいけない立場なのだ」と自分に言い聞かせて、「もっともらしいアドバイスをするおっちゃんの役」を引き受けることにして、自分なら従うはずもないアドバイスをくれたことを、きみもぼくも、知っていたけど、現実社会を生き延びようとおもえば、正しいアドバイスであったことも、ほんとうだとおもいます。 ぼくが編集者としてアミどんをベタボメしたことは、日本の社会のありかたを考えると、きっとアミどんにとっては、たいへんな負担になったでしょう。 ほめちゃいけないんだよね、日本の会社って。 アミどんは強気で、それまで勤めていた砥石出版の安月給では働きたくない、とヘッドハンターに紹介された面接で述べたと聴いて、やれやれ、あいつはやっぱりおれのソウルメイトだぞ、と考えました。 ぼくはね、普通は、他人のことは、どうでもいいの。 まあ、自分でしっかりやってください、とおもうだけです。 でも砥石出版でアミどんが遭遇した紛うことなき「集団イジメ」には、すっかり逆上してしまった。 特に同僚たちがコロナでの出勤を拒んだアミどんに、アミどんがインターナショナルスクール出身であることに、引っかけて、「グローバル戦士」と揶揄したと聴くに及んで、逆上を通り越して、心からの憎悪を感じました。 なんだか、日本社会の、いまの深い深い病を、そのまま会社として体現したような、お話しだった。 冷笑と軽く見せかけた心底からの悪意に満ちた揶揄。 しかも集団で。 アミどんは、どれほど、つらかっただろう。 あんまり詳らかに話すつもりはないが、アミどんが正しくも感じた「学歴と男性であることの優位」に安んじて寄りかかって、アミどんを思うさまいたぶりたかったのでしょう。 会社の幹部たちが、密室にアミどんを閉じ込めて、罵倒に及んだと聞いて、なんだか、事態が判ったような気がしました。 だから誰よりも誰よりも法律沙汰が嫌いなアミどんが、どうしても「タダではやめさせない」と恫喝に及んだ会社を相手に弁護士を雇うことにしたのにも驚きはしなかった。 ルールとは別のところで、「こんなに残酷な会社が世の中にはあるのか」と考えて、涙が出ただけだった。 あれからね。 アミどんが予測したとおり、 会社から、なんにも言ってこないよ。 きっと、そうだと、きみもぼくも思ったわけだけど、 ほんとうにその通りだと、なんだか呆れちゃうよね。 いまに至るまで、ひと言も、なんの連絡もない。 菊地信義さんのドキュメンタリがあったでしょう? あの映画のなかには、アミどんが大好きだった「良い本バカ」の世界の人間が、たくさん出てきます。 紙はどうするのか。 インクは、これがいいのではないか。 資本主義の社会では「取るに足りない」といってもいい規模の会社のひとたちが、おおまじめに、ああでもないこうでもない、なんだか手探りで、 まだ見たことのない「良い本」をつくろうとするのだよね。 そのなかで、アミどんの会社の編集責任者の、有能実直サラリーマン風の人だけが、まるで、そつのない営業サラリーマン然として、目立っていた。 見ていて、ああ、アミどんが苦しんだ原因は、これか、とおもいました。 アミどんは「良い本バカ」でいたかったのに、良い本づくりのメッカと信じて入った会社は、1ヶ月に2冊発行というマヌケなノルマがある、ブロイラーに卵を産ませるように編集者たちに本をつくらせる会社だった。 酷い言い方をしてはいけないが、このあいだ、初めて、アミどんが辞めた会社の出版した本の一覧を眺めていたら、「一流(とされている)著者の三流本」を出す会社だよね。 ブランド主義です。 マーケティングで本を出す会社で、もともと日本語で本を出版する気なんてなかったぼくは、どんな出版社か知らなかったが、なんだかバナナリパブリックやなんかの末期みたいというか、「昔の名前で稼いでます」ちゅう印象が拭えませんでした。 「知的と自惚れる読者なんて、こんなもんだ」という声が聞こえてきそうな、辻井喬が社長だった、バブル時代のパルコやなんかと同じような、「お客様はバカだ」とタカをくくった眼差しの会社に見えました。… Read More ›

  • 友だちへの手紙

    スマートフォンの画面を見つめている。 長い髪から覘いている二本の白いケーブルが世界から話しかけられることを拒絶している。 午前3時の雨に濡れた歩道を歩いている。     何度も、この世界を破壊しようと考えたのに、世界は悪巧みと邪な知恵に満ちて、壊されるのは、わたしのほうで、圧倒され、侵入され、もみくちゃに消費されて、裏通りのダンプスターに放り込まれる。 どうすればいいのだろう? もっと強い言葉を獲得すればいいの? わたしが心から求めている表現は、いったい、この世界のどこにあるのか? どんなに息を詰めて潜っていっても、水底に手がつかない、息が苦しくなって、水面を明るく照らしている見せかけだけの陽光に帰らなければいけなくなる。 どうすればいいのか? いっそ銃砲店のショーウインドウをたたき割って銃を手に入れて、あの高い塔から逃げ惑うひとびとを撃ち殺せればいいのではないか。     空にはガーゴイルたちが飛び交っている 空には精霊たちが立ち尽くして地上を見つめている     あなたには、それが見えないのか? 自分が生まれてきた人生で成功しているというだけで すっかり機嫌がいい 豚たち 22ndからウクライナ人たちのコミュニティまで歩いていった 他に行くところもなかったから   涙が止まらない 悲しいことなど、なにもないのに 息ができないほど嗚咽がこみあげてきて 唇をかみしめて 拳を握りしめて でも、そんなことは問題じゃないんだ わたしが泣いていることよりも まして、わたしが苦しい気持ちでいることよりも わたしという体積が この大気をおおきさのぶんだけ押しのけていて、 少しだけ空気を濃密にしている そっちのほうが ずっと大事なことなんだ、 「もの」は精神よりも重要だ、と、そのひとは述べていた。 奇妙なくらい身体がおおきくて ぼくは歩く塔なんだとでも言うように、途方もなく背が高くて… Read More ›

  • ものごとの順番について

    わしはテキトーが好きである。 達成は完全達成を理想とするが、ほら、iPhoneの充電だって92%まではスイスイいくけれども、最後の8%は、なんだ坂こんだ坂で、峠の釜めしが欲しくなるスイッチバックでしょう? だから、たいていは92%やれれば、よしとする。 88%のときも、ある。 なあんとなく良心が咎めるので告白すると62%でいいや、ということもあります。 家事を手伝ってくれているひとたちは、プロなので、あっというまにキッチンベンチはピッカピカ、鍋はごしごし、ワイングラスきゅっきゅっで、あっというまにHaloが射すキッチンにしてしまうが、あの楽しかった日本時代、通いのお手伝いさんがいるだけだった、なんでんかんでん新婚のふたりで自分たちでやらなければならかった日々は、わしはキッチンの片付けひとつでも、性格が出て、ちょっとづつ、のべつまくなしにやっていた。 家事につかれると、というほど家事をやるわけはないが、ワイングラスの赤みがなかなかとれない苦しさに耐えかねて、ホテルに移動して、すべてが自動的に綺麗になる生活を楽しむことになっていた。 靴下は右と左が同じ色同じ柄であることは、まずない。 ひとに言われると、「新しいファッションです。知らないの?」と言う。 胸をはって述べるのがコツです。 Tシャツは、だいたい3回に1回は裏返しです。 前後が逆であることもあります。 パーカーを、驚くべし、逆さまに着ていたこともある。 このくらいテキトーになると、家を出たときの心配も、その辺の凡俗のひとびととは異なるのであって、モニさんと結婚する前は、ひょっとしてズボンをはいていないのではないかと軽いパニックになって下半身を見ることも多かった。 パーキングブレーキを引いたまま出かけてしまう人というのは、そのくらいの心配はしないと、颯爽とクルマのドアを開けて下りると、なんだかが、だらりんと垂れていて、通報しました人があらわれて、お巡りさんが駆けつけてきかねない。 バルセロナのように、全裸でランブラに立っていたら、親切な人がよってきてチン〇ンも七色に塗り分けて絵の具でサイケデリックな洋服をかいてくれた、というわけにはいかないのです。 強調しておくと、わしのことではないが。 のりしろ、という。 余白でもいいかな? きっちりしてしまうと、ぎゅうぎゅうで、融通が利かなくなるので、 「まあ、このくらいはいいや」という「あそび」がなければ、例えばレシプロの飛行機でも離陸も出来ないのは人間が積み重ねてきた知恵としてわかっている。 ホーカー社だったっけ? 尾翼の昇降舵のワイヤーに遊びがありすぎて、飛行機がコントロールできなくてテストパイロットを激怒させた航空機会社もあるが、あれはたしか10cmほどもゆるかったという、とんでもない例で、通常は、飛行機もゆるいほうがよくて、タイガーモスやソードフィッシュのような、パイロットが、なあんにもしなくてもスロットルさえ、そそっと開けてやれば、ひとりで勝手にフワッと浮いて、上昇していってしまう飛行機というのは、やっぱり、きっちり組まれてはいなくて、張り線ひとつとっても、キンキンに締め付けてはいないもののようです。 きっちり物事をやりぬくことよりも、なにを重要と目して初めにやるかのほうが、遙かに重大であるのは、だいたい20年も人間をやっていると判ってきて、具体的には、優先度順、というか切迫度順に、上から3番目くらいまで順位をつける。 日によって異なるのはあたりまえで、 1 地雷の除去 2 鉄条網の断開 3 匍匐前進後伏射 という人もいるだろうし 1 あっちゃんにキス 2 訓示文の作成 3 刑務所で服役中の上司への差し入れ という人だっているはずです。 あっちゃんにキスするほうが、仕事に優先しているのだから、悪い人であるわけはない。 ところがですね。 この30だか40だかの「やるべきこと」があって、みっつしかやらないで今日はよしとする、というのは、意外と気持ちの上で難しいんです。 問題が解決に至る時というのは、本人が調子がいいときなので、おもわず、5つも6つも仕事を片付けてしまう。 況んや、仕事が早く終わると「きみ、有能だねえ、そんなに簡単に仕事が片付くのなら、申し訳ないけど、これもひとつお願いできないだろうか」と言い出す上司がいる職場に、おいておや。 平仄、これで、あってんのかな。 自信がないが調べるのがめんどくさいので、良い事にします。… Read More ›

  • GRAS あるいは工業製品としてのトウモロコシについて

    (この記事は2013年5月2日に「ガメ・オベール日本語練習帳ver5」に掲載された記事の再掲載です)   メキシコ滞在の楽しみのひとつは「おいしいトウモロコシ」であると思われる。 紫色のは特にうまい。黒いのもうまいと思う。 食糧危機はこない、という議論は日本語世界でよくみかける。 英語人でも同じことを言うひとがいるのかも知れないが、ぼくは見たことはない。 放射性物質の害などたいしたことはない、程度の問題だ、という議論も日本語では声がおおきいが、英語では「札付き」のひとが述べるのを目にすることがある程度なので、 自分が住んでいる世界には悪いことは決して起こらない、起こったという人は頭が悪い怖がりか悪意のひとである、というのは日本語を使って考える人たちの言語族的な強い傾向なのかもしれません。 食糧危機がなぜ起こらないかというと、食料が限定要因になって人口が抑制されるからで、従っていつも食料は足りているはずである、という。 なんとなくもっともらしいところが、放射能議論でもそうだったが、こういう説を成すひとの可笑しいところで、「なぜ人間は絶対に死んだりはしないか」について滔滔と説明する5歳児を思わせるが、この手のひとはこういうと色を成して怒るに決まっていても、相手の肩書きが物理学者であろうが医学者であろうが、「話すだけムダ」と感じる。 「なぜムダなのか」をこのブログの記事で書くのでもなんでもいいから、書いたものを通じて話すほうが理性的でもあれば生産的でもあるようです。 現実にはいまの世界は食糧危機の時代にもうはいっている。 「Food is Ammunition- Don’t waste it.」 http://www.ww1propaganda.com/ww1-poster/food-ammunition-dont-waste-it は、日本で言えば「欲しがりません勝つまでは」だろうか、第一次世界大戦の有名なプロパガンダだが、事情をよく知っていればもういちどこの標語を復活させたいほど、 食料は乏しくなってしまっている。 えええー? どこの国の話だよ。うちの近くのスーパーマーケットに行くと、食べ物は山のように積んであるぜ、オーバーなこと言うなよ、と口を尖らせてきみは言うであろう。 でも、食べ物はないのよ。 これから説明できるところまで説明してみようと思う。 GMO (Genetically modified oraganism)は、だいたい1990年代から商品化されてきた。 遺伝子組み替え工学が、安い賃金での長時間労働を厭わない労働文化と高い品質に支えられた日本の自動車・家電の大攻勢を受け止めきれなくなったアメリカ産業界の次期のエースとして、CPUなどの高集積チップと並んでテレビ番組でもてはやされだしたのは、フィルムを観ているとブッシュシニアが大統領として仰々しくモンサント工場を見学していたりするので、1980年代半ばだと思われる。 モンサント社がPosilacという商品名で、rBGH、(乳牛から大量のミルクを搾り出すための)ボーバインホルモン http://en.wikipedia.org/wiki/Bovine_somatotropin を商品化したのが1994年。カナダで有名な、Margaret Haydonたち3人の科学者の公聴会が行われたのが1998年で、このあたりから「食品の工業製品化」が進み出したのが観てとれる。 突然変異体を生産効率をあげるために食品に応用する科学の歴史は古くて、1920年代に遡る。 米のCalrose76はガンマ線の照射で作られたし、小麦の品種AboveやLewisはそれぞれアジ化ナトリウムと熱中性子で生成された。 熱中性子(thermal neutrons)と言えば、グレープフルーツのRio RedやStar Rubyもそうである。 容易に想像がつくことだが1953年にJames… Read More ›

  • プラスティックミート文明

    (2015年5月26日に「ガメ・オベール日本語練習帳ver5」に掲載された記事の再掲載です) すべてはマクドナルドから始まった、と言ってもよい。 失敗しては職を転々とする絵に描いたような52歳の人生の失敗者レイ・クロックは、乾坤一擲、5種類のミルクシェイクを同時につくることが出来るという触れ込みのマルチミキサーをレストランに売り込むためにアメリカ中を旅して歩く。 どうも、この商売も、うまくいかないよーだなー、もうわしの人生おしまいでは、と思いながら、へろへろよれよれで立ち寄ったカリフォルニア州のサバーナーディーノの町で、このくたびれた中年男は不思議なものを発見します。 めだって清潔なレストランのカウンターに腰掛けてふと厨房を見ると、妙にたくさんの、妙に若い調理人たちがいて、よく観察すると、パテを鉄板に置くだけの人、ピクルスとレタスを並べる人がいて、それを組み立てる人がいる。フレンチフライを揚げるだけの高校生がいて、揚がったポテトを規格化された袋にいれてトレイに並べている。 規模もおおきく客の数も多いのに、メニューは大胆なくらいの品目の少なさです。 T型フォードと同じやりかたで殆ど正確に同じハンバーガーを大量生産するこの傑出したシステムを考え出したのはモーリスとリチャードのマクドナルド兄弟で、このハンバーガー組み立て工場とレストランのセットは、やがてレイ・クロックの手で世界中に広がってゆく。 http://kottke.org/13/03/early-mcdonalds-menus 大成功するビジネスに必要な要素は「遠くにあるふたつの要素を結びつける」ことだが、マクドナルド・ハンバーガーは、本来相反する「食べ物」と「工業的生産効率」が、このふたつの要素にあたっていた。 先週、モニさんたちがショッピングに出かけてしまったので、ひとり淋しくNetflixで「Columbo」(邦題:刑事コロンボ)を見ていたら、わしガキの頃にはまだ完全に絶滅してはいなかった昔式のドライブインが出てきて、大層なつかしかった。 クルマをパーキングに駐めると、ウエイトレスのひとがやってきて注文をとる。 トレイはクルマのドアに引っかけられるように工夫されていて、クルマの座席に座ったままハンバーガーが食べられるようになっている。 ウエイトレスのひとびとがローラースケートでクルマからクルマへ滑ってゆくレストランもあったりして、楽しいシステムで、好きだったがマクドナルドの効率にはまったく勝てないようでした。 リカトンに最後に開いたドライブインレストランは一年もたなかった。 一企業と見くびると間違えるので、マクドナルドはアメリカでいうと、ビーフ、チキン、ポークの全米1,2を争うトップバイヤーで、この巨大なハンバーガー工場に部品を供給するために1950年にはトップ5社で市場の25%のシェアを持つに過ぎなかった巨大食肉加工会社は2008年にはトップ4社で80%のシェアを独占するに至っている。 数字を挙げたほうが規模を実感しやすければノースカロライナのターヒールにあるスミスフィールドの豚肉加工工場では一日32000頭の豚が屠殺されてベーコンやハムに化ける。 一方でマクドナルドのようなレストランチェーンは添加物の研究所を持っていて、コガネムシのような甲虫類を使って味付けをする方法や自然な肉色が出る色素、その色素を使うことによって生じる特有の化学物質臭を消臭するための添加物、さまざまな物質を研究している。 政府の食品安全機関が、ゆっくりではあっても次々に「危険添加物リスト」を更新してくるからで、リストに載っていない人工添加物を常に公的機関が発見してしまう前に開発しなければならないからです。 マクドナルドは本来農業産物である食品世界を工業に「進化」させてしまった。 ニュージーランド人などは正真正銘の「英語世界のイナカモノ」なので、東京やニューヨークのような地価も物価も高いはずの都会に旅行して、5ドルで昼ご飯を食べられるのをみると、ぶっくらこいてしまう。 Chili’sのような安さが売り物のファミリーレストランでなくても、たとえば、多分ハリウッドが近いせいで、注意してみていると頻繁にテレビドラマや映画で、職場の同僚の誕生日のお祝いパーティや、クリスマスの「飲み会」に出てくるイタリア料理店「Buca di Beppo」 http://www.bucadibeppo.com/restaurants/ca/anaheim/menu/dinner/ のようなレストランでも、(四人前以上の分量と書いてあるが)東京なら優に8人前はあるスパゲッティ・ミートボール(L)が$24ドルです。 4,5人のグループででかけて、ひとつだけ頼んでもパックに詰めて持ち帰ることになるパスタと、やっぱり安いがひどく不味いわけではないワインでおなかをいっぱいにしてから、ふと考えると、どうして、こんな安い値段で料理がだせるのだろう、と、不安というほどではないが、なんだか釈然としない気持ちが胸をよぎっていく。 クニじゃあ、こんなことは、ありえねーんだけど、都会は不思議なところだのお、とちらと思う。 もうひとつイナカモノの例を挙げる。 日本語の本を買うのに、世界一だと思っている日本の古書店で買うことにしていたが、あるとき、「ブックオフ」チェーンには、ときどき、とんでもない稀覯本が単純に定価の半額で売ってあることに気がついて、おもしろがって、クルマであちこちのブックオフにでかけてみたことがある。 病がこうじて、新潟の村上まで出かけた。 途中で寄ったKFCで野球帽をかぶって、ユニクロの上に「ワークマン」の作業着をひっかけた、いかにも不作法なおっさんが、若い女の店員に、おおきな声で文句を言っている、いやいや、文句を言っているのかとおもったら、声の出し方が下品なだけで、冗談を言っているもののよーでした。 「こんな鶏がよ、ねーちゃん、世の中にいるわけがねーだろ」 「こんな、あんたの足みたいに細っこい骨でよ、ねーちゃんと違って、こんなに胸がでっかい鶏なんて、いるわけがねえ」 でへへへ、と笑って店を出て行ったが、この強烈に下品なおっちゃんの述べたことをおぼえていて、あとで農家の人に聞いてみると、このおっさんは下品だが真実を述べていたので、アメリカの鶏舎で隠し撮りした動画をみると、「改良」に改良を重ねて消費者が大好きな胸肉をおおきくとれるようにした鶏たちは、ほとんど歩くことが出来ない。 のみならず毎朝、ぼたぼたと病気の鶏が床に死体になって数羽、転がっている。 この50年間の製品改良で、生育期間は半分で体重は二倍という優秀な「鶏というハイテク製品」が出来上がっているのでした。 イナカモノの直感どおり、食べ物が食べ物として栽培されているかぎりチェーンレストランのメニューの価格で食べ物が供されることがありえないのは、英語やフランス語の世界では「無数」とおおげさに言いたくなるくらいのドキュメンタリ映画・番組によって、広く知られていて、食べ物として成育されて市場に出てくる食品を食べようとおもえば、普通の、なあああーんとなく食べ物であるように装っている、トマト風味でトマトのようにみえるトマトの形をしたなにか、やベーコンに偽装してあるけど、ほんとうは燻製さえされていなくて、化学工場で薬品によって大量生産された、なんちゃってベーコンの三倍〜五倍のオカネを出さなければならないのは国内消費量の何倍も農産物やデイリープロダクトをつくっているニュージーランドでさえ事情は同じで、前にも書いたが、オークランドでいちばんおおきな「ファーマーズマーケット」で、野菜の出所をいちいち尋ねたら、半分以上が遙か遠くの中国からの輸入野菜で、笑ってしまったことがあった。 実際、2015年には3000万人を越えてしまうのではないかと言われている糖尿病患者を持つアメリカ合衆国 http://www.diabetes.org/diabetes-basics/statistics/ でいま起きていることは、ふつーのスーパーマーケットチェーンの店頭では、コカコーラの1.5リットルボトルが¢50なのにブロッコリはたった一個で$2の現実で、食品安全ドキュメンタリの古典、有名な「Food,… Read More ›

  • もうすぐ、三十八歳

    最近、ラッキー順風満帆が度を越しすぎて、脳が退化してきてるような気がする。 言語においても、最も適切な表現に、あっ、手が届く、というところで、するっと逃げられてしまう。 息が短い海女さんみたいなものです。 このごろのオーストラリアやニュージーランドのワインには、ソウルらしきものまで、やや備わってきて、おいしいので、アルコールの取り過ぎで大脳が萎縮しているせいもあるし、このごろエクササイズを怠っているので免疫が低下して、風邪をひきやすくなっているせいもあるかも知れないが、この「なにによらず92%くらいまでしかいかない」症状は、なにがなし、いらいらさせられる。 もっとも海に出て、陸影が見えないところまで行くと、突然、伸ばした手が100%にピタピタつくようになるので、なんだか陸の文明の瘴気のようなものがあって、それが体感されるようになったのかも知れません。 なんちて。 実際には、モニさんに肩を支えられて、ヘロヘロヨロヨロ、杖をついて歩いているようなものなのだけど、自分の頭のなかでは、ある日、ふいと「若い日々」に言葉にしないまま、そっと、別れを告げて、荒野の一本道を、小さなバッグも持たずに、ひとりでまだ見えない地平線の向こうの土地にでかけるようなイメージで自分を考えていた。 希望ももたず絶望もせず、ただ自分がなにを見ているのかだけ正確に理解しようと努めてきた。 普段、立ち寄った日本語ツイッタで、日本語の友だちと、ふざけて「写実主義」と呼んでいるが、なにも表現しない、なにも感想を持たない、ただ描写するだけの言葉を拾い集めようとしてきた。 わしが「全方位で専門知性的であろうとしている」と述べた人がいて、おもしろかったが、こちらは、日本語では四方山話をしに立ち寄っているだけであって、相手をする日本語人のほうも、少なくとも最近は、心得ていてくれるようです。 ただ駄弁りに来ている。 関心の対象が、(このあいだTLで話題になった)デカ目デカ胸ミニスカにあるか、 政府批判にあるか、認識と現実の関係にあるかは、人それぞれで、だいたい似た者同士は、似たようなトピックに興味があるので、カフェでも、バーでも、あるいはボートのコックピットでも、ツイッタでも、関心の対象は多岐だが共通して、会話というものは、もともとそういうものであるにしかすぎない。 コロナだし、ちょうどいい、というか、普段、友人達としているような話を日本語でもしようとしている、というところはあるかも知れません。 それも努めてそうしたいとおもっている、というのでもなくて、もう30代も後半なので、「自分でないことは出来なくなっている」というほうが近いでしょう。 わしなどは、むかしから、知的好奇心もたいしてなくて、なにごとかを究明する執念もなく、驚くべし、オカネを稼ぐための9to5な仕事をするのも昔から嫌いでやらないので、なんだか時々おもに数学を利用したアイデアを使って、自動金鉱採掘システムのようなものをつくりあげて、スイッチを入れて、ウイーンウイーンと動かしてオカネを得て、時間は有り余るどころか起きているあいだじゅうヒマなので、退屈してはみっともない、時間のフィリングみたいなものをレシピを見つけて料理しては、これは美味い、これはまあまあ、これは数河杉晋作だのと述べて、ひとり、悦にいっているだけの、どうみてもヒマツブシに生まれてきた人間にすぎないようです。 人間がこの世界に生まれてくる理由は、肉体の感覚器官で、この世界を感じるためなのだ、と考えることが好尚にかなっている。 魂や神や天使は、あるいは悪魔も、世界を理解することは出来ても感覚することは出来ない。 味覚、跳躍に伴う筋肉の躍動の感覚、身体全体で衝撃して、慄えるような性的感覚、中空に不可視の姿で浮遊して、半分、眠っているように、ものういガーゴイルの姿勢で世界を見つめている魂の数々が、ときおり流れ星のように地上に落ちていって、生誕の産声をあげている。 人間の言葉、ひいては知性は、どうやら肉体の感覚優先に出来ていて、 うんうん唸って、構造を考えて、パズルピースを当て嵌めるように精密に計画した言葉はダメで、水の表面に書いた文字のように、次から次に消えて、 手が魂を引き摺るように書き連ねた言葉だけが、世代から世代へ受け継がれてゆく。 バカな頭で考えて、やっとそれが判ったのが20年くらい前だったのではないか。 人間が「生涯学習する」というときの「学習」の内容は、言語の丘陵を歩いていて、あっ、この角度からだと世界はこういうふうに見えるのか、 この頂きからだと、こんなに遠くまで見渡せるのか、 世界を見る角度や、こういうときには、このくらいの距離をとって見るのがいい、というコツを学ぶ、という部分がおおきい。 あるいは興味があれば、sextantを使って自分が立っているところの歴史的な位置や文明群のなかの位置を知る方法も学ぶことができる。 「世界はいまもむかしも楽しい素晴らしい場所で、それが判らないのは何もしたがらない怠惰な人間だけですよ」と祖母は述べていたが、ほんとうのことで、自分でも信じられないくらいナマケモノだが、世界を楽しむことまではサボらなかったので、態度はいつもやさしいが、あれでなかなか考えには厳格なところがある、ばーちゃんにも、ちょっとくらいは勘弁してもらえそうな気がする。 無論、人間が持ちうる最大の才能は「幸運」で、人間が「成功」したり、幸福になっていったりするのは、自分の能力は5%もなくて、すべて運によっている。 例えば伴侶が自分に向かない相手だったりすると、人間の一生は、短くて一回性なので、取り返しがつかないダメージを受けてしまう。 その次が健康で、パワフルで強靭な体力を持つ人間の一生は、自分で言うのは酷いが、人間の一生という、特に若いときには苛酷な悪天候の連続なような、吹き荒び嵐のなかを、まるで天使が集まって推してくれているようなスムースな加速で、渡り切らせてくれます。 30代後半になると、この健康のエンジンの出力が低下してくるのが予感されるようになる。 どうしようかなあ、と、誕生日を、すぐ道の先に見て、木の切り株に腰掛けて煙草を一服する人のようにして考える。 これから、どんなことがやれるだろう。 残りは百年もないのだから、天地創造は無理です。 くだらない人間の相手をして、少しでも時間をとられるのは、もうそろそろ、是非、避けねばならない。 ほかに、なんにもやることがなければ、いまでもだいぶんエネルギーを使っている、日本の人が「偽善」だといって、とても嫌がる、チャリティに進むのが、もっとも気持ちの帳尻があいそうな気がする。 パッと考えても、いまのマイクロ金融には重大な欠陥があって、理論上の数学的なモデルひとつとっても頼りないどころか、のっけから矛盾した代物なので、改善して友人達や自分のオカネを投入すれば、例えばアフリカ大陸のどこかで飢えてうずくまっている子供たちを、もう少しは多く救える。 Greta Thubergのように、荒野を歩きながら、民衆に世界に迫る危機を叫ぶような役割は到底むりだが、いちばん自分が向かなさそうな地球温暖化問題に関しても、人間の友人間ネットワークを通じて、やれることは少しはありそうです。… Read More ›

  • 食べつくす明日

    日本語ブログを始めたばかりのころに、浅川マキについて、 浅川マキはすごい。浅川マキは、本物のブルースソウルを持っている、と書いたら、 「若いふりをしているけど、ほんとは、おやじなんですね。思わぬところで尻尾をだしましたね」という趣旨のコメントが、たくさん来て、びっくりしたことがある。 ひとりのひとなどは、在米日本人のようだったが、これを根拠に、およそ十年くらいも、おやじのくせに、ジジイのくせに、ツイッタにまで舞台を移して書いてきて閉口したものだった。 下卑た口調から、嫌がらせなのはわかりきっているので、それはそれで、どうでもよかったが、一方で、なぜ、このひとたちは、「古い曲を評価しているから年寄りだ、と考えるのだろう?」と不思議で仕方がなかった。 自分の頭のなかでは、「同時代のものしか評価しない」ということが当然のことではなかったからでしょう。 音楽についてが特に多くて、有り体にいえば、いまでも続いている。 ザ・クラシックス、という。 子供のときに何週間か過ごしたハーバード大学があるマサチューセッツのケンブリッジという町で大学生の女の人たちが教えてくれた、あの大学の隠語です。 モータウン・ミュージックのことで、大学自体が自分たちの文化を誇りにおもい、伝統を大切にするので、いまでも通じるのではないか。 週末になると、近所のピザ屋に出かけて、しこたま食べてから、ボストンの下町に繰り出して踊り狂う大学生の、当時の自分から見れば、おにーさんやおねーさんたちは、 愉快な上に親切な人たちで、アメリカの歴史や社会を伏線にしているせいで、こちらが冗談をわからなくて、ひとりだけ笑わないでいたりすると、必ず誰かが、伏線のありかを教えてくれる。 その聡明を絵に描いたようなおにーさんやおねーさんが、ペーパーチェイス文化に追われながら、ときどき息抜きに踊りに行くときにかかるナンバーが、ザ・クラシックスを中心に、ビーチボーイズ、チャック・ベリー、モンキーズまでかかって、新しい曲もかかるだけれども、自分たちより古い世代が生みだしたもののなかから、良いと信じるものを選び出して、楽しんで、徹底的に守っていこうとしているのが、態度から感じられた。 だんだん、事情が判ってきて、日本語で最もがっかりするのが、これで、 なにしろ古いものは価値がないと思い込んでいる。 テンプターズの「エメラルドの伝説」を成田からクライストチャーチに向かって飛ぶときには、手続きのように、無料バスに乗って、ゲウチャイへ行って、部屋に戻ると「湖に ぼくは魅せられた」を聴いて、ああ、また日本に来られたなあ、と思うのが楽しい習慣だった、と書くと、またお馴染みの「歳がわかりますね」が来るので、終いには、読む人の、嫌な言葉だが、知的水準が急に随分上がった最近まで、めんどくさくなって書かなくなっていた。 音楽だけではない。 乾坤一擲、乾も坤も一擲して、と書くと、 あ。やっぱりジジイだ、こんな古い日本語を書くのに若いわけがない 欣喜雀躍、と書くと、ジジイのがばれるのに、難しい言葉を書いて、頭がいいのをひけらかしている、と来る。 恐るべきゲスな性根で、ゲスな上に、そもそも自国の文化を大事にする気がないんじゃないの?と、こちらはおもう。 日本語のなかの、あちこちで、燦めくような美しさを放ちながら、生き残っている、豊かな表現や、おもしろい言葉を、自分の書くもののなかで使ってみるのが最大の楽しみで日本語を書いているのに、その表現を包み込むために、自分ではよく考えたつもりのスタイルを採用すると、 「やっぱりジジイだ」と集まってきて囃子にかかる。 で、どんな日本語が新しいのかというと、 〇〇さんの言葉に癒やされました。 XXさんのツイートは、いつも気付きが得られて、感謝の言葉もありません。 その一方で、文章を少しく公式に見せたいと、「官邸にて歓迎会を…」で、「にて」で、煮ても焼いても食えないブキミな表現を弄んでいる。 日本語人の社会でなにかをつくるということは正当な評価は絶対に期待できない、ということです。 Donald E. Scottがショーペンハウエルの言葉を引用している。 All truth passes through three stages: First, it is… Read More ›