旅人

ときどき、まだ日本を離れずに、東京で暮らしている自分がいるような気がする。

バルセロナについてもおなじなので、もしかしたら、自分が大好きな町がバルセロナと東京だということなのかも知れません。

バルセロナにいるわしは、グラシアの二番目のアパートを出て、Carrer de Bonavistaを歩いて、ワインバーで待っているノルウェー人の友だちに会いに行こうとしている。

会ったら、ふたりで一緒に革命広場に面したレストランに行こうということになっている。

面白い店で、フォアグラのスープがマルコメ味噌の味噌スープで、その話をしたら、すっかり面白がって、うん、じゃあ、一緒に行こう、ということになった。

途中、広場を横切るときに、共通のスウェーデン人の友だちKを見かけたので、3人で、立ち話をします。

今度、大学裏の郷土料理レストランに一緒に行こうね、と言う。

ああ、いいね、とわしが答えている。

ぼくも、ひさしぶりに、あの店のcavaのサングリアを飲みたい。

世界中の新しい音楽にやたら詳しい、あのおばちゃんは、まだいるだろうか、

ぼくは、あのひとにサー·ディンディンを教えてもらったんだ。

あのひとは、なぜ、中国ポップスにまで詳しいんだろう。

じゃあね、

またね、

と別れてから、ふいにKは二年前にCOVIDで亡くなっていたのをおもいだす。

ああ、そうか、いつかニュージーランドにいるときに会いに行きたい、と言ってたけど、

現実の世界では無理になってしまったので、意識のなかの世界に、会いに来てくれたんだね、と考えます。

レストランに着いて、ふたりで、いくら飲んでも酔わないワインの瓶を一本、二本と飲んでいって、テキーラまで一本空にして、すっかり良い気持ちになって、現実の世界に帰ってきてしまった。

同じ頃、東京にいるわしは、伊東屋に万年筆を買いに来ていて、ふと、室町砂場の色が白い蕎麦が食べたくなって、ぶらぶらと歩いていこうと決めている。

むかしは、日本橋に行こうとおもって、新橋に着く確率と正しく日本橋に到着する確率は5050だったが、最近は、10回に8回は日本橋に着くようになっている。

日本橋や水天宮、蛎殻町のあたりは、面白い町で、新しい東京の町並に、古い江戸の町がアフォガトのアイスクリームがエスプレッソに溶けるように溶けていっているが、なにしろ150年経っても溶けきらないアイスクリームなので、伝統のちからは、たいしたものです。

室町の砂場につくと、顔見知りのおばちゃんの店員さんが寄ってきて、

「また蕎麦掻きと卵焼きですか?」

と、なんだか面白そうな顔になって訊ねてくる。

「お酒も、おつけしますか?」

周囲を見渡してから答えたい衝動に駆られながら、かろうじて、おばちゃんの顔を見て、ちょっと、後ろめたい顔で頷く、わし。

蕎麦屋は罪が深い。

蕎麦屋に来ると昼間っから酒を飲んでしまう。

ほとんど自動的な順序になっていて、

蕎麦掻きで、酒、

少しいい気持ちになるくらい飲んで、

な、なんだ、このガイジン、とギョッとした顔をしなさそうな客ばかりであることを把握してから、小さな声で「おばちゃん、天ぷら蕎麦の『ヌキ』ね」というと、

おばちゃん、盛大に嬉しそうな顔になって、はいはいとウキウキしたような顔になって、ヌキを持って来てくれます。

ほんとうなら、美濃部孝蔵、五代目志ん生のように、たっぷり息をして、

ああ、うめえ、これだから昼間の酒は、やめられねえや、

と言いたいところだが、日本ではガイジンは元来反社会的存在で、

それが自堕落の悦びを、おおぴらに見せつけては申し訳がないのに、

お囃子が鳴り出した頭のなかをミュートにして、

まるで苦行に耐えるような顔をつくって、ひたすら酒を飲んで、

ヌキで喉を潤している。

途中で、おばちゃんも去年亡くなったことに気付いているが、ええい、かまやしねえ、

死んでいようが生きていようが、おばちゃんはおばちゃんで、

隙さえあれば傍に寄ってきて、ロンドンの話を聞きたがって、

ぼくは、そんなにロンドンわかりませんよ、

あら、なんで? 生まれて育った町でしょう?

と言われて、まさか正直に、おいらはお蚕ぐるみで、ショーファー付きのクルマで出かけて、

町をひとりで歩くなんて、とんでもない、と言われて、

フォションやシナモンクラブで、点から点で、

町の様子なんて鑑がねえんでさ、とも言われないので、

なんだか曖昧な顔で、うふふふ、というような得体の知れないブキミな微笑いを浮かべている。

でも、おばちゃん、何度も何度も「わたしも、もっと遅く生まれてロンドンに行きたかったなあ」と述べて、鈍感なわしも、おばちゃんが、日本の性差別社会で、どんな思いだったか、ぼんやり想像がつくような気がしたが、当たり前だが、なにも言えなかった。

なにも、訊くことも出来なかった。

まして、おためごかしに、思い切って行ってみればいいじゃないですか、なんて言えるわけもない。

そうこうしているうちに、亡くなってしまったんだなあ、と厨房に向かって、なにごとか話しかけて大きな声で笑っている、おばちゃんの後ろ姿を見ながら考える。

もしかしたら、わしは、生きている人間よりも死んでしまった人間のほうが、ずっと好きなのではないか。

死人に口なし、というが、そんなことはない、死者は雄弁で、何度もわし意識を訪問しては、

楽しかったねえ、あのとき、わたしはね、いつかガメちゃんが怪訝な顔をしていたとき、ほんとうは、ここを出ていきたかった、と言いたかったのよ、

さまざまに語りかけてくれます。

陸の見えない海のまんなかで、突然、意識のなかにあらわれて、

ああ、わたしも、こんな、なあんにもない海のまんなかで、雲だけを見上げて、

命の洗濯がしたかったなあ、と述べたりする。

芭蕉の有名な序文「月日は百代の過客にして、行かふ年も又旅人也」を長い間、マヌケなことに

「月日は百代の過客にして、行かふ『ひと』も又旅人也」と誤っておぼえていたわしは、

この旅人は、誰であっても必ず儚いものにしか過ぎない人生を生きる人間のことだと考えていた。

「舟の上に生涯をうかべ馬の口とらえて老をむかふる物は、日々旅にして 、旅を栖とす。古人も多く旅に死せるあり」は、だから、わし変換頭のなかでは、人間は必ず人生という旅の途中で客死するもので、死は、決して向こうにあるゴールではない。

死は、中断なのだ、というふうに読んでいた。

ひとは、この世界にやってきて、また去っていく。

なにかを成就したい人や、ただ生き抜くために懸命な人、もうなにもかも嫌になって、投げてしまって、ただ死を願っている人、

どのひとも人生は等価で、ただ旅の中途で、この世界から出て行く。

ブッダは生まれ故郷の町を目の前にして死ぬときに、渡された乳粥のうまさに満足して、

「もう、この辺でよい」と言って息を引き取ったというが、

どうやら、そんなのが人生の理想のようです。

生きているあいだは、熱心なファンがいて、自分でも少し無理をして、死後も自分の作品は残っていくはずだ、と自分に言い聞かせるが、一方では、自分と同じ境涯の作家の作品が、作者が死ぬと、綺麗さっぱり忘れ去られてしまったのをなんども見ている。

あるいは、うまく自然が隠蔽していた法則を見いだした物理学者は、真理をつかんで死ぬが、その「真理」に寿命があることも判っている。

もっと言ってしまえば、死んでから数年しか名前をおぼえてもらえなかった作家と、

百年少しおぼえていてもらえた作家とのあいだでは、なにが違うのか。

ひとは来て、去っていくが、世界という意識に刻みつけるように存在した個の意識は、

見知らぬ人の夢を訪問して、自分がなにを見たか告げてゆくので、

夢は忘れてしまっても、告げられたことは、案外とおぼえているものなのかも知れません。

その世界意識を言語と呼ぶ。

だからこそ、死せる善良な魂は、なんども甦って、わしと共に歩いてくれているのでしょう。

いつかは、わしも、この広場を立ち去らなければならないが、

もうひとりのわしは、見知らぬ人の意識のなかに、まだ立っている。

言語そのものが、時間の霧のなかにかき消えてしまう、そのときまで。



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