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  • 汚れた言語に

    まだ日本語を、やっと書き出したころに「憎悪の王国日本」という記事を書いたことがある。 日本にやってきて観たままを書いたつもりだったが、当時は「はてな」という後で判ってみるとネットの憎悪の中心のようなコミュニティに、暢気にも、それと知らずに、「せっかく日本製のコミュニティモデルサイトがあるのだから」という理由で、ブログとして書いていたせいで、反応が大きかった。 反応が大きかった、というより、有り体に言えば、罵詈雑言、「日本が憎悪の国だなんて、書く方が憎悪の塊なわけだが」と、すさまじい怒号で、ぶっくらこいちまっただよ、というか、このとき初めて、日本の仮面の下の「素顔」に遭遇したのだと言ってもよい。 日本語社会は、悪意の濃度が他言語よりも高い社会で、悪意の濃度が比較的に低い社会から来ると、いきなり憎悪をぶつけられてびっくりするが、失礼に驚いて言い返しでもしようものなら、たいへんで、「このひと、わたしを侮辱するんです」と自分が属するコミュニティのなかを駆け回って、仲間を募って一斉攻撃にかかる。 コンテクストを追う、ということを全くしないのも日本語人の特徴で「いつもなかよくしている人」が、「この人、加害者です!」と指さすと、そりゃあ悪い奴だ、で、わっと群がって、言語上の集団暴行に及ぶ。 すっかり加害者にされてしまいます。 だんだん判ってきて、どうでもよくなってくると、呑み込まなくてもいいコツが呑み込めて、落ち着いて考えれば、相手にしなければいいだけのことだと判ってくる。 山の麓を歩いていたら、野犬の群れが猛然と吠えながら走り向かってくるときに、これに「敢然と立ち向かう」のは愚の骨頂で、自分がそのコミュニティに属しているのならともかく、ヨソモノなのだから、自分の家である英語に帰ればいいだけで、実際に、シカトして頭のなかのスイッチを切り替えて英語に戻ると、不思議なくらい、綺麗さっぱり、どうでもよくなることが判った。 距離をとって、ところどころ混じっている醜い顔が見えないところまで離れてみると、あな不思議、日本はやさしい相貌で、たおやかな社会の稜線を見せている。 当たり前だが、英語社会にも、やな奴も、愚か者も、イナカモンもいて、 ニュージーランドなどは世界のなかのド田舎なので、「身なりが立派で高いクルマに乗って良い名前の通りに住んでいる」のが立派な人間ということになっていて、さすがに30代も後半になってきた最近はやらないが、裸足で通りをスタスタ歩いていたりするので、「どうしてこんなアンタッチャブルが我々の高級住宅地を歩いているんだ」という目によく遭った。 オークランドにいくつか家を買ってみようと考えて、不動産屋のウインドウに出ている良さそうな家について訊ねるために一歩店内に入った途端に、 「うちは貸家は隣よ」と言われる。 超高級住宅専門の不動産屋に入ったときなどは、受付のおばちゃんは、汚い赤いゴジラがついたTシャツと、やや崩壊したショーツにフリップフロップの風体からして強盗だとおもったのか、真っ青になってガタガタ震え出す始末で、ことほどさように外見がすべてで、外見がホームレスのおっちゃんに「もう少し、どうにかしたほうがいいんじゃないのか」と意見されるくらい酷かった風来坊としては、苦難も多かった。 最近は、あんまり出歩かないし、出かけても、お互いに顔を知っている場所を訪問するだけなので、ネット上もおなじで、英語では不愉快な人間を見ない。 初めのころは、投資が職業といえど、人に会わなければならない用事がたくさんあったが、最近はもう、「完全に無為ならば自分の意思や邪念に煩わされず完全に正しい判断と思惟ができる」、老荘の理想、真人の域に達しているのではないか。 自分の宏壮と呼べなくもない家の裏庭を散歩して、マリーナにでかけて、うんとこしょ、とディンギーを引っ張り上げたり、給水して、マリーナ内のディーゼルスタンドで給油して、あるいは、クルマのガレージで、軽く80年は経っているジーチャンカーをオイル塗れになって直したり、要するに、いいとしこいてひきこもりなんじゃないの?な生活に明け暮れている。 英語ばっかりで暮らしていると飽きるので、あんまりたくさんはない、その言語で考えられる程度には身についた言語世界に遊びに行きます。 むかしなら、ダンテ・クラブ、なんちゃって、名前が付いた社交クラブまで出かけなければならなかったが、いまはインターネットがあるので、めんどくさいので言語別になっているコンピュータに、びょおおおん(←和音)と電源をいれて、日本語なら日本語を訪問する。 条件反射を示すのはパブロフの犬さんだけではなくて、そうすると、いかなる自然の神秘にやありけむ、こちらの頭も、びょおおおん、と日本語に切り替わって、対角50インチの隅から隅まで、見渡す限り日本語の海を逍遙することになる。 でもtwitterでは英語人もフォローしてるよね、と言われそうだが、あれは初心のころの、日本の人の悪意への対処法が判らなかったころに出来た友だちの人びとで、主にDMのやりとりに終始しているが、最近は器用にも日本語であたふたしている途中で、パチッと英語に切り替えるということも、脳が不調で失敗する場合もあるが、出来なくはないので、息抜きというか、友だちを息抜きにしては申し訳ないが、オアシス代わりになっている。 最近は日本語人友でも極めてすぐれた知性の人と会えて、普通に、英語なみに、静かに話ができるので、英語人を日本語ツイッタでフォローする必要もないが、友だちは必要でつくったり撤廃したりするものではないので、 そのまんまになっている、ということです。 ことのついでに述べておくと、あそこに並んでいるツイッタ友は、英語を書くのが仕事のひとたちで、地元の新聞に書いたり、ワークショップに加わって雑誌に発表したりしている人達だが、素晴らしい、美しい英語を書く人達で、日本の人が英語を書くときに参考にするのに最適だとおもう。 閑話休題 そうやって、ふらふらと言語世界を、ちわああーす、と呼ばわりながら歩いて、日本語を訪問すると、このごろは、あんまりこちらに向かって飛んではこないが、やはり悪意が多すぎるような気がする。 特に自分では高い学歴であるとおもっていたり、ひとよりも賢いと自己を評価しているひとたちが、なんだか張り切っちゃった日本語で、「政府を批判」したり「ジェンダー問題を語った」りするのはいいが、どうにも人が自分と異なる考えでいるのを我慢できない人もいて、 わざわざ見知らぬ他人のツイッタアカウントにやってきて、 「あんた、バカなんじゃないの?」のひとことですむ内容を、仔細らしく、もっともらしく、相手の感情がなるべき傷付くように懸命に工夫した言い回しで、言い残していく。 言われた方は、傍目にも、あきらかにムカムカして、自分の波だった感情を収めようとしているのが判るが、見ていると、まる一日かかることが多いようです。 いろいろな人が「そんなのネット上だけですよ」というが、なははは、そんなわけはないので、自分が「属している」と感じる社会のネガティブな側面を指摘されるのが嫌で、そう言ってみるのでしょう。 悪意というのはね、隠そうとしても、チラチラと覗いてしまうものなんです。 気楽に中傷するなり冷笑なりをやるほうは、時間の無駄は数分だが、言われたほうは気持を旧に復するのに一日、どうかすると数日かかる。 何日たっても気持が解決されなくて、弁護士に相談したりする。 その数日で書けたかもしれない物語や論文や、絵は、彫刻は、たいていの場合、永遠に姿をあらわすことなく、脳のなかの沈黙の闇に消えていきます。 傍からみていると、日本の沈滞の原因はこれで、西洋式の理屈を適用すれば、そんなバカな原因はなくて、人口が単調に減少してマーケットが縮小しつづけているのが原因ということになるが、その人口の減少にしても、悪意によって生きづらくなった社会が原因かも知れないでしょう? 日本の人は「自由社会」を勘違いしていて、誰でも、おもいついたことをなんでも言っていいとおもっている。 そりゃ、法律上は、もちろんそうですけど、人間は法律で生きているわけではないので、たいていの場合は、単に「おれはあんたを認めない」というだけの、失礼なことや、もっと深刻ならば、性差別、人種差別的なことを気楽に述べていいわけはない。 何度も引用する、中村伸郎の 除夜の鐘 おれのことならほっといて… Read More ›

  •   昼下がり、ボローニャ大学の中庭のベンチに腰掛けていると背中が向いている建物の二階から、悪魔の実在について議論している声が聞こえてくる。 静かな落ち着いた声ではなくて、やや興奮して、切迫して、言ってみれば、切羽詰まっている声です。 緊急の、焦眉の問題として悪魔の実在が述べられている。 幻聴だったんじゃない? 記憶が改変されているのかも? 現実の実体は、たかだか認識にしかすぎないことは、なんども書いた。 だから、どちらでもいい、ということにはならないが、 何度も甦ってくる記憶は、ベンチの傍のオリブの木が、現れたり、消失したりするくらいで、残りは同じことで、SONYショップの代わりにサムソンショップがあったり、小さなEVの郵便配達自動車が広場に群れていたり、 はては、大通りの、大学から遠くないところのジェラート屋まで、 雑多に「現実」として頭のなかに残っていることの、ひとつとして、 声高に述べられる悪魔の実在についての議論が残っている。 ボローニャなのだから、イタリア語だったはずなのだが、記憶のなかでは、スペイン語であったり、英語ですらあることもあって、これはいつものことだが、西欧語は西欧語のなかで横滑りしていて、ときどき、なにがどんなふうに語られたからは判っていても、それが何語だったか怪しくなることがある。 自分が話す方は何語だったか、たいてい憶えているので、不思議といえば不思議で、あるいは、話す事と聴くことは別の能力かと考えたり、 その言語がへたっぴなだけなんじゃないの? とおもったり。 もう人間も30代の後半になってくると、経験したすべての現実は断片化して、廃墟か遺跡のようにして、堆く積み上げられた、それぞれの瞬間が、崩れ落ちる一瞬に、鮮やかな形象と色彩を伴って甦ったり、遠くに、くぐもった影のように蠢いていて、もどかしくて、どうしても判然と思い出せなかったりする。 誰にでもあることのはずで、辿っていくと、現実だったのかどうか、もう判らなくなってしまっているものもある。 数学の言葉で世界を理解しようとしていたころは、机に向かって手を動かすやりかたで自分が生きている宇宙を解読しようとしていたが、ふり返ってみると、ほんとうに身についたのは旅による理解で、 ただ、ふらふらしているのが好きで、大陸西欧やメキシコやアメリカ合衆国や、オーストラリアやニュージーランド、遠くは日本まで、足をのばして、 ハワイのパスポートコントロールでは、「ひとりの人間が、こんなに旅をするわけはない」という訳の判らない理由で別室に送られたりしたが、 そのころは、滑稽なことに、実際には旅先で過ごしている時間に較べると短い期間の滞在でしかない「自分が生活している場所」でないところにいるのが快適で、根無し草でいることが安定した生活だと感じていた。 旅から旅。 ラスベガス郊外の赤茶けた岩。 プラヤ・デル・カルメンの焼けつくような太陽。 クエルナバカの木陰。 ダラスの、巨大なばかりで、館内をジョギングしている人以外は、誰もいないようなショッピングモール。 Llafrancの、延々とつづく、海辺の遊歩道 脈絡のない、スナップショットのような風景が積み上がって、何千キロも離れた場所が隣り合っていたり、隣り合っている場所が融合していたりする。 カタルーニャやガリシアの小さな町に、ほんの数週間もいて、観光を目的とするでもなく、テラスでのおんびりとヴィッチ・カタランとカバのサングリアで、おおいつくすような太陽の光の下で、眼下の町を眺めていると、 世界は、たくさんの宇宙で出来ているのが判ってくる。 そのひとつひとつの宇宙は、異なる言語で、てんでに異なる世界を認識している。 解りあえれば最も理想的だが、なにしろ人間の言語も感覚も、内を探究するのは案外と得意でも、隣の人と意思を疎通するというのは苦手なので、人間がお互いに理解しあうのは、世界が判ってくればくるほど、困難であることが自明に近くなって、ではどうすればいいかというと、「ほうっておけるだけ、ほっておく」のが最もいいようです。 日本語では、どういうことなのか、頻発する、相手が自分に向かって攻撃をしかけたり、甚だしきは共謀して中傷したりする場合には、戦うしかないだろうし、ほうっておけば、かさにかかる、ということもあるだろうが、 そういう異常な人間が起こす異様な事態でもなければ、 「他人のことは、ほっておく」 「判らない事は、ほっておく」 で、だいたい人間の短い人生は終わってしまう。 日本語ではいちど、日本語世界が与えてくれたことへの恩返しのつもりで、なにが日本のネット言語世界をおかしくしているか、元凶の集団がやっていることを匿名から実名をたぐり出すことを含めて、可視化しようとしてみたが、これは大変で、なにしろカラッポの議論で、詭弁と相手を陥れる技だけを磨いてネットを牛耳って来た人びとだったので、たいへんな時間の無駄で、おまけに日本語の世界で支えてくれた人達には 「ああいうことは、よくない。愚かな人間は、みんな観て判っていて、現実の世界で対処しているのだから、公開でやってみることに意味などない」と顔を顰められてしまった。… Read More ›

  • 塩田

    塩田の原へ行ったことがある。 塩田町は、上田市に併合された町で、電車で行けば上田駅から別所線に乗って、目の前のコンピュータスクリーンには何故か英語で「Ubu River」としか出ない川を渡って、西へ向かうことになる。 なんだか曖昧な言い方をしているのは、クルマで軽井沢の「夏の家」から出かけたからで、軽井沢から上田までは、18号線は沿道にあるものが全て汚らしくて通っていて気持が悪くなるほどのものだが、浅間サンラインを行けば、思いのほか大きな浅間山を右に見ながら、御代田、小諸、東御と過ぎて、あっという間に上田に着きます。 潰れたラブホテルやパチンコ店の、半分倒れて、赤錆びた看板を見るだけで腹が立つ不便な性格だったので、専ら浅間サンラインで上田とのあいだと行き来していたが、こちらのほうは江戸時代の力士雷電の里だとかいう「道の駅」があって、トウモロコシ畑や葡萄園が広がっていて、ついでに言えば、お腹がすけば、ちょうどいいあたりに、おいしいとんかつ屋があったりして、快適そのものな道だった。 Sumo Do, Sumo Don’tという映画がある。 邦題は「シコふんじゃった。」 いま見ると、1992年の映画で、監督·脚本は周防正行。主演は本木雅弘 クライストチャーチにいて、なにしろいつものことで退屈して、ひさしぶりに、たまには日本の映画でも観ようかと考えてAlice in Videolandという非英語圏の映画ばかり揃えたレンタルビデオ店から借りたのが、多分、2001年くらいです。 あんまり面白いので、返却に行った帰りに、DVDを買ってきてしまった。 大学相撲部の話だったが、途中、二両連結のディーゼルカーが一面の緑をなす水田の向こうを走ってゆく美しいシーンがあって、バックグラウンドに流れる曲も美しくて、歌詞を調べ、バンドを調べてみると、 サトウ·ハチローの詩で加藤和彦が曲を書いた「悲しくてやりきれない」という歌だった。 ゴジラと小津安二郎専門だったのに、好きな日本映画に出会えて、すっかり嬉しくなってしまったが、ゴジラ対メガギラスの白州の緑に感動して日本再訪問を決めていたのに加えて、この場所にもどうしても行かなければ、と心に決めた。 そこで直ぐ行動を起こして、さっさとその場所をめざすような迅速な人間ではないので、そのあと、散々ぐだぐだして、日本を訪問してみたり、もう行かなくていいや、とおもったり、結局、珍しくも5年間に渉って数ヶ月ずつ滞在するという大計画を立てて、調べて見ると借りるよりも買うほうが、多少は金銭的に損失が出ても、いろいろと便利だったようで、広尾山に、まあまあ住めそうなアパートを買って、ことのついでに鎌倉と軽井沢にも一軒家を買って「十全外人ガメ·オベール日本遠征計画」と、わざわざキャンペーン名までつくって、日本に出かけたのでした。 ある日、ふと、Sumo Do, Sumo Don’tの風景を思い出した。 軽井沢から御代田、小諸は、いわゆる東信の貧しい町で、雰囲気が共通している。 佐久平は新幹線の駅が出来て、開けて、軽井沢の地元人が「群馬村」と顔を顰めて述べる、イオンモールを中心とした商店コミュニティ出来ている。 歴史のない新開地の悲しさでミスタードーナッツにマクドナルド、ラーメンの幸楽苑、食べ物のレパートリーはひと渡り揃っているが、落ち着いたものを買い物したり、食べたりするには、上田まで出なければ無理で、 何度も上田に出かけることになっていたが、その割に、川を渡ればすぐの塩田へ行ってみることは思いつかないまま軽井沢や佐久穂、美ヶ原で遊んでいた。 一念発起、はオーバーだが、改めて塩田を目的地にして出かけてみると、変哲も無い住宅地で、訳が判らないので市役所に訊いて出直したのをおぼえています。 行ってみて、びっくりしたのは、もうほんとうに、あの映画の風景が撮れるのは田んぼの脇の農道の、ただ一点で、ほんの数度カメラのアングルを変えると、余計なものが映ってしまう。 映画の撮影カメラマンは、凄いプロなのだ、と再確認して、モニとふたりで感嘆しました。 考えてみれば、名所のようなものだと思えば、ローマやパリと同じで、立つ場所と見る角度を少し変えれば、艶消しなものが、いくらでも目に入るわけで、マンハッタンのように、どこを見てもニューヨークであったり、ニュージーランドの田舎、例えばマルボロの入り江を歩くように、見渡す限り、ガイドブックに出ていそうなニュージーランドだったりするほうが、珍しい。 中腹に忽然と立っている鳥居に気が付かなければ、「ややおおきな丘」くらいにしか見えない古墳の脇をとおって、駅前の駐車場にクルマを駐めて、鰻の蒲焼きがびっしり載ったお重を食べて、なんということはなく、白州も行ったし、塩田原も見た、と心のなかで考える。 葉山の山々とも旧交をあたためたし、鎌倉の、噂通り、いかにも中世の幽霊が石碑の陰から現れそうな急峻な坂の上の神社で、腰掛けて、ウイスキーを片手に夕闇を愉しんだ。 なぜ自分は、この国に興味があるのだろう、と、たびたび考える、答えのない疑問をまた頭のなかで繰り返している。 塩田の原や白州の森を見たくて日本を再訪したが、ほんとうは塩田原や白州を見たかったわけではないのは判っている。 材木座などは、テラス席でビールを飲んでいると、水気を含んだ海風でテーブルに水たまりが出来るほど湿気を含んだ重い空気で、無愛想な顔の下に、子供たちのような、やさしい気持を隠していて、その一方では、不本意な人生の終盤に来て、壊れてしまったかのような中年老年の人達が、悪鬼のような心を微笑の下に隠している。 人間って、どこでもおなじで、そんなものですよ、とネットを彷徨する人ならいいそうだが、それはほんとうではなくて、日本語世界という固有なにおいが、ちゃんとあって、それは多分、奇妙なことをいえば、社会の善と悪の配分が通常は3対7であるのに、1対9であるというような「程度」の話だろうと、振り返って、いまはおもう。 言い換えれば、日本の特徴は、日本のよいところが、日本の社会では本来受け入れられない、ほとんど根拠のない善意の持ち主や、どうしても自分自身という最良の友だちを裏切れなかった「反日本人」によって出来ているところで、考えてみれば、昭和の独特で偉大な文明は「反昭和人」たちの手でつくられている。 明治に至っては「反明治人」であるのは、もちろん、明治という、詩人ですら出世栄達という単一価値観で評価されるという暗い残酷な時代に、殺されてしまった北村透谷のような人によって、輝かしい光芒が凍りついたような文章が書かれていった。 ランボーやバイロンのようなひとびとを別にすれば、欧州の各時代の文明はフランス文明はフランス人の手によってつくられ、イギリスの文明はイギリス人によって、つくられてきたが、日本では、凡そ評価しうるような創造的芸術は、日本社会の体制や、ひとびとが行動規範とする価値に反発する人びとに手に依って、つくられてきた。… Read More ›

  • 片肺飛行

    イギリス人がニュージーランドに来て、いちばんぶっとぶのは、空港で早くも聞こえ始める「二世代古い英語」です。 ショート・ショーツに、クロップ・トップのチョーかっこいい若い女の人達が、自分の祖母の言葉で話している。 「昨日の夜のパーティはいかがでした?」 「ええ、とっても愉快な夜でした。招いていただいて、ありがとう」 ニュージーランドでは高校生が夜会を開くのか、と一瞬おもう。 Gin Wigmoreという、すごいシンガーがいる。 この人がSmashproofというバンドと一緒に出した「Brother」はマヌカウのマオリ族ギャングの抗争を歌った、ニュージーランド人なら、誰でも泣きたくなるような、たいへんにたいへんにニュージーランド的な歌だが、 この人のSNSが、なんだかマジメな高校生の日記みたいな英語の調子なので、 読んでいると、ふつふつと、可笑しさがこみあげてきて、次の瞬間、圧倒的な好感が押し寄せてくる体のものでした。 最近は、主にインターネットのせいで、それほどの差異は、ほぼなくなっている。 テレビを観ていて、あるいは町を歩いていて、聞こえてくる英語で、単語数語でも並べば、 「あ、この人はオーストラリア人」 「アメリカ人だな」 「この人はカナダから来たのだな」 くらいは歴然と判るが、 「この人はタイムマシンで過去からやってきたのだろうか」という人は、少なくなった。 俳優は厳しいレッスンと切り離せない商売で、ドラマWithout a TraceのMarianne Jean-Baptisteなどは、当然のようにニューヨークの人だとおもっていたのに、あるときインタビューを受けているのを聴いていたら、ばりばりのイギリス英語なので、ぶっとんだことがあった。 ちなみにニューヨークが舞台のテレビドラマだったWithout a Traceは、Anthony LaPagliaやPoppy Montgomeryたちオーストラリア人たちも出ていて、やっぱりちゃんとアメリカ英語で話している。 名前はあげないが不器用な人も、もちろんいて、カリフォルニアで生まれて育った設定なのにオーストラリア英語で、どうも、この人は俳優に向いてないね、とおもう人もいます。 一般に言語は、知的レベルが高い人ほど、あるいは(階級がある社会では)階級が高い人ほど「古い」言葉で話す。 砕けた英語で話したがる人が外国人には多いが、なにをやっているのか判らないので、本来、出会って、自分の成長を助けてくれるはずの人と、この人は一生縁がないだろうな、と横で見ていて余計なことを考える。 周りは黙っているだけで「これは、ダメな人だ」と思っているからです。 ときどきツイッタやなんかで、英語習得の話題がTLで出てくると、 「苦笑されるくらい古い折り目正しい英語のほうがよい」と述べるのは、そういう理由によっている。 この記事が書かれている日本語は、よく「古い」と言われる。 ぼくが住んでいる風変わりな英語世界の片隅では「書く文章のスタイルが古い」というのは、褒め言葉なので、日本語の悪意としての表現に翻訳しても、いまいちピンと来ないくらい気にならないが、薦めてもらった「ラノベ」を見ても、こんな言語で書くくらいだったら日本語以外のほうがいいな、とおもうくらいで、文体を「新しく」しようとする気持は起こらない。 何回か書いたことだが、ぼくの日本語は、普段の会話やテレビで日本語に触れる機会はゼロなので、せいぜい戦後現代詩や60年代の映画くらいが最も新しくて、そういう言い方のほうが判りやすければ「日本語人が、だいたいは読んで判るガメ・オベール語」なのかもしれません。 本を読んで、自分の日本語の「芯」が出来てくると、母語とおなじように、だいたい、どんな表現がダメで、どんな表現が言語の美としての感覚を呼び起こすか判って来て、ある種の文章を読まなくなり、ある種の文章を書く著者のものを読まなくなり、ある種の著者を胚胎する母体になった文化潮流をまるごと読まなくなる。 テレビと漫画という、社会がまるごと、そのふたつで出来ているような日本語文化のスタイルを両方とも判らないまま闇雲に自分が好きな言葉の方角に進んだので、なるほど、言われてみれば特殊になっているわけで、趣味なので、まあ、ほっといてください、ということになっています。 さぼらないで、ときどき、「日本語で表現できないことの一覧」をつくろうとおもうが、根が怠け者なので、なかなか、やれない。 ツイッタ上での経験では、判っている人は例がなくても、十分以上に判っていて、いまの日本語では、表現できないことが世界には多くなっていて、しかもそれが年々加速度的に増えていて、語彙や表現が存在しないことは、つまり考える事も意識の対象にもならないことなので、困ったことになった、と感じているようでした。 日本語は、もともと無数の微妙に意味することがずれた語彙の集積でできている。… Read More ›

  • 長い長いtweet

    1982年という年は、日本の人が対アメリカドルを「だいたい250円」と数えていた年です。 経済は年々急成長を重ねて来ていて、物価は毎年おおきな幅であがってゆくのが当たり前だった。 中曽根内閣が成立した年で、青嵐会という自民党内右翼グループの中核政治家が首相になったことで、日本がおおきく軸足を右に移した年でもある。 あとで、ぼくの法律上の叔父になる青年が、神保町の岩波ビルにあった小さな事務所を訪ねて、来ている。 当時は(あんまりあてにならない義理叔父の記憶によれば)30万円を超えていた航空券代が、若い叔父には、どうしても出せなくて、ニューヨークに出かけるために、一計を案じて、アメリカに住む親族から招待してもらう、ということにした。 いったい、どこをどうやって工夫したのか、どうやら日系人の女の人に妻ということになってもらって、招待状を手に入れたらしい。 すると、あな不思議、同じユナイテッドのエコノミークラスの成田-NYCが往復11万円で買えたといいます。 違法とは言えなくても、あんまり晴れがましい経歴の切符ではなかったようで、シアトルでの乗り換えが15分しかなかった。 15分で荷物を受け取り、パスポートコントロールを通過して、なんだか銚子電鉄みたいな国際空港と国内空港を結ぶ電車に乗って、国内線ゲートにたどりつくのは無理なので、当然、乗り遅れて、無い知恵を絞って、ユナイテッドのサポートカウンターにいってみると、「替わりの航空券なんて出せるわけがないでしょう」と冷たく宣告された。 英語もろくすぽ話せないので悲しみとパニックと怒りのあまり、ただ口をあわあわさせていた義理叔父の後から、「なに言ってんだよ。この人の無茶苦茶な乗り継ぎの航空券を発行したのは、きみの会社だろ? ちゃんと代替の券を出さないという法があるものか」と述べる人がいる。 振り返ると、「ジャッキー・チェン風の」アジア系の背の高い、年齢が自分と同じくらいの若い人が、「おれは頭に来たぞ」然とした顔で立っていたそうです。 ああでもない、こうでもない、信じられない、これがアメリカという国なのか、と数十分も散々すったもんだの挙げ句、この香港人の若者は義理叔父のためにニューヨークまでの切符をせしめてくれた。 ジョンFケネディ空港だったはずが、ニューアークに変わってしまったが、ともかく、ニューヨークの近くではあるので、「あの香港人の親切は一生忘れられない」と述べている。 どうも当時はアジア人全般に偏見を持っていたらしい義理叔父が、いっぺんに偏見がなくなった出来事であったようでした。 ずっと昔の記事に、デンバーで乗り換え、シカゴで乗り換えて疲労困憊した義理叔父がニューアークに深夜到着した後の顛末は書いたことがあるので、ここでは省くが、なぜ長々と書いてきたかというと、昔といっても、それほど遠い昔でもない1982年には、個人が航空券を買ってアメリカに行くのがいかに大変だったか、そのおおげさぶりを、実感して欲しい気持があるからです。 Tweetで、この円安は悪性だから、もし海外に出て行きたい希望があれば、いまが最後のチャンスで、ここからあとは、もうない、と書いたのは、1ドル150円にもなれば、ほとんど、この250円時代に「海外に行く」ということの意味は戻っていくだろう、という気持があったからでした。 Twitterは、ひまつぶしに寝転がってグダグダと森羅万象を述べて遊ぶのには面白くてよいオモチャだが、日本語の空白と省略をちゃんと読み取れない人は、背景知識ももっていなくて、すわワイマールのスーパーインフレが来るか、と身構える人もいれば、頭から「そんなもん来るわけない、ちゃんと95円にまで戻ります」と断言する人も出てくる。 だから、ちょっと記事にして書いておきます。 250円時代と、いまとでは、同じ日本と言ってもいろいろと異なっている。 最大のものは、日本がアメリカにとって変わろうか、という、いまの中国どころではない凄まじい国力の伸長の途上にあったことで、1982年には、もう、なんらかの理由で日本の経済が崩壊してしまうと、一国どころか、アジアどころか、世界中を巻き込んで一家無理心中になるような影響力が強い経済の構造を持っていた。 あんまり大袈裟でもなくて「日本の会社がつくるものがなければ文明の機器は何も出来ない」ところまで来ていたのでした。 だから日本政府が、どんな無茶苦茶をやっても、殿、爺をおもいきり殴りつけて、辛抱してくださりませ、で、なんとか無理を通してやって、経済が傾かないようにした。 いまは、まだまだ一群の筆頭ではあるけれども、「その他大勢の国のひとつ」で、潰れても、なにによらず代役が控えていて、ちょっとよろめくくらいで、日本なんかなくなっても誰も困らない体制が出来ています。 それでもスプレッドが小さいことと対外純資産額がおおきいことが意識されて、特にスプレッドの小ささは世界の経済の先行きが不透明な場所にくると、おおきな魅力で、嵐が通り過ぎる短期のあいだ、資産を円に替えて、嵐が通り過ぎるの待つのが習慣のようになっていた。 有事の円、というやつね。 本所の火事なら「め」組にまかせねえ。 ほおら、この日銀の纏が見えねえか。 ところが、ところーが。 ロシアのプーチン大統領がとち狂って、20世紀的な国権国家意識まるだしのウクライナに対する全面戦争を企図するにいたって、普通ならば円が、ぐぐっ 、ぐぐぐのぐっ、と上がる局面で、ルーブルと一緒に轡を並べてさがってしまった。 初めてなんです。 お手柔らかにお願いします。 やさしくしてね。 純真な少女や少年のようだが、世の中は特にやさしい気持で円を売ったわけではなくて、なにしろ、ぶっくらこいたことに、日本では中央銀行の総裁が金融緩和と呼ぶのも恥ずかしくなるような、はっきり言ってしまえばMMT政策を、これからも粛々と進める、と、口に出して明言するという体たらくなので、アホらしくなって「もう有事の円の時代は終わった」と判断した、ということです。 習慣で曇っていた目が、晴れてみると、目の前に立っている「円」さんは、 なんだかヨボヨボで、皮膚もカサカサで、溌剌としたところがなにもない、老衰で縮んだ市場であって、「市場としての魅力」という通貨にとっての最大の要素が、褪せて、消え失せていた。 一時的な円安ではなくて、悪性の、上がり下がりを繰り返すのか、単調減少なのか、そのどちらになるかは「市場心理」という気まぐれなブラウン運動に左右されるが、幅を5年、10年ととっていけば、必ず右肩下がりになってゆくのは決定的だと判断されている。 最も簡単な理屈は、英語欧州語世界を跋扈しはじめたインフレという怪物と社会が戦うためには、昔から武器はひとつしかなくて、利上げ一本で立ち向かうしかない。 他にいろいろと小手先の誤魔化しは出来るが、例えば5年という幅では要するに利上げをするしか、インフレという、この正体がよく判らない怪物を倒す方法がないので、例えばニュージーランドでいうと、0.25%… Read More ›

  • Música Ligera

        正体もなく酔っ払ってプラヤ·デル·カルメンの街を歩いている。 日本で言うリヤカーみたいな二輪車を自転車で押しているおっちゃんからアイスクリームを買って食べている。 いつもの、タイ人姉妹がやっているバーに行って、金魚鉢みたいにでっかいピナコラーダを飲みに行こうか。 おおげさでなくて何千という数のブランドの棚のテキーラが並んでいるテキーラ店で、主人が勧めるテキーラを買って、El Farroのテラスで、もっともっと飲んだくれてみればどうか。 ぼくは、どこに居たって、「灯台」という名前のホテルと相性がいいんだよ。 El Farro El Far どちらのホテルにも海に面した広いホテルがあって、夜には水平線に近いところにおおきな、ネオンサインのように燦めかしい照明を煌煌と灯した船が停泊している。 38歳になったので、部屋のあちこちの隅にたまった埃のような知識が増えていて、やる気になれば、あの船は公海に出て、夜明けまで開帳するライセンスのないカシノだと、きみに説明してあげることもできる。 どこの国にもあるんだよ。 お堅いので有名なシンガポールにも、サンズが開場する前にもあった。 カシノ? カジノ? ううん、カシノでいいんだよ。 万事に訛っている英語人だからね。 ブラックジャックをやってみるかい? そうそう。 17未満のカードの組み合わせでは、もう一枚ひくのね。 絵札が二枚来たからって、舞いあがって、スプリットしてはダメです。 8やエースが二枚来たらスプリットする。 いちど、中国系の女の人がロンドンのクラブで、ぼくが絵札をスプリットしていれば、テーブルの人全員が勝ったのに、と大声で食ってかかったことがあったが、テーブルの全員が、「なに言ってんだ、あなたは」と怒りだして、ディーラーも「それは、ちょっと」とかなんとかモゴモゴ言っていたら、 フロアマネージャーがやってきて、この大金持ちの中国人は、気の毒に、クラブのメンバーシップが停止になった。 オーストラリアやアメリカのカジノなら周囲の人が顔を顰めて終わりなのだけど、 この人は欧州というところが、どういう場所で、イギリスも、欧州の一部であることを知らなかったのでしょう。 ブラックジャックのテーブルは、最小社会のモデルと言っていい。 参加している人間の見識によって場が決まる。 場が壊れると、どうするかって? みんな立ち去ってしまうのさ。 取り残されたディーラーが所在なげに立っているテーブル。 …正体もなく酔っ払ってプラヤ·デル·カルメンの街を歩いている。 日本で言うリヤカーみたいな二輪車を自転車で押しているおっちゃんからアイスクリームを買って食べている。 いつもの、タイ人姉妹がやっているバーに行って、金魚鉢みたいにでっかいピナコラーダを飲みに行こうか。 東京は、とてもいい街で、ぼくは好きだった。 夏は呼吸が困難になるほど暑い街で、 シンガポールのように、人間がひそひそと、地下に潜って、冷房が完備された地下道を通って、冷房から冷房へ、歩いて行けるようにもなっていないので、耐久度テストみたいな気候で、… Read More ›

  • プーチンの戦い

    「なにを考えているか判らない」 「言動や様子から次の行動の予測がつかない」 プーチンについて書かれたものを読むと、「頭のなかが窺い知れない人だ」という言葉がよく出てくる。 その結果は、プーチンに好意的な人にしろ、「あれは悪魔だ」と考えている人にしろ、次に何をするかが判らない、という結果になっている。 2014年のウクライナ侵攻が、より大規模な今回の全面戦争の予行演習だったことも世界の目は気付かなかった。 プーチンの政治家としての原点は、ベルリンの壁崩壊時の、東ドイツ勤務だった。 KGB支部に向かって押し寄せる群衆に向かって、プーチンの側の証言によれば、たったひとりで立ち向かって、威圧して追い返したという。 現代日本語には「漢(おとこ)」という、いかにも漫画/劇画調の語彙があるが、もとは通りの不良で、柔道と巡りあって、生涯の指針として、いまでも公然と柔道は自分の人生哲学だと述べる体格の小さな人らしい人生のスタートであるとおもう。 このとき、プーチン、37歳。 ネット上では記事を読んでいて、おや、この人は誤解しているのだな、とおもうことがよくあるがプーチンは共産主義を呪うことで政治的な人生を準備した。 この人の共産主義への失望は大変なもので、なにしろKGB時代ですら、親しい友人たちが相手だとは言え、「我々は共産主義と決別しなければならない」と説いてまわったくらいで、ソ連時代の「親しい友人」の危なさを思えば、俄には信じがたいほどの、なんと呼べばいいのだろう、勇気とも言えるし、無鉄砲な向こう見ずぶりとも言えるし、とにかく一身の危険を顧みない行動をとっていた。 エリツィンの時代には、プーチンは「ロシアの西欧化」に向かって、必死に働いている。 KGBをやめたころ、彼の頭には構想がすでに出来上がっていて、非共産化したロシアは、自らの手で開放した傘下の共和国と、東欧諸国にも共産主義的考えを払拭させて、1993年にEUとして結実する「ひとつの欧州」に祖国を参加させるべきだと考えていた。 東欧人は、当然に、「ロシアが我々を共産主義から解放した? とんでもない。我々は瓦解寸前に陥ったロシアから自らの自由を勝ち取ったのだ」と述べるが、異なる観点から歴史的瞬間を眺めていたプーチンにとっては、「ロシアが与えた自由」で、解放後、あろうことか後ろ肢で砂をかけるようにして西側に魂を売り、ロシアを敵役に仕立てて敵対的な国家指針を取り始めた東欧諸国を観て、あまりのやりかたの汚さに呆然としたもののようでした。 「ロシア人は、もともと欧州人だ。アジアに住んでいても、ロシア人が欧州人だという絶対的事実は変わらない」といまでも繰り返し述べるプーチンにとって、自分たちを「半欧州人」と見下して、決して助ける手を伸ばさず、あまつさえ敵とみなす西欧諸国は、目を疑うような薄汚い国家集団に見えた。 「裏切られた」と、何度も述べている。 まるでステレオタイプなロシア人のようだ、というか、一宵、エリツィンがウォッカを飲み過ぎて急性アルコール中毒で昏倒して、生死の境を彷徨い出すと、クレムリンの権力者たちは、マジメで、疑いもない祖国愛に燃え、なんだかスラップスティック漫画染みているが、極めて重要な要件として、お酒もほどほどですませられる、おとなしくて目立たないプーチンに白羽の矢が立ちます。 そのときから、プーチンの頭にあるのは、ずっと「偉大なロシア」「母なるロシア」の復興だった。 かつて自分たちの手で共産主義を崩壊に追い込んだときに、卑怯にも西欧が盗み去った東欧諸国とソ連共和国、なかでも穀倉地帯のウクライナを取り返すのがプーチンの至上命題になった。 初めは軍事手段に訴えるつもりは全く無くて、舞台をG8にとって、ロシア人が欧州人であること、いま小さな援助を受けられればロシアはアジアに呑み込まれることのない欧州のキープレーヤーとして歴史を築いていけることを力説したが、欧州人を文明の精華のように思いなしていたプーチンのイメージとは遠く異なって、日本の人ならば伝説の京都人を百倍食えなくしたといえばいいのか、複雑で、意地悪で、自己中心的な考えしかもたない「食えない」西欧人たちの壁にぶつかって、いくらもがいても、壁に向かって拳を叩きつけても、簡単にいえば「なんだ、このイナカモン」という態度で、毎度毎度あしらわれた。 政治家としての見識が低すぎて問題にならない、あの男は教養がない、と、当時、なんど陰口を言われたか。 G8のユニークな点は、例えば国連の各種組織と異なって、個人と個人が信頼関係をつくって、指導者同士、お互いの個性を理解するための私的な親睦会の趣があることで、滅茶苦茶な指導者があらわれても排除決議などは出さないし、実例に挙げて気の毒だが、あまりの無見識と教養のなさで失笑を買い続けた安倍晋三のような人が紛れ込んでも、自分でメンバーを辞退しなければ、そのまま遊ばせておく。 そういう緩い結合の親睦の場であるのに、プーチンはクリミア侵攻を機に、言わば世界最高の権力をもったお茶飲み会を「脱退」してしまう。 このあたりの行動は、まるで大人の世界に絶望した純真な心を持つ不良少年のようで、うっかり読んでいると、プーチンに心情投企しそうになります。 プーチンという人は、いくつかの王宮のような邸宅に住み、若い愛人と贅沢そのものの生活をしている割に、金銭に恬淡としていて、愛人に関しても、実際に恋に落ちてしまっていたようで、「刎頸の友」のベルルスコーニやトランプとは、人間の純粋度が根っから異なるもののようでした。 プーチンの指導者としての成果は、あんまり報じられないが、赫々たるもので、共産主義を捨てたあと、社会としてのロシアのナイーブさに付け込んで、新自由主義に喰い荒らされた瀕死の経済を引き継いだプーチンは、大統領職に就いた初めの8年間で、ロシア市民の賃金は3倍、失業率は半減、 アフリカ諸国並と表現された貧困は激減して、プーチンが思い描くとおり、ロシア人は「貧しい白いアジア人」から「欧州人」としての相貌を取り戻していきます。 プーチンという人は、ほぼ典型的なアスペルガー族で、極端なくらいマジメで、不正を忌み嫌い、自分が正義と信じるものに、人生を賭けて打ち込む。 当然、怠惰で、自己中心的で、無責任に勝手なことばかり言い募る人間は生理的に嫌いで、このタイプの人が権力についたときの常として、 もう、あんまり手に負えない、こいつは腐ってると感じた人間は、手っ取り早く「始末」してしまう。 プーチンの悪名を高くした「自由の弾圧」は、プーチンからすれば、自分の手で「偉大なロシア」を取り戻すための必要悪ということになるのでしょう。 西欧人と、その清教徒的な巨大な分派であるアメリカ人に対して、プーチンは次第に激しい嫌悪と憎しみを感じていったように見えます。 こいつらは腐ってる、と何度つぶやいたか知れない。 欧州に新しくやってきた人は、初めは文明の底の深さ、まるで文化の伝統そのものが社会を運営しているような欧州独特の個人主義社会に酔ったようになるが、10年20年と住んでいるうちに、まるで底冷えがするような冷たさ、 人間性は上辺だけで、自己以外の人間は「洟もひっかけない」と判って 冷え冷えとした気持に囚われてゆく。 故国の人間の温かさを思い出して、なんて腐った国だと考える人もたくさんいそうです。 日本語ネットで、「プーチンは、そこそこドイツ語も分かるし」と書いている人がいたが、プーチンのドイツ語は準母語に近い水準です。 日本の政治家では森喜朗とウマが合うことで有名だが、心から解りあえる友人だと述べたのはゲアハルト・シュレーダーで、あまりアルコールを飲まないプーチンには珍しく毎晩のように地ビール「ラーデベルガー・ピルスナー」を飲み過ぎて酔っ払っていた、個人としては多分、最も楽しかった人生の時期であるはずのドレスデンでのKGB勤務時代を考えてもプーチンが最も理解しやすい「欧州」はドイツであるはずです。 逆に、ドイツの指導者たちにとってもプーチンは理解しやすいロシア指導者で、その事情はプーチンを「あれは別世界の住人だ」と突き放したメルケルにしても、読んでいて、正しくプーチンを把握していたと感じる。… Read More ›

  • ウクライナ

      (この記事は2014年5月12日に「ガメ・オベールの日本語練習帳 ver.5」に「ウクライナというロシア」というタイトルで掲載された記事の再掲載です) 水木しげるの初期の傑作に「しびとつき」というマンガがあるが、これは、いまではよく知られているようにゴーゴリの小説「ヴィイ」が元になっている。 大学生が田舎の町で一夜の宿を請うと、そこでは若い娘の通夜が行われていて、教会のなかで死んだ娘と朝まで過ごしてやってくれと頼まれた大学生は、夜更けに起き上がった娘の死体に追いかけ回され、娘とやってきた精霊たちから視えないように描いた魔方陣のなかで戦(おのの)いていると巨大な目の姿の土の精霊があらわれて、大学生を指さして、「ここだ、ここにいる」と言う。 英語ではゴゴルというゴーゴリの小説のなかでも極めてロシア的な物語で、読む人間はまるで行間からロシアの土のにおいが漂ってくるような気がして目を瞠る。 ….だがゴーゴリはウクライナ人なのである。 あるいは司馬遼太郎の「坂の上の雲」を読むと、主人公のひとり騎馬旅団長秋山好古が、まるで巨人の集団に立ち向かう子供のようにして、懸命に戦って戦線を支える相手はコサック兵で、まるでロシアの大地の守護神のように槍をかかげて突撃してきては軽々と日本騎兵を槍にかけて屠ってゆくコサックたちはいかにもロシアらしい戦争神として描かれている。 コサックこそはロシアの大地が生み出した勇敢な祖国愛の象徴であって、実際にも戦車があらわれるまでは、神出鬼没、突然前線の後背にあらわれては補給線を断ち、背後から吶喊の声をあげて襲いかかって逃げ惑う歩兵を殺戮して駆け回るコサック騎兵は地上では最強の移動攻撃部隊だった。 …だがコサックもウクライナ人なのである。 フランシス・フォード・コッポラがつくった映画「地獄の黙示録」は大岡昇平のような、うるさ型の小説家の心まですっかり虜にしてしまったらしく、原作の「闇の奥」との比較について、大岡昇平は何度も書いている。 「闇の奥」の小説としての深みについても触れているが、この「闇の奥」は各国の教科書のなかで英語のなかでも優れた文章の例として取り上げられている。 外国語学習の話でよく出てくる話題だが実は作者のジョゼフ・コンラッドが英語を学びはじめたのは20歳を過ぎてからで、職を得たイギリス商船で英語を学んだ。 現代日本語を学んだのであれば「ニセガイジン大庭亀夫」と呼ばれたに決まっているが、コンラッドは28歳で初めての英語小説「Almayer’s Folly」を書く頃には、フランス語、ポーランド語、ロシア語、英語を母語同様に話した。 ところで「ポーランド人」ジェゼフ・コンラッドはベルディチュフという町に生まれて育った。 このあたりの地理に明るい人にはすぐに得心されると思うが、ベルディチュフはウクライナの町です。 …「ポーランド人」ジェゼフ・コンラッドはウクライナ人なのである。 ここからしばらくは人名の羅列なので飛ばして読むと良いが、おもいつくままに挙げても 作曲家のセルゲイ・プロコィエフ、 バイオリニストのアイザック・スターン、ピアニストのスビャトスラフ・リヒテル、画家のイリア・レーピン、舞踊家のニジンスキー、 科学技術ではヘリコプターのシコルスキー、ストレプトマイシンを発見して結核治療に革命をもたらしたセルマン・ワクスマン、60年代初頭のビッグ・バン理論の提唱者セルゲイ・コロリョフ、免疫学という学問を発明したメチニコフ、 文学では冒頭に挙げたゴーゴリに加えてトルストイ、シェフチェンコ、ブルガーコフ、エレンブルグ、 こちらはウクライナ人に言わせれば、ということになるがドストエフスキーもチェホフも「ウクライナ人」である。 えー、でも、このひとたち、みんな「ロシア人」ではないですか? と思った、そこのきみ、きみは正しくはないが、問題の本質を衝いているのであって、そーなんです、ウクライナの悩み、歴史的なくやしさ、というのは要するにそこにこそある。 孫基禎という、日本にとって初めての金メダルだった1928年の織田幹雄の三段跳びメダルから数えて、日本スポーツ史上通算11個目の金メダルを、しかもマラソンでとって後のマラソン大国日本の土台をつくった人がいるが、この人の月桂冠を戴いた写真には「日の丸」を塗りつぶされているものが多くある。 当時は日本の一部だった(いまの)両韓のひとびとが、自分達民族の誇りが、栄誉の場で、日の丸を胸に付けていることに耐えられなかったからで、日の丸を黒々と塗りつぶした写真をジッと見ていると韓国人たちの悔しさが胸に迫ってくるような気がする。 IOCの公式記録はいまでも孫基禎がとった金メダルを日本の金メダルのうちに数えているはずで、ウクライナの事情も、これと似ていなくもない。 ウクライナにプーチンが軍事的強圧を加えはじめた頃、日本語インターネットを見ていると、日本のひとのあいだに「戸惑い」があるのがよくわかった。 「ウクライナって言われても、知らないなあー。ちょっともわからない。誰か有名な人でもいてくれればいいんだけど」と、ゼノフォビアで有名(ごみん)な日本のひとびとにしては、穏やかな、やわらかい視線を感じさせる言葉で、「わからない」とつぶやく、インターネット上の姿を、わしは好感を持って眺めました。 (こうやって書いていても、なぜウクライナに限って、いつもの訳知り・知ったかぶりの俄専門家の類が湧いてこなかったのかは、とても興味がある) 実際には「ウクライナの人って、どんな人がいたかなあー、全然わかんないや」という日本の人のつぶやきそのものが、すでにウクライナとロシアのあいだに横たわる問題を説明しつくしていて、ウクライナ人がどうしても独立を死守したい理由のおおきなひとつは、「ウクライナ人の果実はロシアの果実」とばかりにロシア人たちが、ウクライナが生み出した無数の才能や文化産物に、なんでもかんでも「ロシア・スティッカー」を張ってしまうことにあって、日本が韓国の領土になって、湯川秀樹もスタジオジブリも韓国文化を代表する名前になっている、という状態を想像してみると判りやすいのかもしれない。 (さて、ここからが、ややこしい) ウクライナは「最果ての地」「ど田舎」という意味だが、もともとはキエフ・ルーシです。 キエフ・ルーシはモスクワ・ルーシよりもずっと古くて正統的な公国だった。 だが立地が悪いというか、なんというか、攻められやすい立地に複数言語を話す複数民族の土地という典型的な条件で、蒙古民族の侵攻くらいを境にして、いわば分家のモスクワ・ルーシにお株を奪われてしまいます。 気が付いたと思うが、この「ルーシ」から派生した言葉が「ロシア」で、つまり、本来はウクライナこそがロシアだったことになる。 「またかよ」と言われてしまうが、もう書いているのが飽きたので、このくらいでやめるが、ウクライナと日本は意外な関係があることが知られていて、日本の天皇家の「三種の神器」は起源がウクライナの住人であったスキタイ文化だろう、というのは英語で書かれた日本の歴史を述べた本によく載っている。 そのほかにも騎馬武者のあぶみの飾りがそっくりであったり、中国文明圏の王権の象徴である「玉(ぎょく)」ではなく、藤ノ木古墳から黄金の冠が発見されたように日本の王権は「王」=「太陽」=「黄金」のトルクメニスタン>インド・イラン文明につらなっているのが極めてという言葉では足りないくらい特異で、そういう点からも中国文明圏を北に迂回した経路を通って日本にスキタイ文明が直截逢着したのではないかと考える研究者はたくさんいる。… Read More ›

  • ノーマッド日記8

          (この記事は2011年6月5日に「ガメ・オベールの日本語練習帳 ver.5」に掲載された記事の再掲載です)     1 ウクライナ人たちのダイナーで赤ワインを飲みながらザワークラウトときのこがはいったPierogiを食べたり、ヴィレッジのワインバーでうさぎのポットパイをお代わりして笑われたり、テンプラニーニョでスペイン式のポークチョップを食べて大満腹になったりしているうちに、もう欧州へでかける日が近くなった。 アパートにひさしぶりに戻って来た頃は、まだ摂氏8度くらいで肌寒かったのが、もう28度を越えるくらいになって、初夏の気持ちの良い日が続いている。 「旧交を温める」というが、舗道にはりだしたテーブルで夕食を摂っていれば、もうまる1年会っていなかった友達が通りかかって、とびかかるように抱きついて喜んでくれたり、バーにいれば、後ろから肩に触られて、振り返ると、懐かしい顔が満面に笑みを浮かべて立っていたりした。 ましてヴィレッジなどは狭い町なので、戻ってきたことがあっというまに知れ渡って、毎晩遊んで歩くことになってしまった。 いまはまだ半年、一年と続けて住む気はしないが年をとれば結局はマンハッタンに住むだろうか、とモニと話しました。 マンハッタンは人間くさい街であると思う。 同じ店に三回も行けば、もうバーテンダーはカザフスタンの故郷の町のことを目に涙を浮かべて話し、是非きてくれ、世界でいちばん素晴らしい町なんだ、という。 階上に走っていって名刺をとってくると、自分のemail accountを書いて、きみのもぼくにくれるんだろうな、と要求する。 前にあったときにメールを書くからとゆったのに書かなかったウエイトレスのねーちゃんには、書くとゆったではないかと怒られる。 郵便局に行ってさえ、「この頃見なかったなあ、いったいどこに行ってたの」とコロンビア出身のおばちゃんに半ば𠮟責されます。 「あなたがいないあいだに、Hのバカが汚い手を使って局長になったのよ」 て、おばちゃん、客に内部ポリティクスの話をしてどーするんだ(^^) モニが女友達たちと出かけてしまった午後、わしは一階の受付の脇に隠してあるスケボーを取り出してパークアヴェニューをグランドセントラル駅からユニオンスクエアまで、ノンストップで滑りおりて遊んだ。 すげートゥーティングだったが、知るかよ。 自転車とスケボーは信号を無視するためにある。 欧州に出戻るまでに一度やりたかったので満足しました。 あるいはアパートの屋上に出て、ワインを飲みながら、天気がいいといつも隣のビルの屋上でのんびりしているじーちゃんと話しをした。 「なんという気持のいい日だろう。きみ、そうはおもわないか。 おれの年になれば、もういつでもこの世とはお別れだが、世界はとてもいいところだった。おれは神様に感謝するよ。 人間にも!」 という。 ワインを急いで飲み過ぎたわしは、なにがなし、鼻の奥がつんと来て、しばらく黙ってしまいます。 じーちゃんは上半身裸の胸に太陽の光をいっぱいに浴びて気持がよさそーだ。 マンハッタンには昼間には昼間の、夜には夜の太陽が出て、それぞれ暖かい光と闇で人間を包んでくれる。 夜の密やかな欲望や、小さな狂気、暗ければ思い切ってやれる事ども、甘いにおいがする部屋や、酩酊、物陰に隠れている神の言葉で、誰もが世界について考えてみる。 聞き取りにくい声で話されている言葉や、遠くから微かにもれてくる忍び泣きの声、もっと具体的なことならば、すれちがった二人連れの聞き違いようのない古代ラテン語の会話、地上20階の建物の上からじっと地上を見下ろしている身動きひとつしない男の影、 そういったすべてのものでマンハッタンという街は出来ていて、一度、その内側深くに出かけてしまうと、またその巨大な「柔らかな痛み」のなかに戻ってこないわけにはいかなくなってしまう。 世界でただひとつの「都会」、しかも自分自身の強烈な意思をもつ都会なのだと思う。 ここに戻ってこないひとなど、いるのだろうか? 2 先週はPaloma… Read More ›

  • ロシア人たち

    (この記事は2008年8月27日に「ガメ・オベールの日本語練習帳 ver.5」に掲載された記事の再掲載です。   ロシア人の女の子と付き合っていた頃、「ロシアン・ボール」に連れて行かれたことがある。ニューヨークに住むロシア人が一堂に会して故国をなつかしむのだ、と言う。 一緒に来い、という。 タキシードを着て来い、と言われて例によって例のごとくグズルわっし。 「なあんで、わっしがロシア人の舞踏会に行かねばなんねえの。わし、タキシードとか着ると蕁麻疹が出る体質なんすけど。それに、かーちゃんにも、おまえのように頭はからっぽだけど見た目だけは可愛いガキはパーティになんかに行くと誘拐されてタンジールに売り飛ばされるから行ってはいけません、と言われてるんだけど」 「あなたを、みんなに見せびらかしたいの。あなた、わたしの気持ちが分からないの? こんなにカッコイイボーイフレンドがいるのを見せたいのよ」 「わっし、カッコイイのか?」 「もちろん、ガメは、ゴーーーージャスよ」 「行きます」 (きっぱり) とおだてに弱いわっしは出かけたのであった。   ロシアンボールは、「プラザ合意」で有名なプラザホテル(このあいだ身売りしてアパートになっちったけどな)の一階のボールルームで開かれる。 会場の入り口には、やたら上品な、ばあちゃんがふたりで立っておって、このダブル上品ばあちゃんたちと握手しなければ会場に入れない仕組みになっておる。 「あのばあちゃんたちって、なんだ? ロシアの叶姉妹なのか?」と考える、わっし。 しわしわ叶姉妹。 ガールフレンド(当時)が、さっと耳打ちしてくれます。 「ロマノフ王朝の皇女たちよ。お行儀よくしてね」 うっそぉー。 わっしは心にもないことをするのが得意なので、うやうやしく挨拶をして握手をして会場にはいったのであった。 同じテーブルには、やたら綺麗なおばちゃんがひとりとなんだかロシア版の杉良太郎みたいなおっちゃん。ベルギー人のおばちゃんにフランス人のにーちゃん、あとはロシア人のねーちゃんに、映画監督だとかいう態度のでかいお茶の水博士をせいたかのっぽにしたようなポーランド人のにーちゃんがおった。いま思い出してもあんなに鼻がデカイやつは後にも先にも初めて見た。シラノ・ド・ベルジュラックみてえ。 ところで、この「綺麗なおばちゃん」と話してみると、英語は下手だが話すことに知性が感じられて、わっしはすっかり楽しくなってしまった。 しかも、おばちゃん、語彙は少ないが話題はホーフである。 大学を出て初めて赴任したベトナムから始まってエジプト、東欧、アフガニスタン…. しばらく話していて、「任地が政治的焦点だったところばかりで、まるでKGBのスパイみたいですね」ときわどい冗談をとばすわっし。 ところがテーブルのひとたちが、みないっせいに大笑いします。 「ガメちゃん、このひとはね、ほんとうにKGBの幹部スパイだったんだよ」 と初めは打ち解けにくかったけども、話してみるとなかなかやさしいおっちゃんであることがわかったリョータロースキーのおっちゃんが言う。 さっきからカタコトに毛が生えた程度の英語を駆使して一生懸命話をしてくれていたおばちゃんはモスクワ大学を首席で卒業してまっすぐKGBにはいったばりばりのスパイであったそーな。ゴルバチョフのときにアメリカに亡命してきた。 へー。 わっしは、アメリカっちゅうところは相変わらずどんな人間がいるかわからんところじゃのー、と感心してしまった。 テーブルに座って、踊るひとたちを寂しそうに眺めている女の子に気がついてガールフレンドの許可を得て踊りに誘います。この女の子は毎週末モスクワからプライベートジェットでニューヨークに来るのだと言う。 わっしの知識に照らすと、どっからどー考えてもマフィアの親分の娘ですが、とても気立てが良い。 しばらく一緒に踊って、テーブルに戻ると、まるで小学生のような無防備さで「一緒に踊ってくれてどうもありがとう」と言う。 わっしはなんだか切ないような心配なような気持ちになってしまいました。 「あなたのように綺麗な人は踊りに誘われたからといって「ありがとう」とは、言わないものです」と説明します。 パーティが進んでくると、伝統的な舞踏会を粛々と進める年配のロシア人たちと、それではつまらなくて、ニューヨークならどこにでもある現代的なダンスパーティを楽しむ若い人たちのふたつに分かれてしまった。… Read More ›