軽井沢という町のいいところのひとつは、「道がたくさんある」ことだと、いつもおもっていた。
軽井沢町の人口は、最近は、昭和世代の人が、別荘というのでもなく、新幹線で案外近いからでしょう、大挙して押し寄せて、ずいぶん人が増えて、最後にいた13年前よりも、例えば鳥井原のツルヤは、たいへんな混雑で、住んでいれば直ぐに気が付く、売っている商品の価格が少し低い、御代田の支店まで、拡大した駐車場がいっぱいになるほどだというが、もともとは二万人を下回るくらいです。
と、ここまで書いて、どのくらい増えたんだろう、と考えて軽井沢町の公式統計を見てみると、「大挙して押し寄せた」と言っても、1割程度増えているだけで、たいしたことじゃないな、と考えたが、思い直してみると、ああそうか、と思い当たることがあって、これは、案外むかしから、
住民票を移さないまま軽井沢町に「住んで」いる人は多くて、なかには東京の家を残したまま、ときどき戻って、住居と別荘が逆転している人も多いので、統計の数字よりは、信頼できるひとたちの「目」を信じたほうがいいのかも知れません。
夏には、これが、多い日は100万人に膨れあがる。
近在の若い人たちが、軽井沢駅の南側に出来たアウトレットに押しかけるからで、「東京の男は、やっぱり、ちょっとカッコイイんだよね」と述べる若い女の人にあったこともあります。
そうなると国道18号線は、延々渋滞で、動かなくなる。
軽井沢は、「軽井沢銀座」というメインストリートの大胆なネーミングで判る通り、ほんの田舎町で、商店街の性格としては、新興商店街でもあって、おいしい店は、夏だけ、東京の店を畳んで、軽井沢にやってくる天ぷらの「万喜」くらいで、それも天丼くらいに限られて、
あとは上田まで足を延ばさないと、まともな蕎麦、トンカツや鰻丼にはありつけません。
これも、日本を引き払ったあとでは、ずいぶんいろいろな店が出来て、食べに出かける店の選択肢も増えたようだけど、ぼくがいたころは、信州の蕎麦といっても軽井沢には、東京出資のモダンな店や、気難しいおっちゃんがやっている、やはり東京から脱サラでやってきたらしい、卵焼きが滅法うまい塩沢の店、それと、危なく忘れるところだった、天ぷらがガジガジで色が黒い蕎麦がおいしい追分そば茶屋と、そのくらいのもので、しかも夏は、なにしろやっってくる観光客の数が圧倒的で、おいそれと出かけるわけには行かなかった。
鎌倉は軽井沢と対照的に「道が少ない」町で、例えば歩くのならば、島森書店の脇から、人が二人並んで歩くのも難しい狭い、延々と続く小路があって、大佛次郞の旧宅を抜けて、二階堂まで歩いて行かれる。
やる気になれば鎌倉を取り囲む低い山々の尾根をつなぐ、ハイキングコースに攀じ登って、空中から脱出することも出来ます。
クルマになると、絶望的で、葉山のほうへも、藤沢のほうへも、大船へも、港南にも行けなくて
雪隠詰めというのか、閉じ込められて、発狂しそうになる。
海があるのがいけないのかも知れないし、もともとは伊豆から舟で通行することが多かったせいで、道路に、たいした関心を持たなかったからかも知れません。
そこへ行くと軽井沢は国道18号線がギュウ詰めになっても、北側に1000メートル道路がある。
南側も、押立山、八風山の脇を通って、一気に発地までくだってしまえば、簡単に佐久平へ出られます。
必要があることなどはまずないが、やる気になれば、荒船山に分け入って、林道を通ることも出来る。
いちど、佐久穂からの帰り道に、林道を通って帰ろうとおもったら、「一応、道」という程度のワイルドな道路で、それだのに、山から下りる手前には、夕刻の、鬱蒼とした森のなかに、おっちゃんがひとりでニコニコして立っている料金所があって、もしかして、これはタヌキどんが人間を騙そうとしているのではないか、と考えて、柳田国男の「タヌキは挨拶をしても返事が返せない」というハウトゥー鉄則を思い出して、大きな声で「こんにちは!」と述べたら、にっこり笑って「ハロー!ハウアーユー?」だなどと述べたので、多分、タヌキではなくて、人間だったのだと思われる。
いま考えてみると、旧軽井沢よりも追分に家を買ったほうがよかった。
あとで判ってみると、地元の人にとっては追分のほういいのはただの常識で、クッソ暑い(←言葉が悪い)軽井沢が30℃を超えていても、追分は27℃か28℃で、第一森が深くて、深夜の散歩に向いていた。
少し前までは座敷童が出たという「油屋旅館」や、売り場に酌婦姿の女の人たちの幽霊が出まくるので、なんど異なる会社が店を出してもつぶれてしまうコンビニ店舗や、ありとあらゆる面白いものは、だいたい追分にあることが多かった。
その結果、旧軽井沢から追分までクルマで出かけて、追分で散歩する習慣が出来てしまった。
軽井沢にいるときの、もうひとつの重大な楽しみは、クルマで、佐久穂や、美ヶ原、あるいは、この森があとでモニもぼくも大好きになるが、「名前が付いていない森」があって、天気がいいと、よくふたりでピクニックに出かけた。
大好きな日本語で使うたびに嬉しいが、「魔法瓶」に紅茶をつめて、きゅうりやハムで、あるいはエメンタールチーズとジャンポンバゲットでサンドイッチをつくって、内緒だけどシャンパンも車載冷蔵庫に忍ばせて、高原の森、は言葉として変だが、そう呼ぶのが最も適切な気がする、その森へ出かけます。
夏でも、まったく誰もいない森で、もしかしたら、この森は、モニと自分にしか見えないのではないか、とおもうことがよくあった。
モニさんは、いつも、大胆なところがある人で、秋などは、道路の上に落ち葉が落ちたときそのままの姿であるのを認めたのでしょう、見晴らしのいい道路のまんなかにピクニックマットを広げて、シャンパンを飲み出したこともあったのを、なつかしく思い出す。
なんのことはない、絵に描いたようなバカップルだが、それはそれでいいや、と、考えるだけの幸福が長野県のあの辺りには、いっぱい詰まっているもののようでした。
愚かなことに、むかし、両親がおもいついた「冬を生活から削除する」という思いつきに、自分がおおきくなってからも従っていて、かーちゃんやとーちゃんの「冬」はイングランドの、チョー惨めな冬なので、必然性があるが、日本は、特に、むかしより格段に暑くなったといういまの夏を避けて、冬がいちばんいいのに決まっているのに、その最も良い時期の始まりに、天国としか呼びようがない天候なので、やむをえない、ニュージーランドの夏へ向かって立ち去るのを毎年の習慣にしていた。
よく考えてみると、冬のほうが好きで、いくらなんでもイギリスの冬は嫌いだが、日本の、空気がパリパリしているような、雪が降る、固い、乾燥した冬は、世界でも指折りなくらい好きだった。
子供のときはスキーによく出かけて、北海道や白馬、蔵王に出かけたが、おとなになってからは、ただ冬の日本にいるだけで、楽しかったようにおぼえています。
ほんとうはジムニーかなにか軽い四輪駆動のクルマのほうがいいが、なにしろ体がうまく収まらないので、やむをえず、でっかい四駆で、滑って、お尻も頭もふりながら、シェイクシェイクシェイクな、
蛇行運転で出かける。
幸い、軽井沢のひとたちは氷のうえで運転するのになれているので、対向車があらわれても、たいして危なかったことはなくて、側溝に車輪が落ちてるクルマを見つけると、手伝って、仲良くなったりして、軽井沢の冬の楽しさは、銀色に凍る森の美しさと相俟って、いまおもいだしても現実とはおもえないほどのものでした。
最近は、また事情が違うのかも知れないが、日本にいる外国人は、まともに人間として扱ってもらえない代わりに、まあ、傍観者でいいか、と決めてしまうと、一転して楽で、なにしろ幽霊みたいなものなので、日本の人がいろいろ苦労しているらしい「しがらみ」というものが存在しない。
「本音」も聞かせてもらえる。
それに、日本の人は、カタロニア人に似て、いったん仲良しになると、びっくりするほど打ち解けて、垣根もなにもなくて、無防備なほど感情のまわりから鎧を解いて、魂の友だちであるかのように付き合ってくれるのでもある。
その「真実の日本」とでも呼びたくなるものに出会えたのも、軽井沢から出かけて日本の「田舎」に馴染んでいったからだとおもっています。
軽井沢は「日本」への入り口だった。
夜になって、涼しくなると、軽井沢の家を出て、夜更けの発地や、追分で、真っ暗な道を懐中電灯を持って、モニとふたりで散歩したのが、とてもとてもなつかしい。
英語ではsmall hoursという。
午前2時や3時の1000メートル道路から追分宿におりてゆく一本道を歩いておりて、用水の手前で、ふと左側を照らすと、森の木立のなかに、いっぱいに並んだ墓石のひとつの前に、女の人が立っている。こっちを見ているような気もするが、影のようで、まさかこちらも懐中電灯を向けるような失礼なことはしません。
追分宿に駐めたクルマに着いてから、「あの着物の女の人は、あんなところでなにをしていたんだろう」と述べるモニに、あの立ち並ぶ墓石は無縁仏で、むかし追分宿が中山道を行く旅人相手の歓楽街だったころ、休む間もなくこき使われた娼婦たちが死ぬと、かついでいって、寺の塀から遺体を投げ込んで、寺の住職が、いいことがなかった若い女の人たちの一生を悼んで葬ったのが、あの墓地であることを説明すると、モニさんが、目に涙を浮かべている。
あの女の人は幽霊なのかもしれないが、そんなことは、もちろん、どうでもいいことなのでした。
どういう経緯で、そんなときに軽井沢の家にいたのか判らないが、3月の終わりに軽井沢にいて、モニさんの誕生日だったので星野リゾートが経営するホテルのレストランで食事をして、そのホテルに泊まったことがある。
雪が降らないかなあ、とモニさんは、言うが、もともと雪があまり降らない町でもあって、
しかも昼間は快晴で、まあ、無理ですね、と話して、モニさんは、がっかりしていた。
雪が降ればよかったのに、と子供のようなまっすぐな表情で落胆しています。
ほんとに、わがままなんだから、と可笑しかったが、あとで泊まったホテルの部屋は、なんだか高級そうにみせかけた安普請で感心しなかったが、レストランは、なかなかなもので、スープからラム、デザートまで一流と呼んでよいもので、ふたりとも満ち足りた気持ちで、シャンパンを一本追加して三時間くらいもかけて食事して夜の中庭に出た。
雪が降り出して、そう、嘘のようだが、降り出して、雪が降って、雪が降って、雪が、どんどん降り出して、まるで神様がモニの誕生日を祝福するように、白い薄片が一面に舞い降りだして、モニさんは、両腕を空に向かって突き出して、踊るようにして喜んでいます。
ホテルの人も、レストランの人も、お客さんたちまでもが、窓からモニを眺めて、拍手するひとまでいる。
むかしから、このブログ記事を読んでいる人はおぼえているが、わしが求婚した日も、マンハッタンでも珍しいくらいの大雪の日で、あのときも、そうおもったが、モニさんは雪の夜には、周りがぼおっと輝いているようで、まるで妖精のような美しさです。
モニさんとぼくのとっては、その夜以来、軽井沢は楽しい町から神話の町に昇格でもしたかのようで、いまでも、よく軽井沢の話をする。
もともとは軽井沢はスコットランド人が、眼前いっぱいに広がる荒地がスコットランドの故郷に似ていることを気に入って拓いた町でした。
明治時代から昭和40年代まで、軽井沢は夏の「欧州人の町」として発展していった。
日本の湿度が高い夏に辟易した欧州人たちが夏には集まって、ちょうど欧州のあちこちにある避暑地のように、毎年、この小さな町でお互いに久闊を叙した。
スイス大使館などは夏のあいだは、大使館ごと軽井沢に引っ越してきたもののようでした。
当然、パーティの習慣も輸入されていて、むかしの軽井沢の写真をみると、三笠通りなどはガス燈が並んで、三笠ホテルの舞踏会にでかける、馬車で、夜会服を着た欧州人たちで、ごった返していたりして、あんまり日本の町のようではなかったのが窺われます。
町のほうでも外国人向けにいろいろな催しを企画して、ぼくがいたときでも、まだ南口のプリンスホテルで国際親善パーティを開いていて、毎年顔をだして、テーブルにならんだプリンスホテルのシェフのひとびとが腕によりをかけた料理を、お下品に平らげたりしていた。
戦時中も、フランス人浮世絵画家のポール・ジャクレーを始め、町全体が一種の緩い外国人収容所のようにして、外国人を幽閉するために使われたが、例えばジャクレーなどは、お化粧をして女前の着物で大手をふって散歩していたりして、特殊な「ガイジンの町」として存在していたようです。
直通ジェット機が欧州に飛び始める1960年代まで、軽井沢は、なんだかそこだけ日本をやっていない、とでもいうような町だった。
そのあとは、日本人の人ばかりの町で、いまはどうやら「星野リゾートマーケティング」の町のようだが、いまはどんなに商業主義的で味気ない町でも、モニとぼくの心のなかでは、特別の輝きがある町です。
発地のホタルが群がって、ぼおっと光る木や、蒸し暑い朝のあとで、激しい夕立が降り始めてシャンパンを片手に庭に飛び出して木立のなかで歓声をあげて腕を組み合わせて踊り狂った午後、嬬恋や追分の、歩いて行くと、いつのまにか径が森のなかに消えてゆく廃れて誰もいなくなった昔の別荘開発地、深い森に迷って、あてもなく歩きまわっていたら、突然、木のない視界が開けた原っぱに出て、向こう側に、どおおおんと見えていた、でっかい浅間山。
日本をおもいだすときに、いい国だったなあ、とおもう気持ちの何分の一かは、軽井沢の記憶で出来ているようです。
あんまり書きとめておくほどのことでもないのかもしれないが、やっぱり書いておこうとおもいたって、こうして書いている。
軽井沢に「ありがとね」と言ってあげたい気持ちがあります。
ヘンテコリンな外国人のバカップルに、とてもとても、よくしてくれたのだものね。
だんだん記憶は輪郭がぼやけてくるけど、楽しかった気持ちだけは、忘れないでいられそうにおもっています。
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夏の始まりに読む素敵なブログです
まことさん、まだ日本?
ガメさんご無沙汰です。
まだまだ日本です。NZへ帰りたいのですが、コロナで機を逸してしまい、
以来動けずです。
ガメさんご無沙汰です。
まだまだ日本におります。
2020年にNZへ帰るつもりがコロナ禍で機を逸してしまいました。
万喜、前に1度入った事あるけど、天丼じゃなくてお蕎麦を頼んでしまったな。残念。
軽井沢が13年前より確実に変わったのは、温暖化でめちゃくちゃ暑くなった事です。
勿論東京よりずっとマシだけど、あの頃の涼しさとは格段に違う。
地元の人も、暑くなったのでシロアリが冬を越せるようになってしまったと言ってました。
そういえば、私が初めてガメさんに話しかけたのは、軽井沢の話だった。
もっと色々話して欲しいな。