日本人と民主主義 その4

    (この記事は2020年5月19日に「ガメ・オベール日本語練習帳ver5」に掲載された記事の再掲載です)   日本の人の「不躾(ぶしつけ)さ」が、ときどき、ひどく懐かしくなることがある。 短いあいだ四谷に住んでいたときにオオハラと言ったかな?記憶を上書きしている可能性があるが服部半蔵の槍があるお寺の坂の下にある中華料理屋さんで、麻婆豆腐を注文したことがある。 でっかい丼に入った、細かく壊れた豆腐が入っているスープが、どちらかといえば酸辣湯のように見えたので、「あの、これ、麻婆豆腐、ですよね?」と訊いたのがよくなかった。 ただ注文を間違えたのかもしれないとおもって、なるべく失礼にならないように尋ねただけのつもりだったが、カウンターの例の身体で押せば開く低い両開きドアをおしてノシノシとやってきた女将さんにえらい勢いで怒鳴られた。 「あのね。うちじゃ、これが麻婆豆腐で、一生懸命つくってるんです。ガイジンなんかに説教されてたまるもんですか。これで文句があるんなら、とっとと出ていきなよ!」 いやいや、そういう意味ではないんです、とパニクって青くなりながら、なんとか誤解を解いて、食べてみると、おいしかった。 ご飯も頼まないヘンな客で、相変わらず歓迎されない様子だったが、ともかくも、「おいしかった」と述べて「お勘定」を払うころには、でっかい女将さんの機嫌もなおっていたようでした。 もちろん、誤解に基づいた怒りが「不躾」だったのではない。 チョーおいしかった麻婆豆腐に味をしめて、ほとんど毎日のように通って、熱燗と麻婆豆腐を毎夜楽しんでいるうちに「ヘンなガイジン」という渾名を賜って、顔を突っ込んで、ガラッと引き戸を開けてのれんをくぐって店に入るたびに「おや、また麻婆豆腐なの? あんた他に食べるものないのかい?」から始まって、「ちょっと太ったんじゃないの?ビールをあんまり飲みすぎないほうがいいよ」 「おや、痩せたんじゃないかい? ちゃんと食べてるの? ガールフレンドをつくらなきゃダメじゃないか。 日本の女はいいよお。あんたの国の女もいいかもしれないが、妻にするなら日本の女が世界一って、知らないのかい」 だんだん江戸言葉になっていきそうな舌のまわりかたで、太った痩せた、眠ってないんじゃないか、酒の飲み過ぎだとおもう、 西洋のルールなら、おおきなお世話もいいところの軽口がとんでくる。 ぶっくらこいたのは、短い滞在がおわって、明日、国に帰るんです、と述べたときで、むかし言葉で、初めて名前で呼んでくれて 「ガメちゃん、抱っこさせておくれ」と言って、割烹着を慌ててぬいで胴体に手を回して、胸に顔をつけて、おいおい泣きだしたのには驚いてしまった。 おばちゃんはね、ガメちゃん、息子みたいなもんだとおもっていたの。 そうだよねえ。あんた、いつかは帰る人だもんねえ。 と、述べて、おおげさもおおげさ、まるで新派のような愁嘆場です。 あんたは蝶蝶夫人か、とおもえればよかったが、まんまと、だらしなくも、涙がでてきて、一緒においおいと泣いてしまった。 ほんとにきみはガイジンなのかね。 ニセガイジンなんじゃないの? あるいは、こっちは、いつかも書いたが、ストップオーバーで日本に寄って、むかし、よく酔っ払いにいったバーに行った。 ぼくとこの店の「マスター」は日本にいるあいだじゅう、友達だった。 極端に無口な人で、カウンタに並べた酒瓶の陰に隠れるようにして、下を向いて、客とは目もあわさないで、注文されたナポリタンやピラフをつくる人だったが、ある日、客がひとりもいなくなったあとで、ブッシュミルズをストレートで飲んでいたら、「どこからいらしたんですか?」と話しかけてきたので、驚いてしまった ニュージーランドです、と述べたら、ニヤッと笑って、 「じゃあ、イングランドからニュージーランドに越したんですかね」と言うので、またまたびっくりしたのをおぼえている。 そのすぐあとで、酔っ払った中年の客が入ってきて、そんな時間には珍しいコーヒーを注文していった。 その客は、コーヒーが好きな人だったのでしょう。 あの欧州コーヒー党特有の「ぐいっ」と飲む飲み方で底まで飲みきると起ち上がったが、お勘定の段になって、750円、というと、 「たけえな」とひとこと単簡に述べてドアを開けて帰っていった。 マスターは、「たしかに高えよな」とひとこと述べてドアを閉めて階段をおりて帰っていった客を見送っている。 なんだか、そのときから、友達になったような気がする。 向こうはどうして興味を持ってくれたのか知れないが、それから、客がいなくなると、よくふたりで話をした。 もとは美術大学の教師だったことも話してくれた。 自分が好きな画家や彫刻家の名前をあげると、… Read More ›

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  • 日本人と民主主義 その5

        (この記事は2020年5月20日に「ガメ・オベール日本語練習帳 ver5」に掲載されたものの再掲です) 土曜日のディアグノルを、ふらふらと、と形容するのが最も正しいような走り方でメルセデスのSクラスが走ってくる。 クルマの流れに乗らないで、ゆっくりゆっくり走っているので、人目を引きます。 なんであんな走り方をしているのだろう?と訝しんで見ていると、パッサージュ・ド・グラシアとの交叉点の、ど真ん中で停止してしまった。 へ? とおもってみていると、なかから中年の、立派な仕立てのスーツを着た紳士然とした男の人と、いまどき、ロンドンなら時代遅れとみなされそうな、ニューヨークなら真っ赤なペンキをぶっかけられそうな、ゴージャスで残酷なミンクのコートを着た女の人の、いかにもオカネモチなかっこうをしたカップルが降りてきて、すたすたすたと通りを渡って歩いていった。 駐車、しているんです。 交叉点のど真ん中に。 なるほど、大通りの交差点のまんなかならばクルマ2台分の駐車スペースはあるので合理的だよな、とおもおうとしたが、あまりに唖然としたので出来なかった。 おなじ日。 モニとふたりでご贔屓のレストランの、歩道に面したテラス席で食事をしていると、向かいの駐車場の出口でクラクションを鳴らす人がいる。 なんという無作法な、とおもって、そちらを見て、こけそうになってしまった。 出口にクルマの頭を突っ込んでパジェロを駐めている人がいたからです。 クラクションを遠慮がちに鳴らして、それから出口で雪隠詰めになったランドクルーザーのドアを開けて出てきたおおきなおおきな男の人は、しばらく左右を見渡してから、レストランを一軒ずつ、訪問しはじめた。 そのうちに小さな小さな女の人と戻って来て、口論している。 口論、というよりは、女の人が一方的に激怒している。 もれ聞こえる単語は、ここに書くのが忍びないような単語で、 お上品なほうだけ並べると「このオタンコナス」「マヌケ」「アホ」 というようなことを述べている。 どうやら、オントレが終わって、食事が佳境に入って、豚の頬肉が出てきたところで、おまえがわたしを探しに来たものだから、週末の食事が台無しになってしまったではないか、と怒っている。 そのあいだ、男の人のほうは、おおきい声ではないので聞こえないが、自分は駐車場から出たいので、出口を塞いでいるクルマを動かしてくれ、「駐車場の出口にクルマが駐めてあると駐車場から出られないのでクルマを移動させて欲しい」という、あたりまえすぎて説明するのが難儀なほどのことを依頼している。 しばらく口論していたが、プンプン怒りながら、それでも、クルマを動かして去った女の人を見ながら、感動しないわけにいかなかった。 相手は自分の倍は優にある大男で、しかも当然のことながら怒っていることが予想される。 いくら野蛮で知られるロンドン人でも、まさか女の人を男が殴りはしないが、物理的なおおきさの違いは直截に恐怖につながる。 そのちいさなちいさな女の人は、しかし、欠片も怖がらずに相手を罵り倒している。 言葉の応酬以外には起こりえないことを熟知した社会だからできることだとおもう。 もうひとつは、実は、このころにはもう気が付いて、びっくりはしなくなっていたが、他人のわがままに対する途方もない許容度の高さで、イギリス人なら、とっくのむかしに、まさか怒鳴りはしないが、例の嫌味たっぷりの表情で、寸鉄ひとを刺すような鋭い言葉づかいで怒りをぶつけているところでも、知らん顔をしていられる。 決して、乱暴な人間をおそれて知らん顔をしているわけではないことはギターバー https://gamayauber1001.wordpress.com/2009/03/14/guitar-bar/ にいた、多分、ハイになっていて、失礼な野次をとばしている客が、ギターの人が「静かにしてくれないか」と述べたのに口応えをして、失礼な野次が「会話」の形になりだすと、申し合わせたようにいっせいに「シィィィー!」と鋭い音を立てて、ハイ男の隣の女の人が、「黙りなさい」と厳しい口調で命じたのでもわかるとおりで、彼らが共通に常識として持っている「ここまで」というわがまま許容線が、アングロサクソン文明のひとびとと較べて、すごく高い値で、そこまでは、ほっぽらかしにする約束になっていることが見てとれる。 そういう他人のわがまま許容度が高い社会に生きていれば、ストレスはたまって、朝、ピソの近くのワインの瓶を捨てるでっかいビンからは、ガッシャアアアーン、ガチャアアーンという、すさまじい音が聞こえてくる。 何の音か。 主婦がワインの瓶をビンのなかの他の瓶(ああ、ややこし)に向かって、おもいきり、ちからの限り、叩きつけている。 スペインで、わがままと自由がおなじものだと教わった。 子供のときも、なんどか行ったことがあるのだけれど、他人に訊かれても行ったうちに数えないのは、なにしろ子供という人間が最もバカなときのことで、自分を客観的に見ることすら出来ない子供というバカ時代が終わった人間のことをおとなと言うのだから当たり前だが、頭が単純で、スペインはきったないだけで、なんだか病気がうつりそうな町だ、という印象しかなかった、 思い返すのも嫌なくらいバカである。 おとなになってから見たスペインは別の国でした。… Read More ›

  • 日本人と民主主義 その7

          (この記事は2022年5月29日に「ガメ・オベール日本語練習帳 ver5」に掲載されたものの再掲です)   シンガポールを見ていて、いつも思うのは、と言っても考えてみると日本とおなじことで、もう十年くらいも訪問していないので、いつも思ったのは、と書くべきだろうが、新鮮な驚きというか、人間は別に自由社会でなくても幸福でありうるのだ、という事実です。 こっちはまるで行ったことがないので、皆目わからないが、上海で教師をしていた友人に訊いても、全体主義中国も事情はおなじであるらしい。 自分では自由社会でないと生きられないのはあきらかで、簡単にいえば、猛烈にわがままであるからで、不貞腐れて吸いさしの煙草を指でピンと弾くと、おまわりさんがぶっとんでくるような社会では到底生きられない。 煙草、喫わないんだけどね。 ものの譬えです。 なんの譬えかというとシンガポール政府が最も嫌いなタイプの市民を視覚化しようと考えた。 あんまり、いいおもいつきじゃないか。 女らしくしなさい、や、女のくせに、のような表現がある社会では、一応、いまあらためてみてもチ◎チン(←二重丸であることに注意)がついていて、もうひとつの、ややややこしい見た目のほうの性器はついていないので、男と女に分類すれば、男だが、それでも無茶苦茶腹がたつので、そういうときに猛然と、指をたてて、舌をだして怒れない社会も、自分には向いていない。 そそっかしいひとのために述べると、別にシンガポールで「女のくせに、とか言うなよ。張り倒すぞ、このガキ」と述べても、おまわりさんがぶっとんでくるわけではありません。 ぜんぜん、ダイジョブ。 余計なことをいうとシンガポールは、日本などよりは遙かに女のひとたちの権利が強い国で、その権利の強さは、経済力に裏打ちされている。 もっと余計なことを言いつらねると、シンガポールは女の人が仕事に集中しやすい国でもあって、わし知人の女のひとは、インド系のひと、中国系のひと、マレー系のひと、どのひとも、結婚したあとでも家事をいっさいしません。 若い時は日本語では共働きという共倒れみたいな言葉があるが、ダブルインカムで、朝は夫婦そろって階下のホーカーズで食べる。 ラクサ、ミーゴレン、トーストと目玉焼きもあれば、もちろん、カレー粉をかければシンガポール、シンガポール・ビーフンもあります。 いま見ると、むかしよりだいぶん価格があがっているが、住宅地のホーカーズで300円〜400円であるらしい。 (因みにシンガポール人の年収は、おおざっぱに述べて日本人の、だいたい倍です) 首尾良く夫婦で成功すると、今度は、たいていインドネシア人かマレーシア人のお手伝いさんを雇って、本人たちもトイレとシャワーが独立についている「お手伝いさん部屋」があるアパートに越す。 閑話休題(それは、ともかく) ところが、首相に向かって「女のくせに、とか言うなよ。張り倒すぞ、この豚野郎」とかいうと、ちゃんとおまわりさんがぶっとんで来るはずです。 あるいは、よおし、今日は天気がいいから、いっぱつ世界をおどかしちゃるぞ、と考えて、永久革命論を書いて、こんなクソ政府なんてBBQにしてくれるわ、てめえら銀行の地下金庫に閉じ込めて蒸し焼きにしてやるからそう思え、と書いてサイトにアップロードすると、おまわりさんがビッグバンドでやってくるとおもわれる。 うるせえな。 おれの勝手だぜ、というわけにはいかないのですね、これが。 かつて、バルセロナには、ランブラのいちばん人混みが激しい往来で、裸で、でっかいチンチ〇をデロンと出して佇んでいるおっちゃんがいた。 あのひとも、シンガポールなら豚箱行きだが、バルセロナでは観光資源化して、名物じーちゃんになっていた。 子供が寄っていって、おっちゃん、ちょっとさわってもいいですか? つんつん。 おお、でっけえ、とか述べていたりしたもののようである。 あと、ほら、タイムズスクエアで、デロンはないが、アンダーパンツとブーツにカウボーイハットでギターを抱えて歌っている人がいたでしょう? あれでも逮捕される。 しかし、永久革命を唱えたり、チンチンをでろんと出して交叉点に立ったり、裸でギターを弾いたりしてみたくない場合は、シンガポールは快適な国です。 前にもなんどか述べたように、なにしろ、「見せかけは民主社会だが、ほんとは一党独裁全体主義」の国を作るにあたって、お手本にしたのが日本なので、本質的に日本と似た社会だが、ひとつだけ、日本社会がトヨタクラウンみたいな国であるとすると、シンガポールは、どう見てもベントレーのスポーツカーを目指していて、わしが何度も訪問していたころでも、年々、社会から「ダサさ」が消滅していた。 「絆」とか「美しい国」とか、国語がんばろうな、だっさい言葉で国民をだましちゃろう、という底の浅いマーケティングは消えて、 Crazy Rich… Read More ›

  • Je tombe amoureux

      (この記事は2018年4月29日に「ガメ・オベール日本語練習帳 ver5」に載せた記事の再録です) 冬の冷たい雨のなかを歩いている。 ゴドレーヘッドって言うんだよ。 田舎道の脇にモリスを駐めて、ぼくは歩いていったんだ。 髪をびっしょり濡らして目に入ってくる雨が、口実ででもあるように、ぼくは泣きだして、涙がとまらなくて、岬の突端につづく、細い、まがりくねった径が、もう見えなくなっていた。 すれ違った若い女の人が、なにか言いかけてぼくの顔を見たが、おもいとどまったように、やめて、黙って歩み去っていった。 きっと、とても、やさしい人だったのだろう。 あるいは、人間には、若い時には、まわりが素知らぬ顔でほっておくべき愚かさがあるという厳粛な事実を、よく知っていたのかもしれないね。 人間の最も強烈で崇高な感情が性欲に起点をもつのは、なんという皮肉だろう。 ぼくは、あの人のことが頭から消し去れなくなって、とても苦しいおもいをすることになった。 忘れなければならなかった。 だって、なにも出来ないんだよ。 朝から起きると、もうあの人のことを考えている。 ほかのことが、なにも手につかない。 紅茶を淹れるために電源をいれたジャグが沸騰して、もうサーモスタットが利いて切れているのに、そのままにして、キッチンの窓から外を見ている。 町を歩いていて、ほっそりした、背が高い金髪の女の人がとおると、1万キロも離れた町に来ているのだから、そんなはずはないのに、あの人に違いないという気がして、後をつけている。 テラスに腰掛けて、コプト風のドレスを着た天使の絵を描いている。 妹に冷やかされるのが嫌だから、つとめて、異なった顔つきにしようとしているのに、どうしても、あの人の顔になってしまう。 One-night standで、歓楽から歓楽へ、知らない女のひとたちのベッドから知らない女の人のベッドへ渡り歩いていた自分は、なんてバカだったんだろう、とおもう。 神に恕しを乞うて、次の瞬間には、自分のやってことの大時代な滑稽さに、笑いだしてしまう。 ひどい、たちが悪い病気にかかったようなものだった。 カウチに倒れ込んで、頭を抱えて、うなっている。 妹が、やってきて、「おい、アニキ、しっかりしろよ。それとも、わたしがアニキも人間だったことを祝ってあげようか」と言うのは、励ましているつもりなのね。 論文も授業もおっぽりだして、ぼくは空港に向かったんだよ。 ほかに、自分を救う方法がおもいつかなかったからね。 一生を堅実にすごすための手続きは、もうとっくの昔にどうでもよくなっていた。 いつもなら二三日を過ごす乗り継ぎのシンガポールも、ただ空港の椅子に腰掛けてすごして、一睡もしないままクライストチャーチの空港に着いた。 ぼくはいまよりももっと若かったときには、とても感情がおおきくて、巨大な感情に圧倒されると、いつも、このゴッドレーヘッドをめざしたものだった。 なんの変哲もない、岬の突端の丘なんだけれど、クライストチャーチ人は、例えば大事な人を失った悲しみに打ちひしがれると、見渡す限り、どこまでもつづく冷たい海が見えるこの丘に来て、大声で泣くんだよ。 「身も世もない」って言うでしょう? あれは、いまでは陳腐な表現だけど、きっと、初めは、そのとおり、文字の通りの感情だったに違いない。 人間は、ときに、身体のなかにある宇宙を全部しぼりだしてしまうような声で泣くことがある。 人間の知性などタカが知れている。 人類のご自慢の知性は、多分、せいぜい三十キロ四方の大地と空が生活圏であったころに成立した言語でできていて、そんなに遠くまで行けないんだよ。 人間は遠くへ行くために、あるいは確かな普遍性を獲得するために数式という言語を発明したが、人間の貧弱な知性では、そのくらいが限界だった。 自然言語に至っては嗤うべき機能の貧しさで、相対(あいたい)して、向き合ってしまうと、もう伝達すらできない。 人間は不思議な生き物で、あるいは情けない生き物で、伝達をしたいとおもえば、椅子をならべて、サイドバイサイドに座って、おなじ方角を見つめて、つぶやきあって、お互いの言語の草原にある対照を照応しなければならない。… Read More ›

  • 日本人と民主主義 その6 シンガポール

      (この記事は2020年5月21日に「ガメ・オベール日本語練習帳 ver 5」に載せたものの再録です) シンガポールが「世界で最もうまくいっている独裁制全体主義国家」であることは、以前にもなんどか書いたことがある。 https://gamayauber1001.wordpress.com/2010/11/09/1512/ ぼくはこの国が昔からたいへん気に入っていて、冗談ではなくて、かつ、きみが信じようが信じまいが、と日本語では付け足したくなるが、いったい何十回行ったかしれない。 マンハッタンや東京、バルセロナのように数ヶ月住んでみる、ということはなかったが、それは単純に暑すぎる気候のせいで、暑いと、日中はプールサイドでゴロンチョになって、シンガプーラで、泳いだりしていて、夜になるとゴソゴソと這い出して町に出る、という単調な暮らしになりやすいので、何十回も訪問したことはあっても、一回の訪問は数日です。 シンガポールは国策でストップオーバーをプロモートしていて、連合王国から、ぶおおおおおおんんと飛んで来て、4泊まで、だったかな?であると、一流ホテルも半額以下で、10代後半から20代前半のビンボ男だったときには便利だったことには、チャンギの空港からダウンタウンまでのバスも無料だった。 むかしは、などといいだすと能楽の翁か、むかしおとこの亡霊のようだが、わしガキの頃などは、シンガポールは正真正銘のパラダイスで、タイ人の友達などは、「ガメ、おまえ、シンガポールみたいにばっかみたいに高いところに行ったらバカだぜ。バンコクに来いよ」などと言っていたが、十分に安くて、おまけに当時は消費税もゼロで、その上、なんと言っても例えば行き先を示す標識や、カーブのスピード制限、あれもこれも連合王国オーストラリアニュージーランドで、デザインがおなじなので、なにがなし、なじみやすいということがあった。 シングリッシュとシンガポール友が自嘲したりする訛りは、いまは普通程度の教育を受けた人はひどくなくて、「いやあ、シンガポールの訛りは、ぼくにはわからなくて」と述べる日本の人は、たいてい自らの英語能力を恥じて相手のせいにして誤魔化しているだけだとおもわれるが、当時は、中国語っぽい破裂音のおおきさで、わかりにくくて、聞き返すと、「え?あ、いや、いいです」と、日本の人とおなじように黙ってしまう人もおおかった。 7歳か8歳、1990年頃のことです。 アジア文化の先生、のような国だった。 本格的なDim sum(飲茶)は、ここでおぼえた。 中国の、おいしい店に行けば、あの天にものぼるような味がするコンジーも、ここで初めて食べた。 海南チキンは、初めは、昔はなんだかチョー薄暗い店内だったマンダリンホテルのチャターボックスだったが、すぐにマクスウェルセンターの天天海南鶏飯で、大嫌いなはずの行列に嬉々として並んだ。 リトルインディアに行く途中、干し肉がぶらさがった屋台が延々と並んでいた、強烈な印象が忘れられない。 インド料理のタリも、ここでおぼえた。 ロンドンにあるのは気取ったインド料理屋ばかりで、コンテンポラリーインディアンが多かったが、シンガポールは異なっていて、 300円からそこらも出せば、プラスチックの皿に盛られたアルゴビにロティが一枚ついてきた。 その一方では、例えばインターコンティネンタルホテルには、ちゃんとハイティがあって、かーちゃんのおともで、くっついていけば、ロンドンとなにも変わらない午後の時間が冷房が利いたロビーのカフェにはあった。 シムリムセンター、Bugis Junction、飽きるということが難しい町で、身体がでっかくなってからも、子供のときとおなじで、 なんだか内心できゃあきゃあ言っているうちに滞在が終わる楽しい町だった。 段々、友達が出来てくる。 初めの友達らしい友達は、同じ大学の、普通の人間なら必死に隠す大学訛り(←イギリスという国には、そういうヘンなものがあるのです)をバリバリに利かせた英語をスーパー完璧なクイーンズイングリッシュを話すインド人の友達で、この人はあとで画廊の経営者になったが、シンガポールに数年住んでいて、よく会っては、パンパシフィックホテルのなかのインド料理屋で遊び呆けた。 話には全体主義国家だと聴くけど、来てみると、みんなのびのび暮らして、なんのことはない自由社会だよね、というと、屈託のない、おおきな笑い声で、はっはっはっと笑って、 相変わらずガメはシアワセなのねえ。 シンガポールには自由なんてありませんよ。 テラスに立ってメガホンで政府の悪口を言ってごらんなさいよ、5分もしないで警察が来て、豚箱行きだわよ、という。 密告社会でもある、という。 いつかタクシーでインドネシアから出稼ぎに来ているのだ、と述べるドライバに、春節なのに、シンガポールの人は、行儀がいいから、決まった場所でしか爆竹ならさないんですね、と言ったら、こちらも、わっはっは、なんて無知な奴だ、という調子で大笑いされて、ダンナ、そんなことしたら、あっというまに、お巡りがぶっとんで来ますよ、まっすぐ豚箱行きだわ、とわし友と同じ事を言う。 シンガポールには、近所の1ブロックに3人はパートタイムのスパイがいるんでさあ。 こいつらはね、密告一件でいくらと決まった報酬をもらえるんですよ、と俄には信じがたいことまで述べている。 あとになって、だんだんわかってくると、国民の政府に対する反感もたいへんなもので、いつか投資友の会社の若い社員たちにレストランを案内してもらってランチを食べた帰り途に、リフトに乗ったら、別の若い人たちがどやどやと乗り込んできて、当然、禁煙のリフトのなかで、「ここのはカメラがないんだぜ」というひとりの声に3人がいっせいに煙草に火をつけたのには、びっくりしてしまった。 あたふたと、ふかして、降りるときに「ざまあ見やがれ」という調子で踏みにじっていく。 シンガポールは、なにしろ煙草の値段が高いので、もったいないこと夥しいが、彼らにしてみれば、鬱憤ばらしで、もしかすると内心では、一種の反政府行動なのでしょう。 そういえば子供のときマウントエリザベスの裏の小路に煙草の吸い殻がいっぱい落ちていて驚いたことがあった、と言うと、「あっ、あそこ煙草を喫っていてもつかまらないんで有名だったんです」という人がいる。 「お巡りが巡回に来ないんですよね」 リー・クアンユーの自伝を読むと、シンガポールが、あらかじめ、「自由社会に見せかけた全体主義国家」としてデザインされたことが、よく判る。… Read More ›

  • 須臾の永遠

    Vichy Catalanは、いちばん好きな水で、東京で売っているのはもちろん、 この頃は、驚くべしニュージーランドでも売っています。 むかしは、あんまりいろいろなところで売っていなかったので、 バルセロナに着いて落ち着くと、そそくさと近所のスーパーに出かけて買ってきたものだった。 バルセロナで最初に買ったピソ(アパートメント)は、ものすごいオンボロで、リフトは年中止まるので重い荷物があるとき以外は住人は気を付けていて誰も乗らない。 前にも書いたがバルセロナは夏の暑さを凌ぐのが生活の主要テーマの町なので、夏の大半は海辺やピレネーにバカンス(←スペン語ではバカチョンと言う不穏な発音です)に出かけるにしても、自分のアパートでも蒸し焼きになるのを避けるに越したことはないので、ペントハウスなんてバカなものを買う人はいません。 買うのはバカ(牛肉)だけにしてくれ。 購入者はバルセロナの事情を知らない、おビーフな外国人ばかりで、要するに、絵に描いたようなバカな外国人として、「広大」と言いたくなる100㎡くらいのテラスがあるビルのてっぺんの部屋を買って悦に入っていた。 インターネットが止まる、なんてのは毎度のことです。 電気が止まる。 水が止まる。 なんでんかんでん止まって、そのたびに管理会社に電話してなんとかしてもらう。 考えてみると、地元人なら賃貸でも手を出さないダメダメなピソを買ってしまったことになるが、アホな人というのは、幸福の神様が微笑みかけてくれやすいもので、なにが止まっても幸せで、 でっかい白アスパラガスの瓶詰めと、ドルミオのスパゲッティと、缶トマト、それにアホ、といっても自分のことではなくて、ニンニクのスペイン語だが、オリーブオイルで、潰したニンニクと赤唐辛子を炒めて、茹で上がったスパゲティに缶トマトとこのオイルをぶっかけるだけの食事で、初めの三日くらいは恍惚として暮らせることになっていた。 テーブルの上にはテンプラニーリョ。 テラスに座って、夕方の町を見渡していると、遠くにガウディのサグラダファミリアが見えます。 そのころは、聖堂のまわりにクレーンの塔が3基立っていたころで、景観としては芳しくないが、なにしろ嬉々として暮らしているので、クレーンは、頭のなかでフォトショされて消失している。 夜更けの1時頃、傍らでやさしい寝息をたてているモニさんを起こさないように、そっと、そっと起きだして、キッチンに行って、冷蔵庫からVichy Catalanを取り出します。 知っている人は知っている。 Vichy Catalanは発泡水のなかでも、最も強烈で、ブラジルから遙々大西洋を越えて運ばれて、欧州のあちこちでシュワシュワしているペリエよりも、なお強烈です。 自然、コップに一杯のんで、まるでドイツ人や日本人がビールを飲むときみたいに「ぷっはああー」をして、大満足にひたっている。 二日酔いにはなっていないが、昨日のワインの大量摂取で喉が渇いているのでVichy Catalanは天国の味がします。 それからおもむろに木箱で買い込んだ大好きな銘柄のテンプラニーリョを開ける。 週末は明るむまで賑わっているバルセロナの町も、平日は、このごろは他の大都市と変わらなくて、夕飯こそ午後十時くらいに始まるが、1時ごろともなると、あの辺りは、もう森閑としている。 サグラダファミリアと右手の丘の上に見える、やけにおおきな携帯電話の電波塔を眺めながら、ワインを飲んで、いつもの癖で、なにごとかノートを広げて書いている。 おもいだしてみると、人生の至福の瞬間のひとつで、バルセロナが頭のなかでは、なんだか特別な町になっているのは、要するに、この一瞬が、あまりに幸福だったからでしょう。 記憶のなかの町にも寿命があって、マンハッタンは、若いときは大好きだったが、結婚してしばらく立つころになると、そんなに特別な町と感じられなくなっていった。 ひどい言い方をすると「ただの都会」に思われてきた。 日本の人でも、びっくりするような田舎っぽいところがあって、 有名で地元人にも人気があるイタリアンレストランで、ビートルズがかかったりすることまである。 欧州人からすると、だんだんヨーロッパコンプレックスのようなものが鼻につくようになって、それまでは好きでなかったオレンジカウンティのほうが好もしくおもえるようになってきたりします。 友だちを見ていても、ニューヨークの特徴である友だちコミュニティの面々と会って、アップデートするためだけに大西洋をわざわざこえてマンハッタンを訪問する人もおおくて、最近では、自分も含めて、盛りがついた交尾期の男と女がベストパートナーを求めて徘徊する動物園のようなイメージがなくもない。 30歳を過ぎて住むところちゃうよな、という気がしてくる。 幸福というのは、要するに「幸福な瞬間」のことで、その一瞬があるかないかのことをいう。 オカネがあっても、健康でも、この一瞬を一生涯、ただの一度も持ちえない人もいる。 どうしても入りたかった大学に合格した瞬間や、友だちでいえば、有名な文学賞やオスカーを手にした瞬間を幸福だと感じる人がいて、他人の幸福にいちゃもんをつけるのはバカな人間がやることだが、Haloあらわれそうな、そうい栄光に満ちた瞬間と幸福の瞬間は、ほんとうは、どうも質的に異なるもののようでした。… Read More ›

  • マイ・ランド

    子供のときに、日本に住んでいて、東京でパラダイス生活を送っていたのは前にも書いたことがある。 おとなたちの会話の影響もあったのかも知れないが、そのころは、あたりまえのように日本という国は、通常の国ではなくて、会社という「国」の集合体だとおもっていた。 考えていた、とは言えない。 感じていた、のほうが適切かも知れません。 国家、というようなものとは異なって、国は、 「ここが自分たちの国なのだ」と考える人たちが規定している集合なのは、言うまでもない気がする。 ここは自分たちが生活している場所なのだから、自分たちの手で、行動して、なんとかしなければならない、と日本の人が最も切実に感じているのは自分が「属している」日立製作所であり、本田技研工業であって、とにかく昨日よりは今日、今日よりは明日と、少しでもよい状態にするために頭を砕いて、砕いてしまっては使いものにならないか、頭を絞って、いや、絞ってもカチカチ豆腐みたいになってしまいそうだが、表現なのだからやむをえない、懸命に考えて、刻苦精励するのは、たいてい、自分が給料をもらっている組織体に対してであるように見えました。 これは子供心にも驚くべきことで、英語人は、会社にそこまでのコミットメントを感じるなんてありえない。 「日本型」と言っていいような企業もあるにはあります。 例えばアメリカならばヒューレットパッカードなどは、長い家族主義経営の歴史で有名で、終身雇用で、人事の会議で、 「それでは彼の家の息子はハンディキャップがあるから彼に気の毒だ」 というような発言が役員の口から出るほど運命共同体であるような会社だった。 もうやってないけどね、そういうやりかた。 さすがのHPも。 冷酷になれないので無駄が増えて、その他にも、いわばHP型の日本の歴史が古い会社の人なら「言われなくてもわかる」理由で、だんだん生産性が低下していって、マッドマックス世界化した21世紀のアメリカ企業世界では、通用しなくなってしまった。 ヒューレットパッカードのような会社は少数派で、というよりは例外で、金銭面だけでいえば、企業はマネーメイキングマシーンで、貢献に応じて、集めたオカネの分配に預かる。 その機能の権化が「会社」で、そんなものと一体化してしまうとブタさん貯金箱になってしまうので、当事者意識は、町であり、都市であり、それにおおきな影響を与えるものとしての国家ということになる。 ニュージーランドの人口を知ってますか? むかしは350万人と言っていた。 イギリスなどで人口を聞かれると、めんどくさいので300万、と答えていたような記憶がある。 ちょっと国の経営が傾くと、たちまちオーストラリアを始めとした英語国に人間が流出する一方で、イギリスやインドや中国というような国々から、毎年怒濤のように移民が入ってくるので、いまは「われわれ500万人のチーム」などと言います。 イメージとしては首相がスキッパーで、国民は櫂をにぎって、えんやさっさと漕いだり、観光ブームや仔羊(ラム)ちゃん高騰の順風に恵まれると、帆をいっぱいに張って、滑るように世界を渡っていく。 誰もが、自分の幸福のために、わがままな生活を送るいっぽうで、どう改造すれば生活が向上するのか議会という名前の生活向上委員会を開いて、 生向委に没頭する。 だから人口が増えすぎたのではないか? 日本は、見ていると、ニュージーランドでは国にあたるものが会社どまりであるよーだ、というのがコドモわしの観察で、その周りの町であるとか、まして国になると、「さあ、誰かがやってんでしょう?誰がやってるのか知らないけど、ろくでもないやつらだよねえ」というようなことを述べて、涼しい顔をしている。 紅旗征戎吾事に非ず、と顔に描いてある。 しかし、そんなになんでもかんでも他人事で、わしゃ知らんわ、政治家なんて、どうせろくでもない人間がなるんだから、ほっとけばいいのさ、をやっていて、うまくいくものなのだろうか、と時々、不思議な気持ちで考えた。 それから幾星霜。 ミレニアムゴジラで少年が疾走する白州の森の径や、東京物語で、「将来は医者になるのだ」と述べる、よちよち歩きから、やっと脱したばかりの孫を見つめながら、 「あんたが医者になるころまで、わたしは生きていられるかねえ」と呟く、東山千栄子演じる、やるせない老女を観ていたぼくは、突如、すっくと起ち上がって、よおし、日本に住んでやる、と考えます。 なにをしに行くのかって? 遊びに行くんですよ。 東京のラーメンのおいしさやクラブの面白さは、それでなくてもかねて聴いている。 第一、他の人は知らないが、東京がパラダイスなのは、子供時代を過ごしたわしはよく知ってるけんね。 当時は、よもや東京があんなに面白いところだとは、誰も知らなかったのです。 決めると早いのが、ものをちゃんと考えない人のいいところで、いくらバカでも、バカはちょっと我ながら言葉がきついな、おちょこでも、おちょこ、違う、えーと、オッショコショイでも、いやオッチョコチョイでも、いきなり違法滞在して1年住む、というのは賭けとして割が悪いのは判り切っているので、まず2ヶ月いて、現地(←ここでは日本のことですね)でいろいろ検分して準備するとして、と決めたときは実はロンドンとニューヨークを行ったり来たりして、南半球の夏になると、ふらふらとクライストチャーチの両親の家に出かけるという、あんたはボーフラか、な生活をしていて、日本に「移住」というわけには到底とどかなかったが、一念勃起して、おいらの人生ビンビンだぜ、と考えながら成田に降り立ったのでした。 いやあ、楽しかったです。 だって日本だもん。 なにもかもクレージー(←悪い意味はありません)で、昼はBGMに箏曲が流れそうな端整な礼儀正しさで、夜は、いえーい、GO、GO、GO!のcome… Read More ›

  • 長い列

        日本語の本を出してくれた編集者は、いなくなる前に、 「自分の手取りは12万円しかない」と、よく怒っていた。 え? たったそれだけなのか、と、びっくりしたが、 貧乏講座を書いてみると、 「わたしも、そのくらいしかもらってない」という人が、たくさん現れて、 まさか訊ねてみるわけにもいかないが、いったい、どうやって暮らしているのだろう、と訝しくおもうことになった。 日本のことだから「ボーナス」というものがあるだろう。 この、なにがなし惚け茄子のような響きの一定しない「特別にオカネをあげるから喜びなさいね」という年2回の特典給与をあわせれば、いくらなんでも200万円は超えるのではないかとおもうが、バイトの原稿書きをしたりして、なんとか手取り360万円というようなところまでアップアップでも、犬かきで泳ぐようにしてでも、なんとか持っていって、1ヶ月に均せば手取り20万円という実入りにしたところで、しかし、家賃というものがあるのだから、そこで、もう「食えない」ことは決定であるような気がする。 恐ろしいことに、手取り360万円、則ち年収400万円ちょっと、というような人は、日本では普通のように見えます。 いったい何の話をしているのかというと、ウクライナへのロシアの侵攻で、ひまわり油は、ここ数ヶ月でどのくらい上がったのかGoogleのBardに訊いてみると、50%以上上がっているのだという。 重ねてBardに訊ねてみると、案の定、カノーラ始め植物性油も玉突きのように50%上がっています。 理由の箇所を見ると The war in Ukraine: Ukraine is a major exporter of sunflower oil, accounting for about 10% of global production. The war has disrupted the supply of… Read More ›

  • メッセージ

    Dairyというのは、名前の通り、乳製品を売っている店のことです。 もともとは住宅街や繁華街を問わず、町のそこここにあって、子供が硬貨を握りしてめてミルクを買いに行く場所だった。 生活スタイルが変わって、一家にクルマが2台ある、最近、土地の価格が暴騰するまではニュージーランドではお決まりのスタイルになると、広い駐車場がある、巨大スーパーマーケットのチェーンがあちこちに展開されて、dairyはどこも大変で、ロットーを売ってみたり、これもオンラインで買えるようになると、ヘアバンドや、ノートブック、日本なら文房具店で売っているようなものを売ってみたり、いろいろ工夫しているが、なんと言っても店の規模が小さくて、仕入れの力が弱いので、苦労している。 それでも習慣は強いもので、ある程度、年齢がいった人たちは、散歩がてら、ぶらぶらとミルクを買いに歩いていく。 30年くらい昔のスコットランドなら、そういうときでも、ネクタイを締めて、ジャケットを着て、鏡に向かって丁寧に髪をなでつけてから出かけるところだが、ニュージーランドなので、 半ズボンにTシャツ、フリップフロップです。 悪天候に魅入られた今年には珍しい好天だったので、ミルクを買いに、ぶらぶらと近所のデイリーまで、歩いていくことにした。 また突然余計なことを書くと、デイリーに触れた日本の人の記事が目にしたみっつともdailyと書いてあって、かわいい、と考えたが、LとRの区別だけに焦点をあてたシリーズ授業を早い段階で学校の授業に取り入れたほうがいいのではないか。 ミルクを買って、インド系人のおっちゃんが、近所の高校生のガキたちが店内で屯して、うるさくてかなわん、と愚痴るのを聴きながら、店を出て、また家に歩いて帰る。 ところが近所の70歳代のおっちゃんが、わし家のドライブウエイを入って行きます。 ありゃ、珍しいこともあるもんだ。 猫さんたちが、なにか猫犯罪を冒したのだろうか、と考えながら、のおんびり誰かが見ている場合に備えて、セキュリティカメラに手を振りながらドライブウエイに曲がる、たわけたわし。 家のドライブウエイは、長いので、当然、おっちゃんの背中が見えると思いきや、姿が見えません。 ありい、どこ行ったかな、おっちゃん、あんたはニンジャか、とおもいながら家に帰ってみると、 誰も訪ねてこなかったぞ、とモニさんが言う。 え、だって、アーロン(←おっちゃんの名前です)が入ってくるのが見えたけど、と不思議がって、その日は終わってしまった。 そーなんですね。 怪談の名手、川奈まり子ファンならば、気が付いたに違いない。 数日後、訊いてみると、アーロンは、亡くなっていたのでした。 それがね。 アーロンがドライブウエイを歩いているのが目撃された日には、まだ生きていて 中央病院のベッドで意識不明の状態だった。 亡くなったのは数日後です。 なにか伝えたいことがあったのだろーか。 前にも書いたが、幽霊は信じないことになっている。 幽霊の実在を認めると、いろいろと、むかし取った杵柄で学んでお餅のように頭のなかでペタペタしている世界観に支障がでるからで、ヘンテコリンなものが目に入っても、えいやっ、と目の迷いじゃ、目医者に行けば治るわ、ということにしています。 なかにはたちが悪いのもいて、軽井沢大橋の近くで、医者友が、深夜、クルマをバックさせていたら、そんな夜中にあんなところでなにをしていたんだ、奥さんは知っているの?という気がするが、「あぶない!」という若い女の人の声がして、あじゃあ、轢いちゃったかな、まさかな、とおもいながらクルマの後ろにまわってみたら、誰もいない。 後輪が崖から半分、はみ出している。 「たち悪くないじゃない」と言うなかれ。 そんなもん、見えるだけでも都合が悪いのに声なんて出されては科学の神様が立場を失ってしまう。 解剖図に「霊的声帯」とか、書き加えるっちゅうの? 第一、脳は、どうするんだ。 それは、まあ、頭がカラッポでも、ペラペラとよく喋る生身の人間はtwitterみたいなものに行けば、いくらでもいるが、それとこれとは、別問題でしょう。 むかしは視力2.0は軽くある、というモンゴル人やブッシュマンなみの視力だったので、 気が落ち着いている午後などには、注意していると、やたら、いろんなものが見えた。 マンハッタンのビレッジを歩いているでしょう? ふと、通りの向かい側を見ると、お馴染み、ビヨヨヨヨヨンと下にハシゴが延びて着地するように出来ている非常階段の、てっぺんに腰掛けて、下界を見ている人がいる。 ありゃ? あの2nd 沿いだったかでビルの屋上で片手を空に突き出して、なんだか威張って立っているレーニンの銅像とおなじな、像だろうか、と思って見ていると、フワッと、消えてしまう。… Read More ›

  • 愚かさへの礼賛について

    政治と宗教の話は、あちらではタブーだからね、と留学や国外転勤するときに言われた人も多いでしょう。 いざ着いて見ると、タブーどころか、みんな嬉々として政治の話をして、ホームステイの人は、親子が一家団欒の夕餐の席で、侃々諤々、丁々発止、親は親の、娘や息子は、娘や息子の、甚だしきに至っては、めいめいてんでんバラバラの政党を支持して、普段は見せない顔の、鋭い一矢を報いたり、笑い転げたり、いや夕飯を食べながら転げはしないが、口を閉じたまま笑おうとして、ひきつけを起こしそうになったりしながら、さながらスポーツのように政治の話に耽っているのを見た人も多いはずです。 友だち同士でも、もちろんします。 ビールを飲めば、隣のテーブルの見知らぬ人とだって、政治の話をすることはある。 タブーだなんて、とんでもない、と思ったでしょう? ところが、公平に言って、これは日本人が外国に出かけるときには、という条件をつければ賢明なアドバイスで、見ていると、例えば学内で、同僚の、あるいはチューターやなんかの自分への態度が微妙に変わって戸惑うときには、案外、「政治や宗教に関して述べたひと言」が致命的になっていることが、傍で見ていると多いようです。 え? そんなことありませんよ? 政治の話をしたときに、そんな様子、ちっとも見せなかった、 という人がいるに違いないが、 あのですね、 英語人は、多少でも教養があれば、と書いていて思ったが、無くてもたいていは、 深刻に感じられる問題ほど反発や軽蔑を顔には出さないし、まして言葉にして言ったりはしない、という文化習慣の違いを忘れている。 あの、おしゃべりでおしゃべりで、しゃべりだすと、段々加速がついてきて、あんたは脱げなくなった自動舞踏のRed shoesかと言いたくなるくらい止まらなくなって、おしゃべり界のSonic the Hedgehogみたいなアメリカ人ですら、この文化習慣だけは変わらない。 それと気付かないほどの微妙な沈黙の間があって、急に話題が変わったりする。 自分でも聴き手側としての経験があるので、自分の反応が、どういう反応だったか思い返すと、 「それは、こういう意味ですか?」 と訊いて、 「なるほどねえ」と深く相槌を打って、ところで、と異なる話題に変えているように思います。 日本語が「建前と本音」の世界だとすれば英語は「外と内」の世界で、観察していると、 自分たちが「内」と感じる相手との応対は、「外」と感じる相手とは、はっきり異なっていて、28号と言いたいのをグッとこらえて述べると、別人です。 義理叔父はマサチューセッツのケンブリッジという町で、「能力のあまりのすごさに、ぶったまげた」と後年しみじみ述べていた、終生の友人となった何人かの人たちと出会ったが、そのうちの、ぼくも義理叔父に紹介されて大好きになったユダヤ系アメリカ人の女の人が、時候の挨拶も抜きで、単刀直入どころではなくブスッとナイフで突き刺すような口調で、 「わたしはユダヤ人よ」と、まず切り出されたのが、一生、忘れないショックの記憶になった。 なんとなくやるせない豚まんみたいな見かけとは異なって、あれで、なかなか聡明で、機敏に物事の本質を見抜くところがある義理叔父は、一瞬で、でも、そのとき初めて 、自分がぼんやりとしてしか理解していなかった、「この世界でユダヤ人であることの厳しさ」を体感したもののようでした。 ぼくのほうは、これと同じ経験は、何回か、どころか、何度も持っている。 もちろん、それとなく自分がユダヤ人であることを相手に伝える人のほうが多いが、 初対面で、いきなり宣言するように述べる人もいます。 それは、なぜか。 まさか反ユダヤ主義理論への戦闘を宣言しているわけではなくて、もっと現実的な処理で、 目の前の相手に好意を持って、友だちになったあとで、微笑みながら、二度とこの人とは会えないな、と、心の奥で、寂しい気持ちで考えるというような羽目に陥りたくないからです。 そんなことになるくらいなら、初めから、ユダヤ人はやっぱり付き合い難い、と内心で敬遠してくれたほうが、まだマシである。 政治的な人間になるな、と言う。 そそっかしい人は政治について話す人間になるな、という意味に取ってしまいそうだが、そんなことであるわけはなくて、「政治」という作用反作用で出来た世界観に立って物事を見るな、という意味です。 違う言い方をすれば、「他人の視線を計算して物を言ったり行動したりするな」ということでしょう。 政治的な人間は、「効果」の計算のなかで生きている。 自分が、どう振る舞えば、他人のなかにどういう反応が生まれるか、を計算する。… Read More ›