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  • 水の映像

      この記事は2011年3月13日に「ガメ・オベールの日本語練習帳 ver.5 」に掲載された記事の再掲載です     CNNで見た内陸に向かって速やかに広がるツナミの映像が頭から去ってくれないので、嫌気がさして、 CBDのシビックシアターにThe Manganiyar seduction を観に行った。 あの殆ど滑らかにすらみえる水の広がり、やすやすと内陸をめざして広がってゆく水の広がりの下で何百あるいは何千という人間が自然の力で殺されてしまったのだ。 レポーターの声も泣いていたが、観ている人はみなあまりのことにショックを受けて押し黙ったままだった。 ツイッタでクライストチャーチの地震を観て、「災害など、もともと観る側にとっては、ただの楽しむためのショーである」とわざわざ言いに来た日本人がいたが、ああいう人にとっては、破壊がこれほど大がかりになれば、ますます興奮させられるショーだったのかもしれないが。 日本にいて日本語が出来ない友人たちのためにフォーラムの一部を開放した。 日本語情報をチェックしてメールでの質問に答える。 医者の友人達が加わり、地震の専門家の友人が加わり、…というふうに、あっというまに、いつもは悪態をつくのが専門の友人達が、あまり馴染みのない名前の(わしの)友人達の質問に答えている。 あっというまに知識ということに関しては無限にパーであるわしなどは不要になってしまう。 電話がかかってくれば、それに応える。 しかし、電話のほうは、もともと大した危険のなかった東京の友人が多かった。 たいへんだった、たいへんだった、と言いながら、よく訊いてみると電車がなくなったのをよいことに、そのヘンの浮浪者のおっちゃんや名も知らぬ女や男の会社員たちと酒盛りをしていたのであって、「たいへん」なのは二日酔いの頭痛らしかったりした。 言葉が出来ない国での災害は、ひどい孤立感に悩まされる。 お腹に子供がいるイギリス人の女の友達は、東京にいるが、風向きが変わっても大丈夫か、という。 むろん原子力発電所の事故のことを訊いているのだろう。 当座は30キロ以上離れていればとりあえずは大丈夫と思う、と答えたが、未来の母親としては何百キロ離れても、ほんとうは不安だろう。 実際、しばらく考えているようすだったが、「交通渋滞がひどいが南にいけるだけいってみる」と言っていた。 そういうことがあったあとで、モニとふたりで The Manganiyar seductionに行った。 The Manganiyar seductionは、北インド、Jaisalmar, Barmer, それにJodhpurがあるTharの砂漠地帯のムスリムたちのビッグバンドが演じるパフォーマンスで、 その中休みなし90分の、パワフルで圧倒的な演奏は楽しいものだった。 誰でも知っているとおり、北インドの人々は中東や近東、トルコや、最近ではアフリカの人々ととも音楽世界を共有しているが、 西洋の音楽とはまったく異なるが素晴らしい構成力、機知、太古の文明がもっていた感情に現代人を力ずくで引き込む力において、畏怖すべきものがあると思う。 なんの脈絡もないことだが、The Manganiyar seductionの砂漠のにおいのする音楽に身を任せているあいだじゅう、わしはニュージーランドと日本の地震のことを考えていた。… Read More ›

  • 雨に濡れる自由

      この記事は2011年5月27日に「ガメ・オベールの日本語練習帳 ver.5」に掲載された記事の再掲載です   1 人間の頭のスイッチの入り方というのは、訳がわからない、というか脈絡がない、というかなんのこっちゃというか、不明なスタートの仕方をする。 「War Horse」という芝居のことを考えていたら、いつのまにか戦争のあれこれを考えることになってリデル・ハートのことを考えていたはずなのに、日本式居酒屋の前を通って日本語も見た瞬間に、考えは、突然、「セシウム137はもしかすると乳腺に滞留するのではないか」という誰かの話にとんでいってしまった。 セシウム療法やチェルノブリでの反芻動物の記録が混線しているのに決まっているとすぐに気がついたが、ナスやもちこはん、優さんやジュラさんや仙台の「とら」さんのことを考えて不安でいてもたってもいられなくなってきてしまう。 うーん、あれは、どこで見た知識だろう、どんな話だったろうとずっと考えていて、午ご飯を食べに行くレストランに着くまで考え込んでしまった。 乳腺に滞留するとすれば成人だって女のひとびとは無事ですむわけがない。 子供の感受性でのみ低放射線障害があらわれる、という話ではなくなってしまうからです。 レストランはラファイエットにある気楽な店であって、いま確かアメリカと連合王国の両方で16週間ヒットチャートのトップを占めているアデルが、マンハッタンにいるときには毎日のようにやってくる店です。ごくごく自然にしていられるひとのようで店のひとにはたいへん評判がよいようだ。 午後3時ともなれば他に客もいないので、顔見知りのアフリカンアメリカンのねーちんウエイトレスと、よもやま話をした。 モニは「ガールズデイ」でお友達とでかけちったのでいないのよ、とか、 21日の「世界の終わりの日」にはどうしていたか、 ユニオンスクエアの近くに出来たノードストロームのアウトレットて、めちゃくちゃ安いんだぜ、 あのワイン店で働いているおじいちゃんはアンディ・ウォーホルの愛人だっっという噂のあるひとなのを知っていたか。 そーゆえば、アンディ・ウォーホルは「Society for Cutting Up Men」を名乗るおばちゃんに銃で撃たれて重傷を負ったことがあった。 「表面だけ見てくれ」とゆったのは、内面は砕け散ったガラスのようにもう残っていない、と感じたからだった。 そういうことを知っているヴィレッジのひとたちがいまも彼をその内面ゆえに愛しているのはなんという皮肉なことだろう。 60ドルの食事にチップをいれて80ドル払って、戸口にもたれかかって葉巻をくわえたねーちゃんが退屈そうに店番をしているギャラリーに寄って帰ってきた。 それは、(多分)微生物のイメージでつくられた極彩色の造形がコンピュータの画面のなかをゆっくり動きまわる、なかなか感じのよい展示であって、値札の25000ドルを払う気はしなかったが、のんびりするには良い展示でした。 「さんきゅ」とゆって店をでかかったが、急におもいついて、 「セシウムって、知ってるかい?」と訊いてみた。 「セシウム? なに、それ、クラブの名前かなにかなの?」 笑うと以外なくらい幼い顔になるねーちゃんは、にっこり笑ってこたえておる。 「雨と一緒にふってくるのさ。たまらないと思わないか。そんなことがあっちゃいけないんだ」 「?」 ねーちゃんは、ひょっとするとこのバカでかいにーちゃんは発狂しているのではないかと思ったに違いない。 まだ、わしを見つめてにっこり微笑しているが、心なしか微笑が凍り付いておる。 「じゃ、またね」というと、やっと安心したように、 「よい午後を」という。 別に信じてくれなくてもよいが、バカわしは涙がでてきそうになるのをこらえるのに苦労した。 雨に濡れる自由すらない国で、これからあの国のひとたちはどうやって生きていくというのだろう。 ガメは涙が出てきそうになると襟を立てる癖があるといつもモニに笑われるが、… Read More ›

  • ピエモンテの畦道

      この記事は2013年6月15日に「ガメ・オベールの日本語練習帳 ver.5」に掲載された記事の再掲載です。   アウトレットへは意外に遠くて片道で100キロ近くある。 運転しているのはウクライナ人のAで、助手席にはAの奥さんLが座っている。 情報工学に進路を変えて修士号を取る前はダンサーだったAが運動神経抜群でクルマの運転が上手なのは経験から判っているのでモニとわしは後部座席でのんびりシャンパンを飲んでいる。 イタリアのドライバーは相変わらずで、状況に関係なく反対方向車線を突進してきたり、一時停止のはずの脇道から飛び出してきたりするが、Aは持ち前の反射神経で、悪態をつきながら、それでもモニとわしが安全と感じる巧さで運転してゆく。 ミラノ空港を過ぎてしばらくするとピエモンテにはいった。 ロンバルディアとは打って変わった美しさで、へえ、と思います。 美しい田園風景を見たとたんにバローロという人口500人に過ぎないイタリアでも最小の「コムーネ」がピエモンテにあるのを思い出した。 ワインで有名な村で、イタリアのワインの代名詞のように思う人もいる。 しばらくして両側が森林になると、風景はモニの母親の別荘が立つ湖のあるパリの郊外に似てくる。 ウクライナ人夫婦が嘆声をあげるので、「どうしたんだび?」と聞くと、 「ウクライナにそっくりの風景なんですよ、この道」という。 ウクライナと聞くと一面の麦畑のところどころに油井があって、道路の脇に3号戦車のまだ煙をあげている残骸が点々としているというドアホな風景しか思い浮かばないわしは、 へえええー、という気の抜けたマヌケな相づちを打つのがやっとである。 コモのあたりではあまりみかけない広大なヴィンヤードやオリブの林がみえて、ピエモンテは結構綺麗な土地だのお、とモニに述べていると、びっくりしたことには広大な水田地帯がみえてきた。 初めは半信半疑だったが、少しいくと道の両側に水を満々と張った美しい水田の広がりがすぐそばに見えて疑いの余地がない。 まるで、日本のようだ、とモニがつぶやいている。 日本になど、これっぽっちも関心がないウクライナ人夫婦は、「日本は米しか作物がないって、いいますものね」という。 それに日本の農民には移動の自由がない、とAの奥さんのL、いや、それとも選挙権がないんだったっけ?というとAが運転しながら、移動の自由はあるよ、たしか選挙権が与えられてないんだよ、と応えている。 ここは日本に似ているなあ、とふたりの会話を遮るようにモニがいう。 わしも、ほんとうに似ている、という。 ウクライナ人夫婦がびっくりしたように、「日本て、こんなに綺麗な国なんですか?」と振り返って聞いている。 畦道をひとりの老人が歩いていくのがみえる。 小さくて、腰をわずかにかがめていて、日本のひとのようです。 ひょこひょこといえばいいのか、人形のような歩き方といえばいいのか、 歩き方まで日本のひとに似ている。 あのひとはフクシマの事故をどう考えただろう? と唐突なことを考えた。 どうとも思っているわけはなくて、フクシマのことを知っているかどうかも怪しいが、しかし、イタリア人だけは、そう思ってくれていなければいけないような(というのは言い方がヘンだが)気がしたのは、ついさっきのウクライナ人たちの選挙権や移動の自由への誤解が頭に残っているからでしょう。 ミツバチの巣箱が見えたところで、ウクライナ人夫婦が、ウクライナの蜂蜜がいかにうまいか話し始める。 モニがイタリアの蜂蜜もおいしいぞ、種類も豊富で、わたしはエミリアロマーニャでchestnutの蜂蜜を生まれて初めて食べた、と述べると、英語が得意のウクライナ人夫婦であるのに「chestnut」が判らない。 castagnoのことだよ。ロシア語ならкаштан というと、「ああ、カシュタン!」と言って喜んでいる。 あれから蜜がとれるなんて知らなかった。 ウクライナ語でもほぼ同じという。 ウクライナは面白い国で500キロしか離れていないのにAはロシア語で育って奥さんのLはウクライナ語で育った。 そうであるのに、あるいはそうだからなのかもしれないが、Aはロシアが大嫌いで奥さんのLは「ロシアにもいいところがある」という。… Read More ›

  • フクシマのあとで

        この記事は「ガメ・オベールの日本語練習帳 ver.5」に2011年5月18日に掲載された記事の再掲載です 1 ジョイスシアターに行った。 http://www.joyce.org/ ジョイスシアターは、わしのアパートから歩いて5分もしないところにある小さな劇場です。 小さいが座り心地の良い椅子があって、寛いだ雰囲気である。 PAがちょっと古いが、アポロシアター https://gamayauber1001.wordpress.com/2011/04/10/1976/ よりは、マシである。 マーサ・グラアム ダンス・カンパニー(Martha Graham Dance Company)出身のRamon GuerraがつくったDanza Contemporanea De Cubaは、Sadler’s Wells and the Coliseum TheatreやバルセロナのMercat de las Floresでも公演するが、ニューヨークでは、このジョイスシアターにやってくる。 この頃は3月には、ハバナまでまずインストラクターと一緒に旅行して、Danza Contemporanea De Cubaの日常を観て、それから公演を観る、という面白いこともやっているよーだ。 公演そのものは、いつものDanza Contemporanea De Cubaの、洗練されているとはいえないが、性的暗喩と雄大な肉体の躍動に満ちた三幕ものであって、特に三幕目の、人間が陥る「情熱の地獄」とでもいうべき世界を描いたダンスが素晴らしかった。 激しい諍いに明け暮れるカップル、絶望のなかで暴力をふるいあうゲイのふたり、そういう、人間にとっては見慣れた光景がフリージャズにのって、ほとんど裸体のダンサーたちによって繰り広げられる。 モニは乳房まで見せるヌーディティは不必要だ、というが、それには舞台と客席の距離をゼロにする効果があったと思う。 ツイッタの友達はみな知っているように、ひどい風邪で「ぐるぢい」と思いながら、わしはカンドーしました。 どうも、キューバの人というのは何をやらせてもかっこいいな、とバカなことを考えた。 革命ですら。… Read More ›

  • 三番目にやってくるもの

    インターネットに代表される情報共有システムの発達は、事態の進行を遅延させる効果がある。 最も良く判るのが株式市場で、情報共有がここまで発達していなければ、この30年間でも、3回は恐慌になる契機があった。 スタニスラフ·ペトロフがいなければ1983年9月に世界が滅亡していたのは、多少でも世界の安全保障に関心がある人なら誰でも知っている。 大韓航空007便をソ連の戦闘機MiG-23Pが撃墜したあと、間もない、Able Archer 83のあとの西側諸国とソ連のあいだの緊張が最大に高まった時期にソ連の監視衛星がアメリカから打ち上げられた1発の大陸間弾道弾(ICBM)がソ連に向かっているのを探知する。 手続きに従えば、自動的にアメリカに向けて、同じく核弾頭を装備したICBMを直ちに打ち返さなければならない。 当然、こういう場合はクレムリンの許可はいりません。 緊急手続きとして定まっている。 ところがセルブコフ15バンカーで当直にあたっていたソ連の戦略ロケット軍中佐スタニスラフ·ペトロフは、反撃プロセスを独断で勝手に停止してしまいます。 コンピュータの誤警報だと判断したのね。 根拠ですか? 長いあいだ防空軍将校として働いてきたスタニスラフ·ペトロフの「勘」でした。 そのあと、もう4発のミサイルがダメ押しのように監視衛星によって探知されるが、スタニスラフ·ペトロフは、これも黙殺してしまう。 インターネットがない時代には、お互いの様子をスパイと想像力で憶測するしかなかった。 妄想は膨らんで一触即発になっていたところにミサイル警報が二度も立て続けに発せられたので、あとで、クレムリンと将軍たちの激怒を買って懲戒処分を受け、左遷されて、精神疾患を患って、不本意な人生を送ることになる、この気の毒な英雄がいなければ、世界は放射性物質で満たされた荒野になっているところだった。 現代では情報の共有が進んだので、こういう破局的な事態は避けられることになっている。 株式市場が大恐慌に陥る条件をすべて備えても、現実には大幅な株価の下落程度ですむのは2008年のリーマン危機でも判るとおりです。 その代わり、破滅は、ゆるやかに、極めてゆっくりと、低速前進で進む巨大な船のようにやってくることになった。 一見、進行していないように見えて、いつのまにかポジションが変わっていて、しばらく目をはなしていると、予想もしなかった直ぐそばにいる。 世界は、いまのところ、あきらかに第三次世界大戦に向かっている。 世界大戦の最も基礎的な条件は、スーパーパワーを持つ大国が別の国に取って代わられるときや、スーパー大国に挑戦者があらわれるときで、 人間の歴史を見ていると、ローマの昔から、避けられないことであるようです。 いまはどうか。 言うまでもなく、千年王国どころか、紀元前から最も富裕で、自他共に認める世界一の大国である中国が、高々200年の低迷を終えて、アメリカ合衆国に取って代わり、今回は「中華こそが宇宙」の中華思想に満足せずに世界を支配する意欲を公言している。 挑戦者として、まず、彼らの定義による国内、すなわち、香港や台湾を「中国的価値」で統一して、「自由」という疫病が蔓延する心配がなくなったところで、敗戦の結果、一個の国全体が自律的な機能を完結して持つという、史上かつてなかったほどの理想的な巨大基地として、太平洋進出が悲願の中国政府の、目の前に立ちはだかっている日本を打倒する段階まで、あと20年ほどのところまで来ている。 中国の立場からすれば、その過程で起きる各所での紛争を、戦争と呼びたいなら勝手に呼んでくれ、ということでしょう。 一方では北方戦争以来の文脈に従って、北欧への膨張を目指すロシアの運動がある。 「ウクライナ侵略は自国の防衛のためだ」というプーチンの理屈は、デタラメにしか聞こえないと評判が悪いが、本人は実際に言っていることを信じているはずで、「隣接国を緩衝地帯とする」ロシアの自国安全保障の前提から言えば、ウクライナの西欧化、ましてNATOへの加入は、到底、受け入れられないものです。 歴史的にロシアの国家的思考を最も理解しているのはスウェーデンだが、この国が2017年だったかに徴兵制を復活し、名指しで「我々は ロシアの進攻に備えなければならない」と述べたのは、口にしない、確かな情報を手に握っているからに他なりません。 ついでに、では酷いが、主に国民からの支持をつなぎとめるために 「アメリカの恐喝に屈服して手放した」クリル諸島や、我々には北海道を統治する権利があるとまで述べる極右を黙らせるために、日本の北方で小競り合いを演出して「勝ってみせる」ことすら、まったく有り得ないとは言えない。 日本の人は、いつものことで、冷笑するに決まっているが、ロシア人の若い人と話せば、すぐに判る、日本で言う「北方領土」はロシアの公式見解は「過去に日本によって強奪された領土」で、日本側と、ちょうど話が逆さまになっている。 インドのカシミールは「世界の火薬庫」と言う。 現実に世界の地域のなかで武器と弾薬が最も集積されている地域がここであるからで、ヒンズー過激派が有名だが、それに対抗するイスラム過激派、 パキスタンとインド双方の軍部内強硬派が、日夜、睨みあっていて、一触即発どころではない形勢です。 アルンダティ·ロイの講演会は、通常、集まったインド系人との質疑応答に長い時間が費やされるが、見ていると、インドの人びとが、いかにグローバリズムが世界大戦へと世界を引き摺っていこうとしているか、感得して、恐れと怒りを抱いているか実感できるが、英語世界に住む英語人がカシミール危機について安穏としているのは、単純に無知だからであることが、よく判ります。 切りが無いが、南シナ海には中国が人工要塞島をつくり、オーストラリアはアメリカと同盟を強化して、軍事費を倍増して、ダーウィンは巨大な軍事拠点としての体裁を整えようとしている。 ヒマラヤを挟んで人民解放軍とインド国軍の小競り合いも続いている。… Read More ›

  • 神のいない経済社会について_ゾンビ経済篇

    (この記事は2016年1月7日に「ガメ・オベールの日本語練習帳 ver.5」に掲載された記事の再録です)     ニュージーランドは、繁栄の頂点にある。 社会全体が見る見るうちに豊かになって、ひとびとの身なりはオカネのかかったものになり、高級住宅地の交叉点に立っているとマセラティやフェラーリ、ベントレーが何台も走り抜けてゆく。 マリーナに行けば、おおきなバースの列には数億円という価格のブルーウォーターを航海できる55フィート級のボートが並んでいる。 身体障害のある子供を抱えた若い母親は、大量に市場に流入したUSドルのために15年で価格が270%上昇した家を買えず、高騰した家賃も払えないせいで、空き地にテントを張って自分と子供2人、計3人の家族で暮らしている。 ゴミが一面に散らばった土地の一角で、それでもテレビの取材があるからでしょう、 せいいっぱい身ぎれいにした赤い頬の男の子がはにかんで立っている。 別のインタビューでは、倉庫で在庫管理や出庫の仕事をしている夫の年収は手取りでは18200ドル、日本円になおすと、1ドル80円として、146万円にしかすぎない。 ところで、一家が借りている小さな家の家賃は、どのくらいかというと、この人の場合、年間で16000ドルで、つまり、信じがたいかもしれないが、収入の90%が家賃に消える。 おおげさに驚く必要はなくて、たとえばバルセロナでも、シドニーでも、こういう家計はふつーのことです。 食費は、妻が、ふたりの子供の育児をしながら、苦しい家計の足下を見るような低賃金で、時間給労働をして稼ぐ、日本とおなじでスーパーマーケットのレジ、というような仕事が多い。 もともとひとりあたりの年収は、常に5位以内にあった「豊かな国」ニュージーランドは、50年代の後半から、端的に言うとジーンズが普及してウルが売れなくなったことと、途中で「本国」の連合王国の経済的保護を失って、「あとは自分で勝手にやってくれ」と突き放されたことで、急速に没落して、英語圏のなかでは例外的なビンボ国になってゆく。 にも関わらず1980年代のなかばまでは「ワーキングプア」が存在しない稀な先進国でした。 ビンボはビンボなりに幸福に暮らせる社会だった。 国民の大半を占める「中間層」と極めて高い所得税を社会に対する責任の一端として黙々と支払う富裕層、そして、そのふたつの層から流れ落ちてくるオカネで再起をめざす失業した貧困層、という形の社会だった。 「仲間意識」が異常なくらい強い社会で、連合王国もサッチャーが出てくるまではおなじだったが、お互いを助けあうことそのものに社会の役割が集中していた、と言ってもいいかも知れません。 NZ$の価値は、1983年を起点に考えると30年で3割減になっている。 20ドルで買えたものが、30ドルださないと買えない。 その間、賃金は、頼りなくヘロヘロと上昇しただけです。 ニュージランドの典型的な30代のカップル、大卒で、子供がふたりいて、住んでいるのは一戸建て、というようなカップルは収入が900ドル/週、つまり年収にして47000ドルであるはずで、この収入は、この6,7年はあまり変わっていないはずです。 テレビの番組のなかでは、この7年間几帳面に家計を記録しつづけてきた夫が、エクセルのシートを指さしながら説明している。 2004年には3400ドルだった食費が2012年には8580ドルになっている。 1850ドルだったガソリン代は、おなじ8年間に3420ドルに上昇した。 だいたい、NZ式定義の「中流」の、どのカップルに聞いても、あと週1000ドルあれば、オカネのプレッシャーを感じずに暮らせて、少しは貯蓄もできる幸福な生活が出来る、と感じているようです。 この感覚は物価の上昇にあわせて賃金が上がるのならば「こうでなければならなかった」賃金上昇の、現実には起こらなかったプロジェクションと、ぴったりあっている。 1950年代を通じて、続々とイギリス人たちがニュージーランドに移民していったのは、「ニュージーランドに行けば、マジメにこつこつ働きさえすれば一戸建の家が買えて、子供たちが裏庭で駆け回って遊んでくらし、大学まで行ける暮らしができる」というイギリスでは有り得ない夢が実現できたからでした。 最も近い隣国のオーストラリアまで2500キロという、当時は致命的ともいえる距離に隔てられた孤絶した小国で、しかも産業が牧羊以外にはなかった国で、みながイギリスの中間層以上の生活ができたのは、簡単にオカネの面でいうと税金の66%が国庫に入る社会だったからです。 いまではグローバリズム経済のなかでオカネの流通も国際化しているので実体がまるっきりつかめないが、ビクトリア大学のリサ・マリオットなどは3割程度しか国庫に入っていないのではないか、という。 Struggling classという。 1950年代や60年代ならば「国民の大半」という言葉を使えた中流層のことで、いまは数もぐっと減って、おまけに階層として安定したものとは見做されなくて、この国にはかつては存在せず、いまでは経済全体を支配している超富裕層にとどくことは望めなくても、富裕層をめざして必死にstruggleして、運がよければ富裕になり、でも半分以上は、そこから貧困層におちてゆく過渡的で流動的な「中間層」になってしまっている。 煉獄、と言えばいいのか。 ニュージーランドでは、国民の貧困と富裕への二極分離が起こり始めた原因は、30年前のマルドゥーン首相の頃でした。 「Think Big!」という。 国民が総活躍して、全力をだしきれば、自分達は一流国に返り咲ける。 ニュージランドは再び、豊かな、美しい国をめざすべきである。… Read More ›

  • 日本の衰退 1 低賃金と国家社会主義経済

    (この記事は2020年6月19日に「ガメ・オベールの日本語練習帳 ver.5」に掲載された記事の再掲載です) 日本の人は自分達の過剰な従順さで窒息死しかけている。 頼まれもしないのに、わざわざお節介を焼いて、よく考えてみるとたいして縁があるわけでもない他国の社会や経済の欠点を述べてみても仕方がない。 安倍晋三さんを首相に選んでしまったときは、さすがに慌てて、あんな人を選んでしまったら日本という国の基礎から掘り崩されて衰退から回復できなくなる、と考えて、なぜ安倍政権を成立させるとたいへんなことになるか、たくさん、無我夢中で記事を書いたが、あれから8年近くたって、予想通り、というか理屈どおり、日本は一見してみえない基礎工事にあたる部分がぶっ壊れて、これから、どうやったって、こうやったって、おいそれと立ち直るというわけにはいかなくなっていて、いまさら日本の根本的な問題について書いても仕方がない。 ふたつの「仕方がない」によって、書かないで来たが、たまには書いてもいいような気がしてきたので書いてみます。 日本の社会の、目を覆いたくなる、ちょっと傍目には信じられないよう凋落と低迷は、みっつの理由によっている。 ひとつは社会の高齢化で、これは投資や経済の世界を生きている人なら誰でも知っているが、地面にめりめりと崩落してゆくアッシャー家みたいというか、おなじことをやっても、振り子がいつもネガティブなほうに揺れる。 おなじ20%の成長を達成するのに200倍くらいエネルギーがいる。 しかし、例えば60年代におなじ問題を抱えて大低迷を迎えたフランスのように、苦労した先人の社会がいくらもあって、その例を検討して、移民政策やそのほか、なにが政策として有効で、なにが無効か、すでにわかっていて、切羽詰まれば、なにもしないためならなんでもする日本の人の社会も、よっこらしょと腰をあげて、解決に乗り出せば、またまた例を挙げるとニュージーランドではおよそ20年で解決している。 二番目には女の人が、本質的には近代以前の立場におかれていて、本人にとって最も苛酷な地獄だが、社会の側から見ても、簡単にいえば人口の半分が本来の生産性を発揮できないので、人口一億と言っても、5000万人のパワーしかもっていない。 これは、みっつの問題のなかで最もおおきな問題なのだけれども、文明的な根が深く規模がおおきいので、また違う機会に記事を書くとおもいます。 ここで書いておきたい問題はみっつめで、いまのところG7のなかでは日本だけの特殊問題、慢性的な低賃金社会であることです。 いつかCOVID前の町で、同じ職場の人なのでしょう、日本からの若い人とスウェーデンから来た若い人が、話しているのがカフェの隣のテーブルから聞こえてきたことがある。 日本の人が、話のなりゆきで、時間給を問われて、「一時間15ドル」と応えたら、ふたりのスウェーデン人に、プッとふきだされて、気の毒にたいそう傷付いた顔になっていた。 NZD15ドルは、USD10ドル、日本円で1100円というところなので、日本の若い人が特に安く見積もって時間給を述べたわけではなさそうでした。 なぜ、そんなに安い賃金で働くの? と言われて、顔を真っ赤にして、自分達もおかしいとおもっている、でも、みんなそういう金額で働くから仕方がないんだよ。 低賃金が消費市場の縮退をまねくのは、子供どころか、犬さんでも、よく納得がいくように教えてもらえればわかる理屈で、だって、そうでしょう? オカネがないんだから、ものが買えない。 消費行動とサバイバル行動の区別もつかないようなコンビニで弁当の価格をにらみつける暮らしになってゆく。 一方では、いまでも忘れられないイタリア料理店主との会話があって、日本では超高級とみなされる、そのイタリア店主が、客がすくないのを見計らって、いつもそうするようにテーブルの側にやってきて、お元気でしたか、に始まって、よもやま噺をしていく。 「歳よりがいくらカネをもっていても、ダメなんですよ」と、自分が70歳を越えている気楽さなのでしょう、あっさり言う。 「わたしの店のお客さんも、毎晩ご夫婦でやってきていたような方でも、一度どちらかが大病をしてしまうと、もういけなくて、日本で医療をうけるのに、どのくらいコストがかかるかわかって、オカネを使えなくなってしまうんですね」 日本は医療は健康保険でカバーされて安いのではなかったんですか? と訊くと呵々大笑という表現ぴったりの大声で笑って、 「ガメさんね、中世の医療ならタダみたいなものですが、最新医療は保険の対象にならないのがおおいんです。それに、ほら、ガメさんが、あまりに汚いのでびっくりした、と言っていた築地の病院があるでしょう?あんなので入院費が安くていちにち12万円だそうですよ」 げげげ。 それと、やっぱり気が弱くなってしまうのですよね。 家にこもってなにもしないのがいい、ということになってしまう。 そこが若いときに趣味を育てない日本人の悲しさでしてね。 からくりが少しわかったような気がした。 数字の上ではひとり500万円の現金資産があっても、日本というひどい格差社会では、富裕な老人たちにオカネは吸収されていて実際に消費市場で末端を支えている消費者のふところには100万円という心細い金額さえないのではないかしら。 ずっと前に日本政府が他国で無効であるのが証明されたトリクルダウンという概念を使うのを聴いて、呆れ果てて書いたブログ記事があったが、 案の定、そんなことは日本でも起きませんでした。 https://gamayauber1001.wordpress.com/2016/01/07/isgoddead/ 日本は戦前から一貫して国家社会主義経済の国です。 「ええ?そんな馬鹿な日本は自由主義経済の国だ」というひとのために何度も説明を繰り返してきたが 「傾斜生産方式」の強烈な政府による統制経済の歴史、「おそるべきMITI」の時代を見ても、まだそう言い張る人は少ないでしょう。 国家社会主義経済は、たちあがりの見た目はいい。… Read More ›

  • もうひとつのネットワーク

    Studio 54は、ニューヨークの、最も輝かしく、最もバカタレな伝説になっている。 70年代から80年代にかけて、夜毎夜毎、このクラブを訪問して、酔っ払って、あるいはハイになって、バカ騒ぎを繰り返していたひとびとの名前を並べると、アンディ·ウォーホル、ダリ、カポーティ、シェール、Monique Van Vooren、Debbie Harry、Grace Jones…. この時代の「パーティ·ピープル」の図鑑が出来そうな顔ぶれが、ずらりと並んでいて、大西洋の向こうからも、例えばデイビッド·ボウイのような名前も常連として名前を連ねている。 クラブのフロアで、白馬をのりまわすビアンカ·ジャガー、酔って正体がなくなった当時のトップ·モデルたちの写真は、画像から、そのまま嬌声が聞こえてきそうで、華やかさと、よく見ると、そこここに顔をのぞかせている欲望の残酷さが強烈な印象を残す。 このStudio 54の東京バージョンが「ビブロス」で、やや客層は落ちるが、地下の秘密のトンネルでビブロスとつながっていた「ムゲン」であったようです。 よせばいいのに、好奇心に駆られて何度かビブロスに出かけていたらしい義理叔父の証言によると、毎週水曜日に、二階席に現れて、盛大に1万円札をまきちらして、たいていタレントやファッションモデルの、その夜の相手と一緒に消える不動産会社の社長や、山本寛斎とチークダンスを踊るデイビッド·ボウイがいて、そのころ通学の途中で見かける、いかにも清楚なイタリア系アメリカ人と日本人の母親のあいだに生まれた、義理叔父の、旧式にいえば、「マドンナ」が、酔っ払って、男の人の膝の上で媚態を示しているのを目撃して、泣きたい気持ちになったり、金曜日の夜は、ミニStudio 54が繰り広げられて、ああいう場所に自分のような一般人が出入りすると破滅するからダメだよね、とおもいつつも、ついつい足が向く、というふうであったらしい。 飯倉のキャンティは、いまでは、ふつうの日本語人にも名前を知られるようになったが、当然に、むかしは、なにしろ六本木や青山で夜遊びをする人間の数が少なくて、有名人でもなければ、富裕層でもない人間は、そんな世界が存在することすらおもいもかけないことで、週末の夜遊び世界自体が、自然天然の会員制クラブのようなもので、川端康成や三島由紀夫は、ダンスクラブではなくて、こちらのほうの常連で、いまでも活躍しているひとならば、加賀まりこなどは「キャンティ出身」と述べたくなるくらい、キャンティの華で、川端康成たちに、猫かわいがりに可愛がられて、やがて、その奔放な美しさに目をつけた映画人やテレビのプロデューサーたちの手で、大スターになってゆく。 このキャンティ族の最後尾が八王子から飯倉へ通いあげていた松任谷由実です。 なんの話をしているのかというと政治の話をしようとしている。 むかしは、政治家の繫がりというのは、閨閥や役所の同期、大学の同級というようなのが多かったが、麻生政権安倍政権のころから、どうやら「夜遊び世界のつながり」が、出来ていったように見えます。 Studio 54でも判るように、週末の夜の中心になる店の看板は芸能人がおおくて、そこに集まってくるのは広告代理店の社員や、ワナビータレント、オカネモチの家に生まれた息子や娘たちです。 有名政治家や財界人の二世三世が幅を利かせる世界であるのは、世界中おなじ事情で、早い話がオーストラリアのような田舎国でも、ボンダイビーチのアイスバーグのようなクラブへ行けば、半分公開で、二世三世たちが、どうやってネットワークをつくり、父親の後を襲う形で、議員になり、大臣、首相になってゆくかが判りやすい。 国が健康なあいだは、ちゃんと「そういうことでは立ちいかなくなるから、いかんだろう」という、おっかない人がいて、二世や三世の頭を抑えつけているが、国が病むと、たちまちのうちに、遊び人の二世たちが我が物顔に振る舞いだす。 「本を読まない人たち」という素朴な表現が、わしは好きだが、いかにもまともな本を読まなさそうな、弛緩した、ゲスまるだしの顔が、内閣に並ぶことになる。 都会で頭角を顕すイナカモン、というのは、パターンがあって、ネガティブな、ダメなひとたちのほうは、日本で会ったひとたちをおもいだしてみると、なんだか無暗懸命に勉強して、イメージでいえば、親は地方の名士で、ロータリークラブの会員だかなんだかで、本人も苦学力行、東京に出て、東京の大学に入って、もっと遠くまで行くのだと頑張る人は、大学院も、それもなるべくなら東京よりも更にhaloが輝く、欧州かアメリカの大学で、PhDを取って、故郷に綿を、じゃないや、錦を飾る。 こういうひとたちに多いタイプとしては、自己評価がやたら高くて、他人など眼中になくて、目の横に覆いを立てた競走馬ではないが、他人への評価が低く、というよりも他人への関心そのものが欠落していて、常に「自分はもっと認められるべきだ」と考えて、そのせいか、常にフラストレーションを抱えていて、やたら攻撃的であるか、嫌味であるか、いずれにしろ自分のなかに育った敵愾心と悪意の罠に、自分で囚われて失墜する。 慌ててよいほうも書いておくと、都会で育った子供のように、余計な、装飾的な知性の習慣を持たないので、エネルギーがストレートで、だから社会を根本から変えてしまうようなパワーのある知性の持ち主も、やはりイナカモンが多いようです。 そういうイナカモンと都会人が邂逅して、本人なり両親なりが「有名である」という浮薄の甘美に浸る場として、Studio 45があり、キャンティがあり、ビブロスが存在していた。 政治のネットワークに、そういう遊び人お坊ちゃん2世の世界が加わったのは90年代からでしょう。 日本も、ご多分に洩れず、マスメディアにも、「国民大衆」にも不可視のネットワークがあって、例えば軽井沢に行けば、旧軽井沢には鳩山家を中心とした政治家のネットワークがある。 もう最後に日本にいたときから時間が経っているので、ちゃんとおぼえていないが、ブリジストンの石橋家も鳩山家と近くて、たしか別荘が隣り合っていたと記憶している。 ソニーの大賀典雄のように同じ軽井沢族でも芸術を通してネットワークをつくっていった人もいる。 当の芸術家たち自体は、軽井沢のなかでも、もっとずっと西の、離山より西に位置する追分や、あるいは隣の御代田町の東の山側で、芸術家だけのコミュニティをつくっていたりしていたはずで大賀典雄さんのような芸術を通じて、富裕層のコミュニティをつくっていった人たちとは、似ているようで、まったく異なっている。 ついでなので、述べると、天皇家はむかしから軽井沢の政治世界に呑み込まれることを警戒して、軽井沢には別荘をもたない不文律が存在していて、 毎年、わざわざ千ヶ滝のプリンスホテルに滞在することになっていた。 いまはプリンスホテルが閉館になったので、富士通の社員寮かなにかに滞在しているはずです。 多分、昭和天皇の意向なのでしょう、他国の王族に較べると、現実政治から距離をおくという点では、徹底していて、見ていて、マジメじゃん、という気分にはなる。 霞ヶ関ネットワークが、夜遊びネットワークに移行して、安倍昭恵さんが政治のなかで見た目よりも遙かにおおきな役割を担えたのは、中心が役所から夜遊び世界に移ったからでしょう。 そこで一目おかれるのは広告代理店の敏腕社員であり、夜遊び好きのマスメディアのディレクターであり、プロジェクトとして、おニャン子クラブやAKB48を成功させた敏腕プロデューサーのような存在で、 要するに、夜のクラブで、一歩足を踏み入れると、気付いたひとたちが、羨望の耳打ちをするひとたちでした。 書いていても現実感のなさでヘンテコリンな感じがするが、日本の最近の、激しい社会としての実質の喪失や、「おれが言えば、それが事実」の言語の真実性の崩壊、名状し難い世界への理解の浅さ、考えてみると、すべて、… Read More ›

  • (この記事は2018年8月24日に「ガメ・オベールの日本語練習帳 ver.5」に掲載された記事の再掲載です) 団結しろ万国のまよなかの白痴ども きみらのことは誰も詩に書かない なぜかというときみらが詩だからだ 詩なんてものには詩でないことが書いてあるのだ 枕を撒き畳を叩き壁にかぶりついて してやられたと男はわめく きのうより今日は割がよかった せっかく割がよかったと思ったのに あしたになればそうじゃねえんだ いくら勘定しても どこへ逃げ出しても このピンはねには果てがねえんだ 夢には物が詰まっていて入れない 夢の袋なんか屑屋に売って金に換えるぞ きのうへ 今日へ 昼間へ 夜へ 押し出された夢の中味はばらばらに飛びちり とつぜん友達があらわれけだものが搔き消え その夢だらけの朦朧たる世界へ踏みこむんだ ここもあそこもにせもののまぼろしだけで あなたの仕事やたべものにはなんらの意味もないと 自分で自分を殴ってでも納得すること それがピンはねに対抗する唯一の道の始まりだ。 この詩を含む岩田宏の詩集「いやな唄」が出版されたのは1959年だが、 たったいま書かれた詩なのだといわれても疑う人はいないだろう。 日本は不思議な国だ。 20年前に、「これでは決定的にダメだ」と判って、政府の中枢にいる最も頑迷な老人でさえ、「きみ、こんなことでは我が国は滅びてしまうではないか」と述べて、 閣議から、局長会議まで、侃々諤々、審議官たちが額を寄せ合って、侃々諤々、 経団連でも、昨日の水揚げのいとおしい快感を股間に残した老人たちが、侃々諤々、青年商工会議所の面々も、「お持ち帰り」した台湾の女の人の滑らかな肌をおもいだしながら、侃々諤々、ネットでも、大学でも、居酒屋でも、侃々諤々、 20年間も国民をあげて議論に議論を重ねて、あー、せいせいした、くたびれたけど、 これで明日からまた精一杯仕事できます。 どんなに議論を重ねても、重なった議論は、ガラガラと崩れて、結局現実は何も変わらなかった。 ここまでの20年間で社会として発揮された才能が「現実を変えずに議論しつづける能力」なのだから、これから20年間でなにか変わると期待するほうが、どうかしている。 岡目八目、という。 こういうことは、傍からみていたほうがよく判るので、なぜ議論が有効にならないかは、こうすればああすればと言い続けたが、20代の若気の至りで、日本人の 「なにもしないためならなんでもする」、不屈の根性が予想よりもずっと根深いものだとは知らなかった。 そうこうしているうちに手遅れになってしまった。 世界は日本を置き去りにして、どんどん先へ行ってしまった。 この世界には「commitment」という言葉が存在して、自分が他人よりも日本語が出来るはずだと自惚れれば、日本の文明や社会に関わらないわけにはいかなくて、 ぼくは、偉大な文学や視覚芸術を生んだ、日本を信じてきたが、きみが心配して言ってきてくれたように、もうそれも限界に来てしまったのだろう。… Read More ›

  • 満州という源泉

    (この記事は2018年12月4日に「ガメ・オベール日本語練習帳 ver. 5」に掲載された記事の再掲です) 銀座ワシントン靴店が戦時中は、東條靴店と改名していたのだ、というのは前にも聞いたことがある。 いま、おもいだしてインターネットで見てみると、アメリカやイギリス名前のものはとことん目の仇にされたので「ワシントン」という名前では商売が出来なかったのは、日本の社会というものを考えれば、当たり前であるとして、東條のほうは東條英機の名前に迎合したのだと、堀田善衛の「若き日の詩人たちの肖像」に書いてあったような気がするが、そうではなくて、創業者が東條たかしという名の人で、一石二鳥で、名前を時の独裁者の名前に変更してしまったのだと想像がつきます。 独裁者、と書いたが、よく言われるように東條英機くらい独裁者のイメージにあわない人間はいない。 見るからに癇がつよそうで、陸軍幼年学校のガリ勉受験生がそのまま将軍になったような風貌の人で、昭和天皇にマジメさを溺愛されて戦時内閣の首相にまでのぼりつめた、この人の貧寒とした勤勉さが風貌によく出ている。 日本の歴史を勉強する外国人が、戦争へと突き進む日本の1930年代を学習していて、やや踏鞴を踏む気持になるのは、ファシズムの時代なのは一目瞭然なのに、では言葉の狭い意味でファシストがどこにいるのかというと、発見するのが難しくて、集団統制主義というか、そういうものならあちこちにあるが、ドゥーチェやフューラーは、どこにも存在していなくて、ちょっと途方に暮れてしまうようなところがある。 日本の国民が熱狂したファシズムの、向こう側で手をあげて答礼しているのは、実は日本人の独裁者でなくて、ドイツのヒットラーであり、イタリアのムソリーニ、で、読んでいて、こんなへんなファシズムがあるだろうか、という気持になります。 満州は戦前戦後の日本の秘密を解くおおきな鍵であるとおもう。 少しでも当時の本を読めば、「満州に眠る十万の英霊と費やされた二十億の国帑をお前は見捨てろというのか」 という言葉がいかに強力で絶対の呪文で、戦争の拡大に異論を唱えるひとびとが、民間も軍人も、男も女も、このひとことで沈黙を強いられたかは、すぐに見てとれる。 当時の日本政府は、イギリス人にとっての新天地アメリカに満州をなぞらえて、国民の入植をすすめてゆく。 軽井沢の夏の家を出て、ホテルの前の鹿島の森ゴルフ場を右に曲がって、離山の道をのぼってゆく。 鶴溜の交叉点を千ヶ滝の方向へおりて、トンボの湯をすぎて、嬬恋村への道をわたって1000メートル道路にのぼる。 いまならば道脇にビル・ゲイツの巨大な別荘が建っているはずの千ヶ滝の外れを過ぎると、大日向という村に出ます。 鎌倉と東京の夏の猛暑に辟易して、モニさんとふたりで、夏はほぼ半分を軽井沢で過ごすようになってから、だんだん上田に買い物や食事に出ることをおぼえて、国道18号線の夏の渋滞を避けて、1000メートル道路を往還するようになると、そのうちに、大日向のひときわおおきくて目につく「昭和天皇行幸碑」に気が付くようになった。 クルマをとめて、地元の人に聞くと、普段は愛想がよい人達が、困ったことを聞かれでもしたように、例の、日本人のおもしろいジェスチャー、鼻の前で手をパタパタさせて、逃げるようにいなくなってしまう。 仕方がないので図書館へ出かけて調べてみると、この大日向村は、戦前はもともと千曲川の向こうの佐久穂にある村なのでした。 それが国策で、一村を挙げて満州に移住している。 分村移民と書いてある記録もあるが、元の大日向村も敗戦とともに消滅しているところや、どうやら国策映画として取り上げられたところからみても、一村移住のモデルケースであったようにみえる。 690人が満州に渡って、例のソ連の侵攻や、満州大日向村をつくるために日本政府が強制退去させたらしい中国人たちの蜂起にあって、日本に這々の体で帰りついたときには、たった310人に減っていた。 この大日向村のように、満州へ渡った日本「満蒙開拓団」は27万人、帰国できたのは19万人弱で、集団強姦、集団自決、あるいはソ連兵に撃たれ、戦車に蹂躙され、もともとの住民だった中国人たちに殺された日本人たちは8万人を数えたことになって、ソ連兵はともかく、戦後の残留孤児帰還でさんざん報道されたらしい悲劇の美談は実は少数の事例にすぎなくて、なんの理由もなく自分たちの土地を奪われて賠償もなく追放された地元中国人たちの怒りが、いかにすさまじかったかは、中国側の証言を聞いてみると、あわてて耳を塞ぎたくなるくらいのものです。 五族協和、王道楽土という、なんとなく人をバカにしたような、うそさむいファンファーレのような高邁なキャッチフレーズは、だからどうしても必要なものでした。 政府がいくらピューリタンのアメリカ開拓と重なるイメージをつくろうと努力しても、ほんとうは、もともと他国民の農場があった土地なので、高邁な理想を述べなければ決まりがわるい、ということだったのでしょう。 この満州に、みっつのビッグネームがあって、 鮎川義介、松岡洋右、そして岸信介をあわせて、「満州のサンスケ」といういかにも口元が汚なさそうな渾名で呼ばれていた。 鮎川義介は、この会社得意のお家騒動でカルロス・ゴーンを追いだしたのでもっか話題になっている日産自動車を創始した政商。 松岡洋右は、いわずとしれた当時の「言うべき事を言って国民の溜飲をさげせしめた」人気外務大臣で、「連盟よ、さらば」、国際連盟をかっこよく脱退して、世界中を口あんぐりにした日本風の「快男児」です。 そして三人目の岸信介が満州国国務院の官僚トップとして、満州鉄道の鉄道以外の事業の分離くらいを皮切りに、満州経営に辣腕をふるった国家社会主義経済のプランナーであり、リーダーである人でした。 で、ね。 突然、「で、ね」という妙にくだけた調子で話かけられても困るだろうけれども、鮎川と岸は血でつながった親戚、松岡と岸は縁戚で、この3人の長州人が語らって、表面は対立してみせたりしながら、あきらかな裏での談合で、満州鉄道から完全に切りはなした、日立製作所、日産自動車、日本鉱業、戦後の日本の経済成長の中核をになった企業群をおおきなオカネの袋でつつんだ従業員15万人を越える巨大財閥日産コンツェルンを中心にみていって、初めて、 「あっ。ここに日本のファシズムがあるではないか」と納得がいく。 岸信介の満州経済プランには、はっきりした、誰がみても判る特徴があって、「産業開発五カ年計画」というような名前がついて、名を聞いて、ピンとくる人が多いとおもうが、そう、満州の隣で、ちからわざで貧しいスカンピン農業国から重工業国に短期間に大飛躍を遂げた共産主義ソビエト連邦のおおきな影響を受けている。 岸信介が、西洋人にわかりやすいファシストであったのは、多分、この社会主義との類似というファシズムには欠かせない要素のせいです。 戦後、この共産主義を方法論として取り入れた反共主義者で、自分をあやうく処刑場につれていきかけた骨の髄から憎むアメリカの諜報機関CIAのエージェントとして日本の首相をつとめた、比較的わかりやすいといえるパワーポリティクスの権化の政治家は、戦後日本の大衆運動のちからで、政界からおっぽりだされてしまうまで、吉田学校の政党保守勢力と本質的に対立する隠れ右翼として政界におおきなちからを貯えてゆく。 日本の戦後史のわかりにくさは、その歴史の淵源が満州にあるからでしょう。 日韓関係ひとつにしても満州国将校だった高木中尉、すなわち朴正煕は、後に大韓民国の大統領になるが、この人も岸信介同様、満州時代については、肝腎なことはなにもいわないで蓋をしてしまうことになる。 もっと細かいことに目を向ければ、ほら、日本のマスメディアが中国と韓国の反目を、ごく楽しそうに報道するでしょう? でも、中国人と韓国人のあいだに、(たしかに存在する)民族的なわだかまりは、満州において一貫して「日本人の手先」とみなされた韓国人たちへの中国人たちの怒りがおおもとになっている。… Read More ›