帰去来

自分がどこから来て、どこへ行くのかは、人間なら誰でも胸の奥底に秘めている疑問であると思う。

ガメみたいに恵まれた出自でも、なにをなすべきか悩むのか、とオダキン @odakin が述べていたことがあったが、常に「生まれてきたからには何事か成し遂げなければ」で、「成し遂げ病」に罹っている悩める中年オダキンらしい誤解で、なにをなすべきか悩むことはなくて、どちらの方角へ行けば、自分自身が充足して、満足な気持になるのか、ときどき考えているだけです。

あてもなく旅をしている人に似ている。

2017頃までは、毎年、世界中をうろうろして歩いていて、あちらの村で2ヶ月、こちらの町で3ヶ月、大学の仕事を早々とやめてから、ひとよりも早く教育を終えたのだからと自分に対して言い訳をつくって、1年有効の世界一周チケットを買って、マンハッタンやグラシア、トレメッツオ、いろいろな場所に滞在した。

アメリカや大陸欧州がおおかったが、日本語もよい滞在地で、結局は物理的には欧州にいて、ネットを移動して日本語を訪問する、という欲張りな旅をしていたりした。

そんな生活ができるはずがない、と、日本語にでかけると、たいへんな嫌がらせで、ああいうひとたちには、事実などはなくても、自分たちでつくってしまえるのだと判ったりして、くだらない目にもあったが、日本語は生活のなかに入り込んでいない言葉で、簡単にいえばラップトップを閉じてしまえば、消滅する世界で、人間がどこまで卑劣になれるか実験しているのかしら、とおもうような、日本のおじさんやおばさんにはげんなりさせられたが、言語上の故郷の英語にもどってしまえば嫌な気持ちは追いかけて来ないし、振り返ると、グランドツアーの伝統が、まだ虫の息で呼吸している自分の国では、たいして珍しくもない生活でも、フジツボみたいな暮らしの、ああいうひとたちには、想像することすらできない生活だったわけで、まあ、仕方がない、とおもっています。

あんまり友だちはつくりたくない、いないほうがいい、と念願して暮らしているが、それでも友だちというものは出来るときには出来てしまうもので、なかには38年のいままでの一生の30年くらいも一緒にすごしている友だちもいたりして、

クリスマスのころになると、1年を振り返って、これじゃ去年とおんなじじゃないか、ぼくいったい何をやっているんだ、と話しながら腹が立ってきたり、姿を見かけなくなった友だちの消息を推察したり、いやあ、おれはもう人生あきらめたからいいんだよ、と述べたり、結婚した俳優が、有名になってしまって、おらあ、もうたまんねえ、と泣きべそ顔になったり、

いろいろで、夜も更けて、じゃあね、またね、と手を振って別れるころには、

友だち達の1年分の人生の断片が、胸に染みこんで、いったいどういう心の動きによるのか、恋人に死なれた友だちの気持ちらしいものが、不意にこみあげてきて、涙で前が見えなくなったりする。

彼らの周りにも、妬みや嫉みが渦を巻いていて、あることないこと、悪い噂話を流されて、新聞でさえ酷いことを書くことがあるが、ほんとうの姿は、ひたすら善意の人間で、匿名で、絶対にばれないように周到に工夫して、毎年、莫大な金額を親がいない小さいひとたちが暮らす施設に寄付していたり、デトロイトで、81歳で自宅で強盗に襲われて無一文になったRosa Parksの記事を読んで、友人に快適で安全なアパートを探させて、家賃を、この市民権運動の発火点になった勇気ある黒人の女の人が92歳で亡くなるまで、人知れず払い続けた、$5ピザチェーンLittle Caesersのファウンダーでデトロイト・タイガースのオーナーだったMike Ilitchが有名だが、ああいう人はいくらでもいて、友だちたちも、当然のことだとおもっているようでした。

なにかを成し遂げようとする人生は、人生を過程化してしまう。

どちらかといえば、そのときそのときで、こっちへ行ったほうがよさそうだという方角へ歩いて、大好きな人とめぐりあって、小さい人が出来れば、よおし、あとで振り返って、自分ほど恵まれた子供はいなかったと考えるように、こっちが全知全能を傾けて、容赦なく幸福にしちゃるけんね、と考えたりして暮らすほうが、自分には向いているようです。

どうやら、ぼくは、自分にとっては、日本語も、そうした「善意の目的地」のひとつなのだと言おうとしているらしい。

むかし、ひとりの弱視に近い視力の、小柄なアイルランド人が、自分の行き先を求めて、情熱的なカリブ海の生活で身を焦がしたあとに、極東の、言語も通じぬ島国にやってきたことがありました。

Lafkadio Hearnという人です。

後年、小泉八雲、という日本名を名乗ることになる。

ほとんど、たったひとりの力で、英語世界での日本への好印象を作りあげてしまったハーンは、日本の生活で好きなものを

「西、夕焼、夏、海、遊泳、芭蕉、杉、淋しい墓地、虫、怪談、浦島、蓬莱」

と書きとめているが、この静かな淋しさが稜線に立ち並んでいるような言葉の集まりを見ると、この小さなアイルランド人が、どれほど深く日本を理解して、愛していたか判るような気がします。

書籍のほうの「ガメ・オベールの日本語練習帳」の、「デーセテーシタレトルオメン」に書いたとおり、日本語が話せないハーンと英語が話せない配偶者のセツさんは「ヘルンさん語」で、深く深く理解しあって、ふたりの共著と言ったほうがいいやりかたで、手を携えて、あの数々の傑作を生みだしていく。

ある時期から、ラフカディオ・ハーンは、日本人にとって、人生はひとり旅そのもので、人間の一生への基本的なイメージが、街道を歩いて、遠くへ遠くへ、自分がまだ見知らぬ生の向こう側にある世界へ、倦まずに向かって、時々は峠に立って来た道を振り返って、夕暮れの淡い闇に消えている、これから歩いていく道を見つめ直すことなのだと気が付いている。

この日本人という旅人は、ただのY字交叉点に立ってさえ、自分が選ばなかった道を惜しむ切なさで胸をいっぱいにして、やはり、こっちに行こうと決心して、未練を振り切るようにしてしか旅していかれない心性を持っていたように見えます。

外からやってきた者にとっては、日本の人びとは、胸までも届く感情と情感に流されまいとする努力で生きているひとびとで、言葉による会話も、多くの場合は、感情を取引しているだけで、あるいは、なんとか伝えようとしているだけで、現実や論理は、贈答の箱書きのようなものでしかないように見えることがある。

このごろ、よく、「そういうひとたちが西洋文明を受容してきたんだからな」と驚嘆の気持で考えます。

もちろん、否定的な気持ではなくて、日本の人の西洋文明受容にかけた、気が遠くなるような努力に思いを馳せて、という意味で、

近代以降、言語に大変な負荷がかかり続けて、ここに来て、ばっきり折れてしまったように見える事態の真相は、どうやら、そんなことではなかっただろうか、とおもう。

定年退職したら、おれは南洋で気楽に暮らすのだと述べていた、最近同姓同名の別人を日本語ネット上でよく見かけるが、名古屋大学哲学科教授のほうの田村均先生、通称哲人どんが、ネット群衆のアカデミア事情に対する無知につけこんだパチモンの自称哲学者が氾濫する日本語ネット上の有様に「哲学者の実力は、そんなもんちゃうぞ」と考えたのか、大失礼な言い方で哲人どんゴミンだけど、なぜかやる気を出して、通常のネットに公開される文章とは質がかけ離れた、良質の哲学断章を連載しているが、

最新の記事では、村上隆の「自由神話」を材料にして、

『 「日本の美術の授業は、ただ「自由に作りなさい」と教え」てしまう(『芸術起業論』p.11)。この教えは、芸術家は自由でなければならないという信念にもとづいている。そして、美大生もみな「自由になりたい」と思っている(『芸術闘争論』p.122)。ところが、「自由とは何かといえば「誰にもおかされない」で自分一人で考える」(『芸術闘争論』p.227)という程度の認識しかない。自由の名のみ声高に叫ばれるが、自由の本質への洞察がない。こういう状況を、村上隆は随所で「自由神話」と呼んでいます*。』

『誤解は、日本の芸術活動においては、「自由」が、生まれて間もない子供のような真白な状態と見なされているところにある。境界で仕切られず、制度にはまらず、情報に満たされていない、つまり拘束のない空白の状態が自由なのだと思われている。』

「自由」を他の西洋からの輸入語に置き換えれば、かなりの数の重要概念語で成り立ちそうな「誤解の事情」を述べています。

https://note.com/chikurin_8th/n/n980aaba46739

余計なことを書くと、この記事に出てくる「文脈の創始」については、この記事を読む、ほんの数日前に、ももさん、他と隔絶した中世美術への洞察力とを持っていて、日本に住む日本語人とは到底おもえない中世の風景のなかに佇むような能力を備えた稀な人で、ほんとうは金沢百枝先生と呼ぶべきで、実力にあわせて呼び方を変えなければいけないとしたら金沢百枝大大大先生と言わなければならないが、センセイでは、なんだかヘンテコな気がするので、やっぱりももさんは、チョー昔から呼び慣れていて、ももさんだが、雑談のなかで、リヒターとダミアン・ハーストに触れて、オロカモンで蒙昧な自分の著書のファン(←わしのことです)に対する、哲人どんとは異なる説明上の必要から、概念に触れていた。

哲人どんは、「感情語」と呼びたくなるほど情感過多な日本語から感情を排してしまうのが巧い書き手で、日本語で事実だけを述べて、だんだんに真相へ真理へと現実を追いつめていくのが得意な人です。

だから文章が、たいへんに判りやすいが、この判りやすさが、近代日本語では、なかなか得られないできたのは、やっぱり日本語人の「寂しさの美への執着」があるからでしょう。

真相や真理より、文脈が始まる時点へ遡行するより、

なあんとなく、な、情緒のなかで、たゆたって、自分に心地よい湯水のなかで、手足のちからを抜いているのが好きで、その湯水の温もりから出ると、今度は、旅人に返って、分か去れの道に立って、さて、どちらへ行こうかと考えている。

そのうちに説明したいとおもうが、切羽詰まって、やけのやんぱちのようにして西洋文明を受容したが、ほんとうは日本語の情感に満ちた自分の知的肉体には、まったく合わない体質の文明であることを、明治時代から、日本の人は、薄々気がついていた節があります。

「借り物でいいや」と思っていたのではないか。

それが文脈に続く輸入先の進歩がゆるやかで、スタティックだったころはいいが、

段々、翻訳文化では随いていけなくなるほど速くなって、複雑になり、ついには新しい文脈が次次に生まれ始めると、お手上げになってしまって、

自分が願望することを現実そのものとみなす癖がついてしまった。

社会の改革のために述べられる言葉は、次次に教条化して、空疎で硬直したものになって、鳴り物入りの正義で喧しいチンドン屋みたいなひとびとまでが、概念のまわりに群れて踊るようになってしまっている。

悲観することはなくて、いろいろな解決方法があるが、ひとつひとつ輸入された概念が生まれて来た文脈の始点まで戻るのでは「分かされ」が、たくさんありすぎて、たいへんなので、英語を国語にしちゃうのがいちばん速いんじゃないかなあ、とおもってます。

森有礼のむかしから、志賀直哉にいたるまで、日本語をやめて英語にしよう、フランス語に変えないとダメさ、という議論はたくさんあったが、当然ながら、いまのように言語的には「どこでもドア」に等しいインターネットが普及していたわけではなく、外国語社会への心理的距離も遠かった昔は、そんな試みがうまくいくはずもなかった。

それがいまでは、早い話が、先に述べた金沢百枝さんなどは、英語で話してみると、なんだか「日本人の皮をかぶったイギリス人」みたいな人で、頭のなかで考えるときにトピックと状況によって英語に切り替わる自動スイッチがついてるんじゃないかしら、とおもえて、あるいは英語社会にやってくる若い日本の人も、二十代以上の世代と英語そのものへの接し方がすでに異なっていて、語学という表現が陳腐におもえる、どういえばいいのか、日本語の生活の延長にあるような場所で英語を身に付けている。

よく日本の人が口にする「日本語は論理的でない」は、ほんとうとは言えない。

ただ近代日本語は情緒語と論理語のふたつの顔をもっているので、より伝統が長く、慣れている情緒語が論理語の邪魔をして、よほど意識しないと、感情が絡みついて、抜き差しならなくなった言語をぶつけあうだけの言語爆弾になってしまう。

英語が身について、日本語と同格の思考主体になれば、日本語はいま病んでいる病気が快癒して、健康体にもどってゆくだろう、と考える理由があります。

現に水村美苗さんや金沢百枝さんをもちだすまでもなく、現代日本語の美しい文章を書く人は、日本語と西欧語の、ふたつの母語や準母語で世界を認識する人が多い。

理由は簡単で、頭のなかで、絶えずふたつの言語を照応して、良い所も、悪い所も、明瞭に認識されるからでしょう。

ちょうど英語しか判らない英語人が、英語の姿を見ることはできないように、日本語しか判らない日本語人も、日本語の美しさを理解することは出来ない。

いまの日本語社会の英語との関わり方ででは、極端な人は「道具」だと言い出すくらいで、英語が判るというときの「判る」は翻訳文化の対象として理解できる、ということを指している。

それでは折角の英語も宝の持ち腐れで、英語の側に立って、日本語社会を考えてみるのでなければ、9割方意味がない。

ちょっと考えて怖気を揮うほどのことではなくて、日本語翻訳文化経由でもなんでも、頭のなかに英語が蔵われていれば、軸足を変えて、英語側に立って見る訓練をすればいいだけのことで、例えば、日常会話以外は、全部、英語ですませてしまえばいいだけなのかも知れません。

新聞も読書もテレビも、全部英語だけにしてしまうのは、いまのインターネットが普及した社会では簡単なことです。

ほんの少しなれれば、むかし日本の若い人が演歌の感情過多に食傷して、重い、濡れた感情を脱ぎすててポップスに移行していったように、日本語に多量に含まれている過剰な感情が意識されてくるはずです。

そういうことは、かっこわるい、と感じるときが来る。

いったん日本語を精製して、感情成分を分離してしまえば、ふたつの、日本語の美しさの結晶が析出するだろうとおもいます。

いずれ、ぼくはぼくの英語の家に帰り、あなたは、あなたの日本語に帰ってゆくのだけれど、まだ、このインターネットの橋の袂で、話す事がたくさん残っているような気がする。

まだ、ここにいてもいいのではないか、とおもっています。



Categories: 記事

1 reply

  1. > 「借り物でいいや」と思っていたのではないか。
    >
    > それが文脈に続く輸入先の進歩がゆるやかで、スタティックだったころはいいが、
    >
    > 段々、翻訳文化では随いていけなくなるほど速くなって、複雑になり、ついには新しい文脈が次次に生まれ始めると、お手上げになってしまって、
    >
    > 自分が願望することを現実そのものとみなす癖がついてしまった。

    そういう人ばかりになり、正直、マイってましたし、いまでもマイってます。
    だから、日本語に還るしかない人たちと理解し合うのは難しいと最近、あきらめました。

    > いったん日本語を精製して、感情成分を分離してしまえば、ふたつの、日本語の美しさの結晶が析出するだろうとおもいます。

    まさにいま緊急で必要だと思います。

    僕はいい加減でテキトーなところであきらめる癖のあるブラジル人である、と最近自覚する出来事がありましたが、どうでもいいところで争わない、戦わない、というのは、子供のころに身に着けたものだったんだなぁ、と今更ながらに思います。

    僕はどこに還ろうかな。やはりポルトガル語ともう一度向き合うべきなんだろうけど...

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