日本の人への手紙_1 準国家としての日本

夢を視た。

夢のなかでは、ぼくはたしかにぼくなのだけど、日本の人で、

憲郎さんが眠っている横に立っている。

憲郎さん、というのは、村上憲郎のことです。

ぼくにとっては、日本語の世界での親代わりのような人で、厳しいことを言われるし、意見も違うが、いよいよになると出張ってきて、やるなら俺が相手だぞ、と古典的な加勢の手を延ばしてくれる。

最近は、憲郎さんは中国が一般の知性的な日本の人が考えているのと異なって、いつかは判らないまでも、日本に対して武力侵略を仕掛ける意図を持っていると考えているのでしょう、自衛隊の駐屯地ニュースや、元自衛官政治家のtweetや、まるで右翼おやじのようなタイムラインをつくっている。

日本の人は戦争というと自国が外に侵略に出ることだというイメージを持っている。

ごく自然なことで、日本の近代の歴史を見れば、なにしろ、お前のものはおれのもの、だって、お前の国を取らないと、おれが食っていけねえだろう、という理屈で、台湾「征伐」から始まって、朝鮮侵略、満洲侵攻と、

「同じアジア人なんだから、あのヤバい白人たちが来る前に、全部、肌の色がおなじおれたちに寄越しな」で、分捕ってしまった。

分捕っている、という自覚もあったかどうか、怪しいもので、

満洲の農場から持ち主の満州人や中国の人たちを追いだしておいて、

満洲を「開拓」したなどと述べて、すましている。

そんなことばかりやっていたので、中国を始め、アジア諸国は「やられる側」で、戦後もずっと、自分たちが侵略に出かけなければ戦争は起こらない、という、ほぼ公理的なイメージを保っている。

歴史の大半を通じて富裕で、自足的な中国の歴史を、知っていればいるほど、そうで、心のどこかで

中国が自国に対して進攻してくるなんて、ありえない、と思っているところがあります。

憲郎さんは、すぐれた現実主義者で、自分では、その辺りはunderstatementに抑えているが、見ればすぐに判る、学生運動で、反体制に起ち上がって、

機動隊の装甲車の屋根にあがってriot policeと投石の応酬になって、

警官が投げた岩が見事に頭に命中して、高い橋の上から眼下の川に落下したりしていた場所から、持ち前の現実感覚で、パーソナルコンピュータの時代になることを感じていた。

戦前の転向や今日が最後のデモ、と決めて、「リクルートカット」に長い髪を切って、全共闘の兵士から商社の兵士に転向するよりも、遙かに判りやすくて、パーソナルコンピュータという社会の価値そのものが変容する「考え方」に、新しいものに夢中になっていったのでしょう。

本人は、「ぼくは、ただの要領がいいサラリーマンだよ」と言うが、ショーバイ柄、別に調べるというほどのことはしなくても自然と知っている事柄のひとつとして、憲郎さんはDECコンピュータ日本支社の社長をやっていたことがあるはずで、DOS/V初期、それまでは頑なに法人マーケットに限っていた販路を一般市場に開放したりしていたようです。

コンピュータのハードウエアに詳しい人のために言うと、このころのDECは、いま見ると、おもしろい機械で、グラフィックボードにS3を使っている。

一太郎マシンが多かった、当時の日本市場では、かなり思い切った選択で、

S3Windowsなら滅法速く動くが、DOSベースであると、うんうん唸っているのをトンカチで叩き壊したくなるほど遅いハードウエアだったはずです。

やがて憲郎さんは、グーグルに目を付けて、グーグルジャパンの社長になり、本社の副社長になってゆく。

生きていく上での勘の良さ、コンテクストがきちんと頭に入っていることから来る、「次に来るもの」への予見の正確さで、もし憲郎さんが自分で言うようにサラリーマンであるとしたら、サラリーマンの鑑のような勤め人だった。

Integrityをしっかり持っている人で、日本が抱えている様々な問題、いびつな国防、教育、経済構造の劣化、IT価値革命の不在、そういうことに対して、黙々と行動で社会を良くしようとしてきたところは、哲人どん、哲学者の田村均先生と似ている。

憲郎さんは、どうやら夢のなかでは病床にいて、ぼくは、お見舞いに来ているというよりは、誰もいない病室に忍び込んで、疲れた「憲郎とーちゃん」の顔を見ている。

なぜか夢のなかでは日本人のぼくは、しかしサイズだけは、現実のまんまで、無暗におおきくて、そのせいもあって、憲郎さんは、こんなに小さな人だったかなあ、と考えている。

愚かにも、そう考えた途端に涙が止まらなくなっている。

それから枕元にあったノートに山手線のループを描きながら、なぜか、

内回りと外回りの説明をしている。

憲郎さんは眠っているというよりも昏睡していて、それでも聞こえるのでしょう、幽かに、うんうんと頷いている。

日本の人と、付き合いが長くなったなあ、とおもう。

15年くらいも付き合っているのではないか。

初めはラフカディオ·ハーンで、それから小津安二郎とゴジラで、到頭、やるに事欠いて、5年11回の遠征計画と豪語して、まったく用事がないのに、日本に家を買い求めて、居座って遊んだりしていたが、日本は面白い国で、いまは異なるらしいが、ぼくがいたころは外国人には名前がなかった。

ガメ·オベールと名乗ることは出来るが、法律上は「通称」です。

住民票もなかった。

考えると、なんだかすごいが、日本では、つい最近まで外国人は、ある意味では「存在しなかった」と言ってもいい。

いまの日本の人に言っても、信じてくれなさそうだが、たいして長くいそうもないのに家を買った理由は、住宅を貸してもらえなかったからでした。

まったく貸さない、というわけではない。

外国人専用という趣の家はあって、そういう「物件」ばかり集めて割高に家賃を設定している会社はあったが、そんなやくざな商売をしているひとたちに稼がせたくはなかったので、結局は、気に入った3軒とも、家は買うことになってしまった。

何度か書いたが子供のときに日本に住んでいたことがあったが、このときは無論、親がすべてを取り仕切っていて、なにも苦労はなかった。

たしか7ベッドルームの家で、いま考えると、東京のど真ん中もいいところに、よくあんなバカでかい家があったものだが、当時は、そんなことは少しも理解できないで、妹とふたりで、ええええ~、こんなちっこい家に住むの?と述べて、父親を苦笑させたのを憶えている。

そのころ「東京」と意識されていたのは、いまの知識に照らすと、麹町、銀座、麻布、青山で、ただそれだけの地域を「東京」だと思っていて、

もっと言ってしまえば「日本」だとおもっていた。

おとなになってから、まず偵察に住んでみたのは、短期貸しに同意してくれた人のアパートで、四ッ谷の若葉町?というところにあった。

2ヶ月くらい、いたかどうか。

須賀町を通って田宮神社と於岩稲荷が向かい合っている小路を抜けて、四谷三丁目に出れば、夜中の2時3時でもおおきな店が開いているところで、

便利で好きだった。

寿司屋に行くと、ビートたけしのような、ぼくでも顔を知っているテレビ人がいた。

いまは、事情が異なるのではないかとおもうが、当時、2000年期頃は、まだ、日本の人はガイジンへの意識が残っていることで、いまでも、はっきり憶えているのは、日本橋丸善の和書売場で日本語の本を買ったら、

アルバイトなのか、若い人がカバーをつける手が、ブルブルと震えて、うまくいかなくて、見かねた女の人が、わたしがやるからいいよ、と、やや呆れたような声で言って、代わって、さっさと包装していた。

子供のとき、奈良の洋食屋でオムライスを頼んだら、店主らしい、おばあさんが給仕の手がガタガタ震えて、カタカタとフォークや皿が鳴って、気の毒におもったことがあったが、日本にいる外国人で「ガイジン扱い」をされたと怒っている人はたくさんいたが、ぼく自身は、生来のマヌケさというか、のんびりが幸いしてか、そういうことも嫌だとは感じなくて、

はっきり意識したわけではなかったが、なんだか、

ガイジンでごめんね、くらいの、ことですんでいたようにおもいます。

日本語をやって良かったかどうかは、いまでも判断がつかない。

日本語人が、どんなことを考え、どんなふうに感じて、生活しているかは、たいていの外国人より判るようになったとおもっているが、自分でも注意しているのは、なにしろ日本に住んでいるときでさえ、意図したわけではないつもりだが「ガイジン」ポジショニングで、いわば「存在しない人」として観察していただけで、必要があれば日本語を使ったが、なにしろ、その「必要」が滅多に起こらなかったので、折角日本にいても、日本語は相変わらず、書籍やDVDから吸収するものだった。

自分で考えてみて、それが自分の日本語をヘンテコリンにしているので、なにしろ現実世界の日本語ではないので、どえらく古かったり、死語表現だったりしているようで、ずっとぼくの日本語の大ファンだと言ってくれて、

DMでやり取りしていたりした、亡くなった俳優の西郷輝彦さんは、よく

「妙に新しいかとおもえば、古くて、不思議な日本語」だと揶揄っていた。

うそでい、と思う人がいるかも知れないが、日本の社会や政治のことには努めて口を出さないように(主観的には)努力していた。

理由は簡単で「よその国」のことだからで、岡目八目、傍観者には、当事者よりも、なにが起きているか判りやすいところはあるが、しかし傍観者は傍観者に過ぎなくて、客観的でよく物事が見える、という正にそのことが、

傍観者がいくら真実を述べても、その「真実」には、たいした意味がないことを証明している。

鮎川信夫や西脇順三郎、岩田宏の日本語が好きで、

あるいは岩波の古典文学大系を繰り返し読んで、あの間違いだらけの注釈も繰り返し読んじゃったんですか、と年長友に揶揄われたが、たゆたう、陽炎のような日本語や、あるいは俊頼髄脳のような明晰な日本語は、どういえばいいか、読むだけで快感で、別に、そういう快感は、日本の社会の運命とは、あんまり関連がないようです。

日本は政治や社会においては極めて特殊な国で、その特殊さの淵源は、アメリカ軍人たちの自由社会への浅薄な理解にある。

アメリカの手続き主義が原因のひとつだが、民主制を有無を言わせず強制して、押しつけてしまえば、否が応でも自由社会になるだろうとアメリカ人たちは考えたが、無論、そんなことは起こらなかった。

おまけに近代以前、近世の長い歴史で培われた社会の運営の当事者意識が完全に欠落した伝統と相俟って、日本の「民主制」は初めから形骸化していた。

むかし、日本は本来は戦後「アメリカの自律基地としてデザインされたのだ」と書いたら、もうほんとうに、おもしろいように袋だたきにあったが、いま考えて見るとプライドが高く攘夷思想がすべての観点の基にある日本の人たちに、そんなことを言うほうが間違っている。

いくらなんでも暴言だ、と親しい人たちにまで評されるわけです。

しかしですね。

調べてみればすぐに判るが、アメリカとしては、日本を基地+基地運営を現地で行う能力に限定して、いわば限定国家として存続させることしか考えていなかったのは明らかです。

具体的なイメージで挙げると、飛行機を作られては困るが、ジェット戦闘機の燃料補助タンクは、高い品質でつくってほしい。

二流国三流国もなにも、ほんとうの意味では独立国家ではなくて準州の発想から準国家、くらいで考えていた。

おもいもかけず、後で待遇がよくなって、独立してマジな国家になってもいいや、と考えを変えたのは、取りも直さず、ドミノ理論で、世界に拡大する共産主義の防壁になってほしかったからでした。

ちょ、ちょっと待てよ、きみは、いったいどこから来たの?

びっくりしたのは、米軍将校のガールフレンドが調布に着いたから、これから行く、と電話してきたときでした。

ふと、調布って、入国管理どうやってんの?

と考えて、ちょっとここには書かない方がよさそうな現実に気が付いた。

公式には軍人もパスポートを持たないと日本に入国できないことになっているはずだが、日本側がチェックできる体制ではなくて、現実は推して知るべしで、簡単に想像が付く、そのとおりの現実で、

なるほど、日本の真の姿って、これなのね、と、兵卒は知らず、米軍の軍人なら当たり前だとおもっている、「日本という国家の秘密」に触れたのでした。

我が友、オダキンは、わざと、「日本は民主国家じゃないからね」と、ことあるごとに繰り返すことにしているようだが、民主国家ではないどころか、国家ではない準国家としての存在が日本の本質であるようです。

いまネットで異を唱えているひとびとが本気ならば、いずれ日本は独立せねばならず、その日が来れば、まず間違いなくアメリカは日本との軍事同盟を解消するでしょう。

そういうことも含めて、自分が日本と関わりを持ち始めてから、見てきたこと、感じた事、考えた事を、これからボチボチ書いていこうとおもっています。

3回目くらいは、まともな日本語が書けるようにリハビリが出来るといいけど。

先行きは、暗い。

ま、いつものことだけど



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