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サイドバイサイド

このあいだ日本にいたときは結局ほとんど行かなかったが、わしはむかしはよく鎌倉に行った。家もまだ鎌倉にもっています。ほおっぽらかしのままだが、ときどき義理叔父が見にいって、「まだ焼けてないよーだ」とかっち、ゆってきます。 もうずっと前、3年前、だろうか、わしは二階堂のせまこしい道を歩いておった。 すると後ろから、子供の女の声が走ってきます。 「こらあー、ヨシオカ、おまえきったねえだろー。ノートかえせよな」 わしの脇をすりぬけてゆく「ヨシオカ」らしき、すばしこいオトコチビガキ。 その後から素晴らしいスプリントで「ヨシオカ」に追いつくチータのような….. ありっ? コーカシアンの子、だのい。一瞬、くるっと、振り返って「ごめんなさい」とゆったときの顔が、よく日本のひとはガイジンは誰でも彼でも「碧眼」「金髪」にしてしまうが、ほんとうに明るい抜けるような青い眼に眼がさめるような金髪の子供である。 英語の「ごめんなさい」がバッキバキのアメリカ発音なので、アメリカ人の子でしょう。 このアメリカガキチータは、見事に「ヨシオカ」を取り押さえると、ノートを取り返した。 ところがだのい、ノートを取り返すと、すぐ肩を並べてなにごとか話をしながら楽しそうにふたりで並んで歩いて行きました。 ガキチータのほうがだいぶん背が高いがの。 ちびっこのヨシオカと背の高いガキチータは、親友同士であるらしく、後ろから見ているだけでどれほど仲が良いか察しがつきます。 「多面体」さんや「kobeni」さんたちの苦闘を読みながら、わしはその「ヨシオカ」と「チータ」のことを思い出していた。 新聞を読みながら、人間は頭が悪いなあー、とモニがつぶやいている。 夏の太陽が照りつけているテラスで新聞を読んでいるのです。 サンブロック、ちゃんと塗った? 20、とかでは無理です。皮膚癌になります。 モニはニュージーランドの日射しの強さがなかなか実感できないよーだ。 広尾のアパートのタタミ3枚、くらいしかないちっこいテラスとちがって、ニュージーランドの家の広大な木のテラスはおおきいのでモニがなんだか小さくなったように見える。 コーヒーとクロワッサンを運んできたついでに「どれどれ」とわしが新聞をのぞきこむと、オーストラリア人の「カリー・バッシング」が深刻化している、と書いてある。 ついては中国人がついにイギリス人を抜いて移民の1位になったが、ファミリーリユニオンビザをなくさないと、あっというまに「仕事をしないで生活保護を受け取って暮らす中国人」が増えて、われわれの福祉を圧迫し、ひいては人種差別が起こるのではないか。 今回の「カリー・バッシング」は、多分世界中で人種差別が最も少ないメルボルンがあるヴィクトリア州で起きているので、わしらの誰彼に衝撃を与えました。 フランスでも長い棒をもって、「移民狩り」をして歩くバカガキどもがいるが、どうやらヴィクトリアで起きている「カリー・バッシング」も似たスタイルのようだ。 「われわれの職業を奪うな」という。 口実は、いつも同じである。 午後はポンソンビーのカフェに行った。 ポンソンビーというのはむかしはゲージツカが集まっていた街で、いまはモデル志望のねーちゃんとかがうろうろしている街だのい。 オントレーとメイン、それにワインが一杯ついて1800円。 ははは、安いのお。 わしはオントレーはペストを塗ったトーストの上にイカさんが載っておるのを食べた。 メインは、マルサラソースのビフテキ(リブアイ)である。 うめーだ。 隣のテーブルではにーちゃんとねーちゃんが頬を寄せ合って笑っておる。 不動産ニュースを手にしているところを見ると、家を買おうとしているところなのでしょう。 もちろんむかしからある風景だが、「むかし」と違うのはにーちゃんがアフリカ人でねーちゃんがコーカシアンであることです。 やっとここまできた。 わしらはやっとここにたどりついた。 マンハッタン。 あのときヴィレッジの交差点で、わしは知的な感じのアフリカンアメリカンと、やわらかなたたずまいのコーカシアンのカップルを眺めていた。 そ。前に記事に書いたことがある。… Read More ›

荒っぽさの効用について

  初期の艾未未 (Ai weiwei)の有名なパフォーマンスに漢王朝時代の壷を床に落として割ってみせる、というのがあった。 あるいは、Ai weiweiは、これもたいへん有名だが古美術価値ばりばりの新石器時代の壷に「コカコーラ」の商標を朱で描いてしまう。 http://dailyserving.com/2010/07/ai-weiwei-dropping-the-urn/ Alison KlaymanがつくったAi weiweiについての素晴らしいドキュメンタリ 「Never Sorry」のなかで、Ai weiwei自身がインタビューに答えて「壺は両方とも本物だよ」と述べている。 Ai weiweiは殆どの作家がなんらかの集団に属している中国の芸術家のなかでは極めて異例な「一匹狼」で、いまに至るまでどこにも属していない。 いつもひとりで、自分の二本の足で歩いて、尾行してくる中国の公安警察の開けさせたクルマの窓にクビを突っ込んで「なぜ、おれを尾行する? ふざけるな。イヌ」と悪態をつく。 天安門の前にたって中指をつきたてた(中国政府にとっては)とんでもない写真を世界中に公開する。 http://nyogalleristny.files.wordpress.com/2012/06/aiweiwei_finger.jpg 中華人民共和国60周年の記念で鼻高々の政府の面子をたたきつぶすように、ビデオカメラの前に立って「Fuck you, motherland」と述べる。 夜中に嫌がらせにやってきた警官に銃の台尻でなぐられて重傷を負って入院開頭手術で生と死の境をさまよい、戻ってきてやったことが、この「Fuck you , motherland」だった。 初めてAi weiweiを見た人が不思議に思うのはAi weiweiには「自由への闘士」や「勇敢な政治運動家」というにおいが少しもないところであると思う。 大地の上に自分の2本の足で立っている自然の人が、政府という絡みつく根のように自分の行動や思考を妨げる組織を煩わしがって、怒っている。 ときどき、自分でも制御できない怒りが突然あらわれた龍のように空を割って暴れだす。 Ai weiweiは自分を逮捕しようとする警官に「やれるものならやってみろ、このクソ野郎」という。 ツイッタでは「通りで独裁に向かって投石するくらい愉快なアウトドアスポーツはない」と書く。 ある欧州人は「Ai weiweiのなかのフーリガン」という表現を使った。 Ai weiweiというひとのなかの「湧きだして奔出する怒り」を表現し得て妙であると思う。 中国の知識人たちはAi weiweiの感情にまかせたような政府へのすさまじい個人の怒りの表現をみて、「これまでの自分達のやりかたではダメなのだと悟った」とインタビューで述べている。中国人の芸術家や知識人は伝統的にもっと穏やかな口調で、しかし巧緻な皮肉で政府を揶揄する伝統を持っていたが、そんなやりかたではまったくダメだということをAi weiweiが教えてくれた、という。… Read More ›

コロナを生き延びる

  政府の愚かさが国民を殺す、というと、なんだかおどろおどろしくて、安物の反政府言説めいているが、かつてのトランプのアメリカ、ブラジル、インド、日本は、なにしろ現下の現実が安物めいているので、プラスチックな表現が、ぴったりあってしまう。 最近は、なにしろ事情がよくわからなくなっていることもあって、日本の、あれこれの問題に口を出すのは、控えている、というよりも、自分で日本語ファンとして、それじゃダメなんじゃないの?とおもうが、心的、物理的距離が生む必然、関心が薄くなっていて、いろいろなことを言わないですませてしまっているが、読む方は少しは読んでいて、世にも珍妙な「PC検査抑制論」は取り分け興味をもって初めから読んでいた。 論自体は、いろいろ専門家として、半可通の一般人と違う見解をみせたい虚栄心はわからなくはないが、児戯の範疇というか、噴飯物で、ここで解説する必要もなさそうです。 6ヶ月もすれば日本語人にも、自動的に、霧が晴れたように事情が見えるようになって、唖然とさせられるだろうけれども、闇夜の鉄砲というイディオムそのまま、なにしろどこに致死性のウイルスが偏在しているか、手探りもしないで対策しようというので、多分、背景には、初期において日本とアメリカの「専門家」に特にその傾向が強かった「COVID、COVIDと騒ぎすぎる。要は、単なる悪性のfluではないか」と、いまは唱えていた「専門家」がいちように口をつぐんでいる。「コロナなんてfluみたいなもん」説が背景にはあるのでしょう。 そんな大規模PCR検査みたいに、いまの医療体制をおおきく変更しなければならないことを、わざわざやらなくたって、戦前につくった、日本が誇る「保健所」体制で十分対処可能ですよ、ということだったのだとおもいます。 いまから振り返っても、遠いことで、見えにくくなっているけどもね。 ほんとうは、全然、十分でなかったのだけれども、そこが日本文明の顕著な特性で、十分でなくて、逼迫してくると、想定にあうように現実、この場合は陽性を疑われる人間の数を、想定の規模の身丈にあわせて、無理矢理すくなくしていった。 コロナ? あんた、なんでもかんでもコロナじゃないかと言い出したら、わたしらの医療商売は、あがったりですぜ。 やめてもらえませんかね。 熱がある? 息が苦しい? そのくらい我慢しろよ ということで他国ならPCR検査を数回おこなって、陽性になったら、処理プロセスに乗せる患者を、自宅でうんうん唸らせておくほうを選んだ。 なぜかって? だって、そっちのほうが都合がいいんだもの。 愁訴する人間をいちいち真に受けてたら、疫学なんてなりたたないのを、あんた、知らないの? いまから振り返ると、他国が、想像する日本の事情はこうです。 英語としては、実は、かなりヘンな言葉なのだけれども、マス・マスキング、という。 語感に逆らった無理矢理な単語の作り方から言って、アメリカ人たちがつくった言葉でしょう。 いちど品川駅の朝の光景が、ニュージーランドのニューズに出ていたことがあって、拡幅された、改札から北口階段を経て横断歩道に出るところだったが、何千人という通勤人が、ひとり残らず、文字通り、ひとり残らずマスクをしていて、見ているほうは、一瞬、マスクをしていない人を見ると、みんなで示し合わせて電車が入ってくる線路に突き落として、内緒内緒で始末しているのではないか、と考えてしまうくらいの例外のなさです。 5年前だったか、欧州の帰り途に、ストップオーバーで東京に立ち寄って、定宿の帝国ホテルから麹町の、なんだかそこだけは意識して放射能汚染されていない食材だけを厳選して食事を提供しているから、そこで夕食を食べてくれ、予約はもういれてあります、と家宰さんに指示されたレストランに、歩いていく途中、皇居の内堀を通ったら、なにかがおぼえている東京の光景と異なっている。 なんだろう? と考えて、あらためて観察すると、自分が知っている日本の日常の光景とは逆に「ガイジン」たちがマスクをしていて、日本人はしていない。 ああ、福島第一事故で飛散した放射性物質が付着した土埃が、春一番に乗って大気中に拡散されている、という、あれか、と気が付いて、西洋と日本との考え方の、視覚的な対比に、おもしろいなと思ったことがあった。 日本のひとは、印象として、マスクが大好きで、病院の外科病棟にでも出かけなければマスク姿の人間を拝めない社会に育った、わしとしては、初めのころは、ぎょぎょぎょっ、な気持ちによくなったものだった。 すぐ、なれちゃいましたけどね。 軽井沢銀座で、サンバイザーをひきおろして、でっかいマスクをして、肘まである長い手袋をしている女の人を見ても、動揺しなくなっていった。 他のいろんなことと一緒に「日本の習俗」として「理由はわからん箱」に解決の見通しのない未決案件としてしまっておいた。 フルニカブを着て、ニュージランドのケンブリッジ、日本でいえば、どこだろう? 松本くらいになるのかしら、農産物の集散地の、ワイカトの街で暮らした白い女の人によると、表面で見るのとは違って、ニカブ姿では、ずいぶん地元住民の嫌がらせに遭ったらしいが、そのひとが、たいへん面白いことを述べていて、頭からすっぽりブルカをかぶって、通りを歩くと、安心できて、なんだか自分が守られているような、透明人間になって、誰からもあれこれ品評されない存在になったような気持ちだというのです。 ニカブという繭におおわれている。 アラブ学を専攻した日本の女の人もtwitterでまったく同じ趣旨のことを述べていた。 仮説としては、日本の人もマスクをすることで、自己防御の感覚を得ているのではないか。 なんちて。 ことほどさように、日本の人はマスクをすることに抵抗がないので、世界でも稀なマスマスキング、ATOKの変換によれば益々キングで、日本人はコロナの広がりを、なにしろPCR検査さえ抑制してしまうくらいなので、数自体はうそっぱちに決まってると世界中の人間が考えているが、それにしても路地に屍体が並ばない程度には、抑えられていたように見えます。 実際、そのころは、わしなども「日本の人らしい」と笑ってみていることができた。 国民のひとりひとりが、職人気質的な、アスペルガー人的な努力で、手を洗い、マスクをして、「自分で気を付ける」涙ぐましい努力をして、唖然とするほどバカタレな政府や自治体、医療「専門家」の痴愚をカバーしている、というのは、実は他国の人間が、戦争からビジネスの諸事万端において、日本に対してステレオタイプ的に持っているイメージでもある。 ところが連合王国で盛んに報告されているように、新しいUK変異株は、イギリス人の憎たらしい国民性を反映して、マスクの効果がないのですね。 ゼロではないけれども。… Read More ›

もの狂ほし

外から見た日本は、どんな国に見えるのか。 ラーメンの国! と、即座に応えた人がいて、この若い人は、英語世界に限らず、十代のときから、たいへん有名な人だが、内緒で、「お忍び」で、ときどき日本へラーメンを食べに行くのだと述べていた。 「ラーメン二郎」や「一蘭」、「天下一品」という名前がポンポンと飛び出して、なかなかに熱狂的なファンです。 他にも「熱湯に飛び込む若い人たちがいる国」「漫画の国」というような第一印象を持つひとびとがいて、はなはだしきは、 「やめてえええー!の国だけど、そんな恥ずかしいこと、訊かないでくださいよ」とマジメに申告する香港人のようなのまで存在する。 「世界の人間が憧れる日本」などと、たいして日本のことを知りもしないネトウヨ族が日の丸の小旗を頭に立てて、あごを突き出して、得意になって、ふんふんしなくても、ずっと昔、というのは戦後直ぐから日本は少なくとも英語人やフランス語人には、たいへん人気がある国であって、たとえばハリウッドの大俳優であるシャーリー・マクレーンはジェット機もない時代に渋谷に内緒で別荘をもっていたし、エバ・ガードナーは、たしか、東京に愛人がいたはずです。 こういうお忍びで頻々と日本を訪れた著名人たち、取り分けて芸能人たちの秘密は、どうやら、日本がアメリカの占領下にあったことと関連があるらしくて、これはただの推測だが、多くのひとびとは、羽田ではなく、調布に来ていたものであるらしい。 軍にコネクションがあって、それをフルに活かしていたのでしょう。 もっとも、それからそれへ、日本がいかにいかれた国で、とんでもない変わった社会で、野放図なくらい面白い国であるか、口から口へ伝わって、 ずっと後年になっても、飛行機は苦手であると公言していたはずのデイビッド・ボウイなども、シドニーに 別荘をもっていて毎年のように訪問していたからでしょうが、ストップオーバーで東京に滞在して、やがて歌舞伎や、外国人がいまでも不思議がる、なぜか尻尾が短い猫に惹かれていく。 日本の習俗の珍奇さ、ユニークさが、日本を行動範囲に含めることが出来る富裕な人間たちにとって大きな引力をもっていたのは、いまに始まったことではなくて、「知る人ぞ知る」、アジアの楽園だった。 いま日本語世界でスポットライトを浴びている「外国人にとっての日本」は、この好尚の、いわば大衆化が進んで、特に富裕というわけではないフランス人たちが、どっと金沢に押し寄せたり、緑色のミシュランガイドブックを片手に、松本郊外の「大王ワサビ園」を大挙訪問したり、フジロックフェスティバルに数人のグループでやってきたりするのは、すべて、この「日本への好奇心の大衆化」の文脈の上にある、といってよさそうです。 ところが、それとは、まったく異なる文脈上にある「高名な日本」も存在する。 数学と理論物理学、視覚芸術を初めとする芸術の名門としての日本がそれで、こちらは大衆的な人気があるとはいえないが、多少とも「教養」がある人間ならば、誰でも知っていて、フィールズ賞でいえば小平邦彦や広中平祐がいて、ノーベル賞受賞の顔ぶれで述べれば、湯川秀樹がいて、朝永振一郎がいて、小柴昌俊がいる。 きみの話は偏っている、と目を怒らせて、生理学医学賞や化学賞だって日本人はとっているんだぞ!と怒鳴り込んでくる人がいそうだが、印象は印象で、日本人といえば、数学、物理学、芸術、であるという反応は変わらない。 余計なことを書くと、世界中にファンが多い、日本文学はどうかというと、「翻訳を読むと面白いが、実際は、どうなんだろうね。なにしろ日本語が読めないから見当がつかない」くらいが正直なところでしょう。 最もファンが多い谷崎潤一郎を別格として円地文子なども日本でよりも英語世界でのほうが人気がありそうだが、英語人などは「自分が読んでいるのは半ば以上翻訳者の作品なのだ」という気持ちが強いとおもわれる。   為時と申す儒者の子に、惟規と申す者ありき。親の越中の守に成りて下りける時に、蔵人にて、え下らで、かうぶり賜はりて後にぞ、まかりける。道より病を受けて、行き着きければ、限りなるさまになりにけり。親、待ちつけて、よろづにあつかひけれど、やまざりければ、今は後の世の事を思へとて、枕上に、僧をすゑて、後の世の事言ひ聞かせけるに、「地獄などはひたぶるになりぬ。まづ死ぬければ、中有といひて、いまだ定まらぬほどは、はるかなる広野に鳥けだものだにも音もなきに、ただ一人ある心細さ、この世の人の恋しさなどの堪へ難さ、推し量らせたまへ」など言ひければ、目を細めに見上げて、息の下に「その中有の旅の空の下には、嵐にしたがふ紅葉、風にしたがふ尾花などのもとに、松虫などの声は聞こえぬにや」と、ためらひつつ、息の下に言ひれば、僧、憎さのあまりに、あららかに、「なにの料に尋ぬるぞ」と問ひければ、「さらば、それらを見てこそは、なぐさめめ」と、うちやすみて言ひければ、僧、「このこともの狂ほし」とて、逃げてまかりけり。 という美しい日本語があります。 これがいかに美しい文章であるかは、まったく同じ内容を扱った今昔物語の弛緩した文章と較べれば一目瞭然であることは、前にも書いた。 このエピソードの内容は恐るべきもので、十世紀末から十一世紀初頭という時代に、神を信ぜず、ただ美を求める風狂のなかで死んだ若者の姿を描き出していて、たしかに「儒者の子」だと注意を促してはいるものの、この若者と、この挿話を誌した作者が、共に芸術のデモンに襟首ごと鷲摑みにつかまれた存在であることが判ります。 わしが熱狂的に愛好するベーオウルフは8〜9世紀に成立した物語だが、ローランの歌 La Chanson de Rolandは11世紀で、この神を信じないまま死んだ惟規なる若者は、それよりも前の人であることが、どうしても信じられない。 日本は芸術の国です。 え? さっき数学と理論物理学の国だって、言ってたじゃない。 もう意見が変わったの と、きみは言うであろう。 ところがですね。 どうも日本の人にとっては、数学も理論物理学も、西洋人的な感覚でいえば、芸術の一分野だと感受しているのではないかという疑いがある。 疑い、は、言葉としてひどいが。 日本語世界を渉猟する人間がすぐに気が付く日本文明の顕著な特徴は、日本の人は、どうやら現実をありのままに見て扱うことが苦手であるらしいことで、これは殆ど諸事全般に及んでいる。 最近でいえばCOVID禍で、世界のなかで、ただひとりぼんやり、PCR検査? そんなもん、やりすぎちゃダメですよ、きみ素人でしょう? これだから素人は困る、と驚くべきマヌケなことを述べているうちに、どこにウイルスさんたちの団体が蔓延っているのか、まったく判らなくて、テキトーのおもいつきで、ほとんどブンガク的な対処に終始せざるをえなくなった医学者たちをみても、なんだか知識が空転していて、現実とのかみ合わせや、手がかりがゼロに近い。 政治的な主張にしても、日本語世界に翻訳された途端にジェンダーを変えた、というよりも本来のジェンダーに忠実に生きることにした人びとが直面する問題であるとか、いわゆる「慰安婦」問題、なにをやってもボードゲームの駆け引きで、記号化されて、駒にしてしまうので、なにをやっているのか、まったく訳がわからない「遊び」のようになってしまう。… Read More ›

続ビンボ講座 その15 旅にしあれば

十年と少し前まで、クリスマスになると、おおげさにいうと世界中から家のひとびとがニュージーランドに移動して、夏の、天国のようなクライストチャーチに集まってきて、クリスマスランチを一同に会して食べるのが、わし実家の、ささやかな伝統だった。 わしも早ければ11月の終わり、最も遅かった年は24日の夜は空の上で、クリスマスイブのためにAirNZが特別に用意したエッグノグを飲みながら25日朝にクライストチャーチに着いたりしていたこともあった。 着くと、たいてい、両親のクライストチャーチのフェンダルトンという住宅地にある、「町の家」の、ガレージからサーブを引っ張り出して、アルコールが切れた依存症の人のようにして、クライストチャーチの隣の、カイアポイという町にある、ステーキパイがちょーおいしいベーカリーに駆けつけたものだった。 駆けつけ、いっパイ、息をついて落ち着いたら、ステーキ&チーズ。 ニュージーランドにつけば食べたくてたまらなかった、ステーキパイやクリームバンを慌てたように食べるが、クリスマスまで間があれば、すぐにイギリス人にとっての国民食、インド料理がやはり食べたくなります。 ええええっ? イギリス人の国民食って、ゴム草履みたいなステーキと茹で崩れた野菜じゃないの?? とおもった、そこのきみ。 そう、そこの日の丸のハチマキを締めて鼻の穴をふくらまして、七生報国な、そこのきみです。 失礼ですよ。 イギリスのステーキは、ゴム草履よりも、遙かに高級で、表におこげがついたミシュランタイヤという表現がより正しいし、野菜も、水で、くたっと煮込んであるだけです。 「歯応え」のような非文明圏の迷妄とブリトン人は無縁なのであると言われている。 歯が傷むでしょう? 高いんだよ、ロンドンのプライベートなデンティスト。 なんの話だっけ? おお、そうだ、国民食。 チキン・ティカ・マサラやバター・チキンは、なああああんんとなくインド料理のような顔をしているが、ほんとうはイギリス料理です。 森羅万象がことごとく誌されているといわれている魔法の本「ガメ・オベールの日本語練習帳」という本をひもとくと、バター・チキンは、パキスタンからインドに難民として逃れてきたKundan Lal Gujralが、イギリス人を中心とした外国人向けに開いたニューデリーのレストランMoti Mahalの決め手メニューとしてレシピを発明して加えたものだと書いてあります。 ついでにいうと、なあんとなく、どころか、太古の昔からインド料理だよん、という顔で世界中のインド料理屋のメニューに鎮座しているタンドリ・チキンも、このKundan Lal Gujralの発明で、考えてみると、ほとんど国民総ベジタリアンな食生活を送っているインドの人が、チキンのカレーや窯焼きなどを伝統にしているわけがない。 チキン・ティカ・マサラに至っては、もっとずっと新しい1960年代の発明で、名前を忘れちって、いま風邪をひいているので調べる気力が起こらないが、ロンドンのナンチャラチャララカという名前のレストランのシェフがレシピをつくった。 このチキン・ティカ・マサラこそが連合王国の国民食で、というのは、わしが見解を述べているわけではなくて、2001年に、外務大臣のロビン・クックが、公式に、「a true British national dish, not only because it is the most popular but because… Read More ›

続ビンボ講座 その14 むだを省く

スタート地点にもどって、なぜこの「ビンボ講座」が書かれているかというと、安部政権が「役に立つ学問以外はするな」と言い始めたことだった。 そこからカミオカンデは役に立たない学問なのかという話になって、 文学はどうなのか弘田美枝子からリナ・サワヤマに至る音楽はどうなのか、と述べるに至っている。 結論は、こういうことです。 役に立つ、というのは人間の一生の実質に資する、ということであって、 人間の一生の実質は、もうとうの昔に死んでしまった偉大な友人たちが書き残した本を読み耽ったり、自分でもなにごとか文字にしるして述べてみたり、よい音楽で魂を昂揚させて、時には身体を動かして踊ったりすることであって、 人間社会の経済やGDPやまして自分が市民権を持つ国の「国力」などは、どうでもいいことにすぎない。 そうして夾雑物に過ぎない力を媒介するオカネもどうでもいいことに過ぎなくて、労働効率をあげるとか、個々の国民の生産性を上昇させるとかは、社会の側の都合だが、そんなくだらないことどもから自分を救い出すためにはどうすればいいか、という問題をおもいきって具体的なマニュアルに出来ないか、というのが、そもそもの記事の発端でした。 科学事業でいえば石炭発電のエネルギー効率化・クリーン化のテクノロジーよりもスペースXが、スペースXよりもカミオカンデが、より「役に立つ」学問であって、そういう価値判断が狂いだすと、社会の箍がゆるみはじめて、やがて壊れて、最後にはその社会で思考や伝達に使われる言語そのものが決壊を起こして氾濫がはじまって紊乱が起きることになっている。 なんでも社会問題にしようとする人は、なにもしない人です。 社会問題にしてしまえば、「誰かがやる」「おまえがやる」問題に転嫁して、自分は自由自在に悪態をついていればいいだけだからで、古来、パチモン知識人が自己満足して、しかもバイト代を稼ぐ、一石二鳥の自己欺瞞として有名な技である。 まともに生きたいと願っている人間は、そこまで身を落とすわけにはいかないので、どうすればいいかというと、視点を社会や国家の側に渡さず、自分個人の側に持って、そこから一歩も出ていかないで世界を認識しようとする。 くだらない人間、価値判断がちゃんと行えない人間というのは、「生活保護を受ける人間が増えると社会が弱体化する」というような、もっともらしいだけで愚かなことを平然という。 それがなぜ様々な意味において愚かであるかは、このブログのなかで、十数年にわたって延々と、繰り返し述べてある。 前回の「年収一千万円」は、日本社会においてオカネを考えずに、というのはつまり夾雑を去って、余計なムダなことを考えずに「役に立つ」こと、すなわち人間において本質的である価値にそって生きるための目安で、それ以上の意味はありません。 一千万円で十分かどうか、あるいは逆に目標が高すぎるのではないか、というようなのは自動車のセールスマンが販売戦略ミーティングで侃々諤々していればいいことで、個人がマジメに考えることではないでしょう。 ついここで余計なことをいうと、先週、ニュージーランドの新聞に「オークランドで若い夫婦が快適に暮らすためには20万ドル約1500万円の年収が必要だ」と出ていた。 ニュージーランドは、もともと収入の面でいえば長い間「日本の半分弱」だった国で、収入は日本の人よりもずっと低くても物価も安く、自然が圧倒的で、生活のなかで最も楽しいことはヨッティングやカヤキングで、まったくオカネがかからないので、数字の裏側では、はっきり言ってしまって、すまんすまん、日本のひとびとよりも遙かに豊穣な生活を送っている、というスタイルの国でした。 そういう歴史的な経過から考えて、本来は、東京の人は少なくとも年収3000万円が快適な「オカネを気にしない」生活の目安であるべきだったはずで、実際、この金額は、だいたい年収1300万円以下は低所得家庭とみなされるサンフランシスコメトロやベイエリアの所得・家計の感覚とあわせて考えて平仄があっている。 つまり、おもいきって真ん中を端折って言うと、日本は経済的には完膚ないまでに「壊れた」社会で、その理由は、国力や経済力の「国としての体面」のようなものを追及しすぎて、遅れてボロボロになった実質は、手つかずのまま、知らん顔で放っておいてきた、という、ちょっと俄には信じられないほどケーハクな歴代政権の施策にあります。 「日本の主要産業は『株価』だから」と世界中の投資家に冗談のタネにされる、中身はカラッポで日銀がどんどんETFを買い占めて、つりあがって、どうにもならなくなった株価が判りやすい典型で、その売ろうにも売りようがなくなって、外国資本に、そのバカバカしい仕掛けに目をつけられて、どんどん日本の冨を持っていかれてしまって、日本の政府が常に「おひとよしで、ちょっとオカネバカな、扱いやすい国民」として扱ってきた国民は「アベノミクス」と、どこの広告代理店のコピーライターがつくったのだろうか、ケーハクが高層階をなしたくらいケーハクなカタカナ語で舞いあがって、ついに、20年や30年では立ち直れないほど、背骨を病んだ国になってしまった。 この社会が、ボッキリ折れてしまった、折れかたと折れてしまった理由は、おおきく文化的なもので、ムダを排除できない、日本文明の歴史的な体質から来ている。 日本が数字上、大繁栄を遂げているころから、観察して、ものを考える習慣がある日本の人がニュージーランドにやってきて、真っ先におもうのは、「なぜ日本の三重県と同じ規模の経済力しかないニュージーランドが、無料の高速道路をもち、人口1000人に満たない集落に至るまで速度制限が100km/hのハイウエイネットワークを持っているのか、ということでした。 実際、わし知り合い日本人は、空前のぼんやり中年、義理叔父を含めて、ひとり残らず、この疑問を口にしていた。 深刻な疑念を述べている目の前の道路工事現場では、生産性が低いので世界に名高いニュージーランド人の、道路工事人がふたりで、仕事時間ちゅうであるのに、指示棒で、いまやスターウォーズのライトセーバーごっこに夢中になっている。 このテキトーさで、しかも昔から名物がドビンボの国で、高速道路もハイウエイも無料で、遊びに行く国民は屋根の上にカヤックを並べて載っけて、仕事ちゅうのトラックは羊さんを満載して、すいすいと走っていく。 いま日本語ネットでパッと目に入る東京外環道の三郷南IC〜高谷JCTの区間で、工費は「1mあたり1億円」と書いてあります。 前にもなんども書いたが、日曜日の軽井沢FMを聴いていたら、避暑地で気が緩んだのか、政治家のおっちゃんが「日本のクリーンエネルギーは風力発電が、みんないちばん受け入れやすいんですよね。あれはね、タービン一基一億円ポケットに入るんで、計画を一瞥して、自分のポケットにいくら入ってくるか計算しやすい」と述べていて、つぼで、爆笑したはずみで、ハンドルがくるって道路脇の樹木に激突しそうになったことがある。 日本は事情を聴けば聴くほどそうで、某IT企業は、新しく開設するサイトにプログラマが足りなくて、ひとり200万円で日本名物派遣会社に依頼して40人雇いいれた。 このプログラマさんたちのひとりに「給料、月に、いくらもらってんの?」と企画部の人が喫煙室で訊いたら25万円だったそうです。 むしり、はがし、ピンをはねて、ピンx2、ピンピンぬいて、なんと八分の七が「なにもしない人」のポケットに入っていく。 いっぽうで、仕事でつかれはてて、あるいは病を得て、あるいは投企に失敗して、自分で自分の人生を切り拓こうとした人が生活保護を申請にでかけると、月に20万円だか30万円だかしらないが、「社会」という巨大な図体からすれば些細としかいいようがない出費を吝んで、「ばあーか、自己責任だろうが、甘ったれるんじゃねーよ」というあしらいを受ける。 これも日本名物ナマケモノ反体制人が、ほんとうに小遣い稼ぎでなくて社会に憤っているのなら、とっくの昔に、当時、人気がある知識人だった自分の筆を捨てて機関銃と爆弾に持ち替えたウルリケ・マインホフのように武装して革命をめざしているところです。 そのくらいひどい。 なぜそれがfog of warの向こうで見えないかといえば、まさに、その小遣い稼ぎで反体制を演じている反体制人たちの努力の賜物で、正義は社会から乖離して初めて正義らしく見える、という、なんだかアベノミクスと事情が似たリアリティとの分離で、個々の日本の人は、絶望の淵に沈んでいるのではないか。 社会全体を瘴気が包んで、根太が腐り、大黒柱が虫食いだらけになり、屋根が傾ぎ、床板が踏み抜かれるようになると、個人が一生のあいだに、たいていは生まれてくる子供たちのために、と信じて、社会をどうにかしなければ、と念じて、出来ることはほとんどない。 日本の社会は未来において、どうせ立ち直るに決まっているが、社会、特に国家というような図体の社会の没落再興のスパンは人間よりも間尺が長くて、いま30代の人が日本改革を志して、真剣に戦って、うまくいって最短が日本が立ち直るのは30年後で、なんでもかんでもチョーうまくいって、「やれやれやっと日本の社会がまともになったぜ」とつぶやけるのは60代になってからのことです。 そこで飲む、一杯のお茶のうまさに人生を賭ける、という考えもあるだろうが。… Read More ›

続ビンボ講座 その13 目的地

旅行中、「飛行機に乗っているときは窓に顔をつけて外を眺めるのは構いませんがドアを開けてパラシュートをつけずに飛び降りると、たいてい死にますとか、沼を歩いて渡っていて片足をワニさんに食べられてしまったときの応急措置の仕方とか、移動中の諸注意ばかりしていて、どこに連れていこうとしているかについては口を閉ざしている旅行ガイドは、ちょっと言うことを信じてついていってみようかと考えて一緒に歩き出した人にとっては不安であるとおもわれる。 だから、ゴールの話をする。 ビンボを脱して、きみはどうしたいのか。 大富豪になってテレビタレントのひとびととムフフになる? それともランボルギーニを買って、「走る厄災」の名声を恣にするクルマの、豪快な壊れっぷりを堪能する? わし友のフェラーリ488スパイダーは、あっぱれなクルマで、 気まぐれなファッションモデルのおにーさんみたいというか、なんの前兆もなしに交叉点で突然、音もなく静かになる。 静かになる。 わかりますか? 止まるんです。 エンジンが。 持ち主友によると、そういうときに慌ててスターターを掛けようとしたりしてはダメで、おもむろに1分ほど待つ。 後ろには渋滞ができますけどね。 人間というのは、情けないもので、真っ赤なフェラーリにプワプワと警笛を鳴らす人はいないようです。 で、なにごともなかったかのように、エンジンをかけると、にっこりと微笑んで、またぶおんぶおんと走り始める。 クルマというものは年柄年中壊れるもので、壊れないクルマにしか乗りたくない人はクルマに興味をもたないほうがいいのです。 わし先代レンジローバーなどは機嫌が悪くなるとドアが開かなくなる、という人間のような拗ね方をした。 しかも土砂降りのときほどドアが開かないというクルマとは思えない賢さまで持っていた。 珍しく御機嫌よく走っているアルファロメオのハンドルをにぎりながら、「良い時代になったなあ、東京から箱根までドライブするのに薬罐がいらないんだものなあ」でないと、クルマ好きは努まらない。 閑話休題。 手始めは、食べ物について価格をあまり考えないですむようになると、幸せになるのではなかろーか。 むかしは、なかろーか、と述べると、必ず、外廊下、と続けていたが、もうやりません。 おとなですから。 これを人間の進歩といい成熟という。 蕎麦屋に入るでしょう? カツ丼という文字をじっと見つめる。 (並)は500円だが、げげげっ (上)は800円なのか。 800円出したら、帰りは歩きではないか、(並)しか頼めひん、というのと、 (並)と(上)の300円の違いはなんだろう? あ。(上)はイベリコ豚なのか、日本の豚さんでいいや、 すみませーん、(並)カツ丼、ひとつください! というのでは、並な結論はおなじでも、まるで異なる行為ですね。 そういうところで「ああ、ついにおれはビンボを脱したのだ!」という幸福をしみじみ感じる。 感じないって? 性格が悪いんじゃない? あるいは、スーパーでキャドベリの箱はおなじ大きさなのに、いつのまにか中身は半分になっているスコーチド・アーモンド(←日本語だとアーモンドチョコボール、かな?)を手に取るでしょう? 8ドルもすんだぜ、あれ。 しかも200メートル先のカウントダウンでは、特売で7ドル50セントです。 でも懐があたたかくて、世界に対してやさしい気持ちになっているきみは、 差額の50セントが少しでもパートタイムで働く仲間のポケットに入ることを祈りながら、そっとショッピング・トローリーのなかにいれる (^_-)… Read More ›

競争から共生へ

日本語の壁で囲まれた部屋のなかでは、総額五千円の冨が支配している。 きみが二千円とって、センパイのヒロシさんが三千円。 ところがところーが。 女の人も働くことが解禁になったのでヨシコさんが部屋のなかに入って来て千円もっていってしまうことになった。 途端に室内は阿鼻叫喚になります。 侃々諤々。 いったい女も人間だと認めたバカは、どこの誰だ。 女を室内にいれるなんて、女ばかり優遇されたら、男は亡びてしまうではないか。 議論百出。 だからフェミは嫌いだ。 え? フェミ知らないの? フェミニストのことだよ、女の味方。 女の味方と男女同権はちがうって? なに言ってんの。 バカじゃないの。 とにかく! この部屋の五千円は女のせいで四千円に減らされてしまったんだよ! 日本の人の世界観の基調は、世界の知識や冨は、なあんとなく一定で、それを取り分をどれだけ分捕るかによって自己の知識と冨は決まる、というものであるらしい、と日本にいるときになんども考えた。 咸臨丸の一行で、最も印象的な話は、一行の赤ゲットぶりよりも、使節の百科事典との邂逅です。 秘すれば鼻。 それは不織布マスク。 秘すれば花。 免許皆伝。 父子相伝。 知識は秘匿するから利益を生みうるのに、こんなになんでんかんでんばらしちゃったら、いったい、この宗家たちや家元たちは、どうやって食べていくのか。 バカなんじゃないの。 いくらなんでもマヌケすぎる。 アメリカ人たちの折角自分たちが発見した世界の秘密を、パンツもはかせずに(失礼)曝け出してしまうマヌケぶりを嗤いながら、ちゃっかり百科事典は買い込んで、日本に持って帰ります。 時は経って、インテルの研究者たちの発表会合。 最前列にずらっと並んで、無心に発表をノートに書き込んでいるのは、全員が日本の「研究者」たちでした。 新しい86系16ビットCPUのアーキテクチャをインテルおっちゃんが述べ終わると、文字通り、脱兎のごとくファクシミリに向かって走る。 殺到する。 いま聴いたばかりの発表を本社に送る。 事実か都市伝説か、当のCPUをインテルより早く製品化して市場に送り出したというから、日本人の優秀さをおもうべし。 気が付くでしょう。 そして、いまでは、もっと大規模な知識の公開と共有が世界中で起こっている。 インターネットという名前がついているのね。 世界が競争から共生へ世界観を変えつつあるのは、あきらかにCOVIDパンデミックのせいです。 ひとりだけ生き延びようとして、「てめえの面倒はてめえ自身がみやがれ」の「強い」個人や、他国のことなんて、どうでもいい、とにかく我が国だけが生き残ればいい、という国家を、嘲笑うようにウイルスは世界中に広がっていった。… Read More ›

続ビンボ講座 その12 再び、NOについて

  日本に住む日本語人としてビンボから抜け出すために大事なことは英語を身に付けることとNOと言えることだ、と何度も書いてきた。 日本で見聞したことをおもいだしたり、主にインターネットで知り合ったひとびとからなる日本語の友達と話してきた結論です。 え? また繰り返すんですか? と、きみは言うであろう。 そうなのよ。 また、繰り返すんです。 書く事がないからね。 というのは冗談で、一瞬信じたきみは反省すべきだとおもわれるが、そうではなくて、考えていて、あの程度の「NOと言えないとダメよ」では現実に、 あ、だいすけくん、悪いけど、ちょっとこれやっといてくれないかな、ほら、聡美ちゃん、おやすみしちゃったでしょ? 他に英語出来る人いないからね、と声音もやさしく上司に言われた場合、 「ダメですね。ぼくも自分の仕事がありますから」と述べて、しかも就業時間の午後5時きっかりに上司の前でたちあがって、さあ、うな丼でも食べて帰るか、とすたすたと帰れるかどうか。 ガメ、そんなことやってちゃクビになっちゃうよ、と、言う人がいそうである。 そこが心配なのね。 クビになったほうがいいかもしれない、と、なぜ思わないのか。 人間の一生を支配する運命、もっといえば幸運不運というのは、たいへんにおもしろいもので、一生懸命考えて、善とはなにか、善行をつむにはどうすればいいか、よりよい人間とは、どんな人間なのか、と懸命にお花畑なバカみたいなことを考えて、おもいつめて、実行する人間のところに幸運の女神がやってきて、おまえってまともなやつだな、しからばわたしがラッキーにして進ぜよう、と幸運をもってきてくれる。 そんなバカなって? きみ、やってみたことないんでしょう? 善をなそう、善い人間として生きよう、とおもいつめたことがありますか? ないだろう。 だから、そういう人間世界の神秘を理解できない人間の薄ら笑いが顔に貼り付いている。 きみのように冷笑が好きで、この世界の善意を信じる能力に欠けていて、薄ら笑いばかり浮かべている人間を「うすらバカ」というんです。 なぜNOと言わねばならないか。 100%YESだとわかっているのではなければ、善をめざす人間にとって、初めの答えはNOでなければならない理由は、何度も述べた。 簡単にお温習いをすると、善意の人間であるためには全体の意思と同調するところがあってはならない。 ドイツ人はSS将校でさえ、ロシア市民の処刑を拒んで、その場で上官に撃ち殺される人間が多かった例や、さまざまな例をあげて、たとえば、「女の人は全部、企画課も、デザイン部も、営業にまわっていただくことになりました」と、そう命じられたから、自分は管理職だから役割として命じるのだ、というのは卑劣にすぎないことを述べてきた。 ダメなんですよ。 全体に同調する部分が残っていると、自分の内なる善が命じることを実行することができない。 だから善は個人主義を絶対の前提にしている。 YESよりもNOを前提にしている。 実際、上司の命令で、やむをえず放射能被害の数値を書き換えることは、 「おい、あの早苗って、女、生意気だから、やっちまおうぜ」と述べる人間に従って、いやいやながら集団レイプに参加するニキビ面の若者の行為を本質的におなじです。 どこにも変わるところがない。 ここに興味ぶかい事実がある。 オコドモさんなひとびとの予測に反して、職を賭してNOと述べた人のほうが、実人生において、成功している。 いやあ、そんな番組つくれませんよ。サクラで街頭インタビューつくるなんて、おれは嫌です、と述べたら、いきなり、どん底まで行きましたから。 あのガメなんとかいうヘンなガイジンの書いた本を読んだせいで、おれの人生いったん終わっちゃったんですから。 それから孤立無援。 独立して、ドキュメンタリ作り続けてもまったく売れなくて、そのうち嫁さんはお腹がおおきくなっちゃうし、昼間、工事現場でドカチンやりながら夜、眠い目をこらえてフィルムの編集やってたころは泣きたいどころが、涙も一滴も出ないくらいひどい生活でしたから。 でも。ほかに雇ってくれるところもないし、ほかに逃げる場所もないので、なんとかここでやるしかない、と、思い詰めて、やったのがよかったんですかね。… Read More ›