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  • 日本人と民主主義 その7

        シンガポールを見ていて、いつも思うのは、と言っても考えてみると日本とおなじことで、もう十年くらいも訪問していないので、いつも思ったのは、と書くべきだろうが、新鮮な驚きというか、人間は別に自由社会でなくても幸福でありうるのだ、という事実です。 こっちはまるで行ったことがないので、皆目わからないが、上海で教師をしていた友人に訊いても、全体主義中国も事情はおなじであるらしい。 自分では自由社会でないと生きられないのはあきらかで、簡単にいえば、猛烈にわがままであるからで、不貞腐れて吸いさしの煙草を指でピンと弾くと、おまわりさんがぶっとんでくるような社会では到底生きられない。 煙草、喫わないんだけどね。 ものの譬えです。 なんの譬えかというとシンガポール政府が最も嫌いなタイプの市民を視覚化しようと考えた。 あんまり、いいおもいつきじゃないか。 女らしくしなさい、や、女のくせに、のような表現がある社会では、一応、いまあらためてみてもチ◎チン(←二重丸であることに注意)がついていて、もうひとつの、ややややこしい見た目のほうの性器はついていないので、男と女に分類すれば、男だが、それでも無茶苦茶腹がたつので、そういうときに猛然と、指をたてて、舌をだして怒れない社会も、自分には向いていない。 そそっかしいひとのために述べると、別にシンガポールで「女のくせに、とか言うなよ。張り倒すぞ、このガキ」と述べても、おまわりさんがぶっとんでくるわけではありません。 ぜんぜん、ダイジョブ。 余計なことをいうとシンガポールは、日本などよりは遙かに女のひとたちの権利が強い国で、その権利の強さは、経済力に裏打ちされている。 もっと余計なことを言いつらねると、シンガポールは女の人が仕事に集中しやすい国でもあって、わし知人の女のひとは、インド系のひと、中国系のひと、マレー系のひと、どのひとも、結婚したあとでも家事をいっさいしません。 若い時は日本語では共働きという共倒れみたいな言葉があるが、ダブルインカムで、朝は夫婦そろって階下のホーカーズで食べる。 ラクサ、ミーゴレン、トーストと目玉焼きもあれば、もちろん、カレー粉をかければシンガポール、シンガポール・ビーフンもあります。 いま見ると、むかしよりだいぶん価格があがっているが、住宅地のホーカーズで300円〜400円であるらしい。 首尾良く夫婦で成功すると、今度は、たいていインドネシア人かマレーシア人のお手伝いさんを雇って、本人たちもトイレとシャワーが独立についている「お手伝いさん部屋」があるアパートに越す。 閑話休題(それは、ともかく) ところが、首相に向かって「女のくせに、とか言うなよ。張り倒すぞ、この豚野郎」とかいうと、ちゃんとおまわりさんがぶっとんで来るはずです。 あるいは、よおし、今日は天気がいいから、いっぱつ世界をおどかしちゃるぞ、と考えて、永久革命論を書いて、こんなクソ政府なんてBBQにしてくれるわ、てめえら銀行の地下金庫に閉じ込めて蒸し焼きにしてやるからそう思え、と書いてサイトにアップロードすると、おまわりさんがビッグバンドでやってくるとおもわれる。 うるせえな。 おれの勝手だぜ、というわけにはいかないのですね、これが。 かつて、バルセロナには、ランブラのいちばん人混みが激しい往来で、裸で、でっかいチンチ〇をデロンと出して佇んでいるおっちゃんがいた。 あのひとも、シンガポールなら豚箱行きだが、バルセロナでは観光資源化して、名物じーちゃんになっていた。 子供が寄っていって、おっちゃん、ちょっとさわってもいいですか? つんつん。 おお、でっけえ、とか述べていたりしたもののようである。 あと、ほら、タイムズスクエアで、デロンはないが、アンダーパンツとブーツにカウボーイハットでギターを抱えて歌っている人がいたでしょう? あれでも逮捕される。 しかし、永久革命を唱えたり、チンチンをでろんと出して交叉点に立ったり、裸でギターを弾いたりしてみたくない場合は、シンガポールは快適な国です。 前にもなんどか述べたように、なにしろ、「見せかけは民主社会だが、ほんとは一党独裁全体主義」の国を作るにあたって、お手本にしたのが日本なので、本質的に日本と似た社会だが、ひとつだけ、日本社会がトヨタクラウンみたいな国であるとすると、シンガポールは、どう見てもベントレーのスポーツカーを目指していて、わしが何度も訪問していたころでも、年々、社会から「ダサさ」が消滅していた。 「絆」とか「美しい国」とか、国語がんばろうな、だっさい言葉で国民をだましちゃろう、という底の浅いマーケティングは消えて、 Crazy Rich Asiansを見れば判る、繁栄と成功で、自由のような西洋イデオロギーを圧倒してしまった。 日本は、たいへん不運な生い立ちの国で、戦争に負けて、国民が求めてもいない、どころか、どんなものかよく知らない「自由」をアメリカが押しつけていった、という歴史を持っている。 戦後すぐは、あわてて「自由って、なんだ?」という議論が沸き起こったが、空転する、とっかかりがない議論を繰り返して、そのまま、みんなめんどくさくなって忘れてしまった。 アメリカは、と書いたが、日本の戦後のグランドデザインをつくったのは、アメリカ政府ですらなくて、精確に言えばアメリカ軍、です。 「天皇なんて、ぶっ殺しちまおうぜ」といきりたつニュージーランドやオーストラリアを、まあまあ、と抑えて、天皇を中心とした「国体」がある全体主義の枠組みをそのまま残しながら、「封建主義」や「軍国主義」を弾圧して、「自由を受け入れなければ刑務所にぶちこむぞ、こら」という不思議なことをやった。… Read More ›

  • ガメ・オベールの日本語練習帳 ver.5  コメント集_その2

    1 ガメ・オベールの日本語練習帳_青土社版 page 36 「サバイバル講座2」 ☆キラキラ大島 January 19, 2017 昨年の秋に32年間仲良くしていた友人が亡くなって。心の病を患った彼は僕以外の他の友人たちとの連絡を一切絶ち、家族と僕とだけずっとやり取りを続け、気がついたら9ヶ月の間にメッセンジャーで3400回ものやり取りをしてて。その他に電話やメールやなんやかや。その9ヶ月はそれ以前の31年間の交流よりも濃い時間で、だから何も起こらなかった場合に今後30年くらい仲良くしていた分くらいの密な友情がそこにはあったのかなあとか、ちょっと思います。 でも、「正しくたって正しくなくたって、どうでもいいや、いまのアンポンタンのままでいいから、ずっと長く生きてくれ、と思うようになる。」というのは本当のことで、どんなに問題を抱えていようが、死んじゃあオシマイだよと。見送った側はそう思うのですが、自ら往っちゃった側にはそうする理由もきっとあったのでしょう。アンポンタンはそういうところの判断が良くない。どうでもいいけど、アンポンタンのところだけは出来ることなら治せていればよかったのになとか、自分勝手に思います。 そいつが昔LAで仕事をしてて、雇ったデザイナーがどいつもこいつも口ばっかで使えなくて、困ったそいつは突然国際電話をかけてきて、「急な仕事があるから、明日LAに来てくれないか」と無茶を言ってきたことがあります。しょうがないから行きましたよ。航空券を買ってLAXに到着して電話すると「悪いけどレンタカー借りてウィルシャーのオフィスに自力で来てね」と言われ、心底呆れました。Googleマップも無い時代に。行きましたけどね。そしてそいつ、外出しててオフィスにいなかったんですけどね。 アンポンタンは死んでも治らないでしょうから、来世でもきっとアンポンタンなそいつと出会えるのではないかと、怖れながら楽しみにしているところです。だってそんな友人は他にいませんでしたから。 ☆うさぎ男 January 19, 2017 「人間にとっては、自分でない自分の方角へ歩き出してしまうのが最も危険なことで」 僕は偶然ココロを病んでしまったことで⬆の鉄則を守れてちょっぴりアウトサイドなところを歩んで”自己””自分”を守りきれている者です。(イマノトコロハ) 最近は癖のためか”正しさ””安寧””功利”といった誘惑に駆られて皆々の向かう方へとせっかくレールから弾きだされたのに歩みかけていたんですがやっぱり行くトコは貫いていたほうがいいのだろうかか(←このとおりすぐべき思考にながされしまう)日本というような難敵をそばにした場合でも、、、 「このひとは人間は問題だが良いことは言っている」というようなことを述べているひとを見かけると、述べている本人が言葉が人格と切り離せるものだと妄想しているのがわかって、それは取りも直さず本人が人間というよりは人間のパチモンみたいなヘンな生き物なのを告白していて、 ⬆こういう慧眼には毎度ドキッとさせられたり 「仲間なんていらないでしょう」「友達なんかいらん、とおもっていても、ひとりまたひとりと増えて」や「繰り返していうと、友達はきみがきみで居続けた結果として「出来てしまう」もので」 ⬆のような文にはこんな世界と和解できたことからくるような深い世界への信頼を感じました 最後あたりの 「ほら、会えたでしょう?きみの友達に。」 とかについては自分が該当するかは知らんけどとにかくこのガメさんのぬくもりにあふれたfrendshipに隣会えただけでもさっきのくだらないの惑いを超越してこの自分の人生はこれで割と十分ラッキーといえるはずと思う、それだけ よくわからない構成になったけど以上が感想です Thank you so much so far   ☆さく January 19, 2017 はじめてコメントします。 ガメさんのブログを、「日本人は、シミの無いものが好きなのだ」という記事をきっかけにして興味を持ち、時々、読んでいました。… Read More ›

  • ガメ・オベールの日本語練習帳 ver.5  コメント_その1

      1 ガメ・オベールの日本語練習帳_青土社版 page 9   再び、汚れた髪について   ☆maymanaさん Jun 18, 2018 「この人はなぜこれほど恵まれているのに弱い者、苦しんでいるものに近づけるのか?」ということと「なぜそうしようとするのか?」と心を打たれました。私はこのような訴えを聞くことを生業として30年近く聞き続けていますが、ガメさんはそうでない。私はこの国で生まれ、封建的な地方都市で弱者である女性として生きているために弱者の立場に寄り添うのは自然ですが、ガメさんは全くそうでない。もちろん人に近づく能力もまたガメさんの天性の能力のひとつとしても、なぜ?という疑問がありました。 ただふと考えると、私がそれほど「なぜ?」と思う背景には、日本で出会う強者の立場の人は、特に男性は、さらに言えば弱者の立場の人であってさえも、強い者を気にして従おうとはしても弱いものに目を向けて寄り添おうとすることがまずないから、という事実に気が付き愕然としました。貴方の生きる世界では、強いものが弱いものに寄り添おうとすることは珍しいものでなく正しい行動としてごく自然に存在するのかと。自分が日本人の感性を持っているとあまり感じたことはなかったのですが、紛れもなく日本人だなと思いました。 50年以上この国に生きてきて変化を見てきましたが、最近はかなり絶望的になっています。私の目には、この国には決定的に何かが足りないので同じ所で永遠に振り子のように揺れているだけのように映るのです。そんな時期にガメさんに出会い、何が正しいのかの信念に一本の筋が通ったように思います。それと共にこの絶望的な日本の状況を相対化して見る力を与えてくれたことに感謝します。 私はとてもガメさんに助けられたと思うので、もちろん日本語世界に留まってほしいと願うのですが、同時にそれは行き過ぎた期待だとも思います。ガメさんは日本語世界の最も嫌な部分に接しています。そうでありながらも愛を持ち続けてくださったのですが、でもやはりこれは当事者の日本人である私たち自身の問題であるから。人が変わるためにはその人自身の意志が必要で、それでも長い長い葛藤をくぐり抜けてでないと変化は訪れないことを、私はその場に立ち会ってきて知っていますし、国の変化もやはりそうなのだと思います。それが私の生きている間でないにしても。 それでも、いつお別れが来てもいいように、私の個人的なお礼の気持ちをお伝えします。 本当に、どうもありがとう。多分ガメさんが考える以上にガメさんから多くの学びを得ましたし、とても助けられました。そしてそれを私がこれから出会う弱い立場の人たちにも伝えていきますし、私自身が考える材料にもしていきます。   ☆swingoutさん   June 10, 2019 わたしは、20代の頃に何度も自分の命を捨てようとした。自分は生きている価値のない人間だと考え、そのやり切れなさから逃れようとした。しかし、そうはならなかった。 何か自分にもできることがあると信じたくて、あがき続けた時期もあった。その頃は、心身の調子の波が激しく、上向きな時はおそろしく意欲的になる。しかし、その反動でわたしの中の目盛りの針は振り切れてしまうのだった。 その後、波は単調で低いままになった。、意欲を持つのが徐々に困難になっていき、目先の些細なトラブルに対処するだけで精一杯だった。 そして、このごろは一層低調になり、ベッドから抜け出すまでに随分時間がかかるようになっている。外出の回数は減り、かといって、家で何をするでもない。ただ、時間だけが過ぎていく。それが積み重なって、日々、月日、年月がわたしをすり抜けているかのようだ。 「ふたたび、汚れた髪について」を読んでいて、過去から現在にかけての自分の姿が浮かび上がってきた。ぴったり重なりはしないが、大きくずれてはいない。 ただ、生きているというだけのわたしがいる。今は、それ以上でも以下でもない。 「ふたたび、汚れた髪について」を読み終えて、小さくため息をついた。自分がこのままでいいとは思わないが、少しホッとしている気がする。きっと、これからも「生きているだけで大ごとなる」のだろうが、まずは、生きていよう。   2 ガメ・オベールの日本語練習帳_青土社版 page 18 陽だまりに休む権利   ☆石炭(@airdog_s)さん August1, 2018… Read More ›

  • 日本史 第三回 片方しか翼をもたない天使たちについて

      有栖川公園の丘の上にある図書館から、ひとりの若者が出てきたところだった。 若者、といっても、ぼくの眼にはまだ子供で、ひどく痩せていて、膝が突き出たジーンズに、ブラシもしていなさそうな長い髪がほどんど肩にまでかかっている。 おまけに本人は気が付いていないが、上下に「ひょこたん、ひょこたん」と音がしそうな歩き方で、それなのに足をひきずっているような、不思議な歩き方をする。 角の交番のところまでくると、立ち番の若い警官をちょっとにらみつけるような顔をしながら信号を待っている。 昼ご飯を食べてから午後の古典文学の授業に出ようとおもっていたが、めんどくさくなった。 なだらかな、長い坂を下りて広尾駅に出るか、産院下の交差点に出て、そこから坂をあがって都営バスで渋谷に出るか、あるいは、平坦だが距離が長い、中国大使館の前を通って材木町の交叉点に出る道を行って、六本木に出るか、 なんだか毎日おなじことで悩むので、いっそ月、水、金は広尾駅から日比谷線、というように決めてしまえばいいのではないかとおもうが、それもバカバカしいような気がする。 午後の授業に出る気がなくなった理由は、いつもの怠惰だけではなくて、昼ご飯にでかけた定食屋で見た光景のせいでもある。 学園紛争が長かったので、とっくのむかしに学生食堂が逃げ出した学校のなかには、ひどく不味いパサパサした菓子パンを売っている、近所のベーカリー「キクヤ」の出店以外はなにも食べ物を調達できる店がなかったので、もう中学生の頃から、きみは学校の外で昼ご飯を食べるのに慣れていて、いちばんおいしいのは西武グループの堤の家がある坂のうえの交叉点にある「キッチンあき」だったが、ここでは3年生たちが幅を利かせていて、カウンター席だけの店内なのにコーヒーまで注文してくつろいでいるので、 「おい。ふざけんなよ。午後の授業がはじまっちまうだろう」と後ろから立って待っている2年生が声を荒げても、 「うるせーぞ、2年坊主、おまえら、ここで食べるのは百年早いわ。 下の那須まで走っていって食ってこいよ」と集団でせせら笑う始末で、埒があかないので、倍近く払わねばならないフィッシャーマンズワーフに出かけなければいけないことも多かった。 その日も、そういう事情で、フィッシャーマンズワーフに出かけたが、店内に一歩入ると、3年生も2年生も店のコーナーにおいてあるテレビの画面を見つめている。 なんだろう?と思って見ると、雪のなかで機動隊が伏せている。 軽井沢のあさま山荘というところで、「連合赤軍」が銃をもって籠城しているのだという。 きみの高校のなかにも、赤軍派はいた。 戦記派叛旗派がいて、青年解放同盟がいて、あとはお決まりの中核派、革マルといて、革マルの幹部だった世界史の教師は横浜線で中核派の集団に襲われて頭蓋骨陥没の重傷で休講中だったりしていた。 でも「連合赤軍」という名前は初耳だった。 顔にみおぼえがある3年生の背の高い男が「殺せ!殺せ!やっちまえ!」と叫んでいる。 そのまわりで他の3年生たちが、げらげら笑い転げている。 「マルキなんて、みんなぶち殺せ」 きみも実は通りに出てヘルメットをかぶったことがある。 学校の友達の誘いはぜんぶことわって、深夜、こっそり相模原にでかけて、戦車の搬入に反対して集まっていた大学生たちに混じって、どのセクトにも属さないことを示す黒いヘルメットを手にして、デモの隊列に加わった。 結果は、ひどくがっかりさせられるもので、実際に加わってみるとまるで軍隊で、見るからに軽薄なリーダー格の演説がうまい大学生が、最前列に並べた高校生たちに逃げるな逃げるなと叫びながら、機動隊が放水車を前面に押し寄せてくると高校生たちを盾にするかっこうで、一目散に逃げていった。 逃げていく後ろでは、高校生たちが機動隊員にジュラルミンの盾で殴られ、女の高校生たちは髪をつかまれてひきずりまわされて泣き叫んでいたが、リーダーたちは振り返らなかったので気が付きもしなかっただろう。 きみの姿をみかけたらしい3年生が、次の日、「おまえ、いったいあそこで何をしていたんだ。公安の犬じゃないのか」と述べたので、きみはすっかり嫌気がさして、そのまま学生運動と名の付くものには背を向けてしまった。 その3年生が、公安が高校生たちのなかに放ったスパイだったと判ったのは、ずっとあと、大学を卒業してから、友達に初めて聞いて知った。 政治というものはそういうものだと、その頃にはもう判っていたので、ただ、そうだろうな、とおもっただけだった自分の気持ちを、きみは見知らぬ人の心をのぞき込むような得たいのしれない不思議なものだとおもうようになっていきます。 「時の時」という、いまではもう使われなくなった言葉がある。 きみが麻布の丘の上にある学校で中学と高校時代を過ごした数年は、日本という国にとっての「時の時」というべき時代だったのだとおもう。 誰にも言わないだけで、「世の中のために働きたい」という都会人らしくない、当時の日本人たちが聞いたらふきだしてしまうような純粋な気持ちでおもいつめて、本郷の大学を出ると、きみは大学院をあきらめて、といっても成績や家庭経済の理由ではなくて、人文系の大学院に行く級友たちに馴染めなかったからだけども、仕事につくことにする。 選択肢は朝日新聞社という新聞社と大学院と公務員で、結局きみは上級公務員試験を受けて、霞ヶ関に通う毎日を選ぶことになる。 振り返ってみると、その頃の日本は、自分達では一人前の先進国を自認していたが、ほんとうはまだ中進国くらいの社会でなかっただろうか。 後年、きみが霞ヶ関官庁のありかたにすっかり嫌気がさして、国費をつかって、でもひそかに日本には戻らないぞと決めて向かったボストン郊外のケンブリッジという町で、おなじ学校を出た、それなのにあの学校ではときどきあることで、あんまり見かけたことのない顔の日本人がいたでしょう? いつもUnoピザで、おもしろくもなさそうな顔でピザを食べながら、ピッチャーのアイスティーを真冬でもガブ飲みしていたあの奇妙な日本人は、実は、あとになってぼくの叔母と結婚するひとで、いまでもときどきスカイプで話したりするんだけど、あのひとは朝、わざわざいちど日比谷に戻って、高校へ行くまえに、三信ビルの地下にあったアメリカ人相手のダイナーで、一杯のウイスキーとステーキサンドイッチを食べてから学校へ行くのをしばらく習慣にしていたのだけれど、ちょうど日比谷線の出口から出て坂をのぼる頃になると、長身のイギリス人の双子の姉妹が学校へ行く途中であることが多かったそうです。 「ところがね、この双子の高校生のねーちゃんたちがジャガーに乗って学校へ行くんだよ!」と、いつか、この義理の叔父が興奮気味に話してくれたことがある。 金髪で背が高くて、すんごい美人の双子の姉妹なんだけど、毎朝みるたびに、 なにがなし、日本はまだまだダメだなあ、おれたちはビンボだし、ダメだ、とほとんど意味もなく考えた。 悪い癖で、そのときは言わなかったが、実はぼくはこの「双子の姉妹」を知っていて、あのふたりは当時高校生ではなくて休暇中の大学の一年生だったはずで、クルマもジャガーではなくてMorgan… Read More ›

  • サバイバル講座1

    個人が世界と折り合いをつける、というのは意外と難しい作業で、それが出来てしまうと、一生の問題はあらかた片付いてしまうのだ、と言えないこともない。 漠然としすぎているかい? 例えば医学部を出たが、どうも自分は医者には向いていないのではないか。 医学部に入った初めの年に新入生のためにホスピス訪問があって、そのとき、もう死ぬのだと判っているひとたちが、みな、曇りのない笑顔で暮らしているのを見てしまったんです。 わたしには、どうしても、その笑顔の意味が判らなかった。 医学を勉強しながら、患者さんたちの笑顔をときどき思い出していたのだけど、 あるとき、糸が切れたように、ああ、自分には医者は無理だな、と考えました。 絵描きになりたいのだけど、絵で食べていく、なんていうことが可能だろうか? 「ライ麦畑でつかまえて」の主人公は、お兄さんがハリウッドの原作者として仕事をすることを裏切りだと感じて怒るでしょう? でも「バナナフィッシュに最適の日」で、そのお兄さんは銃で自殺してしまう。 商業主義、がおおげさならば、オカネを稼いでいくことと、芸術的な高みを追究していくことは両立できるんですか? ぼくは、オカネを貯めて出かけたマンハッタンのMoMAで、Damien Hirstの例のサメを見たとき、吐き気をこらえるのがたいへんだった。 でも貧乏なまま絵を描いていくことには、なんだか貧しい画家同士のコミューンの狭い部屋で生活していって摩耗していってしまうような、不思議な怖さがあると思うんです。 そういうとき、きみなら、どうするだろう? ちょっと、ここで足踏みしよう、というのは良い考えであるとおもう。 足踏みして、自分の小さな小さな部屋で、寝転がって本を読んで、どうしてもお腹がすいてきたら近所のコンビニで肉まんを買って、その同じコンビニで最低生活を支えるバイトをして、….でもいいが、足踏みをしているくらいなら、ワーキングホリデービザをとって、オーストラリアのコンビニで、あるいは日本人相手のスーパーマーケットや日本料理屋で最低生活を支えるバイトをしながら、寝転がって本を読む、というほうが気が利いているかもしれない。 むかし、いろいろなひとの貧乏生活の話を読んでいて、結果として貧乏な足踏みが自分と世界の折り合いをつけるためのドアになったひとには共通点があることに気が付いた。 奇妙な、と述べてもよい共通点で、「本を買うオカネは惜しまないことに決めていた」ということです。 食事を抜いても、読みたい本を買った。 ぼくなんかは図書館でいいんじゃないの?と思うんだけど、買わないと本を読む気にならないんです、という人の気持ちも判らなくはない。 あるいは世界は一冊の本である、と述べたひとがいて、そういうことを言いそうな、もう死んだ面々の顔を思い浮かべてみると、多分、ルネ・デカルトではないかと思うが、そうだとすると、困ったことにこれから言おうとしている意味と異なった意味で言ったことになってしまうが、都合がいい解釈で強引に使ってしまうと、自分の知らない世界…この場合は外国…を一冊の本とみなして、ざっとでもいいから、読んでみる、という考えもある。 この頃は日本の人でも、なぜかだいたい20代の女の人が多いように見えるが、一年間有効の世界一周チケットを買って、成田からシドニー、シドニーからオークランド、オークランドからサンフランシスコ、ニューヨーク、ロンドン、というように一年まるまるかけて世界を読んでいく人がいる。 東京で広告代理店に勤めていたわけですけど、と、なんだかサバサバした、というような表情で話している。 日本では、ああいう世界って意外と軍隊ぽいんですよね。 英語国でも、割とマッチョな業界だけど。 ああ、そうなんですか? 要領だけのビジネスでは男の人のほうがケーハクだから、うまく行きやすいんですかね? と述べて、舌をだして笑っている。 わたしは日本人なので、やっぱり英語がいちばん大変でした。 日本人にとっては英語はたいへんなんですよー。 受験英語って、一生懸命にやると、どんどん英語が出来なくなっていくんです。 おおげさな言葉でいうと分析って、言語の習得にいちばん向いてない態度だと思いませんか? 日本ではね、構文解析なんて本を高校生が勉強してしまうんです。 文節と文節のかかりかたを図にしたりして、そりゃ、やってるほうだって古文書の解読かよ!と思いますが、みんながそうやって勉強してしまうので、逃れられない。 わたしなんか、それで、英文学ですから! もう最悪で。 ほら、ガメさん、N大の英文科の先生を一週間にいっかい教えてらしたことがあるでしょう? 教えていたのでなはなくて、質問に答えに行っていただけね。 旦那さんが生物学の先生で、義理叔父の大学の同級生なのね。… Read More ›

  • To my young Japanese friends whom I haven’t met yet,

      I’m just going to dive right in here.   As we have seen, the word ‘integrity’ is not in the Japanese language. Integrity. Wait. What? Really. Let that sink in. The absence of the word integrity is a monumental… Read More ›

  • 日本語の本を出すということ

      むかしは、そんな理由じゃない!とむきになって否定していたが、最近は、考えてみて、やっぱり子供のときに日本に住んだということがおおきいのかも知れない、とおもう。   日本を離れて、すぐに忘れてしまったが、子供のときはたしかに日本語が話せたので、いま仮に録音があれば、案外カタコトに近いのかもしれないが、当時は、かーちゃんが出かけるところには、どこにでもくっついていって、店員さんなら店員さんの日本語を通訳するのが誇らしくもあり、嬉しくもあった。 読んだり書いたりするのは、ぜんぜんダメで、いまでも日本語を勉強しようとしたらしいノートが残っているが、ひらがなの「ね」が、全部裏返しになっている。 英語社会にもどってみると、日本にいたことは、まるで夢のなかの出来事のようで、そのうえ1990年代初頭の英語社会などは、日本語文明に限らず、他文明になど、まったく興味をもっていなくて、友だちと話していて、「そういえば、日本では、こうなんだよ」と述べても、「へえ」というおざなりの、気のない反応が返ってきて、次の瞬間、ホールデンの新しいユートが、いかにクールか、という話になっていった。   日曜日の朝には「セーラームーン」が放映されていて、それはそれで人気があったが、そこから日本文化に興味をもつ、というようなことは、あったとしても稀で、いま振り返って考えても、アニメとしてのおもしろさと、それが日本のアニメであることが結びついていなくて、鮨のような食べ物は強く「日本のもの」であることが意識されていたのと、好対照をなしていて、文明というものの面白さを暗示している。 義理叔父という存在が、自分の日本語にとってはおおきかった、ということはブログにも何度も書いている。 叔母が結婚した相手で、日本の人です。 当時から通常の日本の人と較べようもなくて、飛びきり英語能力があったが、それでも、ときどき、なにを言っているのか、まったく理解できないことを口走るので、気の毒に、遠慮などというものには縁がない、連合王国人やニュージーランド人に、よく揶揄われていた。 平気を装っているが、内心は深く傷付いているのは、叔母やぼくには感得されていて、なぜか英語の問題がいっさいなくて、時に、相手が、ふと会話を止めて「おまえの英語は、すごいな。きみ、ほんとうに日本人なのかい?信じられない」と、あながちお世辞でもなく述べてくれる人が、たくさんいた、カリフォルニアに越したいと口走ることがあった。 こちらが段々成長してくると、従兄弟と遊ぶために出かけると、よく顔をあわせる、この奇妙なおっちゃんと、自分には、あろうことか、いくつか共通点があることがわかってきた。 ・本をたくさん読む ・数学が考え方のバックボーンになっている ・コンピュータを中心としたハイテクノロジーに強く惹かれている オランウータンが木から落っこちてボーゼンとしているような、輪郭も表情もぼんやりした顔からは到底想像がつかないほど高い知能をもっていて、世界から表層を剥ぎ取って深層を見つめる能力を有している。 だいたい十三歳くらいになるころには、年齢がおおきく離れているにも関わらず「だいなかよしの友だち」と意識されるようになっていて、物理的におなじ国に居合わせれば、一緒に「つるんで」あちこちに遊びにいくことが多くなっていった。 この人が日本語の先生です。 いま考えてみると随分ヘンテコリンな選択だが、クリスマスのプレゼントに英語版の平家物語をもらったのから始まって、ラフカディオ・ハーン、最も決定的だったのは、「東京物語」を初めとする小津ムービーで、日本中探し回って、やっと手に入れたVHSの小津映画を一緒に観ていると、叔母も従兄弟も、わし両親も、みんながそわそわしだして、用事をおもいだしたり、眠りこけてしまうなかで、義理の甥っこだけが、目を爛々と輝かせて、コーフンさえ見せて手に汗を握って、淡々と語られていく映画を観ている。 やがて、ふたり映画クラブのようになって、「ゴジラ」や「ゴジラ対モスラ」を観くるって、感想を語り合うようになっていく。 英語字幕を借りなくても日本語がわかるくらいまで日本語能力が恢復すると、すっかり日本語そのものもおもしろくなって、義理叔父の書斎にあった筑摩書房の近代文学全集を片端から読んで、読み終えてしまうと、「美しい星」に出会った新潮文庫の三島由紀夫全集を読んで、とバリバリと日本語の本を読んで、若い人間というものは恐ろしいもので、到頭、岩波の古典文学大系まで全巻読んでしまった。 初めはご多分に洩れず思潮社の現代詩文庫だったが、岩田宏の詩集を手にして、なるほど、日本語とはこういう言語だったのか!と考えて、手に入る限りの詩は、「夜半へ」や「ショパン」の長詩を含めて、全部、暗誦できるようになったのは、この頃でした。 同じ頃、英語世界では、ポール・マルドゥーンのようなアイルランドの詩人たちが好きだったが、一方ではディラン・トマス、T.S. Eliot、W.H.オーデンの「昔の詩人」も大好きで、「荒地」という同人名に誘われて読み始めた、田村隆一や三好豊一郎、北村太郎に続いて、いま考えて、北村透谷や岩田宏と並んで日本語世界との最も決定的な邂逅になった鮎川信夫にめぐりあうことになる。 このあとのことは、ブログ記事になんども出てくる通り、日本語の読み書きができるようになると、他人に見せてみたくなるのが人情で、義理叔父が遊び半分に考えたゲームサイトの販促に始めた会社の人や義理叔父自身が書いていたブログを、ごく初期の途中から引き継いで、ver.1に中る、「ガメ・オベールの日本語練習帳」と称するようになったのが、そもそもの初めでした。 そこからは、十年を越えて、いままで、一緒に歩いてきてくれた人も、たくさんいる。 自分では、どんなものを書いているのか、よく判っていないところがあって、言われても、いまでもピンとこないが、「どうか掲載しないでください」という断りと一緒にくるコメントや、email、最近ではtwitterのダイレクトメールの形で、おおげさでなく膨大な数の 「あなたのブログのお陰で死なないですみました」 「ブログを繰り返し読んで、かろうじて生きている。日本の社会は、苛酷で生きづらくて、もし、あなたのブログがなければ、わたしは、とっくの昔に死んでいます」という、どれもたいへんな長文の、わしのブログなどより、ずっとすぐれた日本語で書かれた手紙が舞い込むようになっていった。 十年、日本語を続けてきた、というのは、そもそも40分以上おなじことをやれないので友人たちには、遍く知られていて、学生よりも若いのに母校の講師に抜擢されても、あっというまに辞めてしまうし、ガールフレンドに唐突に「飽きてしまった」と述べて平手打ちをくらったりしていて、とんでもない飽きっぽさが第一の人間としての特性である自分としては破格のことです。 多分、理由は、過去へ向かって読み返していくと、書くにつれてだんだん日本語が上手になってくるのが自分でも感じられていたからで、2015年くらいになると、自分では、機嫌がいいときなどには、「もしかして日本人よりも日本語、巧いんちゃう?」と自惚れられるくらいになっている。 そうは言っても、2018年くらいになると、流石にほんとうに飽きてきて、この間に起きた色々ないやがらせとはあんまり関係なく、自費出版でいくつかの記事を紙にしておいて、日本語全体から足を洗うべ、という気持になっていった。 500部、という数でいいのではないか、と考えて、なにしろ本人がIlluminated books、あの金箔と絵とカリグラフとゴージャスな色彩に満ちた、精巧な本の大ファンで、まさか蒐集はしないが、レプリカのコレクションまでもっているくらい「ものとしての本」が好きなので、いくらでもオカネをかけて、中身のテキストがボロいのはやむをえないとして、本としての体裁だけは美術品と呼びたくなるようなものをつくろうと考えた。 考えているうちに、線描画を書くのが好きなので、与謝野晶子の「みだれ髪」の初版に倣って、手描きの表紙がよいのではないかと考えはじめて、500もドローイングを描くのはたいへんなので、50部もつくればいいか、と計画を変更した。 自分では外国に住んでいることでもあり、どうにもならないので、能楽師で、学芸家でもある年長の友人に采配をお願いして、快諾をもらうところまですすんでいました。 めんどくさいので、口にだして、誰をどういう友だちだとおもっていて、どのくらい信じている、というような「私家版友情ミシュラン」みたいなことはしないが、このひとはすごいな、このひとは真の友人である、と考えていた人に失望するという「事件」が起きた。 敬意がおおきかったり、強い友情を感じていたり、信頼が深かったりする相手に落胆したときほど、怒りというものは強く、爆発的になる。 日本の人は「礼儀正しく怒らないとダメだ」「怒るよりも先に、なぜ話しあおうとしないのか」というが、はっきり言ってしまえば、そんなのは日本の人のチョー特殊な意見で、それが常識になっている日本語社会が、どれほど病んでいるか、という証左にしかすぎない。… Read More ›