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続ビンボ講座 その8 お、女に生まれてしまった!   【後篇】

安請け合いは村八分のもと、という。 誰が言ってるんですかって? 知りませんよ。 いま自分でつくった諺だもん。 ThisWordDoesNotExist.com というサイトがあって、なかなか良いサイトで、このサイトはなにをするサイトかというと現実には存在しないが存在していそうな単語を辞書風の意味の説明とともに表示してくれます。 いまちょっと、やってみると、 intunate not easily influenced; always being something that is least partially influenced by prevailing attitudes or circumstances “their culture and intunate humor” なんちて、ちゃんと用例まで出てくる。 もっともらしいがテキトーで、諺なんつーものも、そういうもんです。 国語辞書を引けば「苦髪楽爪」という表現が出てきて、苦しいときには髪が伸びて、楽なときは爪が伸びる、という意味の諺です。 なるほど、ほんとうだよなあ、おれの髪がどんどん伸びて散髪代がかかって仕方がないのは、課長の愛人に手をだしたのがばれて、左遷されたあげく、離婚の憂き目にあって以来だものなあ、うまくやってるやつばかりなのに、世の中は、なんて不公平なんだ、とおもって見るともなく辞書を見ていると、 「苦爪楽髪」という諺に遭遇する。 はっはっは。 日本語は酷いし、構成は崩壊しているし、そもそも具体的なサバイバルの方法を書く事をめざす「続ビンボ講座」の趣旨にあわないじゃん、ということで、やめたやめた、削除削除、佐久女って、佐久の女子高校があったような気がする、と考えていたら、なにしろ長年のガメ・オベールの過激なわがままで鍛えられているtwitterのタイムラインのひとびとが、消さなくていいよ、ダメ表現は頭のなかで修正して読みますから、と、やさしいことを述べるので、おもわず記事を【前篇】ということにして誤魔化して【後篇】を書くことにしたんだけどね。 最近、すっかりシャワーよりも気に入ってしまったバスタブに浸かって、Jane’sのPOCKET GUIDE FIGHTERS OF… Read More ›

続ビンボ講座 その7 お、女に生まれてしまった!   【前篇】

  ある日、きみは素裸で鏡の前に立って、考えるのではなかろーか。 参ったな、これは。おれにはチンチンがないではないか。 前から知ってたけどね。 きみは、あらためて自分の身体をじっと見つめて持って生まれた不利を噛みしめる ひさしぶりにしげしげと見つめると、われながら、自分の肉体とはいいながら、物体の形として、やわらかで、やさしげで、あんなへんてこな、うなだれたパチモンの蛇口みたいなものがないほうが造形美上はいいとおもうんだけど。 日本語社会で、女に生まれてしまうことの不利は、筆舌につくしがたい。 子供のときのことをおもいだす。 算数で30点をとってしまう。 やっべえええー、裏庭の葉ボタンの根元にでも埋めちまうか、と考えながら家に帰るが、やさしくて大好きなおかあさんの顔を見た途端に、おもわずしらず、正直に告白してしまう。 おかあさん、あたし、算数30点とっちゃった、ごめんなさい。 おかあさんは、あれで、教育熱心で、ぼくに国立大学付属の学校に行ってほしいとおもっているので、怒るよな、きっと、と覚悟して叱責を予期して頭を項垂れていると、 意外や、怒られもせで、そっと頭をなでて、しようがないよね、算数、女の子なんだから、という。 があああああーん。 おかあさんが学校の担任のバカのオネヤマと同じことを言うなんて! ショックで泣き出すと、おかあさんは、なおも頭をなでてくれながら、女の子なんだから、算数が不得意なのは仕方がないけど、がんばって男の子たちに負けないようにしないとね、と、なおも言い募っている。 息が苦しくなってくるような気がして、やや乱暴におかあさんの手を振り払って、自分の部屋に駈け込んでしまった。 繰り返し繰り返し、おかあさんにまで言われると、算数だって男の子なんかよりずっと出来るんだけど、だんだん自信がなくなってくる。 バカのオネヤマが言うとおり、男と女は成長するにつれて脳の働きの得意不得意が分かれていくのだろうか。 だって、ほら、女の子たちは駈けっこだって、どうしても男の子より遅くなっていくでしょう? とオネヤマは言う。 ほんとかもしれない。 でも、算数は チクショー、もっと頭がよくなりたいなあ。 頭がよくなって、オネヤマが年中口にする「男と女の差」なんて、なんらかのトリックでそう思い込まされているインチキだと、すっきりと判りたい。 くやしい。 Maria Gaetana Agnesiを知っていますか? 18世紀の女の人で、当時の水準では高みと呼んでよいところにある極めてすぐれた数学の概説書/教科書 Instituzioni analitiche ad uso della gioventu italiana https://books.google.co.nz/books/about/Analytical_Institutions.html?id=3YrgkgEACAAJ&source=kp_book_description&redir_esc=y を書いた人です。 特に第2巻の微積分に対する卓越した見識で有名な、この本を書いたMaria… Read More ›

続ビンボ講座 その6 夾雑を去るということ

  いざ、ブルーウォーター、陸影の見えない、見渡す限り莫大な量の水しか存在しない海域にでると、寄る辺がないというか、きみと一緒にいるのは、きみと、自分自身というきみの親友と、艇体と、空と雲だけです。 もともと役人になりたくてたまらなくて東京大学の法学部を出て上級公務員試験に合格しているとか、病気が死ぬほど好きであって医学部を出ている、オートパイロットが付いて入れば、帆や舵を微調整しながら、順風満帆、のおんびり海面を滑っていけばよいが、ふつうの人間はそうもいかない。 なにしろ、まだ目的地がどこになるのかすら判っていなくて、自分という最高の友達も、まだ魂のどこかに隠れて、ある日、通りの向こうから姿をあらわして、やあ、やっと会えたね、ずっとこの日を待っていたよ、と述べるのは先の話です。 まず具体的には、どうすればいいのか? 連合王国やニュージーランドで、日本の人や韓国の人がぶっとぶビジネス習慣のひとつに、投資やビジネスの意志決定の中心へ向かっていくにつれて、「出したemailに返事がこない」というのがあります。 アメリカの人は、そういうことをしない。 よっぽど失礼な人間でないかぎり、一応、話を聴いてくれます。 ところが ところーが 連合王国、オーストラリア、ニュージーランドのコモンウエルストリオは、揃いも揃って大失礼なやつで、自分からみて興味がわかないemailは、いきなりゴミ箱に捨ててしまう。 除夜の鐘 おれのことなら ほっといて 以前に、社会としてお節介を焼かないことを日本はめざしたほうがよい、と書いたが、コモンウエルスブラザースは、一歩先を行っていて、 返事をしない。 しかとシカトしてしまう。 念のためにいうとダジャレだが。 ムダを省きたい、という強い気持ちがある。 だって、朝の8時半に仕事を始めて、午後4時には終わるんですから。 ムダゼロパーセントの仕事ぶりでもプライオリティで数えて、上から3番目までやれればいいほうで、まるでクリスマスイブのオールドスクルージが金庫に結び付けられた鎖を何本もひきずって歩くように、「やり残した仕事」や「手も付けられないでいる仕事」を引き摺って歩いている。 死ぬほどストレスがたまっていて、ついついウォッカをガブ飲みして、あまつさえ、愛人までつくってしまう。 離婚になって法廷で争う羽目になって、親権を取られた子供たちのために養育費を払うために、ひょっとしたら、あの恐ろしい「残業」さんとまで付き合わなければならなくなる。 そういう陥穽に陥りたくはないのでemailをちらと見て、「すまんすまん」と呟きながらゴミ箱に放り込む。 もちろん失礼きわまりないが、しょーがないのさ、とおもっているのね。 きみの冒険の第一歩は「夾雑物を省く」ということで始まるのでなければならない。 傍からみていると、このごろの日本文明の激しい衰退は、夾雑物に時間を貪り食われているのが最大の原因に見えます。 とにかくムダがおおい。 英語でやりとりをして、ふと、日本語のemail箱をのぞくと、「お疲れ様です」というリポビタンDな訳がわからない挨拶から始まって、ぐったらぐったら述べてあって、しまいには日比谷ホール「にて」とか勘にさわる言葉遣いがされていて、こ、この煮ても焼いても食えない「にて」野郎が!と逆上したりして、ほら、すごいムダでしょう? 感情エネルギーまでムダに使わされる。 そういうことどもは日本語インターネットにも、きっちりと反映されていて、「反論するならともかく無視するなんて到底許されない」とtwitterで述べている人までいる。 さすがに最近は減ったようだけど。 5歳児はあるまいし。 自分がバカタレな言いがかりをつけにきて、返事をしてもらえないと、さっそく相手を誹謗する。 あのね。 ダメなんですよ、そーゆーの。 おじちゃんは忙しくはないけどね。 ムダは相手にしない習慣を身に付けないと、「ぐだらぐだら人生」と言って、自分の一生が焦点のあわないものになってしまうの。 日本の通り、例えば青山通りのような、伝来の言い伝えによれば、すっきりしているべき場所でも、見て、どひゃっ、とおもうのは、そのサインの多さです。 大小さまざま。 看板だらけ。 猫灰だらけ。… Read More ›

続ビンボ講座 その5 ブルーウォーターへ出る日

ビンボ生活を生き抜くための要諦は、どこかにドアを開けておくことだ、ということは、もう判ったとおもう。 ドアが有った所を、あれもダメ、これもダメ、どうせこんなことはわたしに出来るわけがないから、こんなことやってみても仕方がない、と考えて、漆喰で塗り固めてしまって、コンピュータスクリーンのなかの世界に魅入って、ただインターネットの海を漂流するようになると、「ここで終わり」と立て札が立っている世界の終わりで、大洋がそこで巨大な滝になって世界の外へ流れ落ちて瀑布をなしているところまで、静々と進んでいくことになります。 そのドアのことを「希望」という名前で呼ぶ人もいるよね。 わしは自転車から飛行機まで、乗り物を運転させてさえいれば機嫌がよくてニコニコしているというシアワセな人間なので、すいすいと動くものなら何でも好きだが、ヨットも好きで、25フィート(7.6m)くらいの艇体で、やる気になればブルーウォーターも行けるくらいの小さいやつで、ひとりで、昔はよく出かけた。 念のためにいえば、日本語だと「ヨットなんて贅沢な」と思う人がいるかも知れないが、英語国、特にニュージーランドでは、立派にビンボ人の遊びでもあるんです。 なにしろ、へたっぴだったのと、頭がテキトーなのと、往々にしてチョー酔っ払っていたので、帆と風の関係を間違えて、考えているのとまったく異なる方向へ、えらく快調に進んで岩礁に激突しそうになったり、ヘロッと帆が回転してヨットが失速してcapsizeしそうになったり、大洋のまんなかに出てチビ船に乗って泥酔してるやつが悪いが、傍でみている人がいたとして帆走しているんだか漂流しているんだか、どっちなのか、判然としないこともよくあった。 漂流と帆走は、どう違うのか? そうです。 答えは、ものすごく簡単で、行き先の見当が付いているかどうか、そのための風のつかみかたが判っているかどうか、が違うのね。 念のために述べると風自体は真っ向からの向かい風であっても構わないのはヨット乗りでも誰でも知っていることです。 日本語世界で、ひところ流行ったらしい「自分探しの旅」がうまくいかなかったのは、日本の社会では自分とうまく出会えてもたいした意味がないからで、部品としての存在意義しか認められていない人間が、自分がどんな部品なのか理解しても、悲しいことにやっぱり部品なので、それによって自分の生活全体が変更される、ということにならない。   なんでこんなヘンなことを述べているかというと過去の日本の社会においては人間が人間であろうとすると「わがまま」だと言われる風の社会だったが、軍隊的な効率を求めて、そんなことばかりやっているあいだに、社会は硬直して、個人はやる気がなくなって、カップルは際限なく不幸になって、なんだか世界全体から置いていかれるような、一億人の国民全体が島流しになっているとでもいうような、すさまじい、と形容したくなる沈滞に陥って、もう社会としては長くないのが、一目瞭然だからです。   日本でいえば1979年の大学生が考える未来は、1989年には、ややテカテカ感を増しながら、ちゃんとやってきた。 嘘八百で社会を動かす野心に燃えた青年は、電通めざして運動して、首尾良くもぐりこめば1989年を1979年の延長だと感覚しながら生活を愉しむことができた。 ところが1990年の青年は、例えば情報工学の道を歩みたくて、東芝に入って、やってみたかった研究が終われば理科大学でも東京女子大学でもどこでもよろしい大学教師になって残りの人生をすごす、と未来への計画を立てても、多分、うまくいかなかったでしょう。 そのふたつの「10年」は、どこが異なるかというと、日本社会全体という社会の内側に立っていては、見えようがないもの自体が、世界のなかで、国家のモデルとして古くなって、機能しなくなっていたことが異なるのだとおもいます。 それとね。 dog year、という言葉があるが、情報社会という名前がついている、まるで隣家の壁が透明になって、隣はなにをする人ぞ、朝から夜までの生活が透けてみえてしまうような、情報が奔流する社会では、20世紀の10年が50年くらいにも該当するので、日本のような基本構造が全体主義的な社会、というか、「全体から個人をみる」観点で出来ている社会では、もうついていけなくなっている。 だいたい見ていると、1980年代生まれくらいの日本の人は、すでに、そういう事情をよく知っていて、「これは困ったタイミングで生まれてきてしまった」と判っているようです。 僕の前に道はない 僕の後にも道はできない 行けども行けども荒野で、荒野であるくせに地平線がいつのまにか消滅している。 いったい、これはなんだろう、と途方に暮れるのが最も正常な反応だとおもわれる。 社会は自分の面倒を見てくれないのだから、自分の面倒は自分でみるしかないのではないか。 なにしろ社会のほうのダメっぷりは、すごすぎて、「自己責任」という政府が国民のヒモになって、しっかりやれや、こら、オフロでもどこでも行って稼いで来んかい、病気になったあ? そんなもん、お前が自分の責任でなんとかしろや、と与太っているような、ものすごい言葉までつくってしまう。 ピンチなんですね。 本来、きみを守るために存在しているはずだった、きみが生きている社会そのものが、きみを消費しようとして迫ってくる、という最悪の状況です。 どうすればいいか? きみは、自分はまるで、ここが自分が生まれた社会なのに難民であるように感じる、とつぶやいている。 孤立無援。 社会は冷たい目を自分に向けている。 さっさと自分の国に帰れよ。 ぼく、ここで生まれたんですけど。 自分は日本という社会では難民であると割切って仮想したほうがいいのではないか。 難民ならば行き先はどこにあるのか? 自分は、どこを目指して歩いていけばいいのか? ほら、元に戻ったでしょう?… Read More ›

続ビンボ講座 地獄篇 お、女に生まれてしまった!

ある日、きみは素裸で鏡の前に立って、考えるのではなかろーか。 参ったな、これは。 おれにはチンチンがないではないか。 前から知ってたけどね。 きみは、あらためて自分の身体をじっと見つめて寂寥を噛みしめる ひさしぶりにしげしげと見つめると、物体の形として、やわらかで、やさしげで、あんなへんてこな、うなだれたパチモンの蛇口みたいなものがないほうが造形美上はいいとおもうんだけど。 あの訳の判らない怪しいガイジンがときどき書いているが、あれは多分、そのとおりで、この国でチンチンがないということは、チンチンのわがまま勝手の相手をさせられるだけで一生が終わりかねない。 第一、チンチンのぶん、年収が少ないのだとゆわれている。 やっぱり、ちゃんと作戦を考えないとダメだよね。 ところで、ぼくが、その怪しいガイジンなんだけどね。 男の立場から見た友達としての助言を考えてみたい。 そんなもんいらねーよ。 男の助言なんて役に立つわけねーだろ。 日本の女の人に特におおい意見で、めだっている。 ま、たしかにそーなんだけどね。 いいじゃない、ちょっとくらい読んでみたって、ただなんだし。 本質的には男と女のあいだに違いがあったりしたらたいへんなことで、違いなんて微塵もなくて、もちろん男のひとに対するのと共通したアドバイスであるべきだが、いかんせん、新幹線で十分だからやめればいいのにリニア線、ちょっとこれはダジャレとして、じーちゃんぽくてカッコワルイか、日本は世界のなかでも極端に男と女の違いを強調した文化で、その文化をぶんかって、あまりに長いあいだやっているので、「男と女の差異」は無意識の領域にまでしみこんで、なんだかまるで、「それじゃ交配しても種として子孫ができないんじゃないの?」と言いたくなるくらい別の生き物として扱われている。 ごくあっさり「女の言うことはわからん」などという。 あんたの言うことのほうが、よっぽどわからんわい、とおもうが、ふと周りを見渡すとちんちんがみんなピコピコと頷いている、じゃねーや、ちんちんをだらしなくぶらさげたひとびとが当然のように頷いている。 薄笑いを浮かべているバカまでいる。 だから、サバイバルの観点から、男のほうから見て、気を付けるべき点を書いてみたい。 「ガメ、おまえ、男のくせに裏切るのか!」と、言う人もいるでしょーけどね、わはははは、うるせー、悔しかったら年中なまえを口にしているマキャベリを読め、ちゃんとちんちんに道徳なし、と書いてあるから。 ここまでの短い文に七回もちんちんと書いてあるね。 ギネスブックに載るのではないか。 閑話休題。 まず、NOと言えることです。 間髪をいれず、おもいきりおおきな声でNOという練習をする。 どうしようかなあーとおもったら、はっきり、明然と「NO」と述べることは人生の危うさを大幅に減少させる。 具体的にはですね。 以前から状況のシミュレーションを繰り返してあって、こうなったらいいなあ、ここでこう来られればイエスというしか選択肢ないよね、と予期してあったこと以外は、ことごとくNOと述べるのがよい。 あとで、しまったNOと言わなければよかったとおもったら、どうしてくれるんだって? あ、それ簡単よ。 このあいだはNOって言ったけど、昨日寝る前にじっくり考えたら、よさそうなので、お受けします、って言えばいいだけです。 それで、そんなんじゃ嫌だ、なんちう話をする人とは、どっちみち、金輪際付き合わないほうがいいのです。 わかりました? NO。 チョー大事なことなのね。 わかったら、では、ご一緒に NOOOOOOOOO! 次。… Read More ›

日本男児の考察

  (この記事は2010年1月にver.5に掲載された記事の再掲載です)   シシュアン(四川)料理を食べに行った。 ブランチですのい。 ブランチ、とゆっても、もう午後2時だが(^^) ノースショアからマウントエデンに行くときに道の右側にシシュアンの看板を出している小さな店があることにわっしはずっと気付いておった。 わっしがクルマで通りかかったとき、ちょうどシェフのおっちゃんが店の外で煙草を気持ちよさそーにふかしているところでした。 奥からおばちゃんが出てきて、「さぼってんじゃねーよ。あん?  店、客でいっぱいだろ。 なに考えて生きてんだ、このボケ」とゆっているのが聞こえそうな仕草でシェフを店の厨房に追い立てておる。   わっしはむかしこの日本語ブログで会った友達が「四川料理はうまい」、とゆっていたのをおぼえていたので、いっぺん、ここに来てみるべ、と考えました。 安い中国料理の店、というのは店の雰囲気が失礼であるほどうまい、という法則があるよーだ。   店の前の交差点を、ぶおいん、と曲がってクルマを駐める。P120(二時間駐車)だのい、この通りは。 モニとふたりで、今日は夕立がきそーだ、とゆいながらでっっかい積雲が流れている青空を見上げました。 店にはいると、 午後二時、なのに、どばあああ、とチューゴクのひとがあふれておる。 テーブルがいっぱいで座れん。 モニとわっしはカウンタの脇で立ってメニューを眺めておった。 英語のメニューがあんねんな。 中国語のメニューと値段、おなじやん。 リョーシン的ではないか、と考えながらメニューに眺めいるわっし。壁のメニューのほうを見ると「怪味面」とかっち書いてあります。 面、は麺だろーが、「怪味」っちなんやねん、と考えるわっし。 Dan Dan Noodle(担々麺)を頼んだら、むちゃくちゃおいしいのでぶっくらこきました。モニも、「うまいな、これ」とゆって不思議そーな顔をしておった。 モニさん、中華料理、嫌いだからのん。 しかし、わっしはLを頼んでモニはSを頼んだのにサイズ同じやん。 注文わかってへんのちゃうか、あのねーちゃん、というわっしに、黙って、すっと丼をわしの丼のほうに滑らせるモニ。 サイドバイサイドにすれば一目瞭然、ははは、大きさ違うやん。 わしってダメなひとね。   帰りに、あん?のおばちゃんに「すげー、うめーな、ここは」というと、「あっ? あん?」とゆいながら耳をこっちに突き出すおばちゃん。 わっしはデッカイ声で「ベリー・グード!」とゆいます。 おばちゃん、ニッカリ笑うと、 「ここの食べ物、ぜーんぶ、チューゴクの食べ物!ナイス!」という(^^) 愛国心、とゆーものだな。 いいな。 がんばれチューゴクおばちゃん。… Read More ›

続ビンボ講座 その4 英語という出口

英語ができることが収入の増加につながる国、というのは年々減っているはずです。 かつてはシンガポールがそうだった。 マレーシアやインドがそうだった。 それが、どんどん「英語が話せる」のが普通になって、このごろでは、つい最近まで日本の人と並んで「多分、聴き取りにくい英語しか話してもらえないだろうな」という先入観があった韓国の人も、彼らから見た海外であう若い世代ならば、まず「普通の」英語を話せるものだと安心して会えるようになった。 したがって、韓国でも英語が話せることが高収入につながる、という事例は少なくなっているのではないか。 おなじく、どんどん準英語国化に向かって、素晴らしいスピードで動いていっているように見えるフィリピンの人に聞くと、理由は地球のオンライン化であるようで、その話をフィリピン人のナースから聞いたときは10年以上前だったので、いまはマイクロソフトが用済みにして紙屑箱に捨ててしまった観のあるskypeだったが、彼らはどんどんskypeを使って、あらゆる機会を逃さずに英語を話して、表現をまね、アクセントをまねて、わやわやわやと英語を身に付けていったもののようでした。 最後まで取り残されてしまったのが日本の人で、理由はあきらかで、英語をオベンキョーの対象ととらえ、わざわざ生きている英語を生身のまま解剖台の上で切り刻んで、血塗れのバラバラ屍体にしたあと、肉体パーツを並べ直して、はい、これが右前腕、これが左の大腿部、 あ、きみ、その部品を女性の身体につけちゃだめだよ、それはチンチンといって、男の肉体に特徴的なものです、というような手間がかかるだけでバカみたいなことをやって、あまつさえ、それを学生に教える教師までいた。 構文解析とかなんとか。 そんなことばかりやっているうちに、日本の人は英語教育を受ければ受けるほど英語能力が根本から破壊される、という不思議な国民になっていった。 田舎秀才には一徹なよいところがあるが、ダメなところもあって、 気楽にかまえることができないので、「知」が日常化されない。 順って、理のおもむくところ、自分が最も熱心に打ち込んでいる学問においてセンスがない。 センスもなにもないまま、ゴリゴリゴリ、ゴリ押しに押して、文句がつけようがないセンスゼロの完璧な論文を書き上げます。 勉強においてエネルギーを注いだものは、本人にとっては特権でなければ自分の努力がもったいないので、英語などは、この一種の知的吝嗇の好餌で、たかが言葉なのに、いつのまにか威儀をただした特権に頭のなかで変わっている。 英語が特権などといったら、いまどきの世界の若者はふきだすだろうが、現実は現実で、日本では生身の英語をぶち殺して並べ直す技術で食べている連続殺人鬼な教師までいる。 そうやって日本のひとびとが殺人にふけり、おおおおおー、心臓は内部では動脈に静脈血が流れるというわけか、英語は深いなどとバカなことを言っているあいだに、フィリピン人たちは、どんどん、「はあーい。わたしがJudyです。先週は東京のクラブ行ってきたよ。 東京はへんなやつも多いけど、クラブ最高だよ! ゴーゴーゴー! 今度一緒に遊びに行けるといいね」 と浮かれて話すたびに英語が身についていく。 いま書いていて気が付いたが、日本の人が英語を出来ないおおきな理由のひとつは、新しい言語、というよりも新しいこと全般を身に付けるのに向いていない社会文化ということもあるのかもしれなくて、とにかく、ちょっとやってみて失敗しては学んでゆく、という人間にほとんど唯一の学習方法がとりにくい。 自分でもおもいだすと、なんであんなバカなことを言っちゃったんだろうというバカっぽいことを教師の質問に対して述べて、教室中から散々笑われる、という、おっそろしい悪夢的経験が、誰にでもあるというくらいの頻度で、身上に起きるらしい。 教室が15人くらいなら、よく考えてみると、生徒の少なさ自体が抑止力になりやすいが、義理叔父などは日本でも指折りの「名門校」の出身であるはずなのに、1クラスに50人という、とんでもない数だったそうで、それで全体主義的な残酷さを中学生たちが発揮しなければ、そっちのほうが不思議であるとおもう。 このへんで方針を定めよう。 英語に接する機会を増やす、とよく言うようだが、もっと話を簡明にわかりやすくするために「日本語に接する機会を減らす」と考えたほうがよさそうです。   新聞も、よく素晴らしい記事を書くヒゲヒゲスペイン語男岡田玄記者ごみんねだが、朝日新聞はやめて、香港のSouth China Morning Postであるとか、シンガポールのThe Straits Times、あ、いけね、日本にも、あれはまともな記事がおおいThe Japan Timesというのもありますね、なんなら、「知的なイギリス人」が、どのくらい現実を見ずに頭のなかで理屈をこねくりまわすバカ揃いか知りたければ、The Guardianでも構わないのではないか、とにかくニュースは日本語で読むのはやめよう、とおもえばいい。 ちょうど昨日、近所のおばちゃんと、北米のアジア系人差別の酷さについて話していて、談はたまたままたまた言語に及んで「なぜレッドネック(←差別的で心が偏狭な白いイナカッペのことです)は、外国人の英語が聞きとれないか」というわし疑問に、おばちゃんは、「あれは、そもそもアジア人などに興味がないからであるとおもう」と卓見を述べていた。 アジアの人の顔を見た途端に好奇心も興味も消滅するので、もうそこから先はなにも聞いてない。 ミン・ジン・リーさんという人は、素晴らしい声で美しい英語を話す人だが、おなじように話す東アジア人はたくさんいても、「なんども聞き返された」経験がある人がおおぜいいて、ずっと不思議におもっていたが、おばちゃん理論によって、解明されてしまったと言っても可なり。 そこで、ふと考えたが、日本の人は、もしかしたら日本語世界以外のことに興味をもっていないのかも知れません。… Read More ›

続ビンボ講座 その3 クロノスとプルートス

  ひまなやつだなあ、という。 褒めてもらっているのかとおもって喜んではいけないので、これは日本語世界では、冷笑されているんですね。 忙しいやつだなあ、ともいう。 ひまであると冷笑されるのだから、今度こそ称賛されているのかというと、これも冷笑されている。 なんだ、どっちでも冷笑するんじゃないか。 あんたは、それでも人間か。 日本に住んでみて、最もひどい、と観察されたのは、社会がほとんど無造作に個人から時間を収奪することで、本末転倒な会社になると、同僚や、わけても上司が帰るまで、もう本日の仕事は終わっているのに、遠慮をして家路につかずに待つ、という会社まである。 日本で会社に職を得ると一生の破滅につながる、おおきな理由のひとつで、出社するたびに毎日「懲役3時間」というような刑罰をくわえられているのと等価で、もし、これを読んでいるきみが、そういう職場にいるとしたら、悪い事は言わない、脇目もふらず、一目散に辞職すべきであるとおもわれる。 おとなに限らない。 かーちゃんシスターが、80年代後半の日本社会をみていて、いちばんぶっとんだのは、頑是無い子供が、学校から下校したあとに、また学校に行っていたことで、当時なら、台北では特に女のひとたちは昼と夜と、ふたつ仕事を掛け持ちするのは当たり前だったが、驚くべし、その台湾のひとびとが自分たちの一歩先を行っているとみなしていた日本の社会では、子供が学校をふたつ掛け持ちするのが当たり前のことだった。 なんで、そんなことになったのか、わしは、よく知らない。 最近、英語世界では「高校生に3時間以上の自宅での学習を強いるような宿題をだすのは人権の侵害であるとおもう」という保護者の意見が主流になっている。 なんでも人種差別のたねにするのね、というか。 だいたい子供が学校から帰ってまで3時間も勉強しなければならないような愚かなシステムに陥ったのはアジア系の子供が、バカのひとつおぼえみたいに勉強するからだ、ともいう。 インターネットのブラウジング1時間 宿題2時間 それ以上は、子供の頭をダメにする オークランドの午後の渋滞は初めが3時で、これは下校する子供をクルマで親が拾いにくるからです。 なんど失敗しても学習しないジェームズ・Fというような人は、なぜか出かけるタイミングになる午後3時に、ガッコがある方向の道路に曲がって、曲がった途端に大渋滞に巻き込まれて、げげげげ、になる。 これを週3回は繰り返すのだから幸せな人です。 次は午後4時半から始まって、こっちは高速道路が主に渋滞になる。 帰宅ラッシュですね。 午後5時くらいになると、オークランドにも文明が到着したのだと思い知るべし、クルマでモーターウェイいっぱいに広がって、停止したりして、まるで三菱の工場から小牧ヶ原に零戦を運搬する牛車のような様相を呈する。 ここでも、なぜか午後3時くらいに校区のすごい渋滞を抜けて、ヨットの塗りかえの続きをやって、帰宅の途についた、ジェームズ・Fが、高速道路に乗った瞬間、げげげのげ、を毎週やっているが、仕方がない、もう放っておくしかないのでわ。   しかしですね。 考えてみるとオークランドのニュージーランド人は、かなり都会にかぶれてボロくなったが、まだ健全であるとも言えて、だって、子供は3時には家に帰るし、父親と母親も5時には帰ってくるので、忙しい生活になったとはいっても、のおんびりしたものです。 一家で、つれだって、あるいは父娘で、母息子で、午後の散歩にでかける。 あるいはボードゲームに打ち興じる。 冒頭の画像は、そういう午後の1枚で、よく見るとわかるが、原っぱを、父親が娘の自転車を一反もめんが紐になったような一反紐で牽引して、娘は、きゃっきゃっと喜んでいる。 時間ですよ、時間、 時間なんだよ、きみ! とクロノスさんが息せき切って述べにくることには、いわれがある。 深い理由がある。 前にも書いたことがあるが、ラテン語を理解できるようになって、最もよいことは、時間が文字として記録されていることです。 ギリシャ語は、もっとよいのではないか、と想像するが、もとはフェニキア文字であったんだかなんだか、あのデザインが好きになれない。 なかなか始められない言い訳ですけどね。 老後の楽しみでよいのではないか。 ラテン語が公用語であったころの文章は、隣の犬がうるさい、という話から、神を頂点にいただく様々なエティカに至るまで、どう読んだって、流れる時間が現代とは異なるのです。… Read More ›

続ビンボ講座 その2 さよなら、ラットレース

  マンハッタンには、さまざまな有名人が住んでいる。 例の、トランプタワーをおったてたトウモロコシ頭のおっちゃんも、そうですね。 ニューヨークは田舎者を惹きつける強力なマグネットのような町で、田んぼから這い出、会社を流れ、豊作を夢みてやってきた、高田渡の歌みたいなひとたちが、日夜、わたくし、まだニューヨークは3代目ざあますのよ、おほほほほ、な見せかけの暮らしを送っている。 なあに、だんな、わっしは、あの奥方、むかしから知ってやすがね、3代目じゃなくて、30年前にニュージーランドのケンブリッジってド田舎の町から流れて来たんでさあ。 ウォール街の足軽で稼ぎやしてね、槍働きでアパートを買って、なんだかずっとマンハッタンに住んでいるような具合でして、気立てはいいが、ただのイナカモンの小娘のなれのはてでさ。 まあ、みんな知らん顔をしてやっているんですよ。 ニューヨークはいろいろな結び付きで出来たコミュニティの町で、だいたい会話にでてくる属しているコミュニティを、さりげなく聴き取って、その人がどんな人か判断する。 毎年、盛大に大宴会をひらくロシアン・コミュニティのようなおおきなおおきなコミュニティもあれば、数人で集まって餃子を一緒につくって、代わる代わる詩を朗読する台湾の詩人のコミュニティのような、ちいさなコミュニティもあります。 そういうコミュニティの集まりのなかで、いろいろな名前が取り沙汰されて、少しずつ、ニューヨークという大都会のあちこちにAR風に名前が付いていく。 多少ともアートに興味がある人が出入りするコミュニティで、Vogel夫妻の名前を知らない人はいないでしょう。   あとでは、2008年だったか、Megumi Sasakiという日本の映画監督がHerb とDorothyのVogel夫妻の存在を聞きつけてドキュメンタリをとって、ニューヨークじゅうのひとびとどころか、英語世界全体、欧州にまで名前が知られてゆくようになったカップルです。 え? ビンボ講座じゃないの? ビンボから抜け出せると聞いたから読んでるのに、アートの話なの? わたし、アートは嫌いなんですけど。 アートコーヒー、商社の経営に変わってから、おいしくないんだもの。 ダイジョブ、待ちなさい。 もらいが少ない乞食はあわてて転ぶ、というではないか。 言わないか。 この夫妻のアート・コレクションは、何十億円というようなのでは利かないくらいの価値を持っている。 どれも、みんな世間に注目されないときに、場末のギャラリーで、ためつすがめつして、ふたりで買ったものなのだけど。 Herbert Vogelは、高校を中退した郵便局の事務員で、Dorothy さんはシラキューズを出て、あとでデンバーから修士号をとった司書で、1990年に退職するまで、ずっとブルックリン図書館の司書という薄給が容易に想像出来る仕事をしていた人です。 夜の、ニューヨーク大学の社会人向け公開講座のアートクラスで知り合って、意気投合して結婚した、このふたりは、無論、投資として絵を買っていったわけではありません。 この絵、いいね。 無名の人だけど、なんだか気持ちのよい絵であるとおもう。 少し変わったところがあるしね、と言い合いながら、ちょっと値が張るから来週からは夕食をもうちょっと簡素にしよう、と笑って買ったような絵が全部を占めている。 でも、このカップルは、ビンボ人にとってはおおきなヒントになるというか、絵を、ちょっと下品だが投資と置き換えると、重要な示唆を与えてくれる。 まず第一にfrugalであること。 意外というかパッとしないというか、そんなんじゃハウトゥー本にしても全然売れないじゃない、というか、ラットレースから抜け出す、最良の、最も確実な道は、質素に暮らす、ということ。 言葉を変えると、オカネモチになるにはビンボでいるのがいちばん良いのです。 ライフスタイルの問題なのね。 厳然たる事実として、パリッとした服を着て、ちょークールなファッションの相手とデートをしたりするライフスタイルの人は、よっぽど運がよくなければ困窮のうちに一生を終える。 なあんとなく風景に溶けこんで、にじんで、消えてしまいそうな、やさしい服を着た人が富貴に向かって歩いている。 統計上も、おどろくべし、オカネモチのなかで圧倒的な数の多さを誇るのは… Read More ›

続ビンボ講座 その1 スタートはビンボなのよ

最も危ないのは組織に属して給与生活をすることである、と何度も書いている。 オカネの立場から見ると、ということです。 そんなこと言ったって、ぼくがやりたいことってカネがかかるので会社の研究所じゃないとできないんです。 口を尖らせて、眼鏡を光らせて、きみは言うであろう。 あるいは、やりたい学問をやらせてもらって、給料までもらってるんだから「恩の字」ですよ、という人もいるはずです。 最近、デタラメな人物がおおいので、だいぶん話題になっている「非常勤講師」という制度は、調べて見ると、多分、もともとは会社のエンジニアやなにかを退職して、技術を理解して、教えることにも興味がある、という退職者に教壇に立ってもらって、是非、うちの学生に伝授してやってほしい、という大学側の要望でできたものであるようでした。 パート大学教師ですね。 ところが主に人文系を中心として、日本の人の大学信仰を悪用する大学と個人が、わらわらとあらわれた。 嚆矢は、どうも、バブル時代にあるみたい。 日本には781という冗談みたいな数の大学がある。 学問世界のコミュニティは、そんな大所帯をうけいれる余地はないので、 当然、アカデミア世界の外にある大学、という不思議な存在が日本には、たいへんな数で存在している。 しかも、旧帝大みたいな大学からも、次から次に学生が卒業してしまって、いわば孵化して、たとえば神学科では神主の娘婿くらいしか就職先がないので、どんどん非常勤講師になります。 アカデミア世界外に存在する大学は、そうやってアカデミアコミュニティと共存している。 再び調べて見ると、非常勤講師というのは、極めて日本人的な渡世で、大学は給料は雀の涙ほども出さないが「肩書き」を提供する。 アルバイト教師が肩書きになるんですか?って、きみ、日本人じゃないでしょう? アメリカ人? イギリス人? えっ? ニュージーランドに住んでいるイギリス人だって? うそでい。 ニセガイジンなんじゃないの? ともかく、大学という名前がつけばありがたいものだと反射的に考える「学問のすゝめ」以来の近代日本の伝統に忠実な国民感情に順って、あとは非常勤講師の保安官バッチを使って、勝手に稼ぎな、ということになっている。 この日本社会の滑稽さをフルに活かしたバイトは便利至極で、なにしろ実態は卯建のあがらない中年男で朝から晩まで「別アカ」をつくって、その何十だか何百だかの、とんでもない数のアカウントを操って、自分の嫉妬の対象である人間たちを激しく中傷する。 旧帝国大学教授、なんてのは、ここを先途とバカにしてみせる。 考えてみればすぐに判るが、単なる自称の哲学者で、すっかり自分でも研究者気取りで、やってることはただのネットのゴロツキそのまんまのトロル行為だが、頭のなかでは「聖戦」だということになっていて、有頂天なので、 「おまえは勉強が足らない。まともな研究者がいうことではない。勉強しなおしてこい!」とSNSで叫ぶと、われにもあらず、胸がすっとする。 なんだかおもしろがって長くなってしまったが「勤める」といっても「肩書き代として教壇に立つ」ということまでが含まれるわけで、一概には言えないわけです。 ここでは、そういうフクザツなお勤めを述べようとしているのではなくて、オカネのために真剣に働くひとたちのことを思い浮かべている。 She Works Hard For The Money. ドナ・サマー。 ドナさん、やっとシンガーとしての実力が再評価されて、これからだ、というときに肺がんで死ぬなんて、ちょー残念。 煙草なんて、喫わない人だったのに。 現代社会のラットレースそのものが、どのようにデザインされて、どんなふうに機能しているかは、その希望のない苛酷さとともに、いままで何度も書いてきたことではあるし、この記事を読みたいと考えた人は、「じゃあ、どうしたらいいの?」への応えを最も求めているでしょうから、おもいきってラットレースそのものの歴史性は省いてしまおう。 ひとことだけ述べると、いまの日本の根本的な問題のひとつは、収入と消費のぎりぎりの均衡をめざしてデザインされたラットレースに、あろうことか、巨体にものをいわせてのしかかる強姦魔のようにして、日本的な意味での「派遣業」を上乗せしたことです。 あんな「派遣業」って、日本にしかないのよ。… Read More ›