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  • Vernazzanoの斜塔

    (この記事は2013年5月29日に「ガメ・オベールの日本語練習帳 ver.5」に掲載された記事の再掲載です)     1 泊まっている農家の持ち主が近所のひとのパーティに呼んでくれたのででかけた。 この農家の持ち主はミラノの音楽家で、パーティを開いたのはローマの音楽家です。 ドイツ人たちとイタリア人たちとフランス人とイギリス人のカップル(モニとわしのことね)がいる小さなパーティは6時すぎから始まって、10時過ぎまで続いた。 ドイツの人たち(大学の先生と高校の先生、ビジネスマン…)はすぐに自分の国を誇るという欧州でのドイツ人のステレオタイプイメージに沿っていて、ちょっと声を潜めていかに欧州におけるドイツの役割がおおきいか述べてしまうし、さらに声を潜めて、「きみ、知っているかね。イタリアには公式にはドイツ語とイタリア語を話すことになっている村があって、実のところ、イタリア人たちがいなくなるとドイツ語だけで話すのさ」と、さもそれが重大なことであるように厳粛な顔をつくって話す(^^; イタリア人たちは、「この辺の道は、ぶち壊れているのに誰もなおさない。ドイツなら2日目にはもうなおっているけど、この国では未来永劫そういうことは起こるわけはない」とドイツ人たちに述べている。 わしが笑いをこらえるのに苦労したことには、ドイツ人たちの反応は、「ええ、わたしらの国ではイタリアで起きるようなことは起こらない。道路が荒れ果てたまま放置されていることに驚きました」であったことで、ドイツの人は欧州での評判どおりというか、ナイーブというか、何も考えてないというか、オモロイと思う。 欧州人という種族はみんな全然違う文化に拠っているのに、めいめいそれぞれ自分勝手にお国自慢で、欧州人が集まるパーティは上流階級のものでもアカデミックなものでも近所のものでも、その点では変わらないところが可笑しい。 パンにオリーブオイルをぶっかけて塩をひとつまみふったブルスケッタとオリブの実のペーストを塗っつけたパン、ウンブリアのフェネルをまぜた豚のソーセージや野生のイノシシのソーセージで始まったパーティは、パーティ主であるイタリア人たちの職業のせいでイタリア音楽界の危機の深刻さの話に及んで、もう音楽団体がひとつしか生き残っていないのだと聞いてぶっくらこいてしまった。 知らなかった。 欧州では、嫌味を言うとドイツの長年の夢がとうとう果たされたというか、ドイツが大旦那で、自然、他の国民はメルケルさまさま、ドイツ人がご主人様な雰囲気で、放蕩息子と化した趣のあるイギリスや口うるさいだけの伯母さんみたいなフランスは圏外である。 新聞がどう述べても人心とは正直なものであって、口吻にあらわれてしまう。 ケルンの一般的な高校では生徒の6割がトルコや他の国で生まれた生徒であるとか、表面は欧州人にのみわかる符丁的な「ナイス」な言葉と態度で述べられているが、居合わせている欧州人の誰にも判る一定の言い方で、異文化からやってきた移民をべたほめにほめながら、移民はもううんざりだと言っている。 わしは相づちをうちながら、「多文化主義」が欧州では完全に終焉を迎えたことを確認している。 2 午後にはVernazzanoの斜塔 http://www.trasimeno.ws/torre_vernazzano_it.html へ行った。 無理をして行こうと思えばクルマでも行けそうだが、キャンピンググラウンドの門の近くでクルマを降りて森を抜けて歩いていくことにした。 Vernazzanoの斜塔は「ツーリズム」ということを考えるときには、いつも興味深い。 歴史的にも建造物的にもVernazzanoの斜塔はPissaの斜塔に何の遜色もない重要性をもっている。 それなのになぜPissaの斜塔ばかりが有名でVernazzanoの斜塔は知っているひとすら少ないかというと、簡単に言えば「商売の上手下手」の違いに帰着する。 信じるのが難しいが、今日のパーティでドイツ人夫婦が盛んに述べていたとおりSantiago de Compostelaも30年前は、誰にも見向きもされない町だったので、観光においてはマーケティングの才に恵まれた人間がスポットライトをあてるか否かは、決定的な問題なのです。 キャンピンググラウンドでクルマを駐めたモニとわしは、「ほんとうにこの道かなあー」と言いながら、緑が深い森の凸凹の道をどこまでも歩いて行った。 塔が見えるもなにも、開けた視界というものがないので、道の先になにがあるのかも判らない。 それまで降りしきっていた雨が止んで、太陽が出る頃になって、不意に視界が広がって、向こうの森のそのまた向こうに巨大な塔がたたずんでいるのが見えた。 中央に大きなクラックが走っていて、補強のための鋼鉄線のケーブルが何本か張られている痛々しい姿で、Vernazzanoの斜塔は立っていた。 こんなことを言うと笑われてしまうが、なんだか南アメリカのジャングルのなかでエルドラドを発見した探検家かアンリ・ムーオのような気持ちになる。 ともあれ、森を歩いて原っぱに出て塔を発見したときの感動はかなりのもので、他の国ならとっくのむかしに観光開発がすすんで、道は凸凹どころか、舗装されて道路の両肩には「Vernazzanoの斜塔まんじゅう」を売る店が殷賑を極めてるのは見えているので、「やっぱりイタリアはオモロイ国だなああ」と考えました。 帰りにはドライブインに寄って、プラスチックの皿に盛ったfedeliniのラグーソースを食べた。Suppliとテーブルワインとフリザンテでひとりあたり€9。 街道筋でトラックがいっぱい駐まってるドライブインはおいしいというガメ理論が現実によって補強された。 3 「相手にされていない」のだと言うひともいるし、「差別だ」というひともいるが、なんだかそういうことではないのだと思う。 日本は欧州人にとっては「知らない国」だし「知ろうと思ってもとりかかりがない国」だし、皮肉な言い方でも誇張でもなく「普通の欧州人」にとっては「存在しない国」である。… Read More ›

  • 左翼と右翼

    Working men’s clubは、もともとはイングランドの北の方やスコットランドの発明で、ニュージーランドにも、全国の町の、文字通り、そこいらじゅうにあります。 名前で想像がつくように、労働者階級の社交場で、もともとは啓蒙の場もかねていたが、いまは、ざっかけない雰囲気の店内で友達とビールを飲み交わすほかは、啓蒙といえば、馬の運動についてのグループ研究や、硬性のボールに細いスティックで衝撃を与えたときの物理的振る舞いについての考究くらいしかやってはいないようです。 目立たないが、いつも繁盛しているパブ、のような存在になっている。 日本には政治は存在しない。 十年以上、日本の社会を眺めてきて、日本の政治議論の、あの現実にはまったく届かない感じ、現実「政治」はまったくひとびとが考えることとは別の、暗い楽屋裏のようなところで決まっている感じを、「われわれはネットで意見を交換して、意識を高めて、正しい道を示しているのに、政治に興味をもたない大多数の国民のせいで議論が反映されない」というような意見を、あちこちで見かけるけれども、そうではなくて、例えば19世紀のロシアのように、そもそも社会に「政治」自体が存在しないので、すべての政治上の言論は、上滑りに滑って、単なる勇ましい自己満足に終わってしまっている。 左翼というでしょう? 右翼という。 ネトウヨという言葉もある。 では実体はなにかというと、チュシャ猫で、表情だけがあって顔はない。 左翼や右翼という言葉では、日本の「政治」がまったく説明できないのは、 日本には未だ政治と呼べるものが存在しないからでしょう。 いちど年長友が、「これはひどいね」と、十年以上、しつこくつきまとって、匿名アカウントを量産して、仲間を「はてな」というコミュニティの内部でつのって、中傷を繰り返している大学非常勤講師について述べて、 「しかし、この男、右翼だね」 と面白いことを言う。 いや、この人、左翼らしいですよ、と、ときどきの左翼時流に乗るだけの、このひとの、お題目をあげて説明しても、 「いや、この男は右翼だよ。こんな左翼はいない」と言い切るので驚いてしまった。 変わったことを言う人だな、で、そのときは終わってしまったが、後になって考えて見ると、この年長友は欧州の左翼と左翼の歴史に造詣が深いので、人間性を見て、言葉と行動の関係を観察して、人間の類型として、この年長友が常々軽蔑する「右翼」だと判断した、ということだったのでしょう。 なるほど言われてみれば、「右翼は悪なのよ。そんなものを信じると、良い学校にいけなくなりますよ」と小学生のときから言い聞かされて右翼思想を禁忌として育って中年男になっただけで、用語をいれかえれば、街宣車の屋根の上でがなり立てる壮士右翼と、なにも変わらない。 Working men’s clubは左翼の土壌として知られていて、そこで交わされる会話は、びっくりするくらい「左翼的」です。 しかも英語世界は現実主義の世界なので、 なぜ、われわれの賃金は低いのか。 教育コストは高すぎる。国営にして無料にするべきではないのか。 無料医療の範囲は拡大されるべきだとはおもわないか。 社会はもっと急速に改革されるべきだ、という議論がほとんどです。 そして、そういう会話のなかから労働党のサマースクールに入る若者があらわれ、政治理論を勉強して、国会議員に立候補する。 父親が現場の警官の、ジャシンダ・アーダーン首相も、そうやって議員になり、39歳で首相になった。 いまの世界では珍しいくらいの左翼思想の持ち主で、特にNZ型資本主義への正面からの挑戦であるキャピタルゲインタックスの実現をめざして、名前を変えて、おおかた現実にしてしまっている。 「資本の再分配」なんて言葉は微塵も使わずに、政策を通して、着実に冨の再分配を行っている。 左翼に対抗しているのはニュージーランドでは保守派で、保守派も保守派なりに変容して、90年代くらいは、規制をどんどん撤廃して、銀行も航空会社も森林も、みんな外国企業に売り飛ばしちまえば、いいじゃないか。 未来において儲かったら政府が買い戻せばいいじゃん、で国民党から出たボルジャー首相が、恐ろしい勢いで、なんでもかんでも売り払って、規制も取り払って、「これでは小さい政府ではなくて無政府ではないか」と国民に反発された。 判りやすい例をあげると、かつて国営だった、いまでもニュージーランドを代表する銀行である「ニュージーランド銀行」は、オーストラリアの銀行が所有しています。 いつか日本からの移民の人が、このブログのコメント欄に来て、 「労働党になってから政府の排外主義がひどくなって移民は絶望している。 もう7年間も夫婦でニュージーランドで暮らしているのに永住ビザが出ないので他の国に移住しようかと悩んでいる」 と、こぼしていたが、そのときは、気の毒で、あんまり言いたくないので、はっきりと書かなかったが、ニュージーランドでは誰でもが知っていることで、労働党は労働者の利益を代弁しているので、他国から移住してきて安い賃金で働かれると困る、税金で賄っている医療や教育の負担が外国人のせいで重くなるのは耐えられない、….排外的な政策をとることが多い。 反対に、保守派である国民党は、大小のビジネスマンや自営業者の利益を代弁しているので、急速な経済成長に伴う労働力不足を補う移民が減るのは、たいへんなことで、ヴィンヤードでブドウを摘む仕事からプログラマのような特殊技能者まで、なにしろ大勢でやってきてもらわなくては困る、ビザなんかどんどん出しちまえばいいじゃないか、と述べる。… Read More ›

  • 原っぱの効用について

    カヤックで競走はしないが、それでも、上手な人と一緒に二艇のシングルカヤックで出ると、いつのまにか、相手が見えなくなるほど引き離されることになる。 ときどき、夏だけニュージーランドに来ていた子供の時からの、むかしからの仲良し友と一緒にカヤッキングに出る。 たいてい「風光明媚」というクリシェそのままの景色が広がるネルソンの沿岸です。 このひとはオリンピックに出場したことがあるだけあって、わしもカヤックはなにしろ7歳くらいから30年近く漕いでいるので、そんなにヘタッピではないが、それでも、ゆうっくり、ゆうううっくりパドルで左右の水をかきわけているように見えるのに、水に乗って、友達は、どんどん遠くへ行ってしまう。 シー・カヤキングは、おもしろいもので、シャカリキになってパドルをぐるぐる回転させても、意外なくらいにスピードは変わらないので、焦る気持ちを抑えて、やや早めなくらいにパドルで水を押し込んで、先へ行くと、相手は、マッスル(ミュール貝)がびっしりついた岩のそばで、ニコニコして待っていて、岩から引き剥がしたマッスルを差し出して「ガメ、食べるか? うまいぞ」とニコニコしている。 こちらは、ひいこら言いながら、やっと追いついて、ああ、よかった迷子にならないですんだ、とおもっているのに、マッスルを食べ終わると、 「じゃあ、行こうか」 と無情なことをいう。 太陽に寄り添われてしまってでもいるような強烈な陽光の反射に覆われた、美しい、などという言葉では到底表現できない、タスマンの海辺を、また滑るように漕走していく。 人間の一生は、競争を前提にすればむごいもので、同じところから出発したのに、才能があるひとは、のおんびり歩いているように見えて、長い間には、遙かに先の地平線の向こうへ消えてしまっている。 よくあるパターンでいえば、親にオカネをだしてもらって「効率的な」受験訓練を受けて、日本ならばトーダイおじさんたちは口が悪いので「田舎のロータリークラブに入っているような地方名士の親のすねをかじって」ロケットスタートを切ったはずなのに、なんだか、鼻歌まじりで、すいすいと後ろからやってきて、すっと追い越して、またのおんびり歩いているのに、どんなに足の筋肉を酷使して駈けても、なぜか追いつけない相手がいる。 おなじ学校にいると、まるで生まれてから手のひらにさすように世界のことをすべて知っているような案配で、こういうひとたちに囲まれて暮らしていると、「競争社会」というものの本質的なバカバカしさがよく判ります。 おれのほうが二郎ラーメン食べるのは早いんだから、それでいいや、と納得する。 ほんとに、競争なんて、その程度のものだものね。 あれは観衆がおもしろがるためにだけある概念ではなかろーか。 外廊下。 自分の人生は自分のためにある、という簡単なことが明然と判っていなくて、なんだか、ぼおんやりと、そーじゃないかなあー、くらいで暮らしていると、「世の中」や「世間」は、徹底的にそこに付け込んで、きみを利用する。 挙げ句の果ては、母校のために「有名大学」へ入学してしまったり、母親の喜ぶ顔をみるために医師になってしまったり、はなはだしきに至っては「我が社」のために必死の努力をして泊まり込みや朝帰りを繰り返して、疲れ果てて喜怒哀楽もあるんだかないんだか判らなくなって辿りついたわが家で、まだ幼い自分の娘に「おじさん、だあれ?」と玄関で言われて、弾尽き、刀折れ、魂のどこかが復元力をなくして、過労死したりする。 過労死は、他人をだしぬこうとして過剰な労働に陥って死ぬのはアメリカ型で、シリコンバレーなんてところにいくと、あそこにもここにも過労死が転がっているが、たいていの場合、若い社長です。 競走に勝利することへの激しい意志に自分が押し潰されて死ぬ。 日本の人はアメリカ人よりは賢いので、個々の人間の意志を問題にしない。 社会のデザインとして企業に競争を強いて、企業はコロナ対策とおなじに社員への「お願い」によって殺して使い捨てにする。 真摯に死を悼めばすんでしまうのだから、安いもんです。 ローコストである。 どういうデザインかというと、日本の社会は一本道で出来ている。 生まれるでしょう? お受験という、いかにもな、極めて深刻な問題に軽い揶揄のこもった名前をつけた中学入試で、まず選別する。 ピヨピヨ言っている子供を社会の手が、ほいとつまみあげて、裏返して、「あ、こりゃ女だからダメだな」「これは、ちょっと知能が高いからいいんじゃないか」 「えー、こいつ育ちが悪すぎるわ」 と冗談を述べながら、まず12歳の段階で、勝者、敗者、入賞者と分けます。 次は大学入試。 トーダイという灯台をめざして、闇夜の嵐の海を、必死に泳ぐ十代の若者の群れ、swellに岩にたたきつけられたり、予備校の甘言に騙されたり、嫌みな同級生の言葉に傷つけられたりしながら、大学にたどりつくが、現役、一浪、二浪、…と不思議な順番タグがつけられていて、かつては二浪は一浪におとり、一浪は現役に劣り、競争者として認められるのは、現役二留、一浪一留、二浪までだと言われていたよーです。 最近は、もうちょっと、どうにかなっているに違いないが、なんでか大学に入るまでと、出てからが一本道なのは、あんまり変わっていなくて、その証拠に、みんな同じド退屈で悪趣味な濃紺?の服を着て、同じ髪型で、座って並んで、ウォーホルのキャンベル缶が全体主義化したような有様です。 いっせいに卒業するのは、論理的にいってあたりまえで、どこの国でも卒業式は、みんなで一緒に祝うが、そのあとに一斉に入社するところは、ブ、キ、ミとしか言いようがない風習で、はっきり言ってしまえば、「日本の近代化」なんて言葉の綾、もっと事実に即していうと、そういうことにしておこうという「個人が世間からの干渉や制約を受けずに個人でいられる」という現実を欠いた、ただの冗談みたいな看板にしかすぎない。 ほんとうは、人間は一本道を歩かされれば、その道に適応性がないパーソナリティは、ずるずると後退して、路傍でへたり込んでしまうか、悪くすれば、並木のどれか、せめてもの慰めに姿がいいのを選んで、首をくくる人が出てくるほかなくて、そういう一本道型の人生を歩くように仕向ける社会はデザインが悪いとしか言いようがない。 戸籍といい、多分、ただひたすら軍隊を強くすることに特化していた近代日本の徴兵制度から来ているのか、斉一性を当然とするのでは、個人など育ちようもなく、個人が育たなくて、ヘータイとヘータイ再生産装置としての女の人しか求められない社会では、民主制なんて夢のまた夢で、なにしろ個人に内在する自由への欲求も起こりようがないので、民主「主義」なんていうヘンテコリンな言葉が定着してしまう。 こういうイメージならどうでしょうね。 人生を「道」とイメージするのはやめて、原っぱだと考えればどうか。 あてもなく、うろうろするの、楽しいとおもうんだけど。 風が吹き荒ぶ丘陵を好んで歩く人や穏やかな陽光が降り注ぐ海辺を歩く人がいる。… Read More ›

  • 日本の衰退 1 

      (この記事は「ガメ・オベール日本語練習帳 ver.5」に2020年6月19日に掲載された記事の再掲載です)     日本の人は自分達の過剰な従順さで窒息死しかけている。 頼まれもしないのに、わざわざお節介を焼いて、よく考えてみるとたいして縁があるわけでもない他国の社会や経済の欠点を述べてみても仕方がない。 安倍晋三さんを首相に選んでしまったときは、さすがに慌てて、あんな人を選んでしまったら日本という国の基礎から掘り崩されて衰退から回復できなくなる、と考えて、なぜ安倍政権を成立させるとたいへんなことになるか、たくさん、無我夢中で記事を書いたが、あれから8年近くたって、予想通り、というか理屈どおり、日本は一見してみえない基礎工事にあたる部分がぶっ壊れて、これから、どうやったって、こうやったって、おいそれと立ち直るというわけにはいかなくなっていて、いまさら日本の根本的な問題について書いても仕方がない。 ふたつの「仕方がない」によって、書かないで来たが、たまには書いてもいいような気がしてきたので書いてみます。 日本の社会の、目を覆いたくなる、ちょっと傍目には信じられないよう凋落と低迷は、みっつの理由によっている。 ひとつは社会の高齢化で、これは投資や経済の世界を生きている人なら誰でも知っているが、地面にめりめりと崩落してゆくアッシャー家みたいというか、おなじことをやっても、振り子がいつもネガティブなほうに揺れる。 おなじ20%の成長を達成するのに200倍くらいエネルギーがいる。 しかし、例えば60年代におなじ問題を抱えて大低迷を迎えたフランスのように、苦労した先人の社会がいくらもあって、その例を検討して、移民政策やそのほか、なにが政策として有効で、なにが無効か、すでにわかっていて、切羽詰まれば、なにもしないためならなんでもする日本の人の社会も、よっこらしょと腰をあげて、解決に乗り出せば、またまた例を挙げるとニュージーランドではおよそ20年で解決している。 二番目には女の人が、本質的には近代以前の立場におかれていて、本人にとって最も苛酷な地獄だが、社会の側から見ても、簡単にいえば人口の半分が本来の生産性を発揮できないので、人口一億と言っても、5000万人のパワーしかもっていない。 これは、みっつの問題のなかで最もおおきな問題なのだけれども、文明的な根が深く規模がおおきいので、また違う機会に記事を書くとおもいます。 ここで書いておきたい問題はみっつめで、いまのところG7のなかでは日本だけの特殊問題、慢性的な低賃金社会であることです。 いつかCOVID前の町で、同じ職場の人なのでしょう、日本からの若い人とスウェーデンから来た若い人が、話しているのがカフェの隣のテーブルから聞こえてきたことがある。 日本の人が、話のなりゆきで、時間給を問われて、「一時間15ドル」と応えたら、ふたりのスウェーデン人に、プッとふきだされて、気の毒にたいそう傷付いた顔になっていた。 NZD15ドルは、USD10ドル、日本円で1100円というところなので、日本の若い人が特に安く見積もって時間給を述べたわけではなさそうでした。 なぜ、そんなに安い賃金で働くの? と言われて、顔を真っ赤にして、自分達もおかしいとおもっている、でも、みんなそういう金額で働くから仕方がないんだよ。 低賃金が消費市場の縮退をまねくのは、子供どころか、犬さんでも、よく納得がいくように教えてもらえればわかる理屈で、だって、そうでしょう? オカネがないんだから、ものが買えない。 消費行動とサバイバル行動の区別もつかないようなコンビニで弁当の価格をにらみつける暮らしになってゆく。 一方では、いまでも忘れられないイタリア料理店主との会話があって、日本では超高級とみなされる、そのイタリア店主が、客がすくないのを見計らって、いつもそうするようにテーブルの側にやってきて、お元気でしたか、に始まって、よもやま噺をしていく。 「歳よりがいくらカネをもっていても、ダメなんですよ」と、自分が70歳を越えている気楽さなのでしょう、あっさり言う。 「わたしの店のお客さんも、毎晩ご夫婦でやってきていたような方でも、一度どちらかが大病をしてしまうと、もういけなくて、日本で医療をうけるのに、どのくらいコストがかかるかわかって、オカネを使えなくなってしまうんですね」 日本は医療は健康保険でカバーされて安いのではなかったんですか? と訊くと呵々大笑という表現ぴったりの大声で笑って、 「ガメさんね、中世の医療ならタダみたいなものですが、最新医療は保険の対象にならないのがおおいんです。それに、ほら、ガメさんが、あまりに汚いのでびっくりした、と言っていた築地の病院があるでしょう?あんなので入院費が安くていちにち12万円だそうですよ」 げげげ。 それと、やっぱり気が弱くなってしまうのですよね。 家にこもってなにもしないのがいい、ということになってしまう。 そこが若いときに趣味を育てない日本人の悲しさでしてね。 からくりが少しわかったような気がした。 数字の上ではひとり500万円の現金資産があっても、日本というひどい格差社会では、富裕な老人たちにオカネは吸収されていて実際に消費市場で末端を支えている消費者のふところには100万円という心細い金額さえないのではないかしら。 ずっと前に日本政府が他国で無効であるのが証明されたトリクルダウンという概念を使うのを聴いて、呆れ果てて書いたブログ記事があったが、 案の定、そんなことは日本でも起きませんでした。 神のいない経済 3 ゾンビ篇 日本は戦前から一貫して国家社会主義経済の国です。… Read More ›

  • 夜の闇のなかで

    (この記事は2014年6月8日にガメ・オベールの日本語練習帳 ver.5に掲載された記事の再掲です)     “The best audience I ever had made not a single sound at the end of my performances” と、オードリー・ヘップバーンが述べている。 その頃、後年、ほっそりとした清楚な姿の美しさで、全盛だったハリウッドのグラマー女優たちを一挙に田舎のストリッパーなみの印象に蹴落としてしまい、それまでは売り物だった胸の大きさを恥ずかしがらせた、「ローマの休日」「ティファニーで朝食を」の女優は、若いバレー・ダンサーとしてオランダの対ナチレジスタンス組織の資金稼ぎのための地下公演の舞台に立っていた。 公演のあいまには、レジスタンス組織の連絡員として、仲間がつかんできたナチの情報を夜の道を駆けて、支部から支部へ、伝えて歩いていた。 女優になってからのユニセフを軸にした活動は、この頃の情熱からまっすぐに続いている。 ひさしぶりに「ローマの休日」を観たので、ヘンな例からはじめてしまったが、欧州人の政治活動の特徴は、つかまれば拷問・処刑が待っている文字通り生命を賭けた政治活動であっても、政治活動がその人のたたずまいに影響を与えていない「普通の人」が担い手であることで、戦争のときだから特殊だったのではなくて、いまでもたとえば図書館の司書のアイルランドおばちゃんと打ち解けて話していると、ちょっといたずららしい顔をして、「わたしもイギリス人をふたり殺したことがあるのよ。IRAには、私の家族は全員がはいっていたの」と言われて、どひゃ、と思ったりすることがある。 だから特にどうということではないと思うが、日本にいたときには政治活動をする人がいかにも政治活動をしそうな感じの人で、元全共闘活動家、というような人にあうと、顔はもうしわしわだが、いかにもヘルメットをかぶって出かけたそうな風情で、キャプテンアメリカの映画を観て盾を持って走りまわっている子供みたいというか、スーパーマンを観てスーパーマンスーツを着て二階の窓から唇をきりっと結んで空をにらんでいる人みたいというか、政治と自分という個人との関係がやや過剰に人格を染めあげているタイプの人が多かった。 そういう、観察して「ちょっとカッコワルイ」と思っていたことが、社会という観点からは、日本では、やや本質的なことなのではないかと思い始めたのは、やはり福島第一事故があってからのことです。 自分のなかの「政治」がどのような形をとっているかは、当然ながら、人によって異なる。 日本の人は、どうしてあんなに政治や社会の問題が好きなのだろう、と述べたら、日本語フォーラムの友達が、「あれは、一生懸命おぼえたことを答え合わせをしているだけなんだよ」と応えて、頭の良いひとはなんにでもぴったし寸法のあった言葉を持ってるもんだなー、と感心してしまったが、言われてみれば初めて見えてくる、その通りで、はてブや2ch、最近ではツイッタでも、みなで勉強した、表紙に「政治・社会」と書いてあるノートブックを持ち寄ってきて、「安倍首相? ああ、あれはね、アベノミクスを否定するかどうかがポイントで、安倍政権を否定する人はアベノミクスをも否定するのか、と問いかけるのが主要点で+15点、クルーグマンがほめてることに言及してあれば+3、通貨供給量と市場経済について書いてあれば+1点…」 というふうに正解をどれだけおぼえているか確認しあっているのだと思えば思えなくもない。 ちゃんと参考書執筆者・予備校講師の役の人がブログを持っていて、正解を作製するのを業として、そういう所におおぜいの人が集まるのも、なんとなくうまく出来ていて、笑いがこみあげてくるよーです。 一方で、自分が正解集で見たことがない意見を述べる人があると、「あんたの答えは間違ってる! どの参考書の正解集に、そんな意見が出てるんだ? バッカじゃねーのw」と皆で全速力で駆けて集まってきて、勝ち誇って囃し立てるのも、日本社会では「みなが判り切っていると信じていることを答え合わせすることだけが議論」なのだと仮定すると、説明が付きやすいように見える。 正解が初めから判っているので、「いじめをなくすためには学校そのものを無くさなければダメだ」というような社会学者があらわれると、自分が持っている「教室内を改革して、よりよい学級をつくりましょう」というような正解例と異なるので、なんでこんな奴の誤答を読むバカがいるんだ、と、いらいらして、だが考えてみると自分の頭で考えた経験は皆無なので「正解は正解なんだよ!この誤答者めが」としか言いようがないので、矛先を転じて、あいつは駅前の店でアイスクリームをクリームアイスと言い間違えるような好い加減な奴だ、とか、ツイッタのアカウントを探してきて、中国では反政府人の要塞にもなっている、自由な社会のためのスリングショットであるツイッタを骨抜きにすることに成功したtogetterというツイート・コラージュ装置があるので、社会学者のツイートを巧みに編集して、発言そのものよりも発言者の人格を中傷して、信用の足下を掘り崩すことを狙う。 そういうことに熱中しだすと止まらなくなってしまうのも、やはり、正解集で採点してもらって、いつだかは100点満点で85点もとって、偏差値も62くらいまであがったことがある「教育・学校」問題で正解でないことをいいつのる社会学者が憎らしくてたまらないからでしょう。 政治はもともと何千万人という社会の構成員が、ひとりづつ完結した自分の宇宙をもち、異なる価値を信じ、てんでんばらばらな宇宙の法則をみつめているのを、調整して、社会という装置自体が崩壊してしまわないように「全体」へつなげていくために存在する。 なんだかものすごく当たり前のことだが、だから、政治は普通の人の普通の生活に少しづつ存在するもので、家族の夕食の団欒では年がら年中政治の話が出て父親も母親も、娘達も懸命に議論するし、その完結して自足している宇宙であるはずの「個人」が滅せられそうになれば、バレーの足のバンデージをほどいて、その足で、夜中の道をドイツ親衛隊の誰何(すいか)を微笑でやりすごしながら、地下運動の仲間へ伝言をとどけに行く。 あくまで「個」の欲求にねざしているので、正解集を広げてみると白紙で、「自分で書き込むこと」と書いてあるだけです。 政治や社会正義が服を着てしまったような人間には、あるいはアルコール中毒の人が酒の臭いを体中からぷんぷんさせているように政治や社会の「正義」が臭ってくるような人の「個人」には、「正しいこと」しかつまっていなくて、その頭のなかに映っている夕日は政治のせいで少し黒ずんで、真っ白であるはずの青空に浮かぶ白雲も、正義のせいで灰色にくすんで底が汚れている。 そうなってしまえば、あるいはそういう人間に耳を貸すようになってしまえば、本地も垂迹して、個人のために社会があるのか、社会のために個人が存在するのかわからなくなってしまう。… Read More ›

  • 日本語人への手紙 1

    なぜ日本語で書くのだろう、とよく考える。 ひとにも言われるが、自分でも、なぜこんなヘンテコリンな作業を続けているのだろう、と考えてみることがある。 答えは割と単純で日本語で書いている自分というものが「見知らぬ誰か」で、最近では、いかにも自分とは異なる人になっていったと感じているからであるかもしれません。 外国語としての日本語を身に付けている人は、日本の人がぼんやりと考えているよりは、遙かにたくさん存在して、そこいらの、というと語弊があるが、そのあたりの日本の人では到底太刀打ちできないすぐれた表現を身に付けている人もたくさんいます。 その事実がピンとこない人が多いのは、日本語人自体が言語習得能力が、なぜか異様なくらい低いので、例えば16歳になってから初めて学び始めた言語を母語人なみか、あるいはそれ以上に身に付けてしまうという事態がのみ込めないのと社会として日本語話者を正当に評価する場を作れなかったせいだとおもうが、このあたりのことは日本語教育学が専門のフサコ(Fusako Beuckmann)さん @Biwakaba1310 たちが考えた方が筋が通ったことを考えられるに決まっているので、ここでは、あんまり触れても仕方がない。 自分の心の中を覗き見ながら話した方が効率が良さそうです。 例えばフランス語を書く量は、日本語に較べて遙かに多いが、フランス語を書いているのは、たしかに生まれてこのかた、ずっと付き合って来た、そのせいでちょっと飽きてもきているが、自分で、見慣れた人です。 ところが日本語を書くときには、なんだかメンテナンス不足で英語で考えた事を、そのまま日本語に引き写しているだけのこともないことはないが、たいていは、自分とよく似た、でも画然と異なる、ほんとうは30代も後半なのに、やや自覚がなくて若いつもりになりやすい、無鉄砲で、英語人からみるとエキセントリックな青年がいる。 書いていて、「これは誰だろう?」とおもう楽しみがある。 どうやら生まれてからおなじものを見て、おなじような生活に馴染んで、おなじ人を好きになったりしていて、一卵性まではいかなくても二卵性双生児くらいは似ているのに、英語人の自分からみると、とんでもない、というか、なんだかヘンな人で、言語というものはすごいものだなあ、と実感する。 おおきな理由として、日本語は日常生活では、まったく使わない言葉で、日本語人の義理の叔父と話すときに、二言三言日本語の単語を口にするくらいで、残りはまったくお蔵入りで、このあいだ最後に日本語で話したのはいつかを考えて見たら、5年前だかに数日たち寄った京都と東京まで遡るので、びっくりしてしまった。言い募ると、その前6年間くらいも、まったく誰とも日本語で話していないはずなので、日本語は、まったくの書き言葉だということになる。 そういう特殊な理由にもよるのかもしれないが、多分、言語間の距離がおおきいことによって、まったく別の人格であるようなところが面白くて、延々と十年以上、日本語を書いているのだとおもいます。 奇妙なことが起こって、どうも最近は、「日本語人」を考えるときに、このガメ・オベールなる人を思い浮かべているような気がする。 なんだか怪談じみているが、考えると理由はすぐに思い当たって、「他の日本語人をもう忘れてしまっているから」であるようです。 歳月は恐ろしくて、もう「5年11回の大遠征」と称していた十全外人計画でなんども訪問して、あまつさえ1年のうちの数ヶ月を過ごしたりまでしていた日本も、記憶のなかでは断片としてしか残っていなくて、そのうえに、なにしろテキトーなので、記憶が改変されてしまっている。 前によく「造語」が多い、と言われて、そうなのか、と考えたが、その人があげている例を見ると、欣喜雀躍や乾坤一擲や単簡で、これはいずれももともと日本語にある表現で、言われてみると、そうか日本の人は古い表現は使わないものね、とおもう。 ガメ日本語自体、主に明治文学(例:北村透谷)と戦後詩(例:鮎川信夫)で出来ているので、古色蒼然としているのは、やむをえないとおもってもらわなくては困るが、一方で、なにもそんなに気張って新しい表現を追いかけなくても、という気持ちもあります。 イブリン・ウォーが、バラク・オバマに似て、(と言うと上流階級出身でバリバリのレイシストだった本人は怒りそうだが)一流の読書人だったウインストン・チャーチルに「きみの英語は、年々古くなるね」と言われて相好を崩した、という有名な逸話があるが、言語というものは、本来そうあるべきもので、新しい表現を生みだしては、社会に選抜されて、生き残った表現が、またもとの「古い」格調のある文章に戻っていく。 いちどアメリカに住んでいる日本の人が、英語についていちゃもんをつけるので、めんどくさいので英語で応えることにしたら、感心に、日本の人には珍しく自分も英語でいちゃもんを付け始めたが、その英語が、売春婦の英語そのままだったので、失礼に怒る一方で、気の毒でたまらなかったことがあった。 英語には不自由しないくらい堪能だ、とおなじ人がどこかに書いていたが、それだけ英語が身についていても、英語という言葉はもともと階級性が強い言葉で、なんの気なしに使った表現で、その人の出自を一瞬で看て取る、嫌なやつばかりなのだという、英語人なら誰でも知っている現実を、知らないようでした。 得体の知れない英語、などという。 主にアクセントを指していて、よくインターナショナル・スクールで勉強したアジアの人の陰口を利くのに使います。 英語では、よくやる意地悪で、これも英語という言語が言外にいろいろなサインを発してしまう言語であることをよく顕している。 英語の俳優の苦労も工夫も、だから、そこにあって、Marianne Jean-Baptisteなんていう人は、ドラマのなかでは、どっからどう聴いたってバリバリのアメリカ人だが、ほんとうはロンドンっ子で、「徹子の部屋」みたいなインタビュー番組で話しているのを聴いていると、純正の美しい英語を話していて、俳優というのは、すごいものだなあ、と感心する。 逆に、設定はブルックリン生まれでブルックリン育ちなのに、オーストラリア人のアクセントで、なんという大根役者だろう、と可笑しかったりすることもある。 アクセントについては、面白いことがあって、人種差別意識が強い人は、ほんの少しアクセントが異なる英語でも実際に聞きとれないで年中聞き返す。 わざとやっているわけではない。 人種差別意識なるものは、たいていの場合、本人も意識していないケースのほうが圧倒的に多くて、「あんたはレイシストだから」と奥さんに言われて、心の底からぶっくらこいてしまったりする人が多いので、よもや自分が人種差別のような野蛮な意識を持っているとはおもっていないことのほうが多いのです。 ところが見ていると、傍から見ていて、この人は人種が異なる人はダメなんだな、と直ぐに判る人は、同国人の同じ白い人同士でも、年中、「え?なんて言った?」と聞きとれないことが多いようです。 わし友の例で言うと、イギリス人で、奥さんが香港の人であるのに、 クイーンストリート、行かないよ、アジア人ばっかりじゃないか、と、うっかり述べてしまう人で、奥さんが、よくうんざりした顔で、「わたしもアジア人ですよ、あなた。わたしにも、うんざりなの?ほんっとに、いつまで経ってもレイシストなんだから」と苦笑いしながら述べていたりする年長の仲良し友がいるが、アメリカ人友の、ほおおおおんの少し異なるアクセント発音されただけの単語を聞きとれずに、聞き返して、「あのおっさんは、おれに喧嘩を売ってたのか?」と言われたりしていた。 インターネットが普及することによって、日本語世界は英語世界とは、ちょうど逆に、世界が狭小になり、日本の人が言うところの「ムラ社会」になって、画一的になり、同調はよくないと口々に述べながら、歴史上、例を見ない同調圧力が高い社会になっていった。 情報量が少なかったアナログ時代には十分すぎるほど多くおもわれた言語人口も、インターネットが普及することによって、皮肉なことに、言語世界として小さすぎる世界の徴候をあらわして、多様性は削り落とされ、日本語が閉鎖空間化したときに必ず起きる、集団狂気と加虐性が頭をもたげて、なんだか中国の説話「狂泉」そのままの、バンザイ三唱社会になってしまっている。 多様性がないということは知的要素に乏しいということと同義です。 日本の人は画一性を求めて見事に達成してしまった。 インターネットが社会を退行させた例として、よく挙げられるようにもなっている。… Read More ›

  • 破壊せよ、と神は言った

    (この記事は2018年3月15日にガメ・オベールの日本語練習帳 ver.5に掲載された記事の再掲載です) ビットコインは、ほぼ死んでしまった。 投機の対象としては、さっきみたら1BTCが$8000近辺で、まだ生きているが、なにしろ決済手段として使いものにならなくて、仮に、ビットコインでかつ丼を食べた支払いをすると、調べてみていないが、多分、1000円のかつ丼に2400円の決済手数料、しかも決済されるまでの待ち時間15分というようなことになるのではないだろうか。 人間の貪欲に殺されてしまったわけで、よく出来たアイデアだったのに残念であるとおもう。 他の仮想通貨も軒並みダメで、仮想通貨自体、多分、しばらくは銀行間の送金手段のような、ものすごく限定された範囲で使われるだけになるのではなかろうか。 その場合、例えば「三菱銀行コイン」のような命名のほうが手っ取り早いくらい、投機対象にされることを避けた、閉鎖的な仮想通貨になるような気がする。 ブロックチェーン理論が現実に持ち込まれる嚆矢で、いきなり蹴躓いてしまった。 いずれはブロックチェーンという数学的理論の裏打ちがある保証理論が再度経済世界にもちこまれて、いまの、見せかけ理論しかない、いわば心理学的な市場理論(みたいなもの)に取って代わるに決まっているが、なにしろ、ビットコインの相場がさがると、GPUを寡占的に生産するNVIDIAやAMDの株価がさがるのは、まだ判るとして、ブロックチェーン事業を拡大するIBMの株価までさがってしまう、相変わらずの、連想ゲームじみた市場のケーハクさでは、ブロックチェーンそのものが進歩の足を止められるわけで、不動産会社や銀行が過去のものになる、より理性が支配する経済社会の未来が、また少し遠くなってしまった。 ビットコインが植物人間化した、いまの廃墟で、残っているものは、笑い話だけで、自分の周辺でいえば、2010年くらいから、会う人ごとにビットコインは面白いし、ブロックチェーンを理解するとっかかりになるから、買ってみろ、と奨めて歩いていて、その結果、メルボルンやオークランドで、若い友達たちに会うと、 「ガメ、わたし、3億円できちゃったんだけど、どうすればいいだろう?」と、見ようによっては浮かない顔をしている女の大学生や、「2億円あると、学習意欲がわかないんですよね」とヘラヘラしている男の大学生が、いっぱいウロウロしていて、こういうひとびとは、だいたい、秀才などでは全然ない、日本式の就活がもしあれば、真っ先に不採用を決めたくなるタイプなので、神様がきまぐれで、小さな村のなかで宝クジの一等賞を配って歩いたとでもいうような、ヘンな風景ができてしまっている。 ホーキング博士は、一般社会へのインパクトは、科学者としてよりも科学の解説者としてのほうがおおきかっただろう。 いくつものドキュメンタリを主宰して、神など仮定しなくても、この宇宙は説明できることを、何度も、上手に説明した。   人間は理性の部分は、自分で自惚れているよりも遙かに小さいので、正しく理解されていないが、神を仮定しなくても宇宙が説明できると判ってしまったことは、たいへんなことで、判りやすく述べると、カトリックもプロテスタントも、地上の絶対神を仮定する宗教は、神よりもすぐれた仮説が現れることによって、われわれの時代で、一挙にカルト化してしまった。 困るのは、われわれが考えるときに使う自然言語自体が神の存在を前提していることで、こう書くと、必ず、どこかの頭のわるいおじさんが、「神なんて信じる中二病をまず捨てることから学びなさい」と言ってくるのが日本語のめんどくさいところだが、それはどういう性質のインチキな発言であるかというと、なるほど日本語は、もともと中国語を読解するための注釈語としての性格が強くて、他人の考えを摂取するのに向いているばかりで、自分でなにごとかを仮定するには向かない言語なので、言語自体の機構は神を前提していない。 けれども明治以来の、とにかく、なにがなんでもヨーロッパのマネをしなければならないという脅迫観念じみた信念で、「恋愛」を造語し「純潔」を造語し、造語造語を繰り返して、ゴテゴテと西洋の観念を自分達の言語の語彙に塗りたくって、とにもかくにも、同じ機能をもたせるに至った。 だから借りてきた相手の言語が絶対神なしでは成立しえない体系であることが、ただ形だけ、ちゃっかり借りて着服してしまったほうには成立の経過や基調になっているものが判っていない、というだけのことです。 模倣というものの宿命とも言える。 しかし、無茶をやれば、破綻があちこちに起こるのは当たり前で、ついこのあいだ、哲人どん@chikurin_8thを宗匠とするツイッタのタイムラインで話題になったとおり、なんだかブラックな笑い話じみているが、日本語は、例えばintegrityやcommitmentは、あろうことか、訳語もつくらないで、落っことしてきてしまった。 なんだか耳なし芳一の経文を書き込み忘れた耳のような話だが、現実で、いま安倍政権がスキャンダルで揺れている原因も、要するに真因は、integrityのない人間が役人であり、政治家であるという日本の、極めて特殊な状況に拠っている。 We look for intelligence, we look for initiative or energy, and we look for integrity. And if they don’t… Read More ›

  • わかれみち

    鎌倉の二階堂には「岐れ路」という交叉点がある。 Y字路で左に行けば、足利家が埋葬を禁じたために腐敗するに任された護良親王の首が路上に打ち捨てられ、腐爛を極めたあとに、やっと理智光寺の住職によって葬られたという言い伝えがある首塚があり、右に行けば浄明寺を通って横浜横須賀道路の朝比奈インターチェンジに出ます。 のっけから余計なことを書くと、朝比奈インターチェンジのすぐ手前には広大な鎌倉霊園があって、ここの正門脇の公衆電話ボクスは黒い鞄を持った男の幽霊が出るので有名だったが、義理叔父は、近眼で、鎌倉に入っていく道の左手に見える一群の墓石をおおきなマンションだと長い間思い込んでいたそうで、ある日、あんなところに巨大マンションを建てることを許すなんて、鎌倉市役所もたいしたことないな、と述べて、鎌倉ばーちゃんを始め、その場の人に大笑いされたそうでした。 右に行った先だけ余計な事を書いて、左のほうを書かないのでは、左に行く道が怒るだろうから、左のほうも書くと、この道をずっと入ったところに荏柄天神があって、いまはなくなってしまっているようだが、わしガキの頃は、というか二十歳でいちど訊ねたときにはまだ、「合格」と焼き印を押した蒲鉾が載っているので有名な「合格ラーメン」を出す有名な中華料理屋があって、ラーメンは食べたことがなかったが、義理叔父に教えてもらって、メニューにはないカツ丼を頼んだら、これが滅法おいしかったことを未だにおぼえている。 合格ラーメンでおもいだしたので、余計のついでに書くと、岐れ路の交叉点に面してたっている、一見は何の変哲もない鮨屋は、実はとんでもないおいしいねぎとろ巻(←手巻きじゃないほうね)を出す鮨屋で、その隣の、いまGoogleマップでみるとシャッターが下りたままになっている場所は、そのころはたしか昭和の時代がそのまま残っているような中華料理屋で、電話で注文すると、岡持にホンダのスーパーカブのおいちゃんが、出前を持ってきてくれたもののようでした。 ついでのついでのついでに書くと、この近所の肉屋さんで、初めて竹の皮でくるまれた牛肉を買って、おおお、明治の小説に出てくるの、そのまんま、カッコイイ、と鎌倉ばーちゃんの家への手土産のすき焼き肉を買いながら、深い感動に打たれたこともある。 追分には「分去れ」という交叉点がある、左に行けば中山道で、右に行けば北国街道の有名な分岐です。 軽井沢という町は、あんまり言わないほうがいいが、もともと人気(じんき)が、あんまり良くないところで、人がいなくなった秋口に散歩していると、真っ昼間であるのに、別荘にこっそり忍び込んで、積んである薪を盗む人なんていうのは、よく目撃した。 高山植物を集めている人がいて、集めても集めても珍しい花が咲く植物が盗まれて、金額(で計算するのも下品だが)にして500万円以上も盗まれるので、意を決して、庭を監視していたら、案の定、40代くらいの女の人が、リンドウをごっそり盗んでいくので、飛び出していって、 「花を盗むのはやめてください」 と述べたら、「けっ」という顔をされて、 「花泥棒は粋なこと」だと知らないの? 成金は嫌ね、 と言われたそうでした(^^;) 追分の「分去れ」を右に行った近くの橋の袂に誰でも持っていける無人図書箱があって、誰も盗む様子もなく、かえって本で溢れかえっているので、近所の無料駐車場にクルマを駐める、その前を通りかかるたびに、軽井沢のような「高級」ということになっている土地よりも追分のほうが、ずっと人間はいいのだな、と、人間の機微に触れたような気持ちになって、今度は、通る度に、判で捺したように、おなじことを考えている自分に気が付いて、可笑しさがこみあげてきたりした。 日本語人は、坂がのぼって、頂きに達して、そこからくだってゆくという、ただそれだけの地形に「峠」という不思議な語彙を与えて、Y字分岐に、ただ形状を説明するだけでは気持ちが収まらずに、わざわざ「わかれ道」に、岐という、宇宙規模の漢字を与えて、あるいは、「分去れ」と述べて、感情を込めずにはいられなかった。 ただ人間が移動するだけのことに嫋嫋とした、と言いたくなるような情感を込めるのは、日本語人は人の一生を旅に重ねて考えることに心底から慣れていて、決してやってきたところに帰ることがない旅を歩いて、その途上のどこかで倒れるものだ、というイメジを心に描いているからでしょう。 右へ行くべきか左に行くべきか、決断を繰り返して、行けば道に任せて、本来は行きたかった場所でないところに出てしまっても、まあ、これもいいか、と呟いて、歩みを止めない日本の人の姿が眼に浮かぶようです。 いまの日本が、どこかの分かれ道で行くべきでないほうへ進んでしまったことは、ここまで来てしまっては、さすがにほとんどの人が気が付いている。 どちらへ行くべきか判断するだけの資質も能力もないひとが、役人として地位が高かったり、単に自分への評価が大甘なまま父親の威光で自分に実力がある錯覚したりして、いわば、いいとしこいて親のすねかじりで生きている中年や老年の人が多すぎて、日本語社会が10のレベルで能力を貯えているとして、そのうちの1も能力が発揮されないまま、訳のわからない道を歩かされて、到頭、コロナ禍で露見した社会としての無能さで、近隣のアジアの人たちに失笑されるほど酷い国になってしまった。 ひたむきに善い国を目指すことをやめて、体裁をつくろい、冷笑を浮かべ、斜に構えて、自分が優れた人間でもあるかのような嫌みを述べているうちに、社会ごと地獄に行き着いてしまった。 日本人でない人間にとっては、いまの日本は、平和で、面白くて、とてもいい国です。 海外旅行に行こうとおもうが、どこか変わった、楽しい国に行きたいんだけど、ガメはどこがいいとおもう? タイかな? メキシコも面白そうだけど治安が悪いよね、というような話になると、わしは必ず「日本がいいよ。最高ですよ、あの国は」ということになっている。 でも、あんまり東に行くなよ。 フクシマ、おぼえているでしょう? と述べる。 余計なことを言う必要もないので、住むとなると、話が別だけどね、あの国の社会は悪意に汚染されている、ちゅうようなことは、当たり前だが、なにも言いません。 ただ、ちらっと、脳裏に、あの個人にとっては苛酷で苦しい社会のなかで、足掻くように旅しながら、一日一日、どちらを選んでも地獄にしか通じていない岐路の前で、それでもマシなのは、どちらか懸命に考えて、来年の暮らしが少しでも良くなるように、出来るだけの知恵をつくす日本の人たちの影が映っている。 ほんとうはね。 人生は旅ではない。 自分という、自分にとっての最良の友達を、自分の内部で、育んで、どちらかといえば魂の建築に近いのが人間の一生でしょう。 建築が聳えてゆく土地として、日本語社会は、もう地盤が脆くなりすぎているかもしれないけど、落ち着いて、自分が岐路に立っているのではなくて、次はなにを実効すれば「自分」と邂逅できるのか、それこそがゆいいつの焦眉の対象でなければならないのかもしれません どの岐れ道をたどっても、自分に会うことは出来ないのだから

  • コロナの向こう側

      オークランドはレベル4ロックダウンが続いていて政府に「家から出るな」と言われているので、なんだか、一日中、ゴロゴロしている。 レベル4ロックダウンで最もびっくりしたのは、政府のひとびとや、Siouxsie Wilesたち、専門家も喜びとともに驚いたようだったが、8割のNZ人が、ウイルスゼロの一年の後に、この、長い、突然降って湧いた世界一厳格なロックダウンを支持しているという世論調査の結果で、ほおれみろ、やっぱりウイルスを根絶するなんて無理じゃん、と余計なお世話もいいところで、隣国の首相にまで方針を非難されながら、孤立無援でも、国民が殆ど一致して首相を支持したことでした。 ほんとに、ぶっくらこいちまっただよ。 わし自身は、方針として、根絶命(いのち)で、今回もオーストラリアから運ばれてきたウイルスが隔離施設の管理が好い加減で漏出したのが原因だったが入国者/帰国者隔離システムを改善して、デルタに立ち向かったほうがよい、デルタでも抑えるのが大変なのに、この先、予測されるもっと感染力も致死性も強い変異株と「共存」するなんて出来るわけない、という意見なので、世論調査の結果は、ホッとひと息で、これならなんとかやれるかもしれない、とモニとも話していました。 いまのところは、ピークには三桁の新規感染者が出たあと、基数のPCR検査は増えているのに、減少して、昨日は20人にまで減って、野党の政府への攻撃も、アメリカやUKのようにワクチンをどんどん接種させる代わりに経済活動を通常に戻すべきだ、でなくて、1年間のコロナ・フリーだったあいだに、なぜ隔離システムを改善しなかったのか、怠慢ではないか、というほうに矛先が向いている。 ボーティングやヨッティングが出来るのはレベル2からで、じっとバースに停留して、船底を汚している自分の船たちを考えると、切ないし、第一、ウイルスが市中に出たのが判って、iPhoneの警報が鳴って、いきなりレベル4ロックダウンに入った直前の、その日の昼間に、大量のポテトチップスを釣り用のボートに運び込んだばかりだったのに、湿気(しけ)ちゃうじゃん、とショックだったが、ポテチが柔らかくなるほうがコロナで死ぬよりはマシなので仕方がない。 露天風呂に入って、あれ、面白や、あわれにもありけん、ロックダウンで、いつもよりは遙かに暗い、うっすらと天の川が見えている夜空を見上げたり、相も変わらず、飽きもせずに、いろいろな言語で、益体もないことをAppleの画面に書き付けたり、去年とおなじ生活をするのは愚か者のやることだと言いながら、なんだか色々書いたり本を読んだりするのは百年一日なんじゃないの?と、例の、自分という友達にからかわれたりしながら、毎日を過ごしています。 レベル4ロックダウン生活を始めてみると、二度目も、二週間なんてあっというまで、お隣のメルボルンは、遂にロックダウン210日目だそうだが、30週くらい、へいちゃらで過ごせそうな気がしなくもない。 COVID-19は、いま眼前にある差し迫った脅威だが、そういう言い方をすれば天然痘よりも根絶が難しいが、ポリオよりは根絶が簡単で、案外とHIVのようなタイプのウイルスと異なって、結局は各国とも共存をあきらめて根絶に向かうのではないかともおもうけれども、少し拍子が遅い同時進行で、着々と進行している、地球の温暖化に伴う異常気象のほうが深刻な問題で、COVID対策を謬った国は、ほとんどが経済が理由だが、こっちも同じ理由というか、もっと酷いというか、当分、どうしようもなくなるまで、国家の単位では、誰もなにも真剣にはやりそうもないので、自衛するしかないことになってしまっている。 DNAの解析がすすんで、いまの人類は、最も遅い見積もりでは、たった5万年前に、農地が乾燥したアフリカの村から、すっくと起ち上がって、遠くに見える緑地をたどって、アラビア半島の淵を迂回し、トルクメニスタンに至った、ほんのひとにぎりの数のひとびとを共通の祖先に持っていることが判っている。 トルクメニスタンから西に向かった者達が、なんだか冗談染みて聞こえるかもしれないが、色が白くなって、眼の色や髪の色が薄くなったひとびとがコーカシアンの先祖で、東に向かったひとびとがいまのアジア人になった。 ついでに、ではひどいが、述べると、元来た道を戻ったグループがペルシャ人になり、亜大陸のインドに、北からぎゅうぎゅうと押しくら饅頭で詰め込まれたのがインドのひとびとで、あの凄まじいばかりの多様性は、そこから来ています。 面白いのは、ちょうど5万年前に後にした故郷と同じ気候環境の東南アジアの島々にたどりついたグループで、このひとびとは形質が変化しなかったと考えられている。 東南アジアの真ん中で内陸アフリカ人としての形質を示している。 いま起きている気候変動は、この5万年前の、多分スーパー火山の爆発によった変化と同規模のものが、ゆっくり起きているのだと考えられて、そうすると、例えば最も影響がおおきい中緯度に位置する日本列島の住民などは、結局は、大移動するしか生きていく道がなくなるのかもしれません。 国境だのなんだのとめんどくさいことがなければ、これから人間の居住に適した土地がぐんぐん増えるカナダに移動すればよいが、さて、いまの人間の頭の悪さで、そんなことが可能になるのかどうか。 COVID-19パンデミック自体は、このあと、どんな突然変異株が生まれるかによって、多少の変動があっても、数年という単位で終熄するはずで、終熄後に予測される危機のうち最悪のものは、中国に対する国家間の賠償請求と、それに対する中国の反発が戦争危機にまで発展することだとおもうが、タイミングから言って、中国をいまの世界の経済の仕組みから仲間外れにするのは、まだ無理で、中国の側から言っても世界経済と自国経済を切り離す方途がみいだせるほど経済市場が成長していないので、これもなんだかうやむやのうちに、世界中のひとびとにフラストレーションを残したまま終わるのでしょう。 習近平という人は経済音痴なので、これから、中国はしばらくの停滞を余儀なくされる、という可能性が高いとおもわれている。 独裁者化したリーダーを代えなければ、これから中国は徐々に経済体力を失って経済位置が低下していくでしょう。 その沈降の過程で、というのは、かなりの年月が経ったあとで、中国と世界経済の関係を見澄まして、奇襲的に欧州やアメリカが一丸となって中国に対する賠償請求を起こす、という可能性が高いのかもしれません。 ニュージーランドという、遠く離れた島に住んでいると、割と世界が見えやすい。 グレタ・トゥーンベリは、聖書時代の、荒野の預言者のようです。 地球の温暖化は、人間が、なまじ科学の確証を求めて、しかも楽屋裏で、環境科学の研究者たちが、そうでなければ予算が獲得できないので、いろいろとこじつけて(例:オゾンホール)工夫したりしていたのがアカデミアでは、ばらされて、話が流通していて、そのせいで、でっちあげどころか、ほんとうに一方向の温暖化が起こっていて、しかもそれが加速されていると気が付いたときには、はっきり言えば、もう手遅れになっていた。 むかし、カール・セーガンたちが述べたように「地球の温暖化はおおきな問題だが、ゆっくりとしか起きないので、人類として深刻な問題ではない」というのが、実は素人意見で、温暖化が引き起こす真の問題は、大気や海洋の対流が、いわば「荒っぽく」なって、日本の人に判りやすい説明を考えると、熱くなりすぎたので慌ててかきまぜた風呂のようなものといえばいいか、肌理細かくなくて、ちゃんと均一化されない部分で、日本でいえば、集中豪雨や台風のおもいがけない進路変更が頻々と起こるようになってしまった。 最近は、また「海のひと」に戻っているので、海の変化を通して、地球がおおきく変化しだしているのを感じます。 いま空を飛び交っている鳥は、恐竜の子孫などではなくて、生き延びて、適応した恐竜たちそのものであるのが、いまでは科学のちからによって判っている。 人間も鳥と名前を変えた恐竜たちのように、人類として物心ついてから初めての巨大な地球変化に、これから適応していけるのかどうか。 種としての能力が試されることになりそうです。        

  • 9月2日

    9月2日といえば、戦争と終結の普通の定義に従えば、日本が太平洋戦争を終わりにした日で、もっと言ってしまえば、「負けました。降参します」と述べて、今日から国際法に則って、戦闘行為を停止、自軍の武装を解除して、国として「戦争に負けた」と認めた日です。 日本では「終戦記念日」ということになっている8月15日のほうは、天皇陛下が「つらいけど我慢して、もう戦争やめようね」と呼びかけた日で、ほんとうは国内事情に過ぎなくて、他国からみると、8月15日から9月2日までの二週間余は、「まだ戦争やめてないじゃん」といちゃもんをつける余地があって、実際占守島の日露の激闘は、8月17日に始まって、8月21日に終わっている。 日本がニッポンだけの独自理屈をやめる気分になって、戦前のチンケなドビンボ軍事専業国家だった大日本帝国の継承者であることを恥ずかしいことと感じて、悪い歴史を断って、これから正道をめざして更生していければ、百年後の若者は、1945年9月2日に、日本は毎年毎年GDPの半分から8割という、とんでもない軍事予算を組んで、国家全体が「強い軍隊」であることを目指した強兵国家の方針の誤りを認めて、そのあと、半世紀にわたって正しかったことが証明された貿易と製造工業を専らにする平和国家を建設した記念すべきスタートの日として、いまの8月15日ではなく、9月2日を「旧帝国終焉の日」として終戦を祝っていることでしょう。 このあいだ、ひさしぶりに日本の新聞を読んでいたら、オンラインではあるけれどもフロントページには、総花式の色とりどりの、悪く言えば注意力散漫なニュースが並んでいて、ええええー、日本はコロナもう終わっちゃったんだ、やるじゃん、と考えて「新型コロナ情報」というさりげなく目立たないところに置かれたリンクを押してみると、ど、どひゃっ、2万人/日の感染者が出ている、とここまで書いて、さっき昔の日本語ツイッタ友に、「でも、今日は17000人で、なるほど減少してはいるのね」と書いて送ったら、折り返し、「ガメ、それね、検査数が半分以下になっているんだよ。総裁選が近いからではないだろうか」と書いてあって、読んで水木しげる描く眼鏡サラリーマンの山田さんみたいに、「タハッ」と呟くことになった。 ありゃっ? 文の書き出しと終わりの主述があってない。 まあ、いいや。 前記事でも書いたが「自宅療養」という「本来は入院して治療を受けたほうがいいが、自分の意志/都合で、自宅で医療を受ける方を選ぶ」という意味の日本語を、わざと誤用して医療キャパシティがないのか、同胞の生命を救うことにそこまで必死の気持を持てないのか、外から見ていると判らないが、何の理由にせよ「病院の廊下で死なれると見栄えが悪くてみっともないから自分の家で死んでね。通りで死ぬなよ」という意味を糖衣にくるんだ表現をマスメディアは、いつも仲良しの政府と談合して編み出した。 今度は救急車のたらいまわしどころか、そもそも救急が受け入れ先がないことを理由に出動を断るという、普通の国なら急病の猫さんでもあわない悲運に、日本では人間が遭うことになって、これを日本語では「調整」と呼ぶのだそうです。 調整 (^^;) 同じフロントページを見ると、アフガニスタンで邦人救出に成功、と書いてある。 おお、かっこいい。 「空母いぶき」とか「俺は、君のためにこそ死ににいく」マーケットをあてこんで映画つくれますね、とおもって読んで見ると、 邦人1名を救出 と書いてある。 い、1名? 大山鳴動して、避難者一匹 匹じゃ、失礼だども。 ハングルの勉強だあああ、と称して、途中でめんどくさくなって英語版の The Korean HeraldやThe Korea Timesに乗り換えて、読んでしまうことが多い、韓国新聞のほうを読むと、こちらは、 「カブールの奇跡」 韓国 390人脱出成功、特殊部隊「ミラクル」作戦 なんちて、大喝采、国民が抱き合って、あるいはパチパチ拍手して、驚きと歓喜に湧いている。 1990年の湾岸戦争を舞台に、クウェートからのインド人たちの大脱出を描いて大ヒットしたボリウッドムービー、「Airlift」をおもわせるカッコヨサです。 韓国と日本と、おもしろいほど明暗がくっきり分かれて、韓国の人たちは、さぞかし誇らしく、日本の人は、なかったことにしたそうにみえる出来事だったが、仔細にみると、韓国は、「現実への処理」が優れていたことが解ります。 具体的には各バスに米兵ひとりを分乗させて、検問のタリバンに手を出させなかったり、想定できるひとつひとつの困難切所に対して、個々に解決策を用意して臨んでいる。 日本のほうは、言っても仕方がないし、気の毒なので言わないが、粗放というか、あらすじだけみたいな作戦計画で、正直に述べて、「どうして、これで救出できると考えたのだろう?」という工夫のなさでした。 「現実は自分の想定どおり動くのだ」という、最近の日本人の信念に満ちた作戦計画だった。 自分たちが見たいと思わない真実をいっさい耳にいれたくない日本の人の国民性は理解しているが、このくらいは書いておかないと、そもそも記事にならない。 ごみん。 フランクリン・デラノ・ルーズベルトという人は日本人という生き物が大嫌いだった。 英語世界では秘密でもなんでもなくて、至る所に証言があります。 どちらかといえば「常識」に類する。 反アジア人種差別主義者かというと、そうでもなくて、中国の人達のあいだには、有名な宋美齢を始め、親友と呼んでよい知己がたくさんいました。 このタイプの「兎に角、なにがなんでも日本人は大嫌い。見たくもない。鳥肌が立つ」という日本人嫌いは、いまでも例えば東部上流社会には、たくさんいるが、理由を聞いてみると、… Read More ›