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なんか、もうどうでもいいや、と思う。 と言っても、別に投げやりになっているわけでも、絶望のはて、「もうのぞみなし」になっているわけでもなくて、例えていえば、ちょっと沖に出てみたら、行きたい方向に風が吹いていて、 まあ、なんてラッキーなんでしょう、そのうえ速い潮まで流れているので、 下手な考え休むに似たり、このマイクロラッキー状況に飛び乗って、 行けるところまでスイスイ行っちゃったほうがいいよね、という意味です。 状況をよりよくしようとしてジタバタするよりも、うまく行っているときには、状況に身体を任せて、行けるところまで行ってしまったほうがよい。 いままで生きてきて、人間の人生で最も驚くべきこと、という過剰に肩肘が張った大時代な言い方を止めると、ぶっくらこいちまったのは、人間が持っている資質のうち、最大のものは 「運」だ、ということで、やってみれば判るが、マジですか、というか、 努力なんてやったってやらなくたって同じことで、 時々に夢中でやれる面白いことに、朝の太陽が出て、鳥さんたちの囀りが聞こえ出すまで没頭して、その「きみに夢中」な対象は、当たり前だが、自分の意志で決められるものではないので、 正しい、正しいって、なにが正しいの、うーんと、そうすると、適当な、かな? 日本語は表現が多すぎるような気がするし、少なすぎるような気もするが、 とにかく自分が「快」の感覚に順って、趨くままに、どんどん行っちゃって、 そういう無意識の選択が常に自分を高みに連れて行ってくれる自分をつくっていくのが妥当な過ごし方の、人の一生であるらしい。 ああ、ややこしい。 閑話休題 これは実はですね。 日本の人には、ない考え方で、判りにくいでしょうから例を挙げると、 ラグビーって、あるでしょう? 学校の名前だけど、日本語でラグビーといえば、どちらかと言えば、その学校のコンジョワルの校長が考えたスポーツの名前のほうが通りがよさそうです。 ある日、校長室の窓から、円いボールで嬉々として流れがスムースな流線形のスポーツを楽しんでいる生徒たちを見ていた、ミスター・コンジョワール校長が、 「人生を教えてやらねばならん」と余計な決意をして、な、な、なんと、 やるに事欠いて折角円かったものを紡錘形にしてしまった。 お陰で、いったん手を離れると、どこに行ってしまうか判らない、クソボール、言葉が悪くてごみんだが、になって、広いグラウンドを右往左往する生徒どもを見やって、 これこれ、これじゃないと、スポーツみたいな知性への冒涜を人生に役立てることは適わぬわい、と自惚したというのです。 ヘルメットもなしに頭をガツンガッチンぶつけあうという野蛮な試合を繰り返した結果、これ以降、 イギリス人の中流以上の子弟は、みんなあの通りのバカになってしまう、という偉業を成し遂げたが、ひとつだけ良い結果を齎したのは、若いひとびとに、 「人間の人生なんて、色々、予測して計画たてて未来に対処しようたってムダだから、なにが起こっても大丈夫な自分をつくっておけ、そっちのほうが理に適っている」 という真理を植え付けたことでした。 つまり、こういうことです。 右を見て、左を見て、交通の間隙をついて道路を横断するよりも、疾走してくるトラックにぶつかっても大丈夫な強健な肉体を築いて、行き交うクルマなど気にも留めずに、気楽に渡ったほうがいい。 それでは死んでしまうではないですか、って? ええ。 だからイギリス人は破滅する人が多いんですね。 ところがところーが。 トラックにぶつかったって、おれはダイジョブ、と妄信して道を渡る人間のうちには、 不思議なくらいクルマにぶつからなくて、 急ブレーキをかけて止まったクルマに一瞥をくれて、… Read More ›
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