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  • 移動性高気圧

    1 大雨のなかをモニとふたりでクルマからスーパーマーケットのなかに駆け込んでゆくだけでも楽しい。 30歳の人間の生活は複雑で、事業(はっはっは、「事業」だって)どころか家の運営にすら複数の人が立ち働いていて、めんどくさいたらありゃしない。 でも生活を巻き戻して簡潔にしてしまう方法はある。 旅にでるのね。 今日は朝ご飯を食べただけだけど、途中においしそうな店がなかったから、イタリア式乾パンとワインだけでいいび。 普段は家のひとびとが代わりにでかけてくれるスーパーマーケットにモニとふたりででかけて、水とワインや、Tonnoの瓶詰め、パスタ(麺もペストリも!)、プロシュートに白アンチョビ、アラビアータソースを買う。 キッチンがあるところに泊まれば料理もする。 せっかく鍛えた料理の腕前を鈍らせないためには大事なことです。 旅行に出る度に人間の暮らしは簡単なほうがいいなあー、と思う。 生活が単純になるとテレビはおろかインターネットもあんまり見なくなるよーだ。 ラツィオからウンブリアへ抜けるイタリアの曲がりくねった山道を雷雨と競争で駆け抜ける。 雷雲に追いつかれて買い物袋を両腕に抱えたままびしょ濡れになったスーパーの駐車場で「バカップル」そのままに笑い転げている。 さっきまでの豪雨がウソのように晴れて、青空が広がったTODIの田舎道で馬を飼っている牧場に行き当たったので白い馬ばかりが5頭駈けているパドックの柵にもたれて、寄ってきた馬と遊ぶ。 ガメは、どうしてどんな馬にも好かれるのだろう?という。 考えてみれば馬だけではなくて犬も猫も。ロバまで! 「あっ、ロバはね、説明できるぞ。 彼らは日本語で話すのさ。 いいよおおおおー!て言う。 いいいいよおおおおおおー!! ロバたちや日本人たちにとってはOKって意味なのさ。知らなかったでしょう?」 モニが、ウソばっかりと言いながら笑いころげている。 ほんとうのことなのに。 どんな動物にも好かれるのは、ぼくがほんとうは人間なんかじゃないからさ。 知ってるかい? 思い出せなくなってるだけで、モニも、もともとはぼくの種族なんだぜ、と冗談を言おうと思ったが、なんとなく言いそびれてしまった。 自分が何であったかを思い出されて、この楽しい地上の生活が終わってしまっては困る。 人間の子と違って地上には帰る家がない息子は辛いのだとゆわれている。 2 午前3時をまわったころ、窓の鎧戸の下を誰かがおおきな声でひとり声を言いながら歩いている。 RIETIの田舎にいるはずなのに日本語です。 はっきり意味が聴き取れないが「どうしてこんなことになったのだ」というようなこを言っているように聞こえる。 半睡半醒の間が睡眠に傾いているあいだは、それは軽井沢の「山の家」で、鎧戸の向こうなのに青い月の光が見えている庭だった。 だんだん目が覚めてくると、RIETIのオリーブ畑に囲まれた(元はワインセラーだった)一軒家を改造した宿屋の寝室にいるのが明瞭になってくるが、それでも同じ声は歴として窓の下に聞こえている。 でも抑揚だけを聞くと日本語に聞こえるその「鳴き声」は日本語としては意味をなしていなくて、なにかの獣の鳴き声のようである。 見当がつかない生き物の声を訝ってベッドに起き直っていたら到頭モニも目をさましてしもうた。 「イノシシかな?」と言うと、モニはさっさと起きていって窓を開けて身体を乗り出して懐中電灯で音がする方を照らしていたかと思ったら鎧戸と窓をしめてベッドのシーツのあいだにもぐりこんでしまった。 なんだった? と訊いても返事をしてくれません。 シーツを無理矢理ひっぺがして、「ねえ、なんだったの?」と訊くと、… Read More ›

  • 学校へ行こう

    今日は火曜日だが日曜日と決めたので日曜日で、と書き出すと、なにを言っているのか判らなくて、だいたいいつも譫言みたいな日記なので、判らなくても判ってもいいようなものだが、仕事をするということと縁がないので、曜日は、だいたいにおいて本人の都合で決めてしまうことにしている。 朝の五時半に眼がさめたが、ワインが飲みたくなった。 今日が平日だと、理由はよく判らないが平日であると朝からワインを飲んで、おいしくないような気がしてきたので、今日は日曜日ということにします。 子供のときから、誰かになにかをしなさい、と言われたことがない。 母親は、むかし、ふざけて、no shouldライフだと言って笑っていたが、学校も行きたくなければ行かないですんでいたし、いちどなどは、ロビンソンクルーソーを読んで、ずっとシャワーもお風呂もなしに暮らすと、どうなるだろうかと考えて、1ヶ月身体を洗わずに生活して、まわりのひとびとは、さぞかし臭かっただろうとおもうが、それでも、なんでもかんでも文句を言いたがる、妹さえなにも言わなかった。 とどのつまり、物心ついたときから、ずっと無軌道で、十二歳で初めて飲んだワインに味をしめて、夕餐の席ではシラズやピノノアールを要求したが、別に文句も出ず、客人が同席するときは、さすがにこちらで遠慮したが、それ以外の平常では、ワインを手に、今日のフィレステーキはうまかった、食後は、お菓子はクランブルレであるとして、リキュールはなにがよいか、と考える、とんでもない子供時代だった。 もっとも子供の身体では、毎日、食卓で悦楽に耽るというのは物理的に無理で、自然と、すぐにこの悪い習慣は止んで、ときどきおもいだしたようにアルコールを飲むだけになったが。 人間の本然は、ほうっておくと知に向かう。 昼間、おとなたちや、家のひとたちが忙しく働いているときに、学校へ行く気がしない午後は、父親のライブリに忍び込んで、いま考えると父親も知っていて知らぬ顔をしていただけなのに決まっているが、高い天井の、数十段の本棚からなる、ちょっとした図書館よりもおおきな部屋で、カウチに寝転んだり、床にペタッと座り込んだりして、本を貪り読む癖がついて、この習慣は飲酒や喫煙よりもintenseで、しかも長く続いた。 極く初期の段階では、ブリタニカのような百科事典を読み耽ったのをおぼえている。 初めに鮮明に記憶に残ることになったのはスピットファイアと重戦車チャーチルの記事で、いまでも世界大戦中の最高の戦闘機と戦車だとおもっているが、後年、ドイツの高速魚雷艇に抜かれたという都市伝説をもつソードフィッシュや、MG42で穴が開いたという連合王国が誇る偉大な員数あわせ戦車カーデン・ロイドを好んだシブいJames F.にしては、直球な好尚の表明で、子供わしは気が付いていないが、いかにも、オコドモさんな趣味ではある。 左半分が裸の豊満な肉体で、右半分が解剖学的な中身を断層的に観られる仕組みになっている見開きページもあって、これは怖いものみたさで、何度も、このページに立ち帰ってきて、読んだ。 いま書いていて気が付いたが、数学をやったあとで、まるで向いてもいない医学を学んだのは、もしかしたら、このときの強い衝撃が、どういえばいいか、知的トラウマのようになっていたせいかもしれない。 どんどん読んで、移動式の梯子を動かして、上の棚までよじのぼって、R18どころか、こんな本が世の中に存在してもいいの?というような、例えば「城の中のイギリス人」も、このころに読んだはずです。 人間の本然は、ほうっておくと知に向かう。 なかには、見慣れないヒゲが生えた文字のある言語で書かれた本もあって、しかも体裁までペーパーナイフで端っこを切った形跡がある奇妙な本で、謎めいているので、フランス人たちの言語で書かれたと判明した、こうした本も、やがて独力で無理矢理読んでいった。 社会学者の内藤朝雄が「学校こそ『いじめ』という社会悪の淵源である。学校を解体せよ」と述べると、「学校がなかったらバカになるだけじゃんw」と悪む人たちが「せせら笑う」という態度そのもので応じるが、それは学校や政府の立場にたっているか巧く自然に洗脳されているだけで、ほんとうにそうかというと、英語世界ではhome schooling/home educationが広く行われていて、現に、わしが大学に入ってみると、わしのように中途半端に不登校な学校生活である以前に、もともと学校制度全体をシカトして生まれてから大学に入るまで家で教育をうけた級友が、複数で存在した。 こんなことを書くと日本語の友達を悲しませるが、日本の学校は、正直に述べて、あれを「学校」と呼んでいいものかどうか、新兵教育の兵営のようで、担任教諭という名前の歳のいった小隊長のもと、明日の富国をになう小兵卒たちが、軍隊の一員として「役に立つ人材」になるための様々な教養や行動規範を学んでいる。 いちど参観させてもらったが、まったく知的な空間とはほど遠い場所で、こんなところで毎日の何時間かを過ごすと、人間はいったい何を考えるようになるのか、と、暗然とした気持ちになった。 わしに参観を許してくれた校長先生は、わしが尊敬する日本人のひとりだが、率直に疑問を述べると、「あなたの言う通りなんです。なんとかしなければ」と、教師の側の問題意識を教えてくれたが、説明を受けて判ったのは、学校の問題は根が深く、広く社会の地中にひろがっていて、学校の教師やアドミニストレーション、両親たちへの啓蒙で、直ちになんとかなるようなものではなくて、学校制度を、よりよいものに改革しようとおもえば、社会を根底から革命しなくてはダメであるていのものだ、ということでした。 簡単に言って、明治以来の、西洋に追いつき追い越せ、富国強兵、国民総力戦の思想そのものが謬っていたので、戦争をはさんで、教育というものを誤解したまま、ここまで突っ走ってきた結果が、のっぴきならない、いまの状況であるということのようでした。 内藤朝雄が述べるとおり学校は制度として破壊されるのが最もよいが、ドラスティックな変化というのは日本の社会では通常無理なので、現実的には、学校にいる時間を少なくして、午前中だけにするのがいいのではないか。 例のトーダイおじさんたちのなかには「灘」というお酒がおいしそうな名前の学校を卒業したひとたちがいるが、この学校は午前ちゅうだけしか授業はないのだ、と述べていた。 まず午前中だけにして、それから、それをまた、その半分くらいにすることを目指すのがよさそうです。 せめて中学からでも、科目ごとに教室を移動して、担任制のような前世紀の遺物はさっさとやめるのは、特にりきまなくても、他国の様子が伝わるにつれて、聡明な日本のひとたちのことで、自然と移行していくことになるに違いない。 自分自身は、学校は年柄年中さぼっていて、日本であったならば不登校児で大問題だったかもしれないが、本人からすると、実は、「いかなくてもいいのに面白いので時々でかけていた」場所で、嫌いどころかTime Outにときどき出かけるのと同じことで、ゲーセン代わりで、学校が好きであったし、級友たちのほうも、おお今日はJamesが来ているではないか、という調子で、「元気だった?」と、いつも歓待してくれたが、日本語や英語で書かれたさまざまな報告を見ると、わし場合は特殊なケースで、あんまり学校問題へ一般的に適用できるものではないようでした。 人間の本然は、ほうっておくと知に向かう。 どんな社会でも、多少とも知が社会に与える影響に関心がある人間が等し並みに心を打たれるのは、学校/教育という社会の根底をなす問題が、政治家や官僚たちや行き場のない虚栄心然とした知識人たちによって、たいした真剣味もなしに扱われていることで、なぜこれほど重要な問題が、これほどないがしろにされているか理解できない、といつも感じられる。   社会の重要な役割が、多様を極める個性を持つ子供達を、なるべくならひとり残らず自己を発現するように持っていくことであることを失念しているからで、社会などはたいしたものではないのだから、せめて子供の魂をつぶしてしまわないように、少し、のほほんとした教育の体制が出来る事を心から祈ります。  

  • Haters

    (2014年9月24日に「ガメ・オベールの日本語練習帳 ver.5」に掲載された記事の再掲載です) 予想どおり、というべきなのだろう。 エマ・ワトソンの素晴らしいスピーチ、自分が女優であることを忘れて、ひとりの、正当に扱われたい、「女」ではなく一個の人間として認められたいと願う若い人間に立ち返っての、だからこそ声が震え、女優らしくない張り詰めた緊張と戦いながら述べたgame changingなスピーチに対して、 「おまえのヌード写真を盗りだして晒しものにしてやる」と、日本の2ちゃんねるの模倣サイト4chanにたむろするひとびとが述べだしたのを嚆矢に、 「エマ・ワトソンの男への偏見はメル・ギブソンのユダヤ人への偏見と変わらない」 「あんなアイドル女優にしかすぎない女を国連が大使に選ぶなんて信じられない」 「なんにも新しいことは言ってなくて、もう何十年も言われてることを繰り返してるだけで、バカみたい」 という声が広がっていって、いまの3つの例はredditのAskMenだが、もうちょっと下品なほうにおりてゆくと、 「おれがイッパツやって黙らせてやる」 というようなのがいっぱい並んでいて、インターネットといえども現実世界の反映なのがよくわかる。 男に限らないところが面白くて、女のひとびとが集まるサイトを見ても、 「あんな程度のことは私たちがずっと言ってきたことじゃないの、かわいい顔の若い女が、うんざりするほど私たちが言い続けてきたことを芸もなく繰り返しただけで大騒ぎするなんて、それこそ世界がセクシストである証拠」 「あの程度の悪い認識しかジェンダー差別にもっていない人間を国連大使にするなんて国連はおやじ趣味かよ」 「ブラウン大学の卒業スピーチかなにかと間違ってるんじゃない? あんな幼稚なスピーチを許すなんて国連も落ちたものね」 というようなのが並んでいて、自分が仲が良い年長の「フェミニスト」の友人たちの顔を思い出して、なんだか、にんまりしてしまう。 わしの「フェミニスト」の友達は、言うなればフェミニズム原理主義者で、「男のような邪悪な生き物は地上から抹殺すればいい。人工授精のような科学はそのためにある」というひとびとで、だいたい女同士のカップルで住んでいる人が多い。 「ガメ、おまえはいいやつだけど、余計なもんは切り取っちゃって、わたしと同じものを医者につけてもらって女になれ、ガメじゃでかすぎて不細工だけど、そっちのほうがまだ目障りにならんわ」と乱暴なことをいう。   シモーヌ・ド・ボーボワール、スーザンソンタグのようなひとびとから始まって、アニー・リーボヴィッツ、マーガレット・モス、ジョディ・フォスター、ロザンナ・アークエット… 無数の人間が立ち上がって声をあげては、男や女の暗闇から飛んでくる矢によって傷ついてきたが、 エマ・ワトソンはロケに出れば必ず群衆に取り巻かれる職業人なので現実問題としても怖いだろうと思う。 この人達には様々な脅迫や冷笑、おおっぴらな嘲りにあって、カウチに座り込んで両手で顔をおおう夜がある。 自分に向けられた憎悪の声が強いだけ世界にうんざりしてゆく。 人間性というものに信頼を失う。 そうでなくても「著名な友達」たちを見ていると、たいへんだなあ、と思うが、なかでも、むかしもいまも、「男性と女性は平等であるべきだ」と公然と述べることは、ひとりで全世界に宣戦を布告することなのである。 女の人間が「自分は女であるより人間だ」と述べることがなぜか自動的に世界への宣戦布告になって、往々にして、女のひとびとまで敵にまわすのでは、ぜんぜん理屈が立たないが、現実にいつもそうなのは玄妙なほどである。 Haters、とよく言う。 若い英語人のあいだで、このごろ、頻繁に「haters」という言葉が口端にのぼるようになったのは案外、Taylor Swiftのヒットソング、「Shake It Off」のせいだろう。 こういう歌詞です。 I stay up too late,… Read More ›

  • いのちみじかし

      1983年生まれだが、なあんとなく32歳くらいだと思い込んでいた。 そんなバカなことはありえない、という人がたくさんいそうです。 ところが、わしは投資家というアローナーな商売であって、むかしは 冷菜凍死家と称していたが、最近は、やや零細でなくなってきたので、やむをえず物理的なオフィスを持つ会社をつくっている。 そのうちに会計や不動産管理の都合から、いくつかの国にオフィスをつくらざるをえなくなった。 そうなると、一見、まともなひとみたいだが、あにはからんや、おとうとたまらんわ、社長であって、ガハハのおっちゃんカテゴリーだが、それにしても、プー太郎そのまま、履歴書なんて書いたこともなく、ひとに「おいくつですか?」と聞かれることもないので、32歳で不都合はなかった。 ところがですね。 このあいだ、ものの弾みで、1983に32を足してみてしまったのですね、頭のなかで。 1983+32=2015 あり? 足し算まちがえたかな? 1983+32=2015 今年は2021年なのに。 ぐおおおおおお! 人は中年男になるのではない。 中年男であることを発見するのだ。 なんちて。 到頭、井之頭五郎(←「孤独のグルメ」というドラマの主人公です)と同じ種族になってしまった。 ラーメンをズルズル音を立てて食べねば。 焼き肉をくっちゃくっちゃ言わせながら頬張らねば。 Shall I part my hair behind?   Do I dare to eat a peach? うしろで髪をわけようか、桃を食ってみようか。(註) ガビンガビンガビン伊藤ガビン と衝撃をうけたものの、おもいあたることがなくもない。 ツイートさえしなければ、良い書き手であるとおもいます、と昔から言われている、そのツイッタを読んでいる人は先刻承知であるとおもわれるが、 Dua LipaとAngèleのFeverという流行り歌が好きであって、 現状、曲がヒットチャートに姿を顕してから4ヶ月が経っているが、… Read More ›

  • 災厄日記 その8 2020年4月17日 闇の中の出口

    来週の月曜日になるとニュージーランド政府は難しい決断の発表をすることになっている。 昨日(2020年4月16日)の新規感染者数は15人だが、まるでモニター数のように国民が「あ、もう大丈夫かな」とおもうと、数人分、ピンッと数字が跳ね上がる。 一方で回復者数の増え方は勢いがついているので、今朝、台湾は「新規感染者数ゼロ」のニュースに沸き返っていたが、うまくいけばニュージーランドも台湾に追いつけるかも知れない。 台湾に先に新規感染者ゼロを達成されて、くやしがっている人も、もしかしたら、当の台湾系キィウィのなかにはいそうだが、競争であるよりも、ニュージーランドは、集団免疫と寝言を言っていた連合王国や、なあに、こんなものはただの風邪ですぜ、と述べていたアメリカの西洋諸国には目もくれず、初めからアジアの台湾と韓国を先生にすると決めていた。 アーダーン首相自身は、メルケルやTsai Ing-wenのような学究出身の指導者とは異なって、科学的なバックグラウンドを持ち合わせないが、若いということは便利で、「自分には知識がないが、科学者としてどうおもうか?」と虚心坦懐に訊くことができた。 自然の猛威なのだから科学に頼るほかはない、と述べていたそうです。 レベル4のロックダウンはうまくいった。 たいへん厳しい、徹底的なもので、ツイッタで話しかけてきたウェールズ系のニュージーランド人で、ノースショアに住んでいる素晴らしい日本語を使う人が「わたしの家の近所では、みなビーチや公園の散歩はいいことになっている」と述べていたが、リミュエラのわし家近所では、半径500メートルの散歩は禁止、と信じられていて、わし自身は、せいぜい庭を片付けたりして、庭と家のなかでトントントンと動き回って、前に日本の主婦が妻にばかり過剰な家事の偏りがあるせいで、家から一歩も出ないまま一日にいかにたくさん歩くかという記事を読んだことがあったが、 その伝で、家のなかだけといっても、一万歩は歩くもののようでした。 もっとも歩数カウント自体がApple Watchのチョーええかげんな歩数カウンタによっているが。 スーパーマーケット以外は、食料品店でも営業を許されず、ニュージーランドではたいへん普及しているUber Eatsもダメ、持ち帰り、Takeawaysもダメで、わずかにdairyと呼ぶ、牛乳やパン、卵を売っている店が営業を許されるだけだった。 レストランやバーは、もちろん御法度です。 スーパーマーケットにしても、いちど、クルマのバッテリー充電をかねて偵察にでかけてみたが、ラインが描いてあるのでしょう、きっかり2mおきにポツンポツンと立つ人の列が、ぐるりと、普段は人気のない、そのカウントダウン(←オーストラリアのウルワースがこの名前でニュージーランドでは営業している。ロゴはおなじ)の支店の、駐車場のまわりをぐるりと取り囲んで、後で訊いてみると入店もひとりひとり許可されたものだけが入店できて、カップルで楽しく買い物、などは夢のまた夢のありさま。 びっくりしたのは、世界に名高いテキトー国民のニュージーランド人たちが意外にマジメに、真剣にロックダウン・ルールを守り抜いてきたことで、もちろんなかにはマヌケなおっさんがいて、例えばクライストチャーチでは、スーパーマーケットで、わざと他の客や棚に向かって咳き込んでみせて、自撮りしたビデオのなかで「おれはCOVID-19に罹っているんだ」と述べた40代の男の人が逮捕されて、結局は保釈も取り消されて数ヶ月監獄にぶちこまれることになった。 アーダーン首相は演説のなかで、この男を「大馬鹿者」と名指しで非難して、政府がその手の人間を絶対に見逃したり容赦したりしないことを国民に印象づけることになった。 高名の木登りといひし男、人を掟て、高き木に登せて、梢を切らせしに、いと危く見えしほどは言ふ事もなくて、降るゝ時に、軒長ばかりに成りて、「あやまちすな。心して降りよ」と言葉をかけ侍りしを、「かばかりになりては、飛び降るとも降りなん。如何にかく言ふぞ」と申し侍りしかば、「その事に候ふ。目くるめき、枝危きほどは、己れが恐れ侍れば、申さず。あやまちは、安き所に成りて、必ず仕る事に候ふ」と言ふ。 あやしき下臈なれども、聖人の戒めにかなへり。鞠も、難き所を蹴出して後、安く思へば必ず落つと侍るやらん。 と兼好法師が徒然草で述べている。 兼好法師なる卜部兼好は、人間は早く死んだほうがカッコイイのだ、と述べて、ずっと後生の本居宣長に、そんなこと言って、自分は70歳近くまでへろへろ生きていたではないか、と笑われたりして、なかなかカッコがつかない人だが、ベンジャミン・フランクリンみたいというか、漢意(からごころ)の割にはプラクティカルな知恵に感心する能力があった人で、上の、木登りでいちばん危ないのは、自分でも危ういと感じる高みにいるときではなくて、仕事が終わって、するすると下におりて、もうすぐ地面におりたつというときがいちばん危ないのだ、という記事のように、いまでもサバイバルマニュアルに加える価値がある記述も残している。 いままさに地表に降り立とうとしているニュージーランドが、最大の難所にあることは、つまり、14世紀初頭の日本人でも知っていたことになります。 経済からいうと、言うまでもない、例えば試算によれば、初めの予定どおり4週間で終われば失業率は10%だが、もう4週間のばすと26%になる。 既存経済は、この4週間でも、おおざっぱにいって半分が吹き飛ぶ計算で、もう4週間となると計算のしようもない。 繰り返すと、ニュージーランドは、小国ながらいつもの果敢さで、経済優先の諸国の「専門家」たちが、「ウイルスは根絶なんてできない。共存するしかない」と述べるたわごとに耳を貸さず、「経済よりも国民の生命がすべて」と述べた国の専門家たちに耳を傾けて、賭けに勝った。 それがアーダーン首相にとって、いかに難しい決断であったかは、いったんは「必ずやる」と述べたクライストチャーチのモスク襲撃の追悼集会を取り止めにすると発表したのが前日であったことにもあらわれている。 あとでふり返って、専門家たちが、あそこで追悼集会をひらいてもいいと政府の姿勢を示せば、たいへんなことになっていた、としみじみ述べていたが、コミュニティの結束や経済を優先するか、生命を徹底的に優先するかは、むしろ指導者の哲学の問題で、アーダーン首相は、結局、自己の年来の主張「国家は人間性に依拠すべきだ」で自分自身とニュージーランドという国全体を救ったことになります。 おとといは、83店舗を展開する Burger King NZが倒産するというニュースがあった。 初めの決断はうまくいったが、今度は、ながびけば3倍になると言われている自殺者数や、見当もつかない増え方だろうと言われる生活の不安から鬱病になる人の数、あるいはこの3週間のロックダウンだけで22%増えたアルコールに起因する病気を発した患者、「ウイルスを避ける生活によって引き起こされる生命の危機」の問題と向き合うことになった。 ひとつだけ救いになるのは、ニュージーランド人全体が、労働党支持者も、不支持のひとびとも、アーダーン首相が積み重ねた難しい局面での判断を支持していることで、危機をのりきるリーダーとして、全幅の信頼を寄せている。 いまは、国民みんなが息を潜めて、月曜日のアーダーン首相の決断を見守っているところです。   (この記事は2020年4月17日掲載の記事の再掲載です)

  • COVID-19/コロナ

    コロナ、という。 スペイン語で「王冠」という意味です。 英語では太陽の光環のことを、このスペイン語の王冠に似ていることからcoronaと呼ぶが、最近は、英語とスペイン語は往還(註)が盛んで、けじめというか境界が曖昧なので、Mi casa es su casa、なんだか英語になってしまって、もっとも英語人が「コロナ」と聞いておもいだすのは、南カリフォルニアのリカー・ショップでは、どこでもライムと並べて売っている、例の、メキシコ産の、ライムの欠片を瓶口から押し込んで、太陽に向かって飲むと、ぐっとくる、例のチョーうまい、シメシメなビールのことでしょう。 英語ではコロナとは言わない、ちゃんとCOVID-19と呼ぶべきだ、と述べている日本語人を見かけたが、いやいや、そんなことはありませんよ。 コロナとも呼びます。 おっしゃるとおり、COVID-19とかCOVIDと呼ぶ方が多いでしょうけどね。 わしの厳正な当てずっぽうによると、多分、あの世界中で荒れ狂っている性格が悪いウイルスを英語人があんまりコロナと呼ばないのは、 初期には「名前のせいで売り上げが激減した」というニューズがあったりして、自分たちが長くお世話になっているメヒコのビールに、憐憫の気持ちがあったからだとおもわれる。 ビール愛。 麗しい。 閑話休題 (それは、ともかく) ニュージーランドで初めに陽性者が確認されたのは、2020年2月28日でした。 到頭、来たか。 どうしようね。 よく事態や正体が呑み込めないなりに、国中に緊張が走ったのをおぼえている。 初めの数日は自粛勧告みたいなことをやっていたが、すぐにこれではダメだと判って、モニさんの誕生日も近い3月21日になると、政府が4つの段階からなるレベルを設定します。 レベル1は、楽ちん。ほとんど日常生活に支障なし。 レベル4、座敷牢。 初めの発令は、この日で、レベル2だった。 翌日にはレベル2では効果がないのを見て、レベル3に上げた。 オーストラリアから来た観光客の一団がチョコレート工場を訪問して、入れろ、いや政府の法律の発令で、5人以上のグループを入れることは出来ません、「そんなもんニュージーランドの法律だろうが。わたしたちはオーストラリア人だから関係がない」 というやり取りが伝えられて、ほとんど次の瞬間、というくらいの素早さでジャシンダ・アーダーン首相が反応して、ニュージーランドのみならず、世界中が、ぶっくらこいてしまったレベル4の発令になる。 ニュージーランド人も、えええええー、だったが、国民はモスク襲撃事件以来、このもうすぐ40歳になる首相を信頼していたので、 「しょうがねえから言うこと聞くか」で、スーパーマーケット以外は店もすべて強制的に休業、食べ物の持ち帰りもダメ、生活上不可欠の職種(例:鉛管工)以外は仕事もしちゃダメ、近所の散歩くらいはいいけど、家でお籠もりさんになること、週末にステーキ・レストランで家族で外食を楽しみたい? 夢を見てんじゃねーよ、「つ、妻とのセックスは許されるんでしょうか?」の凄まじい、六週間のロックダウンに同意します。 あとでトランプのホワイトハウスに「ニュージーランド政府はナチになりさがった」と揶揄されたが、ニュージーランド人で意に介した人はいなかったでしょう。 ニュージーランドは、なにしろビンボな国で、COVID専用ベッドも300床しか用意できなかった。 カネがなければ知恵で補うしかない。 政府は各国の対応を徹底的に調べて、台湾や韓国に見習うのがいいだろう、という結論に達します。 大量な検査数をこなすためのドライブスルーのPCR検査やQRコードを使ったトレーサー、とにかく、あんまりオカネをかけずにやれることはすべてやって、なんとかウイルスの大規模な流行を防ぐしかない。 初めてのことで、そのうえ悪いことに、理想は高いが人材に乏しい労働党政権の常で、初期には里帰りした香港から戻ってみたら空港で検査をやってなくて「あんたら、やる気があるのか」と怒る香港系人や、海外から、どんどん戻ってくるニュージーランド人たちに、いくら「家にいてね。出かけないでね」と言い聞かせても、遊びに行ってしまうので、ホテルに帰国後2週間隔離しても、窓から破ったシーツをつなぎあわせて逃げてしまう人や、いろいろで、水際作戦はザルそのものだったが、だんだん各国の様子が伝わるにつれて、ニュージーランド人は真剣になっていった。 この間、ジャシンダ・アーダーン首相は、その篤実を絵に描いたような人柄で後に国民的人気者になるDirector-General of Health、Ashley Bloomfieldと共に、毎日午後1時の会見に現れて、ふたりで記者たちの質疑応答に辛抱強く応え、たいてい夕方、国民に向かって映像を通じて語りかけて、事態の深刻さを訴え、わがままで世界に知られるニュージーランド人たちに、結束を訴えた。   運がよかったのは、そこまで、ニュージーランドは隣国の「ビッグ・ブラザー」、オーストラリアほどではないが、20年に及ぶ好景気で、日本語の人のために判りやすい言い方を探すと、日本の人の収入の半分に満たなかった個々人の年収も、日本の人に追いついて、抜き去るようになっていた。… Read More ›

  • 不二

      こんなところから見えるのかと、びっくりしたことがある。 いまは名前が変わったらしいが、長野自動車道の小諸のインターチェンジで、広尾山の家を出て、軽井沢の夏の家に移動するのに、いったん小諸まで足をのばして、贔屓の蕎麦屋で、天盛りを食べて、と策略して小諸へ出た午後のことです。 あとで調べてみると、小諸から富士山は、頭のなかの印象と異なって、意外と近くで、110kmほどで、それならば東京からの距離とそれほど変わらないので、小さな小さな富士山が見えたことは、そんなに不思議なことではない。 富士山頂の測候所をつくったときに、東京の気象庁から富士山頂がみえるかどうかがデータ伝播の要で、あいだにホテルニューオータニの高層ビルが立つ計画が判明してパニクったとかなんとか、有名な話をおもいだすまでもなく、100kmならば、距離をものともせず、富士山の山容は望見されることになっている。 ものごとは、正直に答えることにしていて、小さいときからの習慣になっている。 富士山と桜は難物で、「富士山は好きですか?」「桜は好きですか?」と訊かれるたびに、相手の気持ちを考えてヒヤヒヤした。 どちらも、好きから嫌いか、いったいどっちなんだ、と訊かれれば「好き」なほうに入るが、それほどの特別な称賛の気持ちはなくて、桜なども、空をおおうほどの桜の森で、花びらが乱舞しているような光景に出会えば、「ちょっといいな」とおもうが、正直にのべて、プタカワやマグノリアの満開の美しさと較べて、ひどい言い方をすれば、まあ、ふつう、としか言いようがない。 富士山も、実をもうせば、というような古い言い方は、いつ使ってもカッコイイとおもって痺れるが、もうせば、浅間山の山容のほうがずっと好きで、いちどだけ、深夜に富士急ハイランドに近いホテルに到着して、「あれ?ここは富士山が近いはずなのに、見えないね」と不思議におもって、周りを見渡して、ふと、誰かに見られているような気がして、後ろを振り返ったら、巨大な、黒々とした、怪物じみた山がこちらを見下ろしていて、巨大な山塊というものがもつ特有の迫力を感じて、富士山を尊敬した。 鎌倉山の、左に行けば林間病院にいたるY字路を右に折れると、七里ヶ浜におりる富士見坂にでる山間の小道があるが、ここの雑木林のすきまから、やはり夜更け、皓皓と照らす月の光に浮かぶ、小さな富士山がみえたことがあって、この富士山も美しいと感じた。 西田幾多郎は、由比ガ浜から稲村ヶ崎、七里ヶ浜をとおって腰越につづく海岸の道を散歩するのが好きで、それを理由に鎌倉に住んでいたというが、歩いてみればわかって、あの道を夕方に歩いて見える富士山は、空気の屈曲のせいで、実際よりも遙かにおおきく見えます。 もちろん日にもよるが、ときに、茜色に染まった富士山が、巨大な姿で聳えていることもあって、なるほど哲学者は、これが好きだったのか、と納得したことがある。 もっと日常に愛好していた富士山は、逗子の、いまはカラオケスナックだかなんだかになってしまった、「売り上げ日本一」のデニーズの、海に面したテラスから、相模湾越しに見える富士山で、江ノ島の向こうに見える、ちいさなちいさな富士山は、鎌倉ばーちゃんの家に泊まれば、必ずでかけて、メニューもレシピもおなじであるはずなのに、なぜか他のデニーズの数倍もおいしく感じられる朝ご飯を、幸福な気持ちにひたりながら食べた。 なんだ、そんなに好きでもなかったといいながら、結局、好きだったんじゃないか、と言われそうだが、富士山という山は、日本語がわかると、現実の山なのか日本語世界のシンボルなのか、どっちかわからないところがあるんですよ。 その頃、日本にいた外国人友は、ひとり残らずと言いたくなるほど、みんな、いちどは富士山登頂にでかけていたが、わしはいちども出かけたことがない。 そもそも歩くのは平らなところだけにする、という家訓にしたがっているのだとも言えるが、なんだか宗教儀式への参加のようで、抵抗する気持ちもあるようです。 フジはニッポンいちの山、というが、高さでいえば、ながいあいだ日本では二番目の山だった。 日本のアメリカに対する開戦の決意を現地部隊に通達した「ニイタカヤマノボレ一二〇八」の「新高山」は台湾を征服した明治天皇が付けた名前で、ほんとうの名前は玉山といって、標高3978m、日本が軍事国家として、ぶいぶい言わせていたころは日本でいちばん高い山だった。 台湾生まれの日本人たちを描いた傑作ドキュメンタリ「湾生回家」を見ると、差別は抜き難くあったものの、他の土地での苛酷を極めた、どころか無法支配に近かった日本の海外領土/植民地と異なって、台湾での帝国支配はゆるやかで、台湾人を日本国民として遇したことが、いまの台湾の人の日本に対する柔らかい気持ちをつくっていることがよくわかる。 その源は、要するに新高山を日本国内と考えた、民政長官後藤新平に端を発する、日本がただひとつ成功した植民地経営であったことによるのでしょう。 むかしのアメリカ人が書いた本やフランス人が書いた本を読むと、 「日本は、フジヤマ、サクラ、ゲイシャのほかは何もない国だ」とひどいことが書いてある。 注釈を加えると、この「ゲイシャ」は日本の人がイメージする芸達者な芸妓とは少し異なって、要するに「売春婦」という意味です。   わしなどは、相変わらず、日本のことになると、やや「おセンチ」なところがあって、近代日本に衣替えして、あんなに頑張って、食うや食わずで、西洋に負けない軍隊をつくって、自分たちが一生をまるごと捧げる日本を輝かしい国にして、欧州人やアメリカ人に羨ましがられるのは無理でも、せめて、アジア諸国からは羨望の眼で見られたい一心で頑張ったのに、戦後になっても、あっさり「フジヤマ、サクラ、ゲイシャ」で、ほかには何もない、と言い捨てられるのをみると、他人事ながら憤りを感じるというか、なに言ってんだ、無知の輩は、これだから困るのだ、とおもって、日本文明の、歴史を通じての深い孤独をおもうが、富士山に登って、満開のソメイヨシノを見て、きらびやかなねーちゃんとイッパツやって、やあ日本を堪能してしまった、と上機嫌でズボンをずりあげながら故国へ帰る欧州人新聞記者の姿を考えると、笑われてしまうが、彼が歩み去った先にある、この世界の悲惨さ、ということを考えてしまう。 英語ではviciousという。 この世界の容赦のない無惨さは、このごろ一層ひどくなって、権勢と冨がなければ人間として扱ってもらえないところまで来ていて、さて、もしかしたら、自分が日本の文明に感じるempathyは、これが理由か、と考えることがある。 世界は日本に似てきているのかも知れません。                        … Read More ›

  • スパゲッティ・ナポリタンの秘密

      欧州にいるときは、お昼時にトラックがいっぱい駐まっている定食屋さんを通りかかると、委細かまわずクルマをターンさせてそこで午ご飯を食べることにしているのは前にも書いた。 コモから100キロほど南東の産業・倉庫街にオモロイアウトレットがあると聞いて出かけたら、白埃まみれのトラックが駐車場に並んでいる。 モニさんは「嫌な予感がするなああー」と小さく呟いていたが、わしはダイジョブでしょう。ダイジョブx2、と呟いてクルマを駐車場にいれます。 外のテラスにチョー人相の悪いおっちゃんたちが6人でテーブルを囲んでいて、わしとモニがクルマを降りるなり、じいいいいっっと見つめている。 中にはいると、むさ苦しいという言語表現を3次元立体で実現したようなおにーちゃんやおっちゃんたちでごったがえしている。 アフリカから移民してきたにーちゃんたちも散見される。 結果から述べると全然おいしくはなくて、不味くはなかったが、なんの感動もない €10定食(プリミ+セコンディ+ワイン+イモまたはサラダ+炭酸水+コーヒー)だった。 セコンディのビステカ・デ・マヤーレは気の毒にシェフのにーちゃんにぶち叩かれすぎてへろへろになっていた。 フレンチフライは肉体労働者相手のイタリア定食屋でよく出てくるマヨネーズ付きの皿で、おばちゃんたちは音速に近い早口のイタリア語でまくしたてる。 でも親切であって、テーブルの選び方ひとつとってもモニさんが嫌な思いをしないようにちゃんと配慮したようでした。 ところで、わしが、おおっ、と思ったのは、プリミに頼んだ「スパゲッティ・ポモドーロ」が、わしがむかしからほんとうはナポリタン・スパゲッティの淵源はこれだったりして、と疑っている「つくりおきスパゲッティポモドーロ」だったことで、イタリアで遭遇するのは3度目だが、日本の「おいしいナポリタンで有名な」喫茶店で出てくるナポリタンと味がそっくりである。 同じ味です。 ケチャップを使っているわけではなくて甘みはポモドーロ(トマトさんのことです)とオリーブオイルそのものから出てくる。 この「イタリア安い定食屋スパゲッティポモドーロ」で最も特徴的なのはイタリア人があんなにうるさい「アルデンテ」が全然守られていないことで、日本のナポリタンと同じで、なんというか腰がなくて「くたっ」としている。 人生に疲れてしまった中年スパゲティのような趣です。 日本語インターネットサイトを見ると「横浜山下町にあるホテルニューグランド第2代総料理長・入江茂忠が最初に考案した」と実名まで入れて重々しく厳然たる事実である由来が書いてある。 なるほど。 でもね、でーもー、ですよ。 この場末の定食屋、町中では絶対にお目にかからない田舎のトラック運転手めあての定食屋でしか味わえない「スパゲッティ・ポモドーロ」と日本の洋食屋や喫茶店で出す「ナポリタン」の決定的な味の類似をもっていかんせん。 実はガリシアにもスパゲッティナポリタンそっくりの味のスパゲティが存在して、これは通常「タコのスパゲティ」を名乗っている。 説明するのがメンドクサイので省いてしまうが、こちらは実はもともと「定食屋風スパゲティポモドーロ」がアルデンテが嫌いで、くったりへろへろなパスタしか食べないスペイン人の口にあって、そこにパンチェッタの代わりにタコをいれちまえばうまいべ、というスペイン人の思いつきの結果できた料理であることが判っている。 笑われてしまいそうだが、わしは、なんだか真相は意外なことであるような気がする。 ドイツやイギリスのような大国ばかりに倣おうとする政府の方針に背を向けて、ぜんぜん出世の足しにならないことも承知のうえで、ただ美しいものをみたいという説明のつかない衝動に駆られて、横浜から出航する船に乗って、「役にたたない国」イタリアに向かった変わり者の日本人青年が日本のぎすぎすして物欲しげな近代選良の歴史のなかにいたのではなかろうか。 あるいは画家志望の青年だったのかもしれません。 そして、その青年が世の中に拒絶されたまま、あり余る時間をつぶすために帰国後いりびたるに至った「町の洋食屋」の腕のいい職人のオヤジに頼んで、こうしてみようああしてみたらとふたりで合作したのが「スパゲッティ・ナポリタン」なのではあるまいか。 ガリシア名物の「タコのスパゲッティ」と日本の「スパゲティ・ナポリタン」は実際には直系の兄弟なのではないだろうか。 「そんな、出典も権威のある人のお墨付きがない妄説にしても、いくらなんでもそれは酷すぎる」と言われそーだが、というか言われるに決まっているが、出典はなくても、(しつこいようだが)材料が違うのに「くったりスパゲティ・ポモドーロ」と「スパゲッティ・ナポリタン」が「まったく同じ味」と言いたくなるほど味が同じであることを説明するには、ホテルの総料理長の権威あるレシピでは、どうでも、難しいような気がする。 しかも、この入江茂忠という重鎮シェフはフランス料理にしか興味をもたなかった人なので、最も「フランス的味わい」から遠い「スパゲティ・ポモドーロ」のしかも「くったり定食屋版」を結果的にでも再現したというのは、不思議を通り越して非現実的な気がする。 世の中には観念の世界では理屈が通ってみえ、証拠すらずらずらと並んでいても、現実の細部に目を向けると、「そんなことはありえない」とすぐに判ることはいくらでもある。 「現実の細部」から遊離した理屈の世界ではどんなに現実からかけ離れたことでも、正しいと全員が納得できる「証明」をしてみせるのがいかに簡単であるかは、それこそ人間の歴史が証明している。 スパゲティ・ナポリタンの「確認された歴史」が、まさにその例で、この「スパゲッティ・ナポリタン」の確定した歴史を書き継いでいったひとびとは、ひょっとすると自分では料理をしないひとたちだったのではなかろーか。 理屈はあっていても現実としてはちょっと考えられないように見えます。 甘みのでない日本のトマトを諦めて、タマネギやケチャップを動員して、ついに貧乏留学生時代の昼ご飯の味が再現された当時は万能手形だった「洋行帰り」なのにうだつがあがらない青年と、腕が良いのに商売が下手で横浜の横丁でうらぶれた洋食屋を開いている無名料理職人とは、ふたりで、戦争が間近に迫った、軍靴の音が響く暗い世相の町の一角で踊り出したいように「やった、やった」と味の再現を喜んだのであるかもしれません。 その時代には正義をふりかざして肩で風を切る人間が増えたことに嫌気をおこして「なんの意味もないこと」に熱中して、当人は無意識でも、いわば人間の「愚かさ」という尊厳を確認している青年がたくさんいた。 歴史は残酷で、世の中の人間の目に触れて、おおきな声になったものだけが「歴史」として語られる。 声が掻き消された者達は、あとから来た者がどんなに歴史の闇の奥に向かって窓をひらいて耳を傾けても、微かな、意味をなさない声が聞こえてくるだけである。 その一瞬の「微かな声」も、朝になれば「正しさ」に酔っ払った醜悪な人間たちに、誰かが「一緒に石をもって投げに行こう」と呼びかければ訳もなく声をあわせて「悪いひと」を石で打ち殺しに嬉々としてでかける、さらに多数の「正しさ」に酩酊した思考力すらもたないひとびとがついて歩く。 欧州人はそれでも一般の人間が読む事ができない記録などは山のようにあり、引き出しに埋もれてしまった戦争中の「他人の目に触れることを禁じられた事実」などは無数に存在するということを熟知している。… Read More ›

  • 十年後

    夢のなかでは、ちょうど女川発電所のように、福島第一発電所は、かろうじて津波に耐えて、アメリカ友から「あんなデザインも悪いボロ発電所が、あれほどの大津波に耐えられたなんて信じられない。 第一、ガメ、信じられるか? あの発電所はディーゼルの入れ換えをするときの僅かな経費を惜しんで、バックアップ電源ユニットが発電所の後ろの高台ではなくて、前にあるんだぜ。どうやって、あの大津波を生き延びたんだろう。日本人たちは、自分たちがどれほど運がよかったか、知ったら驚くのではないか」 とemailが来ている。 モニとわしが、オークランドの、まだまだあちこちを直したり改築したりしなければいけない家のラウンジで、カウチに座って、するすると、奇妙に抵抗がない、非現実的な速度で、広がってゆく黒い水の広がりを観ているのはおなじで、あっというまにモニの唇が青ざめて、薄白くなって、やがて、顔全体が、すうっと血の気がひいていくのもおなじです。 ただ異なるのは、夢の世界では、仙台の人が、「たいへんな大災害でしたが、なあに東北人は打たれ強いので、みんなで力をあわせて、なんとか再建しますよ。 原発が爆発したというデマがとんだときは、もうダメかとおもいましたが、 なんとかもちこたえてくれて、わたしたちも、なんとかなるという気持ちになれました」と述べている。 考えてみると、ぼくは日本を知らない。 いや、知ってはいるけど、いまの日本は見知らぬ国なのだとおもう。 2010年に日本を発って、そのあと、考えてみて、もう1ヶ月というような期間でも、戻って、訪問することはないだろう、という結論で、持っていた家も、広尾山も軽井沢も、鎌倉のあのなつかしい縁側と薄い硝子窓の家も、処分してしまった。 他国なら、賃貸にする、ということも考えられるが、日本は、自分の投資が市場としている地域に入ってなくて、よその会社に任せようにも、管理会社の体制もあんまりしっかりしていないので、売却してしまったほうがいいだろう、という判断でした。 そのあと、2015年にいちど、欧州へ行った帰りに立ち寄っている。 数日の訪問で、ものものしい、慌ただしい旅で、そんなことは日本ではついぞ、やったことはなかったが、背に時間は変えられなくて、移動はヘリコプターやリムジンで、恥ずかしくないの?というくらいダメガイジンそのまんまの滞在で、京都も町屋のようなところに滞在したかったが、蹴上のウエスティンに泊まって、錦市場に行って、ずっとむかしの楽しい思い出がある清水寺の坂道がひとで埋まっているのを観て、げげげ、と驚いたりして、次の日はお目当ての寺町にでかけて、かねて予約して買い集めてとっておいてもらった骨董や岩絵具、金箔の買い物をして、これだけは執念で、オダキンにさんざんうらやましがらせられて悔しかった、551HORAI、蓬莱の肉まんを買って、ホテルの部屋で食べた。 東京は、ただ、もう一日、あの雰囲気にひたっていたかっただけなので、短い滞在と言っても、満足で、なじみのホテルに宿泊して、伊東屋にも行き、築地の場内外を巡り、銀座三越のデパ地下を探検して、すっかり満足した。 焼き鳥や、うな重、鮨店に行って、「日本の味」を堪能したのも、言うまでもない。 英語世界では魚釣りの餌でしかないカツオの、藁でつつんで焼く、「タタキ」もおいしかった。 いま思い出しても、楽しくて、気持ちが浮き浮きしてしまうが、奇妙な点は、まるで初めて日本を訪問したように印象されていることで、日本は日本でなく、自分も自分でなくて、なにか、夢のなかの再訪であったように感じられる。 むかし溺愛した恋人に会うようではなくて、行きずりの、おもわぬ邂逅のような感覚がぬけなかった。 ほんとうにほんとうに楽しかったが、あれは、ぼくが知っている日本だったのだろうか? あの笑いさんざめいていた日本は、ほんとうに、ぼくがひとの肩を抱いて一緒に涙を流したり、数寄屋橋のオーバカナルで盛大に酔っ払って、千鳥足で日比谷の、高架の裏の、小さな広場の、小さな小さなゴジラに挨拶しに行ったりしていた、踏み込んで社会の異常さに友達と怒って、こんな社会を持って恥ずかしくないのか、と涙をためて拳をにぎりしめた、まるで肉親のような国と、おなじ国だったろうか。 みな、幻影だったのではないか。 2011年の3月11日に、意味という意味を殺された、かつては独自の、言葉の原義どおりの意味でuniqueだった文明の亡霊なのではないのか。 福島第一事故のあと、言葉が現実と乖離して、言葉だけで事実を構成できるかのように、意味性を捨てて、ひとりよがりの得意満面を始めた日本社会を、インターネットを通じて、ずっと観てきた。 「空前の好景気」と首相がいえば、目の前に、住む家すらなく、ネット喫茶で夜を明かして、町をさすらう人間がいくらもいるのに、社会は繁栄していることになってしまい、中央銀行が金の糸目をつけずに株を買い支えるという、マンガ的なインチキによって株価を吊り上げて、「我が国の経済は、かつてないほど強くなった」と胸をはってみせる。 実がない、というが、 それ以前に、現実というものの重みに興味すらもたない政権が長期にわたって続いて、それを観ていた子供達から、まず始まって、宿題も、やらなくても、やったといえば終わった事になる、なんだって出来ちゃったことにすればいいのさ、言葉だけで現実は空洞の、不思議な世界観を身に付けていく。 そうこうしているうちに、悪いことに、アメリカにはドナルド・トランプが現れ、連合王国にはボリスが登場して、ドイツやカナダと、いわば妄言派と現実派と呼びたくなるような対立を始めて、スチャラカおじさんの安部晋三は、ほらみろ、やっぱり現実なんてどうでもいいんだ、と言わんばかりに小躍りして、小走りで、トランプたちにすり寄っていった。 10年は、社会全体が意味性を失うのに充分な長さだったのではないか。 だから、 考えてみると、ぼくは日本を知らない。 見知らぬ国が、真実が真実であることをやめなかった頃の日本を演じている。 世界中で人気を博しそうなアニメがつくられ、マンガが描かれ、国外では食べられない水準の鮨が握られ、精妙に工夫されたスープのラーメンが、「はい、トンコツいっちょう!」の威勢の声とともに供される。 社会という表面の鏡に映っているのは2010年までと同じ日本だが、よく眼をこらしてみると、それはいわば先人がつくったレシピによって出来た文明が繰り返されているだけで、その文明を生みだした淵源は、巨大な伽藍ごと崩れ落ちて、空虚のなかに見渡す限りの瓦礫の山をなしている。 むかし愛した人が、亡霊であると知っていて、それでも、そのひとの過去の記憶のあたたかさに報いるために、まるで生きている人であるかのように話しかけているような気になります。 あの人が、いつか肉体を取り戻す日が来るだろうか。 いや、来ると信じても。

  • 2011年3月11日

      タイムズ・スクエアに立って、ぼんやり、リコーのシリンダー型ビルのLEDスクリーンを観ていた。 がんばれ、日本 と書いてあります。 日本語だったか、英語だったか、あるいは日本語と英語が交互に映されていたのか、もう遠い昔のことなのでおぼえていない。 おぼえているのは、オークランドを発つ直前に見た、非現実的な感じがする、まるで地上の町と津波の映像とふたつの異なるレイヤーを重ねたような、いわば不自然な巨大津波の映像と、マンハッタンに着いて、たしか14th StのLa Nacionalで一緒に夕食を食べた原子力工学に詳しい友達が、青ざめた顔で、「ガメ、これはたいへんなことになった。ほんとに日本人たちだけで、どうにかなるだろうか」と述べていた、そのときの友人の顔の深刻さや、あるいは、通りすがりの日本料理店で、手書きの紙がドアに張り出されていて、福島の方言らしい日本語で「日本、がんばってくれ!」と祈りのように書いてあったことくらいだろうか。 マンハッタンは、街をあげて、まるごと日本と福島へ声援を送る、とでもいう様子で、広場という広場では義援金が募られて、夜になれば、街のあちこちのコーナーでろうそくを灯して祈りを捧げるひとたちの姿があった。 ネットで知り合ったロサンゼルスに住んでいる大学講師の人が、「マンハッタンで寄附金を募る輩なんてのは、だいたい詐欺に決まっているからオカネを渡してはいけない」と、わざわざ言いに来てくれたが、モニとわしは、目に入る限りの募金箱に、委細構わず、全部、あまりおおくもない寄付をねじ込み続けていた。 いま見ると、そのころにも何度も書いているが、最も不思議なのは、日本の人が誰も逃げださないことで、いまおもいだしてみると、危機にさらされているのに逃げない日本の人びとに対して苛立ちというよりは、純粋な不思議さ、 いったいどうしたら、個人として、「逃げない」という判断ができるのだろう? と、訝しくてたまらなかったもののようでした。   一方で、非日本語人は、逃げに逃げた。 仙台に住んでいたオーストラリアのシドニー人の若い男の人は、津波の第一報を聞いた、その瞬間に手近にあった自転車に乗って、というのは平時の言葉で平たくいえば自転車泥棒を働いたのだとおもわれるが、ひたすら南を目指して、途中、郡山でくたびれはてたので、なぜか鍵がかかっていなかった美術館に潜り込んで、一泊して、翌朝、また自転車をこぎつづけて、成田に至ると、そのまま飛行機でシドニーまで一気に逃げ去って、政府だったか新聞だったかに、その見事な逃げっぷりを称賛されていた。 日本の人たちは逃げなかった。 インターネットで情報を集めるのが得意な人ほど、福島で、仙台で、東京で、じっと家のなかに籠もっていて、そのうちにマンハッタンにいるモニとわしのところにも「正しく怖がる」という不思議な言葉が聞こえてくるようになっていった。 友達たちが「日本の人に役にたつ情報があったら伝えてやってくれ」と述べて転送してくる膨大な量の各国大使館からのemailの情報を、初めのうちこそネットに流していたが、そのうちに誰も反応しないのを見て、真に焦眉の問題についての情報だけを出すように変えていったが、読んでいるほうは、あんまり興味がなかったようで拍子抜けでした。   外国政府は比較的敏捷に動いて、例えば英国大使館はバスを現地で調達して盛岡だったか、から出発して、石巻で、仙台で、相馬で、というように土地土地で連合王国人を拾い上げて、むろん、申し出があれば、アメリカ人でも、ニュージーランド人でも、カナダ人でも、無差別にピックアップして成田に届けているもののようでした。 英語人たちは、日本人が見るからに平静な外面を装って、普段と変わらない生活を始めている町の様子には眼もくれずに、日本語がわかる人間も、日本のニュースが述べる事態の解説や行動のリコメンデーションには目もくれずに、「お尻に火がついたように」、ただもう、ひたすら逃げて、政府も航空機をチャーターして無料で自国の国民を祖国に運ぶ国が多かった。 ニュージーランドも例外ではなくて、Air New Zealandが常より多い便数で飛んで恐怖で真っ青なキィウィたちを9000km離れた母国へ運んだが、そのときにニュージーランド市民のボーイフレンドやガールフレンドで、ビザもなにもないのだけれど、とにかく離れたくない一心で、乗り込んで、そのままニュージーランドに居着いてしまった人もいたようでした(^^) 日本では福島第一発電所の事故が「ほんとうに危険なのかどうか」という激しい議論が始まっていて、「科学をきちんと勉強してから怖がれ」という一派が勝ちをしめて、ちいさな子供をもった母親たちは、自分の科学への無知を呪いながら、必死に放射能汚染が小さそうな食材を調べては子供たちに与えようとして、それをまた、「正しく怖がれ」の知的エリートたちに、「そんなに過敏になって選ばれたら産業が衰退するではないか」と叱責されていた。 「第一、おまえたちは、危ない危ないというが、それが風評被害を起こして、福島の農家の人達が困窮することをなんともおもわないのか。 それでは犯罪行為ではないか。 もし本当に放射能が危ないというのなら、危険を証明してから言え」と言う。 専門家たちが正しいのか、素人衆が正しいのか、人為災害の歴史は、こういう場合には、まず100%、専門家の側が間違っていると教えているが、放射能の健康への害などは、多く、遺伝子レベルのもので、被害が明らかになるまでに人間の感覚を超えた時間がかかるうえに、放射能で、ぎっしり握りしめられたおにぎりをテレビカメラの前で、安全を示すためにパクついていた芸能人が急病で死亡しても、その死因となる病気を、医師が「放射能のせいですね」と断定することは、まずありえない。 酷い言い方をすると、観察者にとっては専門家と素人のどちらが正しいのでも構わないが、最も興味を惹いたのは日本語世界では、個人の側が「万一のときにダメージを受けるのは、わたしなのだから、もしほんとうに危なくないと言い張るならば、その確たる証拠を見せてくれ。それを証明すべきなのは、きみたちのほうではないか」と述べるのではなくて、あべこべに「危なくないんだから怖がるな」と超テキトーな論拠で言い張るのが政府や専門家の側であった点で、これには、心からぶっくらこいてしまった。 見ていた範囲で、なかでも際立って積極的に「正しく怖がれ」「自分の無知で風評被害を起こすな」 「〇〇は物理屋だから、ああいうことをいうが、医学屋のXXは、そんなことはないと言っている」と、言葉使いのうえで「化学屋」「物理屋」、△△「屋」という言い方が目立つ人がいて、日本の某大学のなかでは、そういう言い方を好む人がいたのをおぼえていたので、その大学の人だろうかと、そのひとの経歴をのぞいてみると「工業高校卒」と悪びれもせず書いてあって、正直であるのはいいことだが、なにがなし、暗然とした気持ちになったりしたことをおぼえている。 そのうちに、6月になると、モニとわしのニューヨークで片付けなければならなかった要件は、ほぼ終わって、欧州へ移動することになったが、そのころには、あれほど「フクシマ支援」一色だったマンハッタンでも、もうほとんどフクシマが話題になることはなくなって、日本人は、あのものすごい大事故をもうたいして気に留めていないのだ、という不思議なニュースや、返って、外国の人間が騒ぎすぎるのは日本に対する風評被害が立つといって日本人は迷惑がっている、という声が届くにいたって、関心はどんどん薄れていった。 そのあとでも「環境問題に敏感なひとたち」を中心に福島事故処理はどうなったか、というニュースが時折流れてはいたが、翌年だったか、ずっとあとになって、「海外からの義援金が実は捕鯨事業の補填に使われていた」というニュースが駆けめぐると、それまで熱心に支援していた人達も、いっぺんに熱が冷めたようでした。 コモ湖のトレメッツオに買った、モニとわしの別荘の、すぐ近くに滅法おいしいピザ屋があったことをなんどもブログに書いたが、その先の坂道をのぼっていくと、山の上においしい朝食をだす小さなホテルがあって、その小さなホテルのおおきなテラスから眺めるコモ湖の眺望があまりに素晴らしいので、近所の別荘族に、朝食のカフェとして人気があって、そのうちには、なんども顔をあわせるうちに、馴染みになって、テーブルを共にして朝食を摂ったりしていた。 そういう「近所のなかよし」のなかにドイツ人とドイツ語圏スイス人の夫婦がいて、モニとわしが日本にいたことがあるのを知ると、ごく当然のようにフクシマ事故の話題になっていった。 日本でも知っている人が多いとおもうが、ドキュメンタリがいくつもつくられたせいでもあるのか、ドイツ人にはフクシマ事故に強い関心をもっている人が多い。   ドイツの人というのは親切が度が過ぎて、簡単にいえばお節介焼きで、しかもズケズケとものを言う人が多いのが国民性として知られている。… Read More ›