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  • 十年後

    夢のなかでは、ちょうど女川発電所のように、福島第一発電所は、かろうじて津波に耐えて、アメリカ友から「あんなデザインも悪いボロ発電所が、あれほどの大津波に耐えられたなんて信じられない。 第一、ガメ、信じられるか? あの発電所はディーゼルの入れ換えをするときの僅かな経費を惜しんで、バックアップ電源ユニットが発電所の後ろの高台ではなくて、前にあるんだぜ。どうやって、あの大津波を生き延びたんだろう。日本人たちは、自分たちがどれほど運がよかったか、知ったら驚くのではないか」 とemailが来ている。 モニとわしが、オークランドの、まだまだあちこちを直したり改築したりしなければいけない家のラウンジで、カウチに座って、するすると、奇妙に抵抗がない、非現実的な速度で、広がってゆく黒い水の広がりを観ているのはおなじで、あっというまにモニの唇が青ざめて、薄白くなって、やがて、顔全体が、すうっと血の気がひいていくのもおなじです。 ただ異なるのは、夢の世界では、仙台の人が、「たいへんな大災害でしたが、なあに東北人は打たれ強いので、みんなで力をあわせて、なんとか再建しますよ。 原発が爆発したというデマがとんだときは、もうダメかとおもいましたが、 なんとかもちこたえてくれて、わたしたちも、なんとかなるという気持ちになれました」と述べている。 考えてみると、ぼくは日本を知らない。 いや、知ってはいるけど、いまの日本は見知らぬ国なのだとおもう。 2010年に日本を発って、そのあと、考えてみて、もう1ヶ月というような期間でも、戻って、訪問することはないだろう、という結論で、持っていた家も、広尾山も軽井沢も、鎌倉のあのなつかしい縁側と薄い硝子窓の家も、処分してしまった。 他国なら、賃貸にする、ということも考えられるが、日本は、自分の投資が市場としている地域に入ってなくて、よその会社に任せようにも、管理会社の体制もあんまりしっかりしていないので、売却してしまったほうがいいだろう、という判断でした。 そのあと、2015年にいちど、欧州へ行った帰りに立ち寄っている。 数日の訪問で、ものものしい、慌ただしい旅で、そんなことは日本ではついぞ、やったことはなかったが、背に時間は変えられなくて、移動はヘリコプターやリムジンで、恥ずかしくないの?というくらいダメガイジンそのまんまの滞在で、京都も町屋のようなところに滞在したかったが、蹴上のウエスティンに泊まって、錦市場に行って、ずっとむかしの楽しい思い出がある清水寺の坂道がひとで埋まっているのを観て、げげげ、と驚いたりして、次の日はお目当ての寺町にでかけて、かねて予約して買い集めてとっておいてもらった骨董や岩絵具、金箔の買い物をして、これだけは執念で、オダキンにさんざんうらやましがらせられて悔しかった、551HORAI、蓬莱の肉まんを買って、ホテルの部屋で食べた。 東京は、ただ、もう一日、あの雰囲気にひたっていたかっただけなので、短い滞在と言っても、満足で、なじみのホテルに宿泊して、伊東屋にも行き、築地の場内外を巡り、銀座三越のデパ地下を探検して、すっかり満足した。 焼き鳥や、うな重、鮨店に行って、「日本の味」を堪能したのも、言うまでもない。 英語世界では魚釣りの餌でしかないカツオの、藁でつつんで焼く、「タタキ」もおいしかった。 いま思い出しても、楽しくて、気持ちが浮き浮きしてしまうが、奇妙な点は、まるで初めて日本を訪問したように印象されていることで、日本は日本でなく、自分も自分でなくて、なにか、夢のなかの再訪であったように感じられる。 むかし溺愛した恋人に会うようではなくて、行きずりの、おもわぬ邂逅のような感覚がぬけなかった。 ほんとうにほんとうに楽しかったが、あれは、ぼくが知っている日本だったのだろうか? あの笑いさんざめいていた日本は、ほんとうに、ぼくがひとの肩を抱いて一緒に涙を流したり、数寄屋橋のオーバカナルで盛大に酔っ払って、千鳥足で日比谷の、高架の裏の、小さな広場の、小さな小さなゴジラに挨拶しに行ったりしていた、踏み込んで社会の異常さに友達と怒って、こんな社会を持って恥ずかしくないのか、と涙をためて拳をにぎりしめた、まるで肉親のような国と、おなじ国だったろうか。 みな、幻影だったのではないか。 2011年の3月11日に、意味という意味を殺された、かつては独自の、言葉の原義どおりの意味でuniqueだった文明の亡霊なのではないのか。 福島第一事故のあと、言葉が現実と乖離して、言葉だけで事実を構成できるかのように、意味性を捨てて、ひとりよがりの得意満面を始めた日本社会を、インターネットを通じて、ずっと観てきた。 「空前の好景気」と首相がいえば、目の前に、住む家すらなく、ネット喫茶で夜を明かして、町をさすらう人間がいくらもいるのに、社会は繁栄していることになってしまい、中央銀行が金の糸目をつけずに株を買い支えるという、マンガ的なインチキによって株価を吊り上げて、「我が国の経済は、かつてないほど強くなった」と胸をはってみせる。 実がない、というが、 それ以前に、現実というものの重みに興味すらもたない政権が長期にわたって続いて、それを観ていた子供達から、まず始まって、宿題も、やらなくても、やったといえば終わった事になる、なんだって出来ちゃったことにすればいいのさ、言葉だけで現実は空洞の、不思議な世界観を身に付けていく。 そうこうしているうちに、悪いことに、アメリカにはドナルド・トランプが現れ、連合王国にはボリスが登場して、ドイツやカナダと、いわば妄言派と現実派と呼びたくなるような対立を始めて、スチャラカおじさんの安部晋三は、ほらみろ、やっぱり現実なんてどうでもいいんだ、と言わんばかりに小躍りして、小走りで、トランプたちにすり寄っていった。 10年は、社会全体が意味性を失うのに充分な長さだったのではないか。 だから、 考えてみると、ぼくは日本を知らない。 見知らぬ国が、真実が真実であることをやめなかった頃の日本を演じている。 世界中で人気を博しそうなアニメがつくられ、マンガが描かれ、国外では食べられない水準の鮨が握られ、精妙に工夫されたスープのラーメンが、「はい、トンコツいっちょう!」の威勢の声とともに供される。 社会という表面の鏡に映っているのは2010年までと同じ日本だが、よく眼をこらしてみると、それはいわば先人がつくったレシピによって出来た文明が繰り返されているだけで、その文明を生みだした淵源は、巨大な伽藍ごと崩れ落ちて、空虚のなかに見渡す限りの瓦礫の山をなしている。 むかし愛した人が、亡霊であると知っていて、それでも、そのひとの過去の記憶のあたたかさに報いるために、まるで生きている人であるかのように話しかけているような気になります。 あの人が、いつか肉体を取り戻す日が来るだろうか。 いや、来ると信じても。

  • 2011年3月11日

      タイムズ・スクエアに立って、ぼんやり、リコーのシリンダー型ビルのLEDスクリーンを観ていた。 がんばれ、日本 と書いてあります。 日本語だったか、英語だったか、あるいは日本語と英語が交互に映されていたのか、もう遠い昔のことなのでおぼえていない。 おぼえているのは、オークランドを発つ直前に見た、非現実的な感じがする、まるで地上の町と津波の映像とふたつの異なるレイヤーを重ねたような、いわば不自然な巨大津波の映像と、マンハッタンに着いて、たしか14th StのLa Nacionalで一緒に夕食を食べた原子力工学に詳しい友達が、青ざめた顔で、「ガメ、これはたいへんなことになった。ほんとに日本人たちだけで、どうにかなるだろうか」と述べていた、そのときの友人の顔の深刻さや、あるいは、通りすがりの日本料理店で、手書きの紙がドアに張り出されていて、福島の方言らしい日本語で「日本、がんばってくれ!」と祈りのように書いてあったことくらいだろうか。 マンハッタンは、街をあげて、まるごと日本と福島へ声援を送る、とでもいう様子で、広場という広場では義援金が募られて、夜になれば、街のあちこちのコーナーでろうそくを灯して祈りを捧げるひとたちの姿があった。 ネットで知り合ったロサンゼルスに住んでいる大学講師の人が、「マンハッタンで寄附金を募る輩なんてのは、だいたい詐欺に決まっているからオカネを渡してはいけない」と、わざわざ言いに来てくれたが、モニとわしは、目に入る限りの募金箱に、委細構わず、全部、あまりおおくもない寄付をねじ込み続けていた。 いま見ると、そのころにも何度も書いているが、最も不思議なのは、日本の人が誰も逃げださないことで、いまおもいだしてみると、危機にさらされているのに逃げない日本の人びとに対して苛立ちというよりは、純粋な不思議さ、 いったいどうしたら、個人として、「逃げない」という判断ができるのだろう? と、訝しくてたまらなかったもののようでした。   一方で、非日本語人は、逃げに逃げた。 仙台に住んでいたオーストラリアのシドニー人の若い男の人は、津波の第一報を聞いた、その瞬間に手近にあった自転車に乗って、というのは平時の言葉で平たくいえば自転車泥棒を働いたのだとおもわれるが、ひたすら南を目指して、途中、郡山でくたびれはてたので、なぜか鍵がかかっていなかった美術館に潜り込んで、一泊して、翌朝、また自転車をこぎつづけて、成田に至ると、そのまま飛行機でシドニーまで一気に逃げ去って、政府だったか新聞だったかに、その見事な逃げっぷりを称賛されていた。 日本の人たちは逃げなかった。 インターネットで情報を集めるのが得意な人ほど、福島で、仙台で、東京で、じっと家のなかに籠もっていて、そのうちにマンハッタンにいるモニとわしのところにも「正しく怖がる」という不思議な言葉が聞こえてくるようになっていった。 友達たちが「日本の人に役にたつ情報があったら伝えてやってくれ」と述べて転送してくる膨大な量の各国大使館からのemailの情報を、初めのうちこそネットに流していたが、そのうちに誰も反応しないのを見て、真に焦眉の問題についての情報だけを出すように変えていったが、読んでいるほうは、あんまり興味がなかったようで拍子抜けでした。   外国政府は比較的敏捷に動いて、例えば英国大使館はバスを現地で調達して盛岡だったか、から出発して、石巻で、仙台で、相馬で、というように土地土地で連合王国人を拾い上げて、むろん、申し出があれば、アメリカ人でも、ニュージーランド人でも、カナダ人でも、無差別にピックアップして成田に届けているもののようでした。 英語人たちは、日本人が見るからに平静な外面を装って、普段と変わらない生活を始めている町の様子には眼もくれずに、日本語がわかる人間も、日本のニュースが述べる事態の解説や行動のリコメンデーションには目もくれずに、「お尻に火がついたように」、ただもう、ひたすら逃げて、政府も航空機をチャーターして無料で自国の国民を祖国に運ぶ国が多かった。 ニュージーランドも例外ではなくて、Air New Zealandが常より多い便数で飛んで恐怖で真っ青なキィウィたちを9000km離れた母国へ運んだが、そのときにニュージーランド市民のボーイフレンドやガールフレンドで、ビザもなにもないのだけれど、とにかく離れたくない一心で、乗り込んで、そのままニュージーランドに居着いてしまった人もいたようでした(^^) 日本では福島第一発電所の事故が「ほんとうに危険なのかどうか」という激しい議論が始まっていて、「科学をきちんと勉強してから怖がれ」という一派が勝ちをしめて、ちいさな子供をもった母親たちは、自分の科学への無知を呪いながら、必死に放射能汚染が小さそうな食材を調べては子供たちに与えようとして、それをまた、「正しく怖がれ」の知的エリートたちに、「そんなに過敏になって選ばれたら産業が衰退するではないか」と叱責されていた。 「第一、おまえたちは、危ない危ないというが、それが風評被害を起こして、福島の農家の人達が困窮することをなんともおもわないのか。 それでは犯罪行為ではないか。 もし本当に放射能が危ないというのなら、危険を証明してから言え」と言う。 専門家たちが正しいのか、素人衆が正しいのか、人為災害の歴史は、こういう場合には、まず100%、専門家の側が間違っていると教えているが、放射能の健康への害などは、多く、遺伝子レベルのもので、被害が明らかになるまでに人間の感覚を超えた時間がかかるうえに、放射能で、ぎっしり握りしめられたおにぎりをテレビカメラの前で、安全を示すためにパクついていた芸能人が急病で死亡しても、その死因となる病気を、医師が「放射能のせいですね」と断定することは、まずありえない。 酷い言い方をすると、観察者にとっては専門家と素人のどちらが正しいのでも構わないが、最も興味を惹いたのは日本語世界では、個人の側が「万一のときにダメージを受けるのは、わたしなのだから、もしほんとうに危なくないと言い張るならば、その確たる証拠を見せてくれ。それを証明すべきなのは、きみたちのほうではないか」と述べるのではなくて、あべこべに「危なくないんだから怖がるな」と超テキトーな論拠で言い張るのが政府や専門家の側であった点で、これには、心からぶっくらこいてしまった。 見ていた範囲で、なかでも際立って積極的に「正しく怖がれ」「自分の無知で風評被害を起こすな」 「〇〇は物理屋だから、ああいうことをいうが、医学屋のXXは、そんなことはないと言っている」と、言葉使いのうえで「化学屋」「物理屋」、△△「屋」という言い方が目立つ人がいて、日本の某大学のなかでは、そういう言い方を好む人がいたのをおぼえていたので、その大学の人だろうかと、そのひとの経歴をのぞいてみると「工業高校卒」と悪びれもせず書いてあって、正直であるのはいいことだが、なにがなし、暗然とした気持ちになったりしたことをおぼえている。 そのうちに、6月になると、モニとわしのニューヨークで片付けなければならなかった要件は、ほぼ終わって、欧州へ移動することになったが、そのころには、あれほど「フクシマ支援」一色だったマンハッタンでも、もうほとんどフクシマが話題になることはなくなって、日本人は、あのものすごい大事故をもうたいして気に留めていないのだ、という不思議なニュースや、返って、外国の人間が騒ぎすぎるのは日本に対する風評被害が立つといって日本人は迷惑がっている、という声が届くにいたって、関心はどんどん薄れていった。 そのあとでも「環境問題に敏感なひとたち」を中心に福島事故処理はどうなったか、というニュースが時折流れてはいたが、翌年だったか、ずっとあとになって、「海外からの義援金が実は捕鯨事業の補填に使われていた」というニュースが駆けめぐると、それまで熱心に支援していた人達も、いっぺんに熱が冷めたようでした。 コモ湖のトレメッツオに買った、モニとわしの別荘の、すぐ近くに滅法おいしいピザ屋があったことをなんどもブログに書いたが、その先の坂道をのぼっていくと、山の上においしい朝食をだす小さなホテルがあって、その小さなホテルのおおきなテラスから眺めるコモ湖の眺望があまりに素晴らしいので、近所の別荘族に、朝食のカフェとして人気があって、そのうちには、なんども顔をあわせるうちに、馴染みになって、テーブルを共にして朝食を摂ったりしていた。 そういう「近所のなかよし」のなかにドイツ人とドイツ語圏スイス人の夫婦がいて、モニとわしが日本にいたことがあるのを知ると、ごく当然のようにフクシマ事故の話題になっていった。 日本でも知っている人が多いとおもうが、ドキュメンタリがいくつもつくられたせいでもあるのか、ドイツ人にはフクシマ事故に強い関心をもっている人が多い。   ドイツの人というのは親切が度が過ぎて、簡単にいえばお節介焼きで、しかもズケズケとものを言う人が多いのが国民性として知られている。… Read More ›

  • モニと一緒にいるということ

    ラミュエラの坂をのぼりながら、モニのことを考えました。 そんなに深刻なことを考えたのではない。 モニは、どーして、あんなにかっちょいいのだろう、とか、モニはふたりだけでいるときに笑うと五歳くらいの子供みたいだのい、とか、そーゆー他愛のないことです。 なんという美しいひとだろう。   わしは、結婚するまで、ずうっと長いあいだ、どれほど自分がモニを愛しているか知らなかった。 ひとりでいることを偏愛しすぎたわしは、自分のソウルメイトがこの世の中にいるだろう、という予想をすらもてなかった。 まして、それが自分と違う言語を母国語とするひとであるはずはなかった。 いま考えてみると、ただひとりで考えている人間がもつ思考の、なんという軽薄さでしょう。   人間の一生は怖い。 やりなおせない、からです。 いや、わしの社会では社会的な意味ではいくらでもやりなおすことは出来る。 でも、人間の意識をつくっている時間というものは不可逆的なものであって、一方向にしか流れない。 起きたことはすべて死ぬときまで自分で抱えてゆくしかない。 人間の一生はそう云う始原的な残酷さに満ちている。   こーゆーことを他人にいうのは適当ではないのかもしれないが、わしはモニと会えてよかった。 わしはモニの良い匂いがするベッドで背中の後ろから巻き付くモニの腕のなかで眠る。 起きると、モニの朝にはいつも暖かい身体が隣で行儀良く横になっています。 わしはつけっぱなしだった冷房を止めて、コーヒーをつくりに起き上がるであろう。 ソーセージをゆでたりベーコンを焼いたり、ポーチドエッグをつくったりして、モニと一緒にテラスで食べる。 モニとわしは、ありとあらゆることについて話すであろう。 モニの母国語で、あるいはわしの母国語で、エマ・トンプソンのドレスの話から土星の誰も知らなかった新しい環、R・ドーキンスの新しい本。 わしの投資の決断の仕方は性急すぎるのではないか。 あのLというひとは信用が出来ない。 あんなひととガメがふつーに仕事の話をするのは感心しない。 ガメの人生のゴールはなんであるか。 どうすれば、もっと幸せになると思っているのか。   タカプナの遠くにたおやかな稜線の島が見える、どこまでもまっすぐな砂浜を散歩しながら、ラミュエラの木陰の多い道を歩きながら、パーネルの坂道を歩きながら、モニとわしは、話し続ける。 カフェで、レストランで、誰もいない海の見える丘の上の公園のベンチにふたりで並んで座って、話し続けるでしょう。   はた迷惑なことに、急に立ち止まってキスをすることもあります。 モニの輝く柔らかい唇は完全にわしのものである。 道行く男どもが、ただでさえ巨大な「うらやましい」を3乗にしてくやしそうに歩いておる。 (ぬはは)   結婚という旧弊な社会制度がこれほど人間を幸福しうるものだとは考えたことがなかったので驚きました。 この制度は魂を私有しあうことを公に宣言している点ですぐれて反社会的で同時に私的である。… Read More ›

  • 彗星_ある艦爆パイロットの戦い

    (これは2009年6月10日に書かれた記事の再掲載です) カシノのブラックジャックテーブルというのは不思議な社交場であって、身も知らない人間同士が一致して、たとえば17からもう一枚ひきたい誘惑やディーラーの絵札に対してエースをスプリットしないまま勝負する誘惑にひとりひとりが耐えて「テーブルをつくる」作業をとおして一種の「友情」を形成してゆきます。 シドニーの平場のテーブルなどは世界でもいちばん滅茶苦茶なテーブルであって、絵札をスプリットしちゃうひともいれば、18からひくひともいて、論外だが少なくともクラブのブラックジャックテーブルにはまだブラックジャックというものの複雑さや良さが残っている。 そういう場ではマフィアの親分と市長が肩を並べて真剣な顔で考え込んでいたりします。 ある晩、冬のロンドンの裏通りに唐突に有る感じのカシノのクラブでエイトデックのシューとシューとのあいだに、わっしは隣りに座った合衆国人のへろい杖付きのじーちゃんと話しておった。 わっしが東京にいっていたのだと知ると、じーちゃんは、ちょっとなつかしそうな顔をして、自分もちょっとだけいたことがあるんだよ、と言う。 話は戦争のことになって、 「沖縄はこわかったなあ」と言います。 いやね、被害なんかはほとんどないんだよ。 カミカゼの奴が、殺されても殺されても襲ってくるんだ。 誰がどう見たっておれたちの乗っていた空母にまで届きっこないのに、見たこともないオンボロ飛行機でよたよたよたよた突っ込んでくる。 あんな高度から爆弾もって体当たりしてきても、たとえ当たったって被害なんか知れたもんさ。 徹甲弾ってものは弾丸でも爆弾でもある程度の加速度の加勢で被害を与えるようになっているわけだからね。 そのくらいのこと、彼らだってわかっているはずなのに、それでも突っ込んでくる。 殺されても殺されてもムダ死にしにくるなんて、あいつらヘンだったよ。 なんだか人間でないものと戦争をさせられている感じがしてやりきれなかった。 そのうちに根性なしの対空機銃手のやつがひとり頭がいかれちまってさ、取り押さえるのに往生した。 「たいへんでしたね」 わっしは頭の中でちょうどその頃たくさん読んでいた日本側の特攻隊員の本に書いてあったことを思い浮かべてじーちゃんの話に照合したりしていたが、当然のことながら、そーゆー活字で仕入れた虚しい知識を口に出して言ってみるわけにはいかなかった。 そう言えば、おもしろいことがあったよ。 じーちゃんは、相変わらず遠くを眺める眼をしながら沖縄戦の記憶をたどっています。 ひとしきり特攻機がやってきて攻撃をした後にね、おれが空を眺めていると、高いところに天井をつくっていた雲のなかからポツンと黒点が現れてね。 それがみるみるうちに大きくなったかと思ったら、日本の水冷エンジンの急降下爆撃機なのさ。 「Judy っすね」と、言ってしまってから、「しまった」と思っているわっしのほうを 「おっ、知っているじゃないか」という顔で見やってニヤっと笑ってから、 そう、たった一機だけのね、と言う。 ところが、こいつがうまいパイロットでね。 びっくりするような急角度で突っ込んできたと思ったら船団の大型油槽艦の甲板のど真ん中に500キロ爆弾をたたきつけていったよ。 一瞬で、大爆発して、そうだなあ、2千メートルくらいはある火柱をふきあげて沈んじまった。 あんまり見事な間(ま)とタイミングなので、周りの船も対空砲火すらろくすぽ撃てない始末でね。 すぅーと、なんとなく戦場の「幕間」みたいなところにやってきて、狙い違わずぶつけていきやがった。 名人だったぜ、あれは。 それから、じーちゃんはしばらく黙ったな。 少し濁った青い眼が、湿っぽくなったようでした。 そのJudyが、そのあとやったことをおれは忘れられんのだ、と言う。 「?」 急降下から猛烈なプラスGの引き上げをやって急降下爆撃の見本をみせてくれたんだけどね、引き上げが終わってから、また反転して、なんとこれみよがしに海に突っ込んで自爆しやがった。 あの頃は、という頃になるとじーちゃんは声が出しにくそうである。ちょっと涙をぬぐったりしてます。 あの頃は….おれなんかは、いまでもそう思っているがね….おれたちはみんな「良いジャップは死んだジャップだけだ」と思っていた。… Read More ›

  • 88mm_flakとドイツ中世物語の終わり

        88mm_flakは連合王国人やニュージーランド人にとっては恐怖大魔王とあんまり変わらない存在であったのは日本のひともよく知っているはずである。 ロシア人たちにとっては丁度対戦初期のドイツ人にとってのKV1と同じような存在であったと思う。 ろくでもない兵器しか持たなかったロンメルのアフリカ軍団のなかにあって水平射撃が出来るように改造された88mm_flakは、ほとんどロンメルによってコントロールされた落雷のような効果をもっておった。 連合王国人はみなロンメルが文字通り支配した砂漠の戦場で「うにゃー、あんたは雷神か」とさぞかし愚痴ったことでしょう。 背が高いという地上兵器としては致命的な欠点があったが、ロンメルは歩兵指揮官時代からカムフラージュの天才であったので、この扱いにくい兵器をうまく秘匿した。 88mmによるアンブッシュに遭遇する、ということは連合軍の戦車兵にとって、そのまままっすぐ死を意味したのです。 地雷原のあいだに開いた細い戦車路をすすんでゆくと、ぜーんぜん見えない遙か彼方から高速の徹甲弾が飛んできて砲塔は吹っ飛ばすわ、車体は跡形もなくなるわで、連合軍のほうはなんだか人力を越えた神話的な懲罰に遭っているようだ、とその頃の記録には書いてあります。 敵にはなかなか当たらないで味方の歩兵に対して百発百中なので有名だった榴弾をえっこらせと後ろからぶっぱなすか、地上砲火による死亡率が高いので航空兵が死ぬほど嫌がったカーチスP40やハリケーンによる地上攻撃によって破壊するくらいしか方法がなかった。ひどい例になると一台の88mm_flakに40台余の戦車が瞬く間に破壊されて、ロンメルに日記で「いったいなんだってイギリス人たちはわざわざ一台ずつ壊されにやってくるのか、さっぱりわからん」とか書かれておる(^^;) まっ、わっしはドイツ人だったロンメルと違って理由を知っておるがな。 えっ?理由? そんなことはわかりきっておる。イギリス人とニュージーランド人だもの。 「マジメだから」です。   88mm_flakは兵器としてみると、ドイツ兵器のよいところがいっぱい詰まっておる。 まず第一に使用された弾頭が優秀である。 当時のドイツは冶金の研究や材料工学では世界一であった。 当のドイツ軍歩兵から「あれが戦車なら、うちのかーちゃんは重戦車だぜ」と悪口を言われた見るからに可愛いドイツのII号戦車の20mm機関砲でも日本軍の九七式中戦車「チハ」の57mm戦車砲よりも装甲貫通力が高かったのは、ドイツ人の「世界一の合金技術でつくった砲弾を高初速で打ち出して敵の装甲に叩きつける」という技術方針が有効であったせいです。日本はおろか合衆国ですらなかなか現実にはできなかったこの技術思想をクルップは1928年という段階で実用兵器化してしまいます。 無論、第二次世界大戦を通じてT34やチャーチルやM4シャーマンの砲塔をふっとばし続けた。 部品点数も意外なくらい少ないな。 多分、開発後、減らし続けてきたのでしょう。 扱いやすさと信頼性、という点でもドイツの火砲らしい。 ちょっと重すぎて戦場に放棄されることが多かったが、これはこのクラスの防御砲の宿命である。   ドイツ人たちが最も記憶に残しているのは多分ベルリン陥落のときの英雄的な戦いにおける88mmの活躍でしょう。 もうどんな狂信者にもドイツ帝国の崩壊が確実になった戦闘で、押し寄せるT34に対してドイツ人たちは街の角角に砲座を築いてすえた88mm_flakを最後の盾にしてロシア軍と対峙します。 どんなにヒトラーの帝国を憎むひとでも、このベルリンの戦いの最後を涙なしで読むのは難しい。 たとえばベルリンの中心街区におかれた88mm_flakは信じがたいような正確さと発射速度でT34の戦車群を何度も後退させますが、弾薬がつきて、やがて沈黙します。 ロシア歩兵たちが戦車のあいだから駆け抜けて殺到してみると、そこにはお互いの頭を拳銃で撃ち抜いた14歳くらいのふたりのお下げ髪の少女とやはり同年代のふたりの少年が倒れていたそうである。 この有名な挿話にもちゃんといつものごとくしたり顔の評者がいて、あるアメリカ人は、「14歳くらいの子供に88mm弾の装填もふくめて、そんな射撃が出来たわけはない」とゆっていますが、こーゆー人間は「人間の必死さ」というものをまったく理解できないヤナ野郎だというほか何も言っていないのだということを自分でわからないもののようである。   近代戦史上、もっとも強かったのはドイツ軍兵士だろう、とわっしは思っています。 ドイツ軍兵の強さは有名な歩兵の攻勢戦と並んで敗退するときの後退戦で最も顕著である。 潰走したはずであるのに、ほんの数キロ先ではもう再結集して何事もなかったかのように防衛陣を布いててぐすねひいて待っておる。 支援装甲部隊も機関銃以上の武器ももたない歩兵部隊が、ロシアの戦車群に遭遇するとたいして悲壮な気分にもおちいらずに地雷を改造した爆弾を抱いて匍匐して戦車の腹にもぐりこみ黙々と戦車を破壊してはまた匍匐して自軍に戻ってゆく。 ドイツ人の「負けているときの強さ」というのは戦史に未曾有のものである、と考えます。 多分それはドイツの職人文化をつくったのと同じ根っこの、ドイツ人たちの頑固さと部族文化的な「仲間意識」から来ている。 一方でドイツ人を見ていて、このひとたちって、ほんまにこれが好きやな、と思うのは 中世騎士物語的な悲劇の感情であって、どうもドイツのひとは、これに酔いだすととまらない。ヒットラーみたいにケーハクなポピュリストにころっと歴史的な規模でだまされちゃったのは、明らかにこの嗜癖によってます。… Read More ›

  • 日本語で本を出して考えたこと

      最も意外だったのは、日本から遙々送られてきて、もっかはchaoticなNZの国際貨物センターを通りぬけて、シーク教徒の、かっこいいオレンジ色のターバンを巻いた、やたら知的なおっちゃんが運転するDHLで本が着いてみると、表紙の紙をすりすりしたりして、案外嬉しかったことで、ほんとうは日本語で本を出してもピンと来ないだけなのではないかとおもっていたのに、へえ、案外、楽しい気持ちになるんだ、と自分を観察しました。 なにしろ態度の悪い著者で、そこですぐにページを広げて、おおお、こんなふうになるのか、と喜びで顔を輝かすかとおもいきや、やりかけていたCompany of HeroesのMODにもどって、機関銃座を工兵に焼かれちゃったよおおー、なんだよ、工兵がそんなに強くていいのかよ、と夢中になって作戦しているうちに、くたびれて寝てしまった。 本を開けて、読んでみようとおもったのは到着後3日くらいで、カウチに寝転がって、読んで、読み通して、「おお、なんという素晴らしい日本語だろう」と感動してしまった。 天才なのではないか? どりゃどりゃとアマゾンを見ると、売り上げランキングの上位ベストセラーで、おおおお、すげーと考えた。 しかし、まあ、なんとなく他人事で、外国語だからかなあ、とおもったり、そっちのほうで悩んだが、編集友が、やりとりしていると、いつも物足りなさそうで、「もっと自分の日本語に情熱と自信を持たんかい!」と苛立っている様子であるのをおもいだして、ははあ、これか、たしかに編集者として困るよね、と考えた。   しかし考えてみると、むかし、英語の本を出したときもおなじで、なんだか感情に部分的崩落があるのかも知れません。 横書きよりも縦書きのほうが、ずっと読みやすくて、頭に入りやすいので、その程度が事前の想像よりもおおきかったので、ちょっと驚いた。 日本語って、縦書き語なんだなあ、と改めて認識した。 編集友とわしのコンセプトは、なにしろ編集友は、なぜか、わし日本語に絶大の自信を抱いているので、何冊も出版されるということを疑っていなくて、ただ内容があまりに多岐にわたっているので、わかりにくいだろうから、横断的に概観できる目録をつくろう、ということだった。 じゃ、「88mm flakとドイツ中世の終わり」 をいれよう!と勇んで提案したら、返事が返ってこないシカトで、そのまま却下になったが。 ほとんどの記事は、なにを書いたか、ちゃんとおぼえていなくて、 おめでたくも、おおおー、すごい卓見とおもったり、それは違うんじゃないかなあ、と考えたり、あんた、自分が書いた本を読んでなにやってるんですか、な状態だったが、食べ物でも後味がよいということがあるが、後味がよくて、良い本であるし、こういう考え方をする人は好きだな、と作者に好感をもった。 本の内容自体ではなくて、出版にまつわる事で驚いたのは、言葉が悪いが、「ファン」の数のおおさで、twitterのDMはいつも励ましや「大ファンなんです」のメッセージで埋まっていて、どこかで見た名前だなあ、とおもって検索してみると、大スターであったり、著名な研究者であったり、有名大学の教授や准教授であったり、なんだか名前だけ並べると、まるで才能がある有名な作家が何故か初出版するような趣で、ぶっくらこいてしまった。 人間などは単純なので、ユーメイな人にべたぼめされると、なんとなく才能が伸長したような気がする。 それにもまして。 最も嬉しかったのは、初めて言葉をかけてくれる人の数の多さで、ブログをずっと読んでいて閉鎖になったので落胆していたんです。たった40本だけど、記事がまた読めるようになって、表現できないほど嬉しい、というようなメッセージが山ほど来て、ぐわああああ、とおもったことには、 あなたのブログがなければ、わたしは生きていなかった、や、わたしの娘は、あなたのブログで救われたんです、わたしも、あなたの記事を娘に聞いて読んで、すっかりファンになりました、と書いてある。 いったい、どういうことなのだろう? もしかして、わしって、ほんとに才能があるんちゃう? と、ちらとおもうが、褒めてもらったときには、ただ気持ちよくなっていればよいので、理由を詮索することはなくて、いまでも毎日とどくメッセージを読んで、ひとりでキャッキャッと喜んでいる。 そういうわけで、味をしめて、2冊目をだすことにした。 もともと、ブログを続けてきた「しめ」のラーメンで、500部くらい自費出版で出せばいいよね、と考えていて、2冊目なんて出るわけねえだろう、と述べていたが、浮かれて気が変わって、他の本を書く人からみたら、たいしたことはないのだろうが、本人から見れば「引く手あまた」に見えるお誘いを並べて、銀座のバーの雇われママみたいというか、これもいいなあ、あれもいいなあ、と、ためつすがめつ、玩賞している。 チョーのんびり人間なので、日本が梅雨になるころに決めて、夏が終わる頃に出るのではあるまいか。 それまでは、このブログを再開して、「著者がツイートさえしなければ良い本なんだけど」と言われながら、われながら名作ツイートである   「チン〇コ潜水艦」シリーズのようなツイートが出来るようにツイートも続けていきたいとおもっている。 闇夜にボオっと光る蛍光塗料いりコンドームをライトセーバーに準えたツイートも芸術的で好評だった。   精進します。 なんちて。 わし年長日本友が「ガメの本は、やっぱ売れないなあ。せっかくtwitterやっていても3万人も、おまけにインフルエンサーを狙い撃ちするようにブロックしてちゃ、無理だよな。そのうえ『はてな』はコミュニティ全体まるごとが敵だし、どうしようもないやつ」と笑っていたが、 うるさいな。 わたしは、わたしがやりたいようにしかやれないんです。… Read More ›

  • 日本人と民主主義 その7

        シンガポールを見ていて、いつも思うのは、と言っても考えてみると日本とおなじことで、もう十年くらいも訪問していないので、いつも思ったのは、と書くべきだろうが、新鮮な驚きというか、人間は別に自由社会でなくても幸福でありうるのだ、という事実です。 こっちはまるで行ったことがないので、皆目わからないが、上海で教師をしていた友人に訊いても、全体主義中国も事情はおなじであるらしい。 自分では自由社会でないと生きられないのはあきらかで、簡単にいえば、猛烈にわがままであるからで、不貞腐れて吸いさしの煙草を指でピンと弾くと、おまわりさんがぶっとんでくるような社会では到底生きられない。 煙草、喫わないんだけどね。 ものの譬えです。 なんの譬えかというとシンガポール政府が最も嫌いなタイプの市民を視覚化しようと考えた。 あんまり、いいおもいつきじゃないか。 女らしくしなさい、や、女のくせに、のような表現がある社会では、一応、いまあらためてみてもチ◎チン(←二重丸であることに注意)がついていて、もうひとつの、ややややこしい見た目のほうの性器はついていないので、男と女に分類すれば、男だが、それでも無茶苦茶腹がたつので、そういうときに猛然と、指をたてて、舌をだして怒れない社会も、自分には向いていない。 そそっかしいひとのために述べると、別にシンガポールで「女のくせに、とか言うなよ。張り倒すぞ、このガキ」と述べても、おまわりさんがぶっとんでくるわけではありません。 ぜんぜん、ダイジョブ。 余計なことをいうとシンガポールは、日本などよりは遙かに女のひとたちの権利が強い国で、その権利の強さは、経済力に裏打ちされている。 もっと余計なことを言いつらねると、シンガポールは女の人が仕事に集中しやすい国でもあって、わし知人の女のひとは、インド系のひと、中国系のひと、マレー系のひと、どのひとも、結婚したあとでも家事をいっさいしません。 若い時は日本語では共働きという共倒れみたいな言葉があるが、ダブルインカムで、朝は夫婦そろって階下のホーカーズで食べる。 ラクサ、ミーゴレン、トーストと目玉焼きもあれば、もちろん、カレー粉をかければシンガポール、シンガポール・ビーフンもあります。 いま見ると、むかしよりだいぶん価格があがっているが、住宅地のホーカーズで300円〜400円であるらしい。 首尾良く夫婦で成功すると、今度は、たいていインドネシア人かマレーシア人のお手伝いさんを雇って、本人たちもトイレとシャワーが独立についている「お手伝いさん部屋」があるアパートに越す。 閑話休題(それは、ともかく) ところが、首相に向かって「女のくせに、とか言うなよ。張り倒すぞ、この豚野郎」とかいうと、ちゃんとおまわりさんがぶっとんで来るはずです。 あるいは、よおし、今日は天気がいいから、いっぱつ世界をおどかしちゃるぞ、と考えて、永久革命論を書いて、こんなクソ政府なんてBBQにしてくれるわ、てめえら銀行の地下金庫に閉じ込めて蒸し焼きにしてやるからそう思え、と書いてサイトにアップロードすると、おまわりさんがビッグバンドでやってくるとおもわれる。 うるせえな。 おれの勝手だぜ、というわけにはいかないのですね、これが。 かつて、バルセロナには、ランブラのいちばん人混みが激しい往来で、裸で、でっかいチンチ〇をデロンと出して佇んでいるおっちゃんがいた。 あのひとも、シンガポールなら豚箱行きだが、バルセロナでは観光資源化して、名物じーちゃんになっていた。 子供が寄っていって、おっちゃん、ちょっとさわってもいいですか? つんつん。 おお、でっけえ、とか述べていたりしたもののようである。 あと、ほら、タイムズスクエアで、デロンはないが、アンダーパンツとブーツにカウボーイハットでギターを抱えて歌っている人がいたでしょう? あれでも逮捕される。 しかし、永久革命を唱えたり、チンチンをでろんと出して交叉点に立ったり、裸でギターを弾いたりしてみたくない場合は、シンガポールは快適な国です。 前にもなんどか述べたように、なにしろ、「見せかけは民主社会だが、ほんとは一党独裁全体主義」の国を作るにあたって、お手本にしたのが日本なので、本質的に日本と似た社会だが、ひとつだけ、日本社会がトヨタクラウンみたいな国であるとすると、シンガポールは、どう見てもベントレーのスポーツカーを目指していて、わしが何度も訪問していたころでも、年々、社会から「ダサさ」が消滅していた。 「絆」とか「美しい国」とか、国語がんばろうな、だっさい言葉で国民をだましちゃろう、という底の浅いマーケティングは消えて、 Crazy Rich Asiansを見れば判る、繁栄と成功で、自由のような西洋イデオロギーを圧倒してしまった。 日本は、たいへん不運な生い立ちの国で、戦争に負けて、国民が求めてもいない、どころか、どんなものかよく知らない「自由」をアメリカが押しつけていった、という歴史を持っている。 戦後すぐは、あわてて「自由って、なんだ?」という議論が沸き起こったが、空転する、とっかかりがない議論を繰り返して、そのまま、みんなめんどくさくなって忘れてしまった。 アメリカは、と書いたが、日本の戦後のグランドデザインをつくったのは、アメリカ政府ですらなくて、精確に言えばアメリカ軍、です。 「天皇なんて、ぶっ殺しちまおうぜ」といきりたつニュージーランドやオーストラリアを、まあまあ、と抑えて、天皇を中心とした「国体」がある全体主義の枠組みをそのまま残しながら、「封建主義」や「軍国主義」を弾圧して、「自由を受け入れなければ刑務所にぶちこむぞ、こら」という不思議なことをやった。… Read More ›

  • 日本史 第三回 片方しか翼をもたない天使たちについて

      有栖川公園の丘の上にある図書館から、ひとりの若者が出てきたところだった。 若者、といっても、ぼくの眼にはまだ子供で、ひどく痩せていて、膝が突き出たジーンズに、ブラシもしていなさそうな長い髪がほどんど肩にまでかかっている。 おまけに本人は気が付いていないが、上下に「ひょこたん、ひょこたん」と音がしそうな歩き方で、それなのに足をひきずっているような、不思議な歩き方をする。 角の交番のところまでくると、立ち番の若い警官をちょっとにらみつけるような顔をしながら信号を待っている。 昼ご飯を食べてから午後の古典文学の授業に出ようとおもっていたが、めんどくさくなった。 なだらかな、長い坂を下りて広尾駅に出るか、産院下の交差点に出て、そこから坂をあがって都営バスで渋谷に出るか、あるいは、平坦だが距離が長い、中国大使館の前を通って材木町の交叉点に出る道を行って、六本木に出るか、 なんだか毎日おなじことで悩むので、いっそ月、水、金は広尾駅から日比谷線、というように決めてしまえばいいのではないかとおもうが、それもバカバカしいような気がする。 午後の授業に出る気がなくなった理由は、いつもの怠惰だけではなくて、昼ご飯にでかけた定食屋で見た光景のせいでもある。 学園紛争が長かったので、とっくのむかしに学生食堂が逃げ出した学校のなかには、ひどく不味いパサパサした菓子パンを売っている、近所のベーカリー「キクヤ」の出店以外はなにも食べ物を調達できる店がなかったので、もう中学生の頃から、きみは学校の外で昼ご飯を食べるのに慣れていて、いちばんおいしいのは西武グループの堤の家がある坂のうえの交叉点にある「キッチンあき」だったが、ここでは3年生たちが幅を利かせていて、カウンター席だけの店内なのにコーヒーまで注文してくつろいでいるので、 「おい。ふざけんなよ。午後の授業がはじまっちまうだろう」と後ろから立って待っている2年生が声を荒げても、 「うるせーぞ、2年坊主、おまえら、ここで食べるのは百年早いわ。 下の那須まで走っていって食ってこいよ」と集団でせせら笑う始末で、埒があかないので、倍近く払わねばならないフィッシャーマンズワーフに出かけなければいけないことも多かった。 その日も、そういう事情で、フィッシャーマンズワーフに出かけたが、店内に一歩入ると、3年生も2年生も店のコーナーにおいてあるテレビの画面を見つめている。 なんだろう?と思って見ると、雪のなかで機動隊が伏せている。 軽井沢のあさま山荘というところで、「連合赤軍」が銃をもって籠城しているのだという。 きみの高校のなかにも、赤軍派はいた。 戦記派叛旗派がいて、青年解放同盟がいて、あとはお決まりの中核派、革マルといて、革マルの幹部だった世界史の教師は横浜線で中核派の集団に襲われて頭蓋骨陥没の重傷で休講中だったりしていた。 でも「連合赤軍」という名前は初耳だった。 顔にみおぼえがある3年生の背の高い男が「殺せ!殺せ!やっちまえ!」と叫んでいる。 そのまわりで他の3年生たちが、げらげら笑い転げている。 「マルキなんて、みんなぶち殺せ」 きみも実は通りに出てヘルメットをかぶったことがある。 学校の友達の誘いはぜんぶことわって、深夜、こっそり相模原にでかけて、戦車の搬入に反対して集まっていた大学生たちに混じって、どのセクトにも属さないことを示す黒いヘルメットを手にして、デモの隊列に加わった。 結果は、ひどくがっかりさせられるもので、実際に加わってみるとまるで軍隊で、見るからに軽薄なリーダー格の演説がうまい大学生が、最前列に並べた高校生たちに逃げるな逃げるなと叫びながら、機動隊が放水車を前面に押し寄せてくると高校生たちを盾にするかっこうで、一目散に逃げていった。 逃げていく後ろでは、高校生たちが機動隊員にジュラルミンの盾で殴られ、女の高校生たちは髪をつかまれてひきずりまわされて泣き叫んでいたが、リーダーたちは振り返らなかったので気が付きもしなかっただろう。 きみの姿をみかけたらしい3年生が、次の日、「おまえ、いったいあそこで何をしていたんだ。公安の犬じゃないのか」と述べたので、きみはすっかり嫌気がさして、そのまま学生運動と名の付くものには背を向けてしまった。 その3年生が、公安が高校生たちのなかに放ったスパイだったと判ったのは、ずっとあと、大学を卒業してから、友達に初めて聞いて知った。 政治というものはそういうものだと、その頃にはもう判っていたので、ただ、そうだろうな、とおもっただけだった自分の気持ちを、きみは見知らぬ人の心をのぞき込むような得たいのしれない不思議なものだとおもうようになっていきます。 「時の時」という、いまではもう使われなくなった言葉がある。 きみが麻布の丘の上にある学校で中学と高校時代を過ごした数年は、日本という国にとっての「時の時」というべき時代だったのだとおもう。 誰にも言わないだけで、「世の中のために働きたい」という都会人らしくない、当時の日本人たちが聞いたらふきだしてしまうような純粋な気持ちでおもいつめて、本郷の大学を出ると、きみは大学院をあきらめて、といっても成績や家庭経済の理由ではなくて、人文系の大学院に行く級友たちに馴染めなかったからだけども、仕事につくことにする。 選択肢は朝日新聞社という新聞社と大学院と公務員で、結局きみは上級公務員試験を受けて、霞ヶ関に通う毎日を選ぶことになる。 振り返ってみると、その頃の日本は、自分達では一人前の先進国を自認していたが、ほんとうはまだ中進国くらいの社会でなかっただろうか。 後年、きみが霞ヶ関官庁のありかたにすっかり嫌気がさして、国費をつかって、でもひそかに日本には戻らないぞと決めて向かったボストン郊外のケンブリッジという町で、おなじ学校を出た、それなのにあの学校ではときどきあることで、あんまり見かけたことのない顔の日本人がいたでしょう? いつもUnoピザで、おもしろくもなさそうな顔でピザを食べながら、ピッチャーのアイスティーを真冬でもガブ飲みしていたあの奇妙な日本人は、実は、あとになってぼくの叔母と結婚するひとで、いまでもときどきスカイプで話したりするんだけど、あのひとは朝、わざわざいちど日比谷に戻って、高校へ行くまえに、三信ビルの地下にあったアメリカ人相手のダイナーで、一杯のウイスキーとステーキサンドイッチを食べてから学校へ行くのをしばらく習慣にしていたのだけれど、ちょうど日比谷線の出口から出て坂をのぼる頃になると、長身のイギリス人の双子の姉妹が学校へ行く途中であることが多かったそうです。 「ところがね、この双子の高校生のねーちゃんたちがジャガーに乗って学校へ行くんだよ!」と、いつか、この義理の叔父が興奮気味に話してくれたことがある。 金髪で背が高くて、すんごい美人の双子の姉妹なんだけど、毎朝みるたびに、 なにがなし、日本はまだまだダメだなあ、おれたちはビンボだし、ダメだ、とほとんど意味もなく考えた。 悪い癖で、そのときは言わなかったが、実はぼくはこの「双子の姉妹」を知っていて、あのふたりは当時高校生ではなくて休暇中の大学の一年生だったはずで、クルマもジャガーではなくてMorgan… Read More ›

  • サバイバル講座1

    個人が世界と折り合いをつける、というのは意外と難しい作業で、それが出来てしまうと、一生の問題はあらかた片付いてしまうのだ、と言えないこともない。 漠然としすぎているかい? 例えば医学部を出たが、どうも自分は医者には向いていないのではないか。 医学部に入った初めの年に新入生のためにホスピス訪問があって、そのとき、もう死ぬのだと判っているひとたちが、みな、曇りのない笑顔で暮らしているのを見てしまったんです。 わたしには、どうしても、その笑顔の意味が判らなかった。 医学を勉強しながら、患者さんたちの笑顔をときどき思い出していたのだけど、 あるとき、糸が切れたように、ああ、自分には医者は無理だな、と考えました。 絵描きになりたいのだけど、絵で食べていく、なんていうことが可能だろうか? 「ライ麦畑でつかまえて」の主人公は、お兄さんがハリウッドの原作者として仕事をすることを裏切りだと感じて怒るでしょう? でも「バナナフィッシュに最適の日」で、そのお兄さんは銃で自殺してしまう。 商業主義、がおおげさならば、オカネを稼いでいくことと、芸術的な高みを追究していくことは両立できるんですか? ぼくは、オカネを貯めて出かけたマンハッタンのMoMAで、Damien Hirstの例のサメを見たとき、吐き気をこらえるのがたいへんだった。 でも貧乏なまま絵を描いていくことには、なんだか貧しい画家同士のコミューンの狭い部屋で生活していって摩耗していってしまうような、不思議な怖さがあると思うんです。 そういうとき、きみなら、どうするだろう? ちょっと、ここで足踏みしよう、というのは良い考えであるとおもう。 足踏みして、自分の小さな小さな部屋で、寝転がって本を読んで、どうしてもお腹がすいてきたら近所のコンビニで肉まんを買って、その同じコンビニで最低生活を支えるバイトをして、….でもいいが、足踏みをしているくらいなら、ワーキングホリデービザをとって、オーストラリアのコンビニで、あるいは日本人相手のスーパーマーケットや日本料理屋で最低生活を支えるバイトをしながら、寝転がって本を読む、というほうが気が利いているかもしれない。 むかし、いろいろなひとの貧乏生活の話を読んでいて、結果として貧乏な足踏みが自分と世界の折り合いをつけるためのドアになったひとには共通点があることに気が付いた。 奇妙な、と述べてもよい共通点で、「本を買うオカネは惜しまないことに決めていた」ということです。 食事を抜いても、読みたい本を買った。 ぼくなんかは図書館でいいんじゃないの?と思うんだけど、買わないと本を読む気にならないんです、という人の気持ちも判らなくはない。 あるいは世界は一冊の本である、と述べたひとがいて、そういうことを言いそうな、もう死んだ面々の顔を思い浮かべてみると、多分、ルネ・デカルトではないかと思うが、そうだとすると、困ったことにこれから言おうとしている意味と異なった意味で言ったことになってしまうが、都合がいい解釈で強引に使ってしまうと、自分の知らない世界…この場合は外国…を一冊の本とみなして、ざっとでもいいから、読んでみる、という考えもある。 この頃は日本の人でも、なぜかだいたい20代の女の人が多いように見えるが、一年間有効の世界一周チケットを買って、成田からシドニー、シドニーからオークランド、オークランドからサンフランシスコ、ニューヨーク、ロンドン、というように一年まるまるかけて世界を読んでいく人がいる。 東京で広告代理店に勤めていたわけですけど、と、なんだかサバサバした、というような表情で話している。 日本では、ああいう世界って意外と軍隊ぽいんですよね。 英語国でも、割とマッチョな業界だけど。 ああ、そうなんですか? 要領だけのビジネスでは男の人のほうがケーハクだから、うまく行きやすいんですかね? と述べて、舌をだして笑っている。 わたしは日本人なので、やっぱり英語がいちばん大変でした。 日本人にとっては英語はたいへんなんですよー。 受験英語って、一生懸命にやると、どんどん英語が出来なくなっていくんです。 おおげさな言葉でいうと分析って、言語の習得にいちばん向いてない態度だと思いませんか? 日本ではね、構文解析なんて本を高校生が勉強してしまうんです。 文節と文節のかかりかたを図にしたりして、そりゃ、やってるほうだって古文書の解読かよ!と思いますが、みんながそうやって勉強してしまうので、逃れられない。 わたしなんか、それで、英文学ですから! もう最悪で。 ほら、ガメさん、N大の英文科の先生を一週間にいっかい教えてらしたことがあるでしょう? 教えていたのでなはなくて、質問に答えに行っていただけね。 旦那さんが生物学の先生で、義理叔父の大学の同級生なのね。… Read More ›

  • To my young Japanese friends whom I haven’t met yet,

      I’m just going to dive right in here.   As we have seen, the word ‘integrity’ is not in the Japanese language. Integrity. Wait. What? Really. Let that sink in. The absence of the word integrity is a monumental… Read More ›