アベノミクスが開いたドアの向こう側

(この記事は2013年4月23日に「ガメ・オベール日本語練習帳」に掲載された記事の再掲載です)

この数年間で日本の社会に起きた変化のうち最大のものは日本の支配層に「いままでのやりかたではダメだ」という認識が生まれてきたことだろう。
「そんなのあたりまえじゃん」という声が聞こえてきそうだが、それがあたりまえでないところが日本の日本たる由縁なのであると思われる。

「日本には日本のやりかたがある」が、おっちゃんたちの口癖で、多分、占領期間中、戦争に完敗した国として口にするよりも遙かにアメリカ人の泥靴で顔をぬかるみのなかで踏みつけにされるような目にあってきたことの反動ではないかと思うが、戦後の日本支配層は「日本の特殊性」「西洋人にはマネのできない日本人のやりかた」についてことあるごとに述べてきた。

「社員というものはね、金太郞飴のように誰に聞いても同じ意見をもっていなければダメなんです」と言って、わしを驚かせた人がいた。
日本では有名な大きな企業の社長で、いまでも、そう述べる血色の良い顔の後ろに並んだ「安岡正篤著作集」の背表紙まで思い浮かべることができる。

会社の意見を社員ひとりひとりに浸透させて誰に聞いても会社として統一された意見を自分の心からの意見として答えられるのではなければダメだ、とその老人は述べたのだったが、当時、まだ20歳にすぎなかったわしですら、「この老人はひょっとしたらほんもののバカなのではないだろうか」とマジメに考えた。
ツイッタにも書いたが、金太郞飴
http://dictionary.goo.ne.jp/leaf/jn2/59518/m0u/picture/0/
の切り口の顔をした何万人という社員が、奴服を着て、やっとこやっとこ、その会社の近代的な社屋の通路を歩いているところを想像して、ふきだすのをこらえるのに苦労した。

ずっとあとになって、日本ではITの旗手ということになってる会社の会議を傍聴する機会をもった。
具体的なことを書きすぎると都合がわるいので、ぼんやりごまかして書くが、
みなが日本語がわからないとおもいこんでいるガイジン(わしのことね)の前で繰り広げられた局長会議は驚くべき内容で、営業のボスが新事業を提案した他局の課長を怒鳴りつけている。
「営業は新しいものを売ってもなんの業績にもならないが、それについて古い取引先からクレームがついたら、それはおれのマイナスになるのを知ってるだろうが! おまえは、何のつもりで、こんなもん営業にもってきたんだ」と言って怒っている。
その転倒した理屈に驚いて、日本の「カイシャ」に通じている義理叔父に訊いてみると、「そうよ。日本の会社、減点制だもん」とあっさり言うので驚いてしまった。

村上憲郎(@noriomurakami)は明らかにエネルギー問題で自分にやれることは全部やろうと決意して「なにもしないためならなんでもする」公務員や旧態依然の体質の電力会社と話し合いを重ねて電力の発送分離その他エネルギー業界に参入者を増やして競争原理を導入するために、めだたないところで、たいへんな忍耐がいる作業を繰り返しているが、
ときどきツイッタ上に浮上してくるやりとりを見ていると、のれんに腕を呑まれそう、というか、気の短い村上憲郎の寿命が縮みそうなやりとりが続いていて、「日本は特殊な社会だから」の泥沼がいかに深いかがうかがわれる。

日本のやりかた、日本のやりかた、やっとこやっとこ、と金太郞飴のように同じことを異口同音に合唱しているうちに、しかし、旧態依然の姿を世界の市場に見限られた日本は、そこまでは天井から降ってきていた税収はどんどん落ちて、しまいには借金もほぼ限界に達してしまった。

放漫経営の中小企業が意外に土壇場の倒産の危機に強いのは、マンガ的だが、「ムダなオカネ」があちこちの隙間で遊泳していたり眠っていたりするからである。
わしが直接しっている最も可笑しい例は、Kさんという義理叔父の会社の社員だった人の会社で、そもそもそんなことを支払い一ヶ月前に気が付いて青くなるのがKさんらしいが、支払いの直前になって、支払いにあてる現金が1億2千万円ほど足りないことに気が付いた。
銀行からの借金の枠もいっぱいなので万策つきてしまった。

義理叔父の実家にあらわれて「えー、わたしもこれでついに終わりですから、よろしくお伝え下さい」と、妙に殊勝な挨拶をしにきたそーです。

義理叔父にはおもいあたることがあったとみえる。
「おまえ、会社にいって経理とか自分で見てきたほうがいいぞ」と言われて、Kさんは本社に行って自分で調べてまわった。

出してなかった請求が1億円ちょっとあったそーでした(^^;
ついでにアンテナショップのようにして出していた小売部門の統括店長だかなんだかが、8千万円くらい横領しているのもわかった。

いわば引き出しのなかに眠っていたオカネで倒産の危機を免れたわけだが、日本の政府がこの2、3年にやっていたことは、この自分でも「あんまりだらしがないので驚いた」と述べていたKさんの会社と原理的に同じことをやっていたのだと思われる。

細かいほうで言えば分け取り放題だったタクシーチケットに制限を設けるとか、8億円の予算のところを、ややぼんやりした明細にして7億4千万円が8億円にみえるようにしておくとか、そういう「余裕をもたせる」という「余裕」をしぼることによって凌いできた。
予算のだしもとはだしもとで、ほぼ同じ「濡れタオルしぼり法」でかなり凌いだ。

それじゃ汚職ではないか!役人は汚い!と怒る人がいるだろうが、しかし、正直に述べて「仕事をすすめる」ということは、なんとなくドサクサした状態をつくって、上や下の目を盗んでさっさとやってしまわなければ現実の仕事はこなせない。
社会の足下から頭のてっぺんまでデタラメな連合王国のようなところでは特に、この呼吸がのみこめなければ、成果が残りそうな仕事は何もできるわけがない。

冷菜凍死家であるわしがスプレッドシートを、カウチでごろごろしながら眺めているときに何を見ているのかというと、そういうことが、ひとつの事業体のなかで、どんなふうに、誰が行っているのかを数字から読んでいっている。
冷菜凍死という仕事のささやかな楽しみでもある。

民主党がチョーばかなことばかりやっているように見えたのは、「役人の意地悪」もおおかったのが、外国人であるわしにも、かなり簡単にみてとれた。
特に鳩山政権においてそうだったと思う。
一方では役人には役人の都合があって、なにしろ「もうカネがない」という、こればかりは古今未曾有未体験の事態になってしまったので、政権そのものは、政党として借金ダルマになって、なさけないことに銀行から婉曲に恐喝されるところまでおちぶれた自民党を、なんとかまた政権党にするとして、日本を運転するオカネがもうない。
残っている方法は、個々の日本人が貯め込んだ個人のオカネをうまく政府の側のクレジットに変換してしまうことで、「アベノミクス」とは、要するにそのための魔術であると思われる。

「魔術」というと、なんだか政府と日銀がぐるになってずるいことをやっているみたいだが、選択肢が他にあるぶんには国民が歴史を遡って駆け下って再びドビンボになる道を開いたという点で「ずる」と言えるだろうが、公平に言って、もうこの段階に至っては裏庭のヘッジホッグが経済・財政政策を決めても、銭洗い弁天の神様が談合して決めても、ほかにはもう方法がない。

個人からいうと、アベノミクスは戦争中の「供出」にたいへんよく似ている。
お国が戦争を遂行するためのカネと鉄鋼がなくなったので、鍋や釜、指輪からなにから鉄や金目のものをお国にさしだすことになった。
支配層の側の理屈は、「たしかにわれわれがあなたたちのカネをもらうことにはなるが、これによって儲かれば、それは結局あなたがた個人に還元されるのだから」ということでしょう。
インフレが進行すれば進行するほど、個人の実質的な収入や動産は減少して差額は直接政府や大企業に吸い上げられていくのはもちろんであるし、円安も、「外」、つまりUSドルやユーロに立って日本を眺めている観察者からは、日本人の資産はおもしろいように減っている。
この減った資産は、ではどこで取りかえされているのかというと、いうまでもなく輸出企業その他が同時的には取り返している。
オカネが出てゆく懐の持ち主(ひとりひとりの国民)と入ってくる懐の持ち主(企業・政府)が異なるだけで、破綻しないかぎり、こういうことは、だいたい収支のつじつまはあうようになっている。
「同時的に取り返している」と言うのを読んで「じゃ、同時的でないものはなんだ?」と思ったひとがいると思うが、たとえば義理叔父は前にツイッタで書いた「海外に移し忘れていた8000万円」で、やむをえず、(本人は「株式相場を通して景気を実感するため」とかいうチョーみっともない言い訳をしているが、ただ単にマヌケにも送金し忘れていただけであるw)甥の(ただの思いつきの)すすめで義理甥が好きなMX5を作っている某自動車会社の株式を買ったら130円だかなんだかで買った株が5ヶ月で350円になった。
株って、あがるもんだなあー、と驚いていたが、株価があがれば、無論マツダにはやれることが増えて二次的三次的な効果が生まれてゆく。

ここから先はフクシマ事故が起きた瞬間の「素人だまれ。おれたちは完璧だ」の地から噴きだしてきたような「原子力の専門家」と同じ「経済専門家」がうるさいのに決まっているので、インターネットのような場所で書くことに実効的な意味は何もないが、ちょこっとだけ書くと、では、傍からみている人間の疑問はどこにあるかというと、「復興すべき産業はどこにあるのか?」というおおきな疑問がある。

日本の根本的な問題は「ITが存在しない」ことで、むかしむかし、そのことを書いたら「世界中の携帯電話が日本の部品でできているのを知らないのか。そんな無知でえらそうな記事を書くな」「ニンテンドーが世界を席巻しているのをご存じないとは自分の無知を恥じるべきだと思う」ちゅうような、いつもの「賢い」ひとびとのお手紙がいっぱい来たので、めんどくさいのでそれ以来5年間書いてないが、ついでであるから簡単に述べると、
OEMと産業の進展というような話題は別にしても携帯電話の中身、が日本製でもなんでも、日本のITが「ゼロ」で、それがかつての通産省の「大型電算機決め打ち傾斜政策」の見事な空振りによっていることは、常識であると思う。

日本人はもともとキーボードに馴染んでいない、という、誰の口にものぼらなかった、小さいが致命的な習慣の違いがあった。
コンピュータのヒューマンインターフェースが、欧州人やアメリカ人が馴染んできたタイプライターを模したものであったことは、記録をみていくと、日本人が意識しているよりもずっとおおきなことだったように思える。
90年代の終わりには「ABC配列キーボード」という不思議なものもある。

そういう秘やかなつまづきから始まって、刻々と数字が変わる駐車場やバス待ち、電車待ちの表示がスマートフォンに映し出される交通システムから、当時22歳だったTerri Duhon
http://www.bandbstructuredfinance.com/about_partners_tduhon.htm
たちが始めたクレジット拡大の動的手法まで、それまで静的だった世界を、まったく動的な、ものすごいスピードで変化する社会や市場の一瞬一瞬をコントロールする技術としてのITは日本にはまったく存在しない。
この「世界の意味を変えるものとしてのIT」は、ヘンなたとえだが、案外と「理系」のひとにはユークリッドの静的調和的幾何学の世界からデカルトが創始した座標世界上で起きた微分という「動的数学へのジャンプ」にたとえるとピンとくるのかもしれません。

結局、日本は「トヨタ」に代表される製造業におぶさって、この競争が激しい世界を泳ぎ渡っていくことになるだろうか?
自動車に代表される製造業の他に日本が世界で較べるのが難しいほど突出した産業というとイメージングであると思うが、フジフィルムグループの他は、どの会社にも、ここにいちいち書く気はしない、おおきな、致命的でありうる問題が潜在しているように観測されている。

日本は繊維から造船、造船から自動車と順調に産業の船を乗り換えて来たが「VCRと自動車の上に浮かぶ国」と言われた80年代の次に、世界中が当然日本が移ってゆくだろうと思っていたITに移行することに失敗する、という誰も予想しない壁に突き当たってしまった。

1990年初頭に至るまでPCを「オモチャ」と冷笑してきた官学一体のマヌケぶりと、半導体産業をたちあげるために経済の暗闇に足を突っ込んだことでそもそも第一ラウンドでノックアウトされてしまった上に、起死回生のはずだったソニーの「オンラインサイトからのダウンロードとMP3プレーヤの組み合わせ」という斬新なビジネスプランはJASRACの猛烈な抵抗に遭って、あきらめざるをえなくなってしまい、同様の抵抗を、当の歌手やバンド、作曲家たちを連日パーティに招いて味方につけることによってiTunesを実現させてしまったスティーブ・ジョブズに、ネズミの前で膝を屈する巨象のようにしておもいがけない大敗北を喫することになった。

社会のバックボーンと運営思想そのものをIT化することに関しては、遅れているどころか、まだスタートもしていない。

アベノミクスが直面する問題は「産業がない」ことであると思う。
産業がなければ金融で、というのは歴史が教える救済策だが、民間銀行が実質的に「政府が責任を追及されることがない政府機関」にしかすぎず、ちょっと考えるとSFじみているが、民間企業として競争を経験したことがない、という笑い話じみた境遇の日本の銀行に、いまの金融革命のまっただなかの金融世界で戦っていけ、というのは無理もいいところであると思う。
第一、日本ではリテール銀行のカスタマである日本人ひとりひとりですら、どこの銀行に行っても金利が同じで、悪い冗談じみているが接客カウンタの高さまで政府の指導によって同じ高さに決められていた状態を、ちょうど新聞の見出しが同じであることを怪しまなかったように怪しまないで来てしまっている。

日本人はアベノミクスが開いたドアの向こうに、なにがあるか、考えないでドアを開いてしまったが、嫌なことを言うと、インフレを止める方法を失い、経済は産業の成長が伴わないままやがて失速して、80年代の、あの国民になんの冨の還元もなしに、ゴールドコーストやロックフェラーセンターを手始めに世界中の天井値の資産を買い占めたあげく、結局は闇の世界と実体経済から乖離した金融市場の虚空とにすべての稼ぎが消えてしまったバブルの、ずっと小さな模倣となって消えていく可能性も、ないとはいえないようにみえる。

そのときには、あの猛烈な額の国債はどうなるのか、とか、いろいろ考えると、特に支配層でなくても「どひゃあ」だが、もう、これしかやれることがない、というのもまた事実ではあって、なんだか、悪意に満ちて救いがない、タメイキばかりが出る本を読んでいるような気分になってしまうのです。



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