日本語の本を出してくれた編集者は、いなくなる前に、
「自分の手取りは12万円しかない」と、よく怒っていた。
え? たったそれだけなのか、と、びっくりしたが、
貧乏講座を書いてみると、
「わたしも、そのくらいしかもらってない」という人が、たくさん現れて、
まさか訊ねてみるわけにもいかないが、いったい、どうやって暮らしているのだろう、と訝しくおもうことになった。
日本のことだから「ボーナス」というものがあるだろう。
この、なにがなし惚け茄子のような響きの一定しない「特別にオカネをあげるから喜びなさいね」という年2回の特典給与をあわせれば、いくらなんでも200万円は超えるのではないかとおもうが、まあ、バイトの原稿書きをしたりして、なんとか手取り360万円というようなところまでアップアップでも、犬かきで泳ぐようにしてでも、なんとか持っていって、1ヶ月に均せば手取り20万円という実入りにしたところで、しかし、家賃というものがあるのだから、そこで、もう「食えない」ことは決定であるような気がする。
恐ろしいことに、手取り360万円、則ち年収400万円ちょっと、というような人は、日本では普通のように見えます。
いったい何の話をしているのかというと、ウクライナへのロシアの侵攻で、ひまわり油は、ここ数ヶ月でどのくらい上がったのかGoogleのbardに訊いてみると、50%以上上がっているのだという。
重ねてBardに訊ねてみると、案の定、カノーラ始め植物性油も玉突きのように50%上がっています。
理由の箇所を見ると
The war in Ukraine: Ukraine is a major exporter of sunflower oil, accounting for about 10% of global production. The war has disrupted the supply of sunflower oil from Ukraine, leading to higher prices.
Drought: Drought has affected major vegetable oil-producing regions, such as Argentina and Brazil. This has reduced the supply of vegetable oil, leading to higher prices.
Increased demand: Demand for vegetable oils has been increasing in recent years. This is due to a number of factors, including population growth, rising incomes, and a growing preference for plant-based foods. The increased demand for vegetable oils has put upward pressure on prices.
と書いてあって、自分の都合で英語でごめんね、という気がするが、Bardは確か日本語も対応しているので、日本語で訊けば日本語で同じ答えが返ってくると思われる、ウクライナの戦争ももちろんだが、天候不順と、世界人口の増加による需要の増大も理由に挙がっていて、ウクライナの戦争が終わっても一朝一夕に価格が下降に転じる、というものではないようです。
洪水はわが魂に及び、という大江健三郎の小説があるが、
値上げはわが家計に及び、とただちにならないのは、日本の食品流通チェーンには「小売が圧倒的に強い」という特徴があって、ここが、「お願いしますよ。ここで、せめて20%挙げられなかったら、わたしら食べられない」と言われても、「絶対ダメ。企業努力で、そこをなんとか、いまの価格を維持してください」と、ごく丁寧な口調で、しかし絶対の命令を出しているからで、普通ならここで働くのは中間業者排除の法則だが、日本では中間業者のほうが生産者より強いので、結局、卵とつくったり、肉牛を養ったりの生産者に洪水は逆流して、もっかは例えば育牛農家が、バッタバッタと倒れているところなのでしょう。
そうすると、どうなるか。
高いも安いも、食品が手に入らなくなるよね。
SNSのタイムラインで、いろいろな人がこぼしているように、価格が同じに見えてもパッケージは小さくなっている。
縮みに縮んで、以前の半分なんてのもザラにある。
そのまま縮んで、最後はチョコでなくて、チョコの微分のようなものになって、スーパーにチョコを買いにいくと微分されて目には見えないおおきさになったチョコが並んでいる、ということになるのではないか。
前にも書いたように、ジャック·アタリなどは、「日本人は今年度中にも飢えるだろう」などと怖いことを言う。
もっと楽観的な人を探して、投資家みたいなノーテンキな人なら、もっと「いい」ことを言うだろうと考えて、投資の世界ではネトウヨの人々が喜びそうな親日おじさんのジム·ロジャースに訊いてみると、
「日本の若者よ。トラクターの免許を取っておけ。そうすれば自ら農業をおこなって生きていけるからダイジョーブだ」、と力強い明るいお言葉を聞けるが、農業をやらない場合は、やっぱり今年ちゅうにも食料不足に陥る、と考えているようで、よく考えてみると、そんなに明るいお言葉とも言われないようです。
そこに黒田東の置き土産の円安で、降任の植田総裁もイールドカーブを維持する、という「へ?」な方針を発表して、やっぱりいま程度の円安では、ダメだということになって、じりじりと円が対ドルで下がりだす。
理由は前には説明して、また説明するのは嫌だが、いまの日本で適正な対ドル為替レートは85円でも130円でもなくて、110円内外でしょう。
いま見ると、今日でUS1$=138円なので、およそ2割、テキトーな言い方だが収入の「見た目」よりも少ないことになる。
最後に110円だったのは2021年なので、3年前にすでに月20万円の給料をもらって生活していた人は、大雑把に述べて、ほんとうは月16万円に低下した収入で暮らしていることになります。
やっぱり冴えないよね、日本の人、と思って、なんとはなしに日本語ニュースを眺めていたら、電力7社値上げ認可される、と書いてある。
東京電力で16%。
北陸電力は、ぬわんと、40%
日本の人は、物わかりがいいので、怒ったりはしません。
Twitterで見ると、「冬の前でなくてよかった」
「諸物価値上がりなのだから仕方がない」
という意見が多いようでした。
でもね。
電気料金の値上げは、日本では、昔から物価値上げ攻勢の狼煙の役を担っているんです。
「よおし、フェーズが変わったから、もう我慢しないでいいよお。
値上げで、GO!」
という意味。
政府としては、今年は散々企業に圧力をかけて、賃上げをやらせて、5%、6%、おおきな賃上げがあったのだから、もう国民も値上げを納得するだろう、という読みでしょう。
いつもは国の経済の説明に入るところだけど、今回は、やめましょう。
この値上げ開始は、現実には、「弱い者は、切り捨てる」という政府の決心を示すものだからです。
国がたいへんなのだから、もうやむをえない。
餓死する人も出るだろうが、臨機応変に対応して、目立たない程度に抑えるしかない。
遠くから見ていて、すごいことを考えるなああ、とおもいます。
社会がまず富んでから個人に還元する、という社会では、社会が富むまでは個人に犠牲を強いるのは、理屈の上で当たり前だが、
「擬制を強いられる」ほうは、理屈ではすまないので、
なるほど、ジャック·アタリたちが述べる破滅は、こういう形で始まるのか、と考えました。
ある日、突然、スーパーの棚から食品が消えるわけでなくて、その棚の食べ物が欲しくても買えない人が増えるのだ、というのは頭で判っていたが、そこに至るまでの機序は、いちいち、いまの日本のように破滅への道のりの只中にある社会を見つめているのでなければ、一生、学べない。
淡々と、目立たない形で、日本の政府は、
「ここから先はダメな人には死んでもらいます」というサインを出してしまった。
都会の安アパートに住む孤独な75歳の男の人が、月65000円で暮らしている。
自分は運がいいほうだ、と、しみじみ思うのは30分ほど歩いたところに
たった200円で買える弁当を売っている店がある。
そこから、もう5分ほど歩いた公園では、同じ弁当を、無料で配っていて、ものの30分も並べば、手にすることが出来る。
一日の食費が、200円ですむ。
もともと身体が弱いので、病気を何度かして、歩くにも足が痛むが、
杖をつけば、なんとか30分や40分は歩ける。
若い時から、好きだった古代美術史の勉強をやれて、非常勤とは言っても大学の講師にまでなって、ひとからは先生と呼ばれて、幸福なほうの人生だったとおもう。
好きなことしかやらなかったのだから、死なないで済んだだけいいとおもう。
恋もしたかったし、もっと旅行もしたかったが、諦めることも大事だと自分の人生から教わった。
そうやって、つつましい布団にくるまって、天井を見つめながら眠って、
朝になっても起きなかった人は、無数にいるのでしょう。
敬愛する人が、「生きてやる」と、その人には似合わない言葉で書いてあって、ややショックを受けてしまった。
温順な性格の、知性で自分を支えて生きてきた国民に「生きてやる」と言わせる政府は、なんのために存在する政府なのだろう、と、あらためて考えました。
いまの日本では、春の陽だまりのような老年にいて、
「死ぬのは怖いが、もう十分に生きた」と、おだやかな気持ちで死に赴く人を想像するのが難しい。
ただ個人として生きることが戦いに似てくる社会など、どこに存在する価値があるのか。
そんな喩えは、申し訳ないような気がするが、日本に生きる人たちが、
あの見慣れた形の列島を埋めつくした、巨大な数の、家を失った難民の群のように思えることがある。
肩を寄せ合い、励まし合い、元気があるときには冗談を言い合いさえして、
お互いを気遣いながら生きているが、しかし、ほんとうは、そんなことは社会や国がまともなら、必要もなく、やりたいとも思わなかったはずです。
やがて、どこまでもどこまでも続く食料配給の列に、何百万という数のひとたちが並ぶ姿の幻が思い浮かびます。
何百万という、誰にも必要とされないひとびと。
取り分け政府にとっては、存在すら認めたくない「余計」なひとびと。
受験や就職を通じて、人間をランク付けして、人口の大半を敗北者に変えて、老齢に至れば、今度は余分な人間に分類する。
なんという冷酷な政府だろう、と当の日本の人が考えないことを、お節介にも考える。
言葉は習熟すれば悲哀の感情に届くので、仕方がないのだけれど。
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