インボイス制度

インボイス制度と呼ばれているものは、本来は消費税制度と一体とも言えるもので、 いままでのように帳簿制で消費税を徴収するほうが変わっている。 早い話がUKもNZもインボイス制度です。 じゃあ、インボイス制度でいいじゃありませんか。 世界の他の国はほとんど早くからインボイス制度なんだから、日本も、ここに来て、インボイス制度で他国並、あるいは、ほら世の中にはPEPPOLというものがあって、どこの国もゆっくりと欧州の統一規格にあわせようとしているでしょう? いままで帳簿制度消費税徴収なんて、国民の消費税課税への不平との非論理的な妥協でしかない歪な日本ローカル制度から、一躍、他国に先んじてリニアなシステム統合が出来ますよね? 財務省の官僚などは、「理屈が通ればこの世は天国」のシューサイ世界を生きているので、 そう考えているのではないか。 ところが。 ところーが。 三流秀才の常として理屈が通用するためには現実との整合性がないといけない、という大原則を忘れているので、帳簿制だろうがインボイス制だろうが、強い者が自己の負担を弱い者にヘーゼンと転嫁する、日本語世界の厚顔なまでの倫理の欠如を忘れている。 消費税が帳簿制のときから日本の消費税には税転嫁の公平性に問題が有って、大蟻くいの有杉晋作で、わしが「消費税は日本の社会に向かない」とずっと述べて来たのは、つまりは、そういうことです。 「なんのこっちゃ?」と思う人のために説明すると、いつものごとくいつもの人びとがあらわれて、日本人へのヘイトスピーチだと述べるのが判り切っているので、嫌なおもいをするだけで、ソーシャルメディアで、そんなこと説明するわけはないが、消費税という税制はね、 自国の社会の倫理性の高さに自信がない場合には、やってはいけない税制なんですね。 消費税が高率の社会には北欧が多いでしょう? そりゃ、南欧の国やなんかも混ざってるけど、こっちは切羽詰まった財政上の理由でやってるんで、マッドマックス型消費税制というかなんというか、やってる政府のほうもやけのやんぱちで、払う中小事業者国民のほうも、それまでナーイス!だった店のおばちゃんが、消費税レシート(←日本で普通にスーパーなんかがくれる、あのレシートのことです)をください、と客に言われた瞬間に夜叉の形相になって、「そんなものは、ここにはない!」と述べて、あまつさえ、 「二度と来るな!」とドスの利いた声で怒鳴ったりする。 だから健気でナイーブなところがある日本の人が、いっくら「インボイス制度反対!」と言っても、政府のほうは、涼しい顔で、「あんたら間違っておる」と言っていればすみそうだ、と考えそうです。言いもするであろう。 ほんとうはね、日本の場合は、「消費税撤廃」が国民の主張でないとダメなんですね。 普通のOECD国なら、そこにジャーナリズムの分析機能が働いて、いかに流通の過程において不公正な力が働いているか、おおきく強い企業が横車を押して、力で本来転嫁されるべきでない税負担が中小・零細企業に押しつけられているか、具体的な例が際限なくあがって、「倫理が存在しない経済」というものが、行き着く先がどんなものか。 一歩進んで、現在の日本社会の零落が、まさに社会の公正性の欠如、倫理の欠落によって直截もたらされたものであることが可視化できるはずです。 そういう意味では、普通に、マジメに、社会にとっては良いチャンスです。 まともなジャーナリズムが、まだ日本にも残ってるでしょう? ついでに述べると、実際の運用上、企業主に最も負担になるのは、インボイス制が(日本は、どうもそうでないようだけど、本来は)消費税制の公平性を保証するためのものである以上、 経営実務に携わったことがある人には容易に判るはずで、事務量が膨大なものになります。 もうずっと早くから、というのは、つまりは消費税導入時からインボイス制度を採用している国では、個人事業主といえど、会計士/税理士と契約している。 だって、自分でやれるような事務の量じゃありませんから。 税務署のほうも、「やべー今年は、管内の税金納入が少ねえー」ということになると、ウブそうな、しかも自分でええかげんな会計をやってそうな人間を狙い撃ちにします。 そうすると、どうなるか。 8年前だったかな、オーストラリアでは、税務調査時に、わずか2万ドルの納税ミスがあったせいで、延滞やなんかで5万ドルに膨れあがった個人営業のトレーズマンが拳銃自殺に追い込まれたことがあった。 会計士のほうも業務リスクがおおきくなるので、通常、コンサルタント料は上がっていきます。 ルールだらけのゴミ屋敷にインボイストラックがやってきて、すんごい量の事務ゴミをダンプしていくようなもので、今度は、冗談でなくて、ゴミ屋敷の建物そのものがゴミに埋もれて、生き埋めにされてしまいそうです。 遙かなむかしからインボイス制社会に生きている大先輩(←エラソーたのしい)として述べると、インボイス制なんて、やらないほうがいいですよ。 というよりは日本社会のようにインボイスシステムの基礎となるべきビジネス倫理の地盤がない社会で強行すれば、恒久的な惨事を招くことになる。 この記事では、もうめんどくさいので書かないが、日本社会にはインボイス制が、というよりもより本質的には消費税が、向かない、文化上の、深いいわれがある。 今日は、 土曜日で、いつもならマーケットに行くところだが、暴風雨の予報なので、家にいることになっている。 ところで、ですね。 欧州でもオーストラリアでもニュージーランドでも、マーケットが盛んでしょう? 近在のファーマーや、漁師、小規模な食品製造業者がこぞって、フードトラックも仰山出て、売る方も買う方も楽しそうです。 あれはですね。… Read More ›

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  • 海に、おいでよ

    午後は22℃で、モニさんとわしの感覚では、もう夏でした。 裸足でマリーナの桟橋を歩いていくと足裏があちくて火傷しそうになる。 あち、あち、あち、と跳びはねるように船に向かって歩いていると、モニさんが、 「どうして、この人は学習する、ということがないのだろう?」という顔でこちらを見ています。 あのね、学習機能がないのではなくて、忘却機能が発達しているのですよ。 この無惨な世界を生きてゆくのに、忘れるという機能がなくては、生きていかれない。 ディテーリング(注)の人たちが来る前に、少し片付けておこうとおもってやってきたが、 今年は、このブログでも何度もぶつくさ言っているように、ほとんど海に出る日が巡ってこない異常気象だったので、キッチンや食料収蔵庫には大量の期限切れ食料が眠っていて、カートに山のように積んで、浮桟橋を4往復することになってしまった。 該当する日本語がないようだがantifoulも控えていて、このごろは一日に二回は、マリーナに出かけることになっている。 二回は、というのはより正確にいうと、ふたつのマリーナ、ということだけど。 おにぎり、というのは、素晴らしくよく出来た食べ物で、最近はやらなくなってしまったが、 おにぎりと、焼海苔と、木製の小ぶりの米櫃に酢飯をいれて、海に出かける、というのを昔はよくやった。 サンドイッチを持っていくと、湿気ったりパサパサになったりで、いまいち美味しくない。 サモサもダメです。おおきなボートで出かけるときは、なにしろキッチン完備なので、電子レンジでも、インダクションの調理器でも、なんでもあって、家にいるときと変わらないが、40フィートというようなサイズになると、コンロふたつのガス台に冷蔵庫と小さな冷凍庫で、電子レンジなどないので、おにぎりで始まって、あとは釣った魚で巻き寿司や軍艦巻きをつくるのが、最も理屈に適っている。 日本文化は携帯食の大家(たいか)で、大家であることには、そもそも冷食文化が発達していることも含まれます。 船で海に出るには、最も適している。 エーゲ海などに行くと、陸からのアクセスがない、海からしか行かれないリゾートがいくつもあって、カフェやレストランもあるが、ハウラキガルフでは、田舎なので、もちろんそこまではいかなくて、むかしからある二三の、陸からと海からの両方から訪問できるレストランがあって、あとはRakinoという小島にボートヨット目当てのピザ屋が一軒、ちょっと離れたKawau島に矢張り船が停泊できる長い桟橋があるカフェが二軒あるくらいで、他にはないので、冬は閉まっているし、夏は人が押しかけるしで、あんまり行く気が起こらないので、近くに寄ってきたブルーペンギンを揶揄いながら、軍艦巻きを食べているほうが、なんといっても楽ちんで、楽しいようです。 海というのは、すごいところで、絶対に飽きるということがない。 イルカがヨットと競争にあらわれたかとおもうと、行く手を遮るようにシャチの一家が雄大という以外描写のしようがない高度のあるジャンプを繰り返しながら横切っていく。 ゴマクジラがいて、トビウオが甲板を跳び越えて、空からはウミウやカモメがやってくる。 陸地が見えないところまで出ると、海は素顔であらわれて、科学のような浅薄な体系では説明ができない、例えば、凪いだ海を生き物のように渡っていく巨大な三角波や、どう見ても巨大生物にしか見えない3Dの影を霧に投影して悪戯したりする。 天気がやっと正気を取り戻して、海が照り返す、太陽の光を見つめながら、 ああ、やっと海に帰れるんだなあ、とおもう。 長かったぜ。 日本は、どうでしたか? 地球の暑熱化は、だんだんヤケクソの段階に入ってきて、特に過熱された潮流が蛇行しているんだかなんだかの中緯度地方は酷くて、いままで折角具合がいい気温だったので文明が根付いたのに、まるで人間の文明が繁栄している場所を狙うように、人間が住めない気温まで上昇している、と雑誌には書いてあった。 わしが知っている東京の最高気温は34℃で、サトウ製薬の「サトちゃん」のでっかい人形の下にあった気温計が「34℃」を示していたのをおぼえているが、冷房が利いた地下道から地下道へ歩いても、結局、熱中症になるのを避けられなかった。 東京は、もともと冬が最も好きで、ニュージーランドの夏と東京の冬を天秤にかけて、結局、12月の初旬には、あたふたと成田を発つことになっていたが、いちど、ゆっくり東京の冬に居てみたかった、といまでもおもう。 わしガキのころ、ウエンディーズのハンバーガーが食べたくなって、表参道の店へ、ひとりで坂を下りていった。 地下のテーブルでコーラとハンバーガーを食べていたら、身なりにいいおっちゃんがテーブルの側によってきて、「わたしは外国人の子供が嫌いなんだ。自分の国へ帰れ」と、なんだか不思議なアクセントの英語で言われたのをおぼえている。 別に不愉快ではなくて、悲しくもなくて、「世の中には、ヘンなおっちゃんがいるものだ」ですんでしまったが、いま思い返すと「銀座天一漂白剤入り事件」で有名になった、日本の人の外国人憎悪は、そのころからあったもののようにおもわれる。 ツイッタで哲学者の田村均先生と話していて、教えてもらったアイデアだが、攘夷思想こそは、日本に一貫した思想といえるものであるのかも知れなくて、例えば本居宣長も、「攘夷」という背景思想を持ってきたほうが、見えやすいのかもしれない。 日本の人の地政観が外国人には極めて判りにくいのは、多分、「外国は常に日本を侵略しようと虎視眈々と狙っているのだ」という日本の人の認識によるもので、ちょうど、自分たちが外国に侵略を繰り返して、侵略していった先では、女は悉く強姦して、男は市民であっても、なんでも、委細かまわずに殺していたので、勝者として乗り込んでくるアメリカ人も当然おなじだ、女は全員強姦され、男は殺されるか奴隷として働かされるかだ、と決め込んで、緊張して構えていたら、拍子抜けで、アメリカ軍は案外と自分たちを人間として扱ってくれて、なあんだ、になったのとおなじことで、自分たちならこうする、から来た想像力が極めて攻撃的なものなので、勝手に想像したものとはいえ、悪意と敵意の塊で攻撃的な外国人は、打ち払うにしくはない、と、どうやら古代のむかしから思い詰めて来たもののようでした。 極端なケースでいえば、もっとも合理性があると感じられる、明治時代のロシアに対して感じた恐怖でさえ、妥当なものだったかどうか。 後の知恵でいえば、ロシアが仮に朝鮮半島全域を制圧したときでも、いわば片腕で築いた海軍力でさえツシマ海戦に完全勝利できたのだから、まして、陸戦に費消した巨大な軍事予算と人命を海軍に集中すれば、ロシアが朝鮮半島を踏み台に日本を侵略する可能性はありえなかったはずで、 そうであるならば、日露戦争は、日本が大陸を侵略しなければ「生命線」がつくれないのだという、後世に迷妄だったと証明された「侵略理論」があったればこその戦争で、ほんとうは、やらなくても、もっといえば、やってみて、勝ってしまった結果、有頂天のあまり発狂してしまった人のような、それ以後の歴史も、軍人の言うことなどには耳を貸さず、華僑たちのやっていることから習得発展させて、戦後日本より一足早く、貿易立国の日本でやっていけたはずでした。 いや、そこまでの工業力はなかった、という声が聞こえてきそうだが、 念のためにいえば皮肉な意味だが、ナチに功績というものがあったとすれば、「ドイツの工業力」のイメージがナチによる無惨な侵略戦争の前と後とでは、格段に改善されたことで、ナチ擡頭以前のドイツの工業力のイメージは、突出した機械を、唖然とするような複雑さを持ったデザインでつくってみせることはあるが、安定した品質がうみだせなくて、工業としてQCにかなうのは薬罐くらいのものだ、とイギリス人にはおもわれていた工業水準が、戦争で、おお、Me109すごいじゃんになって、面目を一新したことでした。 貿易立国を志す当初の、その国の工業力などは、どんな国でも、その程度です。 だから、明治日本も、いざ踏み出せば、造船や航空機製造くらいから始めて、必ず戦後日本に近い繁栄に到達したとおもわれる。… Read More ›

  • 霧の向こうで

    ときどき、夢の中で暮らしているような気になることがある。 滅多に仕事をしたりしないからかも知れないが、もっと、自分の世界への認識の根本に関わることなのではないかと考えることもあります。 なんだか、ぼんやりとしていて、触れようとすると、フッとかき消えてしまう存在としての世界。 いろいろなことが不確かで、不定形で、なにもかもが霧のなかに存在している。 自分のなかで自分が最も「確かに存在している」のは、陸影が見えない、海のまんなかにいるときだが、今年は記録的な悪天候で、海原は出かけていく機会が少なかった、ということもあるのかも知れません。 現在がすでに糢糊とした霧のなかにあるのだから、記憶の世界は尚更で、このごろはよく、 日本になど実は自分は行ったことがないのではないか、という気がする。 興味を抱いて、日本語を習得して、頭のなかで日本語のスイッチをいれて、さまざまなことを日本語で手に取って仔細に観ているうちに、自分の頭の中で、「日本に行った自分」を作り上げてしまっているのではないか。 そんな気になる理由のひとつは明らかで、インターネットを通じて日々面会する日本語世界は、 自分の手触りの感覚がまだ残っている日本とは、あまりに異なっていて、こんなに品性に欠けた国であったはずはない、こんな土足で他国人の心を踏みにじるようなひとたちではなかった、とがっかりすることが多いので、「そんなはずはない」が「そんな日本はない」に変じているのかも知れないと考えたりする。 ふたつの日本があるわけではなくて、美しい言語をもった、たおやかな日本も、醜い相貌の、 手をつけられない粗暴な日本も、おなじひとつの日本で、あるときはこちらに美しい顔を向け、 また別のときには、ひたすら醜い顔を向けて、ほとんど交互に美醜を見せながら、 なにごとか問いかけても、ラフカディオ・ハーンが「日本人の謎の微笑」と呼んだ、曖昧な、 なんとも形容しがたい顔を向けて、唇を閉じて、黙って、まるでモノを観るような目で、こちらを観ている。 前にも書いたが、記憶のなかの日本は、例えば細部で言えば空中を際限なく区切る電線がなく、通りを縁取るゴミゴミした看板や風にはためく広告の旗が林立していなくて、通りを歩く人たちの背丈は現実より少し高く、よく思い出してみれば、奇妙なくらい人なつこいところがあった現実の日本人よりも、静かで、無表情で、そういう言い方をすれば、少し頭を項垂れた、死人(しびと)の群れのようでもある。 そうして、シンと静まり返って、自分で運を切り拓いていくよりは、ジッと、やがて訪れる運命を待っている人たちのように見えている。 それが悪いイメージかといえば、そんなことはなくて、もともと「俺が俺が」の人間などは嫌いで、 「正しいこと」を主張する人間の、見紛いようのない鈍感さが嫌で、どちらかといえば、そういう生命力を生のままぶつけてくるような人間たちが疎ましくて、言語の岐れ道をたどって、日本語に来た、という経緯もあります。 むかしは判らなかったが、最近は、人間の生命力というものが嫌いなのかも知れない、と、オオマジメに考える。 実際の日本での体験は、よい思い出ばかりで、このごろは思い出しては食べ物の話ばかりしているようだが、 いまの日本食ブームが起きる遙か昔の、わしガキの時代から、かーちゃんや妹が日本の食べ物を敬遠する傾向にあって、まして、昼時ともなればクチャクチャネチャネチャの大合唱が起きる日本の食べ物屋などは、怖気をふるって尻込みする始末で、いつもいつも、隙さえあれば、なぜ二枚の蕎麦容器の片方にしか蕎麦が載ってないのか謎だった某店のざるそばや、 カツ丼に取って代わられるまでは大好きだった親子丼、 言葉にできないほどおいしいダシとウマミのスープに沈んでいる、でっかいガンモドキ、 食べたいものが宝の海のように広がる日本食レストランに、連れていってもらおうと、虎視眈々と機会を窺っていて、長じては、ここを先途と、日本の食べ物をたべまくって、そのころには 「丼」も「ラーメン」も、すっかり英語になった日本食ブームになっていて、 熱心にどんなものを食べたかを書いて、友人どもを羨ましがらせていた。 まずは、例えば有楽町の電気ビルのてっぺんのバーで、まだ明るいのに炭酸で割ったスコッチを飲みながら、さて、今日は、なにをして遊ぼうか、と考えている。 後年、モニさんと短期移住みたいにして、といって、実は、バカバカしいほど長い新婚旅行世界一周の掉尾を飾っていただけなのだけど、広尾や軽井沢で、のんびり暮らしていたときは、モニさんは、あれで、意外なくらい嫌いなものが多いので、一日にやることが自然と決まっていったが、 スコッチを昼間から一本飲んでハッサンという名前の、気の良いパキスタン人のウエイターに呆れられたりしていたのは、もっと前の若い時で、そのころは、東京のジャングルを探検する探検家のような大袈裟な気持ちで、あちこちに出かけては、おや、ここにはこんなものがある、 ここは東アジアの隅っこなのに、こんな精緻なものがある、と、どの一日をとっても、退屈することがなかった。 いまは、様子が変わってきたが、もともとは、イギリスやNZには、店に豊富に在庫を置く習慣がなくて「ハロッズ」のような在庫を初めから陳列する店は、逆に、例えばイタリアの革鞄ならば革鞄で、フィレンツェで売っている値段の3倍から5倍の価格を、平気で付けていたころで、 表には看板を出さない、上流階級向けの商売をしている店でも、店主と相談しながらカタログをめくって、じゃあ、これを取ってください、受け取りは2週間後でしょうかね、というような気が遠くなるようなのんびり商売だった。 それがそれが。 東京の店は、ちょうど、あの素晴らしい日本料理のプレゼンテーションとおなじことで、 最高級の万年筆だろうが、あれはたしかシャープの創業者から特許を買い取ったのではなかったかとおもうが、銀もまばゆいメカニカルペンシルだろうが、高額の文具を、委細かまわず、ずらっと並べてあったりする。 壮観で、稀でもあって、これがどのくらい稀なことかというと、当の高級万年筆メーカーを訪問すると、出て来て説明してくれる会社の役員のおっちゃんと、「イトーヤ!イトーヤ!」と、ふたりで熱狂的に盛り上がってしまって、気が付くと、ふたりの狂人を遠巻きにして、オフィスの人たちが冷ややかな目が見つめていたりしたものだった。 そのくらい、すごいんです。 東京を楽しくしているのは、この「圧倒的な顔見世在庫」で、文具店だけではなくて、着物でも、漆器でも、箸も椀も、勢揃いして、まるで芸者さんの花街おどりか舞妓の総見で、華やかで、気持ちがパッと明るくなるような店がおおかった。 もちろん日本の伝統のものにも限ったわけではなくて、かーちゃんが贔屓にしていた「宮本銀器店」や「ミキモト」などは、ロンドンにあっても、少しもおかしくない店なのは言うまでもない。… Read More ›

  • 象の耳をかじりながら

    土曜日と日曜日はマーケットに行く。 モニさんは、相変わらず、ゆっくり眠りたいが、早起きしてマーケットに行く楽しみをおぼえて、どおりゃ、天気がいいから、マーケットに出かけるか、とおもいながらキッチンへ歩いて行くと、すっかり仕度をして、待っていることもあります。 むかしは、あんまりマーケットに行こうとしなかったのは、やはり欧州のマーケットに比較してしまうからではないかと推測するが、モニさんは、そういうことは言わない人で、こちらも、わざわざ訊く気もしないので、訊いたりしません。 ヴィクトリアやNSWのマーケットに較べても、オークランドのマーケットは、新しい移民の人たちの出す店が多いのが特徴で、ハンガリーのひとたちの「象の耳」パンや、ウイグルの人たちの羊肉の串焼き、いろいろなものがあって楽しい。 集まる人の数でいえば、こちらは週7日開かれているナイト·マーケットのほうが、ずっと多いが、 偏見で、マーケットの朝のものだという考えが抜けないので、「マーケット」と名が付くのに相応しいのは、やはり朝のほうだと思ってしまっている。 COVIDパンデミックのせいで、家からいちばん近かったパーネルのフレンチ·マーケットは、案外と長かった歴史に終止符を打って、二年前に閉じてしまった。 名前どおりヨーロッパ人たちのストールが賑やかに並んでいたマーケットの代わりに、おなじ場所で新しく開いたマーケットには、インドネシアやマレーシア、タイや日本の人たちがストールを開いているが、店も、集まる人も、まだ少ないようでした。 日本の人は、結局、行きつく所まで行くことに決めてしまったようでした。 言っていることは、他国人にとっては途方もなく判りにくくて、通りにでて自分たちの主張を掲げるのは「過激派のやることだ」という、そこまで言わない人でも、「日本はやはり選挙で自分たちの主張をする国です」と、なにがなし、胸を張って述べている。 ところが、ではどんな選挙をやっているのかと記事を探すと、投票率が50%ないものまであって、中島敦の「名人伝」ではないが、民主制も達人になると、投票に行かなくても選挙になるのかとおもったが、その割には、選ばれた議員達には大層不満なようで、「あれは自分が選んだ人間ではない」という。 なんだか、さっぱり訳がわからない世界で、あとで自分に嫌われると困るので、日本語との関わりとして言わなければいけないことは言ったが、つまりは自己満足で、記事を書いて、本を出して、ブログを書いて、それでなにか変わる見通しがあるかというと、なにも変わらないのでしょう。 SNSも、「汚染水の垂れ流しは、取り返しがつかなくなるから、それだけはやめたほうがよい」と書くと、例の、なんだかよくわからない、凄んでいるつもりなのか、ねっとりした変質者のような口調で、「おまえはバカだから知らないだろうが、あれは飲めるくらい浄化された水で『処理水』といって、放出してもなんの問題の水だから文句を言うな、という。 そんなに綺麗な水ならば海に流す必要はないのではないか、と疑問を述べると、 「塩水だから国内に流したら土地が荒れるだろうが、バカめ」と、ご託宣があります。 一時が万事、いつものことなので、もう驚かなくなってしまったが、例えば政府までも 「これから世界の国々に納得してもらうように『丁寧』に説明していく、という。 どこの国の政府も、国民も、「丁寧に説明するのなら放出する前にやれよ、バアーカ」とおもっているが、国と国のあいだで思ったままの事を言っていては、外交上の礼儀もなにもなくなって、自分が野蛮国になりさがってしまうので、畏まって、「では説明をお待ちしましょう」と待つことになっている。 内心、「なにかあったら、タダじゃおかねーぞ」と思っているのは、これも国と国の関係なので、あたりまえのことです。 正義は相対的なものだ。 立場によって異なるものだ、と日本の人は好んで語る。 Aにとっては正義でもBにとっては不正義でありうる。 だから、ひとつの絶対的な正しさがこの世界に存在しうると考えているあなたは狂信者なのですよ。 ふむふむ。 ところで、では正義が相対的なものだとして、Aの正義とBの正義が尖鋭に対立した場合は、どうなるのか。 そこから話し合うのは「絶対」という軸がない以上、いつまで経っても平行線で、結論は出なくて、そのあいだ絶えず相手の「手が動いている」場合、例えば汚染水を処理水だと主張して放出しつづけている場合、汚染水だと主張している側は、日本がいくら処理水だと主張して「科学的」データだと主張しても、「むかしから嘘ばっかり吐いている、おまえの言うことなんて信じられるかバーカ」と頭から信じない、という態度を取りうる。 南京虐殺はデッチアゲだとか、捕鯨はクジラの繁殖を扶けるためだとか言って、のらりくらり、いまでもなあんにも認めない国の言うことを、なんで今回だけ信じなければならないの。 いまは南太平洋諸国と中国政府、韓国の大衆と、各国のグリーン党だけだが、これがなにかのきっかけで、「やはり日本はおかしいのではないか」と言い出すと、どうなるのか。 日本の得意は数字を並べることです。 残念ながら数字のつくりかたが恣意的にすぎて、もうこのやりかたは、経済でも信用がなくなっていて、物理のような世界ではまだ信用があるが、いまの、日本の人が好きな言い方で言えば 「先進国」で、日本が発表する性犯罪発生率、一般犯罪発生率、経済統計…. 日本の人が「なにより客観的だ」と満腔の自信を持って述べる数字を、マジメに信じている国はないでしょう。 それも、まあ、いいことにする。 でもですね。 一方で、正義は相対的なものだ。正しさは立場によって異なるのだ、と都合良く述べながら、なにごとか対立的なことを主張する、というのは、実は、それ自体、大変に、というよりも、論理的に、危険なことなんです。 簡単です。 むかし外交において、この主張を繰り返した、言葉の上で、一歩も譲らず戦って、どうなったか。 日本はいまでも主張しているとおり「やりかたにおいては誤りがあったが主張の根本においては正しい面もあった」という立場だが、西欧諸国のいうことはおかしい、人種差別だ、自分たちだってやってきたことではないか、反発に反発を重ねて、ついに国際連盟を脱退して、言葉ではどうにもならない、と実は相対主義を信奉する以上、当然の結論にたどりついて、どうなったか。 当たり前といえば当たり前で、暴力と暴力のぶつかりあいになって、戦争が起こり、不意打ちが功を奏している「戦争前段階」、言わば大規模な国家を挙げてのテロの百日はよかったが、戦争の体裁をなしはじめると、国力の差が正直に出て、敗北に敗北を重ねて、最後には血まみれで、タオルを投げ入れてくれる国もなく、ふらつく足でかろうじて立っているところに、原爆というアッパーカットをくらって、前後不覚に陥るところまでいってしまった。 ね? これが相対主義の政治における根本的な欠陥なんです。絶対が存在しない世界では言葉は凌駕的な力を持ちえず、言葉が力を失えば、暴力の出番になる。… Read More ›

  • ジョージタウン

    ペナンに出かけたのは医療ツーリズムに興味があったからだった。 特に病気になる予定はないので、純然たる好奇心からです。 いまは日本にもあるのかも知れないがインドやマレーシアには医療ツーリズムというものが存在して、簡単なものは、ちょうど日本の帝国ホテルにもある、日本語でいう人間ドックのコースみたいなものに始まって、長期の治療を要する病気についても、豪華で快適な部屋に、インドやマレーシアの滅法おいしい食事を提供して、楽しいおもいをしながら病を癒やすというアイデアです。 日本でいえば信玄湯みたいなものかしら。 マレーシア政府は熱心で、なにしろ、クアラルンプールの空港には医療ツーリズムに特化した巨大なカウンターがあります。 たしかバンコクの新しい空港にもあったので、いま書いていておもったが、タイにも医療ツーリズムが存在するのかも知れないが、こっちはよく知りません。 あったとしても、インドやマレーシアの医療ツーリズムのおおきな要素は、医師達が、なんの問題も違和感もない英語を話す事におおきく依存しているので、タイでは、もちろん医師なのだから英語は話すでしょうが、英語話者側の負担度が異なって、少し性格が異なってしまうように感じる。 結局、観光産業のマーケティングとしては面白いが、気候が暑すぎてダメなのではないか、で終わってしまったが、クアラルンプールに移動するまで、1ヶ月ほどもペナンにいて、ジョージタウンが、すっかり好きになってしまった。 ペナン島は、日本と、というよりも日本海軍と深い関係がある街で、ここには日本の潜水艦隊の基地があった。 こんなところでなにをやっていたかというと、戦争を通じて「世界に誇る」潜水艦隊の運用を徹頭徹尾誤って、敵主力艦隊の兵力を削減することしか考えなかった、宝の持ち腐れ、イ潜水艦を、ここではインド洋でのUボートとのランデブーに使っていたのでした。 戦争の初期においては、喜望峰をまわって、盟邦ドイツ占領下フランスロリアンやブレストまで行くことになっていて、実際、1943年の第二次遣独艦は、途中ドイツの水雷艇隊やUボートとの会合を経て、遠路ブレストに到達して、日本側からは酸素魚雷の技術を伝えて、ドイツからはダイムラーベンツのディーゼルエンジンMB501やエニグマエンジンを貰って帰ってきています。 余計なことを書くと、この洋上の会合に、面白いことがあって、日本海軍士官のなかには観察がちゃんと出来る人がいて、日本側の装備が百年一日変わりない手漕ぎのゴムボートなのに、毎年毎年、ドイツ側の装備が改良されていく。 手漕ぎのボートが船外機付きになり、小型無線機を装備するようになり、で、やっぱりドイツは違うなあ、と感心していて、その、いかにものんびりした憧れの気持ちを見ていると、 なんだか、和やかな気持ちになってしまう。 それはともかく、まず第一にペナンは、食べ物がおいしいところで、ペナンの小さな空港にあるカフェのナシ·レマクがいきなりおいしいので驚いてしまう。 空港なんてのは、たいてい箸にも棒にもかからないくらい不味いか、月並みなチェーン店味と相場は定まっているので、もうここで、「ペナン、いいなあ」と手もなくたらし込まれてしまいます。 それでね。 滞在中、ずっと変わらなかったが、Uberサービスのような配車サービスがいくつもあるが、 空港なのにチョーおいしいナシレマクを食べながらスマホで見ていると、 「島内どこでも1リンギ!」 とか 「今日は、無料!」というのがあって、移動にコストがかからない。 ジョージタウンの端っこにあるサービス付きアパートメントに行って、着いて見ると、(あたりまえだが)ほんとにタダで感動しました。 なにしろケチで、ガメ·ドケッチと呼んでくれと2年くらい前からブログ記事にも書いている。 この「Uber」が安い、という事実は、なにしろ、クッソ暑い島なので、たいへん助かって、ほんとうは歩いて運動にしようとおもっていたのだけれど、計画倒れもいいところで、結局、クルマを呼んでは、今日はあそこでカレー、明日はあそこでテタリック、をしていて、なんのことはない、体重が増えてしまいました。 天国のような島だが、三日もいると、中国系住民とマレー/イスラム系住民と、ちょうどシンガポールで見られるような鋭い対立があるのに気が付きます。 Uberで、運転手の姿を見て「おお、ラッキー」とおもうのはヒジャブを被ったイスラムの女の人で、なにしろ親切で、おいしいレストランや美しい「隠れ浜辺」を聞いても、ガイドさんなど問題にならない知識と細やかさで教えてくれる。 中国系のドライバーの人は、見ていると、わざと遠回りして、荒稼ぎしたりする(←念のために言っておくと、一律1リンギとかなので、こちらの懐は痛みません)が、イスラムの人は正直そのもので、なんというか、おおげさにいえば後部座席に座っているだけで友愛の念を感じる。 「人類愛」と言っても、よいくらい。 シンガポールでも、よく聞くセリフだが、マレー系やインドネシア系のおっちゃん運転手に中ると、急にスワーブしたりして危なっかし運転をするクルマを指して、 「見てくださいよ。これが中国人運転手だよ。まったく。あいつら、ほんものの免許もってやしないんだから」と悪態をついている。 中国系の女の人のドライバーは、のおんびり道路を横断するヒジャブの女のひとたちを見て、 「イスラムの人間は、もう、ほんとにナマケモノなんだから!知ってますか? ペナンの経済は中国系で持っているんですよ」と後ろをふり返って述べている。 ふうーむ、そうですか、と理解を示してあげたいところだが、走行中に、もろに後ろをふり返って話すので、わ、わ、判りましたから、前向いて運転してね、と言いたくなる。 あんたは、アメリカ人か。 むかしワシントンDCに向かう一本道で、ずっと運転手が後ろを向いて話していて、前を走っていた巨大トラックに衝突して一家全員衝突死になりそうになった、わっしのトラウマを知らんのか。 しかし、まあ、そういえば、シンガポールもリー·クアン·ユーたちペナン出身の中国系人がつくった国だったな、とおもいだします。 この地域は、一般に、中国系人たちへの反発が強い。 といっても、顔が中国人でも、アジア人で初めてオスカー(アカデミー賞)主演女優賞を取った、Michelle… Read More ›

  • 神のいない経済_デリバティブ篇

      1 最も簡単な例として保険ということを考える。 きみだって家を買えば火災保険や地震保険をかけようとおもうでしょう? 1970年代ならば、家の所有者であるきみだけが保険をかけることができる。 いまは、どうか。 保険セールスと不動産紹介を兼ねている町の小さな不動産屋で、学生のとき下宿を紹介してもらった昔からよく知っている不動産屋さんで保険の契約書にサインしたきみは、晴れ晴れした気持で達成感に浸っている。 築12年の中古物件だけど、家が持てたなんてサイコーだ。 おれの給料じゃ、たいへんだけど、がんばってローンを返そう。 保険もかけたし、明日から頑張ろう。 ところが、この保険は実はきみの手を離れて保険会社に渡った瞬間から、もっとたくさんのひとの手に渡っている。だいたいチョーおおざっぱに言って、きみが支払う3万円は少なくとも150万円の資金として金融の世界で流通しているはずです。 なぜ、そんなことが可能なのか? まず頭にいれておかなければならないことは、1980年代を境にして、以降の金融は、ちょうど橋を架けるのとおなじ工学事業である、ということです。 この工学は「デリバティブ」という考えに基づいて成り立っている。 興味があるひとは、wikipediaのしょもない記事くらいを手がかりにするくらいでも、いろいろなドアを開けて、十分な数学的能力があれば、という前提で、そんなに苦労しないでデリバティブの土台になっている思想を理解できるでしょう。 科学系のひとは、めんどくさいので、ブラック=ショールズ方程式を導出して、なぜこれが金融に適用できるのか考えたほうが早いかもしれません。 https://en.wikipedia.org/wiki/Black–Scholes_model 冷戦時代には軍事関連に就職するのが最も収入が高かった物理学や数学を専攻した学生/若い研究者たちは、冷戦後は、群れをなして、この新しい工学に向かいます。 その結果、金融家たちが扱えるクレジットの金額は、それ以前とは比較にならない膨大なものとなり、当時の需要を遙かに越える投資運用資金が出来ることになった。 アダムスミスの言う「神の見えざる手」などでは到底処理できないクレジット、つまりはオカネの供給ができあがってしまう。 一方では、キャピタリズムにおいては、昨日の記事でも述べたように、資本家が自分が成功すると信じたものへ資金を投下して、リスクを冒して、うまくいけばオカネが増え、失敗すればゲームから退場することによって全体の健全が保証されている。 アメリカの金融史の歴史で言えば、1907年、まだ連邦銀行(FRB)が存在しないころの金融崩壊に直面して、欧州に倣って、中央銀行を設立してから、1929年の恐慌をきっかけとした規制強化を経て、ボルガーがFRB議長だった頃までは、ゲームのルールが明瞭で、自分が稼ぐためだったら、ひとが見ていなければなんでもやる資本家たちを厳しく掣肘していた。 1998年になると、奇妙な、極めて有名で劃期であることが起こる。 ビルクリントンが大統領のときのことです。 CiticorpとTravelersが合併する。 Citigroupという世界最大の金融会社が誕生する。 Glass=Steagall Act https://en.wikipedia.org/wiki/Glass–Steagall_Legislation を知っている人は多いとおもいますが、この併合は1929年に始まった大恐慌の教訓から生まれた、このGlass=Steagall Actに明白に違反していた。 違法な合併だった。 ところが当時FRB議長になったばかりだったグリーンスパンは、ボルガーも含めたさまざまな財政人からの圧力を、肩をすくめてやりすごして、一年間なにもしないですごす。 たくさんの人が違法な巨大金融会社の誕生を訝っているうちに、翌年、1999年に、 Gramm=Leach=Bliley Actが成立して、既成事実を追いかけて新法案が出来る。 違法な合併が後出しの法律によって合法になる。 いまふり返って考えてみると、この法案をCitigroup救済法案と陰口を利いた、当時の金融人は、21世紀になってマフィアよりもイタリアのマフィアよりも遙かに傍若無人な行動にでる後年の金融人たちに較べれば、ずっと感覚が健康だったのかもしれません。 このときクリントン政権にいて、違法なCitigroup成立を押し通したRobert Rubinは、政府の閣僚を退いたあと、CitigroupのVice… Read More ›

  • 真珠湾奇襲についてのメモ

    “I must have a tumbler of sherry in my room before breakfast,” と英国の首相であると同時に 典型的なイギリス上流階級の人間だった老人が述べている。  “a couple of glasses of scotch and soda before lunch and French champagne, and 90-year-old brandy before I go to sleep at night.” 告げられた執事のフィールズは、ぶっくらこいた顔をつくってみせたが、内心は数日前に ウインストン・チャーチルの毎日の習慣について調べあげた軍の情報部からの連絡で、通常の人間が飲むアルコール量を一日で消費すること、好みのブランドに至るまで執事長Alonzo Fieldsを通じて教えられていたので、ほんとうは、なるほど事実だったのか、くらいの反応だったでしょう。 気の毒だったのはチャーチルがホワイトハウスに到着する12月22日の朝まで、まったくなにも聞かされていなかったエレノア大統領夫人で、Alonzo… Read More ›

  • ダイアモンドダストを記録する

    ムール貝の酢漬けは食べ出すととまらない。 40個ほども入っている容器が空になって、まだ食べ足りないので冷蔵庫へ、えっこらせ、と「御神輿をあげて」向かったりするところは、ポテトチップスと似ています。 ホールウェイを歩きながら、ふと、日本では、こういうことも出来なかったんだなあーとおもう。 もとからテキトー人間の、わしはいいが、モニさんは大変だったのではないか。 不平を鳴らす、ということがほとんどない人なので、うっかりすると、我慢を重ねて、静かにしていることに気が付かない。 「日本には、なんでもあります」と言う。 なるほど鎌倉にいるときに、コリアンダーをたっぷりいれたトムヤムスープを食べたくなっても、クルマで、朝比奈の切り通しから、横横に乗って、山下へ行けば、おおきなタイスーパーがあって、コリアンダーも冷凍のレモングラスも買えて、心配ない。 ラムも専門の卸業者から半身を買って冷凍庫にいれておけば、日本の人が大好きなラック以外も手に入ります。 第一、いまはオンラインで、たしかに、売っていないものはない。 でもやっぱり、ちょっとクルマに乗って、近所のスーパーに行けば棚に並んでいる、というものではないので、プランを持たねばならなくて、プランをたてて食べるものと、おもいつきで食べるものとでは、雲泥の差で、いま考えて見ると、それが結局、後半の強烈なホームシックの原因になったもののようでした。 日本に住むことの最大の問題は、日本が西洋でないことです。 と言うと、「当たり前ではないですか、やっぱりアホだったんですね」と言われるに決まってるが、厳然たる事実で、 例えばニュージーランドとイギリスくらいでも、かなり不自由で、 ステーキパイは、どっちの国にもあるが、生活のなかでの意味が異なって、当然に、売っている場所も異なります。 アイルランドのほうが、ニュージーランドと似ているという。 それでも今度は、アイルランドの人は、ずらっと並んだパイを、 ミンスパイ、ステーキパイ、ステーキ&チーズ、…と見ていって、わしの大好物だがステーキ&ハラペーニョまであるのに、肝腎のステーキ&ギネスがなくて落胆する。 イギリスとスペインのように距離的には近くても、なんだかもう食べ物についての思想が根本から異なる、というような例もあります。 ところが。 それで、バルセロナにずっと住んでいて、もうダメだ、「普通の食べ物」が食べたい、とおもうに至るかというと、そんなことは起こらなくて、バルセロナの「外国人居住区」であるグラシアのノルウェー人宅で、スウェーデン、スコットランド、ウエールズ、デンマーク….国籍様々な人間が集ってパーティを開いたときにも話題に出たが、インドや台湾に長期滞在するときのようなことは、矢張り、誰の身の上にも起こらないもののようでした。 ちょっと言語に似たところがあるかもしれません。 フランス語やドイツ語は判らなくても、判らないなりに、なんとなく言語だから、とおもって安心しているところがある。 これがベトナム語や日本語になると、覚悟を決めて、全力を集中しないと壁が乗り越えられないイメージが湧いてしまう。 英語では、もともとはアジアはインドまでで、ガンジス川の向こうは、よく判らないが中国みたいなもので、日本に至っては「極東」という酷い呼び方で、日本でも子供物語としては有名な「ガリバー旅行記」では、世界の辺境にある空飛ぶ島ラピュータの、そのまた向こうにある空飛ぶ島より現実感の薄い国として「日本」が登場します。 情報化時代は偉大なり。 いまは、日本と言っても、まったく訳の判らない国、という人外魔境のイメージはなくなって、それどころか、どこにいってもイオンみたいな、世界中似たものばかりのタッキーなことになって、日本ばかりは、西洋人向けにファサードはちゃんと出来ていて、その点がタイや中国のような国とは異なるのに、その表から入ってみると、なにもかもが異なっていて、大コーフンで、 若い人などは、すっかり嬉しくなってしまって、二回三回と日本旅行へ出かけるのが、ふつうになっている。 「とにかく、なんでも安い! 5ドルで、おいしいランチが食べられるなんて、信じられない!」と日本の人が複雑な気持ちになりそうな「安い!」を連発している。 よほど気が向けば、「ぼくは、日本に住んでみたことがあるんだけどね」と述べることもあるが、たいていは、「おお!」とか「ああ!」とか英語版ゼルダの行商人のような声をあげて、ニコニコしているだけです。 もしかすると、日本が特別な国でなくなっていくのが残念なのかもしれない。 一種の嫉妬と呼ぶも可なり。 日本とぼくのあいだには秘密がたくさんあって、他の人には判る訳がないのさ、という気持ちくらいはありそうです。 真冬の旭川に家族でダイアモンドダストを見に行ったことがある。 それも、どうしていつも、そうアホなのか、クルマで出かけたのでした。 青函トンネルが列車でしか通れないことを発見して落胆したり、いまにも折れそうなタワーのてっぺんでサーモンステーキを食べたり、小樽で雪に沈む町の美しさに息をのんだりしながら、どうにかこうにか辿り着いて、地元の新聞社の人の案内で、ダイアモンドダストがよく出るという雪原に案内してもらったが、結局は、見られなかった。 湿気がもう少しないとダイアモンドダストにならない、というような説明だったのではないかとおもいます。 ところがね。 思い出してみると、記憶のなかでは、どう考えてもダイアモンドダストを見ているのです。 妹とふたりで、クルマの窓を開けて、息を呑んで、その美しさに見とれている。 自分の心のシステムを点検してみると、「記憶の美化」とは、少し異なるもののようでした。… Read More ›

  • 箱根の雪

    雪が降った日に、ふと思いついて、箱根に行った。 いちど鎌倉から箱根に海沿いにドライブして行ったら楽しいだろう、と考えて、 馬入橋という変わった名前の橋を越えて、いつか書いた、尊敬する作家、北村透谷 https://james1983.com/2021/07/28/tookoku/ の誕生の地であることを記した石碑がある町を通って、箱根湯本に続く道を行こうと思ったら、大渋滞で、 半日経ってもつかなくて、途中で諦めて引き返したことがあったが、東京からならば、渋滞もなくて、あっというまに着いてしまう。 浅薄な日本趣味と笑われそうだが、蕎麦屋で、雪を見ながら熱くしてもらった日本酒を飲んで、すっかり満足してしまった。 箱根が好きで、軽井沢に別荘を買ったときも、最後まで箱根にするか、どっちにしようか悩んだ。 結局、十数年前の当時でも、日本はすでに熱帯のように暑くて、山荘を借りて、冷房なしで過ごすと、到底寝苦しくて、いられたものではなかったので、諦めて、泣く泣く軽井沢に家を買うしかなかった。 軽井沢も、雪は降る。 ほんとうは氷の町で、道東と気候は同じだとかで、ひたすら寒い割には雪は降らなかったそうだが、長野オリンピックでトンネルが出来たら、突然、大雪が降るようになったそうで、 塩沢湖の氷が薄くなって、ジープで渡れなくなったかわりに、雪が降って、シャーベットになって、クルマが横滑りして坂があがれなくなったわよ、と笑っていた。 なにしろ十二月も、たいていは初旬の、軽井沢の電飾のお祭りが終わると、いったん東京から別荘へやってきて、軽井沢でも大事な年中行事である水止めをしてからニュージーランドへ発つ習慣だったので、そう度々は雪が降るときに居合わせることはなかったが、いちど、今日は東京に戻るという朝になって、森が、銀色に凍っていたことがある。 真っ白に凍った森に、雪が「しんしんと」という、あの素晴らしい日本語表現がぴったりの様子で降って、まるで軽井沢が、お別れに、お化粧をした、あでやかな姿で挨拶してくれているようだ、と、モニとふたりで感傷的になったりした。 そうやって、軽井沢は軽井沢で、雪景色が美しい町だったが、なんだかわがままなことを言うと、軽井沢の長野の雪と箱根の雪は、おなじ気象だが異なるもので、 蕎麦屋でお酒を飲むためには、どうしても箱根でなければダメだと考えていた。 まことに軽薄な若者というしかないが、そのころは、箱根で、降り積もる雪を眺めて、熱燗で、 素の盛り蕎麦を二三枚も食べれば、それで良かった。 もう大満足で、堂々たる法規違反の酒気帯び運転で、当時はおお気に入りに気に入っていた、箱根富士屋ホテルで、洋式のバスタブで天然の温泉に浸かる贅沢で、翌朝は、レイトチェックアウトで、のんびり起きて、レストランで、カツカレーを食べて、よくあんな凍った急坂で死ななかったと、いま考えておもう、カーブだらけの道を、エンジンブレーキがろくすぽ利かないオートマ車で降りて、箱根湯本で、日本に来て味をしめた、「まるう」の蒲鉾を買って東京へ帰った。 若いときに、自分にとっては外国の、見知らぬ町に住んでみるのは、いまふり返っても良い考えだったとおもう。 東京とバルセロナとニューヨーク。 このみっつの都会が好きで好きで、手放しで好きで、隙さえあれば、ここで2ヶ月、あそこで3ヶ月と過ごして、あまつさえ、家まで買ってしまったが、どうなのだろう、いまの頭で考えると、 東京がいちばん好きな町だったのかも知れない。 街を挙げて、まるで人生の教師のような存在だったバルセロナを別格として、 むかしはマンハッタンの、喧騒どころではない、騒音ボックスのような街が好きだったが、 ひどい言い方をすれば、交尾期というか、盛りがついた猫が、次から次に相手を変えて、自分の生涯の伴侶を、無意識に探して彷徨していたようなもので、みっともなくて、思い出すと、 あああっ!と声が出るというか、若いということは、自分では判っていない他人への残酷さも含めて、どうしようもないものだという気がする。 そのころは、カリフォルニアが、よく考えてみれば、北のサンフランシスコも南のオレンジカウンティも、行けばいつも楽しい思いをしているのに、なんとなく気に入らなくて、アメリカといえばシカゴとニューヨークだったが、シカゴはいまでも最愛の街のひとつだが、ニューヨークは後半は、というのはモニと結婚してからは、あの街特有の欧州コンプレックスが鼻について、だんだんアミューズメントパークにいるような気持ちがしてきて、街とこちらに気持ちの「ずれ」が生じていった。 まあ、いまでも好きですけどね。 このブログ記事中にたびたび「オンボロ」として出てくるアパートの場所がよくて、 ちょうどチェルシーとヴィレッジの境目あたりで、いま考えても、ダンテの有名な The Gates of Hellの Per me si va ne… Read More ›

  • 日本人と民主主義 その4

        (この記事は2020年5月19日に「ガメ・オベール日本語練習帳ver5」に掲載された記事の再掲載です)   日本の人の「不躾(ぶしつけ)さ」が、ときどき、ひどく懐かしくなることがある。 短いあいだ四谷に住んでいたときにオオハラと言ったかな?記憶を上書きしている可能性があるが服部半蔵の槍があるお寺の坂の下にある中華料理屋さんで、麻婆豆腐を注文したことがある。 でっかい丼に入った、細かく壊れた豆腐が入っているスープが、どちらかといえば酸辣湯のように見えたので、「あの、これ、麻婆豆腐、ですよね?」と訊いたのがよくなかった。 ただ注文を間違えたのかもしれないとおもって、なるべく失礼にならないように尋ねただけのつもりだったが、カウンターの例の身体で押せば開く低い両開きドアをおしてノシノシとやってきた女将さんにえらい勢いで怒鳴られた。 「あのね。うちじゃ、これが麻婆豆腐で、一生懸命つくってるんです。ガイジンなんかに説教されてたまるもんですか。これで文句があるんなら、とっとと出ていきなよ!」 いやいや、そういう意味ではないんです、とパニクって青くなりながら、なんとか誤解を解いて、食べてみると、おいしかった。 ご飯も頼まないヘンな客で、相変わらず歓迎されない様子だったが、ともかくも、「おいしかった」と述べて「お勘定」を払うころには、でっかい女将さんの機嫌もなおっていたようでした。 もちろん、誤解に基づいた怒りが「不躾」だったのではない。 チョーおいしかった麻婆豆腐に味をしめて、ほとんど毎日のように通って、熱燗と麻婆豆腐を毎夜楽しんでいるうちに「ヘンなガイジン」という渾名を賜って、顔を突っ込んで、ガラッと引き戸を開けてのれんをくぐって店に入るたびに「おや、また麻婆豆腐なの? あんた他に食べるものないのかい?」から始まって、「ちょっと太ったんじゃないの?ビールをあんまり飲みすぎないほうがいいよ」 「おや、痩せたんじゃないかい? ちゃんと食べてるの? ガールフレンドをつくらなきゃダメじゃないか。 日本の女はいいよお。あんたの国の女もいいかもしれないが、妻にするなら日本の女が世界一って、知らないのかい」 だんだん江戸言葉になっていきそうな舌のまわりかたで、太った痩せた、眠ってないんじゃないか、酒の飲み過ぎだとおもう、 西洋のルールなら、おおきなお世話もいいところの軽口がとんでくる。 ぶっくらこいたのは、短い滞在がおわって、明日、国に帰るんです、と述べたときで、むかし言葉で、初めて名前で呼んでくれて 「ガメちゃん、抱っこさせておくれ」と言って、割烹着を慌ててぬいで胴体に手を回して、胸に顔をつけて、おいおい泣きだしたのには驚いてしまった。 おばちゃんはね、ガメちゃん、息子みたいなもんだとおもっていたの。 そうだよねえ。あんた、いつかは帰る人だもんねえ。 と、述べて、おおげさもおおげさ、まるで新派のような愁嘆場です。 あんたは蝶蝶夫人か、とおもえればよかったが、まんまと、だらしなくも、涙がでてきて、一緒においおいと泣いてしまった。 ほんとにきみはガイジンなのかね。 ニセガイジンなんじゃないの? あるいは、こっちは、いつかも書いたが、ストップオーバーで日本に寄って、むかし、よく酔っ払いにいったバーに行った。 ぼくとこの店の「マスター」は日本にいるあいだじゅう、友達だった。 極端に無口な人で、カウンタに並べた酒瓶の陰に隠れるようにして、下を向いて、客とは目もあわさないで、注文されたナポリタンやピラフをつくる人だったが、ある日、客がひとりもいなくなったあとで、ブッシュミルズをストレートで飲んでいたら、「どこからいらしたんですか?」と話しかけてきたので、驚いてしまった ニュージーランドです、と述べたら、ニヤッと笑って、 「じゃあ、イングランドからニュージーランドに越したんですかね」と言うので、またまたびっくりしたのをおぼえている。 そのすぐあとで、酔っ払った中年の客が入ってきて、そんな時間には珍しいコーヒーを注文していった。 その客は、コーヒーが好きな人だったのでしょう。 あの欧州コーヒー党特有の「ぐいっ」と飲む飲み方で底まで飲みきると起ち上がったが、お勘定の段になって、750円、というと、 「たけえな」とひとこと単簡に述べてドアを開けて帰っていった。 マスターは、「たしかに高えよな」とひとこと述べてドアを閉めて階段をおりて帰っていった客を見送っている。 なんだか、そのときから、友達になったような気がする。 向こうはどうして興味を持ってくれたのか知れないが、それから、客がいなくなると、よくふたりで話をした。 もとは美術大学の教師だったことも話してくれた。 自分が好きな画家や彫刻家の名前をあげると、… Read More ›