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なつかしい家を出る

悪い癖で、どうやら、オークランドに飽きてきたような気がする。 むかしは大好きな町だったメルボルンには、自分で判然り自覚できるほど飽きていて、それでもオークランドには、なかなか飽きないね、と自分で不思議だったが、落ち着いて考えてみると、オークランドであるよりは、ハウラキガルフが好きだったので、そうであれば、家は残しておいて、ハウラキガルフには、ときどき会いにくればいいだけのことで、同じニュージーランドでも、更に美しい、素晴らしい海があるBay of Islandsにも根拠地をつくって、ニュージーランド全体を「海の拠点」とみなしたほうが、楽しいことがありそうです。 人間は、世界中のあちこちに楽しい場所をつくった。 日本の人は自覚はないように見えるが、東京などという場所は、そのなかでも、とびきり遊ぶのに楽しい場所で、いま振り返っても、ギリシャ人やアメリカ人、アイルランド人たちと、遊び呆けて、モニさんとふたりで、年柄年中ハネムーンに来ているようなものだった。 だって、なにもかも、世界の他の場所と異なるでしょう? ちょーオーセンティックな、なんだか文化財のなかで食べているような、赤坂の蕎麦屋で、ambienceに陶然としていると、午ご飯どきで、背広のひとびとが、どやどやと入って来て、ズルズルズル、びっちょべっちょ、ズズズ、クチャクチャ、ゴブリンの宴会のような音を立てて蕎麦を「すすり」始める。 慌てて逃げ出したりしていたが、そういうことも、いまでは、大変に楽しい思い出になっている。 もうひとつは、日本で見た目で判る外国人でいることは、一種の、遮断されたバブルに包まれた移動観客席にいるようなもので、周りの日本の人たちにとっては、なあんとなく存在しないようなものであるらしくて、まるで自分がいないように感じられるので、目の隅で、こちらを盗み見しながら、モニさんの美しさに、ぶっくらこいているのでしょう、ヒソヒソしているのが映っても、基本的に知らんふりをしてもらえるので、もともと世の中とあんまり交渉をもちたくないこちらとしては、とても快適な町だった。 バルセロナに至っては、この世の天国で、バールからバールへ、ふらふらと歩いて、サングリアでタパスをつついて、ピンチョスでワイン、夜になれば、5人でも食べきれないくらい大皿にどっちゃり盛られているのに一人前の豚の頬肉や、旨いうさぎの肉の煮込みで、魂は、すっかり天に昇ってしまって、もう生きているのか死んでいるのかも判らなくなって、天国がここよりいいところなら、いますぐ死んでもいいな、あ、でもいま死ぬと志において自殺で、自殺すると天国に行けないよね、と混乱した幸福なおもいに耽っている。 トンガの海底火山のニュースで、トンガの南の端っこに住む日本の女の人が登場していて、日本の新聞の年齢申告主義で、43歳だと書いてあったが、噴火の瞬間は、ボートで買い物に行った帰りだったと書いてある。 なんという楽しい生活。 おおお、と思ったのは、ボートの通称ロケットランチャーという釣り竿挿しに釣り竿が挿してあったことで、トンガは、水が澄みすぎていて、魚が凝っとこちらを見ているので、釣りに向かないのがヨット乗りには知れ渡っているが、してみると、コツさえ判れば釣りも出来るのだな、アオリイカを釣るときみたいに、こちらの姿を隠して、瞞して釣るのかしら、と、いろいろに考えたが、釣りまで出来るとなると、トンガに根拠地を建設するっちゅうのも、いいなあ、とおもう。 なんでも用心するのが国民性の日本の人達のなかには「噴火があったばかりなのに、バッカじゃねえの」という人がいるに決まっているが、 あのね、 オークランドなんて、火山の真上にある町なんです。 地震はないけどね。 マウント・エデン、マウント・ウエリントン、マウント….と、町中のあちこちに点在する丘は、全部、噴火口で、なんでそんな物騒な所に150万都市をつくったかというと 「だって、最後に大爆発したのは600年も前だから」で、 火山慣れしている日本の人が聞いたら、「ふうーん」と、やや憐れみのこもった眼差しで、やさしい態度になりそうな理由で、 やっと最近になって「休火山」という概念が過去のものになっていて、例えばマウント・フジも爆発するのよ、と聞かされて、ゲゲゲ、になっている。 慌ててオークランド市がつくった、「150万人脱出計画」は、世界最大のエバキュエイション・プランで、概要を読んでいると、夏でも、背筋のほうから寒くなってくるので、納涼にいいのだと言われている 前にも書いたが、佐野昌一は、電気試験所の勤め人時代に、麻雀をしている最中に、若い友だちに 「どうしたら佐野さんみたいに、うまく人生を渡っていけるんですか?」と聞かれて、 「ローン!大三元ドラドラハネ満!運の十さ!!」 と起ち上がって、わっはっはと哄笑したという伝説の持ち主で、このSF作家の後年の筆名、「海野十三」は、これから来ているが、まことにその通りで、人間の一生などは運が100%なので、天災などは、気に病んでも無意味で、 自分の運のフットワークを信じるしかない。 ドッジ、ドッジ、ドッジ。 いままでの乏しい経験が教えるところによれば、引っ越し先を決めるには、その土地の良いところが、自分にとって、どのくらい強烈によいかで決まるのが良いようです。 パチンコが死ぬほど好きなら、やはり東京や大阪がよい。 気に入ったラブホテルが近い町に越したイギリス人カップルも、実際に存在する。 ビンボでも楽しく暮らせる町が、最もよい。 ドッジ、ドッジ、ドッジ。 オカネがまったくないと困るだろうが、食べられて、住むところがあれば、少なくとも知的な人間にとっては天国で、トンガならトンガで、魚を捕って、庭のバナナをむしって、ほっといてもでっかくなるカボチャでも栽培して、暮らしていれば、たいていの都会に住むよりは楽しく暮らせる。 生活の敵は常に意外なところに潜んでいて、それを見いだすには観点を変えることが必要で、例えば、通勤などは、たいていの人間にとっては幸福な生活のball and chainで、幸いにも、というべきなのか、コロナ・パンデミックで、職場に物理的に身体を移動しなくてもすむ人が増えて、ニュージーランドでは80%の人が、「もう通勤生活に戻りたくない」と述べて、ナマケで、流石は英語圏きっての生産性の低さを誇るサボリ大国だが、「通勤をしなくてすむ生活」が、どれほどニュージーランド人の家庭を幸福にしたかは、想像に余り有る。 通勤しなくてすむ生活に通勤生活から移行すれば、収入などは半分でよいのでは、とさえ思う。 住む場所を変えることには、自分の人生について考え直す機会を得られる、という重大な利点がある。… Read More ›

わたしは、わたしよ

頭で言葉を使って考えるよりも、考えるのは言葉のほうにお任せにしてしまって、言葉がつれてきてくれた考えを頭が整頓して、これはこういう考えなのではないか、きっと、これはこういう文脈が背景にあるんだよね、と、頭さんと言葉さんが談合して、いろいろに決まるほうが好きなので、 口から出てしまったり、文章を書いてしまってから、ああ、そうか、自分はこういうことを述べたのか、とおもうことが多くある。 なにしろ言葉には、語彙にしろ、その組み合わせである文であるにしろ、 太古の昔からの無数の叡知が詰まっているので、いまできの大脳でひとり呻吟するより、言葉の知恵を借りたほうが早いのだと言われている。 昨日書いた記事を読むと 途中、「好感なんて他人に持ってもらいたいと思わない人間が、案外な数で跋扈している英語人」と書いてあります。 なんで、こんなことを書いたのかわからないが、言われて見れば、….言われてみれば、って、自分で書いているんだから、ヘンな言い草だが… 英語人は、日本語人と「別に他人に自分を好きでいてもらおうとおもっていない」という、いわば基調底音のところで、文化として、ものすごく異なるのではなかろーか。 例えばですね。 きみは、いまや愛する娘に大好きな相手が出来て、結婚しようとするに際して、なるべく華やかで、天使も妖精も、空から舞い降りて、森から抜け出てきて、総出で祝福してくれてでもいるような、記憶に残る結婚式にしようとしている。 学校のなかよし同級生のなかに、いまでは世界に名前が知られたソプラノ歌手の友だちがいるので、最後に会ったのは、もう去年のことになってしまったが、 娘と大層なかがいいことでもあるし、祝宴に花を添える意味で、出席してもらおうと考える Emailを出します。 文面を考え、娘が、あなたの顔を観たら、どれだけ喜ぶだろうか、という意味のことを、我ながら美しい英語で、書いて送る。 ところが、ところーが。 諾も否も、いやも応も、OKもダメよも、なんにも返答が返ってこない、 待てど暮らせど、なんにもお返事が返って来ません。 業を煮やしたきみは、やおら、このあいだやっとフリップ式からスマートフォンに変えた折りたたみ可能スクリーンの携帯電話を取りだして、ソプラノ歌手友に電話する。 留守番電話などではなくて、話し声でさえ、女神を連想するほど心地よい、 女友だちの声が聞こえてくる Email、見てくれた? ううん。まだ。 わたくし、この頃、老眼で、文字を読むのが面倒なのよ。 では、ということで、要旨を説明すると、友だちは、 じゃあ、emailを読んでからご返事するわね、と述べている。 やれやれ、とおもって、あの様子じゃ、ちゃんと来てもらえそうだ、と員数にいれて準備を進めます。 ところが、ところーが。  またまた、ところーが。 それから1ヶ月経っても、うんともすんとも言ってきやしない ここに至って鈍感なきみにも、やっと、友だちが結婚式にやってくる気など、初めからありはしなかったことに、気が付いている。 くっそおー、あのクソババア、なめたことをしやがって、 ケツの穴から手え突っ込んで奥歯ガタガタ言わしちゃるぞ、 それとも、通りの真ん中で、引き倒して、スカートもニッカーズも引っ剥がして、お尻ペンペンしちゃろうか。 憤懣やるかたなく、激怒する、きみ。 そうこうしているうちに、混乱した頭のなかから、さまざまな疑問が吹き出してきて、なかよしなのに、なぜ来ないのか、 娘が結婚する相手が同性の女の人だから? それとも女房となにかあったのだろうか? 困ったなあ。 往々にして、真因は、単純に「行きたくないから」でしょうが、それはまあ、いまはどうでもよろしい。 英語社会では、取り分け、日本の人が嫌いでなくもないらしい上流社会では、「そんなことしたら、世間様の評判が落ちるやん」なことをする人が、たくさんいます。 なんちゅうことをしてけつかるねん、このクソババア、と思われている本人の心中に立ち入ってみると、… Read More ›

日本語人と

だんだん習熟と呼べる状態になってくると、日本語では「十分に考えられていない」のではないかと疑う感覚に陥る。 ほんとうにそうなのかどうか。 なんだか日本語でひとと話していて、ふと、真剣ではあるが、やや子供っぽい二十代の人と話しているような奇妙な気分になることがある。 言語習慣上の理由によっているようです。 海の上で盗まれたものの話をしている。 ディンギイをジェットスキーに乗ったカップルに持っていかれてしまった人、コックピットと呼ぶ後甲板に置いてあった双眼鏡を忍び寄ってきた、やはりジェットスキーのカップルに盗られた人、 たいてい入り江での停泊中で、オークランドのハウラキガルフだと、ワイヒキという観光開発が進んだ島があって、その島の南側のいくつかの入り江が最も盗難が多発するが、あるカップルなどは、乗ってきたヨットを、上陸して、丘のうえのカフェでコーヒーを飲んでいるときに盗られてしまった。 「いくらワイヒキが危ないからって、ここからはヨットが見えるし、安心だね」と言い合いながら、コーヒーを楽しんでいたら、いきなり錨がするするとあがって、帆もあげずに、エンジンで、すううううっっと湾外へ出て行ってしまったものであるらしい。 「見てるから安心」という理屈が、いかに間違っているか、よく判った、と述べて笑っていたが、おなじマリーナの、おなじピアの誼で、海上で会うと、お互いの船の上や、どこかの島のパブで、一緒にビールを飲んで話をする仲間の、いまはニュージーランドに住むUK人が、訊ねられて、ちょっと考えてみて、ぼくは何も盗まれた経験はないな、と述べている。 少し、間があって、(いつのまにか)釣り竿がなくなったり、コックピットに置いてあった財布がなくなったことはあるけどね、と述べている。 ふと、そのときの会話を思い出して、あれは、もしかしたら、日本語人ならば、「ぼくも盗られたことがある」と言うのではないかと考えていました。 人格に依っているわけではなくて、英語人にとっては普通のことで、「たしかに事実である」ところまでしか話さない。 盗られたのかもしれないが、スウェルでおおきく揺れて海に落ちたのかも知れないし、釣り竿ならば、海から大鮹が這い上がってきて、海のなかまの恨みを晴らすために担いで海底へ持っていってしまったのかもしれない…. というのは冗談だが。 日本語は感情を表現することに一日の長がある。 語らずして、文章に感情を纏わせる、というのは他言語ならば名人芸に属するが、日本語では、およそ「日本語が書ける」人なら、比較的簡単に、巧まずにやってみせられます。 どちらかといえば、情緒と感情が過多で、あんまりものを考える習慣がないひとであると、好き嫌いと道理の区別がつかないことさえある。 好感が持てる人の主張は、なにごとによらず正しいことになってしまうことも多いので、好感なんて他人に持ってもらいたいと思わない人間が、案外な数で跋扈している英語人から見ると、たいへん感情に左右されやすい、時には、悪くすると、所謂「なあなあ」の、卑しい和やかさに支配されやすい世界にさえ見える。 仲間外れ、という日本語があるが、この工夫もなにもない表現が、何食わぬ顔をして何十年も生き残っているのは、それが日本の人が心のうちで、心底怖れている状態だからなのではないか、とよく考えたものでした。 わたしは、ひとりで、ここに来ました。 わたしは、ここから、また、ひとりで立ち去るんです。 もし人間の本質を成している魂が、来歴と将来の見通しを訊かれれば、他に応えようも無く、ただ、そのふたつの真実を述べるしかないだろう。 感傷でも抱負でもなくて、ただの現実を述べているだけのことで、親友ができても、恋人ができても、その恋人がやさしい人で、伴侶になり、あるいは父親や母親になっても、きみが、ひとりで、ここまでやってきて、未来においても、ひとりで去っていくことになるのは、単純な現実にしかすぎない。 もしかしたら、日本の人が「自分という、最高の、ゆいいつの友だち」を大切に出来ないのは、人間は例外なく、ひとりぼっちなのだ、ということが、実感として、当然の感情として、判っていないからではないだろうか。 人間の言語、取り分け日本語は希望をもつことにも絶望することにも向いていなくて、もちろんコミュニケーションなどは、大の苦手で、ときどき言葉で判りあえたようなオメデタイ気持になるのは、アルコールの過剰摂取によっているか、あるいは、ものを考える習慣がないからでしょう。 強く、手を伸ばせば摑めるような輪郭が太い線で描かれた希望を持つことが出来ず、十分に深く絶望することも出来ないのは、山を移すためのツルハシには決して手が伸びず、偉そうに批判の言辞を弄んで、twitterのような場所で滑稽なばかりのアジテーションまでやってみせるのに、日本語人は銃を手にとって、震える手で銃に弾を込める絶望の深さには決して届かないことひとつをとっても明瞭な判り方で判るもののようです。 そうして、その絶望と希望の欠落も、日本語という、お互いの顔色を絶えず窺って、相手の頭のなかにありそうな「正しい」ことを口にするのが習慣の言語に由来している。 日本語が理解できるようになってくると、他言語と比較において、日本語世界では革命はおろか、本質を変更する深みのある変革も不可能であることが判って来ます。 簡単に言ってしまえば「いろいろ言ってみるだけ」の言語で、これは、例えばtweetを「つぶやき」という、とんでもない誤訳 (いつも誤解して憤慨する人が出てくるので、先んじて述べておくと、この場合の「誤訳」は比喩で、つぶやいてみせる日本語人がtweetが「囀り」に近い言葉であることを知らないと考えているわけではありません)が流通してしまうのも、言語の性格が、自分の情緒を、以心伝心、他者の海へ、波として伝播することに偏っているからでしょう。 そんな言語で社会が変えられるとおもうほうが、どうにかしている。 それに、言語の性格上落ち着いて観察すれば判るが、耳に入ってくるセンテンスの解釈なり即座の分析なりも、ちゃんと最後までやりはしないので、 なんのことはない、話す方も「つぶやき」だが聞く方も、特段に意味がある言葉として聞いているわけではなさそうです。 だから日本語はダメだと言っているのかというと、そんなことでは全然なくて、言語としての役割が異なるのだと述べている。 日本語人は、時に、生身の人間であるよりは、シンボルであるように見えることがあって、体臭もなく、マネキンのようにツルリンとした魂で、ただただ、言ってみれば剥き立てのゆで卵のような人生を生きようとしているのだとおもうことがある。 この世界に、ひとりでやってきて、ひとりで去って行くのは他言語人と変わらないが、日本の人には、どこか、陰から生じて、陰に消えてゆくようなところがある。 距離というものは偉大なもので、常に本質だけが見える見え方を与えてくれて、日本語人のそういうところが、途方もなく好きになる。 日本語人は、いま、和魂洋才なる言葉まである、150年の軽佻浮薄に、別れを告げようとしているのだとおもってます。 多分、ことの初めから、いわば、西洋人の頭をなでる「いいこいいこ」の「お愛想」として以外は、西洋の価値などに洟もひっかけない中国語人が、ここに来て、自信をつけて、例えば民主主義や自由主義などは西洋人の多分に甘ったれた幻にすぎない、と言葉にして述べだしていることの影響もあるのでしょう。 日本語世界には日本語世界の価値があるのだ、というような20世紀的な、肩肘を張った主張ではなくて、もうこれ以上は西洋価値に付き合えない、あれは身につかない、と社会の潜在意識が気が付いてしまっているのかも知れない。 簡単に言ってしまえば、もう日本語人は「西洋文明を理解・消化して、それに基づいた独自の言語文明をつくる」などということは、言葉で言ってみるだけの「お題目」に過ぎなくて、そんなことは現実には有り得ないことなのだと、主に、文字通り桁違いに増え続ける情報の巨大な濁流を前にして、「判ってしまった」状態にあるのだとおもいます。… Read More ›

日本人と韓国人

「パンドラ」という韓国に舞台を移して福島第一事故を描いたような映画がある。 細部は異なっているが、おおまかな構図はおなじで、多分、プロデューサーは、福島第一事故が韓国で起きたら、どうなるか、という興味で映画を製作してみたのではなかろーか。 サスペンスが闇雲に好きな韓国の人の趣味が出ていて「楽しいB級作品」と日本なら呼ばれそうな出来に仕上がっているが、この映画のなかに、 「日本人なら、もっと事故を巧く処理できたのに、我が国は、なぜこうなのか?」と嘆くところが出てくる。 出てくる、と言っても、韓国語は拾い聞きで、アジアの映画であると、往々にして、まったく会話に登場しないことを訳す悪癖がある英語字幕に頼った情けないありさまだったので、覚束ないが、大意、たしかにそう述べていた。 韓国の人は、日本の人の鏡像というか、似ていて、よく日本と韓国を比較する。 夫が英語人の韓国人の友だちがいて、よく4人で会合して遊んだが、この人が、会うたびに日本と韓国の比較をしてみせる。 民度、という言葉を使うところまで日本の人と同じです。 十年前は、「アジアでは、やはり日本がいちばんで、次が韓国だ」と述べていたのが、数年前に会ったときは、「日本と韓国がほぼ同程度で並んでいる」になっていた。 もしかしたら、いまは「文化では韓国が日本に勝っている」と考えるようになっているかもしれないが、思うだけで、口にだすほど品性を欠く人ではないので、言葉にしては言わないでしょう。 なんとなく、COVIDが終わって次に会ったときは、お得意の日韓比較はしてみせないような気がする。 日本語のネットを見ると、口汚く韓国を罵る人がいて、一方で韓国のことならば、なんでも日本より優れていると言い立てる人がいて、びっくりしてしまうが、韓国船のレーダー照射事件があったでしょう? あれが日本の人に「韓国は日本を敵視して、ことあるごとに神経を逆なでにかかっている」と思わせる、錯覚を与えるため(←何の為に?)の社会全体の構図で、事件後すぐに田母神俊雄元空将が述べていたように、韓国船の行為は、まったく普通のことで、軍人ならば、なぜ一国の首相まで逆上して怒り出さねばならないのか、理解しかねる「事件」だった。 日本の人でなくても騙されてしまう仕掛けを簡単に説明すると、まず前提となっている日本の海自哨戒機のなかの、いかにも冷静に「敵」のレーダー照射による挑発をプロとして淡々と処理する乗員たちの会話が、不自然で、ニュースを観ているほうは「韓国の危険な挑発行為」と思い込まされる。 田母神俊雄は、そのことに気が付いて、軍隊として不健全だと言いたかったのでしょう。 結局、いつもは味方してくれるネット右翼と安倍政権支持者の袋だたきにあって、 裏切り者とまで呼ばれて沈黙してしまったが、あの人は、あれで、日本の人のなかで自衛隊に胚胎する腐敗の危険を最もよく感じ取っている人なのかも知れません。 「相手に反論させない」技術ばかりが異様に発達した日本語では、こういう全体の仕組みとして詭弁をなしている、社会がまるごと加担した非常によく出来たカラクリがあって、うっかり観ていると、とんでもない架空な事実を信じ込まされてしまうので、別に日本の人でなくても、首相からして韓国指導者への嫉妬を隠すことさえ出来ない社会になってしまえば、騙される、というより自然と疑いようのない現実だと認識してしまうのも無理はない気がします。 韓国の側には、そういう手の込んだ仕組みは存在しないので、主にネットを通して見聞きしたことをもとに、普通に印象を形成していくが、少なくとも英語圏で会う韓国の人は、日本を共通の問題をおおく抱える、自分と似たところがある隣人として考えている。 少なくとも英語圏で会う韓国の人たちは日本の人の多くが韓国人を毛嫌いしていることも、よく知っていて、自分たちの社会が抱えるネット上のゴロツキたちが、日本人のゴロツキたちと、言い合いを繰り返しているのも、よく知っているようでした。 傍で見ていると、韓国人友がよく言うように、「個人にとっての社会の生きづらさ」が似ている。 自殺が多いことも、共通している。 社会という万力でゆっくり締め付けられて肋骨が折れ、背骨が砕かれるようにして、魂が社会に殺されてゆく。 韓国に住んでみたことがないのでディテールを伴った実情は判らないが、たいへんな女性差別社会であることや、学歴社会で、しかも「学歴」という言葉が、本来意味するPhDなのか修士なのか学士号だけなのか、ではなくて「どの大学を出ているか」であることまで同じであるようです。 「地方大学」なる単語が存在して、ソウル大学のような一流と目される大学ブランドと対比されて、「地方大学」出身者は、就職ですでに大きな壁に直面して、幸運にも採用されても、一生差別が続く点では、聞いていると、案外と縦に流動性がある日本の学歴社会よりも、硬直していて、差別も激しいようでした。 日本語ネットで、日本の地方都市からアメリカへ渡って、ウォール街で職を得て、アメリカ金融社会で社員として成功したという女の人とtwitter上で話したことがある。 話をしてみると、まともな人で、日本の女の人を狙い撃ちにして虐待を繰り返す社会にうんざりしたのでしょう、日本の地方からニューヨークに出て、苦学力行そのまま、アメリカ人に伍して恙なく勤め人人生を終えるのは、気丈な人なので、口にしないだけのことで、たいへんな苦労があったに決まっているが、 困ったことに、この人が加担していたのは、CDOを悪用して貧乏人たちからカネを巻きあげて、やがて反発からトランプ大統領を生むに至った集団詐欺時代のウォール街で、それを、まるでバブルの土地転がしで貧乏人からカネを巻きあげて大儲けした時代の日本の不動産会社員そのまま、謳い上げるように誇って、日本の社会は、ウォール街を見習うべきだ、などと言い出すので、ブロックしたことがあった。 えらい勢いで「ド素人になにが判る」と息巻いていたが、そのときは言わなかったが、その「ド素人」ほども現代金融の仕組みが判っていたとは思えません。 知っていたら、まさか、あの時代の、あんな街で生きていこうとは思わなかっただろう。 おもしろいことに、ほぼ同じ立場にいた韓国人の男の人は、やはり退職したあとで、ドキュメンタリのなかで、英語人のインタビュアーに、「あなたは自分がウォール街で犯罪的なマネーゲームに加担していたことを恥ずかしいとおもっていますか?」と、訊かれて、 それまで明るい顔で、ウォール街時代の躍動的で「エキサイティング」な日常を語っていたのに、突然、下を向いて、沈黙して、そのうちに、もう我慢できないというように涙を流し始める。 もちろん、正しいことではなかったし、いまでも我々の犠牲になって家を手放さなければならなかった人たちには申し訳ないとおもっている、と述べた。 韓国の人が持っていて日本の人にはないものの最大のものは倫理だが、 自分の内なる倫理に徹底的に痛めつけられて涙する姿は、韓国の人たちの人間性をよくあらわしていた。 韓国系友は、「そう!韓国人は倫理意識が強いんだよ。倫理倫理で、倫理ばかり拘って仕事をしなかったから日本の植民地にされたのに、おれたちゃ、いまだに判ってないんだ!」と笑っていたが、この社会を一本貫く剛性の強い倫理が日本と韓国をおおきく隔てて、食事の途中でスプーンをおき、オフィスでは表計算の画面をそのままにして、政府への抗議のために通りに出て街を埋めつくす自由への断固とした態度になってあらわれている。 この韓国友は、倫理意識が強いから日本人より韓国人のほうが悪い奴は、ずっと悪いんだぜ、と言ってへたっぴなウインクをしたりしているが、観察していると、言わないだけのことで、どうやら韓国の人たち自身も、自分たちが骨がらみに身に付けている倫理が自分たちを、機会さえあれば他人や他国を踏みにじる日本人から分かつものだと理解しているもののようでした。 韓国人友は、よく「日本人のほうが物事を冷静に処理する能力がある人が多くて、羨ましい」という。 韓国人は、感情的でダメなんだよ。 職場ですら、すぐ喚く、怒鳴る、机を叩いて怒る、ひどいやつになると、部下で、自分よりも地位が下で刃向かいできないと見るや、平手打ちするのまでいる。… Read More ›

後ろ姿の日本

日本の様子どころか、日本の人の考え方や感情の動き方が、どんなふうかの感覚もなくなってしまったので、いよいよ頭のなかの「日本」も乏しくなって、言語としての日本語だけが頼りで、日本語をめぐるシチュエーション全体が不思議なものになっている。 簡単にいえば、以前には「こちらのいうことが判ってもらえなくて、がっかりする」ことが多かったのが、最近では、それに加えて、日本語人が言っていることのほうも判らなくなってきたので、会話が成立しないところに来てしまっている。 困ったなあ、とおもうが、困るだけで、なにか出来るわけでもないので、ほっぽっておくしかないよね、ということになっています。 社会的には女のひとをめぐる考えは、むかしから、理解できないくらい隔絶があった。 伊藤詩織さんの勇気がある行動で世界じゅうに知れ渡った日本の女の人への社会を挙げての絶えざる虐待は、端的に社会事象として顕れているだけで、普段の感覚から、デカ目デカ胸ミニスカ愛好家が雲霞のようにいることから始まって、性的犯罪者に甘い、「あのひとはいいこともやっているから」 「彼は将来がある人間だから」で、神様が雲のうえから見ていたら、椅子からずるっこけて地上に墜ちてきてしまいそうな、すごい理屈が社会の通念になっている。 英語世界も、長い長い男主導の歴史がある社会なので、至る所で「男のほうが偉い」が顔をだすが、それにしても、例えばニュージーランドでふつーの男の人は、日本に移住してくれば、過激なフェミニスト、と看做されることになりそうです。 日本では女の人は、根底的に性的消費物で、かろうじて生殖機能において社会に貢献しているだけで、ときどき研究者としてすぐれていたり、バリバリに仕事ができる「キャリア・ウーマン」であるのは、間違って女に生まれた「例外」なので、なんだかもう別世界で、女の人の地位のランキングが世界で122位だかなんだかだそうだが、別世界のものを同じランキングで並べても仕方がないんじゃないの?というくらい社会として異質である。 アメリカ合衆国などは英語世界では性差別が激しい男社会で有名で、ほかの英語世界からは、あきれられたり、疎まれたりして、女のひとの側だって、黙っていはしないので、論点をはっきりさせて毎日闘っているが、日本の場合は、それともちょっと別で、レディファースト文化とフェミニズムがごっちゃになっていて、「女性を尊重する」と繰り返し述べる人の書いたものを読んでいても、女の人を大事にするのは、いいが、そもそも、その「女の人」自体を自分とまったくおなじ人間だとは看做していないのが言葉の端々から感じられて、読んでいて、げんなりしてくる。 例えばアトランタに行けば、むかしから、女の人は、たいへんに丁寧に対応される。 エレベータに乗るでしょう? ボタンは必ずボクスに同乗の男の人の誰かが階を訊いて押してくれます。 下りるときは、人の壁がさっと空いて、真っ先に降ろしてもらえる。 ドアに近付くと、男の人の誰かが、間髪をいれずに開けて、特に自分でドアに手を触れる必要はない。 自動ドアが普及して、いっそ不便になったといってもいいくらいです。 女の人に失礼なことを言うなんて、とんでもないことで、礼儀をわきまえなければ、レディに失礼なことを言うな、近くの男の人に睨まれて、下手をすると殴られるかもしれない。 しかし、こういう土地柄の町では、当然に、女の人の、男と対等な人間としての地位は、とても低い。 まして男と女は、対等もなにも、まったく同じ人間だと述べると、相手は吹き出すかもしれません。 日本語世界では、どうも、そこのところが、ちゃんと呑み込めていないらしい。 なにからなにまで異なっていて、日本語人で最も友人になるための障壁になっているのは、このぎょっとするような女の人たちへの考え方で、自分の経験でも、温厚で成熟したおとな(そこのきみ、なにを笑っておる)であるわしが日本語で激怒に至るのは、特に、友だちだとおもっていた相手においては、いったい女の人をなんだとおもっているのか、と、やりきれない気持ちにさせられた時で、がっかりさせられて、こんなバカを友だちだとおもっていたのか、と、自分の愚かさにも腹が立ったときに限られるようでした。 別に異なるからいかんいかんと述べているわけではなくて、そもそも日本語に興味を抱いたのは、なにからなにまで世界の他の国と異なっていて、なんでんかんでん正反対と言いたくなるくらい違っていて、それであるのに、ちゃんと普遍性を持つ文明として成り立っていたのがおもしろかったからで、 なぜ「普遍性がある」と初めから確信していたかというと、日本文明の「美」への、いわば審美眼がしっかりしているからでしょう。 ガキわしが、むかし、日本に滞在して息を呑んだのは、判らないなりに能楽であって、竹の林に囲まれた、苔むした石の階段がある寺であって、クルマからおりて、かーちゃんや妹とみあげる小高い丘の鎮守の森であって、 折にふれて呼んでもらった、廻廊に囲まれた中庭のある料亭の佇まいであって、美しく、華やかに、でも、はんなりと着飾った女のひとたちの畳の上に座った姿だった。 そうしたものたちの、いちいち美しい、一幅の、注意深く構成された絵画のような日常が、普遍性となって、言語にも灼き付いている。 小津映画に狂ったりして、後年に、だんだん日本について判ってくると、二層構造のように感じられて、京都の、この世のものとはおもわれない美しい建造物と庭園群が、フランス人向けの有名ガイドブックに「寺と寺のあいだは醜悪な景観が続くので下を向いて歩け」と書かれてしまう、醜い通りで結ばれている。 気高い美と、ドロドロと呼びたくなるような情欲と物欲がむきだしの、蛮性を帯びた下級兵卒の群れであるような醜悪な人間の群れが混在している。 いまでも理由は、ちゃんとは判っていないが、この日本語のブログでも何度か書いたように、部分として気が付いたことは、いくつかある。 日本語社会が西洋的な倫理を持っていないこと。 どうやら、その原因は、効率的に、強い軍隊と、その軍隊を生産面で支える近代風な社会をつくろうと考えて、例えばintegrityのような倫理語彙には「余計なもの」として訳語さえ与えなかったこと。 20代になって、おとなになった自己で実地に日本社会を経験したくなって年に数ヶ月という長さで滞在してみると、いろいろなことを通じて、事情がわかってきて、例えば、食べ物でいえば「ほんもののカルボナーラ」というような言葉に遭遇して、カルボナーラなんて戦後窮乏してタンパク質源が決定的に不足したイタリア人たちの窮状に同情したアメリカ軍が、無料で大量に放出した鶏卵を日常料理として取り込んだローマのレストランがレシピをつくった知恵で、今出来もいいところで、「ほんもの」もなにもないもので、現実にもイタリアをクルマで旅して歩けば、一目瞭然、卵とパンチェッタかなにか、加工肉が載っているのがゆいいつの要件で、呆れるほど異なる様々な「カルボナーラ」があって、変幻自在、融通無碍で、年を追うにつれて、シェフが代わるにつれて、どんどん変化もしていくが、日本では「これがホンモノのカルボナーラです」という。 そういった細部を見ていて気が付くのは、「模倣」というものに、付きものの、有名な欠陥であって、根が大地に付いていないものだがら、固定的で、変化させていけない部分が、社会のあちこちに出来て、その部分から社会の進展の足を引っ張りだして、最近では、到頭、腐臭がする部分さえでてきてしまっている。 もうひとつは、西洋から輸入するときに解釈に失敗した事物が、異様なものに変化した例で、たとえば「全員が納得するまで話しあいを続ける民主主義」なんて、民主主義総本家のフランスや、テキトー民主制のイギリスの人間が聴いたら、ぶっとんでしまうような考えを、いいとしこいたおとながマジメに信じている。 どんな結果になっているかですって? 当たり前の帰結で、なにも決められなくて、なにも変えられなくなっているのに決まってるじゃないですか。 余計なことをいうと、この「全員が納得するまで話しあう」という素っ頓狂な民主社会のアイデアは、多分、近代以前の村の寄り合いや、上は、老中会議のような「合意探し文化」を、そのまま民主社会の議論のやりとりで出来た意志決定のための会議に投影しているので、正体は、もたれあい社会に典型的な全体主義です。 「個人」を殺し、異物を排除し、結束を固めて厄災を乗り切ろうとする。 なかでも戦後にアメリカから運ばれてきた考えから腐りはじめていて、日本の伝統的な体質と齟齬をきたす企業社会のありかたなどは典型で、終身雇用をやめてフリンジベネフィットや名誉の分配で成立していた企業社会に、アメリカ式のコスト主義と競争論理を持ち込んで、安定と安心を求めて、引き換えに全体への献身を惜しまない日本企業文化を見事なくらい破壊してしまった。 破壊してアメリカに成ってしまえればいいが、そこは模倣の悲しさで、 一方では大学を卒業すると志願兵みたいな若いひとびとが一斉就職をして、年をとれば、… Read More ›

友だちへの手紙 2

このごろ、よく、アミどんはどうしているかなあ、と考える。 巖谷さんやなんかからも、「あの人は、どうしているのか?」と聞かれるけど、ぼくもアミどんがどこにいて、なにをしているのか知らないんだから、答えられないよね。 アミどんは、とてもとてもダメな人だった。 ほら、(村上)憲郎さんと進退を相談したとき、憲郎とーちゃんが、 「嵐のときは、身を伏せて、じっと我慢することも大事です」と述べていたでしょう? 自分は、攀じ登った機動隊の装甲車の屋根で石を投げて頑張って、機動隊に投げ返された石の直撃をくらって、遙か眼下の川に落っこちたりしてたくせに、なにを言ってるんだろうね、と、ふたりで大笑いしたけど、現実の知恵というのは、そういうもので、憲郎さんは、「自分は、こう述べなければいけない立場なのだ」と自分に言い聞かせて、「もっともらしいアドバイスをするおっちゃんの役」を引き受けることにして、自分なら従うはずもないアドバイスをくれたことを、きみもぼくも、知っていたけど、現実社会を生き延びようとおもえば、正しいアドバイスであったことも、ほんとうだとおもいます。 ぼくが編集者としてアミどんをベタボメしたことは、日本の社会のありかたを考えると、きっとアミどんにとっては、たいへんな負担になったでしょう。 ほめちゃいけないんだよね、日本の会社って。 アミどんは強気で、それまで勤めていた砥石出版の安月給では働きたくない、とヘッドハンターに紹介された面接で述べたと聴いて、やれやれ、あいつはやっぱりおれのソウルメイトだぞ、と考えました。 ぼくはね、普通は、他人のことは、どうでもいいの。 まあ、自分でしっかりやってください、とおもうだけです。 でも砥石出版でアミどんが遭遇した紛うことなき「集団イジメ」には、すっかり逆上してしまった。 特に同僚たちがコロナでの出勤を拒んだアミどんに、アミどんがインターナショナルスクール出身であることに、引っかけて、「グローバル戦士」と揶揄したと聴くに及んで、逆上を通り越して、心からの憎悪を感じました。 なんだか、日本社会の、いまの深い深い病を、そのまま会社として体現したような、お話しだった。 冷笑と軽く見せかけた心底からの悪意に満ちた揶揄。 しかも集団で。 アミどんは、どれほど、つらかっただろう。 あんまり詳らかに話すつもりはないが、アミどんが正しくも感じた「学歴と男性であることの優位」に安んじて寄りかかって、アミどんを思うさまいたぶりたかったのでしょう。 会社の幹部たちが、密室にアミどんを閉じ込めて、罵倒に及んだと聞いて、なんだか、事態が判ったような気がしました。 だから誰よりも誰よりも法律沙汰が嫌いなアミどんが、どうしても「タダではやめさせない」と恫喝に及んだ会社を相手に弁護士を雇うことにしたのにも驚きはしなかった。 ルールとは別のところで、「こんなに残酷な会社が世の中にはあるのか」と考えて、涙が出ただけだった。 あれからね。 アミどんが予測したとおり、 会社から、なんにも言ってこないよ。 きっと、そうだと、きみもぼくも思ったわけだけど、 ほんとうにその通りだと、なんだか呆れちゃうよね。 いまに至るまで、ひと言も、なんの連絡もない。 菊地信義さんのドキュメンタリがあったでしょう? あの映画のなかには、アミどんが大好きだった「良い本バカ」の世界の人間が、たくさん出てきます。 紙はどうするのか。 インクは、これがいいのではないか。 資本主義の社会では「取るに足りない」といってもいい規模の会社のひとたちが、おおまじめに、ああでもないこうでもない、なんだか手探りで、 まだ見たことのない「良い本」をつくろうとするのだよね。 そのなかで、アミどんの会社の編集責任者の、有能実直サラリーマン風の人だけが、まるで、そつのない営業サラリーマン然として、目立っていた。 見ていて、ああ、アミどんが苦しんだ原因は、これか、とおもいました。 アミどんは「良い本バカ」でいたかったのに、良い本づくりのメッカと信じて入った会社は、1ヶ月に2冊発行というマヌケなノルマがある、ブロイラーに卵を産ませるように編集者たちに本をつくらせる会社だった。 酷い言い方をしてはいけないが、このあいだ、初めて、アミどんが辞めた会社の出版した本の一覧を眺めていたら、「一流(とされている)著者の三流本」を出す会社だよね。 ブランド主義です。 マーケティングで本を出す会社で、もともと日本語で本を出版する気なんてなかったぼくは、どんな出版社か知らなかったが、なんだかバナナリパブリックやなんかの末期みたいというか、「昔の名前で稼いでます」ちゅう印象が拭えませんでした。 「知的と自惚れる読者なんて、こんなもんだ」という声が聞こえてきそうな、辻井喬が社長だった、バブル時代のパルコやなんかと同じような、「お客様はバカだ」とタカをくくった眼差しの会社に見えました。… Read More ›

友だちへの手紙

スマートフォンの画面を見つめている。 長い髪から覘いている二本の白いケーブルが世界から話しかけられることを拒絶している。 午前3時の雨に濡れた歩道を歩いている。     何度も、この世界を破壊しようと考えたのに、世界は悪巧みと邪な知恵に満ちて、壊されるのは、わたしのほうで、圧倒され、侵入され、もみくちゃに消費されて、裏通りのダンプスターに放り込まれる。 どうすればいいのだろう? もっと強い言葉を獲得すればいいの? わたしが心から求めている表現は、いったい、この世界のどこにあるのか? どんなに息を詰めて潜っていっても、水底に手がつかない、息が苦しくなって、水面を明るく照らしている見せかけだけの陽光に帰らなければいけなくなる。 どうすればいいのか? いっそ銃砲店のショーウインドウをたたき割って銃を手に入れて、あの高い塔から逃げ惑うひとびとを撃ち殺せればいいのではないか。     空にはガーゴイルたちが飛び交っている 空には精霊たちが立ち尽くして地上を見つめている     あなたには、それが見えないのか? 自分が生まれてきた人生で成功しているというだけで すっかり機嫌がいい 豚たち 22ndからウクライナ人たちのコミュニティまで歩いていった 他に行くところもなかったから   涙が止まらない 悲しいことなど、なにもないのに 息ができないほど嗚咽がこみあげてきて 唇をかみしめて 拳を握りしめて でも、そんなことは問題じゃないんだ わたしが泣いていることよりも まして、わたしが苦しい気持ちでいることよりも わたしという体積が この大気をおおきさのぶんだけ押しのけていて、 少しだけ空気を濃密にしている そっちのほうが ずっと大事なことなんだ、 「もの」は精神よりも重要だ、と、そのひとは述べていた。 奇妙なくらい身体がおおきくて ぼくは歩く塔なんだとでも言うように、途方もなく背が高くて… Read More ›

ものごとの順番について

わしはテキトーが好きである。 達成は完全達成を理想とするが、ほら、iPhoneの充電だって92%まではスイスイいくけれども、最後の8%は、なんだ坂こんだ坂で、峠の釜めしが欲しくなるスイッチバックでしょう? だから、たいていは92%やれれば、よしとする。 88%のときも、ある。 なあんとなく良心が咎めるので告白すると62%でいいや、ということもあります。 家事を手伝ってくれているひとたちは、プロなので、あっというまにキッチンベンチはピッカピカ、鍋はごしごし、ワイングラスきゅっきゅっで、あっというまにHaloが射すキッチンにしてしまうが、あの楽しかった日本時代、通いのお手伝いさんがいるだけだった、なんでんかんでん新婚のふたりで自分たちでやらなければならかった日々は、わしはキッチンの片付けひとつでも、性格が出て、ちょっとづつ、のべつまくなしにやっていた。 家事につかれると、というほど家事をやるわけはないが、ワイングラスの赤みがなかなかとれない苦しさに耐えかねて、ホテルに移動して、すべてが自動的に綺麗になる生活を楽しむことになっていた。 靴下は右と左が同じ色同じ柄であることは、まずない。 ひとに言われると、「新しいファッションです。知らないの?」と言う。 胸をはって述べるのがコツです。 Tシャツは、だいたい3回に1回は裏返しです。 前後が逆であることもあります。 パーカーを、驚くべし、逆さまに着ていたこともある。 このくらいテキトーになると、家を出たときの心配も、その辺の凡俗のひとびととは異なるのであって、モニさんと結婚する前は、ひょっとしてズボンをはいていないのではないかと軽いパニックになって下半身を見ることも多かった。 パーキングブレーキを引いたまま出かけてしまう人というのは、そのくらいの心配はしないと、颯爽とクルマのドアを開けて下りると、なんだかが、だらりんと垂れていて、通報しました人があらわれて、お巡りさんが駆けつけてきかねない。 バルセロナのように、全裸でランブラに立っていたら、親切な人がよってきてチン〇ンも七色に塗り分けて絵の具でサイケデリックな洋服をかいてくれた、というわけにはいかないのです。 強調しておくと、わしのことではないが。 のりしろ、という。 余白でもいいかな? きっちりしてしまうと、ぎゅうぎゅうで、融通が利かなくなるので、 「まあ、このくらいはいいや」という「あそび」がなければ、例えばレシプロの飛行機でも離陸も出来ないのは人間が積み重ねてきた知恵としてわかっている。 ホーカー社だったっけ? 尾翼の昇降舵のワイヤーに遊びがありすぎて、飛行機がコントロールできなくてテストパイロットを激怒させた航空機会社もあるが、あれはたしか10cmほどもゆるかったという、とんでもない例で、通常は、飛行機もゆるいほうがよくて、タイガーモスやソードフィッシュのような、パイロットが、なあんにもしなくてもスロットルさえ、そそっと開けてやれば、ひとりで勝手にフワッと浮いて、上昇していってしまう飛行機というのは、やっぱり、きっちり組まれてはいなくて、張り線ひとつとっても、キンキンに締め付けてはいないもののようです。 きっちり物事をやりぬくことよりも、なにを重要と目して初めにやるかのほうが、遙かに重大であるのは、だいたい20年も人間をやっていると判ってきて、具体的には、優先度順、というか切迫度順に、上から3番目くらいまで順位をつける。 日によって異なるのはあたりまえで、 1 地雷の除去 2 鉄条網の断開 3 匍匐前進後伏射 という人もいるだろうし 1 あっちゃんにキス 2 訓示文の作成 3 刑務所で服役中の上司への差し入れ という人だっているはずです。 あっちゃんにキスするほうが、仕事に優先しているのだから、悪い人であるわけはない。 ところがですね。 この30だか40だかの「やるべきこと」があって、みっつしかやらないで今日はよしとする、というのは、意外と気持ちの上で難しいんです。 問題が解決に至る時というのは、本人が調子がいいときなので、おもわず、5つも6つも仕事を片付けてしまう。 況んや、仕事が早く終わると「きみ、有能だねえ、そんなに簡単に仕事が片付くのなら、申し訳ないけど、これもひとつお願いできないだろうか」と言い出す上司がいる職場に、おいておや。 平仄、これで、あってんのかな。 自信がないが調べるのがめんどくさいので、良い事にします。… Read More ›

GRAS あるいは工業製品としてのトウモロコシについて

(この記事は2013年5月2日に「ガメ・オベール日本語練習帳ver5」に掲載された記事の再掲載です)   メキシコ滞在の楽しみのひとつは「おいしいトウモロコシ」であると思われる。 紫色のは特にうまい。黒いのもうまいと思う。 食糧危機はこない、という議論は日本語世界でよくみかける。 英語人でも同じことを言うひとがいるのかも知れないが、ぼくは見たことはない。 放射性物質の害などたいしたことはない、程度の問題だ、という議論も日本語では声がおおきいが、英語では「札付き」のひとが述べるのを目にすることがある程度なので、 自分が住んでいる世界には悪いことは決して起こらない、起こったという人は頭が悪い怖がりか悪意のひとである、というのは日本語を使って考える人たちの言語族的な強い傾向なのかもしれません。 食糧危機がなぜ起こらないかというと、食料が限定要因になって人口が抑制されるからで、従っていつも食料は足りているはずである、という。 なんとなくもっともらしいところが、放射能議論でもそうだったが、こういう説を成すひとの可笑しいところで、「なぜ人間は絶対に死んだりはしないか」について滔滔と説明する5歳児を思わせるが、この手のひとはこういうと色を成して怒るに決まっていても、相手の肩書きが物理学者であろうが医学者であろうが、「話すだけムダ」と感じる。 「なぜムダなのか」をこのブログの記事で書くのでもなんでもいいから、書いたものを通じて話すほうが理性的でもあれば生産的でもあるようです。 現実にはいまの世界は食糧危機の時代にもうはいっている。 「Food is Ammunition- Don’t waste it.」 http://www.ww1propaganda.com/ww1-poster/food-ammunition-dont-waste-it は、日本で言えば「欲しがりません勝つまでは」だろうか、第一次世界大戦の有名なプロパガンダだが、事情をよく知っていればもういちどこの標語を復活させたいほど、 食料は乏しくなってしまっている。 えええー? どこの国の話だよ。うちの近くのスーパーマーケットに行くと、食べ物は山のように積んであるぜ、オーバーなこと言うなよ、と口を尖らせてきみは言うであろう。 でも、食べ物はないのよ。 これから説明できるところまで説明してみようと思う。 GMO (Genetically modified oraganism)は、だいたい1990年代から商品化されてきた。 遺伝子組み替え工学が、安い賃金での長時間労働を厭わない労働文化と高い品質に支えられた日本の自動車・家電の大攻勢を受け止めきれなくなったアメリカ産業界の次期のエースとして、CPUなどの高集積チップと並んでテレビ番組でもてはやされだしたのは、フィルムを観ているとブッシュシニアが大統領として仰々しくモンサント工場を見学していたりするので、1980年代半ばだと思われる。 モンサント社がPosilacという商品名で、rBGH、(乳牛から大量のミルクを搾り出すための)ボーバインホルモン http://en.wikipedia.org/wiki/Bovine_somatotropin を商品化したのが1994年。カナダで有名な、Margaret Haydonたち3人の科学者の公聴会が行われたのが1998年で、このあたりから「食品の工業製品化」が進み出したのが観てとれる。 突然変異体を生産効率をあげるために食品に応用する科学の歴史は古くて、1920年代に遡る。 米のCalrose76はガンマ線の照射で作られたし、小麦の品種AboveやLewisはそれぞれアジ化ナトリウムと熱中性子で生成された。 熱中性子(thermal neutrons)と言えば、グレープフルーツのRio RedやStar Rubyもそうである。 容易に想像がつくことだが1953年にJames… Read More ›

プラスティックミート文明

(2015年5月26日に「ガメ・オベール日本語練習帳ver5」に掲載された記事の再掲載です) すべてはマクドナルドから始まった、と言ってもよい。 失敗しては職を転々とする絵に描いたような52歳の人生の失敗者レイ・クロックは、乾坤一擲、5種類のミルクシェイクを同時につくることが出来るという触れ込みのマルチミキサーをレストランに売り込むためにアメリカ中を旅して歩く。 どうも、この商売も、うまくいかないよーだなー、もうわしの人生おしまいでは、と思いながら、へろへろよれよれで立ち寄ったカリフォルニア州のサバーナーディーノの町で、このくたびれた中年男は不思議なものを発見します。 めだって清潔なレストランのカウンターに腰掛けてふと厨房を見ると、妙にたくさんの、妙に若い調理人たちがいて、よく観察すると、パテを鉄板に置くだけの人、ピクルスとレタスを並べる人がいて、それを組み立てる人がいる。フレンチフライを揚げるだけの高校生がいて、揚がったポテトを規格化された袋にいれてトレイに並べている。 規模もおおきく客の数も多いのに、メニューは大胆なくらいの品目の少なさです。 T型フォードと同じやりかたで殆ど正確に同じハンバーガーを大量生産するこの傑出したシステムを考え出したのはモーリスとリチャードのマクドナルド兄弟で、このハンバーガー組み立て工場とレストランのセットは、やがてレイ・クロックの手で世界中に広がってゆく。 http://kottke.org/13/03/early-mcdonalds-menus 大成功するビジネスに必要な要素は「遠くにあるふたつの要素を結びつける」ことだが、マクドナルド・ハンバーガーは、本来相反する「食べ物」と「工業的生産効率」が、このふたつの要素にあたっていた。 先週、モニさんたちがショッピングに出かけてしまったので、ひとり淋しくNetflixで「Columbo」(邦題:刑事コロンボ)を見ていたら、わしガキの頃にはまだ完全に絶滅してはいなかった昔式のドライブインが出てきて、大層なつかしかった。 クルマをパーキングに駐めると、ウエイトレスのひとがやってきて注文をとる。 トレイはクルマのドアに引っかけられるように工夫されていて、クルマの座席に座ったままハンバーガーが食べられるようになっている。 ウエイトレスのひとびとがローラースケートでクルマからクルマへ滑ってゆくレストランもあったりして、楽しいシステムで、好きだったがマクドナルドの効率にはまったく勝てないようでした。 リカトンに最後に開いたドライブインレストランは一年もたなかった。 一企業と見くびると間違えるので、マクドナルドはアメリカでいうと、ビーフ、チキン、ポークの全米1,2を争うトップバイヤーで、この巨大なハンバーガー工場に部品を供給するために1950年にはトップ5社で市場の25%のシェアを持つに過ぎなかった巨大食肉加工会社は2008年にはトップ4社で80%のシェアを独占するに至っている。 数字を挙げたほうが規模を実感しやすければノースカロライナのターヒールにあるスミスフィールドの豚肉加工工場では一日32000頭の豚が屠殺されてベーコンやハムに化ける。 一方でマクドナルドのようなレストランチェーンは添加物の研究所を持っていて、コガネムシのような甲虫類を使って味付けをする方法や自然な肉色が出る色素、その色素を使うことによって生じる特有の化学物質臭を消臭するための添加物、さまざまな物質を研究している。 政府の食品安全機関が、ゆっくりではあっても次々に「危険添加物リスト」を更新してくるからで、リストに載っていない人工添加物を常に公的機関が発見してしまう前に開発しなければならないからです。 マクドナルドは本来農業産物である食品世界を工業に「進化」させてしまった。 ニュージーランド人などは正真正銘の「英語世界のイナカモノ」なので、東京やニューヨークのような地価も物価も高いはずの都会に旅行して、5ドルで昼ご飯を食べられるのをみると、ぶっくらこいてしまう。 Chili’sのような安さが売り物のファミリーレストランでなくても、たとえば、多分ハリウッドが近いせいで、注意してみていると頻繁にテレビドラマや映画で、職場の同僚の誕生日のお祝いパーティや、クリスマスの「飲み会」に出てくるイタリア料理店「Buca di Beppo」 http://www.bucadibeppo.com/restaurants/ca/anaheim/menu/dinner/ のようなレストランでも、(四人前以上の分量と書いてあるが)東京なら優に8人前はあるスパゲッティ・ミートボール(L)が$24ドルです。 4,5人のグループででかけて、ひとつだけ頼んでもパックに詰めて持ち帰ることになるパスタと、やっぱり安いがひどく不味いわけではないワインでおなかをいっぱいにしてから、ふと考えると、どうして、こんな安い値段で料理がだせるのだろう、と、不安というほどではないが、なんだか釈然としない気持ちが胸をよぎっていく。 クニじゃあ、こんなことは、ありえねーんだけど、都会は不思議なところだのお、とちらと思う。 もうひとつイナカモノの例を挙げる。 日本語の本を買うのに、世界一だと思っている日本の古書店で買うことにしていたが、あるとき、「ブックオフ」チェーンには、ときどき、とんでもない稀覯本が単純に定価の半額で売ってあることに気がついて、おもしろがって、クルマであちこちのブックオフにでかけてみたことがある。 病がこうじて、新潟の村上まで出かけた。 途中で寄ったKFCで野球帽をかぶって、ユニクロの上に「ワークマン」の作業着をひっかけた、いかにも不作法なおっさんが、若い女の店員に、おおきな声で文句を言っている、いやいや、文句を言っているのかとおもったら、声の出し方が下品なだけで、冗談を言っているもののよーでした。 「こんな鶏がよ、ねーちゃん、世の中にいるわけがねーだろ」 「こんな、あんたの足みたいに細っこい骨でよ、ねーちゃんと違って、こんなに胸がでっかい鶏なんて、いるわけがねえ」 でへへへ、と笑って店を出て行ったが、この強烈に下品なおっちゃんの述べたことをおぼえていて、あとで農家の人に聞いてみると、このおっさんは下品だが真実を述べていたので、アメリカの鶏舎で隠し撮りした動画をみると、「改良」に改良を重ねて消費者が大好きな胸肉をおおきくとれるようにした鶏たちは、ほとんど歩くことが出来ない。 のみならず毎朝、ぼたぼたと病気の鶏が床に死体になって数羽、転がっている。 この50年間の製品改良で、生育期間は半分で体重は二倍という優秀な「鶏というハイテク製品」が出来上がっているのでした。 イナカモノの直感どおり、食べ物が食べ物として栽培されているかぎりチェーンレストランのメニューの価格で食べ物が供されることがありえないのは、英語やフランス語の世界では「無数」とおおげさに言いたくなるくらいのドキュメンタリ映画・番組によって、広く知られていて、食べ物として成育されて市場に出てくる食品を食べようとおもえば、普通の、なあああーんとなく食べ物であるように装っている、トマト風味でトマトのようにみえるトマトの形をしたなにか、やベーコンに偽装してあるけど、ほんとうは燻製さえされていなくて、化学工場で薬品によって大量生産された、なんちゃってベーコンの三倍〜五倍のオカネを出さなければならないのは国内消費量の何倍も農産物やデイリープロダクトをつくっているニュージーランドでさえ事情は同じで、前にも書いたが、オークランドでいちばんおおきな「ファーマーズマーケット」で、野菜の出所をいちいち尋ねたら、半分以上が遙か遠くの中国からの輸入野菜で、笑ってしまったことがあった。 実際、2015年には3000万人を越えてしまうのではないかと言われている糖尿病患者を持つアメリカ合衆国 http://www.diabetes.org/diabetes-basics/statistics/ でいま起きていることは、ふつーのスーパーマーケットチェーンの店頭では、コカコーラの1.5リットルボトルが¢50なのにブロッコリはたった一個で$2の現実で、食品安全ドキュメンタリの古典、有名な「Food,… Read More ›