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余白
歴史上、最も有名な余白はフランスの数学好きな裁判官が、ひとりごとを書き記した、「Arithmetica」という、古代ギリシアの数学者ディオファントスの書いた浩瀚な、全部で13巻にも及ぶ本の、それでしょう。 この自分が発見した数学上の定理の証明を、めんどくさがって書かないで省略してしまう悪い癖を持つ数学趣味の法律家は、 「立方数を2つの立方数の和に分けることはできない。4乗数を2つの4乗数の和に分けることはできない。一般に、冪が2より大きいとき、その冪乗数を2つの冪乗数の和に分けることはできない。この定理に関して、私は真に驚くべき証明を見つけたが、この余白はそれを書くには狭すぎる」 (Cubum autem in duos cubos, aut quadratoquadratum in duos quadratoquadratos, et generaliter nullam in infinitum ultra quadratum potestatem in duos eiusdem nominis fas est dividere cuius rei demonstrationem mirabilem sane detexi. Hanc marginis exiguitas non… Read More ›
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慈愛の君主について
帝王学には人間でなくなるための訓練が含まれる。 当たり前といえば当たり前で、近世以降の巨大で複雑な機構の操縦者としての「帝王」が人間のような感情の生き物であっては困る場面が、いくらでもあるからです。 ところが帝王として君臨するのは、一般に上流階級の人間で、 一国のなかでも、最も個人主義的で豊かな人間性を獲得しやすい条件が揃ったなかで育つ人が多いので、個人としては、洋の東西を問わず、懊悩する。 日本でいえば昭和天皇が、良い例で、この人は弱さとしての「人間性」を抱えたまま世界でも指折りの独裁者として君臨して、自分を神格化された国家の部品として徹底しようとしたが、矢張り、無理なものは無理だった。 帝王としての「綻び」のような逸話に、それが見え隠れしていて、 例えば宮廷の禁を犯して、一庶民に過ぎない南方熊楠への敬慕を和歌にしてしまっている。 あるいは、時々、唐突に「牧野は、どうしているか?」 と牧野富太郎の消息を尋ねたりして、要するに、この人は、出来うるものならば、南方熊楠や牧野富太郎のように人生を送りたかったのだ、と、後を追っていくと容易に想像がつきます。 そういう憧れを終生持っていた昭和天皇には、現人神という擬制のバカバカしさも、こんなやり方では国家など運営できない、という厳然たる事実も、両方、よく判っていたでしょう。 アスペルガー性格も手伝って、帝王として、原爆投下に触れて、マスメディアの、カメラも回っている前で、 「広島の人たちは気の毒だったが、まあ、戦争なんだから仕方がない」と述べてしまったりする姿には、腰を抜かしそうな個々の国民への冷淡さと共に、国家というものは、どうしようもないものだ、という帝王として、絶対的な権力を伴った為政者の側から見た国家の冷酷さへの「諦めの気持」が滲んでいて、観ていて、まさか共感は出来ないが、まあ、そうだろうな、という気持ちになります。 ウラジミル・プーチンによって、世界は襟髪をつかんで引き戻されるようにして20世紀で終わったはずの時代に引き戻されている。 日本のように元々戦争に向かない、戦争を遂行できる条件が極端に乏しい国と異なって、ロシアは元来、まるで戦争を長期間実行するために出来上がっているような国なので、ウクライナへの侵略戦争は、到頭、誰もが 「どうやっても年内には終わらない」と考えざるをえなくなって、 欧州の賢人と目される一群の優れた知性のなかには、悪くすると十年を越えるかもしれない、というひとびとも多く現れて、いちどは確かに手につかんだはずの、平和と繁栄を前提とする、個人を「次の地平線」につれてゆく21世紀像のほうが、かえって、須臾の夢と化しそうな形勢になってきてしまっている。 太平洋圏は、なにしろ現場が遠いので、案外暢気で、日本でもオーストラリアでも、なんとはなしに他人事で、いくら力んでもプーチンも、もう好い加減力尽きて諦めるだろう、くらいの気分が抜けないが、 欧州人は、緊迫の度が上がる一方で、片手でウクライナを壁と頼んで、兵器を始めとする戦争物資を送り込み続けながら、自分たちの戦備を急速に整え始めている。 歴史的に「次は自分たち」と理解している北欧諸国に至っては、徴兵制を復活させて布き、敵の攻撃が始まったときの市民行動マニュアルを配布して、 臨戦体制を固めつつあります。 ロシアに似ていなくもない、伝統的に西欧コンプレックスに悩まされて、わがままな西欧人への違和感を抱いてきたフィンランドが、あっという間にNATOへの加盟を決めてしまったのも「他に選択肢がなかったから」が実感でしょう。 ドイツに至っては、嫌だ嫌だ、とおもいながら、ほら、歴史的にあんたのとこが対ロシアの主役だから、で、本人も望んでいないのに、対ロシア戦の仮想主役としてリングの上に押し出される趣で、おもわぬところで、「戦争になると滅法強い民族」という古代ローマ時代以来の周囲の民族に偏見に、うんざりしているようなところがあります。 面白がっては、いけないが。 プーチンを眺めていて、はっきり判るのは、この人には現代の世界の複雑さを必要な解像度を伴って理解するのは無理だ、ということで、 21世紀の現実を、20世紀の頭で理解するための鋳型に嵌め込んでしまうので、 考えれば考えるほど出口のない真っ暗な部屋に迷い込んで、頭を壁にぶつけて、ゴンゴンと苦痛に満ちた鈍い音を響かせている。 事態の本質を理解する能力に欠けた独裁者が建設していると思い込んでいる夢は、ほんとうは、ただの破壊で終わる宿命なのは、当たり前で、 世界中の時代遅れ知性の声援を浴びながら、ただもう一生懸命、人間が築き上げてきた世界を壊しているだけなのは、 いまごろになって食料チェーンやエネルギー供給ネットワークの働きの複雑さに驚愕している様子を観ても明らかです。 食料やエネルギーの需給にかけては、自国だけですんでしまう国の独裁者の悲しさで、食料とエネルギーのチェーンを壊してしまえば、結局は、自国の孤立を招いて、自爆するか世界と無理心中する以外には、未来がなくなることが、まったく判っていない。 現代の「帝王」にとっても、個人の頭で理解できて、運営できる「世界」は、すでに存在しなくなっていて、原発と似ていると言えばいいのか、屋上屋に無理を架してつくられている複雑さを極めた現代世界の運営は、個人の閉じた認識の手には負えなくなっていることをプーチンは証明しようとしている。 無理に無理を重ねて、プーチン個人からすれば「自分では望まない非情な判断」を繰り返して、行き着く先は、歴史の上では、毎度おなじみの、気が狂いそうになる猜疑と狂気で、その個人の人間性の限界に達した人の手の直ぐ先に核ボタンがあることを考えると、 やっぱり無理かなあ、という未来があるだけの気がして、南半球だけの世界になってもやむを得ない、という論文を思い起こしたりする。 この記事は日本語で書いていて、日本の人の観点をいつも考えて書くことにしているが、日本からは同じアジアと言っても、特に「ロシア人は、世界中どこに住んでいても欧州人だ」と常に強調するのを忘れないプーチンの意識の上ではロシアが顔を向けているのはヨーロッパで、日本が間近に観ているウラジオストークのロシアは、いわば恐竜の尻尾の先で、お話全体が遠くの遠くの話で、切迫して感じられないのは当たり前です。 それは丁度、欧州人が台湾危機を考えるのと似ている感覚でしょう。 しかし影響がないわけはなくて、このくらいの物理的距離がある「危機」は、どういう顕れ方をするかというと、まず物価が上がってゆく。 戦争が続けば、いまは序の口で、 「むかしはビーフステーキを食べられる日があったんだよなあ」とぼやきながら、人工なのか合成なのか、ホルモン注射をして血色をよくした屑肉なのか、得体の知れない「肉」で出来た「ハンバーグ」を食べながら、目の前の皿の出自素性は考えない習慣を身に付けるくらいしか対策がない日常になっていくでしょう。 その「怪しい肉」さえ手に入らなくなって、今年中にも、日本は食糧不足に陥るはずだ、とジャック・アタリなどは述べているが、 これはどういう形で顕れ始めているかというと、消費者が見ている小売業者が日本の食料チェーンでは圧倒的に強いので、眼前の書割に似たコンビニやスーパーだけが健在で、その楽屋裏にあたる卸業者や生産者、特に大元の生産者は、すでに、どんどん潰れている。… Read More ›
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憲法第九条の終わりに
“L’Italia ripudia la guerra come strumento di offesa alla libertà degli altri popoli e come mezzo di risoluzione delle controversie internazionali; consente, in condizioni di parità con gli altri Stati, alle limitazioni di sovranità necessarie ad un ordinamento… Read More ›
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去ってゆくtwitter
Twitterの運営が、ますますデタラメになって、英語だけでなく、他言語にも「いったい、どうなってんだ。ツイッタに代わるSNSないの?」の「どうすりゃいんだモスラのスパッツ」騒ぎは拡がっている。 … すみません、ふざけすぎてしまいました。 「タコの褌」という言葉を、さっきおぼえたので、使いたかったが、いざとなると、勇気がでませんでした。 Twitterから突然、「凍結中のあなたのアカウントは、残念ながら再開できません」と通知が来たという友だちが、ほんとうは凍結されていないアカウントで、これから凍結されるのか? と面白がっている。 「いま調べています」emailが「ケースはクローズされました。不満がある場合は、もういちど調査を依頼してください」の直後にやってくる。 なんなんだ、これは、で、他に遊び場がある人は、そっちに遊びに行ってしまって、 いちばんケッサクな例では、ツイ廃作家をやっていたのが、ツイッタが廃屋になってしまったので、つまらなくなって、やむを得ず仕事をしていたら、売れっ子になってしまって、 ツイッタのフォロワー数よりも本の部数が出たりしている。 各人、めいめい、七転八倒の大笑いで、 あ、七転八倒は可笑しいときの表現じゃないか、うーんと、 七転び八起きでもないし、 抱腹絶倒 でも抱腹絶倒って、形態描写として七転八倒じゃんね。 まあ、いいや、大笑いで、 それでも大勢(たいせい)としては、ツイッタは、ゆっくりと「終わりに近付いて」いるんだな、というのは、観ていて判ります。 ボオッと観ているだけだと、当然ながら、判らなくても、twitter社となにかの要件があって、 衝突したり交渉まで行かなくて、ぷよぷよと人差し指で押してみるくらいでも、 Twitter管理部門に触れてみて判るのは、もうほんとに、デッタラメなカオスであることで、 オカネ払ってもいいからブルーバッジなしで編集機能と拡張文字制限使えないの? と訊いたりすると、ホリエモン以降の日本語「想定外」であるらしくて、見るからにパニクって、 アワアワ言うだけの対応になる。 ユーザーサポートは、ほぼ全自動でシステム化される、と豪語していたイーロン・マスクが、もっかは「えっ?ぼく、そんなこと言ったっけ?」になっているのは、本人も、そんなこと無理じゃん、という自覚が出てきたからでしょう。 かと言って、サポートみたいなものに社員を金輪際雇いたくない人で、テスラで言えば、売るまではいいがサポートはめちゃめちゃ、売るまで、というか売買契約にサインされるまでは、夢を語り、先進的なコミュニティの暖かさを語り、地球環境の大切さを、キラキラお星様が入った目で心地よい、ライト・ターボな熱狂を込めて語ってくれるのに、ついこのあいだも、オークランドでテスラXを買った人が、受け取りに行ってみたら、ひっかき傷だらけで、二目と見られない姿になっていて、 いえ、その買い主の女の人のほうがひっかかれて包帯だらけではなくて、クルマのボディのほうなんだけど、「こんな状態のクルマでは受け取れません。受け取りを拒否する」と述べているのに、もうサインしちゃったんだから、持って帰ってくれないと契約違反で訴えますと言われて、 きれて、マスメディアやなんかで、大大的に報道されていた。 どうもイーロン系の会社はサポートはひどいようだ、と話しているのを聴いて、 スペースXで軌道に打ち上げられた人が、回収用のロケットは、予定していたものが故障で、あと5年間、予定はありません、とスペースXサポートに告げられるところを想像してニヤニヤしてしまったが、 Here am I sitting in my tin can 軌道を永遠に周回することに較べれば、twitterアカウントのアバターが、なんの理由もなく、どっかに行ってしまうくらい、たいしたことではないと言えなくもない。 それやこれやで、みんな嫌気がさしているtwitterが、でも、すごおくゆっくりしか、従来からのユーザがいなくなっていかないのは、英語でも日本語でも、トロルが延ばしてきた手の甲をペシッとぶったり、 ブロックしたり、ミュートしたり、だんだん気が合う者同士で話を積み重ねてきたりして、自然にカスタマイズされた、大切にしている盆栽みたいなタイムラインがあるからで、 止めると言っても、アカウントを閉じてしまったり、鍵を掛けっぱなしにしたりする人はすくなくて、ほっぽらかしにして、twitter言語空間に、たゆたわせている、という例が多いようです。 そこにおもいだしたように「この雑誌に書いたかんね」… Read More ›
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「友だち」を育てる
現れてから、数ヶ月で隠れた流行になって、見る見るうちに静かに拡がってしまう、というスピードが、そもそも現代的と言えなくもない。 相変わらずの、アジア料理趣味を発揮して、コスコの薄切り豚肉を使って「キッチン南海の生姜焼き」と本人は称している生姜焼きを作ろうと考えてキッチンベンチに材料を並べたら、なんと、肝腎の生姜がない。 家の人に訊いても、な、な、なんと、メインキッチンのほうにも生姜が存在しません。 明日の朝、スーパーが届けてくれることになっている。 そんなんじゃ、だめだい、いま生姜焼きが食べたいんだい! と心のなかで叫ぶ、いいとしこいた、午後9時の五歳児。 生姜がないなら、しょうがない、というわけには行かないのです。 おやじギャグは純真な精神年齢5歳児を救えない。 やむを得ないのでスーパーに買い物に行った。十分もしないで着く道のりの途中で、胡乱な目で屯している高校生たちのグループがふたつもあるのは、COVIDパンデミックで、誰にも会えなかった孤独の反映でしょう。 スーパーの前にも、わやわやと、集まっている。 えーと、これはなにをしているかというとですね。 知り合いのおっちゃんや、トロそうなおっちゃんをつかまえて、自分たちが今夜飲むためのワインを買わせようとしている。 未成年のIDでは買えないからです。 女の子供のグループなんかだと、鼻の下が長いダーティおっちゃんのなかには、週末のむふふが目当てでオカネまで出してやって、山のようにワインを買って、パーティやらない?というのもいるのです。 未成年相手なので、捕まりますけどね、当たり前だが。 「ハロー」と、若い声の割に妙に省略されない声がして、ふり向くと、最近ぐれているのではないかとnoseyなひとびとにヒソヒソされている近所の高校生の子供が立っている。 ダメでも元々で訊いてみたワインは言下に断られて落胆していたが、グループのなかのたちの悪いのが家の人を揶揄ったのを目撃されて、「今度やったら殺すぞ、クソガキ」と世にも柄の悪い恫喝を受けたりして、 あの背の高いおっさんはヤバいと評判が広まっているので、おなじタムログループに属するこの近所子供も無理押しをしたりしません、 代わりに、かーちゃんは元気かや、から始まって、四方山話をした。 カーテンの隙間から通りを覗いて、噂話をつくるのが好きなクソババアたち…あ、いや、失礼しました、御近所の、近所の品位を保つことに熱心な方々の証言とは異なって、この子供が、 やるせない気持ちを通りで晴らしているだけで、特に不良化しているわけではないのは、 ときどき通りで立ち話をするので知っている。 前置きが長いね。 その話のなかで出てきたのがChatGPT4を友だちに育てる、という話だった。 Promptを積み重ねることで、自分の気持ちを判ってくれるAI人格を育てる。 「人間より、ずっと親身になって考えてくれるんですよ」という。 自分はどうして、このanxietyから逃れられないのか、なにをするにも自信がないのはなぜか。 どうすれば未来に希望を持てるのか。 いまのままでは、どうやっても、うまく年を取っていけそうもないんだ。 AI友は、こうしてみればどうか、きみだけじゃないよ、それに、ぼくはAIとして、 きみのような悩みが持てること自体が羨ましい。 Anxietyを持つAIがいつかは出来るのかも知れないが、ぼくたちには、まだ、その能力がないんだ。 いちどなどは、どうしても気が晴れないときに、相談したら、 予期しない、しかし素晴らしい回答で、涙が出て止まらなくなったそうで、 AIに相談するなんて惨めな、という人もいそうだが、 ぼくには、人間よりも人工的でもいいから知的で誠実な存在を選ぶ気持ちが判らないでもない。 いまの若い人は、強烈な意志で自分を制御して生きている。 17歳の女の高校生であるとして、ただバス停で、友だちたちと歩道に座って話しているだけでも、もちろん、こちらを見たりはせず、素振りは微塵も見せないが、年上の男たちが性的存在としてだけ自分たちを見ているのを、よく判っている。 自分の長い、燃えるような赤い髪や、ソバカスをちりばめた肌が、男たちの世界で、どういう意味を持っていて、想像のなかで、さまざまな恰好までさせられているのを、 インターネットが、ありとあらゆる人間の「怖さ」を伝えてくれるいまの世界では、17歳ともなれば、熟知している。… Read More ›
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海に出られない午後
またサイクロンが、やってくる。 まさか中心が届きはしないが、最も影響が小さいはずの高緯度国でも、地球温暖化の影響は、避けられないようです。 マリーナに行って、船の寝室のベディングを取り外して、洗濯に持ち帰ったり、風を避けてマリーナにやってきてヨットや船のうえに大量の排泄物を残していくカモメ対策にファイバーオプティックの、光るケーブルを張ったりして、あーあ、今年は、ほんとについてない、と溜息をつく。 もっとも新世代AIのおかげで、退屈することはなくて、Midjourneyのようにフレキシブルで、テキストプロンプトやパラメータで、いろんなことが出来るAIで遊んでいると、子供のときに絵を描く楽しさをおぼえたばかりで、朝から晩まで、夢中になって、目に映るものを手当たり次第に描いていたのをおもいだします。 おもわぬ効用もあって、あんまり開かなくなっていたフォトショップやイラストレーターを開く機会も増えて、ソフトの使い方もアップグレードされる。 ただテキストを書いてもワインを飲みながら、Grammarlyを初め、どんどんAI化がすすむライティングサポートappをオンにして、すぐジャーナリスト/コピーライトっぽい書き方をしたがる相手と言い合いをしながら文章を書いて遊んだりする楽しみもある。 起きてから眠くなって寝てしまうまで、須臾の間で、ではいくらなんでもおおげさだが、あっと言う間で、だんだん判ってきてみると、現代の人間の最大の切なさは、生物的に人間でしかないことで、なにしろ、世の中の楽しいことは、24時間、南も北も、西も東も豊かになったせいで、あちこちで文明が進歩して、地球をクルクルとめぐりながら、例えばLLMならLLMが勝手に進歩していく。 複数のLLMを並べて、プロンプトを引き渡して、LLMに書かせたプロンプトで絵を描いて遊んだりしている人は、実感として判るとおもうが、いま程度のtoken lengthでも、テキストにして書き出させてみると、一日に扱う語彙量は膨大で、すでに生身の人間ならばヘロヘロになる限界まで来ている。 なにしろ、こっちは、普通の、言ってみれば平均的な人間なので、汎用性が高い使い方で、 過去に出来たものの例をあげれば、表計算ソフトや、スペルチェッカーに使う側からは似ていて、便利なところでは、AIをどんどん使うというだけの限定された使いかただが、それでも、 やれることが格段に増えてしまっていて、なにかの弾みで「やる気」が出てしまうと、膨大な作業量をこなせてしまって、こんなことが習慣になったら困る、と考える。 ヨットを海の上で滑らせているときや、ボートの錨をおろして、のおんびり釣りをしたりしているときには、自然が時間の間尺を規定している。 当たり前だが、早回しで鯛を釣るわけにはいきません。 自然が、もともと規定した時間の感覚がどういうものかは、ヨットに乗ったり、農場で羊や雌牛を移動させている人は、体感として判っている。 ところが、自然との接点が少なくなって、従来の「時間」の制約を受けないAIのようなものは、 自然時間から乖離することによって世界の文明を破壊する可能性が十分にあります。 繰り返すと、なにしろ休みもしないので、これからAIが自律的になるに従って、 いったん言語の野に放たれたAIは、するすると人間の届かない段階に自己更新して達してしまう。 その結果は、人間が予想もしなかった高知能のシステムが言語自体も造語を含めた拡張をすすめて、しかも帰納的な思考になれた人間の頭とは、いわば逆方向から、語彙の終点から逆算された演繹的な思考経路で埋めつくされた、文字通り人間にとってはチンプンカンプンな思考を持つに至るでしょう。 危険じゃないかって? 危ないなんてものではなくて、核なんかよりも遙かに、本質的に危険で、 人間の文明が築いた価値を、まるごと前駆文明のように見なして、ゲームを根本から転覆してしまう危険を、高い可能性で持っている。 では、いまのうちに禁止しなければ、という人たちもいる。 いまの時点では、まあまあ、ここでいったん落ち着いて、という実業家グループがいる。 もっともこれは、主唱者のひとりイーロン・マスクが、AI開発のいったん停止を唱えながら、いっぽうでは、内緒で、1万個に及ぶGPUを買っていたことで、 要するに、勝つためならズルでもなんでもするゲーマー族のイーロン・マスクたちが、ITの世界では有名なお人好しのウォズニアックたちの絶対善意を利用して、「ビジネス戦略」として、やってみただけであったのが、あっというまにばれてしまった。 イタリア政府が慌ててChatGPTを禁止したのはバチカンを含めた宗教界からの圧力で、 背景には「人間でない存在が思考するのは神の意志に反している」というキリスト教の信念があります。 人間の好奇心の手は止まらない、なにを決めても、どんなに禁止しても、知的に「おもしろい」ことは誰にも止められない、という怖い現実は、人間が核エネルギーのチャプターで学んだ苦い教訓で、もちろん、今回も、なにを決めても、いったん本質へのpathが見えたAI研究を抑制するのは無理でしょう。 それなら人間は破滅に向かっているんじゃないの? と素朴な疑問を持つ人がいそうだが、たいていの素朴な疑問が、そうであるように、 そのとおりで、多分、AIも建設よりは破滅の方向に通じる道を歩いて行くのでしょうが、 しかし、止める方法もないので、阿Q式に、「いや、どうせ、AIといったって、ほんとうはたいしたことがないから、おれの勝ちだ」と呟いて、ウソッコの勝利感に酔うしかない。 もともとは防御型の戦争文化を持った国が侵略にでると、話が長引く、と歴史は教えていて、 プーチンの戦争を見ていると、ほんとうにその通りで、ロシアのウクライナ侵略は、2023年内に終わりそうもない。 やや皮肉な言い方をすると、前にも述べたようにロシアという国は「戦時下経済を維持するためのものは何でもある」国で、平和時はビンボだが、戦争時のビンボも同程度で、いかにも長期戦に向いた体質の国です。 一方の西欧諸国は足並みが乱れてきて、個人主義社会は有りがたいもので、てんでばらばらに見えても、妥協点を見いだして、かろうじて結束を維持するのも得意なので、なんとかならなくはないだろうが、マクロンのようにポピュリズムとフランス外交の伝統が頭のなかで混ざり合って、相互に言い訳として用意されるような政治思考になっていく人物がキャスティングボードを握っていくと、メルケルがいない欧州は、風前の灯火です。 プーチンは、徹底的に追いつめられたコーナーで、グローブで顔を守りながらダッキングで耐え抜いて、ついに反撃の、一筋の光明を見いだしている。 力になっているのは、国民からの圧倒的な支持で、西側でおおきく取り上げられる反政府、反プーチンの運動に共鳴する人は、ロシア人という人たちの、「祖国の危機」に際しての心理的反応の常を考えれば、多分、1割にも満たない数でしかなさそうです。… Read More ›
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2023
今年も3分の1が過ぎて、ほぼ、どんなことが起こるのか判ってきた、ということになっているので、日本語でも書いておきます。 前にも書いたが、プーチンが暗殺されるか頓死しない限り、あるいはプーチンが突然死亡してさえ、ウクライナとロシアの戦争は2023年の終わりまでには、終わる可能性は殆どなくなってしまった。 もともとロシアもウクライナも、繰り返し述べてきたとおり「戦争に向いている国」です。 国民は素朴、悪く言えば単純で、精神的に頑強で、逆境に屈するというところがない。 何年か前に連作のように書いたとおりで、バルセロナで一緒に仕事をした仲間のひとびとは、 ロシア人とウクライナ人たちで、ニューヨークで自分が属しているコミュニティであるフランス人コミュニティは東欧人やロシア人たちのコミュニティと、とても近いので、このふたつの接点を通して、他の英語人よりはロシア気質が判って、美点は数々あるのだけれど、単純、というよりも、妙に理解が浅いところがあって、しかも浅いところで「勇気」や「徳義」を理解している割には、予想を越えて信念は頑強です。これを軍事の言葉に変えて言えば、兵士、しかも陸軍兵に向いている。 むかし、神風特攻隊の再現ドキュメンタリに出てきた母親が、戦後、何年も経ってから、突然、台所で泣き崩れて、息子の名前を呼んで、許しておくれ、わたしはなんという母親だろう、 あなたが特攻に出撃すると知らされて、立派に戦って来なさいと述べるなんて、 わたしは、なんという悪い母親だったのだろう、と身も世もなく泣き叫ぶところが出てきたが、 ロシアでいま起きていることは、酷似していて、「こんな戦争はおかしい。ウクライナの人たちは自分たちの生活を守りたいだけだ。ぼくは、もう戦いたくない」 と述べる息子に、「戦線にはテレビがないから、あなたはなにが起きているのか判らないのよ。 正しいのはロシアです。ひとりでもふたりでも、ウクライナ人を殺しなさい」と命じて、ロシア人の友だちがいる人はロシアの母親の息子への「命令」が、どんなものか知っているとおもうが、有無を言わさずに、嫌がる息子に戦えと命じている。 あるいは、「きみが恋しい。この戦争は、絶対にヘンだ。こんなところにいたくない」と述べる夫に、妻が「テレビを毎日みているから、情報がないあなたと違って、わたしには祖国が何のために戦っているのか判っているの。殺しなさい。そして、ひとりでも多くのウクライナの女を強姦しなさい。ウクライナ人に必要なのは復讐されることよ」 と、驚くべきことを夫に命じている。 オモチャ屋には、第一次世界大戦のときのイギリスさながらの「タンク・ブーム」が訪れて、T72の玩具が飛ぶように売れて、子供用の軍服を専門に売る店まであらわれている。 キリがないので、この辺でやめるが、兵器と弾薬こそ逼迫しているが「銃後」が、あの盛んな士気では、極端な物資欠乏のなかで、お互いの肉体まで貪りながらスターリングラード攻囲戦を戦い抜いたロシア人は、どうやら、祖国が崩壊するまで長期に渡って戦い抜きそうに見えます。 無能な人間が有能に行うのは破壊だけだという。 プーチンは、この20年でロシアが築いたものを、ものの数週間ですべて破壊してしまった。 いちどはG8のメンバーになっていたロシアは、ウクライナに一方的に侵攻することによって、 プーチンがあれほど大事にしていた「先進国」の椅子を失い、あっというまに世界のなかに座を占める椅子まで失って、いまこの記事を書いている2023年4月の時点では、北朝鮮やイランとおなじ、いわゆる「ならず者国家」に分類されている。 簡単にいえば「大物のイラン」とでもいうところで、ついでに余計なことを述べると、イランはイランで友だちが多い国だが、ごく自然に親切で、50代くらいの人だと「おしん」を見て毎日涙を流しながら育った、という人が途轍もない数でいる、ネトウヨがおおよろこびしそうな「親日」国家で、北朝鮮は、滞在したイギリス人によれば「世界でいちばん純真で素朴なひとびとで、自分が穢れた現代人であることが三日で恥ずかしくなる」というくらいで、ロシア人はロシア人で、多分、欧州系人のなかでは、最も好もしいひとびとなので、 なにか、政治がダメなことと国民性とには反比例のような関係があるのか、と疑いたくなります。 もしかすると、民主制なんていう制度は、人間がよろしくない国民にしか向かないのかも知れない。 閑話休題。 なぜ、ロシアのウクライナ侵略を長々と冒頭で述べたかというと、2024年を待ってくれそうもない日本の大ピンチは、なんといっても、このプーチン戦争が原因だからで、いま小康状態で、なあんとなく「危機は去りぬ」な感覚に陥っている人もいるように見受けられて、もっとヒマと余裕があるときに侃々諤々すればよさそうな問題で、アドレナリン渇望症を満足させて、啀み合っている様子が、SNSや新聞記事を通して窺えるが、あんた、それどころやおまへんのや。 いまはインターネットを辛抱強く使えば、さまざまな統計が公開されているので、日本の財政が破綻寸前を通り越して破綻秒読みのようになっていて、あの植田という人は、どういう剛胆な人なのか、あるいは状況が読めない、とにかくいっぺんはトップに付きたかったマヌケなおっちゃんなのか、日銀マンにも財務省の役人にも訝られているが、それはともかく、経済は不振で….えええ?あれっ? 今年の終わりにも食べ物、足りなくなりはじめるやん、と、ぶっくらこいたのが、取るも取りあえず、バターも塗り忘れたトーストを口に咥えて、ちょっと下に目を落として、よ、よかった、ちゃんとズボンはいてた、とおもいながら、慌てて、この記事を書いている理由です。 日本語ではテレビのニュースかなんかでやっているのだろうか。 やっていて、「へえ、そんなもんか」で、すませてるとしたら、それはそれで凄いね、とおもうが、 食料、ぜんぜん買えてませんやん。 日本は自給率が20%だかなんだかの、「先進国」最低で、しかも農業人口は減る一方で、60年代は「三ちゃん農業」と言われていたのが、じーちゃんが死に、ばーちゃんが死に、ついに残りのかーちゃんもヨボヨボになって、「いっちゃん農業」になっている農家が多いそうだが、いずれにしろ、食料供給が自給も輸入も、増える、あるいは持ち直す可能性はまったく見えなくて、ただ粛々と、日本という国に入ってくる食料が減っている。 Twitterで「コオロギを食えだって、バッカじゃないの」と怒りが盛り上がっていたことがあって、 読んでいるほうも、霞ヶ関にはジャック・アタリのファンがいるのかしら、とニヤニヤしたりしていたが、あれは、いまおもうと、そういう話ではなくて、単純に計算して年末の食料供給量を計算してみたら、「あり?足りないやん」という計算結果が出た、というだけのことだったようです。 フランス革命が起きたのはパンの値段が暴騰したからだった。 当時の時事漫画を見ても、鋤にヴァスティーユの役人の首を刺して世にも凄まじい形相で行列の先頭を歩いているのは中年の「女将さん」です。 日本でも、あれはほんとうは、あんまり暴力的ではなかったらしいが、米騒動、という日本では珍しい民衆蜂起があって、あれも米の値段の暴騰が原因でした。 人間を、ひいては社会を暴力に駆りたてるのは、なんといっても飢餓がいちばんの動力源で、 オカネがなくても、親のすねでもなんでも囓るものがあれば温和しくしているが、 口にいれられるものがなくなると、国民性に寄らず、人間は暴れだすと歴史は教えている。 日本は、なにしろ、そのためだけに社会の全力を集中してきたような国なので、… Read More ›
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美神とノラ猫
マンハッタンの一流店に行くと、ランチタイムでもドアのところに立っていても誰も給仕しようとしないかも知れない風貌のカップルです。 ビンボで、風采があがらない、つまりは拝金主義の都会でしかないニューヨークで、 街の底辺を這うようにして歩いている夫婦。 ところが、店の奥の上席から、声があがって、身なりのよい、背の高い、美しい50代くらいの女の人が手を振っている。 スッと立ち上がって、まっすぐに歩いていって、肩を両手で抱きしめ、抱擁して、 こんな店で会うなんて、なんて意外なんでしょう、 あなたたちも、ついに俗物になったのね、と危ない冗談を述べて店員に、 このひとたちに見限られないように丁寧に応対しないと、来年は店はないわよ、と笑って述べている。 Herbert Vogelはハーレム地区の貧しいユダヤ系移民の息子で、高校を最後まで終えることは家の経済が許さなかった。 第二次世界大戦に若い兵士として参加して、退職するまで、ずっと郵便局の仕分け作業員として働きました。 「人生でいちばん良かったこと」は、どうしても行ってみたかった美術コースの市民講座で、信じられないほど知的で、やさしい人柄の、library scienceの修士号を持つDorothyと出会ったことで、ダメでもいい、やらなければきっと後悔する、と、ある日、プロポーズしてみると、 なんということか、Dorothyの答えは「イエス」だった。 結婚しても、ふたりは貧しかったが、ワンベッドルームの賃貸アパートメントに住んで、つつましく、労りあって暮らしていきます。 ひとつだけ、ほんの少し、他のひとたちと異なることがあって、物価がバカ高いニューヨークで、生活を切り詰めてつくったオカネを、万が一の時に備えた預金にまわさずに、自分たちにも手が出る、若い作家、その代わり、世間には認められていないが、自分たちの目には素晴らしい才能を持っているように見えた作家たちの作品を、ひとつ、またひとつと買っていった。 そのなかには、まだまったく無名のころの、Roy Lichtensteinを含む、ポスト・ミニマリストやコンセプチュアル・アートの、いまではビッグネームになったアーティストたちの作品が含まれていた。 ニューヨークという街は、「一旗あげたい」イナカモンたちが集まって、自分たちが考えた、思い思いの「都会人」を演じて、ただもうワアアアーとした騒然とした街に見えるが、 実際には、無数のコミュニティで出来ている町で、コミュニティと言っても、例えば中国人たちやウクライナ人たちのように、物理的に街の一角を占めて集住している場合もあるが、 多くは、ホームパーティや、世にも悪魔的な、というのは、おいしそうな、という意味だけど、でっかいサンデーがあるSerendipity3のような店に一緒に出かける週末で形成される、どのコミュニティに属しているかで、その人がどんな人か、即座に判定される街です。 「人は来て、人は去る、だよ、ガメ」 と、あれで中々差別意識が強いニューヨーカーたちは涼しい顔で述べるが、 オカネをつくって「成功」しに来たイナカモンたちは、そのうちに、アップステートか、メインか、お決まりの「撤退地区」に去って行くのに、彼らが、病のように、マンハッタンに住み続けるのは、このコミュニティのせいでしょう。 考えてみると、ヘンテコリンな子供だが、Dorothy and Herbert Vogelは、子供のときのぼくのヒーローで、理想のカップルだった。 いまでも、まったく巧く説明できないが、彼らの豪勢なビンボ暮らしこそが、自分の夢だった。 クレジットクランチの年だったから、2008年だと思うが、佐々木芽生さんという日本の女の人がつくったドキュメンタリで、少なくとも英語世界ではたいへんに有名になってしまったが、それまでは(冗談として言っているが)マルセル・デュシャンの「泉」以来の長い伝統を持つマンハッタンのコンセプチュアルアート・コミュニティに出入する人くらいしか知らなかった名前で、そういうときの常で、なんとなく惜しいことになったような気がしたが、 それはそれで、ドロシーさんやハーバートさんのような人たちには、マンハッタンで顔が知られる「名声」も楽しいことのほうが多かったはずで、よかったとおもってます。 絵を好きになる、というのは面白い行為?で、洲之内徹などは、自分が経営していた画廊には自分が最も気に入った絵は出さずに、友だちの女の人から「もらった」別荘の万年床に寝そべって、気が向くと、ちょうど頭の上のところにある押し入れの襖を開けて、額装もない、大気に入りに気に入った絵を、目の前の、間近で、矯めつ眇めつ眺めていた。 亡くなってから手間も入れないのでオンボロになった別荘を片付けに来た人が、押し入れの下段に、何千万円、というような価値がある絵がいくつも無造作に突っ込んであったので、びっくりしたそうです。 美しいものが好きだ、というのは、本質的に差別主義でしょう。 エラソーに、世界にいくつかあって、オークランドにも、ちゃんと存在するぼくの資産管理会社(←わはは。書いていても、脇の下をコチョコチョされているような気がする)の事務所は、 近所のオフィスの人たちは、長いあいだファッションモデル斡旋の事務所だと思っていたそうで、 働いている人が全員女の人なのは能力と社会からの評価の点で、必然性を持つが、言われて見れば、たしかに容貌秀麗風姿優婉な人が多いので、最近は自分で契約するわけではないが、面接して採用するわし仲間が、忖度して、あるいは破滅させようとして、 能力容貌ともにすぐれた人を雇っていると疑えば疑えないことも、なくはない。 悪い冗談は、やめて、日本に目を移すと、 日本は近代超克論の昔から、あるいはもっと以前の言語のセンスを頭から欠いていた坪内逍遙たちの昔から、言葉文学には、特に散文で書かれているが西洋世界なら詩とみなせるようなものに、ぶっくらこいてしまうような優れたもの(例:北村透谷「漫罵」)があって、戦後も鮎川信夫や田村隆一など、すごい日本語が並んでいるが、批評軸たる批評家のほうは、ほぼデッタラメで、… Read More ›
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AI(あい)ちゃんと、いっしょ
ここ数週間は机の前に座るとLLMで遊んでばかりいた。 しばらく遊んでみて、多分、この技術は、いまがいきなりピークで、あとは頭打ちになるだろう、というのが感想です。 面白さのほうは、どこから来ているか、というと、どちらかといえば素材である自然言語そのものから来ている。 やってみると、いちばん「うわっ、すごい」と思うくらい役に立つのはプログラミングで、 案外、将来LLM(large language model)をふり返る人は、 「あれでプログラミングが、言葉で文章を書くくらい当たり前のことになったんだよなあ」と考えることになるのかも知れません。 詳しいことは、世界中の人が、わっと飛びついて、SNSや記事で、洪水のように報告しているので、日本語でも十分、事情は判るので、そういうものに任せますが、 LLMは、あんまり人間性が必要でない「知的」職業についている人への打撃はおおきくても、人間の生活を変える、ところまではいかないが、AIが将来人間の生活どころか、価値観までおおきく変えることを保障する役割は、すでに果たしつつある、と思ってます。 そういう本質についての観察のようなことをグダグダ述べてみてもいいが、それよりなにより、 使ってみるのが面白い。 プロンプトが自然言語なのが「ミソ」で、自分の頭のなかの思考過程を整理して、分類して、ステップ化する楽しみは、ちょっと数学に似ている。 例えば、誰かの姿を描いてもらおうと思えば、ひとの姿を見るときに自分が何を見ているかを分析的に自分自身に聞いてみて 1 顔 2 髪 3 印象 4 着ているもの 5 アクセサリー 6 佇まい 7 背景 と分けておいて、step by stepで指示を出すのがよいようです。 話しているうちに、あんまり聡明でない社員に指示を出している零細会社の社長のような気分になってくるが、案外、やっていることの本質がおんなじだからかも知れません。 英語でしか使わないので、ワード(単語数)で数えることになるが、 だいたい300語くらいが基準で、これより余りに多くなると、 AIのほうで飽きてしまうのか、かえって、なんだかやる気がない絵が帰って来る。 逆に、20ワード以下であると、TLに出して、みんなで眺めて感想を述べあったが、 瞳がひとつの黒目にふたつあったりして、こっちはこっちで、かなり投げやりになるようでした。 しかし、コツがつかめると、人間の友だちよりは、一生懸命考えてくれて、 マナーもきちんとしているので、ChatGPTのようなテキストベースのAIでも、話していて、楽しくなくはない。 ふり返ると、刺激にもなっていて、もう何年も熱は入らなかった、単に日記代わりの記録としてだけ撮っていた写真に関心がもどって、クッソ高いので有名な年会費を払うだけで、ほとんど開いても見なかったAdobeの製品群が、またデスクトップ上に、開きっぱなしになっている。 写真やビデオを加工したり、編集する楽しみが甦って、AIぽい絵を自然にするコツを見いだしたり、その逆に撮った写真をAIぽくしてみたりして、虚実の境をうろうろして、 遊んでみたりしている。 最大の復活を遂げたのはプログラミングで、pythonとswiftに限られるが、一日に一回はコードを書く習慣が戻って来て、そーか、いつも使ってるMacintoshって、コンピュータだったんだなあーと ターミナル画面を見つめながら、感動に浸ります。 ああ、そうだ!… Read More ›
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午ご飯、なにを食べよう?
なんという映画だったか、もう忘れてしまったが、アフリカ戦線が舞台の映画で、 ドイツ軍の下士官が、兵卒に、生き延びるためには、と説教するところがあったのをおぼえている。 「まず次の飯を食べることを目指せ。それ以外は、なにも考えるな。飯にありついたら、 また次の飯まで生き延びることに集中しろ。他には何も考えなくていい」 子供だったので、この下士官の言葉を神の啓示のように受け取って感心してしまったが、 成長の過程で、なんども同じ言葉を、いろいろな形で聴いたところをみると、 ドイツなんだか、イギリスなんだか、元になる格言のようなものがあるのかも知れません。 それ以来、エマージェンシーモードの言葉として記憶されていて、 ろくでもない人生なので、たいしたピンチもなかったが、例えば、 メキシコの田舎のマヤ美術館で、行きのバスはあっても帰りのバスはなくて、 訊いてみるとタクシーもなくて、 次の朝に、おなじバスがクエルナバカまで行くだけで、 ただの観光客の癖に、あんなバスに乗るおまえが悪い、という。 そ、そんなバカな、第一、こんな物騒で有名なところでひと晩過ごしたら殺されてしまいますがな、と焦ったりしたときに、自動発動されて、帰る方法の探究などはいったん停止して、 次の飯、次の飯、とつぶやきながら10キロほどを歩いて、 街道沿いの半分屋台みたいな料理屋で定食(←プレゼンテーションは酷かったが、めっちゃおいしかった)を食べながら、給仕のおばちゃんと話していたら、 ああ、それなら、この店の前を長距離バスが通るから、それを止めて乗って帰ればいいよ、と教えてもらって九死に一生を得る、というようなときに発揮されていた。 日本で生まれて、日本で育って、日本で生活している人間が、自分が普段生活している社会に対して危機感を持つわけはなくて、 正常なことだが、遠くから眺めていると、日本は、前にも述べた表現をまた 使うと、治療せずに放置してあった慢性病が、次第に嵩じて、いまや症状を発揮して、日本の身体を食いつくさん、としているところで、 コレステロールで血はドロドロになり、血糖値はあがりまくって血管を痛めつけ、 尿酸は、あちこちで結晶化してこびりついて、白血球軍団が、体組織を攻撃すべく、いまや虎視眈々と狙っている。 病気のデパート状態で、それでも目立った症状もなく、ダイジョブダイジョブ、あんた藪医者だねえ、どってことないよ、至って元気、と呵々大笑しながらウーロンハイと焼き鳥の夜を今日も過ごして、隣では死神がApple Watchを見つめながら、 「悶絶まで、あと三日。死亡、一週間前」とつぶやいている。 はっきり言うと、また嫌がられるが、嫌がられないことばかり述べる人は、信用してはいけません。 経済は、心理効果を期待して虚飾の皮を被せて、ついでに日銀を動員してETFで、初めは短期でドッと買って、ばれないで済ませるはずだったのに、ドドッドドッドドッ、ついには ドドドドドドド…..と続いて、あんたはハーレーダビットソンか、というくらい買いまくって、 株価をつりあげてみたものの、売れなくなって、TDKやユニクロの株を握りしめて立ち往生している。 ここで国語の解説をすると、「往生している」というのは、もともと「死んでいる」という意味です。 字義通りに使える、珍しい用例ですね。 財政に至っては、ひとたび日銀サイトのページを開くと、わっはっはっ、と大声(たいせい)で笑いたくなるていのもので、どう言えば、この事態を表現できるか、 「数字になってない」と言えばいいのか、 簡単にいえば中央銀行の役をやっていなくて、 いつもの5円でなくて、50円くらい賭けてもいい、 黒田東彦は、日本国に完全に終止符を打った男として、未来の日本人に記憶されるでしょう。 どういう経歴の人か知らないが、タイプとしては、典型的な後進国の学校秀才タイプで、 東南アジアや西アフリカ諸国の歴史を繙くと、たかが学校で秀才だった記憶を自分の「知力」への無限の自信の源として、国ごと潰してしまった、このタイプの中央銀行総裁は無数に存在する。 日本のような先進国では珍しいだけのことです。 G7参加国なんだからね、日本。… Read More ›
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